『音惚花活気好@kakky』=垣内政治的《霊界物語学》の日記的な雑記の様なレポート状の諸々?

出口王仁三郎聖師による弥勒胎蔵経『霊界物語』を『音惚花活気好@kakky』的に学問してみるランダムレポート?

第38章 回春(クワイシユン)の歓(ヨロコビ) (238)

2010年05月31日 23時25分17秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第六篇 聖地の憧憬

 祝部神(ハフリベノカミ)は車上鷹住別(タカスミワケ)が
さめざめと男泣きに泣き出づる姿を見て、眉をしかめ、

 『吾々は男子のくせに吠面(ホエヅラ)かわく奴(ヤツ)は、
  大大大(ダイダイダイ)の大嫌(ダイキラ)ひでござる』

と事もなげにいつて退(ノ)け、
かつ心中には鷹住別の今日の窮状に満腔(マンコウ)の同情を寄せながら、
わざと潔(イサギヨ)く彼が心を引き立てむとして、
またもや面白き歌をつくり、杉高彦(スギタカヒコ)、祝彦(ハフリヒコ)とともに
手を取りあふて巴(トモエ)のごとく渦(ウヅ)をつくりて、
くるくると左旋(サセン)しはじめた。

その歌、

『鮒(フナ)や諸子(モロコ)は止めても止まる
 止めて止まらぬ鯉(コヒ)の道(ミチ)
 どつこいしよ、どつこいしよ
 鯉(コヒ)に上下(ジヤウゲ)の隔(ヘダ)てはなかろ
 隔てがあれば鯉ならず
 たれも好くのは色の鱶鮫(フカサメ)
 腰(コシ)は鮒々(フナフナ)女(ヲンナ)の刺身(サシミ)で
 鮒(エヒブナ)とようがり嬉(ウレ)しがり
 れこの赤貝(アカガヒ)に夜昼蛤(ヨルヒルハマグリ)
 この世(ヨ)のせと貝(ガヒ)は鰆々(サハラサハラ)
 さらさらかますで
 穴子(アナゴ)にうちこみ
 他神(タシン)に意見(イケン)を鰯(イワシ)ておいて
 鯔(イナ)ともいかなごともさつぱり
 飯蛸(イヒダコ)やなまくら海鼠(ナマコ)に
 ちやらくら口(クチ)さいら
 口(クチ)にまかして鰤々(ブリブリ)怒(オコ)るな
 目白(メジロ)もむかずに
 つばすを呑(ノ)み込(コ)み
 鯉(コヒ)のためならいかなごの
 辛抱(シンボウ)も寿留女(スルメ)がやくだよ
 赤(アカエヒ)年(トシ)でもない身(ミ)でゐながら
 かざみに理屈(リクツ)は鼈(スツポン)の
 間(マ)には鮎(アユ)ない屁理屈(ヘリクツ)よ
 鰐(ワニ)が悪(ワル)けりや
 尼鯛(アマダヒ)鱒(マス)から蟹(カニ)して下(クダ)さい
 黄頴(ギギ)しいらねば泥溝貝(ドブガヒ)なとしたがよい
 お前(マヘ)に油女(アブラメ)頭(アタマ)の数(カズ)の子(コ)
 探(サガ)そとままだよ
 一度死(イチドシ)んだら二度(ニド)とは死(シ)なない
 一(イツ)そう茅渟鯛(チヌダヒ)
 小鮒(コフナ)浮世(ウキヨ)に生蝦(ナマエビ)したとて
 針魚(サヨリ)がないから命(イノチ)は鰆(サハラ)に
 惜(ヲ)しみはせないよ
 黄螺(バイニシ)、黄螺(バイニシ)
 白魚(シラウヲ)もやして海豚(イルカ)より鱒(マス)だが
 塩魚(シホウヲ)ぐしには戸(ト)が立(タ)てられない
 乾海鼠(キンコ)となりの手前(テマヘ)も恥(ハヅ)かし
 ぷんぷん香(ニホ)ふた腐(クサ)つた魚(ウヲ)の
 腐(クサ)つた鯉(コヒ)に鼻(ハナ)ぴこつかせて
 春日(カスガ)の狐(キツネ)、油揚(アブラゲ)さらへた鷹住別(タカスミワケ)の
 やつれた姿(スガタ)のかます面(ヅラ)
 鯉(コヒ)に上下(ジヤウゲ)の隔(ヘダ)てはないと
 エラソにエラソに小塩鯛(コシホダヒ)いふ故(ユエ)に
 このしろものは六ケ敷(ムツカシキ)と神々(カミガミ)にいやがられ
 こちからより付(ツ)かぬが鰆(サハラ)ぬ神(カミ)に
 祟(タタ)りなしと逃腰(ニゲゴシ)さごしに
 平家蟹(ヘイケガニ)見(ミ)たよな鱚(キス)ごい顔付(カホツキ)
 烏賊(イカ)にさごしが鯖(サバ)けてゐたとて
 ごまめの仕打(シウ)ちがこのしろないゆゑ
 鯉(コヒ)ことばも言(イ)はねばならない
 さすれば栄螺(サザエ)に散子(ハララゴ)太刀魚(タチウヲ)
 春日(カスガ)は刺身(サシミ)よ鷹住(タカスミ)は好(ス)き身(ミ)よ
 祝部神(ハフリベノカミ)が今(イマ)かます
 鼬(イタチ)の最後屁(サイゴペ)くらつて見(ミ)よ
 臭(クサ)いくさいと夕月夜(ユフヅキヨ)
 月夜(ツキヨ)を呪(ノロ)ふ恋仲(コヒナカ)の
 臭(クサ)い仲(ナカ)ではなかつたか
 あゝ邪魔(ジヤマ)くさい邪魔(ジヤマ)くさい
 四十九才(シジフクサイ)の尻(ケツ)の穴(アナ)』

と滑稽諧謔とめどもなく、歌をうたつて踊り狂ふた。

車上の鷹住別はこの面白き歌に霊魂(タマシヒ)を抜かれて、
奇怪なる身ぶり足ぶりに感染してか、
足萎の身もうち忘れ、車上にたちまち立ち上り、
共に手をうち足踏(アシフ)みとどろかせ踊りくるふ。

 春日姫(カスガヒメ)はこの光景を見てうれし泣きに泣き伏した。
鷹住別ははじめて吾が足の立ちしに気がつき、
またもや声をはなつて嬉し泣きに泣きだした。

祝部神(ハフリベノカミ)は又もや、

 『泣く奴は大大大(ダイダイダイ)の大嫌(ダイキラ)ひ』

と謡ひかけた。

 『ちよつと待つて』

と春日姫はあわてて口を押へた。

祝部神は鼻の上に拳(コブシ)をのせ、
またその上に左の手の拳をかさね、
漸次代るがはる抜いては重ね、抜いては重ね、
鼻高神(ハナダカガミ)の真似をしながら、

『躄が立(タ)つた、足立(アシタ)つた
 立(タ)つた、立(タ)つたはたつた今(イマ)
 さあさあこの場(バ)を逸早(イチハヤ)く
 聖地(セイチ)を指(サ)して立(タ)つて行(イ)かう』

と元気さうにまたもや踊り狂ひ、
傍(カタハラ)の細溝(ホソミゾ)に足踏みはづし、

 『アイタタツタ、アイタアイタノタツタ』

とまたもや気楽さうに溝の中に落ちたまま踊りくるふと、
五柱(イツハシラ)の神司(カミガミ)は一時にどつと笑ひこけた。

 いよいよここに心の岩戸(イハト)は開(ア)け初(ソ)めて、
さしも難病の躄の足の立つたのも、笑ひと勇みの効果である。

神諭(シンユ)にも、

 『勇(イサ)んで笑ふて暮せ』

と示されてある。

笑ふ門(カド)には福きたる。

泣いて鬱(フサ)いで悔んで暮すも一生なら、
笑ふて勇(イサ)んで神を崇(アガ)めてこの世を楽しみ暮すも一生である。

天地の間はすべて言霊(コトタマ)によつて左右さるるものである以上は、
仮にも万物の霊長として生れ出でたる人間は、
この世を呪(ノロ)ひあるひは悲しみ、
あるひは怒り憂(ウレ)ひ艱(ナヤ)みの禍津(マガツ)の心を取りなほし、
いかなる大難に遇(ア)ふも迫害に会(クワイ)するも、
決して悔み悲しむべきものでない。

勇(イサ)めば勇(イサ)むだけの神徳が備はるべき人間と
生れさせられてをるのである。

 (大正十一年一月十二日、旧大正十年十二月十五日、加藤明子録

『音惚花活気好@kakky』的『第38章 回春の歓(238)』分解(一)

2010年05月31日 23時24分34秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第六篇 聖地の憧憬

平成二十二(2010)年五月三十一日 旧四月十八日(月)

 祝部神(ハフリベノカミ)は車上鷹住別(タカスミワケ)が
さめざめと男泣きに泣き出づる姿を見て、眉をしかめ、

 『吾々は男子のくせに吠面(ホエヅラ)かわく奴(ヤツ)は、
  大大大(ダイダイダイ)の大嫌(ダイキラ)ひでござる』

と事もなげにいつて退(ノ)け、
かつ心中には鷹住別の今日の窮状に満腔(マンコウ)の同情を寄せながら、
わざと潔(イサギヨ)く彼が心を引き立てむとして、
またもや面白き歌をつくり、杉高彦(スギタカヒコ)、祝彦(ハフリヒコ)とともに
手を取りあふて巴(トモエ)のごとく渦(ウヅ)をつくりて、
くるくると左旋(サセン)しはじめた。

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ここで祝部神の、

 『吾々は男子のくせに吠面(ホエヅラ)かわく奴(ヤツ)は、
  大大大(ダイダイダイ)の大嫌(ダイキラ)ひでござる』

という台詞を目にして、筆者は日本映画の名作『用心棒』の中で、
主役の浪人桑畑三十郎が、博打の負け金の型に引き裂かれた一家を助け、
土下座して礼をする一家を詰るシーンを思い出した。

勿論、祝部神と桑畑三十郎は、まったく異なる個性だけれども、
正義の味方の基本的な義侠心というのは、こういうものなのだろうな…と、
今、筆者は思っているところである。

筆者が子供の頃の時代劇やヒーロー物のドラマを観てると、
大概、善玉というのは、こういう感じだったと思う。

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その歌、

『鮒(フナ)や諸子(モロコ)は止めても止まる
 止めて止まらぬ鯉(コヒ)の道(ミチ)
 どつこいしよ、どつこいしよ
 鯉(コヒ)に上下(ジヤウゲ)の隔(ヘダ)てはなかろ
 隔てがあれば鯉ならず
 たれも好くのは色の鱶鮫(フカサメ)

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つまり南天王二世夫婦の恋の迷走ぶりを、
大変寛容な心で包んであげているのだと思う。

神柱としての大事な使命も忘れて恋に迷うとは何たることか?

…と一方的に叱りつけるより早く、先に南天王二世の鷹住別が、
こんな風にさめざめと男泣きして反省しているのだから、
それを傷口をつつくような真似は、しないのが人情というか…

そういう恋に迷う様な初心な心の持ち主こそ、
正しく奇魂を開いて、万民を愛護すべき地位に復権すべきだ。

…という、そういうものがあるのではなかろうか?

少なくとも筆者はそう思いたいのである。

そしてそれは、アダムとエバの失楽園の物語に対する、
大神の慈悲心を示しているのではないか?…と…

筆者はそこまで掘り下げて考えてみたいのである。

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 腰(コシ)は鮒々(フナフナ)女(ヲンナ)の刺身(サシミ)で
 鮒(エヒブナ)とようがり嬉(ウレ)しがり
 れこの赤貝(アカガヒ)に夜昼蛤(ヨルヒルハマグリ)
 この世(ヨ)のせと貝(ガヒ)は鰆々(サハラサハラ)
 さらさらかますで
 穴子(アナゴ)にうちこみ

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どうなんだろ?
子供が読んでも判るように説明した方がいいのだろうか?

それともせっかく滑稽歌にしてボカしてあるのだから、
このまま判る人にだけ判る様にしておいた方がいいのだろうか?

…まあ、男と女は凸と凹。上下揃って仲良くするのは、
天地の道理に適った事で、何一つ悪い事ではない。

そのこと自体が悪いのではなく、肝心な神柱としての責職を、
怠った事が問題なのだ。

その部分を充分に反省したのならば、それでよいではないか?

…という事なのかもしれない…

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 他神(タシン)に意見(イケン)を鰯(イワシ)ておいて
 鯔(イナ)ともいかなごともさつぱり
 飯蛸(イヒダコ)やなまくら海鼠(ナマコ)に
 ちやらくら口(クチ)さいら
 口(クチ)にまかして鰤々(ブリブリ)怒(オコ)るな
 目白(メジロ)もむかずに
 つばすを呑(ノ)み込(コ)み
 鯉(コヒ)のためならいかなごの
 辛抱(シンボウ)も寿留女(スルメ)がやくだよ

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男女が恋するその横向きな心を、
ちょっと天地の神様の方に縦に向けて、
夫婦そろって天地の神様を恋する様になれたなら、
こんな結構な事はなかろう?

何事も経験だ。失敗は成功のもと。

一つの失敗もしたこともない身魂では、
悩み迷いの多い国民の上に立てるものでもない。

これだけの苦労をしても、お互い見捨てずに、
苦労して連れ添って来たその真心は立派なものだよ。

…と、粋なことを言おうとして、
照れ隠しにこんな滑稽歌を唄っているのだろう…

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 赤(アカエヒ)年(トシ)でもない身(ミ)でゐながら
 かざみに理屈(リクツ)は鼈(スツポン)の
 間(マ)には鮎(アユ)ない屁理屈(ヘリクツ)よ
 鰐(ワニ)が悪(ワル)けりや
 尼鯛(アマダヒ)鱒(マス)から蟹(カニ)して下(クダ)さい
 黄頴(ギギ)しいらねば泥溝貝(ドブガヒ)なとしたがよい
 お前(マヘ)に油女(アブラメ)頭(アタマ)の数(カズ)の子(コ)
 探(サガ)そとままだよ

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悟り済ました聖人君子や木石じゃ無いんだ。

人が人を好きになるなんて事は、心が美しいから出来る事だ。

若い心の血潮が騒いで、大事な道を踏み外したとしても、
これこの通り、大神様は二人をお見捨てにならず、
この広い世界を宣伝に歩く吾輩に、
こんな所でめぐり合わせてくれたのは、
既に大神様のお許しが出た様なものだ。

それをいつまでもめそめそするもんじゃない。

…と、祝部神はこんな事を伝えたいのかもしれない。

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 一度死(イチドシ)んだら二度(ニド)とは死(シ)なない
 一(イツ)そう茅渟鯛(チヌダヒ)
 小鮒(コフナ)浮世(ウキヨ)に生蝦(ナマエビ)したとて
 針魚(サヨリ)がないから命(イノチ)は鰆(サハラ)に
 惜(ヲ)しみはせないよ

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そういえば筆者も、二十歳の頃に、

「みんなしあわせになれプロジェクト」

を進める為に自分自身を鍛え上げたいと思いあまって、
当時熱心に読んでいた『世界平和の祈り』の五井先生の御法話に、
新約聖書のイエスが、

「生命を捨てざれば生命を得ず」

ということを説明しているものがあったのを読んで、
そんな気持ちになってみたものだが、
いくらそんな事を念仏の様に繰り返し唱えてみたところで、
本音を言えば、

「神様のお道の実現の為にここまで覚悟している自分が、
 志半ばで死ぬような事を神様が為さるわけがない。」

…と、なんだか矛盾した様な事を考えたりもしたものだ。

その上で先ず、生涯最大の恋を放棄し、
養母の他界をも自身の使命を果たす為のエネルギーに変え、
ロックバンドをやりたいという思いも随分犠牲にし、
バブルが弾けてからは、一旦は住む所も失い、
愛車の中で花粉に苦しみつつ『霊界物語』を拝読しては、
夜の路上で唄って日銭を稼ぎ、
安い携帯電話だけで社会との連絡を保ち、
日雇いバイトを見つけたり、居候先が見つかったりして、
それこそスレスレの荒行をなんとか生き残り、
今こうしている自分を思うと、

「生命を捨てざれば生命を得ず」

というのを実践して来た様にも思うし、
実際十字架で死んでから蘇ったイエスや、
何年も投獄されて無罪を勝ち取って保釈出所した王仁三郎聖師とは、
比べ物にならないという劣等感の様なものもあるし、
先週、うっかり足を踏み外して、右足を挫いた事で、
妙な具合に南天王二世の心が若干判る様な境遇にされている、
今の自分の事を思ったりしつつ、
小さな災いを小出しに体験させて頂きつつ、
とにかく難関を乗り越えて来れたこれまでの御加護に、
感謝の思いを持たずにはいられない。

正直言って、これ以上の苦労をしたいとは思わないが、
もし自分が生きている間に、ニッポンと台湾が合一して、
皇国日ノ本が再建して、皇道経済が実現されるのならば、
まだまだいくらでも試練を乗り越えてやりたい様な、
なんとも妙な気分にさせられるのである…。

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 黄螺(バイニシ)、黄螺(バイニシ)
 白魚(シラウヲ)もやして海豚(イルカ)より鱒(マス)だが
 塩魚(シホウヲ)ぐしには戸(ト)が立(タ)てられない
 乾海鼠(キンコ)となりの手前(テマヘ)も恥(ハヅ)かし
 ぷんぷん香(ニホ)ふた腐(クサ)つた魚(ウヲ)の
 腐(クサ)つた鯉(コヒ)に鼻(ハナ)ぴこつかせて
 春日(カスガ)の狐(キツネ)、油揚(アブラゲ)さらへた鷹住別(タカスミワケ)の
 やつれた姿(スガタ)のかます面(ヅラ)

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ただし問題は、筆者はこんな風に、
恋する男女の逃避行みたいな経験は今生ではないので、
ぶっちゃけた話、この二人のホントのせつなさは判らないのだ。

こういう事にならない様に、いつもギリギリの所でセーブして来た。

そういう試練の様な美女との出会いは随分たくさんしたのだが、
いつも先が見えてしまうので、深みにハマらずに済んでしまったので、
そんなわけで、今でもこんな風に一人旅的宣伝活動の様な事を
続けてられるのだと思う。

これがそのまま続くのかどうかは筆者にはわからないが、
野に咲く花の美しさに見とれて恋の妄想に遊ぶくらいのことは、
今でも充分やることは出来る。

どちらかというと、この場合、筆者は南天王二世の立場よりは、
祝部神の方の立場に近いと言えるだろう…

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 鯉(コヒ)に上下(ジヤウゲ)の隔(ヘダ)てはないと
 エラソにエラソに小塩鯛(コシホダヒ)いふ故(ユエ)に
 このしろものは六ケ敷(ムツカシキ)と神々(カミガミ)にいやがられ
 こちからより付(ツ)かぬが鰆(サハラ)ぬ神(カミ)に
 祟(タタ)りなしと逃腰(ニゲゴシ)さごしに
 平家蟹(ヘイケガニ)見(ミ)たよな鱚(キス)ごい顔付(カホツキ)
 烏賊(イカ)にさごしが鯖(サバ)けてゐたとて
 ごまめの仕打(シウ)ちがこのしろないゆゑ
 鯉(コヒ)ことばも言(イ)はねばならない

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『夫婦喧嘩は犬も食わない』

…とは言うけれども、この場合、南天王二世夫婦は、
別に夫婦喧嘩をしているわけではない。

失楽園後のアダムとエバの様に、
獣の皮を着て夫婦仲良く試練に耐えていたのだ。

その夫婦の仲に口を挟むのも野暮かもしれないが、
祝部神がここで二柱に出会ったのも神様のお引き合わせだから、

「触らぬ神に祟り無し」

とは思うけれども、お節介は承知で口を挟むのも御縁だろう。

…ということかもしれない。

何事も時節の力と巡り合わせには、素直に乗るのがよいのかも?

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 さすれば栄螺(サザエ)に散子(ハララゴ)太刀魚(タチウヲ)
 春日(カスガ)は刺身(サシミ)よ鷹住(タカスミ)は好(ス)き身(ミ)よ
 祝部神(ハフリベノカミ)が今(イマ)かます
 鼬(イタチ)の最後屁(サイゴペ)くらつて見(ミ)よ
 臭(クサ)いくさいと夕月夜(ユフヅキヨ)
 月夜(ツキヨ)を呪(ノロ)ふ恋仲(コヒナカ)の
 臭(クサ)い仲(ナカ)ではなかつたか
 あゝ邪魔(ジヤマ)くさい邪魔(ジヤマ)くさい
 四十九才(シジフクサイ)の尻(ケツ)の穴(アナ)』

と滑稽諧謔とめどもなく、歌をうたつて踊り狂ふた。

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…まあ、夫婦仲良く試練に耐えて来たのだから、
この辺で祝部神のむかつく話でも聞いて開き直れ。
…と、そんな事を言っているのかもしれない。

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『音惚花活気好@kakky』的『第38章 回春の歓(238)』分解(二)

2010年05月31日 23時23分32秒 | Weblog
車上の鷹住別はこの面白き歌に霊魂(タマシヒ)を抜かれて、
奇怪なる身ぶり足ぶりに感染してか、
足萎の身もうち忘れ、車上にたちまち立ち上り、
共に手をうち足踏(アシフ)みとどろかせ踊りくるふ。

 春日姫(カスガヒメ)はこの光景を見てうれし泣きに泣き伏した。
鷹住別ははじめて吾が足の立ちしに気がつき、
またもや声をはなつて嬉し泣きに泣きだした。

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確か「天理教は踊る宗教」とか言わなかったろうか?

「フットルース」か「シャル・ウィ・ダンス」か?

筆者も、十二歳くらいまでは、よく泣く女々しいところがあったが、
ブルース・リーの真似をして、
踊る様なフットワークを楽し気にやる様になり、
写真情報しか無かったロック・ギタリストのポーズを、
自分勝手につなぎ合わせて、
自己流のダンシング・ギターを弾き続けたおかげで、
随分とプレッシャーに打ち勝つ強さを身につけて来れたと思う。

そういう乗りにつられて鷹住別の足が治ったというのなら、
それはそれで今後の医療に役立つ情報なのかもしれない。

筆者の養父も、この祝部神の様な陽気な人で、
まだ養母が生きていた頃、現場の足場から転落して、
足を骨折して入院している時に、
夜、ロビーで入院患者仲間とバカ話をして盛り上がり、
患者達の元気が良くなりすぎて看護婦達を困らせたらしいが、
今はどうかは知らないが、病院という所は静粛にしていなければならない、
ある意味陰気な場所である。

陰気な場所には負のエネルギーがどんどん寄って来るから、
入院患者達は気から病んでどんどん具合が悪くなる。
…という事は実際にあるものなのだろう…と筆者は思うのだ。

医者や看護婦には迷惑なのかもしれないが、
本当に健康を維持したいのならば、なるべく陰気な入院暮らしを選ぶより、
陽気な俗世暮らしを選ぶ方が好いのかもしれない。

あまりこの問題に首を突っ込むと、社会問題になりかねないが、
この件については、おそらく、生長の家の「生命の実相」なども、
役に立つ本なのかもしれないと思うのである。

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祝部神(ハフリベノカミ)は又もや、

 『泣く奴は大大大(ダイダイダイ)の大嫌(ダイキラ)ひ』

と謡ひかけた。

 『ちよつと待つて』

と春日姫はあわてて口を押へた。

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それにしても祝部神の陽気パワーもここまで来ると痛快だが、
ある意味、ここが天下の野原だったのが好かったのかもしれない。

病院などの治療施設の中での行為なら、きっと祝部神は、
守衛たちにつまみ出されたろうから…

晴れていても、曇っていても、空の下というのは、
それだけで好い気を受け易いし、当時は地面もむき出しだったろうから、
天地の気を直接受け易い環境だった筈なので、
治療効果抜群だったに違いない。

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祝部神は鼻の上に拳(コブシ)をのせ、
またその上に左の手の拳をかさね、
漸次代るがはる抜いては重ね、抜いては重ね、
鼻高神(ハナダカガミ)の真似をしながら、

『躄が立(タ)つた、足立(アシタ)つた
 立(タ)つた、立(タ)つたはたつた今(イマ)
 さあさあこの場(バ)を逸早(イチハヤ)く
 聖地(セイチ)を指(サ)して立(タ)つて行(イ)かう』

と元気さうにまたもや踊り狂ひ、
傍(カタハラ)の細溝(ホソミゾ)に足踏みはづし、

 『アイタタツタ、アイタアイタノタツタ』

とまたもや気楽さうに溝の中に落ちたまま踊りくるふと、
五柱(イツハシラ)の神司(カミガミ)は一時にどつと笑ひこけた。

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ここまでやれる者も少ないと思うが、
この祝部神のやっている事には絶対的な真理原理が秘められている。

牧師や信者達の雰囲気のせいで、
暗いイメージがあるクリスチャンが信じるイエスも、
実際はこの祝部神の様に滑稽諧謔口をついて出るという様な、
面白いお方だったそうである。

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 いよいよここに心の岩戸(イハト)は開(ア)け初(ソ)めて、
さしも難病の躄の足の立つたのも、笑ひと勇みの効果である。

神諭(シンユ)にも、

 『勇(イサ)んで笑ふて暮せ』

と示されてある。

笑ふ門(カド)には福きたる。

泣いて鬱(フサ)いで悔んで暮すも一生なら、
笑ふて勇(イサ)んで神を崇(アガ)めてこの世を楽しみ暮すも一生である。

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筆者が思うに、この一文だけで、人生の諸問題を解決すると思うのだが、
なかなかどうして、わざと暗い方、暗い方に、話を持って行く、
頑固な社会派的硬派なるものの存在がなかなか厄介なのだが、
これはある意味、この世界を天国化しようとする同志にとっては、
永遠のテーマなのかもしれない…

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天地の間はすべて言霊(コトタマ)によつて左右さるるものである以上は、
仮にも万物の霊長として生れ出でたる人間は、
この世を呪(ノロ)ひあるひは悲しみ、
あるひは怒り憂(ウレ)ひ艱(ナヤ)みの禍津(マガツ)の心を取りなほし、
いかなる大難に遇(ア)ふも迫害に会(クワイ)するも、
決して悔み悲しむべきものでない。

勇(イサ)めば勇(イサ)むだけの神徳が備はるべき人間と
生れさせられてをるのである。

 (大正十一年一月十二日、旧大正十年十二月十五日、加藤明子録

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なんといおうか…『イタチの最後っ屁』

「毒を以て毒を制す」

とも言うが、時と場合によっては地震雷火の雨降らし的な、
大天罰的な刺激も必要なのかもしれないし、
空元気でもなんでも、明るく陽気に徹するべきなのかもしれないのだが、
気位の高い、気取った連中には狐と天狗が憑いて邪魔をしているから、
この事がなかなか伝わらなかったりする。

「便所の100ワット」

という皮肉コトバもあるけれど、…ここでの祝部神くらい、
徹底的にやれるのならば、それはそれで越したことはないと、
筆者も同調するものである。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

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第37章 片輪車 (237)

2010年05月23日 03時02分13秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第六篇 聖地の憧憬

 烈風吹きすさむ埃及(エヂプト)の野に現はれたる宣伝使の一行は、
ここに東西に袂(タモト)を別つた。

月照彦神(ツキテルヒコノカミ)は東方をさして膝栗毛(ヒザクリゲ)の音高く、
風に逆らひつつ長髪をふり乱し、つひに樹木のかげに姿を没した。

祝部神(ハフリベノカミ)は杉高彦(スギタカヒコ)、祝彦(ハフリヒコ)をともなひ、
エルサレムをさして宣伝歌をうたひつつ道を急いだ。

 さしもの烈風も強雨もカラリと晴れて、草のそよぎもとまつた。
はるかの前方より尾羽(ヲハ)うち枯(カ)らし
痩(ヤ)せ衰(オトロ)へたる女人の一柱(ヒトハシラ)は、
松の大木を輪切にしたる車を曳(ヒ)きつつ北方にむかつて進みきたる。

よくよく見れば車の上には足なへと見えて一柱の男子が乗つてをる。

ちようど箱根山をいざり勝五郎(カツゴラウ)を車に乗せて、
初花(ハツハナ)の曳(ヒ)いてくるやうな光景そのままであつた。

 女人は細き声を絞(シボ)りながら、
何事か歌ひつつ重たげに車を徐々(シヅシヅ)と曳いてくる。

『雨の降る夜も風の夜も
 顕恩郷(ケンオンキヤウ)を出でてより
 水瀬(ミナセ)はげしきエデン河(ガハ)
 夫婦手に手を取り交(カハ)し
 渡るこの世の浮瀬(ウキセ)をば
 浮(ウ)きつ沈(シヅ)みつ南岸(ナンガン)に
 着くや間もなく橙園郷(トウエンキヨウ)
 猿(マシラ)に似(ニ)たる人々に
 手負(テオ)ひの身をば追はれつつ
 深山(ミヤマ)の奥に分け入りて
 星をいただき月を踏(フ)み
 猿(マシラ)の千声(チゴエ)百声(モモゴエ)に
 心を痛め胸くだき
 やつと遁(ノガ)れた鬼(オニ)の口(クチ)
 大蛇(ヲロチ)の棲処(スミカ)も後(アト)にして
 天の恵(メグ)みか地の恩(オン)か
 暗(クラ)きわが身は白雲(シラクモ)の
 他所(ヨソ)の見る目も憐(アハ)れなる
 夫婦の者は山奥(ヤマオク)に
 飢(ウエ)と寒(サム)さに戦(タタカ)ひつ
 昨日の栄華に引換(ヒキカ)へて
 今日は朽木(クチキ)の成(ナ)れの果(ハテ)
 進むも知らず退(シリゾ)くも
 知らぬ深山(ミヤマ)の谷深(タニフカ)く
 落ち行くわが身を果敢(ハカ)なみて
 涙(ナミダ)の袖(ソデ)をしぼりつつ
 夫婦たがひに抱(イダ)きあひ
 泣いて明かせし暗(ヤミ)の夜(ヨ)の
 草(クサ)の枕(マクラ)も幾度(イクタビ)ぞ
 石につまづき足破(アシヤブ)り
 破(ヤブ)れかぶれの二人連(フタリヅ)れ
 夫(ヲツト)の病(ヤマヒ)は日に夜に
 痛み苦しみ堪(タ)へがたき
 思ひに沈む春日姫(カスガヒメ)
 憶(オモ)へば昔(ムカシ)モスコーの
 八王神(ヤツワウジン)の最愛(サイアイ)の
 娘と生れし身の冥加(ミヤウガ)
 山より高く八千尋(ヤチヒロ)の
 海より深き父母の恩
 親を忘れて常世(トコヨ)ゆく
 恋路(コヒヂ)の闇(ヤミ)に迷(マヨ)ひつつ
 鷹住別(タカスミワケ)の後(アト)を追ひ
 艱難辛苦(カンナンシンク)の其(ソ)の果は
 常世(トコヨ)の国(クニ)の八王神(ヤツワウジン)
 常世(トコヨ)の彦(ヒコ)や常世姫(トコヨヒメ)
 夫婦(フウフ)の神の慈(イツクシ)み
 身に沁(シ)みわたり幾年(イクトセ)も
 常世(トコヨ)の暗(ヤミ)にさまよひし
 その天罰(テンバツ)は目(マ)のあたり
 一度は神の御恵(ミメグ)みに
 顕恩郷(ケンオンキヤウ)に救はれて
 南天王(ナンテンワウ)の妻となり
 諸神人(シヨシン)の崇敬(スウケイ)一身(イツシン)に
 集(アツ)めて栄華を誇(ホコ)りたる
 月雪花(ツキユキハナ)の夫婦連(フウフヅ)れ
 天地の道を踏(フ)みはづし
 横(ヨコ)さの道に迷(マヨ)ひたる
 その身の果(ハテ)は恐(オソ)ろしや
 歩(アユ)みもならぬ足なへの
 夫(ヲツト)の身をば助けむと
 因果(イングワ)はめぐる小車(ヲグルマ)の
 めぐり車(グルマ)の埃及(エヂプト)に
 はげしく野分(ノワケ)とたたかひつ
 秋の木(コ)の葉(ハ)の木枯(コガラシ)に
 散りゆくわが身の浅(アサ)ましさ
 霜(シモ)の剣(ツルギ)を幾(イク)たびか
 かよわき身魂(ミタマ)に受けながら
 しのぎしのぎて今ここに
 着くは着けども尽(ツ)きざるは
 わが身の因果(イングワ)と過去(クワコ)の罪(ツミ)
 積(ツ)み重(カサ)ねたる罪悪(ザイアク)の
 重き荷物(ニモツ)はいつの世か
 科戸(シナド)の風(カゼ)にはらはめや
 つらつら空(ソラ)をながむれば
 月日(ツキヒ)は昔(ムカシ)のそのままに
 天津御空(アマツミソラ)にかがやきて
 四方(ヨモ)の木草(キグサ)を照らせども
 照らぬはわが身の不仕合(フシアハ)せ
 元(モト)の古巣(フルス)へ帰らむと
 心は千々(チヂ)に砕(クダ)けども
 いとしき夫(ツマ)のこの病(ヤマヒ)
 たとへ日(ヒ)の神(カミ)西天(セイテン)に
 昇(ノボ)りますとも竜宮の
 海の底(ソコ)ひは乾(カワ)くとも
 行末(ユクスエ)ながく誓(チカ)ひてし
 恋しき夫(ヲツト)を捨(ス)てらりよか
 生(イ)きて甲斐(カヒ)なきわが生命(イノチ)
 いのちの瀬戸(セト)の荒海(アラウミ)に
 身を投げ島田(シマダ)振(フ)りかかる
 わが身の末ぞ恐ろしき
 あゝ天地(アメツチ)に世を救ふ
 神はまさずや在(オハ)さずや
 あゝ天地に世を救ふ
 神はまさずや在さずや』

と哀(アハ)れげに謡ひつつ、こなたに向つて進みくる。

 祝部神(ハフリベノカミ)はこの女性の姿を見て、
倒(コ)けむばかりに驚いた。

祝部神はものをも言はず、
このやつれたる女性の面影をつくづくながめ、
首をかたむけ何事か思案にくるるもののごとくであつた。

女性は堪へかねたやうに祝部神の袖(ソデ)に縋(スガ)りつき、
頬(ホホ)やつれたる顔を
腹の臍(ホゾ)のあたりにぴつたりつけながら涙を滝のごとく流し、
歔(シヤク)り泣きさへ聞ゆる。

 祝部神は痛々しき面色にて、
女人の背(セナ)を幾度となく撫(ナ)でさすつた。

女人はやうやく顔を上げ、

 『恥(ハヅ)かしき今のわが身のありさま、
  思はぬところにて御目にかかり、申し上ぐる言葉もなし。
  妾(ワラハ)は貴下(キカ)の知らるるごとく常世城(トコヨジヤウ)に仕へ、
  常世会議の席上にて八島姫(ヤシマヒメ)と共に、
  月雪花(ツキユキハナ)とうたはれし
  モスコーの八王道貫彦(ヤツワウミチツラヒコ)の長女
  春日姫(カスガヒメ)にて候(サフラフ)。
  貴下は忘れもせぬ
  天山(テンザン)の八王斎代彦(トキヨヒコ)にましまさずや』

と問ひかけた。

 漂浪神(サスラヒガミ)は四辺(アタリ)をはばかりながら、
春日姫の口に手をあてた。

春日姫はその意を悟り、

 『これは失礼なことを申し上げました。
  妾は長の旅の疲れに精神おとろへ眼(マナコ)くらみ、
  思はぬ粗忽(ソコツ)無礼のだん許されたし』

と素知(ソシ)らぬ態(テイ)をよそほふた。

祝部神はあらためて、

 『いづれの女人か知らねども、貴下の御様子を見れば、
  凡人(タダビト)ならぬ神人(シンジン)の御胤(オタネ)
  と見うけ奉(タテマツ)る。
  吾は天教山(テンケウザン)にまします
  木花姫命(コノハナヒメノミコト)の命により、
  世界の立替(タテカ)へ立直(タテナホ)しに先だち、
  地上の神人に向つて、
  あまねく救ひの福音を宣伝する枝神(エダガミ)なり。
  貴下の言はるるごとき尊(タフト)き素性の者に非ず』

と、わざととぼけ顔をする。

祝部神は車上(シヤジヤウ)の男子(ヲノコ)を見て、

 『やあ、貴下は』

と頓狂な声を張りあげ、

 『何ゆゑ車に召(メ)さるるや、合点ゆかぬ』

と眼を丸くし口を尖(トガ)らせ、
鼻をこすりながら問ひかけた。

 車上の男子は、さめざめと涙をただよはし、
両手をもつて眼をおほひ頭(カシラ)を垂れた。

 アヽこの結果はいかになるであらうか。

 (大正十一年一月十二日、旧大正十年十二月十五日、外山豊二録)

『音惚花活気好@kakky』的『第37章 片輪車 (237)』分解(一)

2010年05月23日 03時01分10秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第六篇 聖地の憧憬

平成二十二(2010)年五月二十三日 旧四月十日(日)

 烈風吹きすさむ埃及(エヂプト)の野に現はれたる宣伝使の一行は、
ここに東西に袂(タモト)を別つた。

月照彦神(ツキテルヒコノカミ)は東方をさして膝栗毛(ヒザクリゲ)の音高く、
風に逆らひつつ長髪をふり乱し、つひに樹木のかげに姿を没した。

祝部神(ハフリベノカミ)は杉高彦(スギタカヒコ)、祝彦(ハフリヒコ)をともなひ、
エルサレムをさして宣伝歌をうたひつつ道を急いだ。

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エジプトは日本だと北九州くらいになるのだろうか?
…だとすると小倉城の豊前藩くらいになるのだが…

しかしここには埃及の物語が記されているのだから、
大洪水後の世界にエジプト文明が起こった太古の歴史について
語っているかもしれないし、一部の大峠信者が期待する様な、
この後に世界に発生するかもしれない大洪水後の予言が記されている…

…という事になるのかもしれないが、
正直言って筆者は後者の説にはあまり興味が無い。

興味は無いが、
それを完全に否定してしまってもしょうがない気もするのだが、
2012年頃にそういう事が発生するという方向で物事を考えている皆さんは、
ちょっと予言としてとらえたくなる様な物語なのかもしれない。

そのエジプトに現れた宣伝使一行が、東西に分かれ、

月照彦神(ツキテルヒコノカミ)は東方(おそらくは印度あたりか…?)、
祝部神(ハフリベノカミ)は杉高彦(スギタカヒコ)、祝彦(ハフリヒコ)をともなひ、
エルサレム、と記されているのだが、
埃及から見たらエルサレムも東方の筈なので、
…あれ?…と思って世界地図のもう少し西側を見たらトルコがあったので、
『霊界物語』では太古のエルサレムは、
今のトルコの辺りにあった事になっているので、
なるほど、そういうわけか…と一応納得したのであった。

そしてもう一つ、もしこれが日本列島を舞台にした物語だとしたら、
筆者が考えるトルコに当たる出雲も、豊前よりは東方にあるし、
仮に出雲がトルコの型でないとしても、九州から見たら本州は全て東部なので、
豊前辺りに現れた宣伝使一行が東西に分かれたという発想が難しくなる。

…が、もし、現今の日本列島の九州から、今のエルサレムに向かった。
…というのならば、まさに豊前に現れた宣伝使一行が、
東西に分かれることは可能になるのだが、
これだとかなり飛躍した解釈になってしまうのではないか?
…と思えてくるのである。

もっとも『霊界物語』の「神示の宇宙」にも、

「本来無東西可処有南北」

とあるし、地平の地図を観ても南北はあっても東西は無いから、
この記述に対してこだわることはおかしいのかもしれないが、
なんとも妙な気分である。

もう一つの『東西観』としては、
月照彦神が目指した東方とは、主神のいらっしゃる方向で、
祝部神等が目指した西方エルサレムとは、真の信仰を失ったエルサレム。
…という事を象徴しているのかもしれない。

そういう解釈が、もし通用するならば、それは全く現代に通ずる予言である。
…ということが出来るのかもしれないのだ。

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 さしもの烈風も強雨もカラリと晴れて、草のそよぎもとまつた。
はるかの前方より尾羽(ヲハ)うち枯(カ)らし
痩(ヤ)せ衰(オトロ)へたる女人の一柱(ヒトハシラ)は、
松の大木を輪切にしたる車を曳(ヒ)きつつ北方にむかつて進みきたる。

よくよく見れば車の上には足なへと見えて一柱の男子が乗つてをる。

ちようど箱根山をいざり勝五郎(カツゴラウ)を車に乗せて、
初花(ハツハナ)の曳(ヒ)いてくるやうな光景そのままであつた。

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さらりと書いてあるけれども、ここで女一人、男一人、
と記さずに『一柱』と表現してあるだけで、
この男女が凡俗ならざる身分の貴い存在である事が察せられるのだ。

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 女人は細き声を絞(シボ)りながら、
何事か歌ひつつ重たげに車を徐々(シヅシヅ)と曳いてくる。

『雨の降る夜も風の夜も
 顕恩郷(ケンオンキヤウ)を出でてより
 水瀬(ミナセ)はげしきエデン河(ガハ)
 夫婦手に手を取り交(カハ)し
 渡るこの世の浮瀬(ウキセ)をば
 浮(ウ)きつ沈(シヅ)みつ南岸(ナンガン)に
 着くや間もなく橙園郷(トウエンキヨウ)
 猿(マシラ)に似(ニ)たる人々に
 手負(テオ)ひの身をば追はれつつ
 深山(ミヤマ)の奥に分け入りて
 星をいただき月を踏(フ)み
 猿(マシラ)の千声(チゴエ)百声(モモゴエ)に
 心を痛め胸くだき
 やつと遁(ノガ)れた鬼(オニ)の口(クチ)

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つまり顕恩郷から逃亡した南天王二世夫婦である。

顕恩郷では国王の身分だったこの夫婦も、故郷を遠く離れれば、
こんな風にみすぼらしい哀れな夫婦になってしまう。
…ということか?

この頃は現代の様にマスメディアも発達してなかった様だから、
来歴を知れば貴い身分に畏れ入る様な人でも、
お伴も連れずにこんな風に歩いていれば、誰にかばわれることもない。

ところで前にも書いたと思うが、橙園郷というのを見ると、
筆者は明治末期に西田天香によって設立された新宗教団体である
『一燈園(いっとうえん)』を思いだしてしまうのだが、
何か関係があるのだろうか?

『一燈園』は社会的には、京都・滋賀を始めとして、
全国各地で家庭や学校、事業所等を訪問して
無償で便所の掃除をすることを活動としているそうだが、
そういう行動を知らされると金勝要神の系統だろうか?
…と考えてしまいたくなってしまう。

そうした、人が嫌がる仕事を率先してやる様な奉仕精神が薄かった、
南天王二世夫婦の逃亡劇がここに記されているという事になろう…。

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 大蛇(ヲロチ)の棲処(スミカ)も後(アト)にして
 天の恵(メグ)みか地の恩(オン)か
 暗(クラ)きわが身は白雲(シラクモ)の
 他所(ヨソ)の見る目も憐(アハ)れなる
 夫婦の者は山奥(ヤマオク)に
 飢(ウエ)と寒(サム)さに戦(タタカ)ひつ
 昨日の栄華に引換(ヒキカ)へて
 今日は朽木(クチキ)の成(ナ)れの果(ハテ)

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社会奉仕とか、労働という概念がほとんど無いのであろう、
南天王二世夫婦にとっては、ただただ惨めな逃亡劇なのだろう。

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 進むも知らず退(シリゾ)くも
 知らぬ深山(ミヤマ)の谷深(タニフカ)く
 落ち行くわが身を果敢(ハカ)なみて
 涙(ナミダ)の袖(ソデ)をしぼりつつ
 夫婦たがひに抱(イダ)きあひ
 泣いて明かせし暗(ヤミ)の夜(ヨ)の
 草(クサ)の枕(マクラ)も幾度(イクタビ)ぞ
 石につまづき足破(アシヤブ)り
 破(ヤブ)れかぶれの二人連(フタリヅ)れ
 夫(ヲツト)の病(ヤマヒ)は日に夜に
 痛み苦しみ堪(タ)へがたき
 思ひに沈む春日姫(カスガヒメ)

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これは個人的な事だけれども、筆者は、

『石につまづき足破(アシヤブ)り』

とあるのを観てちょっと苦笑した。

…というのも昨夕、
近所の自動販売機に増量缶コーラを買いに行った帰りに、
去年の今頃宅地造成された土地にどれくらい家が建ったか、
ちょっと見物に寄って、そのまま急坂を降りながら、
去年、宅地造成の開拓で巣を奪われたスズメバチが、
日中、我が家に連日遊びに来た事などを思い出しつつ、

「人が住む家が建つのも結構だけど、家が建つたびに、
 ここからの良い眺めも拝めなくなるんだなあ…。」

…と思いながら我が家の踊り場からの見慣れた風景に、
ちょっと得意になりつつ、民家の隙間から覗く景色を、
首を長くして垣間見ながら歩いていたら、
ちょっとした段差に足を踏み外して、
急坂をスッテンコロリンと一回転して、
レジ袋から飛び出した缶コーラが転げ落ちてゆくのを眺めつつ、
置きあがったら右足を挫いていたことを思い出した。

帰宅してから痛む右ひざを観たら、擦り傷になっていたので、

「何の報いか知らないけれど、
 これで何かのめぐりを取ってもらえたんだろうな。
 災い転じて福となる。
 かむながら、かむながら。」

…と思っていたら、
今日ここで、そのエピソードを書くことになったので、
これも一種の『信仰のお蔭』だなあ…と、
まだちょっと痛む右足を思いながら苦笑しているところである。

それにしても若い頃に武道を独学で研究しておいたおかげで、
咄嗟の時にも受け身が出来たので大怪我せずに済んだのは幸いだった。

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 憶(オモ)へば昔(ムカシ)モスコーの
 八王神(ヤツワウジン)の最愛(サイアイ)の
 娘と生れし身の冥加(ミヤウガ)
 山より高く八千尋(ヤチヒロ)の
 海より深き父母の恩
 親を忘れて常世(トコヨ)ゆく
 恋路(コヒヂ)の闇(ヤミ)に迷(マヨ)ひつつ
 鷹住別(タカスミワケ)の後(アト)を追ひ
 艱難辛苦(カンナンシンク)の其(ソ)の果は
 常世(トコヨ)の国(クニ)の八王神(ヤツワウジン)
 常世(トコヨ)の彦(ヒコ)や常世姫(トコヨヒメ)
 夫婦(フウフ)の神の慈(イツクシ)み

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ロシアのモスコーで生まれて、常世の国のアメリカまで行き、
そこで曲津神の代表格とされる常世彦夫婦の義理の娘になり、
それが例え曲津神であろうとも、義理の親への恩を忘れない。
…というのは悪い事ではないと思う。

モスコーが天国に属する実の親元を離れて、
地獄に当たる常世の国に行き、そこで親への温情を知る。
…というのも、なんとも皮肉というか、不思議な因縁だが、
筆者も、出口王仁三郎聖師の生母である上田の御先祖様である、
北家藤原の末裔にあたる後藤の腹から生まれてすぐに、
垣内の養父母に育てられて、この道に入り、実の親の事も忘れて、
養父母から受けた恩に対して、この道への信仰心で応えようと思い、
「基本宣伝歌」を自ら歌って映像化したものを、
WEB上に公開していたりするので、
なんとなく通じ合うものを感じてしまうのだが、
あまり、この件について思い入れを持ちたくはない心境である。

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 身に沁(シ)みわたり幾年(イクトセ)も
 常世(トコヨ)の暗(ヤミ)にさまよひし
 その天罰(テンバツ)は目(マ)のあたり
 一度は神の御恵(ミメグ)みに
 顕恩郷(ケンオンキヤウ)に救はれて
 南天王(ナンテンワウ)の妻となり
 諸神人(シヨシン)の崇敬(スウケイ)一身(イツシン)に
 集(アツ)めて栄華を誇(ホコ)りたる
 月雪花(ツキユキハナ)の夫婦連(フウフヅ)れ
 天地の道を踏(フ)みはづし
 横(ヨコ)さの道に迷(マヨ)ひたる
 その身の果(ハテ)は恐(オソ)ろしや

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筆者もここまで大袈裟な話ではないけれど、
その片鱗の様な体験を、昨夕させて頂いたので、
…まあたぶん、あんまりこの『霊界物語学の日記』の更新に、
間を開けるな。…という有難い御催促だったのかも知れないと、
そんな風にも、ちょっとだけ考えてしまうのであるが、
本題に戻って、この男女二柱が、南天王二世の身分から落ちぶれても、
ちゃんと夫婦愛を貫いているのは、
それはそれで美しい姿であるとは思うのである。

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 歩(アユ)みもならぬ足なへの
 夫(ヲツト)の身をば助けむと
 因果(イングワ)はめぐる小車(ヲグルマ)の
 めぐり車(グルマ)の埃及(エヂプト)に
 はげしく野分(ノワケ)とたたかひつ
 秋の木(コ)の葉(ハ)の木枯(コガラシ)に
 散りゆくわが身の浅(アサ)ましさ
 霜(シモ)の剣(ツルギ)を幾(イク)たびか
 かよわき身魂(ミタマ)に受けながら
 しのぎしのぎて今ここに
 着くは着けども尽(ツ)きざるは
 わが身の因果(イングワ)と過去(クワコ)の罪(ツミ)
 積(ツ)み重(カサ)ねたる罪悪(ザイアク)の
 重き荷物(ニモツ)はいつの世か
 科戸(シナド)の風(カゼ)にはらはめや

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筆者も流石に、

『歩(アユ)みもならぬ足なへの』

…というほどの大怪我はしていないのだが、
ちょっと足を挫いてるから痛みを庇って歩くと、
どうしても自然にビッコになってしまうので、
完全では無いけれども、この痛みが引くまでは、
この逃亡中の南天王二世夫婦の気持ちが少しは判る。

今の筆者みたいに、
ちょっと足を挫き、膝を擦り剥いた程度の怪我でも、
なんかのバチでも当たったのかな?
…とひがんだ事を考えてしまうのだから、
この時の南天王二世夫婦の落ち込みは、
もっともっと深いものであったに相違ないだろう。

王仁三郎聖師は、自身が高熊山での一週間の霊山修行について、
それまでの三十年近い貧苦と戦い続けた人生そのものが、
既に修行になっていたので、ボンさんだった釈迦の六年、
達磨の九年の様な修行は不要だった。
…という意味の事を仰っておられるけれども、
つまり南天王二世夫婦も、おぼっちゃま、おじょうちゃま育ちの、
ハンデを補うために、こんな苦労をさせられているのだろう…と、
今ちょっと筆者は思ったのである。

要するにこの辺の事情が、新約聖書のイエスの言う、

「金持ちが天国に入るのは駱駝が針の穴を通るよりも難しい」

ということの所以なのだろう。

富に見合った人徳が磨かれていないと、いずれその富は奪われ、
あらためて苦労のし直しをさせられる。…ということで、
もっと簡単にいうと、親の莫大な遺産を受け継いだとしても、
相続税を取られ、その後、
残った遺産だけを頼りにして遊んで暮していれば、
やがて蓄えも尽きて、いやでも貧乏しなければならなくなる。
…ということになるのであろう。

また筆者の思い出話になるのだが、筆者は高度成長期の日本の、
横浜のスラム街にいた子だくさんの後藤の腹から生まれたが、
親が遺産を食いつぶして幼い妹を里子に出す様な在り方に反発して、
残った兄弟を連れて和歌山から入場券一枚を上手く使って乗車し、
横浜の一駅手前で車掌に見抜かれ下車させられ、
線路を歩きながら横浜に上京し、ようやく流れ着いたそのスラム街から、
人足を集めて造船所のペンキ集団を作っていた、
子の無い垣内の家に迎え入れられ、その後は一人っ子として、
割と悠々と放任主義的に育ててもらっていたのだが、
小学生になって物心ついた時から、

「自分は前世の徳とか、
 そういうもので今は随分と幸せにさせて頂いているけれども、
 やがて、そういう前世からの徳に生かされるのではなく、
 今生の努力で得た社会関係でもって一旗あげる様な男になりたい。」

…と思い続けて来て、それがたぶん、バブルが弾けて仕事がなくなり、
いよいよ腹をくくって夜の路上で歌って稼ぐ様になってから、
初めて本当の自分の人生が始まったと思っているところがあるのだが、
それからもう既に十年経って、今、こんな記事を書ける様になった。

しかし、もしかしたら、それすらも前世からの宿命だったのでは?
…と思えてしまうこともあるのだが、おそらく二十歳の時から実行して来た、
「みんなしあわせになれプロジェクト」と、
五井先生の『世界平和の祈り』を実行して来た功徳みたいなものが、
ようやく形になって来たのだろうな…とも思っている。

ふわふわと、あまり苦労せずに育ってた頃に得た仲間とは、
今ほとんど付き合っていないが、
十年前に捨て身になって体当たりで始めた行動を通じて出来あがった、
新たな人間関係によって守られながら、今の様な働きが出来ている事も、
更に大きな大神の御加護によるものなのだろう…という、
大きな懐に包まれた感謝の念を抱かずにはいられないのである。

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 つらつら空(ソラ)をながむれば
 月日(ツキヒ)は昔(ムカシ)のそのままに
 天津御空(アマツミソラ)にかがやきて
 四方(ヨモ)の木草(キグサ)を照らせども
 照らぬはわが身の不仕合(フシアハ)せ
 元(モト)の古巣(フルス)へ帰らむと
 心は千々(チヂ)に砕(クダ)けども
 いとしき夫(ツマ)のこの病(ヤマヒ)
 たとへ日(ヒ)の神(カミ)西天(セイテン)に
 昇(ノボ)りますとも竜宮の
 海の底(ソコ)ひは乾(カワ)くとも
 行末(ユクスエ)ながく誓(チカ)ひてし
 恋しき夫(ヲツト)を捨(ス)てらりよか

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こういう人生最大の試練というか、苦労をしている時に、
本当の出会いがやって来るものだと筆者も体験上理解している。

『つらつら空(ソラ)をながむれば
 月日(ツキヒ)は昔(ムカシ)のそのままに
 天津御空(アマツミソラ)にかがやきて
 四方(ヨモ)の木草(キグサ)を照らせども』

この一節の中に人生のワビサビが全て込められている気がする。

本当は、ミロクの世も、地上天国も、とっくの昔から完成し、
とっくの昔から全ての生命を守り育んで来たのだ。

それは神仏といえども差別の無いことである。

自分がまだまだ子供だったのだ。
全然努力が足らなかったのである。
これに気づいて深く後悔したのちに、
この世は既にミロクの世であり、地上天国だったのだ。
…という事に気づけるのだと筆者は思うのだ。

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 生(イ)きて甲斐(カヒ)なきわが生命(イノチ)
 いのちの瀬戸(セト)の荒海(アラウミ)に
 身を投げ島田(シマダ)振(フ)りかかる
 わが身の末ぞ恐ろしき
 あゝ天地(アメツチ)に世を救ふ
 神はまさずや在(オハ)さずや
 あゝ天地に世を救ふ
 神はまさずや在さずや』

と哀(アハ)れげに謡ひつつ、こなたに向つて進みくる。

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己の慢心と罪に心底気づいて、こんな言葉が出て来る様になれば、
もう心の夜明けが間近に迫っている証拠である。

まず本音の反省があってこそ、真の改心の機会を得るのであろう。

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『音惚花活気好@kakky』的『第37章 片輪車 (237)』分解(二)

2010年05月23日 02時58分43秒 | Weblog
 祝部神(ハフリベノカミ)はこの女性の姿を見て、
倒(コ)けむばかりに驚いた。

祝部神はものをも言はず、
このやつれたる女性の面影をつくづくながめ、
首をかたむけ何事か思案にくるるもののごとくであつた。

女性は堪へかねたやうに祝部神の袖(ソデ)に縋(スガ)りつき、
頬(ホホ)やつれたる顔を
腹の臍(ホゾ)のあたりにぴつたりつけながら涙を滝のごとく流し、
歔(シヤク)り泣きさへ聞ゆる。

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大神様の御守りで、この広い世の中で奇跡的な再会を果たし、
お互いに素性を打ち明けあう間も忘れて、
親に泣きつく子の様に、この女性は泣くに任せて泣いたのだろう…

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 祝部神は痛々しき面色にて、
女人の背(セナ)を幾度となく撫(ナ)でさすつた。

女人はやうやく顔を上げ、

 『恥(ハヅ)かしき今のわが身のありさま、
  思はぬところにて御目にかかり、申し上ぐる言葉もなし。
  妾(ワラハ)は貴下(キカ)の知らるるごとく常世城(トコヨジヤウ)に仕へ、
  常世会議の席上にて八島姫(ヤシマヒメ)と共に、
  月雪花(ツキユキハナ)とうたはれし
  モスコーの八王道貫彦(ヤツワウミチツラヒコ)の長女
  春日姫(カスガヒメ)にて候(サフラフ)。
  貴下は忘れもせぬ
  天山(テンザン)の八王斎代彦(トキヨヒコ)にましまさずや』

と問ひかけた。

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普通、一般常識的には、過去の知人に再会出来て、
泣くに任せて泣いたからといって、
そうおいそれと助けてくれはしないだろうが、
そこが世知辛い人間界とは大いに違うところである。
こうなればオセロが土壇場で大逆転する様な展開になることは、
もう火を観るよりも明らかな事であろうと思う。

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 漂浪神(サスラヒガミ)は四辺(アタリ)をはばかりながら、
春日姫の口に手をあてた。

春日姫はその意を悟り、

 『これは失礼なことを申し上げました。
  妾は長の旅の疲れに精神おとろへ眼(マナコ)くらみ、
  思はぬ粗忽(ソコツ)無礼のだん許されたし』

と素知(ソシ)らぬ態(テイ)をよそほふた。

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要するに今は追われる身分である南天王二世の一柱である春日姫が、
その素性を明らかにし、
また、敵地宣伝の旅の真っ最中である神々の素性を、
気安く明かされてしまっては、台無しになる様な事があるのだろう。

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祝部神はあらためて、

 『いづれの女人か知らねども、貴下の御様子を見れば、
  凡人(タダビト)ならぬ神人(シンジン)の御胤(オタネ)
  と見うけ奉(タテマツ)る。
  吾は天教山(テンケウザン)にまします
  木花姫命(コノハナヒメノミコト)の命により、
  世界の立替(タテカ)へ立直(タテナホ)しに先だち、
  地上の神人に向つて、
  あまねく救ひの福音を宣伝する枝神(エダガミ)なり。
  貴下の言はるるごとき尊(タフト)き素性の者に非ず』

と、わざととぼけ顔をする。

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それにしても同じ身をやつすのでも、
南天王二世夫婦は追われる身となり、
祝部神等宣伝神達は使命と誇りを持って身をやつしている。

「志士は清貧に甘んじる」

…とかいう諺があったと思うが、日本人に身近なのは、
追手から逃れながら活躍した勤皇の志士達の様なものかも?

つまり、外見上の貧富よりも、内面の貧富の方が重要である。
…という教訓にもなっているのではなかろうか?

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祝部神は車上(シヤジヤウ)の男子(ヲノコ)を見て、

 『やあ、貴下は』

と頓狂な声を張りあげ、

 『何ゆゑ車に召(メ)さるるや、合点ゆかぬ』

と眼を丸くし口を尖(トガ)らせ、
鼻をこすりながら問ひかけた。

 車上の男子は、さめざめと涙をただよはし、
両手をもつて眼をおほひ頭(カシラ)を垂れた。

 アヽこの結果はいかになるであらうか。

 (大正十一年一月十二日、旧大正十年十二月十五日、外山豊二録)

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ついこのあいだまで南天王二世として栄華を楽しんでいた男が、
落ちぶれる時はここまで落ちぶれるのか…?

…とも思うが、そこは神縁ある身魂である。

このままで終わることはないであろうと信じたいものだ。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

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第36章 言霊(コトタマ)の響(ヒビキ) (236)

2010年05月12日 03時34分02秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第六篇 聖地の憧憬

『昔の昔、その昔
 国治立(クニハルタチ)の大神(オホカミ)は
 天地四方(アメツチヨモ)の神人(シンジン)の
 拗(ネヂ)け曲(マガ)れる霊魂(ミタマ)をば
 直(ナホ)さむために神柱(カムバシラ)
 四方(ヨモ)の御国(ミクニ)に遣(ツカ)はして
 世の立替(タテカ)へを知らせむと
 東や西や北南(キタミナミ)
 千(チヂ)に其(ソ)の身を窶(ヤツ)しつつ
 雪の晨(アシタ)や雨の宵(ヨヒ)
 虎棲(トラス)む野辺(ノベ)も厭(イト)ひなく
 神の救ひの言(コト)の葉(ハ)を
 科戸(シナド)の風(カゼ)に吹き拡め
 四方(ヨモ)の国々隈(クニグニクマ)もなく
 行き渡りたる暁(アカツキ)に
 天教山(テンケウザン)に現はれし
 野立(ノダチ)の彦(ヒコ)の大神(オホカミ)や
 木花姫(コノハナヒメ)の御指揮(オンサシズ)
 地教(チケウ)の山(ヤマ)に現はれし
 野立(ノダチ)の姫(ヒメ)の大神(オホカミ)の
 宣示を背(セナ)にいそいそと
 めぐり車(グルマ)のいとはやく
 変る浮世(ウキヨ)の有様(アリサマ)を
 心にかくる空の月
 つきせぬ願(ネガヒ)は神人(シンジン)の
 霊魂(ミタマ)、霊魂(ミタマ)を立直(タテナホ)し
 清(キヨ)き神代(カミヨ)に救はむと
 わが身を風に梳(クシケヅ)り
 激しき雨を浴(ア)びつつも
 三千世界(サンゼンセカイ)の梅の花
 一度に開(ヒラ)く常磐樹(トキハギ)の
 常磐(トキハ)の松(マツ)の神の御代(ミヨ)
 心も清き木花(コノハナ)の
 開いて散りて実(ミ)を結び
 スの種(タネ)四方(ヨモ)に間配(マクバ)りし
 神の恵(メグミ)を白浪(シラナミ)に
 漂(タダヨ)ふ神こそ憐(アハ)れなり
 朝日(アサヒ)は照(テ)るとも曇(クモ)るとも
 月(ツキ)は盈(ミ)つとも虧(カ)くるとも
 たとへ天地は倒(サカサマ)に
 地は覆(クツガヘ)り天となり
 天はかへりて地となるも
 なんと詮方(センカタ)千秋(センシウ)の
 恨(ウラ)みをのこすな万歳(バンザイ)に
 神の恵(メグミ)の言(コト)の葉(ハ)に
 眼(マナコ)をさませ百(モモ)の神(カミ)
 耳を欹(ソバダ)て聞けよかし
 聞けば香(カンバ)し長月(ナガツキ)の
 九月八日のこの経綸(シグミ)
 九(ココノ)つ花(バナ)の開(ヒラ)くてふ
 今日九日の菊の花
 花より団子(ダンゴ)と今の世は
 体主霊従(タイシユレイジユウ)の神ばかり
 世は常暗(トコヤミ)と鳴門灘(ナルトナダ)
 渦(ウヅ)まきのぼる荒浪(アラナミ)に
 攫(サラ)はれ霊魂(ミタマ)は根(ネ)の国(クニ)や
 底(ソコ)の国(クニ)へと落ちゆきて
 消えぬ地獄(ヂゴク)の火に焼かれ
 あるひは氷(コホリ)の刃(ヤイバ)もて
 無限の艱苦(カンク)をなめくじり
 蛙(カヘル)に出会ふたそのごとく
 天地はかへる蛇(ヘビ)の群(ムレ)
 蛇(ヘビ)にひとしき舌剣(ゼツケン)を
 振(フル)ふは大蛇(ヲロチ)の悪神(アクガミ)ぞ
 その悪神(アクガミ)に取りつかれ
 もとより清(キヨ)き大神(オホカミ)の
 霊魂(ミタマ)と生れし神人(カミガミ)は
 知らず識(シ)らずのそのうちに
 体主霊従(チエノミタマ)となりはてぬ
 体主霊従(チエノミタマ)となりはてぬ
 この惨状を救はむと
 国治立尊(クニハルタチノミコト)もて
 百(モモ)の神々(カミガミ)天教(テンケウ)の
 山に集(ツド)ひて諸共(モロトモ)に
 赤き心を筑紫潟(ツクシガタ)
 誠(マコト)を尽(ツク)す神人(カミガミ)の
 清き心も不知火(シラヌヒ)の
 波に漂(タダヨ)ふ憐(アハ)れさよ
 暗路(ヤミヂ)を照らす朝日子(アサヒコ)の
 神のみことの隠(カク)れます
 天(アマ)の岩戸(イハト)はいつ開(ヒラ)く
 この世は終(ヲハ)りに近づきて
 この世は終(ヲハ)りに近づきて
 鬼(オニ)や大蛇(ヲロチ)やまがつみや
 醜女探女(シコメサグメ)の時を得て
 荒振(アラブル)る世とぞなりにけり
 荒振(アラブ)る世とぞなりにけり
 あゝ神人(カミガミ)よ神人(カミガミ)よ
 神の救ひの声を聞け
 耳を浚(サラ)へてよつく聞け
 眼(マナコ)を洗(アラ)つてよつく見よ
 眼(マナコ)を洗(アラ)つてよつく見よ』

と節面白くうたひながら異様の扮装(イデタチ)にて、
あまたの神人(カミガミ)に取囲まれ謡ふ神があつた。

祝部神(ハフリベノカミ)はこの声を聞き、何となく心勇み、
祝彦(ハフリヒコ)、杉高彦(スギタカヒコ)と共に、
肩をゆすりながらその声目がけて突進した。

 激しき風に吹きまくられて、
地上の一切は、見るも無残に落花狼藉、
神人(シンジン)は烈風に遇(ア)ひし蚊(カ)のごとく、
蚋(ブト)のごとく中天に捲(マ)き上げられてしまつた。

されど臍下丹田(アマノイハト)に心を鎮め神力(シンリキ)を蒙(カウム)りし神のみは、
大地より生えたる岩石のごとくびくとも動かず、
悠々として烈風ふき荒(スサ)ぶ広野(ヒロノ)を、
風にむかつて濶歩しつつ、雄々(オオ)しくも宣伝歌をうたつた。

その声は風の共響(ムタヒビ)きに送られて
地教山(チケウザン)の高照姫神(タカテルヒメノカミ)の御許に達した。

真澄姫(マスミヒメ)、祝姫(ハフリヒメ)の耳にはことさらに痛切に響いたのである。
はたして何人の宣伝歌であらうか。

云はずと知れた月照彦神(ツキテルヒコノカミ)と祝部神の宣伝歌であつた。

 高照姫神は黄金の幣(ヌサ)を奥殿より取り出し、
烈風にむかつて左右左(サイウサ)と振り払ひたまへば、
風は逆転して東北より西南にむかつて吹きまくつた。

そのとき二神使(ニシン)はまたもや歌をよまれた。

その歌は地中海の西南なる埃(エ)の宮(ミヤ)を通行しつつある
夫神(ヲツトガミ)の耳に音楽のごとく微妙にひびいた。

真澄姫(マスミヒメ)は地教山の高閣(カウカク)に登り
言葉涼(スズ)しく謡(ウタ)ひはじめた。


『仰(アフ)けば高し久方(ヒサカタ)の
 天津御空(アマツミソラ)に澄みわたる
 月照彦(ツキテルヒコ)の大神(オホカミ)の
 恋しき御声(ミコエ)は聞えけり
 雨の晨(アシタ)や風の宵(ヨイ)
 この世を思ふ真心(マゴコロ)の
 君が御声(ミコエ)は天(アメ)の下(シタ)
 四方(ヨモ)の国々(クニグニ)鳴(ナ)りひびき
 響きわたりて今ここに
 地教(チケウ)の山まで届きけり
 地教(チケウ)の山まで届きけり
 あゝ尊(タフト)しや言霊(コトタマ)の
 誠(マコト)のひびきは鳴りわたる
 雄々(ヲヲ)しき声は雷(イカヅチ)か
 雷(カミナリ)ならぬ神(カミ)の声(コエ)
 その声こそは世を救ふ
 神の御旨(ミムネ)に叶ふべし
 神の御旨(ミムネ)にかなふべし
 妾(ワラハ)はここに大神(オホカミ)の
 みこと畏(カシコ)み日に夜に
 世の神人(カミガミ)らを救はむと
 思ひあまりて村肝(ムラキモ)の
 心の空もかき曇(クモ)る
 心の空もかき曇る
 曇(クモ)るこの世を清(キヨ)めむと
 心も清く身も清く
 光(ヒカリ)隈(クマ)なき月照彦(ツキテルヒコ)の
 神の命(ミコト)の雄叫(ヲタケ)びに
 四方(ヨモ)の草木も靡(ナビ)き伏(フ)し
 伏して仕(ツカ)へむ天地の
 草木の神も山川の
 正しき神は君が辺(ヘ)に
 い寄(ヨ)り集(ツド)ひて統神(スベカミ)の
 教へたまひし言(コト)の葉(ハ)の
 三千世界の梅の花
 曇(クモ)る心の岩屋戸(イハヤト)を
 一度に開(ヒラ)く梅の花
 月照彦(ツキテルヒコ)の大神(オホカミ)の
 霊魂(ミタマ)は照るとも曇(クモ)るとも
 神の依(ヨ)さしの神業(カムワザ)に
 はむかふ魔神(マガミ)は非(アラ)ざらむ
 あゝ勇ましき月照彦(ツキテルヒコ)の
 神の命(ミコト)の功績(イサヲシ)や
 あゝ勇ましき祝部(ハフリベ)の
 神の命(ミコト)の宣伝よ』

と声涼(スズ)しく謡(ウタ)ひはじめた。

風は涼しき声を乗せて
地中海の西南にいます二神人(ニシン)の許(モト)に送りとどけた。

二神人は勇気百倍して、さしも激しき烈風の中を撓(タユ)まず屈せず、
またもや声を張りあげて、山野河海の神人(カミガミ)らに警告を与へつつ、
エルサレムの聖地を指して進む。

 (大正十一年一月十二日、旧大正十年十二月十五日、加藤明子録)
 (昭和十年三月三十日朝、於吉野丸船室、王仁校正)

『音惚花活気好@kakky』的『第36章 言霊(コトタマ)の響 (236)』分解(一)

2010年05月12日 03時32分39秒 | Weblog
霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻 第六篇 聖地の憧憬

平成二十二(2010)年五月十二日 旧三月二十九日(水)

『昔の昔、その昔
 国治立(クニハルタチ)の大神(オホカミ)は
 天地四方(アメツチヨモ)の神人(シンジン)の
 拗(ネヂ)け曲(マガ)れる霊魂(ミタマ)をば
 直(ナホ)さむために神柱(カムバシラ)
 四方(ヨモ)の御国(ミクニ)に遣(ツカ)はして
 世の立替(タテカ)へを知らせむと
 東や西や北南(キタミナミ)
 千(チヂ)に其(ソ)の身を窶(ヤツ)しつつ

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この『拗(ネヂ)け曲(マガ)れる霊魂(ミタマ)』というのを、
解釈し間違えると変な閉鎖的な世の中になってしまう。

天津神系は元々が軽い霊性なので、ちょっと油断すると、
すぐに御陽気になってしまうから、神柱として働く時は、
わざと剛直な風に構えて地上に留まれる様に努力する必要がある筈だ。
…と筆者は考えている。

一方、国津神系は元々が重い霊性なので、ちょっと油断すると、
すぐに陰気になってしまい地中に沈んでしまうから、
わざと軟弱な風に構えて地上に留まれる様に努力する必要がある筈だ。
…と筆者は考えている。

そして四足身魂は腹這いになって真っすぐに進むのが真っすぐで、
普通の蟹は横に進むのが真っすぐだし、
蛇は波打ってうねうねと進むの真っすぐなのだ。

人間すべからく仲良く交流するのが真っ直ぐな事で、
孤独を好んだり、孤高に構えるのは、大概はひねくれた事だ。

人の精霊は主神 神素盞嗚大神(カムスサノヲノオホカミ)の御神格だから、
他の神を降ろす為に荒行をやって修行するのは普通は曲がった事だが、
審神(サニハ)や神主は、神を降ろす為に修行するのが真っ直ぐな事だ。

宗教の修行者が禁欲するのは真っ直ぐな事かもしれないが、
一般人が禁欲するのはある意味、拗け曲がった行為。
…という事になるのであろうと、筆者は考えるのである。

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 雪の晨(アシタ)や雨の宵(ヨヒ)
 虎棲(トラス)む野辺(ノベ)も厭(イト)ひなく
 神の救ひの言(コト)の葉(ハ)を
 科戸(シナド)の風(カゼ)に吹き拡め
 四方(ヨモ)の国々隈(クニグニクマ)もなく
 行き渡りたる暁(アカツキ)に

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一般人がこんな事をやっていたら、
なんと不憫な身分という事になるが、
宣伝神がこれをやると尊い立派な事になる。

何事も『時処位』があるので立場が変われば、
その価値観がまるで逆転することはよくある事である。

自然の万物は、

『雪の晨(アシタ)や雨の宵(ヨヒ)
 虎棲(トラス)む野辺(ノベ)も厭(イト)ひなく』

などということは当たり前のことだが、
家を建ててそこに住む人間ともなると、
そういう暮らしをしていると不憫に感じたりするわけだ。

家を建てる知恵が無かった頃の人類は穴居生活をしていたそうだし、
特に現代人に近づくほどに体毛が少なくなるわけだから、
雨風や野獣が棲む原野というのには不似合いなわけである。

それでもジャングルの原住民などは集落を作り、
槍や吹き矢・弓矢・毒針などを使ったりして、
狩猟に長けたりもするし、畜生と違うのは火を炊けるからで、
人間が雨風を厭い無く進むということは、
とても尊い犠牲的行動になるのだから、
まったくこれだけでも人類、神々は畜生とは違う事がわかる。

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 天教山(テンケウザン)に現はれし
 野立(ノダチ)の彦(ヒコ)の大神(オホカミ)や
 木花姫(コノハナヒメ)の御指揮(オンサシズ)
 地教(チケウ)の山(ヤマ)に現はれし
 野立(ノダチ)の姫(ヒメ)の大神(オホカミ)の
 宣示を背(セナ)にいそいそと
 めぐり車(グルマ)のいとはやく
 変る浮世(ウキヨ)の有様(アリサマ)を
 心にかくる空の月

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そんな神々・人類の犠牲的な行動は、
この様に先の先まで見え透いた野立彦の大神や、
木花姫の大神などの宣示があるからだが、
科学万能の文明を謳歌する現代であったら果たしてどうだろう。

世の中、人工衛星を飛ばしたり、インターネットを通じて、
世界中の情報を入手し易くなったわけだが、
こんな時代にもし宣伝神が活動しなければならないとしたら、
それはマスメディアを使う方が、人海戦術的なチンドン屋よりは、
きっとよいに違いない。

しかもこの三十年くらいの間に、権力への抗議活動や、
社会への宣伝活動は、団体活動から、より小規模な形に変わっている、

そんな時代でも山間の僻地に情報をもたらそうと思えば、
やはり宣伝神が必要なのだろう…と言いたいところだが、
現代は完全なる未開人というのは無い筈なので、
各自治体の連絡網を通じて、宣伝活動は円滑に出来るに違いないのだ。

日本ならば、せいぜい終戦直後から電子メールが出来たばかり頃までくらいが、
この『霊界物語』の宣伝神達の様な活動が必要なのであって、
それだけ考えても、この物語は、文明未開の大過去の出来事であった、
…と考える事が出来るわけである。

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 つきせぬ願(ネガヒ)は神人(シンジン)の
 霊魂(ミタマ)、霊魂(ミタマ)を立直(タテナホ)し
 清(キヨ)き神代(カミヨ)に救はむと
 わが身を風に梳(クシケヅ)り
 激しき雨を浴(ア)びつつも
 三千世界(サンゼンセカイ)の梅の花
 一度に開(ヒラ)く常磐樹(トキハギ)の
 常磐(トキハ)の松(マツ)の神の御代(ミヨ)
 心も清き木花(コノハナ)の
 開いて散りて実(ミ)を結び
 スの種(タネ)四方(ヨモ)に間配(マクバ)りし
 神の恵(メグミ)を白浪(シラナミ)に
 漂(タダヨ)ふ神こそ憐(アハ)れなり

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「つきせぬ願(ネガヒ)は神人(シンジン)の
 霊魂(ミタマ)、霊魂(ミタマ)を立直(タテナホ)し
 清(キヨ)き神代(カミヨ)に救はむと」

正直言ってこれは無理!

理想は高く持ちたいものだが、
一柱の宣伝神がこんなことを実現するのは絶対に不可能。

そして神でも不可能なものを仏や人間がするのは絶対に無理である。

それを何がなんでもやろうというのは実におこがましい話である。

例え天地宇宙の真理を極めることが出来たとしても、
一人の伴侶と夫婦生活も出来ない様では、なんとも物足りない。

実際、独身貴族というのは気楽なもので、余計な心配も要らないが、
妙に神様気取りでお高く止まり、全ての人類を、皆その様に立て直そう、
…というその考え自体が先ずおかしい。

この地上の各環境に合わせた人種があり、
その人種の中にも、皆それぞれに個性にバラつきがある。

その中に、天地の神の御心を汲む神柱が出て来るのも、
そうでない身魂がたくさんいるのも、それは三千世界の創造主神の
全て微妙なサジ加減で調整されているのだ。

それを信じる事が先ず重要で、
その中で、本当に拗け曲がってしまった神人に、
御縁に応じて伝えるべき事を伝えられればそれで充分であろうと思う。

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 朝日(アサヒ)は照(テ)るとも曇(クモ)るとも
 月(ツキ)は盈(ミ)つとも虧(カ)くるとも
 たとへ天地は倒(サカサマ)に
 地は覆(クツガヘ)り天となり
 天はかへりて地となるも
 なんと詮方(センカタ)千秋(センシウ)の
 恨(ウラ)みをのこすな万歳(バンザイ)に

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普通こんな目に遭わされたら、何らかの形で生きていて感情があるなら、
絶対に恨みが残るものだと思う。

残すなという方が無理だと思うのだが、
はたしてそこまで強い怨念を持っている神々、人間、生物もまた少ない。

せっかっく体をもってこの世に生まれてきたのなら、
こんな事は一切なく、健やかに楽しく生きる事が出来てこそ、
健全な心が育つので、どんな艱難辛苦を嘗めさせられても、
私は立派に耐え抜いてみせます。
…などというのは異常な精神である。
一人で勝手にやっていろ!というもので、
それはただの冒険好きの言うことだ。

勿論、個人が冒険するのはおおいに結構だが、
本当に、他人や社会の迷惑にならないところで、
ひっそりと勝手にやってほしい。

天変地異など真っ平御免である。

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 神の恵(メグミ)の言(コト)の葉(ハ)に
 眼(マナコ)をさませ百(モモ)の神(カミ)
 耳を欹(ソバダ)て聞けよかし
 聞けば香(カンバ)し長月(ナガツキ)の
 九月八日のこの経綸(シグミ)
 九(ココノ)つ花(バナ)の開(ヒラ)くてふ
 今日九日の菊の花
 花より団子(ダンゴ)と今の世は
 体主霊従(タイシユレイジユウ)の神ばかり
 世は常暗(トコヤミ)と鳴門灘(ナルトナダ)

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『花より団子』というのばかりでは味気なさ過ぎるが、
『団子より花』と言って、いつも腹を空かせているのはバカ者である。

前者は体主霊従のわれよしだが、後者は力主体霊のつよいものがちだ。

花も団子も適度に大事なものだし、特に花は、神や人間だけのものではない。

他にも必要としている生物がたくさんある。

もっとも特殊な使命があって、何十年も飲まず食わずでいる人もある様だが、
それは本当に特殊なことなのだ。
それが一般的になるには、時節の力が必要になる。

今、筆者もツイッターをやっているフォロアーさんの中に、
熱心なキリシタンの女性がいて、キリシタンは、十字架のイエス同様、
肉体の欲望を全て十字架に磔て、霊的天国だけを求めているのです。
…などというバカなことを言って陶酔しているのだけれども、
こういう風に偏ったキリシタンは、全部偽物だ。

それならイエスが十字架にかかる前にたくさんの病人を癒し、
悪魔や悪霊を追い出して歩いたのがまるで無駄な事になる矛盾に気づいていない。

キリシタンが肉欲を禁じられているのは、
イエスを十字架に追い遣った罪に対する呪いを受けているのだ。

こういことを「拗け曲がる」というのだが、そう簡単に救えるものではない。

なぜなら彼らは、夏の虫が電灯に集って死んで行く様に、
それが一種のマゾ的な快感になっているのだから、
その癖を取祓うのは本当に難しいことであろうと思うのである。

御縁があれば「霊界物語」によって救われてゆくであろうけれども…

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 渦(ウヅ)まきのぼる荒浪(アラナミ)に
 攫(サラ)はれ霊魂(ミタマ)は根(ネ)の国(クニ)や
 底(ソコ)の国(クニ)へと落ちゆきて
 消えぬ地獄(ヂゴク)の火に焼かれ
 あるひは氷(コホリ)の刃(ヤイバ)もて
 無限の艱苦(カンク)をなめくじり
 蛙(カヘル)に出会ふたそのごとく
 天地はかへる蛇(ヘビ)の群(ムレ)
 蛇(ヘビ)にひとしき舌剣(ゼツケン)を
 振(フル)ふは大蛇(ヲロチ)の悪神(アクガミ)ぞ

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こういう世界が見えてしまう時期というのも確かにあると思うが、
ここに留まっている様では、いわゆる一輪組といって、
いつまでたっても立替とか大峠から抜け出せない時間を繰り返すのみだろう。

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 その悪神(アクガミ)に取りつかれ
 もとより清(キヨ)き大神(オホカミ)の
 霊魂(ミタマ)と生れし神人(カミガミ)は
 知らず識(シ)らずのそのうちに
 体主霊従(チエノミタマ)となりはてぬ
 体主霊従(チエノミタマ)となりはてぬ

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一度悪神に取りつかれた身魂は、
どうしたって元の通り清らかな身魂には成り得ない。
この物語の舞台になっている世界に存在している限り、
絶対にその善悪混淆の情態から抜け切れるものではないのだ。

完全に体を変えて神として天に上がるか、
邪霊として根底の国に下るかしないと駄目だ。

その取りつかれたとかいう悪神を取払おうとするから、
無駄な時間を過ごすのだ。

その得た物をどう使いこなすかを学んだ方が効率的だ。

野球好きからバットやグローブを取り上げようとしても難しいし、
楽器の演奏家からその楽器を取り上げるのも難しい。

一度ついた知恵は知恵で、それを使うも使わぬも、
本人の自由なので、その知恵に縛られた価値観でしか、
物事を判断できなくなる事は、実に狭苦しいものである。

物事、泣き所、勘所を心得てから、程よく丁度よく使いこなせばよい。

悪神が取りついて来たのなら、どうやってその悪神を使いこなすかだ。

どうせ離れないものならば、それを考えた方が効率的である。

そのうち、双方実力がついたら、お互い飽きが来て、
自然に分離するものだ。

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 この惨状を救はむと
 国治立尊(クニハルタチノミコト)もて
 百(モモ)の神々(カミガミ)天教(テンケウ)の
 山に集(ツド)ひて諸共(モロトモ)に
 赤き心を筑紫潟(ツクシガタ)
 誠(マコト)を尽(ツク)す神人(カミガミ)の
 清き心も不知火(シラヌヒ)の
 波に漂(タダヨ)ふ憐(アハ)れさよ

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それは救おうとする神人の勝手であって、
なんでそのことを巷の有象無象が知らないことを責める事が出来ようか?

そんな恩着せがましいことを考えること自体が慢心だろう。

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 暗路(ヤミヂ)を照らす朝日子(アサヒコ)の
 神のみことの隠(カク)れます
 天(アマ)の岩戸(イハト)はいつ開(ヒラ)く
 この世は終(ヲハ)りに近づきて
 この世は終(ヲハ)りに近づきて
 鬼(オニ)や大蛇(ヲロチ)やまがつみや
 醜女探女(シコメサグメ)の時を得て
 荒振(アラブル)る世とぞなりにけり
 荒振(アラブ)る世とぞなりにけり

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そんなことイキナリ言われても、もう手遅れなんじゃないですか?
…とかえって苦情を言いたくなるのが言われる側の心情かも…

こんなに口を酸っぱくする様に宣伝歌を歌っても、
縁に触れて本当に道を覚れる身魂はきっとごくわずかだろうし、
それでも充分成功なんだろうな…と思えてしまうのだ。

腹を空かして荒れ狂う猛獣には餌をやるのがよいけれど、
その餌だって何某かの生き物を犠牲にしてやらねば与えることが出来ない。

ただし、それが実体の無い霊的なものであるのならば、
それを消失させる方法は他にあるかもしれないが、
そういう大衆心理をどうこう言っても無駄だろう。

全体的な方針を決めるには上に立つ者が絶対的な断行をすればよいので、
民衆というものは上の方向性が完全に決まってしまったら、
少しは逆らうかもしれないが、すぐに順応して、
その体制下でも逞しく生きてしまうものだ。

海の大量な魚達の一尾々々の心を立て直すよりも、
その群れのリーダー一尾の心を徹底的に立て直すことが出来れば、
それで充分に大事は成し得るものである。

大衆は上がどう変わったところで、その逞しい生命力を失うものではない。

勿論、全ての大衆が完全に順応するわけではないが、
時間の問題でそういうことは生き残った者達の幸福の中に掻き消えてしまう。

中にはずっと過去にこだわり続ける者が出るかもしれないが、
それがつまり『拗け曲がった心』なのだ。

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 あゝ神人(カミガミ)よ神人(カミガミ)よ
 神の救ひの声を聞け
 耳を浚(サラ)へてよつく聞け
 眼(マナコ)を洗(アラ)つてよつく見よ
 眼(マナコ)を洗(アラ)つてよつく見よ』

と節面白くうたひながら異様の扮装(イデタチ)にて、
あまたの神人(カミガミ)に取囲まれ謡ふ神があつた。

祝部神(ハフリベノカミ)はこの声を聞き、何となく心勇み、
祝彦(ハフリヒコ)、杉高彦(スギタカヒコ)と共に、
肩をゆすりながらその声目がけて突進した。

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たぶんこの時の宣伝神達は、一種のスター気分であったに違いない。

トップクラスの皆さんが、エリート意識を発揮して凱旋パレードするのと、
いったい何の違いがあるだろうか?

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 激しき風に吹きまくられて、
地上の一切は、見るも無残に落花狼藉、
神人(シンジン)は烈風に遇(ア)ひし蚊(カ)のごとく、
蚋(ブト)のごとく中天に捲(マ)き上げられてしまつた。

されど臍下丹田(アマノイハト)に心を鎮め神力(シンリキ)を蒙(カウム)りし神のみは、
大地より生えたる岩石のごとくびくとも動かず、
悠々として烈風ふき荒(スサ)ぶ広野(ヒロノ)を、
風にむかつて濶歩しつつ、雄々(オオ)しくも宣伝歌をうたつた。

その声は風の共響(ムタヒビ)きに送られて
地教山(チケウザン)の高照姫神(タカテルヒメノカミ)の御許に達した。

真澄姫(マスミヒメ)、祝姫(ハフリヒメ)の耳にはことさらに痛切に響いたのである。
はたして何人の宣伝歌であらうか。

云はずと知れた月照彦神(ツキテルヒコノカミ)と祝部神の宣伝歌であつた。

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ここにもある様に、つまり掃除されてしまう身魂は、
どうしたって掃除されてしまい、御用のあるどっしりとした身魂だけが、
その場に残って目的を果たす為に活動を続けることが出来るのだ。

筆者には『宣伝歌=死刑宣告』の様な要素が大いに強いものだと思える。

…が、この宣伝歌によって完全に改心の機会を得る身魂も出来て来る。

それが如何に少数であったとしても、将来を考えたら大成功なのだ。

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『音惚花活気好@kakky』的『第36章 言霊(コトタマ)の響(236)』分解(二)

2010年05月12日 03時31分41秒 | Weblog
 高照姫神は黄金の幣(ヌサ)を奥殿より取り出し、
烈風にむかつて左右左(サイウサ)と振り払ひたまへば、
風は逆転して東北より西南にむかつて吹きまくつた。

そのとき二神使(ニシン)はまたもや歌をよまれた。

その歌は地中海の西南なる埃(エ)の宮(ミヤ)を通行しつつある
夫神(ヲツトガミ)の耳に音楽のごとく微妙にひびいた。

真澄姫(マスミヒメ)は地教山の高閣(カウカク)に登り
言葉涼(スズ)しく謡(ウタ)ひはじめた。


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きっと正しい神々にといっては、これで充分連絡が出来たのだ。

現代人にはなかなか通用しない事実であるが、
なかにはこういう軌跡を再現する者も出て来る。

しかしそれもみんなではない。

ごく少数の選ばれた精鋭達のみだ。

それが御神業の真相であろうと思うのである。

戦でも、兵がいくら犠牲になっても殿様さえ無事ならば、
また戦を起こす為の兵を集う事が出来る。

そういうことと、この物語はほとんど大差無いといえるのではなかろうか?

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『仰(アフ)けば高し久方(ヒサカタ)の
 天津御空(アマツミソラ)に澄みわたる
 月照彦(ツキテルヒコ)の大神(オホカミ)の
 恋しき御声(ミコエ)は聞えけり

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よく、例えにされることだと思うのだが、
仮に世界の滅亡の時が来たとしても、
一組のヒーローとヒロインさえ生き残ることが出来れば、
新世代のアダムとエバになって、
新時代の人類の祖になることが出来る。
…という種の保存本能の様なものは、
きっと皆の中にあるものだと思う。
この物語も神々しく記されているけれど、
そういうこととほとんど変わらないことだと思うのである。

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 雨の晨(アシタ)や風の宵(ヨイ)
 この世を思ふ真心(マゴコロ)の
 君が御声(ミコエ)は天(アメ)の下(シタ)
 四方(ヨモ)の国々(クニグニ)鳴(ナ)りひびき
 響きわたりて今ここに
 地教(チケウ)の山まで届きけり
 地教(チケウ)の山まで届きけり

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こんなに真心込めて伝えてやったんだから、
それに逆らって滅ぼされる側にまわっても恨みっこなしだぞ。
…ということが、常に底辺にあるのだと思う。

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 あゝ尊(タフト)しや言霊(コトタマ)の
 誠(マコト)のひびきは鳴りわたる
 雄々(ヲヲ)しき声は雷(イカヅチ)か
 雷(カミナリ)ならぬ神(カミ)の声(コエ)
 その声こそは世を救ふ
 神の御旨(ミムネ)に叶ふべし
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世を救うためならば、つまりは枝打ちの様な事も、
ためらわず行うべし。…ということなのだろうか?

つまり神代のリストラであろう。

艮の金神ならぬ「リストラの金神」である。

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 神の御旨(ミムネ)にかなふべし
 妾(ワラハ)はここに大神(オホカミ)の
 みこと畏(カシコ)み日に夜に
 世の神人(カミガミ)らを救はむと
 思ひあまりて村肝(ムラキモ)の
 心の空もかき曇(クモ)る

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…まあ、言うこときかずに滅びる定めの皆さんに、
生き残る我々が何の恨みがありましょう…
せめて丁重に真心込めて御供養させていただきますので、
御冥福をお祈りいたします。
御縁がありましたらまた出直して正しく誠の道を歩んでくださいませ。

…ということではないのだろうか?

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 心の空もかき曇る
 曇(クモ)るこの世を清(キヨ)めむと
 心も清く身も清く
 光(ヒカリ)隈(クマ)なき月照彦(ツキテルヒコ)の
 神の命(ミコト)の雄叫(ヲタケ)びに
 四方(ヨモ)の草木も靡(ナビ)き伏(フ)し
 伏して仕(ツカ)へむ天地の
 草木の神も山川の
 正しき神は君が辺(ヘ)に
 い寄(ヨ)り集(ツド)ひて統神(スベカミ)の
 教へたまひし言(コト)の葉(ハ)の
 三千世界の梅の花

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草木などの万物は、世を洗うほどの天変地異があっても、
すぐに再生して環境を取り戻してくれるものだ。

科学技術が無い天然のままの人間はそうも簡単にはいかないけれども…

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 曇(クモ)る心の岩屋戸(イハヤト)を
 一度に開(ヒラ)く梅の花
 月照彦(ツキテルヒコ)の大神(オホカミ)の
 霊魂(ミタマ)は照るとも曇(クモ)るとも
 神の依(ヨ)さしの神業(カムワザ)に
 はむかふ魔神(マガミ)は非(アラ)ざらむ
 あゝ勇ましき月照彦(ツキテルヒコ)の
 神の命(ミコト)の功績(イサヲシ)や
 あゝ勇ましき祝部(ハフリベ)の
 神の命(ミコト)の宣伝よ』

と声涼(スズ)しく謡(ウタ)ひはじめた。

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『神の依(ヨ)さしの神業(カムワザ)に
 はむかふ魔神(マガミ)は非(アラ)ざらむ』

いろいろと遠回しにぼかしてあるけれども、
この一節を見ただけでも、その真意は判りそうなものだ。

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風は涼しき声を乗せて
地中海の西南にいます二神人(ニシン)の許(モト)に送りとどけた。

二神人は勇気百倍して、さしも激しき烈風の中を撓(タユ)まず屈せず、
またもや声を張りあげて、山野河海の神人(カミガミ)らに警告を与へつつ、
エルサレムの聖地を指して進む。

 (大正十一年一月十二日、旧大正十年十二月十五日、加藤明子録)
 (昭和十年三月三十日朝、於吉野丸船室、王仁校正)

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平和な街中を突然サイレンを鳴らして駆け抜けるパトカーや救急車、
消防車の様なものであろう。

確かに、このサイレンの音を聞いて安心する身魂も大勢いるだろうし、
ゾッとして縮み上がる身魂もあるであろう…

こんな救いではまだまだ不完全である。

筆者はやはり王仁三郎聖師がヒントだけ残して御提案された
皇道経済の実施のみが、根本的に世界一列に救う秘策だと思うのだ。

嗚呼、惟神霊幸倍給坐世(カムナガラタマチハエマセ)

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恥部焼きブルース(宅録マニアクバージョン)仮マスタリング.wmv

2010年05月04日 12時39分22秒 | Weblog
恥部焼きブルース(宅録マニアクバージョン)仮マスタリング.wmv


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