織内将男の日 光 讃 歌 

世界遺産の二社一寺などの歴史、文化を育んだ、日光の自然や地域を訪ねます。

東北紀行(64)角館 「角館の概要」

2011年04月04日 13時55分17秒 | 乳頭温泉、角館




 東北紀行(64)角館 「角館の概要」   、






角館のシダレ桜と角館の街の略図(角館観光)




城下町としての角館は中世末期、戸沢盛安によって創建されたという。
戸沢氏の家系は桓武平氏・平衡盛を祖とした名家で、戦国期には角館を中心として仙北地方に一大勢力を誇った家柄であり、盛安は戸沢氏十八代目の当主に当たる。
古城山に館を置き、当初その北側の山麓に城下町を築いたとされる。

しかし、戸沢氏が国替えとなり、後に着いた芦名義勝の代(佐竹盛重;初代秋田藩主・義宣の弟で芦名氏に婿入改名)には、その地が不利として改めて古城山の南側に新城下町を建設した。
この地は三方が桧木内川などの川と周囲は山に囲まれ、天然の要害を成していて、これが概ね現在の角館の街の姿である。


街は「火除(ひよけ)」と呼ばれる広場を中心に北側は武家屋敷が建ち並ぶ「内町(うちまち)」に、南側は町人や商人が住む「外町(とまち)」に区分された。

内町」は、築200年近い屋敷が建ち並び黒板塀に垂れ下がるしだれ桜が続き、この武家屋敷群の表通りは、国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けており文化財として保護されている。

外町」は、内町と対照的にびっしりと商家などの町並みが続き、歴史を感じさせる。 
古い建物や土蔵も数多く残り、町の人はこの空間を大切にしながら商店地などに活かしていた。
この嘗ての町割りが390年あまりたった今でもほぼ変わらず残っているという。


内町の武家屋敷群は、現在の町名で主に東勝楽丁や表町下丁・上丁があり、その道路は途中、桝形になって行き止まりのように見える箇所がある。 
これは城下町でよく用いられる手法で、見通しを避け、防衛する役割をもっていたされる。 無論、現在その意味は失ってしまったが、屋敷境としての景観の演出効果を果たしている
のである。

この街の主要通りは、桜はシダレザクラで、その他は常緑樹、落葉樹の木立が大きいのが特徴であろう。
特に名物シダレザクラは、塀から通りへと流れ落ちるかのように枝を伸ばし、風に揺れながら舞い、優雅な雰囲気を醸し出している。


芦名家から代わった佐竹北家の初代当主・義隣の子・義明(よしあき)は正室として京の公家・西三条実号(さねな)の娘を迎えた。 その結果、北家二代の間には角館には京との深い交流が生まれた。 
御輿入れの際、京都円山公園の「枝垂れ桜」が内町の武家屋敷に移植されたのを始め、京から多くの文物が取り入れられた。 これらが「みちのくの小京都・角館」と言われる所以かもしれないのである。
このシダレザクラを嘆賞した、歌人・斎藤茂吉は名歌を残した。
 
『 春ごとに 枝垂り桜を 咲かしめて 
          京しのびしとふ 女(おみな)ものがたり
 』



尚、「男はつらいよ」で有名な山田洋次監督が当地で「隠し剣鬼の爪」(青柳家)、「たそがれ清兵衛」(岩橋家、松本家)等を撮影場所としている。
因みに、両映画はいずれも藤沢周平作品の本格時代劇で、幕末に生きた名もない下級武士と家族の姿を日本に残る美しい風景とともに、胸を打つ感動と手に汗を握る興奮で描き、数々の映画賞に輝いている。

次回、奥州街道 「横手



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東北紀行(63)角館 「角館と佐竹家」

2011年04月03日 11時31分21秒 | 乳頭温泉、角館
.



 東北紀行(63)角館 「角館と佐竹家」  ,


石黒家では特別に女性の案内係がいて、石黒家や角館の歴史や謂れをガイドされていたが、ここで初めて角館は佐竹家の支藩(北家)であった事が判った。


「佐竹氏」といえば小生にとって懐かしい響きを感じるのである。 
先ず、小生の生母は山形旧家出身の「佐竹」と称していて、ヒョッとしたら出羽・秋田の佐竹氏とは何らかの因果関係があるのかもしれない。 
又、我が故郷でもある出身地の東北南部の「いわき」は、秋田本藩二代目藩主の出身の地でもあるのです。

秋田の南に位置する岩城町は(2005年、由利本荘市となる)、江戸期には「岩城藩」または「岩城亀田藩」と呼ばれていた。 
江戸初期に岩城亀田藩が設立され時、その初代藩主当たったのが岩城吉隆であった。

戦国期、福島県浜通りの「いわき地方」を治めていたのが岩城氏であったが、関ヶ原の戦いで苦渋をなめ戦後、磐城12万石は没収されてしまう。 
だが数年後、岩城吉隆は大名復帰を許されて出羽亀田藩の藩主となるのである。 
更に、岩城吉隆は子供のなかった秋田藩の祖・佐竹義宣の養子に迎えられ、秋田藩第二代の藩主となって「佐竹義隆」と名乗るのである。



話が反れたが・・、
女性の案内係に更に、“角館の町割り”は判ったが、統治者・佐竹氏(芦名氏)の主城は何処かと尋ねたところ、街の北の外れ「古城山」にあったと聞いた。
確かに、広い街路より小高い丘のような、小山のような姿が見えていた。


角館は佐竹氏支藩である佐竹北家が統治していたが、その主城は現在のその名も「古城山」にあったとされる。 
創築は前代の戸沢氏によって築城されたといわれる。

戸沢氏は後に移封され、替わって常陸より佐竹義宣が羽後国秋田・仙北へ入部し、角館城には義宣の弟・盛重(後に芦名義勝と名を改める)が1万5千石で入れ置かれ、現在の角館のもととなる北麓に城下町を造り、お城を角館城として改築を行い、軍事的機能を優先した町づくりが行われた。

しかし十数年後、江戸幕府の一国一城令によって角館城は破壊されて古城山南麓に居館のみが設けられたという。 
古城山には現在公園として整備競れているが、遺構として曲輪・土塁・堀が残っているという。
尚、当主・芦名家及びその後の佐竹北家の居館はどの場所でどのような威容を誇ったか、はたまた、現在、遺構や遺跡が残されているかは関知していない。

次回、角館の概要



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東北紀行(62)角館 「河原田家と小田野家」

2011年03月28日 09時51分17秒 | 乳頭温泉、角館
.




 東北紀行(62)角館 「河原田家と小田野家」  ,









河原田家;薬医門と母屋玄関、 苔むした庭園と散策歩道




次に訪ねたのがお互いが隣接している河原田家小田野家である。
両家の門の近くは、葉が今にも落ちそうな枝垂桜の大木が、撓った(しなった)枝を被らせている。 

河原田家の薬医門は青柳家同様堂々たる構えであり、前面黒御影の石標には「史跡武家屋敷・河原田家」と記されていて判りやすい。 

母屋室内には直接入れないが、庭園へ通じる脇門から入ると洒落た見学用の木道が作られていて、書院作りの表座敷を見ることができる。

こちらは母屋を見るより庭園の見事さに感心する。 
苔むした地面の所々に石を配し、年輪を感じさせる樹木が覆っていて風情が美事である。

母屋の内部は庭園から眺められ、間取りなどは武家住宅の形式を踏襲していて、屋敷の構成は藩政時代そのものといわれる。
木の道は、そのまま隣家の小田野家通じ、当家の薬医門が出口になっている。




           
小野田家薬医門と母屋



小田野家は医薬門から玄関までの長いアプローチで、珍しくドウダンツツジが生い茂っている。 
シンプルな造りの玄関前から母屋の表庭に回って見ると、これ又珍しく鬱蒼とそびえる樹木の庭の下草には笹が一面に植え付けられている。 
母屋の玄関も一般の通用口と正式のものとを一緒に使い、玄関土間の上がり床(カマチともいう)で身分を区分するといい、中級武士の屋敷造りとなっている。 
間取りは近世武家住宅そのものだが、全体的に簡略化されているという。



河原田家は岩橋家同様、戦国時代に芦名氏の譜代として会津から角館へ移って本家100石、分家50石を拝領した。 
芦名氏断絶後は佐竹北家の組下となるが、幕末から明治にかけて分家が著しく発展し、明治24年に裏町からこの東勝楽丁(町名)へ移り住んだという。

又、小田野家の本家は平賀源内に師事し、洋画(秋田蘭画)を確立した小田野直武(縁戚関係にあった青柳家に胸像がある)を輩出している。
又、分家は居合いの師範(柳生新陰流)や眼科治療などの功績があった異色な家柄でもあったという。

次回、「角館と佐竹家



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東北紀行(61)角館 「岩橋家」

2011年03月27日 11時48分16秒 | 乳頭温泉、角館
.



 東北紀行(61)角館 「岩橋家」  ,







岩崎家薬医門っと御屋敷母屋(映画「たそがれ清兵衛」の撮影場所)




次に、南へ下って辻から東勝楽丁(町名)の岩橋家を訪ねる。
苔生した屋根(茅葺から木羽葺き)の薬医門をくぐると案内板が先ず教えてくれる。


岩橋家住宅は案内板によると・・、
『岩橋家は北関東の名門会津黒川城主芦名氏(鶴ヶ城;70万石)の重臣であった。天正17年(1589)芦名氏が伊達政宗に敗れ常陸の佐竹氏を頼り常州江戸崎城4万8千石を与えられ、岩橋家も芦名氏に随従して江戸崎に移った。関ヶ原戦後、慶長7年(1602)佐竹氏の出羽移封とともに芦名氏も出羽に下り角館城1万5千石を与えられた。岩橋家は一時江戸崎を立退き津軽氏に300石で仕官していたが、主君の角館居住とともに再び芦名氏に帰参し角館に居住した。芦名氏が承応2年(1653)3代にして断絶するに及んで、代わって角館を支配となった佐竹家に召抱え(66石)られ廃藩になるまで仕えた。この建物は江戸時代末期に改造され、屋根も茅葺から木羽葺にかわったが、角館の中級武士の生活様式を今に伝えている』 とあった。

母屋前から前庭に通じる脇門からは屋敷内に入ると、秋景色をいろどる栗、赤松、山モミジなどの樹木が多く、なかでも樹齢300年とも推定されている柏の巨木は秋田県内でも非常に珍しいといわれている。

母屋は、来客用の主玄関と家族が出入りする脇玄関が設えてあり、屋内は江戸時代の武家屋敷の面影を残している。 
だが、八畳間続きの居間や各部屋は上級武士としては質素な構えのようにも感じられた。



岩橋家は案内板にも記されているように戦国期から以来、芦名氏の重心として仕えている。 元より、芦名家は相模国三浦郡から興り、源頼朝の平泉征伐(奥州藤原氏)の際に功名を成し、1189年(文治5年)に会津の地を与えられた家柄で、14世紀後半に会津に下った後、黒川城(後の若松鶴ヶ城)を拠点に治世に努め、16世紀・芦名盛氏の頃には70万石の大大名として米沢・伊達家や常陸・佐竹家と並び称されるほどの力を有していた。

しかし、天正年間に伊達政宗との合戦(合戦名・・・)で大敗し、会津の戦国大名・芦名氏は滅亡して、実家縁者でもある佐竹家に戻ることになり、佐竹家の下、常陸・江戸崎城主となる。 (足名氏と江戸崎藩の詳細)

佐竹氏の与力家臣となっていた芦名氏(佐竹盛重、後に芦名と改名)は、関ヶ原の戦いでは兄・佐竹義宣と行動を共にしたが苦敗をなめ、除封されて義宣と共に出羽国(秋田県)に移ることになる。 

その翌年(1603)藩主・義宣は一族にそれぞれ城を与え、弟・盛重は角館城代として一万五千石(芦名家譜には一万六千石とある)を領し、名前を芦名義勝と改めている。
岩橋家は主家・芦名氏の浮沈の運命に翻弄されながら、忠臣として共に会津から常陸へ、そして秋田本藩(久保田藩)から角館支藩へと苦闘敗戦を伴いながら、芦名氏とともに転々と行動を共にしているのである。


因みに、藩主・義勝の2代目後継者・盛俊(義勝の庶子)は20歳で早世していたため、往年の会津・芦名家の再興の夢を失った家臣の落胆は大きく、特に、当主・岩橋又右衛門は盛俊の死の翌日に殉死したとされる。
更に、盛俊の没後、嫡子・千鶴丸(せんつるまる)が一才で後を継ぐが、三才で夭逝、全くの予期せぬ不運が続き、芦名家は1653年(承応2年)断絶したのである。

家臣は当然のことながら大きく減封処分され、左遷、或いは他家への出仕という道をとらされ路頭に迷った家臣団であるが、岩橋家は幸いその後の佐竹北家に慰留されている。
家臣・岩橋又右衛門の墓は盛俊と共に芦名家菩提寺・天寧寺に建つ。

江戸期の岩橋家は石高86石を有し、角館では上級武士の位置にあったという。


次回、「河原田家と小田野家



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東北紀行(60)角館 「青柳家」

2011年03月26日 10時16分57秒 | 乳頭温泉、角館
『東日本大震災』に遭われた被災者の皆さんに、心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。 
微少、微力ながら援助は惜しみませんので、一日も早い安らぎと回復をお祈りいたします。

被災者避難の皆さん、原発避難の皆さんへ全国(北海道から沖縄)の公営住宅、又、全国(北海道から沖縄)の公共住宅,UR機構(昔の公団),都道県市公社、官舎など、その他の公共的空住宅を行政、省庁、自治体が中心となって提供してやって下さい。
避難者近隣の銭湯、公共浴場、温泉施設など暖かい入浴を提供してやって下さい。
東北出身(いわき)の小生




 東北紀行(60)角館 「青柳家」  ,








青柳家の立看板の屋敷図青柳家展示品(元武家の様子が判る)




次に、石黒家の隣家に佇む「青柳家」を訪ねた。
更に、重装は薬医門を潜ると、屋敷の案内図が立っていた。 
屋敷内は一見するまでもなく、神社の境内のような鬱蒼とした大木が生い茂っている。
総敷地3000坪という巨大な御屋敷の中、母屋の他に武器蔵、青柳家ゆかりの古文書や絵画、

掛け軸などを展ずる「ミニ博物館」、郷士館、当時の武士の生活様式を伝える「道具蔵」、はては秋田の食文化を伝える食堂・「食彩館」やアンティーク逸品を展示する「ハイカラ館」といった建物が建つ。 

しかも庭園の中には小川が流れ、大元に神明水という清水が尽きることなく湧き出している。 
この小川は主家の裏山から数百年に亘って湧いているらしく、NHKのTV番組・「新日本紀行」でも放送されたという。


これらの建物群は、重要な古物である武具や古文書、史的遺品を収容するために後々に設えたものであるが、主家・母屋や医薬門は当時の姿をそのまま残されているもので、県の文化財にも指定されている。

特に医薬門は重厚なもので家の位や威信を表すものとされ、上級武士にしか許されない格調の高さは青柳家の誇りは勿論のこと、武家屋敷群の角館の象徴ともされているという。
これは藩への功績が認められた際、特別に作られたものであるとのこと。

又、主家は200年以上の歴史を保っているといわれ、寄棟萱葺き屋根は曲屋(かぎ形:直角に曲った平面をもつ民家)で、玄関、座敷の仕切り戸や欄間は武家の青柳家らしい独特の意匠を凝らしている。 
母屋、座敷は現存する角館の武家屋敷のなかで最も豪華だといわれる。
当家は、広大な屋敷と数多くの遺品の展示などで「角館の歴史村」とも言われているようだ。


青柳家は、元より戦国期から当主・佐竹義重に仕えていた。
佐竹 義重は戦国時代の常陸国の戦国大名で、常陸守護職家である佐竹氏第十八代当主であり、関東一の鉄砲隊を備えた別称・鬼義重、坂東太郎の異名を誇った。 
即ち、常陸・佐竹氏の全盛期を築き上げた人物で、経済力を築き、豊富な資金力を実現したという。

嫡男・義宣の時代、関ヶ原の戦いでは家臣の反対を押し切って西軍(三成方;中立という立場もある)寄りの立場を表明した。 
しかし、戦中の曖昧な態度を咎める名目で、常陸水戸54万石から出羽秋田(久保田藩)20万石へ減転封されることになる。

その後、義宣の弟・盛重(芦名家の跡取で芦名義勝と名乗る)に佐竹北家として「角館」を与え、その時、青柳家も盛重に随行、御徒組頭として60石(芦名家平均石高)が与えられている。

青柳家は廃嫡で芦名家が滅んだ後も佐竹家に仕え、更に新田開発や殖産を起こし度々藩、主君に御用金を献上、江戸中期には足軽組頭に昇格している。 
更に、幕末には150石を有して角館の資産家、名士となって歴史に名を残した。

1973年(昭和48年)県の史跡に指定され、平成元年、角館歴史資料館として公開されている。

次回、「岩崎家



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