『音惚花活気好@kakky』=垣内政治的《霊界物語学》の日記的な雑記の様なレポート状の諸々?

出口王仁三郎聖師による弥勒胎蔵経『霊界物語』を『音惚花活気好@kakky』的に学問してみるランダムレポート?

第2遍 幽界より神界へ 第12章 顕幽一致 (12)

2005年07月25日 23時08分03秒 | Weblog
 自分が高熊山中(タカクマサンチユウ)における、顕界と、霊界の修業の間に、
親しく実践したる大略の一端を略述してみたのは、
真の一小部分に過ぎない。

 すべて宇宙の一切は、顕幽一致、善悪一如にして、
絶対の善もなければ、絶対の悪もない。

従つてまた、絶対の極楽もなければ、
絶対の苦艱(クカン)もないといつて良いくらゐだ。

歓楽の内に艱苦(カンク)があり、艱苦の内に歓楽のあるものだ。
ゆゑに根(ネ)の国(クニ)、底(ソコ)の国(クニ)に墜(オ)ちて、
無限の苦悩を受けるのは、
要するに、自己の身魂(ミタマ)より産出したる報いである。

また顕界の者の霊魂(ミタマ)が、常に霊界に通じ、
霊界からは、常に顕界と交通を保ち、
幾百千万年といへども易(カハ)ることはない。

神諭(シンユ)に、……天国も地獄も皆自己の身魂より顕出すると。

故に世の中には悲観を離れた楽観はなく、
罪悪と別立(ベツリツ)したる真善美もない。

苦痛を除いては、真の快楽を求められるものでない。
また凡夫の他(ホカ)に神はない。

言を換ていへば善悪不二(フジ)にして正邪一如である。

……仏典にいふ。

「煩悩即菩提(ボンナウソクボダイ)。生死即涅槃(シヤウジソクネハン)。
 娑婆即浄土(シヤバソクジヤウド)。仏凡本来不二(ブツボンホンライフジ)」

である。
神の道からいへば「神俗本来不二(シンゾクホンライフジ)」が真理である。

 仏の大慈悲といふも、神の道の恵み幸(サチ)はひといふも、
凡夫の欲望といふのも、その本質においては大した変りはない。
凡俗の持てる性質そのままが神であるといつてよい。
神の持つてをらるる性質の全体が、
皆ことごとく凡俗に備はつてをるといつてもよい。

 天国浄土と社会娑婆とは、その本質において、
毫末の差異もないものである。
かくの如く本質においては全然同一のものでありながら、
何ゆゑに神俗、浄穢(ジヤウエ)、正邪、善悪が分るるのであらうか。

要するに此の本然の性質を十分に発揮して、
適当なる活動をすると、せぬとの程度に対して、
附したる仮定的の符号に過ぎないのだ。

 善悪といふものは決して一定不変のものではなく、
時と処と位置とによつて、善も悪となり、悪も善となることがある。

 道(ミチ)の大原(タイゲン)にいふ。

「善は天下公共のために処(シヨ)し、悪は一人の私有に所(シヨ)す。
 正心徳行は善なり、不正無行(ムカウ)は悪なり」

と。

何ほど善き事といへども、自己一人の私有に所するための善は、
決して真の善ではない。
たとへ少々ぐらゐ悪が有つても、天下公共のためになる事なれば、
これは矢張善と言はねばならぬ。

文王(ブンワウ)一たび怒つて天下治まる。
怒るもまた可なり、といふべしである。

 これより推(オ)し考ふる時は、
小さい悲観の取るに足らざるとともに、
勝論外道的(シヨウロンゲダウテキ)の暫有的小楽観もいけない。

大楽観と大悲観とは結局同一に帰するものであつて、
神は大楽観者であると同時に、大悲観者である。

 凡俗は小なる悲観者であり、また小なる楽観者である。
社会、娑婆、現界は、小苦小楽の境界であり、
霊界は、大楽大苦の位置である。

理趣経(リシユキヤウ)には、

「大貪大痴(ダイトンダイチ)是(コ)れ三摩地(サンマヂ)、
 是(コ)れ浄菩提(ジヤウボダイ)、淫欲是道(インヨクゼダウ)」

とあつて、いはゆる当相即道(タウサウソクダウ)の真諦(シンタイ)である。

 禁慾主義はいけぬ、恋愛は神聖であるといつて、
しかも之(コレ)を自然主義的、本能的で、
すなはち自己と同大程度に決行し、満足せむとするのが凡夫である。
これを拡充して宇宙大に実行するのが神である。

 神は三千世界の蒼生(サウセイ)は、皆わが愛子(アイジ)となし、
一切の万有を済度せむとするの、大欲望がある。

凡俗はわが妻子眷属(ケンゾク)のみを愛し、
すこしも他を顧(カヘリ)みないのみならず、自己のみが満足し、
他を知らざるの小貪慾を擅(ホシイママ)にするものである。

人の身魂(ミタマ)そのものは本来は神である。
ゆゑに宇宙大に活動し得べき、天賦的本能を具備してをる。

それで此の天賦の本質なる、智、愛、勇、親を開発し、
実現するのが人生の本分である。

これを善悪の標準論よりみれば、自我実現主義とでもいふべきか。

吾人の善悪両様の動作が、社会人類のため済度(サイド)のために、
そのまま賞罰二面の大活動を呈するやうになるものである。

この大なる威力と活動とが、すなはち神であり、
いはゆる自我の宇宙的拡大である。

 いづれにしても、この分段(ブンダン)生死の肉身、
有漏雑染(ウロザツセン)の識心(シキシン)を捨てず、
また苦穢濁悪(クエジヨクアク)不公平なる現社会に離れずして、
ことごとく之(コレ)を美化し、楽化し、
天国浄土を眼前に実現せしむるのが、
吾人の成神観(セイシンクワン)であつて、また一大眼目とするところである。

 (大正十年二月八日、王仁)

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『第2遍 幽界より神界へ 第12章 顕幽一致 (12)』分解

2005年07月25日 23時06分44秒 | Weblog
平成十七(2005)年七月二十五日 旧六月二十日(月)

『音惚花活気好@kakky』的
『第2遍 幽界より神界へ 第12章 顕幽一致 (12)』分解

 自分が高熊山中(タカクマサンチユウ)における、顕界と、霊界の修業の間に、
親しく実践したる大略の一端を略述してみたのは、
真の一小部分に過ぎない。

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神様の方には、今すぐ明らかに出来る神秘と、
順を追って、将来明らかにして行く神秘とがあるということだが、
時代相応に、その秘密を知る事が出来る者と、
それを知らされずに他界する者とが出て来るということを、
この一節を読むだけで覚ることが出来る。

筆者は早くからこれを自覚しているから、
自分自身の肉体の定命(じょうみょう)の範囲外のことを、
特に知りたいとは思わないし、現代実現するであろう内容についても、
自分自身に直接利益が伴わないことを、得意になって公表する必要もない。

ただ、結果となって現れたことが、霊界物語的にはどういうことか?
また、どういう風に予言されていたのか?
そういうことがわかった時は、既に結果の出たことであるから、
神様の御計画の邪魔になることでもないので、
喜び勇んで公表することが出来る。

神様の方では、常にあらゆる妨害の先手を打って、
手詰り、手詰りを装いつつ、本望を遂げられる様であるから、
あまり、我を出して、神様の先手を打ってやろうと謀っても、
かえってそれが仇になったり、利用されたりするだけだと思うので、
あまり先のことは考えない方が、この道にある者としては好い心がけだ。

過ぎ越し苦労と取越し苦労をせずに、神様のマニマニ生活していれば、
それで間違い無い。

生きているうちに明かされない秘密のことには興味を持たず、
今、各自が存在している間に明かされた事の中から、
各自に必要なことだけ吸収しておけば、それで充分である。

そういうのを本当の意味で『勇みに勇む』というので、
必要以上に知りたがるとかえって『勇み足』になって大失敗するのが落ちだ。

チャンスは無限にあるけれども、
そのチャンスはみんなが一度に掴むのではない。

各自それぞれに応じたチャンスがあって、
その中からさらに、掴めるチャンスと掴めないチャンスがある。

ちょうど手のひらいっぱいに救い上げたはずの水が、
ほとんどこぼれ落ちて、ごくわずかだけ掌中に残る様なものだ。

それがその人の取り分である。

そのことが判らない者には、
たぶんどんなに躍起になって霊界物語を眺めても、
何一つ得ることは出来ないであろう。

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 すべて宇宙の一切は、顕幽一致、善悪一如にして、
絶対の善もなければ、絶対の悪もない。

従つてまた、絶対の極楽もなければ、
絶対の苦艱(クカン)もないといつて良いくらゐだ。

歓楽の内に艱苦(カンク)があり、艱苦の内に歓楽のあるものだ。
ゆゑに根(ネ)の国(クニ)、底(ソコ)の国(クニ)に墜(オ)ちて、
無限の苦悩を受けるのは、
要するに、自己の身魂(ミタマ)より産出したる報いである。

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たとえば道の真ん中に膝の高さ程の岩が転がっていたとしよう。

その岩は、長旅で疲れ果て、何処か腰掛ける場所を探していた者にとっては、
格好の腰掛けになるであろうから、
その岩はその者にとっては、まさに今こそ、善なる神の恵みだ。

しかし、その道を荷車を引いてくたくたになって歩いて来た者にとっては、
道の真ん中にあるその岩は、これほど邪魔で迷惑な物はないから、
その岩はその者にとっては、まさに今こそ、神か悪魔の悪戯だ。

また真夏の太陽はどうだろう。

日中、きつい労働で炎天下に働く者にとっては、
情け無用に暑い日射しを投げかける真夏の太陽は、
憎き仇の様に思えるだろうが、
避暑地で、その暑い日射しをしのぎに来る団体を待ち焦がれる
民宿経営者にとっては、
その真夏の照りつける太陽が救いの神に思えるだろう。

こういうことは他にもたくさんあるが、
勿論、道の真ん中の岩は、たまたまそこにあっただけで、
それが元々善でも悪でもないのは明白だ。

たまたま、何の巡り合わせか、
そこを通りかかった者の事情に応じて善悪の価値が現れただけなのだ。

同様に、真夏の太陽そのものは、大昔から、その様にそこにあるだけで、
たまたま、その真夏の太陽に出会った者の、各自の事情に応じて、
善悪の価値が生まれただけなのだ。

故にこの世界は『善悪一如』である。

そして例えば前者の場合、それまで休憩一つ取らず、
テクでとろとろ苦しみながら歩いて来たからこそ、
その道の真ん中の岩でさえ、善なる神様の恵みとして腰掛け、
楽しむことが出来るのに対し、
そこまで荷車を引いて、重荷を楽して運んで来た者にとっては、
その道の真ん中の岩こそは大きな苦しみとなるわけだから、
即ち『苦中楽在、楽中苦在』ということになるのである。

勿論、これも全てを語っているわけではない。

ほんの一例を取り上げたまでであるが、それは自ずから、
全てに通ずる真理を覚らせてくれるのである。

この章の冒頭にある様に、

『真の一小部分に過ぎない』

内容であっても、全ての謎をひも解くに充分な応用力を持っているのだ。

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また顕界の者の霊魂(ミタマ)が、常に霊界に通じ、
霊界からは、常に顕界と交通を保ち、
幾百千万年といへども易(カハ)ることはない。

神諭(シンユ)に、……天国も地獄も皆自己の身魂より顕出すると。

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そこにある物事全てについて、それを天国と思うか、地獄と思うかは、
全て、その本人の感性によるのである。

如何なる困難に遭うとも、それを自分自身の力に変える事が出来る者は、
その困難をも天国の恵みと感ずるであろうから、
彼こそはまさに天国人種だ。

一方、如何に恵まれていようとも、決して満足することなく、
常に不満と不安とを抱いている者は、
それによって恐怖と疑念を抱き続けるのであるから、
彼こそはまさに地獄人種である。

各自の心の有り様によって、
如何なる不足からも感謝の念は生まれ、
如何なる恵みからも不満の念は生まれるものである。

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故に世の中には悲観を離れた楽観はなく、
罪悪と別立(ベツリツ)したる真善美もない。

苦痛を除いては、真の快楽を求められるものでない。
また凡夫の他(ホカ)に神はない。

言を換ていへば善悪不二(フジ)にして正邪一如である。

……仏典にいふ。

「煩悩即菩提(ボンナウソクボダイ)。生死即涅槃(シヤウジソクネハン)。
 娑婆即浄土(シヤバソクジヤウド)。仏凡本来不二(ブツボンホンライフジ)」

である。
神の道からいへば「神俗本来不二(シンゾクホンライフジ)」が真理である。

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『善悪不二』というのは、本来、善悪という二つの価値は無いということで、
『正邪一如』というのは、正と邪は一つの如し、ということである。
『煩悩即菩提』というのは、あらゆる欲望は仏の慈悲そのものということで、
『生死即涅槃』というのは、生死は全て夢の様なものだというに等しく、
『娑婆即浄土』というのは、この世はそのまま天国だということで、
『仏凡本来不二』というのは、仏も凡人も本来同じものだということである。

そして最後に、

『神俗本来不二』というのは、聖なる神も俗人も本来同じだというのである。

筆者は、以前、霊界物語を拝読する集まりで、

『善悪不二だ。』

と言ったら、

『それはあなたの意見だろう。』

と軽くあしらわれたことがあるが、これは筆者の意見ではなく、
こういう風にちゃんと霊界物語に明確に記されていることなのだ。

しかし、霊界物語に記されていることを、そのまま訴えても、
この様に、その場の勢いや、多数決的判断で、
筆者の自分勝手な意見の様に言われることもあるのが、
ズバリ、この世の中であるのだ。

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 仏の大慈悲といふも、神の道の恵み幸(サチ)はひといふも、
凡夫の欲望といふのも、その本質においては大した変りはない。
凡俗の持てる性質そのままが神であるといつてよい。
神の持つてをらるる性質の全体が、
皆ことごとく凡俗に備はつてをるといつてもよい。

 天国浄土と社会娑婆とは、その本質において、
毫末の差異もないものである。
かくの如く本質においては全然同一のものでありながら、
何ゆゑに神俗、浄穢(ジヤウエ)、正邪、善悪が分るるのであらうか。

要するに此の本然の性質を十分に発揮して、
適当なる活動をすると、せぬとの程度に対して、
附したる仮定的の符号に過ぎないのだ。

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例えば、現代の様に建築技術が発展した世の中で、
街の真ん中に勝手にテントを張って誰かが生活を始めたら、
たいていの皆さんは、これを異常だと思い、不快に感じ、
その場から排除しようとするに違いない。

しかし、地方によっては、そのテントこそ自然と一体になった住居であり、
自然を著しく破壊する現代の建築技術は、地球全体にとっての害悪であり、
排除すべきものだ、と、強く訴えることもあるだろう。

テント生活を愛する側にとっては、テント生活こそ清浄であるが、
現代建築技術を愛する側にとっては、現代建築技術こそが清浄であるのだ。

テント暮しを天国と思う者もあれば地獄と思う者もあり、
マンション暮らしを天国と思う者もあれば地獄と思う者もある。

天国だ、娑婆だ、という差別は、
すべて以上の例と何等差異の無いものなのだ。

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 善悪といふものは決して一定不変のものではなく、
時と処と位置とによつて、善も悪となり、悪も善となることがある。

 道(ミチ)の大原(タイゲン)にいふ。

「善は天下公共のために処(シヨ)し、悪は一人の私有に所(シヨ)す。
 正心徳行は善なり、不正無行(ムカウ)は悪なり」

と。

何ほど善き事といへども、自己一人の私有に所するための善は、
決して真の善ではない。
たとへ少々ぐらゐ悪が有つても、天下公共のためになる事なれば、
これは矢張善と言はねばならぬ。

文王(ブンワウ)一たび怒つて天下治まる。
怒るもまた可なり、といふべしである。

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つまりは、多数決の様なもので、
理想的な正しいことでも、一人で吠えていては、それは真の善ではなく、
多少、間違ったことでも、大勢が喜んでいれば、それは善になるわけだ。

一個人としては『怒る』ということは生理上まったく害悪なのだが、
社会全体を活かすという場合には『怒る』ことで社会が治まるので、
それは善ということになる。

こういう場合、個人的都合に合わせて感情を昂らせるのは『怒り』で、
天下公共の為に発奮するのは『公憤』というという風に、
後に霊界物語の中で語られているから、
これを一応の基準にして使いわけるだけの余裕があればよいと思う。

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 これより推(オ)し考ふる時は、
小さい悲観の取るに足らざるとともに、
勝論外道的(シヨウロンゲダウテキ)の暫有的小楽観もいけない。

大楽観と大悲観とは結局同一に帰するものであつて、
神は大楽観者であると同時に、大悲観者である。

 凡俗は小なる悲観者であり、また小なる楽観者である。
社会、娑婆、現界は、小苦小楽の境界であり、
霊界は、大楽大苦の位置である。

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子供の一歩、大人の一歩、老人の一歩、
みなそれぞれに一歩であるが、各自にその歩幅がまったくことなるので、
一歩における意味がまったく異なって来る。

しかし、大人が子供や老人の一歩を真似ても、大人の役には立たない様に、
皆、それぞれに、各人の有り様を果たしていれば、
十分に役に立っているのだ。

凡俗だからといって恥じる必要もなければ、
神仏だからといって驕り昂る理由も無い。

その働きは大きく違うけれども、その価値は皆、平等であるから、
堂々と誇りをもって活躍しなさい、ということなのであろう。

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理趣経(リシユキヤウ)には、

「大貪大痴(ダイトンダイチ)是(コ)れ三摩地(サンマヂ)、
 是(コ)れ浄菩提(ジヤウボダイ)、淫欲是道(インヨクゼダウ)」

とあつて、いはゆる当相即道(タウサウソクダウ)の真諦(シンタイ)である。

 禁慾主義はいけぬ、恋愛は神聖であるといつて、
しかも之(コレ)を自然主義的、本能的で、
すなはち自己と同大程度に決行し、満足せむとするのが凡夫である。
これを拡充して宇宙大に実行するのが神である。

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時と処と位置をわきまえてさえいれば、人間が持つ欲望は、
別に恥じるべきものではない。

ただ真っ昼間に町中で、のべつまくなし淫欲に耽ったり、
電車の中などで、欲望に任せて嫌がる相手を痴漢する様なことをすれば、
それは時処位に適わないから、罰せられても仕方がない。

では、相手が喜んでくれればそれでいいのか?
といえば、やはり、不快に思う方もたくさんいるのだから、
調子に乗ってやり過ぎると、現行刑法に従って逮捕されても文句はいえない。

法律というのは、多くの感情の調停役の様なもので、
裁判官は、この法律を基準にして、各自の感情を考慮に入れて裁きを降すが、
これも基本は多数決の論理である。

大勢が不快に思うことを、あまり我を通してやり過ぎると、
悪者扱いされて追っ払われても『後悔先に立たず』ということになるのだ。

しかし、それはたまたま多数決の論理で裁かれただけなので、
その本質においては、何等の罪も無いものなのである。

したがって法が許した罪を社会が裁くこともあり、
法も社会も見過ごした罪を神が裁くこともあり、
法も社会も神も見過ごした罪を個人が裁くこともありで、
なかなか複雑怪奇な世の中であるが、その本質は皆同様なのだ。

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 神は三千世界の蒼生(サウセイ)は、皆わが愛子(アイジ)となし、
一切の万有を済度せむとするの、大欲望がある。

凡俗はわが妻子眷属(ケンゾク)のみを愛し、
すこしも他を顧(カヘリ)みないのみならず、自己のみが満足し、
他を知らざるの小貪慾を擅(ホシイママ)にするものである。

人の身魂(ミタマ)そのものは本来は神である。
ゆゑに宇宙大に活動し得べき、天賦的本能を具備してをる。

それで此の天賦の本質なる、智、愛、勇、親を開発し、
実現するのが人生の本分である。

これを善悪の標準論よりみれば、自我実現主義とでもいふべきか。

吾人の善悪両様の動作が、社会人類のため済度(サイド)のために、
そのまま賞罰二面の大活動を呈するやうになるものである。

この大なる威力と活動とが、すなはち神であり、
いはゆる自我の宇宙的拡大である。

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辛い仕事も、嫌々やらされていると思うと辛くて仕方がないが、
自ら楽しんでやれば、左程辛くもなくなり、
それを誰か他人や家族が喜んでくれると思うと、
何だか嬉しくなって来て妙にはかどるという様なものだ。

筆者は、どんなことも、先ず、自分に与えられた御神業だと思ってやるから、
最大級の公共事業のつもりなので、それが自分の為にもなるのは当然のこと、
他人や企業の為になるのも当然のことだと思うから、
常に自分も他人も無く自他一体の境地で活動している。

だから、筆者が自分の為にやる、と宣言した時には、
同時に、これは御神業である!と宣言しているのであり、
それは他人の為にも、家族の為にも、社会の為にも、
天下公共国家世界の為にもなる行為だと宣言しているのと同じなのだ。

しかし、自他一体ということは、
いつも皆がべったり一緒にいることではない。

離れ離れに暮らしていても、いつも一緒である、一心同体である、
ということなのだ。

人間に関わらず、全て固体というものは、あまりくっつき過ぎると、
反発し合って争いになるものである。

適度に距離を保ち、個人の尊厳が守られてこそ、
お互いを理解し合えるものだ。

人それぞれに個性も得意も違うのである。

また長所も短所もある。

一度、母の胎内から出産した胎児は、
どんなに望んでも母の胎内には戻れないが、
それでも親子は親子である。

一緒に育った兄弟でも、時が来れば、各自に新たな生活を営んで行くが、
各自が兄弟として育ったという事実は、永遠に変わらない。

万類皆神の子・神の宮ということも、また同様である。

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 いづれにしても、この分段(ブンダン)生死の肉身、
有漏雑染(ウロザツセン)の識心(シキシン)を捨てず、
また苦穢濁悪(クエジヨクアク)不公平なる現社会に離れずして、
ことごとく之(コレ)を美化し、楽化し、
天国浄土を眼前に実現せしむるのが、
吾人の成神観(セイシンクワン)であつて、また一大眼目とするところである。

 (大正十年二月八日、王仁)

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要するに、どんなつまらない物事にも神の力徳を見い出して、
これを大切にして育てて行けば、
各自の生活を豊かにしない物事は一つも無いのだから、
自ら、天国の一員として、明るく積極的に楽しく活きるのが、
神の子・神の宮の最重要使命である、ということである。

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第1篇 幽界の探険 第11章 大幣(オホヌサ)の霊験 (11)

2005年07月18日 14時51分20秒 | Weblog
 一歩々々辛(カラ)うじて前進すると、広大な池があつた。
池の中には全部いやらしい毛虫がウザウザしてをる。
その中に混つて馬の首を四ツ合せたやうな顔をした
蛇体で角(ツノ)が生えたものが、舌をペロペロ吐き出してをる。

この広い池には、細い細い氷の橋が
一筋長く向ふ側へ渡してあるばかりである。
後から「松(マツ)」「中(ナカ)」「畑(ハタケ)」といふ鬼が
十字形の尖つた槍をもつて突きにくるので、
前へすすむより仕方はない。

十人が十人ながら、池へすべり落て毛虫に刺され、
どれもこれも全身腫(ハレ)あがつて、
痛さと寒さに苦悶の声をしぼり、
虫の鳴くやうに呻(ウナ)つてをる状態は、
ほとんど瀕死の病人同様である。

その上、怪蛇(クワイダ)が一人々々カブツとくはへては吐きだし、
骨も肉も搾(シボ)つたやうにいぢめてをる。
自分もこの橋を渡らねばならぬ。
自分は幸(サイハヒ)に首尾よく渡りうるも、
連の人々はどうするであらうかと心配でならぬ。
躊躇逡巡進みかねたるところへ、

「三葉殿(ミツバドノ)」

と頭の上から優しい女の声が聞えて、
たちまち一本の大幣(オホヌサ)が前に降つてきた。
手早く手にとつて、思はず

「祓戸大神(ハラヒドノオホカミ)祓ひたまへ清めたまへ」

と唱へた。
広い池はたちまち平原と化し、
鬼も怪蛇(クワイダ)も姿を消してしまつた。

数万人の老若男女の幽体はたちまち
蘇生したやうに元気な顔をして、
一斉に「三ツ葉様」と叫んだ。
その声は、天地も崩れんばかりであつた。

各人の産土(ウブスナ)の神は綺羅星のごとくに出現したまひ、
自分の氏子々々(ウヂコウヂコ)を引連れ、
歓び勇んで帰つて行かれる有難さ。

 自分は比礼の神器を舟木(フナキ)に渡して、
困つてをつたところへ、金勝要神(キンカツカネノカミ)より、
大幣をたまはつたので、百万の援軍を得たる心地して、
名も知れぬ平原をただ一人またもや進んで行く。

 一つの巨大な洋館が、
儼然として高く雲表(ウンペウ)にそびえ立つてをる。
門口には厳めしき冥官が鏡のやうな眼を見張つて、
前後左右に首(カウベ)をめぐらし監視してをる。

部下の冥卒が数限りもなく現はれ、
各自に亡人を酷遇(コクグウ)するその光景は
筆紙につくされない惨酷さである。

自分は大幣を振りながら、館内へ歩をすすめた。
冥官も、冥卒もただ黙して
自分の通行するのを知らぬふうをしてゐる。

「キヤツキヤツ」と叫ぶ声にふりかへると、
沢山の婦女子が口から血を吐いたり、
槍で腹部を突き刺されたり、
赤児の群に全身の血を吸はれたり、
毒蛇に首を捲かれたりして、
悲鳴をあげ七転八倒してゐた。

冥卒が竹槍の穂で、頭といはず、腹といはず、
身体(シンタイ)処かまはず突きさす恐ろしさ、
血は流れて滝となり、異臭を放ち、
惨状目もあてられぬ光景である。

またもや大幣を左右左に二三回振りまはした。
今までのすさまじき幕はとざされ、
婦女子の多勢が自分の脚下(アシモト)に涙を流して集まりきたり、
中には身体に口をつけ

「三ツ葉様、有難う、辱(カタジケ)なう」

と、異口同音に嬉し泣きに泣いてをる。

一天たちまち明光現はれ、
各人の産土神(ウブスナノカミ)は氏子(ウヂコ)を伴なひ、
合掌しながら、光とともにどこともなく帰らせたまうた。
天の一方には歓喜にみちた声が聞える。
声は次第に遠ざかつて終には風の音のみ耳へ浸(シ)みこむ。

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平成十七(2005)年七月十八日 旧六月十三日(月)

『音惚花活気好@kakky』的
『第1篇 幽界の探険 第11章 大幣(オホヌサ)の霊験 (11)』分解

 一歩々々辛(カラ)うじて前進すると、広大な池があつた。
池の中には全部いやらしい毛虫がウザウザしてをる。
その中に混つて馬の首を四ツ合せたやうな顔をした
蛇体で角(ツノ)が生えたものが、舌をペロペロ吐き出してをる。

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こういう風に描かれているのを、畳の上で読書したら、
やはり奇怪でおぞましい気分になるかもしれないけれども、
生命力溢れる密林やジャングル、深山幽谷、海、河川、湖なら、
とにかく、こういう見たことも無い様な生物でごったがえしている筈だ。

それは一見地獄的様相ではあるけれども、
実は生命の源に入っているのである。

そこが池なのに毛虫や蛇がいるというのが、
ちょっと現実離れしているけれども、
生命が泉の様に湧き出て来る所だから、
形状的には池の形になっているのかもしれない。

人間の成人の生殖器なども、
見ようによっては、こういうどろどろとした生命力の源だから、
ぐちゃぐちゃとしているし、生きた粘液を出すから、
放っておけば、すぐ腐敗臭がして若者の悩みの種であるが、
そうでなければ、また子作りも出来ないことを思えば、
清潔で清楚ということだけでは生命活動が出来ないという事も、
真理であるということは自ずと判るはずである。

聖師さんの使命の第一は『女の天国復帰』だ。

神は天地夫婦一体のものであるから、
女性格である地獄に入って行くのである。

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この広い池には、細い細い氷の橋が
一筋長く向ふ側へ渡してあるばかりである。
後から「松(マツ)」「中(ナカ)」「畑(ハタケ)」といふ鬼が
十字形の尖つた槍をもつて突きにくるので、
前へすすむより仕方はない。

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男子の精液中に含まれる何億もの精虫には、精子と精兵がある。

しかしその中で、卵子に受精する精子はたった一個であると云われていて、
あとの精虫は皆、精兵として、
後から来る別の男体から発せられる精虫達と闘いつつ、
上記の『「松(マツ)」「中(ナカ)」「畑(ハタケ)」といふ鬼』同様、
自身のグループの精子が逆行しない様に、後ろから追撃するのである。

聖師さんは、天から発射された精子となって、
今、地の卵子に向かって大地の膣内にある子宮を旅しているわけだ。

『細い細い氷の橋』は子宮に潜む卵子に導く道なのである。

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十人が十人ながら、池へすべり落て毛虫に刺され、
どれもこれも全身腫(ハレ)あがつて、
痛さと寒さに苦悶の声をしぼり、
虫の鳴くやうに呻(ウナ)つてをる状態は、
ほとんど瀕死の病人同様である。

その上、怪蛇(クワイダ)が一人々々カブツとくはへては吐きだし、
骨も肉も搾(シボ)つたやうにいぢめてをる。

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精子を外敵から守り、また追い立てながら進む精兵は、
全て卵子に辿り着くこと無く果てて行くので、
こういう光景を後目にしながらも、
聖師さんは大地の奥へと進まねばならないのである。

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自分もこの橋を渡らねばならぬ。
自分は幸(サイハヒ)に首尾よく渡りうるも、
連の人々はどうするであらうかと心配でならぬ。
躊躇逡巡進みかねたるところへ、

「三葉殿(ミツバドノ)」

と頭の上から優しい女の声が聞えて、
たちまち一本の大幣(オホヌサ)が前に降つてきた。
手早く手にとつて、思はず

「祓戸大神(ハラヒドノオホカミ)祓ひたまへ清めたまへ」

と唱へた。
広い池はたちまち平原と化し、
鬼も怪蛇(クワイダ)も姿を消してしまつた。

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優しい女の声とは、はたして女神の声か、天地の母神の声か?

それとも聖師が到着するのを待ち焦がれる卵子たる姫神の声か?

自身の行方に暗澹たる闇を感じている所へ、
その方向の正しきを知らせてくれるかの様な女神の声は、
暗黒鬱蒼たる密林の闇を照らす穏やかな光となって、
周囲を明らかな平原のごとく照らし出したのだ。

奇しくも筆者も、この分解を行う前日の日中、昼寝の最中に、
こんな光景を思い出させる夢を見た。

それについては『OTOBOKE_KAKKY'S_GRAND_GOD_WEBSITE』
http://members.goo.ne.jp/home/otoboke_kakky
の『おとぼけ日記』7/17(日)に記録しておいたので、
興味ある方はWEB 検索して参照して頂きたい。

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数万人の老若男女の幽体はたちまち
蘇生したやうに元気な顔をして、
一斉に「三ツ葉様」と叫んだ。
その声は、天地も崩れんばかりであつた。

各人の産土(ウブスナ)の神は綺羅星のごとくに出現したまひ、
自分の氏子々々(ウヂコウヂコ)を引連れ、
歓び勇んで帰つて行かれる有難さ。

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数万人の老若男女の幽体は、
全て『各人の産土(ウブスナ)の神』が連れ帰ったとあるから、
その後の平原には一瞬無人状態が現出したに違いない。

上記に記した筆者の夢でも、大きな街なのに人陰が、
一切認められなかった不思議な光景を書き残してあるが、
筆者の疑問はこれで解消された様だ。

まったく『霊界物語』の分解などという、
勝手な作業を始めたのにも関わらず、
どうやらこれは神界からの援助を受けている行為らしい。

実は、この章の分解はどうするべきかと、
ちょっと思案にくれていたところだったのだが、
分解作業を始めてみて、今さらながらに、作業中の筆者自身が、
その奇跡に感心驚嘆しているところである。

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 自分は比礼の神器を舟木(フナキ)に渡して、
困つてをつたところへ、金勝要神(キンカツカネノカミ)より、
大幣をたまはつたので、百万の援軍を得たる心地して、
名も知れぬ平原をただ一人またもや進んで行く。

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ここで初めて声の女の正体が『金勝要神(キンカツカネノカミ)』である、
という事が判明するのだが、ということは、筆者が夢の中で聞いた女の声も、
『金勝要神(キンカツカネノカミ)』様だったのだろうか?

これはちょっとエキサイトせずにはいられない。

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 一つの巨大な洋館が、
儼然として高く雲表(ウンペウ)にそびえ立つてをる。
門口には厳めしき冥官が鏡のやうな眼を見張つて、
前後左右に首(カウベ)をめぐらし監視してをる。

部下の冥卒が数限りもなく現はれ、
各自に亡人を酷遇(コクグウ)するその光景は
筆紙につくされない惨酷さである。

自分は大幣を振りながら、館内へ歩をすすめた。
冥官も、冥卒もただ黙して
自分の通行するのを知らぬふうをしてゐる。

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地獄かとも思われた世界が、一変、天国の様相となり、
そしてそこに巨大な洋館が現れるというのは、
何でもないことの様に書かれているが、これは重要な神示である。

聖師さんが来た天は、方位としては東であり、霊の方向である。
そして聖師さんを追って来る鬼達は、南の地獄に一旦逃げて、
そこから武器を持ち、援軍を得て、聖師さんを追い立てて来た。

その聖師さんが向かっていた北の果てには、
一つの巨大な洋館が出て来るわけだが、
日本語で『洋館』というのは『西洋風の建物』という事であるから、
聖師さんは北西の方向に向かっていたことがわかる。

北西は『乾(いぬい)』の方角であるから、
神示として『乾の金神』がおわします位置にある国家といえば、
『大英帝国』ということになる。

幕末から現代に到るまで、わが国は、
この英国の影響下にある歴史的事実は否めない。

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「キヤツキヤツ」と叫ぶ声にふりかへると、
沢山の婦女子が口から血を吐いたり、
槍で腹部を突き刺されたり、
赤児の群に全身の血を吸はれたり、
毒蛇に首を捲かれたりして、
悲鳴をあげ七転八倒してゐた。

冥卒が竹槍の穂で、頭といはず、腹といはず、
身体(シンタイ)処かまはず突きさす恐ろしさ、
血は流れて滝となり、異臭を放ち、
惨状目もあてられぬ光景である。

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これは男尊女卑の悪習が幽界にもたらした地獄絵図で、
聖師さんは背後の幽界に、
蓄積されたそのカルマを目の当たりにしたのである。

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またもや大幣を左右左に二三回振りまはした。
今までのすさまじき幕はとざされ、
婦女子の多勢が自分の脚下(アシモト)に涙を流して集まりきたり、
中には身体に口をつけ

「三ツ葉様、有難う、辱(カタジケ)なう」

と、異口同音に嬉し泣きに泣いてをる。

一天たちまち明光現はれ、
各人の産土神(ウブスナノカミ)は氏子(ウヂコ)を伴なひ、
合掌しながら、光とともにどこともなく帰らせたまうた。
天の一方には歓喜にみちた声が聞える。
声は次第に遠ざかつて終には風の音のみ耳へ浸(シ)みこむ。

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そして『金勝要神(キンカツカネノカミ)』から賜った大幣の霊験で、
虐げられた婦女子の精霊を救済したわけである。

現代の英国が女王陛下国家であるということと、
この『霊界物語』に描かれた聖師さんの体験記は、
おそらく密接な関係があることにちがいないと筆者は思うのであるが、
しかし、『乾(いぬい)=英国』と限定するのも間違いかもしれない。

というのも、聖師さんは、『神示の鳴戸』のことを、

「日本の鳴門海峡は型で、本物はアジアのアラル海である。」

ということを仰っておられるから、
わが国からみて『乾の金神』というのは、
むしろこちらの方なのかもしれない。

またその他の『乾』候補として、『西王母』とか、
フランスのマリア伝説などもあるので、
今後、世界情勢を見る時に、
これら全てをよく注視しておくべきであろう。

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第1篇 幽界の探険 第10章 二段目の水獄 (10)

2005年07月06日 16時12分21秒 | Weblog
 自分は寒さと寂しさにただ一人、
「天照大神(アマテラスオホカミ)」の神号を唱へ奉(タテマツ)ると、
にはかに全身暖かくなり、空中に神光輝きわたる間もなく、
芙蓉(フヨウ)仙人が眼前に現はれた。

あまりの嬉しさに近寄り抱付(ダキツ)かうとすれば、
仙人はつひに見たこともない険悪な顔色をして、

 『いけませぬ。大王の命なれば、三(ミ)ツ葉殿(バドノ)、
  吾に近寄つては今までの修業は水泡に帰すべし。
  これにて一段目は大略探険されしならむ。
  第二段の門扉(モンピ)を開くために来たれり』

と言ひも終らぬに、早くもギイーと怪しい音がした一刹那、
自分は門内に投込まれてゐた。
仙人の影はそこらに無い。

 ヒヤヒヤとする氷結した暗い途(ミチ)を倒(コケ)つ転(マロ)びつ、
地の底へ地の底へとすべりこんだ。

暗黒で何一つ見えぬが、前後左右に何とも言へぬ苦悶の声がする。

はるか前方に、女の苦しさうな叫び声が聞える。
血醒(チナマグ)さい臭気が鼻を衝いて、胸が悪くて嘔吐を催(モヨホ)してくる。

たちまち脚元(アシモト)がすべつて、
何百間とも知れぬやうな深い地底へ急転直落した。
腰も足も頭も顔も岩角(イハカド)に打たれて血塗になつた。

神名を奉唱すると、自分の四辺(シヘン)数十間ばかりがやや明るくなつてきた。

自分は身体一面の傷を見て大いに驚き

「惟神霊幸倍坐世(カムナガラタマチハヘマセ)」

を二度繰返して、手に息をかけ全身を撫でさすつてみた。

神徳たちまち現はれ、傷も痛みも全部恢復(クワイフク)した。
ただちに大神様に拍手し感謝した。

言霊(コトタマ)の神力(シンリキ)で四辺遠く暗は晴れわたり、
にはかに陽気づいてきた。

 再び上の方で、ギイーと音がした瞬間に、
十二三人の男女が転落して自分の脚下に現はれ、
「助けて助けて」としきりに合掌する。

自分は比礼(ヒレ)をその頭上目がけて振つてやると、
たちまち起きあがり「三ツ葉様」と叫んで、一同声を合して泣きたてる。

一同の中には宗教家、教育家、思想家、新聞雑誌記者、
薬種商、医業者も混つてゐた。

一同は氷の途(ミチ)をとぼとぼと自分の背後からついてくる。

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平成十七(2005)年七月六日 旧六月一日(水)

『音惚花活気好@kakky』的
『第1篇 幽界の探険 第10章 二段目の水獄 (10)』分解

 自分は寒さと寂しさにただ一人、
「天照大神(アマテラスオホカミ)」の神号を唱へ奉(タテマツ)ると、
にはかに全身暖かくなり、空中に神光輝きわたる間もなく、
芙蓉(フヨウ)仙人が眼前に現はれた。

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普通一般的な宗教では、『神は温みである』とか、『神は光である』とか、
『神は愛である』とか、『神はコトバである』とか、『神は道である』とか、
いろいろと体裁のいいことをいって祭り上げるものであるが、
聖師さんが神界探訪を始めると、どんどんとこういう寒くて寂しい所に、
ただ一人にされる様な、まったく温みも、光も、愛も、コトバも、道も無い、
真っ暗闇の様な所に立たされる。

おかしな話であるとは思うだろうけれども、
元来最初の神様はひとりぼっちだったのだ。

最初の神様がひとりぼっちだったから、『温み』を求め、『光』を求め、
『愛』を求め、『コトバ』を発し、『道』となったのだ。

故に、最初の神様は創造に明け暮れた。

他が増えれば増える程、周囲が温くなって来る。

物が増えれば、それを確かめたいから、光も必要になって来る。

ひとりぼっちの寂しさから、創造を開始したのだから、
その創造物の全てを愛してやまぬのは当然だ。

そして、そうして出来た物と、心を交わしたいと云う愛念から、
コトバも必要になり、創造物を引き寄せる為に、
神自らが道となったのだ。

たった一人で寂しかったので、
最初の神様が『天を照らす光』を求めた時の言霊が、

「天照大神(アマテラスオホカミ)」の神号である。

従って、最初の神様は「天照大神(アマテラスオホカミ)」ではないことが判る。
他に何方(どなた)かがいらしたのだ。

この神様こそが『素』の神様であり、『Θ(ス)』の神様であり、
『神素盡嗚大神(かむすさのをのおほかみ)』様なのである。

即ち「天照大神(アマテラスオホカミ)」も、
『神素盡嗚大神(かむすさのをのおほかみ)』様から生まれたのだ。
故に「天照大神」もまた『神素盡嗚大神』なのだ。

そして聖師さん(喜三郎)が「天照大神(アマテラスオホカミ)」の神号を唱えると、

 『にはかに全身暖かくなり、
  空中に神光輝きわたる間もなく、芙蓉(フヨウ)仙人が眼前に現はれた。』

ということは、他を求める心は即ち愛であるから、内部から温かくなり、
内部が温かくなると、自然眼前も輝き始めるもので、
その情景が、『空中に神光輝きわたる』様に映るので、その刹那に、
芙蓉仙人が現れたわけである。

これは筆者の体験だが、
初めて一人で富士山の砂滑りを八号目まで登山した時、
そこは声を発しても何処にも届く感じがせず、空は青々と蒼いけれども、
その蒼さは、まるで底無しの沼を覗き込んだ時の様な、
海面で巨大な波に呑まれる時に味わう圧迫感の様なものがあり、
神に出会えるかと思って登山した富士山で、筆者は、例え様のない寂しさと、
退屈を一瞬のうちに味わった。

そして覚った。

「あの淀んだ空気の中にある人里にいて、
 そこで活動しないことには、何も生まれないのだ。
 まったく『水清ければ魚棲まず』とはよく云った物だ。」

そう覚ると、勢い好く下山したのだが、
それ以後、富士登山をしたいとは、あまり思わなくなった。

勿論、登山愛好家が、富士山を何度も登山するのは各自の自由であるから、
それについては批判するつもりはないのだが、
筆者がいうのは御神業のつもりで富士登山をしたいという気には、
この日以来ならなくなったというだけのことである。

聖師さんは地獄の様な所にいたのに対し、
筆者は天に最も近い筈の山頂近くにいて、
創造を開始する前の神様の心境を同様に味わうことが出来たのは、
まったく皮肉な話の様ではあるが、今にして思えば有り難いことであった。

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あまりの嬉しさに近寄り抱付(ダキツ)かうとすれば、
仙人はつひに見たこともない険悪な顔色をして、

 『いけませぬ。大王の命なれば、三(ミ)ツ葉殿(バドノ)、
  吾に近寄つては今までの修業は水泡に帰すべし。
  これにて一段目は大略探険されしならむ。
  第二段の門扉(モンピ)を開くために来たれり』

と言ひも終らぬに、早くもギイーと怪しい音がした一刹那、
自分は門内に投込まれてゐた。
仙人の影はそこらに無い。

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聖師さん(喜三郎)は、
ここで天地創造の起源を追体験する為の修行をしているのだから、
現れた仙人に抱き着いてしまっては、安心し切ってしまって、
創造と救いの神様と一体になる前に、救われてしまうから、
ここで甘えるわけにはいかないわけだ。

何故ならば、聖師さんは『新たなる創造』と『救い』を、
『もたらす側』の使命を持っているのだからである。

そして更なる修行の為に、門内に投げ込まれる。

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 ヒヤヒヤとする氷結した暗い途(ミチ)を倒(コケ)つ転(マロ)びつ、
地の底へ地の底へとすべりこんだ。

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筆者が主張する『穴』へと向かって、聖師さんは参入して行ったわけだ。

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暗黒で何一つ見えぬが、前後左右に何とも言へぬ苦悶の声がする。

はるか前方に、女の苦しさうな叫び声が聞える。
血醒(チナマグ)さい臭気が鼻を衝いて、胸が悪くて嘔吐を催(モヨホ)してくる。

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この時、聖師さんが聴いた『女の苦しさうな叫び声』というのは、
いわゆる『出産(うみ)の苦しみの声』でもあり、
黄泉(よみ)に隠れたイザナミノミコトのうめき声だった様だ。

古事記にいわゆる

「なりなりてなり足らざるところ」

への参入だから、そこから聞こえて来るのが女の苦悶の声であっても、
あまり不思議なことではない。

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たちまち脚元(アシモト)がすべつて、
何百間とも知れぬやうな深い地底へ急転直落した。
腰も足も頭も顔も岩角(イハカド)に打たれて血塗になつた。

神名を奉唱すると、自分の四辺(シヘン)数十間ばかりがやや明るくなつてきた。

自分は身体一面の傷を見て大いに驚き

「惟神霊幸倍坐世(カムナガラタマチハヘマセ)」

を二度繰返して、手に息をかけ全身を撫でさすつてみた。

神徳たちまち現はれ、傷も痛みも全部恢復(クワイフク)した。
ただちに大神様に拍手し感謝した。

言霊(コトタマ)の神力(シンリキ)で四辺遠く暗は晴れわたり、
にはかに陽気づいてきた。

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光や温みを求める時は、「天照大神(アマテラスオホカミ)」の神号を唱へ奉(タテマツ)り、
この様に、身の救いを求める時には、
「惟神霊幸倍坐世(カムナガラタマチハヘマセ)」を奏上すると好いのだろう。

実際、筆者も日常はこの「惟神霊幸倍坐世(カムナガラタマチハヘマセ)」を奏上する。

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 再び上の方で、ギイーと音がした瞬間に、
十二三人の男女が転落して自分の脚下に現はれ、
「助けて助けて」としきりに合掌する。

自分は比礼(ヒレ)をその頭上目がけて振つてやると、
たちまち起きあがり「三ツ葉様」と叫んで、一同声を合して泣きたてる。

一同の中には宗教家、教育家、思想家、新聞雑誌記者、
薬種商、医業者も混つてゐた。

一同は氷の途(ミチ)をとぼとぼと自分の背後からついてくる。

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聖師さんが、神界修行の実地が進み、先陣を切ったおかげで、
それに従う者が因縁によってついて来たわけだが、
その数が十二三人というあやふやな数なのは、
聖師さんこと喜三郎が、まだまだ摂理に暗かった証拠なのだろうか…

いやしかし、既に摂理に目覚めておられるから、
わざわざ暗号的に『十二三人』という数字を使っておられるのだろう。

筆者が思うには、おそらくこの時、十二人ならば、
聖師さんを中心として十二使徒が従ったので、
十三人ならば、聖師さんに、子と十二使徒が従ったことになる。

そして一同は氷の途をとぼとぼと進んで行くのだが、

『氷』は、水の中から、火の気が完全に抜け切った状態で、
『氷(こおり)』はまた『ひ』でもある。

天地の始まりは混沌の泥海だったので、
ここに氷の途が出来るということは、
即ち、泥海から水気だけが浮上して凝固したのであり、
大宇宙の穴に向かっている証拠である。

富士山等の高山には万年雪が残るが、
ここは地上から高く、太陽に近いにも関わらず、
水から火の気が足らなくなっている。

即ち、それは気圧の影響であるが、気圧が低いというのは、
また大宇宙の穴の条件の一つである。
故に山頂の様な高い所にも氷が残るのだ。

気圧が低いということは空気が薄いということで、
太陽の光も、空気が薄ければ熱を発し得ないわけだ。

熱は、水気と火気の結びによって発生する。

空気は空中の海の様なものである。

氷もそうであるが、土や鉱物等も、熱によって液状化する。

この熱は、単に光だけでは発生しない。

光に含まれる火気と物質に含まれる水気が結合して熱が生まれるのだ。

そして今、聖師さんと十二三人の従者は、
『天照大神』の神号奏上によって光となり、
氷の途を辿ってより暗黒の地下に参入して行くので、
それが為に昔年の罪業の氷解が始まって行くわけである。

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第1篇 幽界の探険 第9章 雑草の原野 (9)

2005年07月01日 18時33分22秒 | Weblog
 雑草の原野の状況は、実に殺風景であつた。
自分は、いつしか又一人となつてゐた。
頭の上からザラザラと怪しい音がする。

何心なく仰向(アフム)くとたんに両眼に焼砂のやうなものが飛び込み、
眼を開くこともできず、
第一に眼の球が焼けるやうな痛さを感ずるとともに
四面暗黒になつたと思ふと、
何物とも知らず自分の左右の手を抜けんばかりに曳(ヒ)くものがある。

また両脚を左右に引き裂かうとする。
なんとも形容のできぬ苦しさである。
頭上からは冷たい冷たい氷の刃(ヤイバ)で梨割(ナシワ)りにされる。
百雷の一時に轟(トドロ)くやうな音がして、
地上は波のやうに上下左右に激動する。
怪しい、いやらしい、悲しい声が聞える。

自分は一生懸命になつて、
例の「アマテラスオホミカミ」を、
切れぎれに漸つと口唱するとたんに、
天地開明の心地して目の痛もなほり、
不思議や自分は女神(メガミ)の姿に化してゐた。

 舟木ははるかの遠方から、
比礼(ヒレ)を振りつつ此方(コツチ)へむかつて帰つてくる。
その姿を見たときの嬉しさ、二人は再会の歓喜に充ち、
暫時休息してゐると、後より「松(マツ)」といふ悪鬼が現はれ、
光すさまじき氷の刃で切つてかかる。
舟木はただちに比礼を振る、自分は神名を唱へる。
悪鬼は二三の同類とともに足早く南方さして逃げてゆく。

 どこからともなく「北へ北へ」と呼ばはる声に、
機械のごとく自分の身体が自然に進んで行く。
そこへ「坤(ヒツジサル)」といふ字のついた、
王冠をいただいた女神(メガミ)が、
小松林(コマツバヤシ)といふ白髪の老人とともに現はれて、
一本の太い長い筆を自分に渡して姿を隠された。
見るまに不思議やその筆の筒(ツツ)から硯(スズリ)が出る、
墨が出る、半紙が山ほど出てくる。
そして姿は少しも見えぬが、
頭の上から「筆を持て」といふ声がする。
二三人の童子が現はれて硯に水を注(ツ)ぎ墨を摺つたまま、
これも姿をかくした。

 自分は立派な女神の姿に変化したままで、
一生懸命に半紙にむかつて機械的に筆をはしらす。
ずゐぶん長い時間であつたが、
冊数はたしかに五百六十七であつたやうに思ふ。
そこへにはかに何物かの足音が聞えたと思ふまもなく、
前の「中」という鬼が現はれ、槍の先に数十冊づつ突き刺し、
をりからの暴風目がけ中空に散乱させてしまうた。
さうすると、又もや数十冊分の同じ容積の半紙が、
自分の前にどこからともなく湧(ワ)いてくる。
また是も筆をはしらさねばならぬやうな気がするので、
寒風の吹きすさぶ野原の枯草の上に坐つて、
凹凸(アフトツ)のはなはだしい石の机に紙を伸べ、
左手(ユンデ)に押さへては、セツセと何事かを書いてゐた。
そこへ今度は眼球(メダマ)の四ツある怪物を先導に、
平(ヒラ)だの、中(ナカ)だの、木(キ)だの、後(ゴ)だの、
田(タ)だの、竹(タケ)だの、村(ムラ)だの、与(ヨ)だの、藤(トウ)だの、
井(イ)だの印(シルシ)の入つた法被(ハツピ)を着た鬼がやつてきて、
残らず引さらへ、二三丁先の草の中へ積み重ねて、
これに火をかけて焼く。

 そこへ、「西(ニシ)」といふ色の蒼白(アヲジロ)い男が出てきて、
一抱へ抜きだして自分の前へ持つてくる。
鬼どもは一生懸命に「西」を追ひかけてくる。
自分が比礼(ヒレ)をふると驚いて皆逃げてゆく。
火は大変な勢で自分の書いたものを灰にしてゐる。
黒い煙が竜の姿に化つて天上へ昇つてゆく。
天上では電光のやうに光つて、数限りなき星と化してしまうた。
その星明りに「西」は書類を抱へて、南の空高く姿を雲に隠した。
女神(メガミ)の自分の姿は、
いつとはなしに又元の囚人の衣に復(カヘ)つてをつた。
俄然寒風吹き荒(スサ)み、歯はガチガチと震うてきた。
そして何だかおそろしいものに、
襲はれたやうな寂しい心持がしだした。

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平成十七(2005)年月日 旧月日()

『音惚花活気好@kakky』的
『第1篇 幽界の探険 第9章 雑草の原野 (9)』分解

 雑草の原野の状況は、実に殺風景であつた。
自分は、いつしか又一人となつてゐた。
頭の上からザラザラと怪しい音がする。

何心なく仰向(アフム)くとたんに両眼に焼砂のやうなものが飛び込み、
眼を開くこともできず、
第一に眼の球が焼けるやうな痛さを感ずるとともに
四面暗黒になつたと思ふと、
何物とも知らず自分の左右の手を抜けんばかりに曳(ヒ)くものがある。

また両脚を左右に引き裂かうとする。
なんとも形容のできぬ苦しさである。
頭上からは冷たい冷たい氷の刃(ヤイバ)で梨割(ナシワ)りにされる。
百雷の一時に轟(トドロ)くやうな音がして、
地上は波のやうに上下左右に激動する。
怪しい、いやらしい、悲しい声が聞える。

自分は一生懸命になつて、
例の「アマテラスオホミカミ」を、
切れぎれに漸つと口唱するとたんに、
天地開明の心地して目の痛もなほり、
不思議や自分は女神(メガミ)の姿に化してゐた。

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さながら『桃太郎』の誕生か?『かぐや姫』の出現か?
という様な、これらを一つに合わせて二で割った様な情景描写である。

実際、聖師さんがこれから神様から授けられる御使命は、
桃太郎の鬼退治であり、月の神様の活動であるから、
筆者が今、この二つのおとぎ話を思い出したのは、
あまりピントはずれでもないだろう。

ところで、ここでははじめ聖師さんが眼をやられる場面が描写されているが、
筆者も今春の花粉症で、随分と両目を痛めつけられ、
その症状はまったく上記の様な感じであり、二ヶ月間ほども苦しんだので、
なんだか、この章を読んでいると妙な気分になる。

そして左右の手足を抜き裂けんばかりに何者かに引っ張られたとあるが、
筆者も今年の花粉症の期間は、寝床に入るたびに、こんな苦しみを味わった。

最後に頭上から冷たい氷の刃で梨割りにされるという情景が、
桃太郎の誕生である桃割り、
かぐや姫が閉じ込められていた竹を切り割る事を連想させたのだが、
これは行者の滝行の起因を示しておられる様だ。

梨は肉体で、桃太郎の桃、かぐや姫の竹に共通するのだ。

要するにここには鎮魂帰神行法の初段の神秘が記されているのだ。

それと、これは大本神業の要(かなめ)なのだが、

桃から生まれた桃太郎は女体男霊、即ち変性男子で、
桃が女体で桃太郎が男霊だ。

竹から生まれたかぐや姫は男体女霊、即ち変性女子で、
竹が男体でかぐや姫が女霊だ。

ここでは梨割りにされた頭から、聖師さんの御本体である精霊が、
正守護神として現われて来るまでのことが、
当時の心境そのままに、喜三郎青年が困惑しながら体験していることが、
脚色無しに描写されているのだ。

ちなみに梨は男体的果実である。

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 舟木ははるかの遠方から、
比礼(ヒレ)を振りつつ此方(コツチ)へむかつて帰つてくる。
その姿を見たときの嬉しさ、二人は再会の歓喜に充ち、
暫時休息してゐると、後より「松(マツ)」といふ悪鬼が現はれ、
光すさまじき氷の刃で切つてかかる。
舟木はただちに比礼を振る、自分は神名を唱へる。
悪鬼は二三の同類とともに足早く南方さして逃げてゆく。

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鎮魂帰神の行に入ると、肉体が一瞬空虚になるので、
正神と邪神の二種類が、その肉体を代にして、
それぞれの想いを遂げようとするので、
この時に、行者が両手で神印を結んで九字を切って魔を祓うことの意味を、
ここでは記してあるのだ。

そして『南方』は天地の地であり、『地上天国』であるが、
ヤチマタでは、火炎地獄方面である。

即ち『松』という悪魔が逃げていったのは、この火炎地獄になるわけだ。

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 どこからともなく「北へ北へ」と呼ばはる声に、
機械のごとく自分の身体が自然に進んで行く。

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北は、天の位である。
天宮の中心にある北極星、北斗七星に位する。

天意の北にはこの様な意味があるのだが、
一方でヤチマタでは、北は熱が無いので地獄方面に最も近い位置である。

筆者は『いのちのひびき』の中で、
天地創造のきっかけは、大虚空中に出現した一点の穴が、
周囲の全てを引き込もうとして活動を開始した事に端を発すると
主張している。

即ち、この穴は陰性であり、地獄性を持ち、
この穴から温度がなくなったがために、周囲の温度が高くなったのだ。

即ち『伸びるほど 頭をたれる 稲穂かな』という歌の様に、
大宇宙の中心に謙譲の美徳が生まれた瞬間に、
全ての創造活動が開始したわけである。

出口王仁三郎聖師が穴太(あなお)に生まれたことも、
この事と密接な関係があるのである。

即ち、天位の神霊が、地上のどん底的貧農の子として、
穴太の地に降誕した事の神意だ。

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そこへ「坤(ヒツジサル)」といふ字のついた、
王冠をいただいた女神(メガミ)が、
小松林(コマツバヤシ)といふ白髪の老人とともに現はれて、
一本の太い長い筆を自分に渡して姿を隠された。
見るまに不思議やその筆の筒(ツツ)から硯(スズリ)が出る、
墨が出る、半紙が山ほど出てくる。
そして姿は少しも見えぬが、
頭の上から「筆を持て」といふ声がする。
二三人の童子が現はれて硯に水を注(ツ)ぎ墨を摺つたまま、
これも姿をかくした。

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聖師さんが大霊界の中心である『北』へ向かったので、
その輔佐をする為に坤の金神様と小松林命が現れたのである。

やがて聖師さんが開祖さん御昇天後に御筆先の御用を継承することの神示だ。

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 自分は立派な女神の姿に変化したままで、
一生懸命に半紙にむかつて機械的に筆をはしらす。
ずゐぶん長い時間であつたが、
冊数はたしかに五百六十七であつたやうに思ふ。
そこへにはかに何物かの足音が聞えたと思ふまもなく、
前の「中」という鬼が現はれ、槍の先に数十冊づつ突き刺し、
をりからの暴風目がけ中空に散乱させてしまうた。
さうすると、又もや数十冊分の同じ容積の半紙が、
自分の前にどこからともなく湧(ワ)いてくる。
また是も筆をはしらさねばならぬやうな気がするので、
寒風の吹きすさぶ野原の枯草の上に坐つて、
凹凸(アフトツ)のはなはだしい石の机に紙を伸べ、
左手(ユンデ)に押さへては、セツセと何事かを書いてゐた。
そこへ今度は眼球(メダマ)の四ツある怪物を先導に、
平(ヒラ)だの、中(ナカ)だの、木(キ)だの、後(ゴ)だの、
田(タ)だの、竹(タケ)だの、村(ムラ)だの、与(ヨ)だの、藤(トウ)だの、
井(イ)だの印(シルシ)の入つた法被(ハツピ)を着た鬼がやつてきて、
残らず引さらへ、二三丁先の草の中へ積み重ねて、
これに火をかけて焼く。

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ここでは聖師さんが五六七(みろく)大神の神業を開始すると、
悪魔がこれに対して二度にわたる大きな妨害をするということで、
後の第一次大本弾圧、第二次大本弾圧を示唆しておられるのだ。

筆者も、今の活動が出来る様になるまでに、
ある人の所に、二度居候になったが、
一度目は仕事上の食い違いで、割と穏やかに筆者自ら退陣したが、
二度目はお互いに激しく衝突して、半ば追い出される様に退陣して、
ようやく新天地で、以前に比べると、
大幅にのびのびとした心境で書き込み活動が出来る様になった。

勿論、弾圧される時は、いい気分ではないし、
そこから立て直して行くのは本当に大変だけれど、
なんとか立ち直りさえすれば、あとはかなり好い気分である。

立替立直しは『後になるほどよくなるしくみ』なのだ。

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 そこへ、「西(ニシ)」といふ色の蒼白(アヲジロ)い男が出てきて、
一抱へ抜きだして自分の前へ持つてくる。
鬼どもは一生懸命に「西」を追ひかけてくる。
自分が比礼(ヒレ)をふると驚いて皆逃げてゆく。
火は大変な勢で自分の書いたものを灰にしてゐる。
黒い煙が竜の姿に化つて天上へ昇つてゆく。
天上では電光のやうに光つて、数限りなき星と化してしまうた。
その星明りに「西」は書類を抱へて、南の空高く姿を雲に隠した。
女神(メガミ)の自分の姿は、
いつとはなしに又元の囚人の衣に復(カヘ)つてをつた。
俄然寒風吹き荒(スサ)み、歯はガチガチと震うてきた。
そして何だかおそろしいものに、
襲はれたやうな寂しい心持がしだした。

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これは第二次大戦時に、空襲や特攻等で散って星になった兵士や市民と、
『西』の国々での戦乱と、わが国での原爆投下に通ずるものを感じさせる。

それらのことは、全て祓戸四柱(はらいどよはしら)の女神様の活動である。

先に描写される『目玉が四つある怪物』に対比する形で、
この祓戸四柱(はらいどよはしら)の女神様の活動があるのだ。

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