自分が高熊山中(タカクマサンチユウ)における、顕界と、霊界の修業の間に、
親しく実践したる大略の一端を略述してみたのは、
真の一小部分に過ぎない。
すべて宇宙の一切は、顕幽一致、善悪一如にして、
絶対の善もなければ、絶対の悪もない。
従つてまた、絶対の極楽もなければ、
絶対の苦艱(クカン)もないといつて良いくらゐだ。
歓楽の内に艱苦(カンク)があり、艱苦の内に歓楽のあるものだ。
ゆゑに根(ネ)の国(クニ)、底(ソコ)の国(クニ)に墜(オ)ちて、
無限の苦悩を受けるのは、
要するに、自己の身魂(ミタマ)より産出したる報いである。
また顕界の者の霊魂(ミタマ)が、常に霊界に通じ、
霊界からは、常に顕界と交通を保ち、
幾百千万年といへども易(カハ)ることはない。
神諭(シンユ)に、……天国も地獄も皆自己の身魂より顕出すると。
故に世の中には悲観を離れた楽観はなく、
罪悪と別立(ベツリツ)したる真善美もない。
苦痛を除いては、真の快楽を求められるものでない。
また凡夫の他(ホカ)に神はない。
言を換ていへば善悪不二(フジ)にして正邪一如である。
……仏典にいふ。
「煩悩即菩提(ボンナウソクボダイ)。生死即涅槃(シヤウジソクネハン)。
娑婆即浄土(シヤバソクジヤウド)。仏凡本来不二(ブツボンホンライフジ)」
である。
神の道からいへば「神俗本来不二(シンゾクホンライフジ)」が真理である。
仏の大慈悲といふも、神の道の恵み幸(サチ)はひといふも、
凡夫の欲望といふのも、その本質においては大した変りはない。
凡俗の持てる性質そのままが神であるといつてよい。
神の持つてをらるる性質の全体が、
皆ことごとく凡俗に備はつてをるといつてもよい。
天国浄土と社会娑婆とは、その本質において、
毫末の差異もないものである。
かくの如く本質においては全然同一のものでありながら、
何ゆゑに神俗、浄穢(ジヤウエ)、正邪、善悪が分るるのであらうか。
要するに此の本然の性質を十分に発揮して、
適当なる活動をすると、せぬとの程度に対して、
附したる仮定的の符号に過ぎないのだ。
善悪といふものは決して一定不変のものではなく、
時と処と位置とによつて、善も悪となり、悪も善となることがある。
道(ミチ)の大原(タイゲン)にいふ。
「善は天下公共のために処(シヨ)し、悪は一人の私有に所(シヨ)す。
正心徳行は善なり、不正無行(ムカウ)は悪なり」
と。
何ほど善き事といへども、自己一人の私有に所するための善は、
決して真の善ではない。
たとへ少々ぐらゐ悪が有つても、天下公共のためになる事なれば、
これは矢張善と言はねばならぬ。
文王(ブンワウ)一たび怒つて天下治まる。
怒るもまた可なり、といふべしである。
これより推(オ)し考ふる時は、
小さい悲観の取るに足らざるとともに、
勝論外道的(シヨウロンゲダウテキ)の暫有的小楽観もいけない。
大楽観と大悲観とは結局同一に帰するものであつて、
神は大楽観者であると同時に、大悲観者である。
凡俗は小なる悲観者であり、また小なる楽観者である。
社会、娑婆、現界は、小苦小楽の境界であり、
霊界は、大楽大苦の位置である。
理趣経(リシユキヤウ)には、
「大貪大痴(ダイトンダイチ)是(コ)れ三摩地(サンマヂ)、
是(コ)れ浄菩提(ジヤウボダイ)、淫欲是道(インヨクゼダウ)」
とあつて、いはゆる当相即道(タウサウソクダウ)の真諦(シンタイ)である。
禁慾主義はいけぬ、恋愛は神聖であるといつて、
しかも之(コレ)を自然主義的、本能的で、
すなはち自己と同大程度に決行し、満足せむとするのが凡夫である。
これを拡充して宇宙大に実行するのが神である。
神は三千世界の蒼生(サウセイ)は、皆わが愛子(アイジ)となし、
一切の万有を済度せむとするの、大欲望がある。
凡俗はわが妻子眷属(ケンゾク)のみを愛し、
すこしも他を顧(カヘリ)みないのみならず、自己のみが満足し、
他を知らざるの小貪慾を擅(ホシイママ)にするものである。
人の身魂(ミタマ)そのものは本来は神である。
ゆゑに宇宙大に活動し得べき、天賦的本能を具備してをる。
それで此の天賦の本質なる、智、愛、勇、親を開発し、
実現するのが人生の本分である。
これを善悪の標準論よりみれば、自我実現主義とでもいふべきか。
吾人の善悪両様の動作が、社会人類のため済度(サイド)のために、
そのまま賞罰二面の大活動を呈するやうになるものである。
この大なる威力と活動とが、すなはち神であり、
いはゆる自我の宇宙的拡大である。
いづれにしても、この分段(ブンダン)生死の肉身、
有漏雑染(ウロザツセン)の識心(シキシン)を捨てず、
また苦穢濁悪(クエジヨクアク)不公平なる現社会に離れずして、
ことごとく之(コレ)を美化し、楽化し、
天国浄土を眼前に実現せしむるのが、
吾人の成神観(セイシンクワン)であつて、また一大眼目とするところである。
(大正十年二月八日、王仁)
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親しく実践したる大略の一端を略述してみたのは、
真の一小部分に過ぎない。
すべて宇宙の一切は、顕幽一致、善悪一如にして、
絶対の善もなければ、絶対の悪もない。
従つてまた、絶対の極楽もなければ、
絶対の苦艱(クカン)もないといつて良いくらゐだ。
歓楽の内に艱苦(カンク)があり、艱苦の内に歓楽のあるものだ。
ゆゑに根(ネ)の国(クニ)、底(ソコ)の国(クニ)に墜(オ)ちて、
無限の苦悩を受けるのは、
要するに、自己の身魂(ミタマ)より産出したる報いである。
また顕界の者の霊魂(ミタマ)が、常に霊界に通じ、
霊界からは、常に顕界と交通を保ち、
幾百千万年といへども易(カハ)ることはない。
神諭(シンユ)に、……天国も地獄も皆自己の身魂より顕出すると。
故に世の中には悲観を離れた楽観はなく、
罪悪と別立(ベツリツ)したる真善美もない。
苦痛を除いては、真の快楽を求められるものでない。
また凡夫の他(ホカ)に神はない。
言を換ていへば善悪不二(フジ)にして正邪一如である。
……仏典にいふ。
「煩悩即菩提(ボンナウソクボダイ)。生死即涅槃(シヤウジソクネハン)。
娑婆即浄土(シヤバソクジヤウド)。仏凡本来不二(ブツボンホンライフジ)」
である。
神の道からいへば「神俗本来不二(シンゾクホンライフジ)」が真理である。
仏の大慈悲といふも、神の道の恵み幸(サチ)はひといふも、
凡夫の欲望といふのも、その本質においては大した変りはない。
凡俗の持てる性質そのままが神であるといつてよい。
神の持つてをらるる性質の全体が、
皆ことごとく凡俗に備はつてをるといつてもよい。
天国浄土と社会娑婆とは、その本質において、
毫末の差異もないものである。
かくの如く本質においては全然同一のものでありながら、
何ゆゑに神俗、浄穢(ジヤウエ)、正邪、善悪が分るるのであらうか。
要するに此の本然の性質を十分に発揮して、
適当なる活動をすると、せぬとの程度に対して、
附したる仮定的の符号に過ぎないのだ。
善悪といふものは決して一定不変のものではなく、
時と処と位置とによつて、善も悪となり、悪も善となることがある。
道(ミチ)の大原(タイゲン)にいふ。
「善は天下公共のために処(シヨ)し、悪は一人の私有に所(シヨ)す。
正心徳行は善なり、不正無行(ムカウ)は悪なり」
と。
何ほど善き事といへども、自己一人の私有に所するための善は、
決して真の善ではない。
たとへ少々ぐらゐ悪が有つても、天下公共のためになる事なれば、
これは矢張善と言はねばならぬ。
文王(ブンワウ)一たび怒つて天下治まる。
怒るもまた可なり、といふべしである。
これより推(オ)し考ふる時は、
小さい悲観の取るに足らざるとともに、
勝論外道的(シヨウロンゲダウテキ)の暫有的小楽観もいけない。
大楽観と大悲観とは結局同一に帰するものであつて、
神は大楽観者であると同時に、大悲観者である。
凡俗は小なる悲観者であり、また小なる楽観者である。
社会、娑婆、現界は、小苦小楽の境界であり、
霊界は、大楽大苦の位置である。
理趣経(リシユキヤウ)には、
「大貪大痴(ダイトンダイチ)是(コ)れ三摩地(サンマヂ)、
是(コ)れ浄菩提(ジヤウボダイ)、淫欲是道(インヨクゼダウ)」
とあつて、いはゆる当相即道(タウサウソクダウ)の真諦(シンタイ)である。
禁慾主義はいけぬ、恋愛は神聖であるといつて、
しかも之(コレ)を自然主義的、本能的で、
すなはち自己と同大程度に決行し、満足せむとするのが凡夫である。
これを拡充して宇宙大に実行するのが神である。
神は三千世界の蒼生(サウセイ)は、皆わが愛子(アイジ)となし、
一切の万有を済度せむとするの、大欲望がある。
凡俗はわが妻子眷属(ケンゾク)のみを愛し、
すこしも他を顧(カヘリ)みないのみならず、自己のみが満足し、
他を知らざるの小貪慾を擅(ホシイママ)にするものである。
人の身魂(ミタマ)そのものは本来は神である。
ゆゑに宇宙大に活動し得べき、天賦的本能を具備してをる。
それで此の天賦の本質なる、智、愛、勇、親を開発し、
実現するのが人生の本分である。
これを善悪の標準論よりみれば、自我実現主義とでもいふべきか。
吾人の善悪両様の動作が、社会人類のため済度(サイド)のために、
そのまま賞罰二面の大活動を呈するやうになるものである。
この大なる威力と活動とが、すなはち神であり、
いはゆる自我の宇宙的拡大である。
いづれにしても、この分段(ブンダン)生死の肉身、
有漏雑染(ウロザツセン)の識心(シキシン)を捨てず、
また苦穢濁悪(クエジヨクアク)不公平なる現社会に離れずして、
ことごとく之(コレ)を美化し、楽化し、
天国浄土を眼前に実現せしむるのが、
吾人の成神観(セイシンクワン)であつて、また一大眼目とするところである。
(大正十年二月八日、王仁)
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