織内将男の日 光 讃 歌 

世界遺産の二社一寺などの歴史、文化を育んだ、日光の自然や地域を訪ねます。

日光讃歌(58)日光三山  「男体山・中宮祠・Ⅲ」

2013年07月14日 18時08分01秒 | 日光二荒山神社




 日光讃歌(58)日光三山  「男体山・中宮祠・Ⅲ」 







二荒山中宮祠拝殿と本殿



 
さて、男体山の山頂にある二荒山神社奥宮と、日光山内にある二荒山神社本社の中間にあるので、中宮祠と呼ばれている。

山麓、中禅寺湖を臨む景勝の地、標高1,200メートルの高地にあり、男体山頂奥宮への登拝口にあたる。
古くは男体大権現・男体中宮と呼ばれ、頂上の二荒山神社奥宮と日光山内の日光二荒山神社本社の間にあるため、中宮祠と呼ばれている。



勝道上人が山頂をきわめた後、延暦3(784)年、ここに二荒権現をまつる社殿を建てたのがはじまりで、祭神は二荒山神社と同じ、大己貴命・田心姫命(たごりひめのみこと)・味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)の三神が祀られている。


社殿建築物は、本殿・透塀・唐門・拝殿・浜鳥居など重要文化財指定の主要建造物のほか、数多くの建造物があり、本殿右側に山頂奥宮への登拝門などがある。

ただ、こちらの建物群は重要文化財(本殿、拝殿は重要文化財)や世界遺産には指定されていない。 

元より、この地には「中禅寺」が建っていたところであり、創建は延暦3年(784)勝道上人が二荒山神社中宮祠の西隣に堂宇を建立したのが始まりとされ、中宮祠は神仏混合として江戸時代を通し繁栄したという。


だが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により寺院として独立し、さらに明治35年(1902)男体山からの山津波により境内全体が中禅寺湖湖に押し出されてしまったのである。

そこで、大正2年(1913)、中禅寺湖の東の地に再建されたのが中禅寺(立木観音)であり、以降、多くの堂宇が随時造営され現在に至っている。



次回、男体山





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日光讃歌(57)日光三山  「男体山・中宮祠・Ⅱ」

2013年07月05日 09時14分00秒 | 日光二荒山神社





 日光讃歌(57)日光三山  「男体山・中宮祠・Ⅱ」 





写;二荒山中宮祠拝殿




奥日光は男体山の噴火活動などにより、劇的に地形を変えてきたエリアであり、これも「二荒」の神が、自然的造形をもたらした結果であって、湖や滝、草原や湿原などさまざまな景観が箱庭のようにそろっている。

奥日光の歴史は、奈良朝末期から平安朝初期にかけて活躍した僧侶・勝道上人が二荒山(男体山)登頂に成功したことに始まる。

以来、江戸時代までは男体山を中心とした修験の地として、明治以降まで継続されることになる。



男体山は、見るからに富士型円錐形の大きな山容を有して、裾野から更にそのままの角度で、中禅寺湖の湖底の深さ160mまで深く沈んでいる。

山様は、県内はもちろん群馬県や埼玉県の平地部、特に空気の澄んだ日には南関東からも独立峰のような堂々とした姿が臨まれる。

又、山麓部にあたる日光市街や中禅寺湖畔、また戦場ヶ原や奥日光の山々からも容易に見ることが出来、同じ日光表連山の女峰山、大真名子山、小真名子山等と並び、日光連山を代表する山となっている。


明治時代に新政府によって書かれた下野国誌にも、『黒髮山(クロカミヤマ) 都賀郡、日光山の奧にあり、當國第一の高山にて、遙に武藏、下總、常陸等の國々よりもみゆるなり、世俗は男體山とも呼なり』とあり、
男体山が当時から栃木県内第一の山で、現在の埼玉県、東京都、茨城県からも見えたと認識されていたことが分かる。


同じ日光連山を代表する山として日光白根山があり、関東地方以北の最高峰として広く知られている名山ではあるが、その位置が地理的に奥まっており、関東地方平地部と日光白根山の間に所在する2,000m超級の日光表連山および奥日光の山塊によって遮られるため、関東地方からは日光連山の稜線上に山頂部が僅かに見えるのみで、それが関東以北の最高峰だと気付くのは難しいほどである。


男体山という山名は、東北側の山続きの女峰山との対で付けられたものと考えられる。

男女一対の山には、雄岳と雌岳を有する奈良の二上山、男体山と女体山が並立する筑波山など多くの例があるが、男体山と女峰山は、間に大真名子山、小真名子山という二つの「愛子(まなご)」を抱え、また男体山の北西側には太郎山を擁し、家族のような連山一家を成しているところも特徴的で面白い。


先般から紹介しているように、男体山の初登頂は782年(天応2年)に僧勝道上人によって成し遂げられた。この登山については高僧・空海の記した『性霊集』に詳細が述べられている。

この時期の初登頂記録としては最も実証性があるものといわれる。


勝道上人は、「われもし山頂にいたらざれば、菩提にいたらず」、つまり山頂に達することが自分の悟りを開くと考え、前人未到の男体山への登頂を志した。
また、釈迦が雪山で苦行をしたという前例から、あえて残雪期の登山を選んだ。


勝道上人の登頂初挑戦は767年(神護景雲元年)4月上旬であったが、嵐にあって撤退を余儀なくされた。2回目は781年(天応元年)4月上旬、またしても悪天候により失敗した。

そして翌年782年(天応2年)3月、48歳の勝道は今回こそはと意を決し、中禅寺湖畔で経を読むこと7日間、頂上へ踏み出した。

湖畔から山頂まで1,200mの急坂、木々を掻き分け、残雪を踏み、途中2泊の野営を重ね、ついにその宿願を果たしたという。


次回、  「男体山・中宮祠・Ⅲ





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