『音惚花活気好@kakky』=垣内政治的《霊界物語学》の日記的な雑記の様なレポート状の諸々?

出口王仁三郎聖師による弥勒胎蔵経『霊界物語』を『音惚花活気好@kakky』的に学問してみるランダムレポート?

霊界物語 第二巻 霊主体従 丑の巻 総説

2006年05月28日 21時39分26秒 | Weblog
 神界における神々の御服装につき、
大略を述べておく必要があらうと思ふ。

一々神々の御服装に関して口述するのは大変に手間どるから、
概括的に述ぶれば、国治立命(クニハルタチノミコト)のごとき高貴の神は、
たいてい絹物にして、上衣(ウハギ)は紫の無地で、下衣(シタギ)が純白で、
中の衣服が紅(クレナイ)の色の無地である。

国大立命(クニヒロタチノミコト)は青色の無地の上衣に、中衣(ナカギ)は赤色(セキシヨク)、
下衣は白色の無地。

稚桜姫命(ワカザクラヒメノミコト)は、上衣は水色に種々の美(ウル)はしき模様があり、
たいていは上中下とも松や梅の模様のついた
十二単衣(ジフニヒトエ)の御服装である。

天使大八洲彦命(オホヤシマヒコノミコト)、大足彦(オホダルヒコ)のごときは、
上衣は黒色の無地に、中衣は赤色、下衣は白色の無地の絹の服である。

その他の神将は位によつて、
青、赤、緋(ヒ)、水色、白、黄、紺(コン)等、
いづれも無地服で、絹、麻、木綿等に区別されてゐる。

 冠(カムリ)もいろいろ形があつて纓(エイ)の長短があり、
八王八頭神(ヤツワウヤツガシラガミ)以上の神々に用ゐられ、
それ以下の神司(カミガミ)は烏帽子(エボシ)を冠(カブ)り、
直衣(ヒタタレ)、狩衣(カリギヌ)。

婦神(フシン)はたいてい明衣(ミヤウエ)であつて、
青、赤、黄、白、紫などの色を用ゐられ、袴も色々と五色に分れてゐる。

また神将は闕腋(ケツテキ)に冠をつけ、残らず黒色の服である。

神卒(シンソツ)は一の字の笠を頭に戴き、裾を短くからげ、
手首、足首には紫の紐をもつて結び、
実に凛々(リリ)しき姿をしてをらるるのである。

委(クハ)しく述ぶれば際限がないが、
いま述べたのは国治立命が御隠退遊ばす以前の神々の御服装の大略である。

 星移り、月換(カハ)るにつれ、神界の御服装はおひおひ変化し来たり、
現界の人々の礼装に酷似せる神服を纒(マト)はるる神司(カミ)も沢山に現はれ、
神使の最下たる八百万(ヤホヨロヅ)の金神(コンジン)天狗界にては、
今日流行の種々の服装で活動さるるやうになつてをる。

 また邪神界でもおのおの階級に応じて、
大神(オホカミ)と同一の服装を着用して化けてをるので、
霊眼で見ても一見その正邪に迷ふことがある。

 ただ至善の神々は、
その御神体の包羅(ハウラ)せる霊衣(レイイ)は非常に厚くして、
かつ光沢強く眼を射るばかりなるに反し、邪神はその霊衣はなはだ薄くして、
光沢なきをもつて正邪を判別するぐらゐである。

しかるに八王大神(ヤツワウダイジン)とか、常世姫(トコヨヒメ)のごときは、
正神界の神々のごとく、霊衣も比較的に厚く、
また相当の光沢を有してをるので、一見してその判別に苦しむことがある。

 また自分が幽界を探険した時にも、
種々の色の服を着けてゐる精霊を目撃した。
これは罪の軽重によつて、色が別れてゐるのである。
しかし幽界にも亡者ばかりの霊魂がをるのではない。

現界に立働いてゐる生た人間の精霊も、
やはり幽界に霊籍をおいてをるものがある。

これらの人間は現界においても、幽界の苦痛が影響して、
日夜悲惨な生活を続けてをるものである。

これらの苦痛を免(マヌガ)るる方法は、現体のある間に神を信仰し、
善事を行ひ万民を助け、能(アタ)ふかぎりの社会的奉仕を務めて、
神の御恵(ミメグミ)を受け、その罪を洗ひ清めておかねばならぬ。

 さて現界に生きてゐる人間の精霊を見ると、
現人(ゲンジン)と同形の幽体を持つてゐるが、亡者の精霊に比べると、
一見して生者と亡者の精霊の区別が、判然とついてくるものである。

生者の幽体〈精霊〉は、円(マル)い霊衣を身体一面に被(カブ)つてゐるが、
亡者の幽体は頭部は山形に尖り、三角形の霊衣を纒(マト)うてをる。
それも腰から上のみ霊衣を着し、腰以下には霊衣はない。
幽霊には足がないと俗間にいふのも、この理に基づくものである。

また徳高きものの精霊は、その霊衣きはめて厚く、大きく、
光沢強くして人を射るごとく、かつ、よく人を統御する能力を持つてゐる。

現代はかくの如き霊衣の立派な人間がすくないので、
大人物といはるるものができない。

現代の人間はおひおひと霊衣が薄くなり、光沢は放射することなく、
あたかも邪神界の精霊の着てをる霊衣のごとく、
少しの権威もないやうになつて破れてをる。

大病人などを見ると、その霊衣は最も薄くなり、
頭部の霊衣は、やや山形になりかけてをるのも、
今まで沢山に見たことがある。

いつも大病人を見舞ふたびに、
その霊衣の厚薄(コウハク)と円角(エンカク)の程度によつて判断をくだすのであるが、
百発百中である。

なにほど名医が匙(サジ)を投げた大病人でも、その霊衣を見て、
厚くかつ光が存してをれば、その病人はかならず全快するのである。

これに反して天下の名医や、博士が、
生命(イノチ)は大丈夫だと断定した病人でも、その霊衣がやや三角形を呈したり、
紙のごとく薄くなつてゐたら、その病人は必ず死んでしまふものである。

 ゆゑに神徳ある人が鎮魂(チンコン)を拝授し、大神(オホカミ)に謝罪し、
天津祝詞(アマツノリト)の言霊(ゲンレイ)を円満清朗に奏上したならば、
たちまちその霊衣は厚さを増し、三角形は円形に立直り、
死亡を免(マヌガ)れるものである。

かくして救はれたる人は、神の大恩を忘れたときにおいて、
たちまち霊衣を神界より剥(ハ)ぎとられ、ただちに幽界に送られるものである。

 自分は数多(アマタ)の人に接してより、第一にこの霊衣の厚薄を調べてみるが、
信仰の徳によつて漸次にその厚みを加へ、
身体ますます強壮になつた人もあり、
また神に反対したり、人の妨害をしたりなどして、天授の霊衣を薄くし、
中には円相がやや山形に変化しつつある人も沢山実見した。

自分はさういふ人にむかつて、色々と親切に信仰の道を説いた。

されどそんな人にかぎつて神の道を疑ひ、
かへつて親切に思つて忠告すると心をひがまし、
逆にとつて大反対をするのが多いものである。

これを思へばどうしても霊魂(ミタマ)の因縁性来(シヤウライ)といふものは、
如何(イカン)ともすることが出来ないものとつくづく思ひます。

    ○

 大国治立尊(オホクニハルタチノミコト)と申し上げるときは、
大宇宙一切を御守護遊ばすときの御神名であり、
単に国治立尊(クニハルタチノミコト)と申し上げるときは、
大地球上の神霊界を守護さるるときの御神名である。

自分の口述中に二種の名称があるのは、この神理に基づいたものである。

 また神様が人間姿となつて御活動になつたその始めは、
国大立命(クニヒロタチノミコト)、稚桜姫命(ワカザクラヒメノミコト)が最初であり、
稚桜姫命は日月の精を吸引し、
国祖(コクソ)の神(カミ)が気吹(イブキ)によつて生れたまひ、
国大立命は月の精より生れ出でたまうた人間姿(ニンゲンスガタ)の神様である。

それよりおひおひ神々(カミガミ)の水火(イキ)によりて生れたまひし神系と、
また天足彦(アダルヒコ)、胞場姫(エバヒメ)の人間の祖より生れいでたる人間との、
二種に区別があり、神の直接の水火より生れたる直系の人間と、
天足彦、胞場姫の系統より生れいでたる人間とは、
その性質において大変な相違がある。

天足彦、胞場姫といへども、元は大神(オホカミ)の直系より生れたのであれども、
世の初発にあたり、神命に背きたるその体主霊従(タイシユレイジユウ)の罪によつて、
人間に差別が自然にできたのである。

 されども何れの人種も、今日は九分九厘まで、みな体主霊従、
尊体卑心(ソンタイヒシン)の身魂(ミタマ)に堕落してゐるのであつて、
今日のところ神界より見たまふときは、甲乙を判別なし難く、
つひに人種平等の至当なるを叫ばるるに立いたつたのである。

    ○

 盤古大神塩長彦(バンコダイジンシホナガヒコ)は日(ヒ)の大神(オホカミ)の直系にして、
太陽界より降誕したる神人(カミ)である。

日の大神の伊邪那岐命(イザナギノミコト)の御油断によりて、
手の俣(マタ)より潜(クグ)り出で、
現今の支那の北方に降りたる温厚無比の正神である。

 また大自在天神大国彦(ダイジザイテンジンオホクニヒコ)は、
天王星(テンワウセイ)より地上に降臨したる豪勇の神人(カミ)である。

いづれもみな善神界の尊き神人(カミ)であつたが、
地上に永住されて永き歳月を経過するにしたがひ、
天足彦(アダルヒコ)、胞場姫(エバヒメ)の天命に背反せる結果、
体主霊従の妖気地上に充満し、
つひにはその妖気邪霊の悪竜、悪狐、邪鬼のために、
いつとなく憑依(ヒヨウイ)されたまひて、
悪神の行動を自然に採りたまふこととなつた。

それより地上の世界は混濁し、汚穢(ヲエ)の気みなぎり、
悪鬼羅刹の跛扈跳梁(バツコテウリヤウ)をたくましうする
俗悪世界と化してしまつた。

 八王大神常世彦(ヤツワウダイジントコヨヒコ)は、
盤古大神の水火より出生したる神にして、常世(トコヨ)の国(クニ)に霊魂を留め、
常世姫(トコヨヒメ)は稚桜姫命(ワカザクラヒメノミコト)の娘にして、
八王大神の妃(キサキ)となり、八王大神の霊に感合し、
つひには八王大神以上の悪辣なる手段を用ゐ、
世界を我意のままに統轄せむとし、車輪の暴動を継続しつつ、
その霊はなほ現代にいたるも常世の国にとどまつて、
体主霊従的世界経綸(ケイリン)の策を計画してをる。

 ゆゑに常世姫の霊の憑依せる国の守護神は、
今になほその意志を実行せむと企ててをる。

八王大神常世彦には天足彦(アダルヒコ)、胞場姫(エバヒメ)の霊より生れたる
八頭八尾(ヤツガシラヤツヲ)の大蛇(オロチ)が憑依(ヒヨウイ)してこれを守護し、
常世姫には金毛九尾白面(キンマウキユウビハクメン)の悪狐憑依してこれを守護し、
大自在天(ダイジザイテン)には、六面八臀(ロクメンハツピ)の邪気憑依してこれを守護し、
ここに艮(ウシトラ)の金神(コンジン)国治立命(クニハルタチノミコト)の神系と
盤古大神(バンコダイジン)の系統と、大自在天(ダイジザイテン)の系統とが、
地上の霊界において三(ミ)つ巴(ドモエ)になつて
大活劇を演ぜらるるといふ霊界の珍しき物語である。

 自分はここまで口述したとき、
何心なくかたはらに散乱せる大正日日新聞(タイシヨウニチニチシンブン)に眼をそそぐと、
今日はあたかも大正十年陰暦十月十日午前十時であることに気がついた。

霊界物語第二巻の口述ををはつた今日の吉日は、
松雲閣(シヨウウンカク)において御三体の大神様を始めて
新しき神床(カムドコ)に鎮祭することとなつてゐた。

これも何かの神界の御経綸の一端と思へば思へぬこともない。

 ついでに第三巻には、盤古大神(バンコダイジン)〈塩長彦(シホナガヒコ)〉、
大自在天(ダイジザイテン)〈大国彦(オホクニヒコ)〉、
艮能金神(ウシトラノコンジン)〈国治立命(クニハルタチノミコト)〉
三神系の紛糾的経緯の大略を述べ、国祖の御隠退までの世界の状況、
神々の驚天動地の大活動を略述する考へであります。

読者諸氏の幸に御熟読あつて、それが霊界探求の一端ともならば、
口述者の目的は達せらるる次第であります。

 アゝ惟神霊幸倍坐世(カムナガラタマチハヘマセ)

 大正十年旧十月十日、午前十時十分
 於松雲閣、口述者識


 【註】

本巻において、国治立命(クニハルタチノミコト)、豊国姫命(トヨクニヒメノミコト)、
国大立命(クニヒロタチノミコト)、稚桜姫命(ワカザクラヒメノミコト)、
木花姫命(コノハナヒメノミコト)とあるは、神界の命により仮称したものであります。

しかし真の御神名は読んで見れば自然に判明することと思ひます。

『音惚花活気好@kakky』的『霊主体従 丑の巻 総説』分解(上)

2006年05月28日 21時38分10秒 | Weblog
平成十八(2006)年五月二十八日 旧五月二日(日)

 神界における神々の御服装につき、
大略を述べておく必要があらうと思ふ。

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神霊界の服装にも、流行というものがある様で、
筆者も『夢』の神霊界旅行の時には、
主に日本よりのいろんな服装を観た。

そういえば、西洋の時代劇映画をたくさんみているけれども、
何故か、西部劇風の服装や、西洋の騎士、貴族、王族や、
聖書系の服装を着た人々には、『夢』の中で出会った記憶が無い。

日本と同じ東洋でも、アジアの時代劇をよく見るけれども、
そうした服装がどうしても『夢』に出て来ないところを見ると、
やはり、『夢』で神霊界に入るのは、
脳と『夢』の仕組みを研究している学者が言う様に、
単に記憶の整理とか、
そういうことのために寝ている間に脳が働いているのを、
『夢』として記憶しているだけのことではないようだ。

もし、そうならば、観て感動したり、好きになった洋画の役者などが、
そのままの服装で『夢』に出て来ても好さそうなものだが、
筆者についてはそういうことはほとんどなかった。

唯一、ミュージシャンだけが、現代流行の服装で現れるくらいだ。

その中で、すでに他界していたのは一人だけで、
あとは今も生きている三人だが、
他の人は、まだ『夢』の中で見かけたことがない。

やはり、宗教家が説く様に、日本が天国に繋がっているというのは、
そういうことにも現れている様な気がするのだが、
何故か?というと、筆者が好きな洋画や日本の時代劇などは、
みな、アクションとかドンパチものばかりだから、
そういうものが天国に通じる神霊界に流行している筈もなく、
日本を介して筆者が入って行く霊界の天国には、
それがなくても不思議はない。

大好きな日本の侍でも、大活躍する世界中のヒーロー達も、
彼等は皆、地獄を天国化する為に命がけで働いているのであって、
それが、元々の天国に存在しないのは、むしろ当然かもしれない。

逆に、地獄に出かけた時は、筆者もヤットーをやって、
地獄の悪漢をたくさんやっつけたし、祈りの言葉で、
意味も無く襲いかかってくるそうした連中を退治したりもした。

地獄で亡者達に罰を与える鬼達も、
金棒の代わりにピストルを持っていたし、
服装も黒のスーツとサングラスで身を固めていて、
洋画の『マトリックス』に出て来るエージェントの様な恰好だった。

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一々神々の御服装に関して口述するのは大変に手間どるから、
概括的に述ぶれば、国治立命(クニハルタチノミコト)のごとき高貴の神は、
たいてい絹物にして、上衣(ウハギ)は紫の無地で、下衣(シタギ)が純白で、
中の衣服が紅(クレナイ)の色の無地である。

国大立命(クニヒロタチノミコト)は青色の無地の上衣に、中衣(ナカギ)は赤色(セキシヨク)、
下衣は白色の無地。

稚桜姫命(ワカザクラヒメノミコト)は、上衣は水色に種々の美(ウル)はしき模様があり、
たいていは上中下とも松や梅の模様のついた
十二単衣(ジフニヒトエ)の御服装である。

天使大八洲彦命(オホヤシマヒコノミコト)、大足彦(オホダルヒコ)のごときは、
上衣は黒色の無地に、中衣は赤色、下衣は白色の無地の絹の服である。

その他の神将は位によつて、
青、赤、緋(ヒ)、水色、白、黄、紺(コン)等、
いづれも無地服で、絹、麻、木綿等に区別されてゐる。

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天国の一番奥の高いところでは、神々は皆、裸でおられるそうだ。

そこから下るに従って、衣服で身を守る様になられるのである。

天国にもネットワークがあるのだが、
主神からの伝達事項が下々に拡がるにも、きちんとした連絡系統があり、
それを一目で見分けることについて、この服装が活用されている。

この連絡系統が必要な理由は、
勿論、渾沌として罪に満ちた地獄を天国化する為である。

地獄の隅々まで、主神の御意志が充ち満ちた時には、
神々の序列も薄くなり、平等意識も高まり、服装もまったく自由になれるし、
天国の一番奥の高いところの様に、何処を裸で歩いていても、
まったく安全に暮していられるのだが、
地獄的暴虐が残っている間は、服装は重要な防具なのだ。

国治立命は国常立尊であり、
この神が艮の金神として大本開祖出口直に筆先を降した。

わざわざ国治立命としているところから、
筆者はこれをバール神に対応させたものだと直感しているが、
この件については『みんなしあせになれプロジェクト日記』
『地上天国建設委員会の日記』でも充分書いて来たので、
後日機会があれば、再度書いてみようと思う。

国大立命は天祖大国常立尊の妻神が銀竜となって、
物質界のすべての生物を生み出した時に出来た月の精から生まれた、
天地の祖神直系の最初の人間姿の神様である。

国大立命の上衣の青色は、晴れ渡る空の色であって、
これがまったく至仁至愛(ミロク)の精神を顕わしている。

一方、中衣の赤は生命力を顕わしていて、霊の色である。
下着が白色であるというのは、純白ではなく、
クリーム色の様な微妙な色合いで、乳白色といった方がよいかもしれない。

国常立尊の紫色は、紫雲とか言う様に、夕焼けと朝焼けを象徴している。
普通一般的には、紫は最も高貴な色であるということになっていて、
これは青と赤が混ざった色である。

霊的にも結びの色であり、『霊界物語』も紫の玉と言われる様に、
最も尊く、力と権威がある色だ。

しかし、その力と権威が必要なわけは、
至仁至愛(ミロク)の世界が実現していないからなのだから、
罪と悪を救う為の力と権威なのである。

その中衣の紅も、赤とは違い、ちょっと紫がかった赤である。
赤の中に、青気の透明感が感じられるのが『紅』という色で、
とても宇宙的な色であるが、国大立命の青と赤の様に明確な色では無く、
少し暗い色である。

国大立命の青と赤と白は、自ら光沢を放つ様な色だが、
それは素材に絹を使っているから、この様に光を放つのである。

天国は、機(ハタ)の発信地であるから、糸を生み出す蚕業も盛んである。

全ての労働は、この機(ハタ)から来ており、
地獄を天国化する為の活動の全てを楽にする為の道具を作るのである。

その最も初めのものが衣服である。

聖書でも、最初エデンの園で、
善悪を知らずに裸で暮していたアダムとエバが、
主神からの戒めを破り、善悪を知る木の実をとって食べた後、
最初にやったのは、木陰に隠れて神から身を隠すことであり、
神に呼ばれて姿を顕わした時には、
無花果(イチヂク)の葉で腰を隠していた。

天国は、霊国の天使が、天国地獄の区別なく、
安心して活動する為に必要な道具を作っている所で、
それで労働のことを『はたらく』というのである。

神霊界の最高最奥部は、まったく安全で平和であり、
全てが充たされた瑞々しい場所なので、
身を守る為の一切の道具が必要無いから、
そこの神々も皆、全裸で安心して暮しておられるのだ。

稚桜姫命は、稚姫君命のことであり、大本開祖出口直の前身である。

大本開祖の時には、質素と地味を極端に好まれた様であり、
色も白を好まれた様であるけれど、
それもこの稚桜姫命時代の失敗と罪の償いに原因がある様だ。

大本開祖も前世では、娘らしく華やかな服装を好まれたのかと思うと、
何だか少し可愛らしくなって来るが、
実際、出口王仁三郎聖師に対しては、
いつも可愛らしいところを見せておられた様だ。

大八洲彦命以下の天使の神々は、黒、赤、白の絹物ということだが、
筆者でも『地上天国建設』の志に燃えている時は、
大概、黒の上衣を着る。

中衣を着る様な時は、秋から冬にかけてで、
知らず知らずに赤が入ったものを選んで着ているのだが、
下着だけは何故か、白を着ない。
黒のTシャツにガラのトランクスだ。

というのも、室内にいる時は、
これらを上衣の様に来て過ごしているからで、
白だと、裸でいるより恥ずかしい気がするのだ。

以下の神将等が着る、
青、赤、緋(ヒ)、水色、白、黄、紺(コン)等の無地服は、
絹、麻、木綿等に区別されて、階級が分りやすい様にされ、
比較的動き易い機能的なデザインがされている。

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 冠(カムリ)もいろいろ形があつて纓(エイ)の長短があり、
八王八頭神(ヤツワウヤツガシラガミ)以上の神々に用ゐられ、
それ以下の神司(カミガミ)は烏帽子(エボシ)を冠(カブ)り、
直衣(ヒタタレ)、狩衣(カリギヌ)。

婦神(フシン)はたいてい明衣(ミヤウエ)であつて、
青、赤、黄、白、紫などの色を用ゐられ、袴も色々と五色に分れてゐる。

また神将は闕腋(ケツテキ)に冠をつけ、残らず黒色の服である。

神卒(シンソツ)は一の字の笠を頭に戴き、裾を短くからげ、
手首、足首には紫の紐をもつて結び、
実に凛々(リリ)しき姿をしてをらるるのである。

委(クハ)しく述ぶれば際限がないが、
いま述べたのは国治立命が御隠退遊ばす以前の神々の御服装の大略である。

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ここまで分解したら、とても疲労したので、
一旦、睡眠したのだが、筆者はそこで一つの空きビルを与えられた

その屋上でギターなど弾いて過ごしていたら、
空に綺麗な虹が架かったので、それを撮影したいと思い、
下の階にビデオカメラをとりに行ったら、ごそごそ人が湧いて来て、
いろいろやりとりしているうちに眼が醒めたので、
また分解を再開した。

八王八頭神とは、黄金水の十二個の宝玉によって、
結局は滅び去った竹熊一派のあと、一端は鎮まった世界を、
十二個の国魂石で分割統治する為に配された神々のことである。

八王とは、十二個の国魂石を各一個ずつ授かった十二柱の神々で、
八頭とは、この十二柱の神々の直下に配された十二の神々である。

ちょうど王と宰相の様な関係だ。

即ち、この計二十四組以上の神々は、皆、冠をしておられたのだ。
その八王神の上には四天王的四大天使がおり、
その上には天使長があり、それが大八洲彦命であった。

その天使長の上に国祖 国常立尊があり、
更に天祖の神がおられるのである。

八王八頭神の下にあった神司は烏帽子を被り、
ちょうど七福神の様な恰好である。

筆者も、この服装を『夢』の中で着たことがあり、
この時、出口王仁三郎聖師が錦糸で編まれた直衣で現れ、
筆者に楽しい踊りを教えて下されたことがある。

筆者は鮮やかな青の直衣を着ていて、
平安朝式高烏帽子を被っていた。
奴袴(ヌハカマ)は白で、黒の沓を掃き、釣り具を背負って歩いて来て、
和室の一室に坐っていると、
絹の白地に錦糸で模様が描かれた直衣姿の王仁三郎聖師が現れ、

「こうやって踊るのや」

と笑顔で仰りながら踊るので、筆者も聖師に従って、
見よう見まねで踊っているうちに楽しく目覚めたのである。

王仁三郎聖師は、豊かな髪を結ってまとめて、
それをネットでまとめて烏帽子の様にしておられるので、
ちょっと見ると烏帽子を被っておられる様に見えるが、
実際にはそれは長い髪の塊なのだ。

以下の神司達については上記された通りであるが、
これらは皆、国常立尊時代の服装であり被りものである。

この頃は皆、霊主体従(ヒノモト)の神々であったが、
イスラエル十二支族が散り々々になった後の、
キリストの十二弟子の様なものである。

後世、ローマ法王によって統括されることになる、
カトリックに似ているのだが、ローマの配下に下らず、
独自の繁栄を遂げる八王八頭神もあった。

それが『万寿山』の神々である。

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 星移り、月換(カハ)るにつれ、神界の御服装はおひおひ変化し来たり、
現界の人々の礼装に酷似せる神服を纒(マト)はるる神司(カミ)も沢山に現はれ、
神使の最下たる八百万(ヤホヨロヅ)の金神(コンジン)天狗界にては、
今日流行の種々の服装で活動さるるやうになつてをる。

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天狗界は何度か肉体に生まれて来て、
人間離れした神業と呼ばれる様な各種技能を極めて、
その一つの能力が突出しているだけで、自分は神になったのだと、
慢心した所で精進が止まってしまった精霊が集まる所である。

現代でいうところの専門職とか、
『この道一筋』ということに極端に凝り固まると、
人間の修行を終えても、未だに肉体があると思い込んで、
肉体の限界を超越する様な職業的精進を続けているのが、
この天狗界の精霊達である。

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 また邪神界でもおのおの階級に応じて、
大神(オホカミ)と同一の服装を着用して化けてをるので、
霊眼で見ても一見その正邪に迷ふことがある。

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服装というのはそういうもので、見かけをごまかす道具にもなるから、
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の様に女装して敵地に潜り込み、
敵王を欺いて倒す様な軍略にも使えるのだ。

善神でもそういうことをするのであるから、
邪神の服装を責めるわけにもいかない。

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 ただ至善の神々は、
その御神体の包羅(ハウラ)せる霊衣(レイイ)は非常に厚くして、
かつ光沢強く眼を射るばかりなるに反し、邪神はその霊衣はなはだ薄くして、
光沢なきをもつて正邪を判別するぐらゐである。

しかるに八王大神(ヤツワウダイジン)とか、常世姫(トコヨヒメ)のごときは、
正神界の神々のごとく、霊衣も比較的に厚く、
また相当の光沢を有してをるので、一見してその判別に苦しむことがある。

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霊衣は、今でいうオーラの様なものか…

つまり、生き物なら誰でも持っているものだが、
霊感者がオーラが「ある」とか「ない」とか言っているのを聞くと、
ちょっと苦笑してしまう。

きっと彼等は、オーラが厚くて明るければ「ある」と言い、
薄くて暗ければ「ない」と言っているのだろうが、
そんなことは大きなお世話で、それを治してやる愛情も責任も無く、
無遠慮に口にするべきものではない。

そういうことを口にして、
無遠慮に相手を崇めたり、蹴落としたりするのは、
「つよいものがち「よわいものいじめ」のやり方であって、
邪神の部類に入る行いであると反省して、
自ら慎むべき行為である。

筆者もそうであるが、王仁三郎聖師でも、
相手の霊衣でその善悪正邪を見抜いていても、
縁あって出会ったからは、それをドンと受け入れて、
なるべく円満なつきあいをし、
どうしてもつきあいが耐えられない相手ならば、
高位の神々の御守護にお任せして、自然に実が落ちる様に、
別れの時が来るのを待つばかりである。

相手が離れて行く時もあり、自らそこを去ることになる時もあるが、
時節を待ちに待ってからのことならば、後々のことは大丈夫である。

八王大神というのは、八王八頭の神々に名前は似ているけれども、
まったくの別モノであって、霊界物語では邪神として登場する。

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『音惚花活気好@kakky』的『霊主体従 丑の巻 総説』分解(中)

2006年05月28日 21時36分48秒 | Weblog
 また自分が幽界を探険した時にも、
種々の色の服を着けてゐる精霊を目撃した。
これは罪の軽重によつて、色が別れてゐるのである。
しかし幽界にも亡者ばかりの霊魂がをるのではない。

現界に立働いてゐる生た人間の精霊も、
やはり幽界に霊籍をおいてをるものがある。

これらの人間は現界においても、幽界の苦痛が影響して、
日夜悲惨な生活を続けてをるものである。

これらの苦痛を免(マヌガ)るる方法は、現体のある間に神を信仰し、
善事を行ひ万民を助け、能(アタ)ふかぎりの社会的奉仕を務めて、
神の御恵(ミメグミ)を受け、その罪を洗ひ清めておかねばならぬ。

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現世というのは何事にも限界がある世界であり、
何もかもが思い通りになるということが、
いつまでも続くものでもない。

好きなことでも、己の欲求に従わずに、
ただただ社会的奉仕の様に、自己儀性的に行い続けるだけでは、
最終的には苦痛のみになって来るもので、
やはり、これにも期限というものがある。

つまり、幽界に蓄積された罪の洗い清めが出来た時には、
自然に、そうした善事もやりたくなって来るもので、
そこから先は、自身の欲求に従って、善事を行うことになるのだ。

もし、そこで、善事を一切やめてしまって、悪事ばかりを行う様になると、
再び、幽界に罪を貯えることになるので、
日々の悪事を『天津祝詞』によって洗い清めつつ、
自ら喜んで、積極的に善事を重ねる努力を重ねれば、
それが徳になって、自らの人生を豊かなものにして行くものである。

この『霊界物語学の日記』も、
今回の様に、筆者自身が喜んで当たれる内容の時は、
自然に字数も増えるのであるが、これは自身が喜んでやっているのである。

しかし、筆者自身、あまり弾まない内容の時には、
どうしても字数に反映して、あまり多くを語らなくなるのだが、
これも、幽界の罪滅ぼしの為の行為ではなく、
自らの積極的自由意志による善事であることの証しの様なものだ。

豊かさというのも、あまり急いで、
一度に徳を使い切ってしまうほどのものを受けてしまうと、
例えば、銀行に給料が振り込まれる度に、全額引き落としてしまって、
預貯金が一切残っていないのと同じで、あまり楽な暮しではない。

翌月の労働は、
また銀行に給与を振り込んでもらう為の労働になってしまって、
毎月、毎月、ギリギリの生活をしなければならなくなる。

賢く、忍耐力のある人は、
少なくとも最初の三か月分の給料は無駄遣いせずに貯えておいて、
四か月後くらいからは、お金の為の労働ではなく、
仕事の為の仕事が出来る様にしておく様なもので、
善事も徳を積んだり、罪を洗い清める為の善事ではなく、
善事の為の善事が出来て来る様にならないと、
なかなか『うれしうれしの勇んで暮す世の中』にはならないのである。

だから、神様の為にいくら働いても、なかなか暮しが楽にならない、
という様な時期が長く続いても、
それは神様の方で徳の蓄積をしてくださっているのだと、
満期になるのをじっと待って耐えておく方が得である。

面白いもので、欲しいものがあってもすぐに買わずに堪えていると、
最高のタイミングに、お買得価格で、それが手に入る様なことが、
後で必ず起きて来るものである。

場合によっては、捨ててあったものを拾って修繕するだけで、
後の活動が大変楽になる様な宝を得る場合もあるから、

「急がば回れ」

で、何事も、充分、機を練ることが大事である。

貯金は、上手な徳積の予行演習になるから、
貯金も気持ち一つで立派な御神行になるのである。

霊界の現世に最も近い中有界では、
現世で共に生活している人々に出会ったり、見かけることがよくある。

現世で仲が悪い人でも、中有界では仲が好かったり、
現世で出会ったことのない様な有名人と、親友の様にしていることや、
現世で仲良くしている人と、中有界で憎しみ合ったりしているこもあり、
吃驚することもしばしばある。

これは筆者の体験であるが、現世で一緒にバンドをやるつもりで、
仲良くしていた友人と歩いていると、山肌に白髪異様の神人が現れた。

この神人は、どちらかというと仙人の様な恰好で、
白い絹の様な袖の大きな衣を着て、腰に帯をして、木の杖を持ち、
いかにも映画に出て来る神様の様な姿で、白い長髪と白い長髭、
眼光鋭く、どちらかというと痩せ型の老人風だった。

その神人が杖で差す家に入ると、
その時、同じバイト先で働いていた女の子が現れて、
筆者の友人と仲良く話しているのを見ているうちに、
筆者が突然衝動的にその子の唇を奪うという吃驚する様な展開になり、
目覚めてからも、何度も神様に、

「せっかく神の道に入って、やっと前の恋で傷ついた心も癒えたのに、
 なんでまた、こんな試練の様なことを目の前に置くのか?
 彼女と自分は生きて行く世界がまったく違うのがわかっているのに、
 今はどうしても彼女を通らないといけないのですか?」

と問いに問うた上で、遂に意を決してラブレターをしたため、
ふられればそれで楽になると思って翌日手渡したら、
その後、結局、悪い感触ではなくて、
つかずはなれずの妙な関係が、割と楽しく続く様になってしまった。

意志は神の道と『みんなしあわせになれ』という理想と、
自身の音楽の方に向いていたが、衝動の部分が、彼女を求めるのが、
苦しい様な嬉しい様な日々の中で、筆者の霊的修行もどんどん進み、
人間各自との因縁関係というのが見える様になって来た。

こういう時、その恋愛が本物かどうか見分けるのに、
筆者なりの一つのパターンがある。

共を連れずに一人でやって来て、
安心して会話をすることが出来る相手が本物で、
男女に関わらず、周囲に共を連れて来る様なのは、
トラブルメーカーで、たとえうまくいっても後が続かないから、
ただの遊びであると思っておいた方がよい。

一人で来ても、まったく会話を楽しめない様な相手は、
避けておいた方が好い。
事務的に関わっていれば充分である。

合コンとかいう場で出会って出来上がるカップルは、
社会的見栄を満たす為に結ばれるのだから、
社会に対する見栄をはる必要がなくなると終わる場合が多い様だ。

その地場に拘束する為の鎹(カスガイ)になる様な出会いは、
何か御用があって結ばれるので、恋愛感情は淡白なものである。
いわゆる政略結婚の部類に入るものだが、それも男女の仕事の一つだ。

そういう場合に、現世の仲睦まじさとは相反するものが、
幽界で実現しているもので、
筆者の場合も、現世では、理性的に距離を置こうとしていても、
幽界の方では結ばれたくて仕方がない因縁があったのだ。

今、こうしてかなり時間と距離を置いていても、
時々、『夢』の中に婚約前の関係として現れて来るのだが、
当時の様に、新婚生活をしている様な『夢』を見なくなったのも、
ちょっと不思議であるけれども、ある意味気楽にもなった。

今は双方共に自由であるということの証でもあるから…

「近くて遠く、遠くて近いのが男女の仲」

男女の間には断崖絶壁の深い谷があって、
安全な橋が架かっている所で出会わないと、
ただ距離を置いてお互いに見合っているだけで結ばれない。

橋が架かっている所で出会っても、男がその橋を渡るのか、
女がその橋を渡るのか、双方にその橋を駆け寄って結ばれるのかで違う。

橋が無い所で出会っても、どちらかが橋が架かっている所を知っていれば、
どちらかが相手を待たせておいて、橋のあるところまで進むか戻るかして、
その橋を渡って会いに行き、そこで結ばれればいいが、
その分、どちらかがたくさん苦労をし、
どちらかが何があってもその場で待ち続けなければならなくなる。

肝心なのは結ばれてからどう暮すかだ。

出会うだけなら案外簡単である。

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 さて現界に生きてゐる人間の精霊を見ると、
現人(ゲンジン)と同形の幽体を持つてゐるが、亡者の精霊に比べると、
一見して生者と亡者の精霊の区別が、判然とついてくるものである。

生者の幽体〈精霊〉は、円(マル)い霊衣を身体一面に被(カブ)つてゐるが、
亡者の幽体は頭部は山形に尖り、三角形の霊衣を纒(マト)うてをる。
それも腰から上のみ霊衣を着し、腰以下には霊衣はない。
幽霊には足がないと俗間にいふのも、この理に基づくものである。

また徳高きものの精霊は、その霊衣きはめて厚く、大きく、
光沢強くして人を射るごとく、かつ、よく人を統御する能力を持つてゐる。

現代はかくの如き霊衣の立派な人間がすくないので、
大人物といはるるものができない。

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『世界平和の祈り』の五井先生の霊衣が映された写真は、
三重か四重の見事な円光になっている。

星の光が丸いのも、その星が体を持って生きている証拠である。

実際の星は楕円形だったり、いびつに山谷の凸凹があるのだが、
その光は円形になって、吾々の眼に届くのだ。

人間の肉体も大の字であるけれど、その霊衣は円形なのである。

慢心があると、その円形の霊位に角が生えて来る。
その姿が鬼に見えたり、天狗に見えたり、畜生の尻尾に見えて来るのである。

才気走ると鬼や天狗になり、下半身がだらしないと尻尾が生えたり、
逆にそこばかり凹んだりしてくる。

病気になると、この円形が崩れて患部が腫れたり山になったり、
壊れて凹んだりするので、それを見て霊視者はその人の病気を判断するのだ。

霊衣の厚さは個人的なものもあるけれど、
霊団といって、多くの先人達の霊が塊となって協助して来て、
その為に拡大する公的なものとがある。

その場合は、筆者が筆者でありながら、
王仁三郎聖師の功績を自身のことの様に語ったり、
その他の聖人、賢哲、偉人の功績を、自分がやった様に語る様になるのだ。

勿論、これは筆者の肉体を通じて、本人達がその功績を語っているので、
霊的には決して嘘ではなく、本当のことなのだが、
それを忘れている現世の人々からは、
とんでもない大法螺吹きに見えるものだ。

筆者も手間をかけられる時には、誰々がこう言ってるとか、
そんな注釈をつけるけれども、霊団の勢いが盛んな時には、
いちいちそんな注釈をつけずに彼等と一体になって語る様になる。

こういうことを自他一体の神行というので、
至仁至愛(ミロク)の世では当たり前のことになるのである。

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現代の人間はおひおひと霊衣が薄くなり、光沢は放射することなく、
あたかも邪神界の精霊の着てをる霊衣のごとく、
少しの権威もないやうになつて破れてをる。

大病人などを見ると、その霊衣は最も薄くなり、
頭部の霊衣は、やや山形になりかけてをるのも、
今まで沢山に見たことがある。

いつも大病人を見舞ふたびに、
その霊衣の厚薄(コウハク)と円角(エンカク)の程度によつて判断をくだすのであるが、
百発百中である。

なにほど名医が匙(サジ)を投げた大病人でも、その霊衣を見て、
厚くかつ光が存してをれば、その病人はかならず全快するのである。

これに反して天下の名医や、博士が、
生命(イノチ)は大丈夫だと断定した病人でも、その霊衣がやや三角形を呈したり、
紙のごとく薄くなつてゐたら、その病人は必ず死んでしまふものである。

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問題なのは、その霊視をした霊能力者に、
その薄くなったり、暗くなっている霊衣を修復する能力があるかどうか?
である。

勿論、王仁三郎聖師には、その能力があったから、
生かしておくべき人には、
不慮の死などによって定命を全う出来なかった精霊をつないで、
寿命を伸ばしてやったりしておられる。

これに神界からのお許しも必要だし、また本人の精霊が、
これを受諾するかどうかも関わって来るのだ。

今にも死にそうな病人に、
再び社会で働く意志があるかどうかを確認しないで勝手に寿命を伸ばすと、
あとで逆恨みされることもある。

何事も本人の意志が優先されるので、家族、
すなわち遺族の希望は二の次である。

生かしてやりたくても、神界の側で、どうしても連れて行く意志ならば、
引き止められないし、
同様に、本人が、もう昇天したい、といえば、これも止められない。

それでも強制的に死ぬのを止められるのは、
御用があるか、罰としてかのどちらかだ。

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 ゆゑに神徳ある人が鎮魂(チンコン)を拝授し、大神(オホカミ)に謝罪し、
天津祝詞(アマツノリト)の言霊(ゲンレイ)を円満清朗に奏上したならば、
たちまちその霊衣は厚さを増し、三角形は円形に立直り、
死亡を免(マヌガ)れるものである。

かくして救はれたる人は、神の大恩を忘れたときにおいて、
たちまち霊衣を神界より剥(ハ)ぎとられ、ただちに幽界に送られるものである。

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要するに、助けた人の顔に泥を塗ることになるから、
その時には、情容赦なく霊衣を剥ぎ取られるのだ。

現世では、これを恩義によって各種権利の延長とか剥奪で行うが、
信仰を捨てず神様に見捨てられていなければ、死ぬ様なことはない。

地獄を天国化する為に働いている者は、
こうした社会的裁きをたくさん受けるが、
何故か生き延びて、いけしゃあしゃあと御神行を続けるものだが、
この辺が、人意と神意の大きな違いである。

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 自分は数多(アマタ)の人に接してより、第一にこの霊衣の厚薄を調べてみるが、
信仰の徳によつて漸次にその厚みを加へ、
身体ますます強壮になつた人もあり、
また神に反対したり、人の妨害をしたりなどして、天授の霊衣を薄くし、
中には円相がやや山形に変化しつつある人も沢山実見した。

自分はさういふ人にむかつて、色々と親切に信仰の道を説いた。

されどそんな人にかぎつて神の道を疑ひ、
かへつて親切に思つて忠告すると心をひがまし、
逆にとつて大反対をするのが多いものである。

これを思へばどうしても霊魂(ミタマ)の因縁性来(シヤウライ)といふものは、
如何(イカン)ともすることが出来ないものとつくづく思ひます。

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筆者も、このことはたくさん体験して、よく知っている。

逆らう者は何処までも逆らう因縁で、救いようがない。

かえって無駄な説明をせず、距離を置いて淡白につきあっている方が、
双方の精神衛生上にも、身体的健康の為にも有益である。

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『音惚花活気好@kakky』的『霊主体従 丑の巻 総説』分解(下)

2006年05月28日 21時35分08秒 | Weblog
    ○

 大国治立尊(オホクニハルタチノミコト)と申し上げるときは、
大宇宙一切を御守護遊ばすときの御神名であり、
単に国治立尊(クニハルタチノミコト)と申し上げるときは、
大地球上の神霊界を守護さるるときの御神名である。

自分の口述中に二種の名称があるのは、この神理に基づいたものである。

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大国治立尊は大国常立尊であり、大六合常立命とも書く。
天之峯火夫(アマノミネヒヲ)の神とも申しあげ奉る。
大宇宙創造のΘ(ス)神であり、この神が国大立命(クニヒロタチノミコト)となり、
また神素盞嗚大神となって大救世主神となった。

大国常立尊は『六六六(ミロク)の大神』と申しあげ、
霊界物語に大国治立尊と記されるのは、
バール信仰に対する警鐘であると筆者は感じ取っている。

大宇宙に対して小宇宙である『大地球上の神霊界を守護さるる』
というのは、西洋天文学のいうところの、
『銀河系内一切の神霊界を守護さるる』という意味であると思う。

即ち『大地球=銀河系=小宇宙』なのだ。
しかし霊界物語の中には天文学上の銀河系のことを、
太陽系と記してあるので読む時に注意が必要である。

そしてその大地球の中に、
『地球=天文学上の太陽系=霊界物語上の地平』があり、
その中に吾々が住む小地球がある。

即ち国常立尊は、天文学上の銀河系一切を守護しておらるるのである。

そして勿論、大国常立尊は、
大宇宙に存在する銀河系の全てを守護するのだから、
その規模は、国常立尊の比ではないことは明白である。

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 また神様が人間姿となつて御活動になつたその始めは、
国大立命(クニヒロタチノミコト)、稚桜姫命(ワカザクラヒメノミコト)が最初であり、
稚桜姫命は日月の精を吸引し、
国祖(コクソ)の神(カミ)が気吹(イブキ)によつて生れたまひ、
国大立命は月の精より生れ出でたまうた人間姿(ニンゲンスガタ)の神様である。

それよりおひおひ神々(カミガミ)の水火(イキ)によりて生れたまひし神系と、
また天足彦(アダルヒコ)、胞場姫(エバヒメ)の人間の祖より生れいでたる人間との、
二種に区別があり、神の直接の水火より生れたる直系の人間と、
天足彦、胞場姫の系統より生れいでたる人間とは、
その性質において大変な相違がある。

天足彦、胞場姫といへども、元は大神(オホカミ)の直系より生れたのであれども、
世の初発にあたり、神命に背きたるその体主霊従(タイシユレイジユウ)の罪によつて、
人間に差別が自然にできたのである。

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国大立命は、天地創造の神々の直系の神様が肉体を持って現れた男神で、
稚桜姫命は、日月の精を吸引し、
国祖 国常立尊の息吹きによって生まれた女神である。

一方、元々は大神の直系から生まれながらも、
罪を犯したために神から人間に堕落したのが天足彦、胞場姫で、
地上一切の人間の祖となった。

人間姿の神を、人という。

この人の位置にありながら、
畜生身魂と交わった為に堕落したものを人間という。

その堕落した人間の子孫一切を人間というのであり、
この人間の罪を洗い浄めて、再び人に復活し、神に復活することを、
『救い』というのであり、これを統括する神様が『大救世主神』である。

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 されども何れの人種も、今日は九分九厘まで、みな体主霊従、
尊体卑心(ソンタイヒシン)の身魂(ミタマ)に堕落してゐるのであつて、
今日のところ神界より見たまふときは、甲乙を判別なし難く、
つひに人種平等の至当なるを叫ばるるに立いたつたのである。

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要するに、元は表面上同じでありなら、
その御霊の系統に明確な区別があった人類も、
遂にお互いが影響し合って、甲乙つけ難い堕落状態に陥り、
間違った意味で人種平等が叫ばれる様になってしまったのだ。

皆、堕落人間として平等である、ということで、
このままでは、世界が滅びることになるので、
この危機から世界を救う為に、堕落人間全ての改心を促す、
立替、立直しが企画されることになったのである。

皆を、神人の位置に復活した後の人種平等の実現こそ、
救世主の使命なのである。

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    ○

 盤古大神塩長彦(バンコダイジンシホナガヒコ)は日(ヒ)の大神(オホカミ)の直系にして、
太陽界より降誕したる神人(カミ)である。

日の大神の伊邪那岐命(イザナギノミコト)の御油断によりて、
手の俣(マタ)より潜(クグ)り出で、
現今の支那の北方に降りたる温厚無比の正神である。

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盤古大神塩長彦は本来日の大神の子孫として、
太陽界で活動すべき神でありながら、
日の大神 伊邪那岐命の傘下にあるのを快く思わなかった為、
その油断を狙って、現今地上の支那の北方に降りたという、
温厚無比の正神なのかどうなのかよくわからない神である。

過程はどうあれ、国祖 国常立尊追い落としを企む一派に乗せられ、
旗揚げした謀反の神輿にされた神様であるということは、
温厚過ぎるばかりで、あまり”おつむ”と心のよくない神であったと、
判断せざるを得ない様な気もするのだが、どうだろう?

盤古というのは、生命の木にも例えられる支那の神様らしいが、
それがもし、エデンの園の中央にあった、
『善悪を知る木』のことであったとしたら、
あまりいただけない話である。

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 また大自在天神大国彦(ダイジザイテンジンオホクニヒコ)は、
天王星(テンワウセイ)より地上に降臨したる豪勇の神人(カミ)である。

いづれもみな善神界の尊き神人(カミ)であつたが、
地上に永住されて永き歳月を経過するにしたがひ、
天足彦(アダルヒコ)、胞場姫(エバヒメ)の天命に背反せる結果、
体主霊従の妖気地上に充満し、
つひにはその妖気邪霊の悪竜、悪狐、邪鬼のために、
いつとなく憑依(ヒヨウイ)されたまひて、
悪神の行動を自然に採りたまふこととなつた。

それより地上の世界は混濁し、汚穢(ヲエ)の気みなぎり、
悪鬼羅刹の跛扈跳梁(バツコテウリヤウ)をたくましうする
俗悪世界と化してしまつた。

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この大自在天神大国彦もまた、故郷である天王星を捨てて、
わざわざ地上に降りて来るあたり、
その心に野心があるのを疑わざるを得ない。

天王星を天皇制と読み替える一派もあって、
我が国の皇室批判に利用していることもある様だが、
明治維新以降の天皇制には、
英国王朝の制度が取り入れられている様だから、
その辺からも、この天王星ということの持つ意味を、
洞察することが出来るかもしれない。

この神が降ったのは現今地上の北欧あたりだったそうである。

主に海賊の守神になり、英国に海軍を興したり、
南北アメリカ大陸征服のために渡米したりして、
いまや世界を完全制覇する勢いである。

盤古大神も大自在天神も、
共に天孫降臨神話を持っていてもおかしくない。
本来がこの様な来歴を持つのだから…

勿論、国祖 国常立尊も天孫であるのだが、
国祖は地上が創造された時からの神であるのに対し、
この両者は後から地上に降りて来て、国祖の後を襲ったのだから、
そこにはどんなにしても誠が成立しない。

その罪の一切の始まりが、

『天足彦(アダルヒコ)、胞場姫(エバヒメ)の天命に背反せる結果』

である、ということは、
どうしても至仁至愛(ミロク)の世を完成させるためには、
この因縁を解消しなければならないようである。

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 八王大神常世彦(ヤツワウダイジントコヨヒコ)は、
盤古大神の水火より出生したる神にして、常世(トコヨ)の国(クニ)に霊魂を留め、
常世姫(トコヨヒメ)は稚桜姫命(ワカザクラヒメノミコト)の娘にして、
八王大神の妃(キサキ)となり、八王大神の霊に感合し、
つひには八王大神以上の悪辣なる手段を用ゐ、
世界を我意のままに統轄せむとし、車輪の暴動を継続しつつ、
その霊はなほ現代にいたるも常世の国にとどまつて、
体主霊従的世界経綸(ケイリン)の策を計画してをる。

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八王大神常世彦の親は盤古大神であり、
その霊は常世の国、すなわち、いまの北米大陸に留まった。

そして稚桜姫命の娘である常世姫は八王大神常世彦の妻となり、
夫神の霊に感合して、その霊以上の悪辣なる手段を用いて、
世界を我意のままに統轄しようとし、
その霊はなお現代にいたるも常世の国にどとまって、
体主霊従的世界経綸の策を計画してをるというのだからたまらない。

こんな表現をすると、まるで現代のアメリカ人が、
みんな悪者であるかの様な言い方になってしまうので、
ちょっとは慎まねばならないかもしれない。

アメリカ人の中にも、霊主体従の人はいて、
信仰心厚く、常に世界の平和と人類の幸福ばかりを祈っている、
善意の人はいるのであるから、これを見逃すわけにはいかない。

日本人だって、現代の日本人に、
純粋なる日本人はほとんどいないというのだから、
そう考えれば、系統的には皆、同じ穴のムジナである。

常世の国も乗っ取られたけれども、
日本の国も、盤古大神の支那や常世の国にほとんど、
乗っ取られている様なものなのだ。

大本教の中にだって、
純粋にこの『霊界物語』の教えに忠実に生きられない様な、
悪の仕組みが入り込んで、今では本当の事がなかなか言えない状況だ。

神の御意志に忠実に行動する為では無くて、
人意に都合の好い様に、大本の名を利用して、
世の中を我意のままに統轄しようとしているのであるから、
これまたたまったものではないのである。

本当のことを学びたかったら、そういう人集りとか人気を離れて、
ひとり霊界物語を拝読して、神様から直接の内流を受けるしかない。

その上で、天意のまま、時節に従って全てと和して進むのみである。

善悪の立て別けは自ずからなされるけれども、
善ならば共に親しみ精進し、悪ならば、その改心を祈って、
寛大な心で待ちつつ、尚、親身につきあい続ける他に道はない。

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 ゆゑに常世姫の霊の憑依せる国の守護神は、
今になほその意志を実行せむと企ててをる。

八王大神常世彦には天足彦(アダルヒコ)、胞場姫(エバヒメ)の霊より生れたる
八頭八尾(ヤツガシラヤツヲ)の大蛇(オロチ)が憑依(ヒヨウイ)してこれを守護し、
常世姫には金毛九尾白面(キンマウキユウビハクメン)の悪狐憑依してこれを守護し、
大自在天(ダイジザイテン)には、六面八臀(ロクメンハツピ)の邪気憑依してこれを守護し、
ここに艮(ウシトラ)の金神(コンジン)国治立命(クニハルタチノミコト)の神系と
盤古大神(バンコダイジン)の系統と、大自在天(ダイジザイテン)の系統とが、
地上の霊界において三(ミ)つ巴(ドモエ)になつて
大活劇を演ぜらるるといふ霊界の珍しき物語である。

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ようやく八頭八尾の大蛇、金毛九尾白面の悪狐、
六面八臂の邪気、三大悪、各々の入れ物も決まり、
国治立尊の神系、盤古大神の系統、大自在天神の系統の
地上の霊界での三つ巴の大活劇が演ぜられることになるという、
この表現も、なかなか微妙な表現である。

三つ巴の大活劇は、決して三つ巴の大戦争に限定されない。

また国祖の系統のみ神系と記し、
他の二系は系統と記されていることにも、
深いこだわりがあることであろう。

国祖 国常立尊の神系だって、実をいえば、
大国常立尊の取次ぎなのだ。

決して天祖を無視して我意のままに活動出来るわけではない。

この『我意』は『統轄』と共に『竹は外国(害国)』に通ずるものだ。

国祖が御隠退のやむなきに至ったことも、
そこには今一つ天祖にすがる心が足らず、
何処か、我意を通した統轄をしているところがあったのが、
原因なのかも知れないのだ。

天祖から観たら、国祖の教育にとっては、
盤古大神も大自在天神も必要悪であるということになる。

盤古大神は体、大自在天神は力を象徴している。

勿論、国祖 国常立尊は霊を象徴しているのだ。

地上世界は、霊体が結んで神力を発揮するところである。

したがってこの三つは互いに無くてはならない存在として、
天祖の御意志で三角関係を保たされているのかもしれない。

そういうことならば、盤古大神も大自在天神も本来は正神である、
というここでの聖師自らによる弁護が意味を持って来る。

霊にとっては体は重い足枷の様な存在でもあり、
苦しみを耐え抜いて鍛え上げれば、
自由自在の力を発揮し得る神授の宝でもある。

しかし、その得た力を我意のママに使っては大きな社会悪にもなり得る。

そこで必要になって来るのは、謙譲の美徳を磨く信仰心である。

その中心には眼に見えぬ天祖が在る。

一国の王だとて、その肉体があるが故に、
その国を永遠に支配することは出来ない。

ましてや大統領や総理大臣、書記長などが、
一国を永遠に統轄することは出来ないのだ。

日本の戦国時代の武将、将軍も、如何に強くとも永遠の権力は無い。
必ずいつかは交代するのだ。

それをいちいち悲劇だなどとは思わないことである。

国祖の御退隠もまた然り。

なるべくしてなったことであろう。

栄枯盛衰は現世の常とするところである。

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 自分はここまで口述したとき、
何心なくかたはらに散乱せる大正日日新聞(タイシヨウニチニチシンブン)に眼をそそぐと、
今日はあたかも大正十年陰暦十月十日午前十時であることに気がついた。

霊界物語第二巻の口述ををはつた今日の吉日は、
松雲閣(シヨウウンカク)において御三体の大神様を始めて
新しき神床(カムドコ)に鎮祭することとなつてゐた。

これも何かの神界の御経綸の一端と思へば思へぬこともない。

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こういうことは筆者のまわりにもよく起こった。

それが自身の活気を促してくれたりもしたので、
かつては新暦、旧暦、時間など、
あらゆる数字や記号に心を配ったものだが、
今では、そんなことに依存しなくても、
ごく自然に神様のことがやれる様になった。

要するに、そういうことの確証が必要なのは、
他者への配慮だったり、または自身の不信に対する裏づけだからだ。

今、筆者がやっていることには、特に権威づけが必要無い。

最初から筆者自身の為の活動であり、
参考にしたい人は自由に参考にし、
あまり極端に過信しない様に頼んだ上でやっているのだから。

それでも、今でも、こういう数運にこだわろうと思えば、
神様の方で、いくらでもタイミングを合わせてくれるのだが、
筆者自身としては、自ら進んでそれをやる気がしないのだ。

聖師さんも、そういうことにとらわれない境地にいたから、

『これも何かの神界の御経綸の一端と思へば思へぬこともない。』

と、あまり力を入れずに、
サラッとやり過ごす様に仰っておられるのだ。

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 ついでに第三巻には、盤古大神(バンコダイジン)〈塩長彦(シホナガヒコ)〉、
大自在天(ダイジザイテン)〈大国彦(オホクニヒコ)〉、
艮能金神(ウシトラノコンジン)〈国治立命(クニハルタチノミコト)〉
三神系の紛糾的経緯の大略を述べ、国祖の御隠退までの世界の状況、
神々の驚天動地の大活動を略述する考へであります。

読者諸氏の幸に御熟読あつて、それが霊界探求の一端ともならば、
口述者の目的は達せらるる次第であります。

 アゝ惟神霊幸倍坐世(カムナガラタマチハヘマセ)

 大正十年旧十月十日、午前十時十分
 於松雲閣、口述者識

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次巻の予告までして、なかなか好調の御様子である。

ここでは『艮能金神』という風に、普通は『の』と平仮名で記す部分に、
『能』という漢字を当てておられるのが印象的だ。

『伊都能売』への伏線だろうか?

『読者諸氏の幸に御熟読あつて、それが霊界探求の一端ともならば、
 口述者の目的は達せらるる次第であります。』

この件については、少なくとも筆者において実現しております。

勿論、他にも大勢の皆さんが、同様の恩恵を頂いている御様子につき、
出口王仁三郎聖師殿、どうぞ御安心くださいませ。

嗚呼、惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)

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 【註】

本巻において、国治立命(クニハルタチノミコト)、豊国姫命(トヨクニヒメノミコト)、
国大立命(クニヒロタチノミコト)、稚桜姫命(ワカザクラヒメノミコト)、
木花姫命(コノハナヒメノミコト)とあるは、神界の命により仮称したものであります。

しかし真の御神名は読んで見れば自然に判明することと思ひます。

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国治立命は厳の御霊 国常立尊。

豊国姫命は瑞の御霊 豊雲野尊(トヨクモヌノミコト)。

国大立命は瑞の御霊 神素盞嗚尊。

稚桜姫命は厳の御霊の系統 稚姫君命。此花咲耶姫命。

木花姫命は瑞の御霊の神様 豊雲野尊の化身。

といのが、今の筆者の見解である。

もしかしたら、将来、見解に変化があるかもしれないので、
くれぐれも読者は過信なされぬ様にお願いいたします。

嗚呼、惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)


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霊界物語 第二巻 霊主体従 丑の巻 序

2006年05月21日 22時40分10秒 | Weblog
 本書は王仁(ワタシ)が明治三十一年旧如月(キサラギ)九日より、
同月十五日にいたる前後一週間の荒行(アラギヤウ)を神界より命ぜられ、
帰宅後また一週間床縛(トコシバ)りの修業を命ぜられ、
その間に王仁(ワタシ)の霊魂は霊界に遊び、
種々幽界神界の消息を実見せしめられたる物語であります。

すべて霊界にては時間空間を超越し、遠近大小明暗の区別なく、
古今東西の霊界の出来事はいづれも平面的に霊眼に映じますので、
その糸口を見付け、
なるべく読者の了解し易からむことを主眼として口述いたしました。

 霊界の消息に通ぜざる人士は、私の『霊界物語』を読んで、
子供だましのおとぎ話と笑はれるでせう。
ドンキホーテ式の滑稽な物語と嘲(アザケ)る方もありませう。
中には一篇の夢物語として顧(カヘリ)みない方もあるでせう。
また偶意的教訓談と思ふ方もありませう。

しかし私は何と批判されてもよろしい。
要は一度でも読んでいただきまして、霊界の一部の消息を窺(ウカガ)ひ、
神々の活動を幾分なりと了解して下されば、
それで私の口述の目的は達するのであります。

 本書の述ぶるところは概してシオン山攻撃の神戦であつて、
国祖(コクソ)の大神(オホカミ)が天地の律法を制定したまひ、
第一に稚桜姫命(ワカザクラヒメノミコト)の天則違反の罪を犯し
幽界に神退(カムヤラ)ひに退(ヤラ)はれたまへる、
経緯(イキサツ)を述べたのであります。

本書を信用されない方は、
一つのおとぎ話か拙(マヅ)い小説として読んで下さい。

これを読んで幾分なりとも、
精神上の立替立直(タテカヘタテナホ)しのできる方々があれば、
王仁(ワタシ)としては望外の幸(サイハヒ)であります。

 『三千世界一度に開く梅の花。
  艮(ウシトラ)の金神(コンジン)の世になりたぞよ。
  須弥仙山(シユミセンザン)に腰を掛け、鬼門(キモン)の金神(コンジン)、守るぞよ』

との神示は、神世開基(ヨハネ)の身魂(ミタマ)ともいふべき教祖に帰神された
最初の艮(ウシトラ)の金神様(コンジンサマ)が、救世のための一大獅子吼(シシク)であつた。

アヽ何たる雄大にして、荘厳なる神言でありませうか。

『三千世界一度に開(ヒラ)く』とは、宇宙万有一切の物に活生命を与へ、
世界のあらゆる生物に、安心立命の神鍵(シンケン)を授(サヅ)けたまへる
一大慈言でありますまいか。

 口述者はいつも此の神言を読む度(タビ)ごとに、
無限絶対、無始無終の大原因神(オホモトガミ)の洪大なる御経綸(ケイリン)と、
その抱負(ハウフ)の雄偉にして、なんとなく吾人が心の海面に、
真如の月の光り輝き、慈悲の太陽の宇内(ウダイ)を一斉に公平に照臨したまひ、
万界の暗(ヤミ)を晴らしたまふやうな心持になるのであります。

 そして、『三千世界一度に開く』と宇宙の経綸を竪に、
しかと完全に言ひ表はし、
句の終りにいたつて『梅の花』とつづめたるところ、
あたかも白扇(ハクセン)を拡げて涼風(リヤウフウ)を起し、
梅の花の小さき要(カナメ)をもつて之(コレ)を統一したる、
至大無外、至小無内の神権発動の真相を説明したまひしところ、
到底智者、学者などの企(クハダ)て及ぶべきところではない。

 またその次に『須弥仙山に腰をかけ、艮の金神守るぞよ』との神示がある。
アヽこれまたなんたる偉大なる神格の表現であらうか。
なんたる大名文であらうか。到底人心小智の企及(キキフ)すべきところではない。

そのほか、大神の帰神(キシン)の産物としては、
三千世界いはゆる神界、幽界、現界にたいし、
神祇(シンギ)はさらなり、諸仏、各人類にいたるまで
大慈の神心をもつて警告を与へ、将来を顕示して、懇切いたらざるはなく、
実に古今にその類例を絶つてゐる。

 かかる尊(タフト)き大神の神示は、
俗人の容易に解し難きはむしろ当然の理にして、
したがつて誤解を生じ易きところ、口述者は常にこれを患(ウレ)ひ、
おほけなくも神諭(シンユ)の一端をも解釈をほどこし、
大神の大御心の、那辺(ナヘン)に存するやを明らかに示したく、
思ひ煩(ワヅラ)ふことほとんど前後二十三年間の久しきにわたつた。

されど神界にては、その発表を許したまはざりしため、
今時まで御神諭の文章の意義については、
一言半句も説明したことは無かつたのであります。

 しかるに本年の旧九月八日にいたつて、
突然神命は口述者の身魂(ミタマ)に降り、
いよいよ明治三十一年の如月(キサラギ)に、
『神より開示しおきたる霊界の消息を発表せよ』との神教に接しましたので、
二十四年間わが胸中に蓄蔵せる霊界(レイカイ)の物語(モノガタリ)を
発表する決心を定めました。

しかるに口述者は、本春以来眼を病み、頭脳を痛めてより、
執筆の自由を有せず、かつ強(シヒ)て執筆せむとすれば、
たちまち眼と頭部に痛苦を覚え如何(イカン)ともすること能(アタ)はず、
殆んどその取扱ひについて非常に心神を悩めてゐたのであります。

その神教降下ありて後、十日を過ぎし十八日の朝にいたり、神教ありて

『汝(ナンヂ)は執筆するを要せず、神は汝の口を藉(カ)りて口述すべければ、
 外山豊二(トヤマトヨジ)、加藤明子(カトウハルコ)、桜井重雄(サクライシゲオ)、
 谷口正治(タニグチマサハル)の四人を招き、
 汝の口より出づるところの神言を筆録せしめよ』

とのことでありました。

 そこで自分はいよいよ意を決し、
並松(ナミマツ)の松雲閣(シヨウウンカク)に隠棲(インセイ)して霊媒者(レイバイシヤ)となり、
神示を口伝(クチヅタ)へすることになつたのであります。

二十四年間心に秘めたる霊界の消息も、

 いよいよ開く時津風(トキツカゼ)、三千世界の梅の花、
 薫(カヲ)る常磐(トキハ)の松の代の、神の経綸(シグミ)の開け口、

開いた口が閉(スボ)まらぬやうな、不思議な物語り、

 夢かうつつか幻か、神のしらせか、白瀬川(シラセガハ)、
 下は音無瀬(オトナセ)由良(ユラ)の川(カハ)、

和知川(ワチガハ)、上林川(カンバヤシガハ)の清流静かに流れ、

 その中央の小雲川(コクモガハ)、並木(ナミキ)の老松(ラウシヨウ)川(カハ)の辺(ヘ)に
 影を浸(ヒタ)して立ならぶ、流れも清く、風清く、
 本宮山(ホングウヤマ)の麓(フモト)なる、

並松に、

 新に建ちし松雲閣 書斎の間にて五人連れ、
 口から語る、筆を執る、五人が活気凛々(リンリン)として、

神示のままを口述発表することとなつたのであります。

 大正十年十一月、旧十月九日
 於松雲閣、瑞月出口王仁三郎誌

『音惚花活気好@kakky』的『第二巻 霊主体従 丑の巻 序』分解(上)

2006年05月21日 22時38分50秒 | Weblog
平成十八(2006)年五月二十一日 旧四月二十四日(日)

 本書は王仁(ワタシ)が明治三十一年旧如月(キサラギ)九日より、
同月十五日にいたる前後一週間の荒行(アラギヤウ)を神界より命ぜられ、
帰宅後また一週間床縛(トコシバ)りの修業を命ぜられ、
その間に王仁(ワタシ)の霊魂は霊界に遊び、
種々幽界神界の消息を実見せしめられたる物語であります。

すべて霊界にては時間空間を超越し、遠近大小明暗の区別なく、
古今東西の霊界の出来事はいづれも平面的に霊眼に映じますので、
その糸口を見付け、
なるべく読者の了解し易からむことを主眼として口述いたしました。

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『如月』というのは『二月』のことである。

そして神秘に関することは全て陰暦に記され、
実地に関することは陽暦にて記される傾向があるので、
この如月九日というのは旧二月九日のことであると考えるべきだろう。

霊界物語 第一巻 霊主体従 子の巻 においては、出口王仁三郎聖師が、
霊山高熊山に入山して神界修行に入られたところから、
霊界での見聞と神界での善悪の戦闘の様子が語られた。

本、第二巻 霊主体重 丑の巻 からは、更に詳細な物語が記される。

筆者が一生を通じて得た霊界の体験も、
ほとんどがここにある様に夢中のうちに行われたが、
二十歳になってからは、実際に霊界が現世に影響を与えていることを、
実生活を通じて、各種断片的に実体験して来た。

それらの体験も、すべてこの『霊界物語』を拝読するための
予習的体験であったことを、目から鱗が落ちる様に感動的に知る事が出来た。

故に、筆者は、出口王仁三郎聖師が霊界物語の中に示されたことを、
一字一句たりとも疑うことが出来なくなったのであるが、
これと同じことを、何の体験もない方々に御理解頂くことは、
まったく不可能な事であると確信している。

したがって、この『霊界物語学の日記』も、
何処までも、筆者の主体的な視点を中心に記してあるのみであって、
実体験のない方々に対して、一切理解を強要する意志はないのである。

同種同様の体験をしたことがある方々ならば、
おそらく筆者の日記を参考にしなくとも、
各自なりに霊界物語を理解しているに違いない。

この日記は、先ず、筆者自身の為のものである。
その上で、誰かが、この日記から何かをヒントにして、
新たな発見をする可能性も否定しないのだ。

筆者の体験では、霊夢や神夢で見聞したことが、
そっくりそのまま現世に実現したことはない。

けれども、それらの見聞があったおかげで、
現世で実現したことの意味を覚ることが出来たことは数知れない。

ここで聖師さんが仰ることを現代風に解説するならば、

『すべて霊界にては時間空間を超越し、遠近大小明暗の区別なく、
 古今東西の霊界の出来事はいづれも平面的に霊眼に映じますので、
 その糸口を見付け、
 なるべく読者の了解し易からむことを主眼として口述いたしました。』

ということは、ちょうどパソコンの画像ソフトで使用される、
幾重にも重ねられたレイヤーの履歴を、平面的に統合された画面から分解し、
解読して、読者にわかりやすい様に口述した、ということと同様である。

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 霊界の消息に通ぜざる人士は、私の『霊界物語』を読んで、
子供だましのおとぎ話と笑はれるでせう。
ドンキホーテ式の滑稽な物語と嘲(アザケ)る方もありませう。
中には一篇の夢物語として顧(カヘリ)みない方もあるでせう。
また偶意的教訓談と思ふ方もありませう。

しかし私は何と批判されてもよろしい。
要は一度でも読んでいただきまして、霊界の一部の消息を窺(ウカガ)ひ、
神々の活動を幾分なりと了解して下されば、
それで私の口述の目的は達するのであります。

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これは筆者が盛んに続けて来たことのお手本ともいうべきことで、
先ずは筆者自身が、覚り得たことをテキスト化し、
またWEB上に公開しさえすれば、筆者自身の救いになるわけで、
それによって誰かが大いなる覚りを得ることもあり、
また、一笑にふして離反することもあってよいのだ。

百人一様の理解を得る必要など全くないのである。

百人百様の理解であり、無理解であれば、
それで筆者の目的も十分に達するのだ。

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 本書の述ぶるところは概してシオン山攻撃の神戦であつて、
国祖(コクソ)の大神(オホカミ)が天地の律法を制定したまひ、
第一に稚桜姫命(ワカザクラヒメノミコト)の天則違反の罪を犯し
幽界に神退(カムヤラ)ひに退(ヤラ)はれたまへる、
経緯(イキサツ)を述べたのであります。

本書を信用されない方は、
一つのおとぎ話か拙(マヅ)い小説として読んで下さい。

これを読んで幾分なりとも、
精神上の立替立直(タテカヘタテナホ)しのできる方々があれば、
王仁(ワタシ)としては望外の幸(サイハヒ)であります。

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仏教にも、

「一人出家すれば九族救われる」

という様に、この霊界物語を通じて、
一人でも精神上の立替立直しができる人があれば、
それを縁にして、どれだけ多くの縁者が救われることになるのか、
図り知れないのだ。

勿論、筆者のこの『霊界物語学の日記』にしても、
その可能性は充分に秘めているのである。

筆者が、一つの見解を示したことにより、
これに同意する者、反対する者、まったく無縁の者など、
たくさんの新たな流れが出来、また波紋が生まれることになり、
これが大宇宙の進展にとって、大いなる影響を与えることになるのは、
確かなことなのである。

円球の中心は、電子顕微鏡で観る事も不可能な、
極微小の一点であるかもしれないが、
この中心の動きに連動して、その円球全体が動くことになるのである。

それを思えば、この無限の大宇宙の中で、たった一人の人間が、
精神上の立替立直しを実現したならば、
大宇宙に対して大きな影響を持つことになるのは間違いないことなのだ。

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 『三千世界一度に開く梅の花。
  艮(ウシトラ)の金神(コンジン)の世になりたぞよ。
  須弥仙山(シユミセンザン)に腰を掛け、鬼門(キモン)の金神(コンジン)、守るぞよ』

との神示は、神世開基(ヨハネ)の身魂(ミタマ)ともいふべき教祖に帰神された
最初の艮(ウシトラ)の金神様(コンジンサマ)が、救世のための一大獅子吼(シシク)であつた。

アヽ何たる雄大にして、荘厳なる神言でありませうか。

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これもつまり、鉄壁の城塞に開いた蟻の一穴ともいうべきもので、
ほんの小さな覚りも、三千世界を一度に開くほどの覚りであるという、
大真理の堂々たる宣言なのだ。

たとえば織田信長の天下統一は、
実際には三百年以上も経った現代に成就したのであるが、
織田信長が立ち上がった時には、既にこのことが出来た様なものだったのだ。

即ち、艮の金神が、この大獅子吼を発した時、
既に三千世界は一度に開いた梅の花も同然だったのである。

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『三千世界一度に開(ヒラ)く』とは、宇宙万有一切の物に活生命を与へ、
世界のあらゆる生物に、安心立命の神鍵(シンケン)を授(サヅ)けたまへる
一大慈言でありますまいか。

 口述者はいつも此の神言を読む度(タビ)ごとに、
無限絶対、無始無終の大原因神(オホモトガミ)の洪大なる御経綸(ケイリン)と、
その抱負(ハウフ)の雄偉にして、なんとなく吾人が心の海面に、
真如の月の光り輝き、慈悲の太陽の宇内(ウダイ)を一斉に公平に照臨したまひ、
万界の暗(ヤミ)を晴らしたまふやうな心持になるのであります。

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つまり世界の未来は明るいということである。

ここで興味深いのは、

 『無限絶対、無始無終の大原因神(オホモトガミ)』

という記述だ。

『無』の文字が三つある。

『無』は即ち数字の『六』でもあり、
『無無無』とは『六六六』を意味するものである。

新約聖書のヨハネの黙示録には『獣の数、六百六十六』というのがある。

これは『六六六』すなわち『至仁至愛(ミロク)』の大神の邪魔をする、
偽者共『六百六十六匹の獣』のことを顕わしている。

この様に、真の六六六(ミロク)の大神の名が、
ナザレのイエスの神行失敗による十字架刑以降、悪魔に奪われた為、
釈迦の予言にもある様に、五十六億七千万年という数にかけて、
『五六七(ミロク)』の大神として活動を始められたのが、
この『霊界物語』なのである。

王仁三郎聖師のところには『五六七大神』として現れたこの神は、
更に御霊をお別けになり、
『七四十一大神(ナナシトオイツオホカミ)』として筆者に現れたのだ。

その意味は『名無統一・名成統一・幸成終始』ということであり、
ひらたくいうと、

『みんな七(ナ)か四(ヨ)くしあわせ(十一)に』

ということであり、

『みんなしあわせになれ』

という『無限絶対、無始無終の大原因神(オホモトガミ)』の御心そのままの、
大宇宙の活気溢れる誠の活言霊である。

『名無しの神』というのは、
アダムの神、ノアの神、アブラハムの神、ヤコブの神、イエスの神である。

『十一』とは『終始』ということであり、聖書でいうとこころの、
『オメガでありアルファである神』ということであり、
大本でいうところの『艮の金神・坤の金神』のことである。

『艮の金神・坤の金神』は夫婦一対の金神であるから、
天国の法則にならい夫である『艮の金神』の名に統一されて総称される。

筆者はこの二日の間に、たまたま、
洋画の『天地創造』『十戒』を再び観ることになったが、
思えばこれも『名無の神』のお導きであったのだろう。

出口直開祖には『艮の金神』と現れ、
出口王仁三郎開祖には『神素盞嗚大神』と現れ、
筆者には『七四十一大神』として現れたのである。

これすべて各自の御霊の因縁生来によるところであり、
各自に一つしかないといわれる指紋の様なものであって、
他用不可能なるものなのだ。

神素盞嗚大神、守り給え、幸倍へ給え、

嗚呼、惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)

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『音惚花活気好@kakky』的『第二巻 霊主体従 丑の巻 序』分解(下)

2006年05月21日 22時35分28秒 | Weblog
 そして、『三千世界一度に開く』と宇宙の経綸を竪に、
しかと完全に言ひ表はし、
句の終りにいたつて『梅の花』とつづめたるところ、
あたかも白扇(ハクセン)を拡げて涼風(リヤウフウ)を起し、
梅の花の小さき要(カナメ)をもつて之(コレ)を統一したる、
至大無外、至小無内の神権発動の真相を説明したまひしところ、
到底智者、学者などの企(クハダ)て及ぶべきところではない。

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要するに、筆者の述べるところの『円球の中心』こそ、
この『扇の要』である。

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 またその次に『須弥仙山に腰をかけ、艮の金神守るぞよ』との神示がある。
アヽこれまたなんたる偉大なる神格の表現であらうか。
なんたる大名文であらうか。到底人心小智の企及(キキフ)すべきところではない。

そのほか、大神の帰神(キシン)の産物としては、
三千世界いはゆる神界、幽界、現界にたいし、
神祇(シンギ)はさらなり、諸仏、各人類にいたるまで
大慈の神心をもつて警告を与へ、将来を顕示して、懇切いたらざるはなく、
実に古今にその類例を絶つてゐる。

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須弥仙山といえば、神話上の大霊山であり、大宇宙一の巨峰であるのだが、
艮の金神は、これに腰掛けるという巨漢なのだ。

到底、地球上の塵にも等しい人智小覚の及ぶべきものではない。

『神祇』の別は、『神』は天津神、
『祇』は国津神に相当すると理解している。

また『神』は、まったくの霊的存在であるのに対し、
『祇』は、一度以上、人間に生まれたことがある御先祖様である。

更に『仏』というのは、人間の修行を終えた解脱者であり、
人類とは『菩薩』クラスの活動家である。

外見上は人間であっても、身魂が畜生以下である場合は、
この菩薩クラスの人類とは言い難いものがある。

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 かかる尊(タフト)き大神の神示は、
俗人の容易に解し難きはむしろ当然の理にして、
したがつて誤解を生じ易きところ、口述者は常にこれを患(ウレ)ひ、
おほけなくも神諭(シンユ)の一端をも解釈をほどこし、
大神の大御心の、那辺(ナヘン)に存するやを明らかに示したく、
思ひ煩(ワヅラ)ふことほとんど前後二十三年間の久しきにわたつた。

されど神界にては、その発表を許したまはざりしため、
今時まで御神諭の文章の意義については、
一言半句も説明したことは無かつたのであります。

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筆者も、出口王仁三郎聖師が見聞した全てを了解し得たなどとは、
決して思っていない。

しかし、大神の愛と赦しとお裁きの一端に触れることは幾度もあった。

そのわずかな体験からも、出口王仁三郎聖師の述べるところから、
大霊界の真相を垣間見ることは出来た。

この『霊界物語学の日記』は、そんな筆者の血と汗と涙と、
喜びと感動と笑いの結晶である。

そして現代においては、これについて素直に公表することを、
大神より許されたることは、望外の幸運であるというより他に言葉がない。

世界人類が平和でありますように

みんなしあわせになれ

嗚呼、惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)

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 しかるに本年の旧九月八日にいたつて、
突然神命は口述者の身魂(ミタマ)に降り、
いよいよ明治三十一年の如月(キサラギ)に、
『神より開示しおきたる霊界の消息を発表せよ』との神教に接しましたので、
二十四年間わが胸中に蓄蔵せる霊界(レイカイ)の物語(モノガタリ)を
発表する決心を定めました。

しかるに口述者は、本春以来眼を病み、頭脳を痛めてより、
執筆の自由を有せず、かつ強(シヒ)て執筆せむとすれば、
たちまち眼と頭部に痛苦を覚え如何(イカン)ともすること能(アタ)はず、
殆んどその取扱ひについて非常に心神を悩めてゐたのであります。

その神教降下ありて後、十日を過ぎし十八日の朝にいたり、神教ありて

『汝(ナンヂ)は執筆するを要せず、神は汝の口を藉(カ)りて口述すべければ、
 外山豊二(トヤマトヨジ)、加藤明子(カトウハルコ)、桜井重雄(サクライシゲオ)、
 谷口正治(タニグチマサハル)の四人を招き、
 汝の口より出づるところの神言を筆録せしめよ』

とのことでありました。

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筆者は出口王仁三郎聖師に比べて、何と気楽な境遇であろうか。

弟子を持つ必要もなく、社会と直接の対決をする必要もない。

ただただ趣味的に、この様に感じたままをブログに、
日記の様に書き込んでさえいればよいのだ。

しかも『霊界物語』も、現代ではテキスト化され、
その使用に関する著作権もフリーな時代に活動出来るとは、
なんとした好運であろう。

かえすがえすも、

惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)

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 そこで自分はいよいよ意を決し、
並松(ナミマツ)の松雲閣(シヨウウンカク)に隠棲(インセイ)して霊媒者(レイバイシヤ)となり、
神示を口伝(クチヅタ)へすることになつたのであります。

二十四年間心に秘めたる霊界の消息も、

 いよいよ開く時津風(トキツカゼ)、三千世界の梅の花、
 薫(カヲ)る常磐(トキハ)の松の代の、神の経綸(シグミ)の開け口、

開いた口が閉(スボ)まらぬやうな、不思議な物語り、

 夢かうつつか幻か、神のしらせか、白瀬川(シラセガハ)、
 下は音無瀬(オトナセ)由良(ユラ)の川(カハ)、

和知川(ワチガハ)、上林川(カンバヤシガハ)の清流静かに流れ、

 その中央の小雲川(コクモガハ)、並木(ナミキ)の老松(ラウシヨウ)川(カハ)の辺(ヘ)に
 影を浸(ヒタ)して立ならぶ、流れも清く、風清く、
 本宮山(ホングウヤマ)の麓(フモト)なる、

並松に、

 新に建ちし松雲閣 書斎の間にて五人連れ、
 口から語る、筆を執る、五人が活気凛々(リンリン)として、

神示のままを口述発表することとなつたのであります。

 大正十年十一月、旧十月九日
 於松雲閣、瑞月出口王仁三郎誌

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ここに記されていることは『大本神諭』を拝したことのある人には、
懐かしい言葉のオンパレードだろう。

要するに神様のメッセージは、大体において、あまりに平凡で、
ごくごく自然なので、ぼさっとしていれば気がつかない様な、
とても当たり前の日常の中に満ち溢れているから、
その中に静かに穏やかに楽しく寝転んでいるだけで、
わかる人にはわかる様になっているのだよ。

それを信頼出来る五人の仲間に、寝ながら語るけれど、
その表面上の気楽さに油断して、肝心なことを見落とす者は見落とせよ、
それもまた御神意なのだ。

各自なりに実になるメッセージを受け取ることが出来たなら、
こんなに好運なことはない。

感謝して、出口王仁三郎聖師と共に、静かに穏やかに楽しく、
至仁至愛(ミロク)の懐に過ごそうぞ。

…ということである。

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第50章 死海(シカイ)の出現 (50)

2006年05月15日 00時00分49秒 | Weblog
 鬼熊(オニクマ)、鬼姫(オニヒメ)は竹熊(タケクマ)との戦ひに敗れ、
ウラル山およびバイカル湖の悪鬼邪霊となり、一時は其の影を潜め、
ために竜宮城はやや安静になつてきた。

 国常立尊(クニトコタチノミコト)は大八洲彦命(オホヤシマヒコノミコト)および
稚姫君命(ワカヒメギミノミコト)の功績を賞し、
ここに霊国(レイゴク)天使の神位を授けたまうた。

さても竹熊は高杉別(タカスギワケ)、
森鷹彦(モリタカヒコ)の変心に恨(ウラ)みを呑(ノ)み、
いかにもしてふたりを亡ぼし仇(アダ)を報(ハウ)ぜむと企てた。
ついては第一に又もや天使大八洲彦命を滅ぼすの必要を感じたのである。

 今や竹熊はエデンの城塞を回復し、中裂彦(ナカサキヒコ)、
大虎彦(オホトラヒコ)を部将とし、牛熊(ウシクマ)、
牛姫(ウシヒメ)を参謀として再び事を挙げむとし、
鬼城山(キジヤウザン)に割拠せる木常姫(コツネヒメ)の応援軍を必要とした。

木常姫は魔鬼彦(マキヒコ)、鷹姫(タカヒメ)、松山彦(マツヤマヒコ)らの部将を督(トク)し、
前後より天使大八洲彦命を攻撃せむと計画を回らしつつあつた。

 大八洲彦命は猿飛彦(サルトビヒコ)、菊姫(キクヒメ)の密告により竹熊、
木常姫の反逆的挙兵の消息を知り、竜宮城は、花照彦(ハナテルヒコ)、
花照姫(ハナテルヒメ)、香川彦(カガハヒコ)、速国彦(ハヤクニヒコ)、戸山彦(トヤマヒコ)、
佐倉彦(サクラヒコ)の部将をして城の各門を守らしめた。

もはや後顧の憂ひなければ、ここに大八洲彦命は高杉別、森鷹彦、
時代彦(トキヨヒコ)の部将とともに神命を奉じて、シオン山に向つて出発した。

この用務は大神の神勅を諸天神へ報告のためであつた。

諸天神は命の報告を聞き、天軍を起して竹熊、
木常姫の暴逆を懲(コラ)すの神策を定めたまうた。

時しも天上より天使天明彦命(アマアカリヒコノミコト)あまたの天軍を従へ、
シオン山頂の高原に下り、大八洲彦命に向ひ、

 『危機一髪の場合は天軍の応援をなさむ、されど竹熊、
  木常姫の魔軍は決して恐(オソ)るるに足らず』

とて金色(コンジキ)の頭槌(クブツチ)をもつて地上を打ちたまへば、
シオン山の地上より瑞気(ズイキ)顕はれ
天に舞ひ上り再び大八洲彦命の前に降下した。
これを頭槌の玉といふ。

 かくして三個の玉を鳴り出で給ひ、

「この精霊(ミタマ)をもつて魔軍を掃蕩せよ」

との言葉とともに、
天明彦命は群神を率(ヒキ)ゐて天使は天に還らせたまうた。

大八洲彦命は天を拝し地に伏して、神恩の洪大無辺なるに感謝された。

 竹熊、木常姫は全力を尽して前後左右より竜宮城を取り囲んだ。
勇猛なる香川彦以下の神司(カミガミ)は全力を挙げて之(コレ)を撃退し、
押し寄する敵の魔軍は或ひは傷つき或ひは倒れ、全軍の三分の一を失つた。

時に探女(サグメ)あり、

「天使大八洲彦命は、シオン山に在(ア)り」

と密告した。

竹熊、木常姫は時を移さず、黒雲を起し風を呼び、
シオン山の空をめがけて驀地(マツシグラ)に攻め寄せた。

 この時、大八洲彦命は天明彦命より賜はりし
頭槌(クブツチ)の玉を一つ取りだし、
竹熊の魔軍にむかつて空中高く投げ打ちたまへば、
その玉は爆発して数万の黄竜(ワウリユウ)となり、竹熊に前後左右より迫つた。

この空中の戦ひに竹熊は通力(ツウリキ)を失ひ、
真贋(シンガン)十二個の玉とともに無惨にも地上へ墜落し、
たちまち黒竜と変じ、地上に打ち倒れた。

しばらくあつて竹熊は起上がり、
ふたたび魔軍を起して防戦せむとする折しも、
天上より金勝要神(キンカツカネノカミ)、
未姫命(ヒツジヒメノミコト)の二柱(フタハシラ)の女神(ニヨシン)は、
天(アメ)の逆鉾(サカホコ)を竹熊が頭上目がけて投げ下したまうた。

一個は竹熊の頭にあたり一個は背にあたり、
その場に倒れ黒血(クロチ)を吐き、ここに敢(アヘ)なき終焉を告げた。

 竹熊の血は溢れて湖水となつた。これを死海(シカイ)といふ。
竹熊の霊魂はその後(ゴ)死海の怨霊となつた。

死海の水は苦(ニガ)くして、からく粘着性を帯ぶるは、
天(アメ)の逆鉾(サカホコ)の精気と血のりの精の結晶である。

竹熊の霊はふたたび化して棒振彦(ボウフリヒコ)となり、
天使大八洲彦命を執念深く幾度も悩ました。

竹熊部下の悪霊もまた此の湖水の邪鬼となつた。

そしてその怨霊は世界に拡まり、後世に至るまで、
種々の祟(タタ)りをなすにいたつた。

その方法は淵、河、池、海などに人を誘ひ、
死神となつてとり憑(ツ)き溺死せしめるのである。

故にこの湖水を禊身(ミソギ)の神業(カムワザ)をもつて清めざれば、
世界に溺死人の跡は絶たぬであらう。

 シオン山の後方の天より襲ひきたる
最も猛烈なる木常姫(コツネヒメ)の魔軍に対して、
大八洲彦命は第二の頭槌の玉を空中に投げ捨てたまへば、
たちまち爆裂し、木常姫の一軍は神威におそれ狼狽の極、
死海の周囲に屹立せる禿山(ハゲヤマ)の山上に墜落し、
岬角(コウカク)に傷つき、最後を遂(ト)げた。

木常姫の霊はふたたび変じて高虎姫(タカトラヒメ)となり、
棒振彦とともに、
大八洲彦命を絶対的に悩まさむとした一切の径路は、
おひおひ述ぶるところによつて判明する。

 竹熊の所持せる十個の玉と、
二個の偽玉(ニセダマ)は一旦死海に沈み、
歳月を経ておひおひに雲気となつて舞ひ上り、
世界の各地に墜落し邪気を散布し、
あらゆる生物を困(クルシ)ましめたのである。

さしもの黄金水(ワウゴンスイ)より出でたる十個の宝玉も、
竹熊の血に汚されて悪霊(アクガミ)と変じ、
諸国に散乱して種々の悪事を現出せしむる悪玉と変化したのである。

この玉の散布せる地は最も国魂(クニタマ)の悪(アシ)き国土である。

 天の一方より村雲(ムラクモ)押開きて天使の群、幾百千となく現はれ、
地上に漸次降(クダ)りくるよと見るまに、
瑞月(ズイゲツ)の身体はたちまち極寒を感じ、ふと眼を開けば、
身は高熊山(タカクマヤマ)の巌窟の前に寒風に曝(サラ)されてゐた。

 (大正十年十月二十六日、旧九月二十六日、桜井重雄録)

『音惚花活気好@kakky』的『第50章 死海の出現 (50)』分解(上)

2006年05月14日 23時59分34秒 | Weblog
平成十八(2006)年五月十四日 旧四月十七日(日)

 鬼熊(オニクマ)、鬼姫(オニヒメ)は竹熊(タケクマ)との戦ひに敗れ、
ウラル山およびバイカル湖の悪鬼邪霊となり、一時は其の影を潜め、
ために竜宮城はやや安静になつてきた。

 国常立尊(クニトコタチノミコト)は大八洲彦命(オホヤシマヒコノミコト)および
稚姫君命(ワカヒメギミノミコト)の功績を賞し、
ここに霊国(レイゴク)天使の神位を授けたまうた。

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『霊国天使』というのは、無数に近い天国界、中有界、
地獄界(根の国、底の国)の各階層に、自由自在に出入りする事が出来る、
精霊の救いと教育を任務とする『霊国』の天使である。

現世で例えると、社会的な各組織、団体、個々の家庭などが各天国であり、
また中有界、地獄界(根の国、底の国)であるとすると、
そこに様々な形で、主師親の神の教と救いを伝達する、
メディアの様な仕事である。

肉体は、ある程度、各天国などに束縛されるのであるが、
その言霊は各種メディアによって、各家庭、会社、役所など、
あらゆる境遇に行き渡るもので、その活字や映像、音声などが、
この『霊国天使』の様な変幻自在的活動をしているのである。

また、睡眠中に『夢』などに現れて、教や救いをなすのも、
この『霊国天使』の仕事である。

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さても竹熊は高杉別(タカスギワケ)、
森鷹彦(モリタカヒコ)の変心に恨(ウラ)みを呑(ノ)み、
いかにもしてふたりを亡ぼし仇(アダ)を報(ハウ)ぜむと企てた。

ついては第一に又もや天使大八洲彦命を滅ぼすの必要を感じたのである。

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竹熊は、自身の邪心を覚ることが出来ず、
天地の順序に従って正しい行いをしている高杉別、森鷹彦を、
裏切り者と逆恨みして、これを滅ぼす為に、
その上司である大八洲彦命を滅ぼす必要を感じたわけだ。

『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』

というたとえもあるけれど、子供の喧嘩に親を引きずり出す様な、
愚行である。

要するに、己の行いが悪いから、立場が悪くなっているだけなのに、
この世に神や仏はあるものか!と、逆恨みする様なものである。

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 今や竹熊はエデンの城塞を回復し、中裂彦(ナカサキヒコ)、
大虎彦(オホトラヒコ)を部将とし、牛熊(ウシクマ)、
牛姫(ウシヒメ)を参謀として再び事を挙げむとし、
鬼城山(キジヤウザン)に割拠せる木常姫(コツネヒメ)の応援軍を必要とした。

木常姫は魔鬼彦(マキヒコ)、鷹姫(タカヒメ)、松山彦(マツヤマヒコ)らの部将を督(トク)し、
前後より天使大八洲彦命を攻撃せむと計画を回らしつつあつた。

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天地の順序に従って、
鬼姫一派から竹熊のもとにエデンの城塞を一時的に戻されただけなのだが、
そういうことが理解出来る様な竹熊ではない。

曲津神が改心することなど、有り得ないに等しいのだ。

本来『救い』とは、元々正神である者が、
曲津神達の横暴によって苦しめられ、また迷わされているのを、
天地の慈悲によって救いあげるのであって、
竹熊一派の様な極悪の曲津神には、ただ裁きが待っているのみである。

この国常立尊の時代は、これら曲津神達が封印される時代で、
次に控える神伊邪那岐大神の時代には、
これらの曲津神達を一度完全に地上から滅ぼしてしまうのだが、
いずれも血で血を洗う様な戦乱の世である。

しかし、いずれも滅ぼすことが出来るのは、体的で物質的なものばかりで、
精霊は曲津神となって天地の間に蟠っているため、
いつまでたっても天地から戦闘が消え去ることがない。

国常立尊と神伊邪那岐大神の厳の御霊のやり方では、
この限界を超えることがどうしても出来ないので、
瑞の御霊、神素盞嗚大神が厳の御霊の権限を全て引き継ぎ、
この厳と瑞の交替が完成する時代になって、漸く、
国常立尊時代に封印された悪竜などが救済されることになる。

大八洲彦命は瑞の御霊の系統であるが、
この時は、まだ厳の御霊 国常立尊の時代であるから、
常に天地の順序を守って、国常立尊に従っているのである。

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 大八洲彦命は猿飛彦(サルトビヒコ)、菊姫(キクヒメ)の密告により竹熊、
木常姫の反逆的挙兵の消息を知り、竜宮城は、花照彦(ハナテルヒコ)、
花照姫(ハナテルヒメ)、香川彦(カガハヒコ)、速国彦(ハヤクニヒコ)、戸山彦(トヤマヒコ)、
佐倉彦(サクラヒコ)の部将をして城の各門を守らしめた。

もはや後顧の憂ひなければ、ここに大八洲彦命は高杉別、森鷹彦、
時代彦(トキヨヒコ)の部将とともに神命を奉じて、シオン山に向つて出発した。

この用務は大神の神勅を諸天神へ報告のためであつた。

諸天神は命の報告を聞き、天軍を起して竹熊、
木常姫の暴逆を懲(コラ)すの神策を定めたまうた。

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現代でいうと『多国籍軍』に出動を要請する様なことだろうか?

瑞の御霊の系統は、将来は無抵抗主義の中核になって行くのだが、
この頃は、まだ厳の御霊が地を主宰している時代であるから、
大八洲彦命は瑞の御霊でありながら、
厳の御霊式に戦軍を指揮しているのだ。

現代に例えると、戦後、軍備拒否を憲法に加えられた、
平和国家である日本が、アメリカとの同盟関係上、
再軍備を考えねばならない様なことになっている様なものである。

つまり、一見、瑞の御霊系統である筈の、
キリスト教国家であるアメリカの傘下として、
一見、厳の御霊系統であるわが日本が、
軍隊の代わりとして自衛隊をイラク復興支援部隊として派遣している様な、
そんなことが起きているわけである。

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時しも天上より天使天明彦命(アマアカリヒコノミコト)あまたの天軍を従へ、
シオン山頂の高原に下り、大八洲彦命に向ひ、

 『危機一髪の場合は天軍の応援をなさむ、されど竹熊、
  木常姫の魔軍は決して恐(オソ)るるに足らず』

とて金色(コンジキ)の頭槌(クブツチ)をもつて地上を打ちたまへば、
シオン山の地上より瑞気(ズイキ)顕はれ
天に舞ひ上り再び大八洲彦命の前に降下した。
これを頭槌の玉といふ。

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本来、瑞の御霊系統である大八洲彦命が、国常立尊の御代の為に、
竹熊戦に備えて防備を固める中、天上より天使天明彦命が現れ、
シオン山の地上より瑞気を顕わし、
これを大八洲彦命に『頭槌の玉』として授けたのは、
大八洲彦命が本来、瑞の御霊の系統であることを忘れない様にする為だ。

大八洲彦命はこの時、瑞の御霊としての『未顕真実』の時代であった。

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 かくして三個の玉を鳴り出で給ひ、

「この精霊(ミタマ)をもつて魔軍を掃蕩せよ」

との言葉とともに、
天明彦命は群神を率(ヒキ)ゐて天使は天に還らせたまうた。

大八洲彦命は天を拝し地に伏して、神恩の洪大無辺なるに感謝された。

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『頭槌の玉』は三個の玉を鳴り出した様だ。

この三個の玉は『三つの精霊』である。

『三つのミタマ』といえば、
神伊邪那岐大神の時代には『信長、秀吉、家康』に例えられるのだが、
即ち『軍、法、政』を象徴している。

童話『桃太郎』の『雉、犬、猿』にも例えられているので、
これがいわゆる『桃のミタマ』の活動なのだが、
ここでは、その準備がなされたのであろう。

しかし、ここでは国常立尊の時代なので、
この三個の玉は、まだ『三つのミタマ』の活動はしない。

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『音惚花活気好@kakky』的『第50章 死海の出現 (50)』分解(下)

2006年05月14日 23時58分05秒 | Weblog
 竹熊、木常姫は全力を尽して前後左右より竜宮城を取り囲んだ。
勇猛なる香川彦以下の神司(カミガミ)は全力を挙げて之(コレ)を撃退し、
押し寄する敵の魔軍は或ひは傷つき或ひは倒れ、全軍の三分の一を失つた。

時に探女(サグメ)あり、

「天使大八洲彦命は、シオン山に在(ア)り」

と密告した。

竹熊、木常姫は時を移さず、黒雲を起し風を呼び、
シオン山の空をめがけて驀地(マツシグラ)に攻め寄せた。

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大八洲彦命の軍勢は、まったく強力なので、
竹熊と木常姫はただただ押されるばかりであった。

起死回生の方策は、敵将 大八洲彦命を倒す以外にはない。

そう考えた竹熊一派の悪あがきである。

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 この時、大八洲彦命は天明彦命より賜はりし
頭槌(クブツチ)の玉を一つ取りだし、
竹熊の魔軍にむかつて空中高く投げ打ちたまへば、
その玉は爆発して数万の黄竜(ワウリユウ)となり、竹熊に前後左右より迫つた。

この空中の戦ひに竹熊は通力(ツウリキ)を失ひ、
真贋(シンガン)十二個の玉とともに無惨にも地上へ墜落し、
たちまち黒竜と変じ、地上に打ち倒れた。

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頭槌(クブツチ)の玉の一個が数万の黄竜になるというのだから、
これを三つ全て使ったら、どういうことになるのだろうか?

黄金水の宝玉は、正しい神のもとに十二個全てが揃った時に、
神力を発するもので、贋ものが二個も混ざっているばかりでなく、
邪神竹熊のもとにあるのだから、この様に何の働きもしない。

したがって、これに頼り切ってる竹熊は、
滅亡に向かうより道がないのだ。

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しばらくあつて竹熊は起上がり、
ふたたび魔軍を起して防戦せむとする折しも、
天上より金勝要神(キンカツカネノカミ)、
未姫命(ヒツジヒメノミコト)の二柱(フタハシラ)の女神(ニヨシン)は、
天(アメ)の逆鉾(サカホコ)を竹熊が頭上目がけて投げ下したまうた。

一個は竹熊の頭にあたり一個は背にあたり、
その場に倒れ黒血(クロチ)を吐き、ここに敢(アヘ)なき終焉を告げた。

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竹熊としての生涯は、ここで敢なき終焉を告げるわけだが、
その霊魂は改心しないまま、初志貫徹しようと再生を続ける。

これを仏教的にはカルマの輪廻転生ともいうのだ。

人体に生まれたり、畜生に生まれたり、植物や鉱物に生れ変わりながら、
その悪い志をいつか果たしてやろうと怨霊化するわけである。

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 竹熊の血は溢れて湖水となつた。これを死海(シカイ)といふ。
竹熊の霊魂はその後(ゴ)死海の怨霊となつた。

死海の水は苦(ニガ)くして、からく粘着性を帯ぶるは、
天(アメ)の逆鉾(サカホコ)の精気と血のりの精の結晶である。

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世の中には『死海文書』とかいうのがあって、
その解読によって洗礼のヨハネとイエス・キリストの確執が、
いろいろに解釈されている様なのだが、
これによってキリストの存在そのものを否定する様な邪説が、
真説として世界各地に流布されたことが近年あったが、
こういうことも、この死海の怨霊と考えることが出来るのではなかろうか?

光と闇の戦いということを、キリストの愛と赦しの教に反する様に、
この死海文書を残した一団がこだわり続けた事自体、
この竹熊の怨霊にやられている証拠である。

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竹熊の霊はふたたび化して棒振彦(ボウフリヒコ)となり、
天使大八洲彦命を執念深く幾度も悩ました。

竹熊部下の悪霊もまた此の湖水の邪鬼となつた。

そしてその怨霊は世界に拡まり、後世に至るまで、
種々の祟(タタ)りをなすにいたつた。

その方法は淵、河、池、海などに人を誘ひ、
死神となつてとり憑(ツ)き溺死せしめるのである。

故にこの湖水を禊身(ミソギ)の神業(カムワザ)をもつて清めざれば、
世界に溺死人の跡は絶たぬであらう。

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海外には『水は罪の象徴』という考え方がある。

これも全て、この死海の邪鬼と化した一団の影響である。

本来、水は生命にとってなくてはならないものである。

これを罪の象徴だなどと考える事自体、既にその精神は病んでいるのだ。

しかしながら、この死海の湖水を禊身の神業によって清めれば、
世界の溺死人が跡を絶つというのだから、
これは人類の未来にとっての希望でもある。

誰がそれをやるか?ということも将来の楽しみの一つだろう。

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 シオン山の後方の天より襲ひきたる
最も猛烈なる木常姫(コツネヒメ)の魔軍に対して、
大八洲彦命は第二の頭槌の玉を空中に投げ捨てたまへば、
たちまち爆裂し、木常姫の一軍は神威におそれ狼狽の極、
死海の周囲に屹立せる禿山(ハゲヤマ)の山上に墜落し、
岬角(コウカク)に傷つき、最後を遂(ト)げた。

木常姫の霊はふたたび変じて高虎姫(タカトラヒメ)となり、
棒振彦とともに、
大八洲彦命を絶対的に悩まさむとした一切の径路は、
おひおひ述ぶるところによつて判明する。

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『第二の頭槌の玉』は、ただ空中で爆発しただけだったが、
それでも、何の役にも立たない真贋十二個の玉に対して、
たった一個でもこれだけの力を発揮するその神威に、
木常姫一派は狼狽の末、最後を遂げた。

しかし、その霊は未だ滅びることなく、高虎姫に再生して、
大八洲彦命を悩ましたというわけだが、この高虎姫というのは、
『霊界物語』に後に登場する『高姫』のことだろう。

変性男子(ヘンジョウナンシ)の系統(ヒッポウ)ということを悪用して、
王仁三郎聖師をさんざん悩ました自称日の出の神がこれだ。

『日本が世界の王になる』

という予言を盾に、何の徳も無いのに威張り散らして、
外国人とみれば、無闇矢鱈に見下し敵視する、
盲目的な右翼というのも、ちょうどこの高虎姫の様な存在だ。

西郷隆盛の様に、維新の英雄の一人でありながら、
武士の時代の幕引きをする為、自ら賊軍の将として、
明治政府に滅ぼされる悪役を買って出る様な真の大和魂とは違って、
他国を滅ぼしてでも自国を立てようというのでは、
日本はいつまでたっても世界の王になることは出来ない。

世界の王というからは、世界万民の幸福繁栄の為に、
自らを犠牲にしてまで働くというのでなければならない。

日本の象徴である天皇陛下をみても、
決して自由奔放に威張り散らすことなど赦されない。

御公務の為に、私欲を犠牲にして尽くさなければならないのだ。

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 竹熊の所持せる十個の玉と、
二個の偽玉(ニセダマ)は一旦死海に沈み、
歳月を経ておひおひに雲気となつて舞ひ上り、
世界の各地に墜落し邪気を散布し、
あらゆる生物を困(クルシ)ましめたのである。

さしもの黄金水(ワウゴンスイ)より出でたる十個の宝玉も、
竹熊の血に汚されて悪霊(アクガミ)と変じ、
諸国に散乱して種々の悪事を現出せしむる悪玉と変化したのである。

この玉の散布せる地は最も国魂(クニタマ)の悪(アシ)き国土である。

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たしかイスラエル十二支族も、二支族だけがユダヤ人として残り、
あとの十支族は何処に行ったのかわからない現状であるが、
筆者も、若い頃は、この十支族のうちのエフライム、マナセ、ガドの、
三支族が日本に渡来して混血した…という説にはまったりしたが、
この『霊界物語』の因縁を知ると、ちょっとゾッとした気分になる。

戦前は、日本人とユダヤ人の同祖説に極端にはまった過激思想のおかげで、
日本は世界から目の敵にされ、増長した日本軍の暴走もあり、
ついに第二次世界大戦での敗戦を招くことになったといえよう。

戦後も、せっかく経済復興したにもかかわらず、
この日ユ同祖論が再発した為に、日本はバブル経済崩壊の憂き目に合い、
去年までの苦しみを味合わされたともいえるのだ。

この『死海の出現』に語られる内容は、
ナザレのイエスの十字架後に行方不明になったといわれる、
イスラエル十二支族の因縁を説いているものだと筆者は感ずるのである。

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 天の一方より村雲(ムラクモ)押開きて天使の群、幾百千となく現はれ、
地上に漸次降(クダ)りくるよと見るまに、
瑞月(ズイゲツ)の身体はたちまち極寒を感じ、ふと眼を開けば、
身は高熊山(タカクマヤマ)の巌窟の前に寒風に曝(サラ)されてゐた。

 (大正十年十月二十六日、旧九月二十六日、桜井重雄録)

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これにて『霊界物語 第一巻 霊主体従 子の巻』の分解は修了である。

開始してから一年以上もかかってしまったが、
これが八十一巻分続くとなると、
筆者もあと八十一年は他界することが出来ないことになる。

それから計算すると、神様から、

「お前は百二十八歳まで生きる。」

と告げられた意味もわかるような気がする。

嗚呼、惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)
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第49章 バイカル湖の出現 (49)

2006年05月07日 21時45分55秒 | Weblog
 大八洲彦命(オホヤシマヒコノミコト)の仁慈に充てる犠牲的至誠より、
竹熊(タケクマ)の罪は赦(ユル)された。
しかしながら衆神(シウジン)の手前もあり、
竹熊も竜宮城に出入せしむることを禁ぜざるを得ない立場になつた。
竹熊はやむを得ず、もとのエデンの城塞に帰らうとした。

この時エデンの城塞は既に鬼熊に占領されてゐた。
そして鬼熊の滅亡後鬼姫(オニヒメ)は、牛熊(ウシクマ)、武熊別(タケクマワケ)を部将とし、
あまたの魔軍を集めてこれを死守してゐた。

竹熊は高杉別(タカスギワケ)、森鷹彦(モリタカヒコ)の心中を少しも知らず、
全く自分の無二(ムニ)の味方であると信じてゐた。

 竹熊は高杉別、森鷹彦に命じて
エデンの城塞を前後より襲撃し回復せむとした。
されどもふたりは言を左右に託して竹熊の命に従はず、
かへつて竹熊の暴悪不道の行為を責め門内よりこれを突出し、
門扉(モンピ)を固く鎖して、再び竹熊の出入し得ざるやう、きびしく警護した。

 竜宮城の出入を禁ぜられた竹熊は、
鬼城山(キジヤウザン)に城塞を構へ数多(アマタ)の魔軍をしたがへ割拠する、
木常姫(コツネヒメ)の陣営にむかひ救援を求めた。

木常姫は何条否(ナンデウイナ)むべき、
同志の竹熊にして亡ぼされなば吾が大望を達する望みなしと、
ここに魔鬼彦(マキヒコ)、鷹姫等(タカヒメラ)とともに軍容を整へ、
エデンの城塞にむかつて短兵急に攻めいつた。

鬼姫は牛熊、牛姫に命じて敵のヨルダン河を渡るを拒止(キヨシ)せしめた。
木常姫は雲を呼び、風を起し、雨を降らし、死力をつくして争うた。
河水はたちまち氾濫し、水量(ミヅカサ)おひおひに増して、
エデンの城塞はほとんど水中に没するばかりである。

ここに鬼姫は進退谷(キハ)まり、竹熊より奉れる真贋(シンガン)十二の玉を抱き、
従者とともに黒雲に乗じ天空はるかに逃げゆく。
天日(テンジツ)暗澹として常暗(トコヤミ)のごとく、
鬼姫一行の邪神隊はウラルの山上目がけて一目散に姿を隠した。

 たちまち前方より奇晴彦(クシハルヒコ)、
村雲別(ムラクモワケ)は国常立尊(クニトコタチノミコト)の命を奉じ、
火竜となつて中空に現はれ、
鬼姫の前後左右より焔(ホノホ)を噴きだし攻めきたる。

鬼姫の一隊は苦みにたへず、少時は死物狂ひとなつて応戦せしが、
つひに力尽きて地上に落下した途端に、大地は大震動とともに陥落し、
長大なる湖水を現じた。

これをバイカル湖といふ。

そして鬼姫は茲(ココ)に終焉を告げバイカル湖の黒竜となり、
再び変じて杵築姫(キヅキヒメ)となり、
執念深く竜宮城を附け狙(ネラ)うたのである。

エデンの城塞はかくして再び竹熊の手に還つた。

 (大正十年十月二十六日、旧九月二十六日、加藤明子録)

『音惚花活気好@kakky』的『第49章 バイカル湖の出現 (49)』

2006年05月07日 21時44分50秒 | Weblog
平成十八(2006)年5月7日 旧4月10日(日)

 大八洲彦命(オホヤシマヒコノミコト)の仁慈に充てる犠牲的至誠より、
竹熊(タケクマ)の罪は赦(ユル)された。
しかしながら衆神(シウジン)の手前もあり、
竹熊も竜宮城に出入せしむることを禁ぜざるを得ない立場になつた。
竹熊はやむを得ず、もとのエデンの城塞に帰らうとした。

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この大八洲彦命の仁慈に充てる犠牲的至誠というのを観て、
筆者は新約聖書のイエスの聖句を思い出した。

「もし盗賊が汝の上着を奪うなら、その下着をも与えよ」
「もし汝の右の頬を打つ者あらば、その左の頬をも差し出せ」

竹熊は、言ってみれば盗賊であり、右の頬を打つ者だ。

吾々の様な俗人ならば、上着を奪われようとしたら、
抵抗して、力で負ければ殺されたり、右の頬を打たれたら、
相手の両頬を殴りつけ、倒れた所を蹴りまくり、
気を失ったのか、死んだのか、わからないところまで仕返ししないと、
そうは簡単に気が済まないであろうけれど、
大八洲彦命は、イエスの聖句そのままに、エデンの城塞を奪い、
また竜宮城までも占領しようとした竹熊の許しを乞うため、
自らの不徳を訴えて、厳の御霊、初稚姫命に詫びを入れた。

要するに、イエスの十字架の様な行いというわけだが、
初稚姫命の再生といわれる出口直開祖も、信徒達が過ちを犯す度に、
自らの頭髪を抜き取って、艮の金神に詫びを入れていたそうである。

これは筆者の体験だが、
『霊界物語』を本格的に拝読する様になった頃、
世の中ではソ連崩壊があったが、
その後のゴルバチョフ拉致事件が起こる前くらいに、
『霊界物語』の古事記解を筆者は拝読していたのだが、
その時、派遣で出向していた職場では、ある部品の欠陥が原因で、
とても作業を続けられない状況だったので、若い社員によく抗議していたら、
逆上した若い社員に襲われて、どうしようかと思った事があったが、
瞬間、天啓がまた文字となって筆者に降った。

「無抵抗!」

筆者は、出口王仁三郎聖師こと上田喜三郎青年が、
地元の侠客の喧嘩の仲裁に入って襲われる度に、
亀の様に背中を見せて丸まって、相手に好きな様に殴らせて、
一切手出しをしなかったということを思い出し、
それを真似て丸まっていると、他の社員達が若い社員を止めに来たので、
起き上がって、

「殴れば気が済むのか!?」

と、不良品を使って作業を続けさせようとすることの無理を、
判らせようとしたことがある。

結果、喧嘩両成敗的に、筆者とその若い社員が配置替えされて、
何か月かした頃に、筆者だけまた元のポジションに戻された。

材料の改善はまだ完全ではなかったので、
このまま作業を続けるのは無理だと改めて主張したら、
今度は他の若い社員が逆上して襲い掛かって来て、
材料の金属板で背中を力任せに叩かれたが、不思議なもので、
神の御加護があってか何の痛みもなかった。

その後、しばらく逃げ回った後、面倒臭いので右の頬を一発殴らせてやり、
更に左の頬を差出しながら、

「殴れば気が済むのか!?」

と、怒鳴りつけた後、ようやくやって来た若い社員の上司に、

「この会社はいったい社員にどんな教育をしてるんだ?
 品質に問題があることを言ったら、
 暴力をふるっていいとでも教えているのか?」

と抗議して、その後は派遣先の会社と派遣会社との間でのやりとりになり、
結局、一切手出しせず逃げ回っただけの筆者を、会社側は責める理由がなく、
可哀想に逆上した若い社員は、そこに居辛いことになって辞めてしまった。

相手が堅気だったから、この程度で済んだのも事実なのだが、
この後、筆者は二度と元のポジションに戻されることもなく、
材料も完全に改善されて、他の人が作業しても、
まったく問題なくやれる様になった。

そういうこととはレベルが違うことだと思うが、
大八洲彦命の心中を察することは、筆者には比較的容易である。

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この時エデンの城塞は既に鬼熊に占領されてゐた。
そして鬼熊の滅亡後鬼姫(オニヒメ)は、牛熊(ウシクマ)、武熊別(タケクマワケ)を部将とし、
あまたの魔軍を集めてこれを死守してゐた。

竹熊は高杉別(タカスギワケ)、森鷹彦(モリタカヒコ)の心中を少しも知らず、
全く自分の無二(ムニ)の味方であると信じてゐた。

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『敵を欺くには先ず味方から』

という兵法があるけれど、要は、竹熊の方に、野心が無ければ、
別に、敵も味方も無いわけで、高杉別、森鷹彦からしても、
別に竹熊を欺こうというわけではない。

最初から天地の正しい神の順序に逆らう意図はなく、
竹熊さえ野心を持たなければ、無二の味方と信頼されても、
別に何の嘘もないことである。

かえって無二の味方と信頼されることは、
高杉別と森鷹彦に人望があるということで、
二神からしたら歓迎すべきことなのだ。

大宇宙の法則は、大調和である。
いわゆる大和魂である。

争う心無く、常に皆と仲良く親しんで信頼関係を結び、
一体関係を保つことは、大正解なのである。

しかし、自ら野心を起こし、邪心を起こして、
天地の順序を乱そうとするから、天地の法則に自ら反して、
余計な敵を作り、余計な苦労をすることになるのだ。

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 竹熊は高杉別、森鷹彦に命じて
エデンの城塞を前後より襲撃し回復せむとした。

されどもふたりは言を左右に託して竹熊の命に従はず、
かへつて竹熊の暴悪不道の行為を責め門内よりこれを突出し、
門扉(モンピ)を固く鎖して、再び竹熊の出入し得ざるやう、きびしく警護した。

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この行いは、高杉別、森鷹彦が竹熊を裏切ったのではない。

天地の道理に適わぬことを竹熊がしようとするから、
友として、これを諌めているのだ。

これに対して竹熊が怨みに思ったり、逆上するのは、
竹熊が天地の順序法則に逆らった結果、
自ら招いている逆境なのだ。

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 竜宮城の出入を禁ぜられた竹熊は、
鬼城山(キジヤウザン)に城塞を構へ数多(アマタ)の魔軍をしたがへ割拠する、
木常姫(コツネヒメ)の陣営にむかひ救援を求めた。

木常姫は何条否(ナンデウイナ)むべき、
同志の竹熊にして亡ぼされなば吾が大望を達する望みなしと、
ここに魔鬼彦(マキヒコ)、鷹姫等(タカヒメラ)とともに軍容を整へ、
エデンの城塞にむかつて短兵急に攻めいつた。

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これは同じ野心を持つ者同士が、『類は友を呼ぶ』式に寄り合って、
我意を遂げようと協力し合っているだけのことである。

しかし、大八洲彦命の犠牲的至誠に観られる様に、
天地は、そんな竹熊一派を、強制的に滅ぼす様なことをせずに、
やりたい様にやらせているのだが、これにもちゃんとした道理があるのだ。

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鬼姫は牛熊、牛姫に命じて敵のヨルダン河を渡るを拒止(キヨシ)せしめた。
木常姫は雲を呼び、風を起し、雨を降らし、死力をつくして争うた。
河水はたちまち氾濫し、水量(ミヅカサ)おひおひに増して、
エデンの城塞はほとんど水中に没するばかりである。

ここに鬼姫は進退谷(キハ)まり、竹熊より奉れる真贋(シンガン)十二の玉を抱き、
従者とともに黒雲に乗じ天空はるかに逃げゆく。
天日(テンジツ)暗澹として常暗(トコヤミ)のごとく、
鬼姫一行の邪神隊はウラルの山上目がけて一目散に姿を隠した。

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ここで争っているのは竹熊一派と、竹熊を鬼熊の仇と狙う鬼姫一派である。

普通、エデンといえば楽園の名前で、
アダムとエバと蛇が追放されたところなのだが、
ここでは、そのエデンの名を頂く城塞を、竹熊一派と鬼姫一派の邪神同士が、
奪い合って争っているのである。

旧約聖書でも、アダムとエバと蛇が主に追放された後、
エデンの生命の木は、エデンの東に切り離されて、
アダム以下の堕落者達が近づけない様に、まわる炎の剣で守られた、
とある様に、エデンそれ自体は、既に楽園の位置から堕落しているのだ。

唯一、生命の木のみが、天主のものとして聖別されて守られたのだが、
『霊界物語』的にはこれが地の高天原、竜宮城、エデンの城塞の関係になる。

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 たちまち前方より奇晴彦(クシハルヒコ)、
村雲別(ムラクモワケ)は国常立尊(クニトコタチノミコト)の命を奉じ、
火竜となつて中空に現はれ、
鬼姫の前後左右より焔(ホノホ)を噴きだし攻めきたる。

鬼姫の一隊は苦みにたへず、少時は死物狂ひとなつて応戦せしが、
つひに力尽きて地上に落下した途端に、大地は大震動とともに陥落し、
長大なる湖水を現じた。

これをバイカル湖といふ。

そして鬼姫は茲(ココ)に終焉を告げバイカル湖の黒竜となり、
再び変じて杵築姫(キヅキヒメ)となり、
執念深く竜宮城を附け狙(ネラ)うたのである。

エデンの城塞はかくして再び竹熊の手に還つた。

 (大正十年十月二十六日、旧九月二十六日、加藤明子録)

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天地の順序というのは厳しいもので、何処までも順序を踏む。

最初は竹熊が奪ったエデンの城塞であり、、
これを鬼姫一派が、竹熊に謀反を起こす形で後から占拠したから、
天地の優先順位では、一旦、鬼姫一派から、
竹熊の元に返還されてからでなければ、
天地の神のもとに復活することが出来ないのだ。

たとえ竹熊が邪神であっても…、
否、むしろ竹熊が邪神だからこそ、この順序は徹底的に守られる。
それが天地の神の仁慈の心である。

この仁慈の心を至仁至愛(ミロク)という。

逆に正神であり、身分の高い神が低いふりをして、
お忍びで降りて来ていたり、逆のケースであれば、
この順序もエレベーター式に飛び越えることもあるが、
それは極善、極悪の御霊の場合のみである。

パイカル湖というのは、確か同じ名前の湖がロシアの地にあったと思うが、
それが本当に同じ湖かどうかは、あわてて決めない方がよい。

『霊界物語』に記されていることは原型であって、
現代の地上の地名は、それを型にしてつけられたものがほとんどなのだ。

たとえば日本国内にも、○○富士という小さな山があちこちにたくさんある。

戦前、満州に渡った人々が蒙古富士とかいうのを決めたとかいう話も、
聞いたことがある様に、人間は移住先で故郷に因む地名をつけたがる。

米国のニューヨークとか、ニューイングランドとか、その手の地名にも、
皆、元になっている地名があるのだ。

したがって小八洲(ショウヤシマ)の中にあるロシアのパイカル湖は、
大八洲である日本の地にもある。

その型になっている奄美大島にも淡路島にもある道理だ。

どれが本物のパイカル湖なのかを探るよりも、
『霊界物語』から学ぶべきことはもっと他にある。

自ら、竹熊や鬼姫の様な邪道に堕ちない様に、
常に省みることが大切なのだ。

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