ここに鬼熊(オニクマ)はエデンの城塞を奪取し、牛熊(ウシクマ)、
牛姫(ウシヒメ)をして数多(アマタ)の魔軍を統(ス)べて之(コレ)を守らしめ、
鬼熊、鬼姫のふたりは竜宮城の裏門より潜かに忍び入つた。
鬼熊は巨大なる鉄棒(テツボウ)を提げ、
鬼姫は都牟苅(ツムガリ)の太刀(タチ)を懐(フトコロ)に秘め、奥殿深く進みいり、
大音声に叫んで曰(イハ)く、
『鬼熊、鬼姫これに在(ア)り、
大八洲彦命(オホヤシマヒコノミコト)は何処(イヅコ)に在るぞ、見参せむ』
とますます奥深く獅子奮迅の勢をもつて、ふたりは襲ひいつた。
このとき大八洲彦命は病に臥して、
戸を堅く閉鎖し差籠(サシコ)もつてをられた。
鬼熊、鬼姫は満身の力をこめて、その室の扉を叩き破らむとした。
その声に驚いて馳集(ハセアツ)まりしは竜世姫(タツヨヒメ)、
高杉別(タカスギワケ)であつた。
たちまち彼我(ヒガ)のあひだに大格闘がはじまつた。
高杉別は今や鬼熊のために亡ぼされむとする時、
小島別(コジマワケ)駈(カケ)来つて、
忠臣蔵(チユウシングラ)の加古川本蔵(カコガハホンザウ)が
塩谷判官(エンヤハングワン)を抱止めたやうに背後より無手(ムズ)と組みついた。
他の神司(カミガミ)は鬼熊の手や足に組みついた。
鬼熊は進退谷(キハ)まつて、鬼姫の救(タス)けを叫んだ。
鬼姫は鬼熊を救はむとして走りゆかむとするを、
ここに菊姫(キクヒメ)現はれて後より
八尋繩(ヤヒロナワ)を首に打ちかけ仰向けに倒した。
あまたの女性は群がりたかつて鬼姫を縛(バク)しあげた。
時しも竹熊は中殿より現はれ来りて、
進退谷まり身動きのままならぬ鬼熊の面上目がけて、
鉄鎚(テツツイ)を打下した。
血は流れて泉(イヅミ)のごとく、惨状目もあてられぬ有様である。
かかるところへ現はれ出でたる真澄姫(マスミヒメ)、竜世姫(タツヨヒメ)は、
日ごろの鬱憤を晴らし悪心を懲(コラ)すは今この時なりと、
女性(ヲンナ)の浅果敢(アサハカ)にも弱りきつたる鬼熊を荊(イバラ)の鞭にて
やみくもに乱打打擲する。
一同の猛り狂ひ叫ぶ声は四辺に洪水のごとく響きわたる。
病床にありし大八洲彦命は、
スワこそ一大事勃発せりと病の床をはね起き、現場に馳着(ハセツ)け、
小島別、高杉別を宥(ナダ)め、かつ鬼熊の負傷を懇切に見舞ふた。
まことに智仁勇兼備の神将である。
稚姫君命(ワカヒメギミノミコト)は沓島(クツジマ)の神業を了(ヲ)へ、
二柱(フタハシラ)の従臣と共に帰城され、
この場の光景を眺めて大いに怒らせたまひ、眉をひそめて、
『鬼熊を討ちし無法のものはたれぞ』
と色をなして詰問された。このとき鬼熊は狼狽のあまり、
その下手人の誰なるかを知らなかつた。
されど彼は邪推を廻(メグ)らし、
『わが面体(メンテイ)を打ちしは確に竜世姫(タツヨヒメ)、
高杉別(タカスギワケ)、虎彦(トラヒコ)ならむ』
と血泥(チミドロ)の物凄(モノスゴ)き顔を振りたてて奏上した。
小島別(コジマワケ)は鬼熊の言葉を遮(サヘギ)り、
『否然(イナシカ)らず、小臣はその現場を目撃せる証神(シヨウシン)なり。
鉄棒をもつて討ちしことは竹熊の所為(シヨイ)なり』
と、言葉に力をこめて言明した。
稚姫君命(ワカヒメギミノミコト)は竹熊に向ひ、
『汝(ナンヂ)の行動はなはだ暴逆無道なり、
妾(ワラハ)はいまだ心底(シンテイ)より
汝が改心の実証を認むる能(アタ)はず。
今はもはや是非なし、
神界の規定にしたがひ速(スミヤカ)に
根(ネ)の国(クニ)底(ソコ)の国(クニ)に降るべし』
と厳命された。竹熊は首を左右に振り、
『否々(イナイナ)、下手人はわれに非ず、高杉別以下の所為なり』
と強弁した。小島別以下は現場の実状を目撃せるをもつて、
あくまで竹熊の所為なりと主張した。
大八洲彦命は、
『大神(オホカミ)の神業に出嶋(シユツタウ)されし不在中に
かくのごとく不祥事を惹起(ジヤクキ)せしめたるは、
全く吾不注意の罪なり。
何とぞ吾を根(ネ)の国(クニ)、
底(ソコ)の国(クニ)へ追放りて竹熊の罪を赦(ユル)したまへ』
と涙とともに言上された。
稚姫君命は大八洲彦命の慈愛に厚き真心に感じ、
諸神にむかつて今後を戒め、この場は事無く事済(コトズ)みとなつた。
鬼熊はこの負傷が原因となり、運命尽きて遂に落命するにいたつた。
妻の鬼姫は竹熊の非道を怒り、仇(アダ)を報(ハウ)ぜむとし、
武熊別とともに弔(トムラ)ひ合戦を計画した。
しかして鬼熊は怨霊凝(コ)つて、終にウラル山の黒竜となつた。
(大正十年十月二十六日、旧九月二十六日、外山豊二録)
牛姫(ウシヒメ)をして数多(アマタ)の魔軍を統(ス)べて之(コレ)を守らしめ、
鬼熊、鬼姫のふたりは竜宮城の裏門より潜かに忍び入つた。
鬼熊は巨大なる鉄棒(テツボウ)を提げ、
鬼姫は都牟苅(ツムガリ)の太刀(タチ)を懐(フトコロ)に秘め、奥殿深く進みいり、
大音声に叫んで曰(イハ)く、
『鬼熊、鬼姫これに在(ア)り、
大八洲彦命(オホヤシマヒコノミコト)は何処(イヅコ)に在るぞ、見参せむ』
とますます奥深く獅子奮迅の勢をもつて、ふたりは襲ひいつた。
このとき大八洲彦命は病に臥して、
戸を堅く閉鎖し差籠(サシコ)もつてをられた。
鬼熊、鬼姫は満身の力をこめて、その室の扉を叩き破らむとした。
その声に驚いて馳集(ハセアツ)まりしは竜世姫(タツヨヒメ)、
高杉別(タカスギワケ)であつた。
たちまち彼我(ヒガ)のあひだに大格闘がはじまつた。
高杉別は今や鬼熊のために亡ぼされむとする時、
小島別(コジマワケ)駈(カケ)来つて、
忠臣蔵(チユウシングラ)の加古川本蔵(カコガハホンザウ)が
塩谷判官(エンヤハングワン)を抱止めたやうに背後より無手(ムズ)と組みついた。
他の神司(カミガミ)は鬼熊の手や足に組みついた。
鬼熊は進退谷(キハ)まつて、鬼姫の救(タス)けを叫んだ。
鬼姫は鬼熊を救はむとして走りゆかむとするを、
ここに菊姫(キクヒメ)現はれて後より
八尋繩(ヤヒロナワ)を首に打ちかけ仰向けに倒した。
あまたの女性は群がりたかつて鬼姫を縛(バク)しあげた。
時しも竹熊は中殿より現はれ来りて、
進退谷まり身動きのままならぬ鬼熊の面上目がけて、
鉄鎚(テツツイ)を打下した。
血は流れて泉(イヅミ)のごとく、惨状目もあてられぬ有様である。
かかるところへ現はれ出でたる真澄姫(マスミヒメ)、竜世姫(タツヨヒメ)は、
日ごろの鬱憤を晴らし悪心を懲(コラ)すは今この時なりと、
女性(ヲンナ)の浅果敢(アサハカ)にも弱りきつたる鬼熊を荊(イバラ)の鞭にて
やみくもに乱打打擲する。
一同の猛り狂ひ叫ぶ声は四辺に洪水のごとく響きわたる。
病床にありし大八洲彦命は、
スワこそ一大事勃発せりと病の床をはね起き、現場に馳着(ハセツ)け、
小島別、高杉別を宥(ナダ)め、かつ鬼熊の負傷を懇切に見舞ふた。
まことに智仁勇兼備の神将である。
稚姫君命(ワカヒメギミノミコト)は沓島(クツジマ)の神業を了(ヲ)へ、
二柱(フタハシラ)の従臣と共に帰城され、
この場の光景を眺めて大いに怒らせたまひ、眉をひそめて、
『鬼熊を討ちし無法のものはたれぞ』
と色をなして詰問された。このとき鬼熊は狼狽のあまり、
その下手人の誰なるかを知らなかつた。
されど彼は邪推を廻(メグ)らし、
『わが面体(メンテイ)を打ちしは確に竜世姫(タツヨヒメ)、
高杉別(タカスギワケ)、虎彦(トラヒコ)ならむ』
と血泥(チミドロ)の物凄(モノスゴ)き顔を振りたてて奏上した。
小島別(コジマワケ)は鬼熊の言葉を遮(サヘギ)り、
『否然(イナシカ)らず、小臣はその現場を目撃せる証神(シヨウシン)なり。
鉄棒をもつて討ちしことは竹熊の所為(シヨイ)なり』
と、言葉に力をこめて言明した。
稚姫君命(ワカヒメギミノミコト)は竹熊に向ひ、
『汝(ナンヂ)の行動はなはだ暴逆無道なり、
妾(ワラハ)はいまだ心底(シンテイ)より
汝が改心の実証を認むる能(アタ)はず。
今はもはや是非なし、
神界の規定にしたがひ速(スミヤカ)に
根(ネ)の国(クニ)底(ソコ)の国(クニ)に降るべし』
と厳命された。竹熊は首を左右に振り、
『否々(イナイナ)、下手人はわれに非ず、高杉別以下の所為なり』
と強弁した。小島別以下は現場の実状を目撃せるをもつて、
あくまで竹熊の所為なりと主張した。
大八洲彦命は、
『大神(オホカミ)の神業に出嶋(シユツタウ)されし不在中に
かくのごとく不祥事を惹起(ジヤクキ)せしめたるは、
全く吾不注意の罪なり。
何とぞ吾を根(ネ)の国(クニ)、
底(ソコ)の国(クニ)へ追放りて竹熊の罪を赦(ユル)したまへ』
と涙とともに言上された。
稚姫君命は大八洲彦命の慈愛に厚き真心に感じ、
諸神にむかつて今後を戒め、この場は事無く事済(コトズ)みとなつた。
鬼熊はこの負傷が原因となり、運命尽きて遂に落命するにいたつた。
妻の鬼姫は竹熊の非道を怒り、仇(アダ)を報(ハウ)ぜむとし、
武熊別とともに弔(トムラ)ひ合戦を計画した。
しかして鬼熊は怨霊凝(コ)つて、終にウラル山の黒竜となつた。
(大正十年十月二十六日、旧九月二十六日、外山豊二録)