霊界物語 第七巻 霊主体従 午の巻 第一篇 大台ケ原(オホダイガハラ)
平成二十五(2013)年六月十七日 旧五月八日(月)
山の頂(イタダキ)より涼しき声聞えて、
『世は常闇(トコヤミ)となり果てて
黄泉国(ヨモツノクニ)に出でましし
国の御柱大神(ミハシラオホカミ)の
見立て給ひし八尋殿(ヤヒロドノ)
真木(マキ)の柱(ハシラ)の朽(クチ)はてて
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大正十一年頃の日本国内を、平成二十五年の感覚で想像すると、
きっとこの宣伝歌の様に、当時の日本国内や世界情勢は、
まったくの常闇であったに違いないと思うのだが、
それを現代に当てはめようとすると、はたして常暗かどうかは、
なかなか判断しきれないところがある。
まだ、上空に分厚い氷の層があったと思われる原始の地球であれば、
地上全体は完全に常闇状態であった筈だし、
例えば人間が海で水中遊泳をした時なども、
太陽光が届かない深さまで到達したら、そこは完全なる常闇になる。
現代社会では照明設備が、かなり充分に施されて来ているから、
そういう意味では、世が常闇と云われてもピンと来づらいかもしれない。
一方で、好転主義者とか、楽天主義者といわれる皆さんは、
闇になったらなったで、闇の中でしか出来ない楽しいことを、
充分満喫して人生を謳歌しましょうとか言いだすかもしれない。
確か、アメリカでは、ニューヨーク大停電がきっかけで、
その一年後は大ベビーブームになったという史実もあったと思うので、
物理的な闇が人類にとって不都合なものかどうかは断言しづらい。
かえって明るいからこそ、相手の外見にとらわれて、
タイプだとかタイプじゃないとかいって、
結ばれないカップルが増える可能性もある。
戦時中に出征前の若い男女が、周囲に勧められるままに結婚出来たのも、
それは戦時中の消灯という闇が助けてくれたのかもしれない。
今だって、夜にみれば、だいたいの男女が、
美男美女に見えてしまう場合もある。
さあこれから床調べという時に、
明りを消したがる場合が多いのも、闇のおかげで相手が、
現実以上に理想の相手に見える様に想像力が働くからかもしれない。
そう考えると闇の助けというのは意外に大きいのではなかろうか?
現代人は結婚適齢期が上がっているそうだが、それは照明技術が発達して、
相手の容姿がよく見える様になってしまったからかもしれない。
そうなれば、どうしたって少子化問題は膨大するばかりだ。
結婚相手を選ぶ時に、照明が明るくて、
相手の短所が露骨に見え過ぎてしまい、なかなか相手が決まらず、
理想の相手がいないことで、心がどんどん暗くなるということも、
まあ、絶対にあり得ないとは言えないことだと思う。
そう思うと、世は常闇ということの、深い意味が読めて来る気がする。
見え過ぎてしまうから、心がどんどん暗くなって行くというのが、
現代社会の深い闇ということになるのではなかろうか?
特に家庭にテレビが何台もある様な現代では、
テレビ映りがよく生れて来なかったことは、
一生の闇といえるかもしれないし、
逆にテレビ映りがよく生れて来てしまったがために、
普通では考えられないような辱めを受ける一生になることもある。
「知らぬが仏」とか「言わぬが花」とか「見ざる聞かざる言わざる」とか、
いろいろな言い方があるけれども、物事がよく見える様になればなるほど、
どうしようもない現実を前に、完全に気力を失ってしまうこともある。
ああ、もう少し綺麗に生れていたら…
もう少し背が高く生れていたら…
もう少し体格がよく生れていたら…
もう少し賢く生れていたら…
…と、他者と自分を比べて足らないところが、常に心の闇となり、
夢も希望もない毎日になるということも考えられる。
こんな体型で、こんな顔に生れたんだから、
お笑いの世界に進むしかないとか、
美人に生れはしたものの、人脈もお金も才能もないので、
水商売でスケベどもの慰み者になるしかないとか…
現代ではそういうことを恥じたり悔んだりしないで、
その現実を真っ向から受け入れて、泥の中で逞しく生きてやれ!
…と開き直るのを通り越し、それを笑って楽しめる場合も増えたから、
闇も慣れれば日向ということになるかもしれない。
十年くらい前に読んだ「成功の法則」とかいう本に、
「ぬるま湯につかっていることに気づかないカエル」
とかいう話が載っていた。
このカエルは、ぬるま湯に長くつかっているうちに、
すっかり茹で上がってしまうのだが、
ぬるま湯が心地よいので長湯した結果、低温火傷を起こし、
ついには茹で上がってしまうのだ。
現代人がこの、ぬるま湯につかったままのカエルだとしたら、
彼等が、そこが常闇だと気づかないのも無理はない。
ああ、いい湯加減だと、天国気分を味わったまま、
じわじわと茹で上がってゆくのだから…。
そういうことを想像すれば、
この宣伝歌の世界に入って行けるかもしれない。
そんな人心の気づかぬ闇同様、
為政者達は、根本的に間違った思想の上に、
理想郷を立てようとしては次々に倒れてゆく。
そもそも一党を興すほどの力を持っている法華経だって、
現実社会を泥沼に譬え、その泥の中で蓮の様に花咲こうとかいう、
土台のない価値観の上で、優勝劣敗を争っているのだ。
泥沼の中に水で流しても流れない、しっかりとした土台が必要だ。
それは泥沼に刺した真木の柱では頼りないというわけだ。
だけど女優の真木ようこが頼り無かったら、
男心を充分くすぐれますけどね?^^♪
冗談はさておき、だいたい真木では、
水が無ければ枯れるし、あり過ぎても腐るし、
泥沼に少々深く刺したところで、いつ倒れても不思議はない。
底があるのかないのか判らない地底から、
金剛不壊のダイヤモンドの柱でもそそり立たない限りは、
絶対安心ということはない。
まあ、そういう物理的な普遍性は人智の及ぶ事ではないので、
とりあえず人智の及ぶ範囲で、我々人類は世界の経済の立て直しを行い、
限りある人生を健やかに送りたいものだ。
その限りある人類社会の土台となるのが皇道經濟である。
これでやれば目で見える不幸のだいたいが解決する。
例えばテレビ社会だが、テレビ社会に悪の要素をもたらしているのは
スポンサーの問題である。
テレビ局を維持するには莫大な予算が必要だが、
資本主義社会では、その資本を企業努力によって獲得しなければならない。
その資金を得るために、多くの犠牲が支払われているのだが、
企業戦士達は、それは当然の犠牲だと思っているから、
不幸だなどと認めるわけがない。
つまり、厳格な様で、実は愚かなぬるま湯なのだ。
このぬるま湯から出してやるには皇道經濟しかない。
その他、全ての業界の資金問題を解決できるのも、
無論、皇道經濟だけである。
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倒れかかりし神の世を
起し助くる康代彦(ヤスヨヒコ)
心も堅(カタ)き真鉄彦(マガネヒコ)
天津御国(アマツミクニ)に現はれて
瑞(ミヅ)の御魂(ミタマ)と諸共(モロトモ)に
この世の元を固めむと
天津誠(アマツマコト)の御教(ミヲシヘ)を
天と地とに隈(クマ)もなく
行き足らはして神の世を
いと平けく安らけく
親の位を保ちつつ
ただよふ国を弥堅(イヤカタ)に
締め固めたる大事(オホコト)の
忍男司(オシヲノカミ)の現(ア)れまして
神政成就なし遂ぐる
吾らは神の御使(ミツカヒ)ぞ
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筆者も皇道經濟のことが理解できるまでは、
この康代彦と真鉄彦の様な固い心があったように思う。
しかし、代よ康かれと祈願しても、
真鉄の如く固い心で神様にお仕えしてみても、
祈願するしりから世には曲事が噴出し、
流石の真鉄も水につかり過ぎて、スッカリ赤錆びてしまい、
国家の安泰という根拠のない理想に苦悩し、
公務員の様に版で押したみたいな生活を繰り返し、
老いるに任せて日々をいたずらに過ごすのみ。
解決策といえば、この偽りの小康状態を打ち破り、
水に浸かり過ぎて赤錆びてしまった鉄を熱で溶かして打ち直し、
公務員の特権にあやかるための似非右翼暮らしから完全に自立し、
皇道經濟を土台にした自由なる奉仕の心でもって、
社会人類のために健やかな心身で貢献するための戦いに
参加するべく立ちあがる他はないであろうと思う。
適量の水には、必ず応分の火が交わっている。
火の気が失せた水はカサカサの氷の様になるものだ。
しかし人体は、そのカサカサの氷になる前の
十度くらいの水に長時間浸かっているだけでも命を縮めるものだ。
その水に鉄を長時間つけておけば赤錆、微生物やぬめりがついて、
使い物にならなくなる。
水上に姿を現わしている部分のみが頑強に見えるだけである。
代よ康かれと事なかれ主義を貫いたところで、
次から次へと噴出する社会問題に振り回され、
志はどんなに立派でも、何一つまともな働きが出来ぬまま、
威勢のよい気焔だけ発射して終わるのみである。
それもこれも、この地上の社会に於いては、
矛盾に満ちた経済による格差が生みだした貧困に原因があるのだ。
皇道經濟を社会の土台にする意外に解決策はないのである。
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千代(チヨ)に八千代(ヤチヨ)に日(ヒ)の本(モト)の
礎(イシズエ)堅(カタ)く搗(ツ)き固め
神世(カミヨ)の長(ヲサ)と成りいでて
教を四方(ヨモ)に敷島(シキシマ)の
吾は康代(ヤスヨ)の司(カミ)なるぞ
吾は真鉄(マガネ)の司(カミ)なるぞ
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前の分解と内容が重複してしまう部分は省略したい。
世の中には確かに、お金がなくても威勢よく立てる人物もある。
ある一定期間は、その無茶苦茶な威勢で暴れ回り、
いい加減の収入が得られ、余生に不安がなくなると、
そんな威勢も何処へやら、だいたいおとなしくなってゆくものだ。
それはつまり、つよいものがち、われよしである。
筆者は実は、今回の分解はあまり気が乗らなかった。
こんなことを書かなければならないことが判っていたから…。
鶴は千年、亀は万年とはいうけれど、
時を持たぬ無限の存在からすれば、
千年、万年が何だというのか?
かつて大本教は、三千年を売り文句に世に名を馳せた鶴だった。
さて、第三次大本事件とやらを経て、世に返り咲いた愛善苑も、
それが万年の亀であったとしても、せいぜいが万年である。
五十六億七千万年のミロク様の足元にも及ばなければ、
時を持たぬ無限の主神の前では何のこともないであろう。
かつては筆者も万年の亀に憧れ、万寿山という響きに目眩まされ、
丹頂鶴の赤い頭か、万寿山の赤い玉につられて、
東京通いを好んだこともあったが、その万寿山も、
やがては荒廃する運命だというのは、霊界物語にも明らかなことだ。
義理人情を重んずれば、こんなことを言えた話ではないが、
それを頑なに貫いていたのでは、
皇道經濟を錦の御旗に据えることができない。
さてさてと思って足踏みしていたら、
喘息の薬をもらいにでかけた、
かかりつけのクリニックでの待ち時間中に、
読まずにほったらかしておいた「伊都能売道歌」に、
こんな歌が出て来て尻を叩かれてしまった。
勿論、ここで歌われている浦島太郎とは、
沓島渡りをやった上田喜三郎先生であり、
後の出口王仁三郎聖師だというのが普通の解釈なのだが、
何せ、この十一、十五、十七、という数字を見たら、
数霊別の法の御本尊である筆者が無視できるわけがない。
…というのは、筆者は昭和三十五年十一月十七日生れだから。
十五は三五十五でもある。
その上、筆者は、今年になってから、
浦島太郎伝説と神奈川県のことについて、
「
地上天国建設員会の日記」で特集しているところだし、
ずっと休んでいた各ブログを再開したり、
いろいろと考慮して足踏みしているところにまたこの調子だから、
時節というか、タイミングが好過ぎて困るというか、笑うというか…
聖師さんも、皇神様も、筆者のこういう性格を底の底まで見透かした上で、
こんな風に尻を叩いてくれるのだから、
これも地上天国建設のためと思って、道の先輩を踏み台にする様なことでも、
私情や自己愛心を踏み越えて進んで行かねばならないこの辛さ…。
こんなことを主張しようものなら十八番の道歌の様に、
蜂の室屋に投げ込まれる様なことになりそうだけれども、
筆者が言わねば他に云う者も無いという現代であるから、
この宿命を恨んでいてもしょうがない。
赤錆びた真鉄を打ち直し、代が康ければそれでよいという様な、
そんな事なかれ主義に甘んずるわけにもいかない。
釣鐘が 可哀想だと 打たざれば
鳴る釣鐘も 成ることを得ず
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いま汝(ナ)が前に現はれて
大事忍男司(オホコトオシヲノカミ)と云は
ウラルの山にわだかまる
八岐大蛇(ヤマタヲロチ)の化身にて
今より十年(トトセ)のその昔
この神山に立籠り
瑞穂(ミヅホ)の国(クニ)の中国(ナカクニ)の
神の胞衣(エナ)をば打破り
この世を乱す深企(フカダク)み
これの深山(ミヤマ)に隠(カク)ろひて
あまたの邪神を狩集め
再挙を図る浅間しさ
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艮の金神様の真似をして、忍耐を逆手にとって、
誠の神が現れるのを妨げようとするのがこの、
八岐大蛇の化身、大事忍男司ということになるわけだ。
ちょうど今の東京あたりの、エリートさん達が集まる様な、
そういう場所柄では静粛であることがよろしいという感じの、
そういうわけのわからない忍耐で、
要は肝心なことを封じてしまえというわけだ。
ここに書いてあることは、そのまま読んでもなかなか判らない。
判り易くいうと、
「本来、世界の中国(なかくに)であり、皇国と神定された、
わが日出島を占領し、世界の王国として押し立て、
世界征服の中心にしようとしている連中は、
実は大陸から渡って来た偽日本人である。
聖書から紐解くならば、
ノアの三貴子のセム系をたばかるハム系の唐人達で、
偽盤古の系統、支那からの帰化人達ばかりであるから、
連中に皇神様の神格に満たされた皇道經濟の話をしても、
なかなか聞き入れないのが当然。」
ということである。
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天(アメ)の御柱大神(ミハシラオホカミ)は
魔神(マガミ)の企(タク)みをことごとく
覚らせたまひて現世(ウツシヨ)を
千代(チヨ)に八千代(ヤチヨ)に康代彦(ヤスヨヒコ)
堅磐常磐(カキハトキハ)に真鉄彦(マガネヒコ)
造り固めて浦安(ウラヤス)の
日(ヒ)出(イ)づる国(クニ)の礎(イシズエ)を
照らす日(ヒ)の出(デ)の大神(オホカミ)ぞ
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だいたい大筋は認めるけれど、この宣伝歌のままでは、まだ弱い。
何故かといえば、精神論ばかりで經濟に目が届いていないから。
宗教は皇道の上にはない。
皇道の管理下にあるのが宗教である。
ここのところが理解できずに、
その神名を前に出す様な慢心がここにある。
謙虚なふりをして宣伝神の立場を超えて、
わが名を天の御柱大神の権化の様に使っている。
その勢いは買うけれども、それは明らかに慢心である。
これを歌うなら、
『天(アメ)の御柱大神(ミハシラオホカミ)は
魔神(マガミ)の企(タク)みをことごとく
覚らせたまひて現世(ウツシヨ)を
終(ヲ)わりなき世(ヨ)の康代(ヤスヨ)とし
堅磐常磐(カキハトキハ)に真金(マガネ)にて
土台固めて心安(ウラヤス)の
日(ヒ)出(イ)づる国(クニ)の礎(イシズエ)を
照らす日(ヒ)の出(デ)の大神(オホカミ)ぞ』
とするべきだ。
真鉄は水に浸けておけば赤錆になる。
真金でなければならぬ。
そして真金というのは皇道經濟のことである。
「千代に八千代に」では、せいぜい君が代である。
偽日本人の皇室崇拝の臭いがプンプンして来る。
「終わりなき世」の土台を皇道經濟で固めるのである。
「浦安」などというから、千葉東京が慢心するのだ。
「心安」とせねばならぬ。
さて、この日本に居ながら、こんな分解をせねばならぬのだから、
筆者が今回の分解の足踏みをしたのも御了承頂けるであろうと思う。
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仕組(シグミ)も深きこの山に
導きたまふ雄々(ヲヲ)しさよ
東南西に海原(ウナバラ)を
控へて聳(タ)てるこの山は
難攻不落の鉄壁ぞ
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世界の型でいうと奈良県の大台ケ原が、この山である。
世界でいうと、インドと中国の間にあるチベットである。
しかし、チベットというのは、
そのまま地教山であるエベレストではない。
この辺は、混同し易いようだから、
明確に別けておいた方がよい。
前回の分解では、筆者もまだエベレストが大台ケ原かな?
…と思っていたが、この二週間の間にいろいろビジョンがあって、
天教山の富士山と、地教山のエベレストを同格にしない為にも、
これをきちんと区別しないとならないと感じたので、
大台ケ原がチベットだとは認めるけれども、
エベレストは地教山としておかないとならない様だ。
…というのは、本来、今の日本列島と大陸は陸続きで、
更に太平洋側に陸地が広がっていて、
世界一の高峰である天教山が聳え立っていたが、
天地の立て替えの時に、この天教山の八合目以下がグンと陥没して、
わずかに八合目以上が残ったのが今の富士山なので、
天教山は天教山、富士山は富士山なのだそうだ。
つまり、旧約聖書でいうところの一本の肋骨である。
この一本の肋骨を世界の型として、現代の世界が形作られた。
だから現代の富士山は、天教山の一部であるけれども、
天教山の全てではない。
もし今後、再び天教山が再生する様な大地の変動があるとするならば、
日本列島日出島が、世界の型である必要もなくなってしまう。
現段階では、日本列島日出島は世界の型であるから、
これを世界の皇国と定めて、
皇道經濟によって世界の立て直しをしてゆくわけである。
これが間に合わないと、霊界の幽界の方には、
地上生命滅亡寸前の大変動が起こるという選択肢が既に存在している様である。
これを現界に映し出す前に消去するには、現時点で、
「皇道經濟でみんなに十億円!」
をやればよいのである。
…と、ちょっと話題が膨らみ過ぎたので、矛先をちょっともとに戻そう…。
前刻の一二三道歌の十五、皇道に、
越国の雪より清き大道も
世に白妙のとく人も無し
とあるが、この越国は能登半島辺りの上杉謙信が活躍した地域かも?
ここの雪もよりも清いのが皇道だというわけだ。
世界でいうとドイツかフランス辺りになるかもしれない。
ドイツといえば職人の国だとかマイスターの国だとか云われるし、
スイスと近い所にあるし、第二次世界大戦時には日本と並んで、
世界列強を相手によく戦った国だが、ナチスが怪し過ぎたのが災いした。
ドイツは世界の音楽の故郷の様な所だから、筆者にも気になる。
一方、今では芸術の国、無神論の国として名高いフランスは、
フランス革命以前には神がかった国だったが、今では原発大国として、
世界のエネルギー問題に影響力を持っている。
どちらも学問と芸術と技術の国だが、その越の国々の雪より、
皇道の方が清いというのだから、今、猿蟹合戦に譬えて、
この問題を浮き彫りにしている筆者にも見逃せない問題だ。
勿論、越の国がドイツやフランス辺りであるという見方も、
筆者の様に、日本の紀伊半島は大陸のインド半島であるという風に観て、
アラビア半島は、日本の中国地方という風に観れないと、
わからないことである。
ここで筆者が「越」に目をつけることを知ってか知らずか、
王仁三郎聖師は百年以上前に不思議な歌を詠んだものである。
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汝(ナレ)が命(ミコト)はこの山に
堅磐常磐(カキハトキハ)に鎮まりて
天津日嗣(アマツヒツギ)の皇神(スメカミ)の
御位(ミクラ)を守り奉(タテマツ)れ
吾は左守(サモリ)の司(カミ)となり
大和嶋根(ヤマトシマネ)の神国(カミクニ)を
真鉄(マガネ)の彦(ヒコ)の弥堅(イヤカタ)に
弥常久(イヤトコトハ)に揺ぎなく
治めてここに立岩(タチイハ)の
深き企(タク)みをうち破り
曲神(マガ)のことごと平(タヒラ)げむ
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古典的な…というか、これまでの大本系のスピ人種は、
世界を日本の関東と関西という様に二分して、
西は祭司を重視し、東は王道を重視するという様な、
そんな考え方をする場合が多い。
かくいう筆者も、かつてはそれでよいのだろうと思っていた。
しかし、その程度のことではまだまだ浅かったのだなと、
この宣伝歌を拝読していると、筆者はつくづく思うのである。
これは江戸時代の日本が、京都様と江戸幕府に別れて、
公家と武家が嫉視反目しながら、
とりあえず平和を保っていたようなもので、
弱者や平民達の暮らしが楽になるための仕組みでもなんでもなかった。
つまり、事を荒げたがる連中を抑え込むための仕組みだったのだ。
これでは世界は根から腐り出して当然である。
要するに右守が東で、左守が西である。
仏教でも浄土宗辺りでは、西方極楽浄土ということを云っていたが、
当時の日本から見れば、唐天竺は極楽浄土に観えたのだ。
今はどうだか知らないが…。
とりあえず宗教が最上級だと思っている精神レベルだと、
ここまでの見識で止まる様な気がするのである。
宗教だけでよいのならば五大教で充分だったはずだ。
ここに三大教が加わり、霊体共に救う道という次元に上昇し、
經濟を理解する必要が出来て来る。
経済というのはただのマーケティングであるから、
これではない。經濟である。
經濟とは、正しい道に従って万類を済度する実質的な手段である。
要するに万民がお金で困ることがない様にして、
お金の心配をすることなく、世のため人のために、存分に働ける礎である。
それで筆者は「皇道經濟でみんなに十億円!」と主張しているのだ。
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康代(ヤスヨ)は右守(ウモリ)の司(カミ)となり
荒浪猛(タ)ける浮嶋(ウキシマ)を
神の稜威(ミイヅ)に搗(ツ)き固め
康代(ヤスヨ)の彦(ヒコ)の司(カミ)となり
浦安国(ウラヤスクニ)の心安(ウラヤス)く
千代(チヨ)に八千代(ヤチヨ)に守るべし
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何分、科学未発達の時代の神々からしたら、
こんな風に精神論を持ちだす意外にはないのだと思う。
現代でも、まだまだ科学の発達は過渡期にあるけれども、
それでも現代の科学と技術があれば、
全世界に皇道經濟を徹底することは想像以上に簡単になる筈だ。
要するに、世界中の役所と皇道政府銀行をインターネットでつなぎ、
全人類の戸籍を確認して、
各自の口座に、九億九千九百九十万円が常にあるようにして、
財布には十万円の現金しか持たせないようにし、
その上で、各自が得意分野で営利営収を気にせずに、
全世界の為に全力で勇んで、
喜び、喜ばれながら働けばよいだけのことである。
今なら、全人類にヤル気があれば、こんなことは一年もあれば出来る。
要はこれを、世界中のお金持ち、資産家、
土地所有者達が了解すればよいだけだが、
ここのところが一番めんどくさい部分でもあるわけだ。
それをやるのが面倒くさいので、迷信染みた信仰心とやらで、
「浦安国の心安く」などと、綺麗事をいって誤魔化しているのである。
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朝日の直刺(タダサ)す神の山
夕日の直刺(タダサ)す神の峰
百山(モモヤマ)千谷(チダニ)のその中に
聳(ソソ)り立ちたる大台(オホダイ)が
原(ハラ)の御山(ミヤマ)と永久(トコシヘ)に
日(ヒ)の出神(デノカミ)と現はれて
天教(テンケウ)地教(チケウ)の神々の
教を守る朝日子(アサヒコ)の
日(ヒ)の出神(デノカミ)となりませよ』
と歌ひながら、巌窟の前に立てる日の出神の傍(ソバ)近く進みきたる。
(大正十一年一月三十日、旧一月三日、高木鉄男録)
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全世界の諸問題は、宇宙人が大量にやって来なければ解決しないとか、
そんな考え方も一時はブームになった様だが、
どちらにしても、この世で一番問題なのは金銭の取り扱いである。
更には財産や相続権、著作権や権利収入など、
こういうつまらないアイテムのおかげで、
悲惨な出来事が相次いでいるのである。
こういう悲惨な出来事から目を逸らし、大自然の絶景を眺めていれば、
それで優雅な気持ちになれるかもしれないが、
それはそれだけのことである。
結局また、金融問題で世界は醜くネジ曲がるのだ。
どんな綺麗事よりも、「皇道經濟でみんなに十億円!」を徹底すれば、
誰も彼も、お金のことを考えずに理想を追求できる様になるのだから、
その上でなら、絵にかいた餅の様な宗教も哲学も、
越の国々の清らかな雪の様になるであろう。
嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)
北欧と欧州
亜弗利加の砂漠と日本の鳥取砂丘
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