織内将男の日 光 讃 歌 

世界遺産の二社一寺などの歴史、文化を育んだ、日光の自然や地域を訪ねます。

日光讃歌(41)戦場ヶ原 「自然探勝・千手ガ浜コース」

2013年01月25日 13時34分05秒 | 日光の歴史
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日光讃歌(41)戦場ヶ原 「自然探勝・千手ガ浜コース」




西ノ湖・千手ガ浜自然探勝コース(観光協会)
A 中禅寺湖とマス
B 動物の足跡
C ミズナラとヤチダモの林
D 西ノ湖と柳沢川



西ノ湖は遺留湖(自然現象で部分的に残された湖)であるため、水量が季節によってかなり変動するという。
水の多い時期や紅葉の時期は特にお勧めで、訪れる人も少なく、大変静かな雰囲気に浸れる。
千手ヶ浜から西ノ湖までは、平坦な道で歩きやすくなっており、紅葉の時期はハルニレの大木の中に紅葉の美しいカエデ類が見られ是非歩きたいコースの一つである。

昔は西ノ湖から千手ガ浜にかけても湖の一部だったが、柳沢川などから多量の土砂が入り千手ガ原ができたおされる。 
西ノ湖は完全に埋まらずに残ったもので、このような湖を遺留湖と呼んでいる。


中禅寺湖など、奥日光の湖沼に魚が住むようになったのは、明治6(1873)年にイワナが放流されてからといわれ、現在では中禅寺湖漁協が毎年マス類を放流しており、9月には柳沢川や外山沢川などにマスが遡上-そじょう-するのを見られるという。

一帯にはクマ、ニホンジカが生息しているので、川原やヌカルミ、砂浜で足跡やフンが見られることがある。 
閑散な時期は、念のため熊よけの鈴などを持参するのもよい。

コース沿いにある大木はミズナラで、中禅寺湖畔に多く見られる。 
西ノ湖畔は水位の変動が大きいので、水に強いヤチダモ林が見られる。

出発地点や徒歩方向は事前に調べると良い。
赤沼車庫から、西ノ湖入り口や千手ヶ浜へは低公害バス(一律300円、時間は時期、季節によって変動するので事前確認)が走っているので適度に利用する。 又、千手ヶ浜は遊覧船も利用できる。




所要時間:1時間20分(順路、逆路とも)
距離:3.2キロ
コースタイム (順路、逆路とも)
柳沢川(西ノ湖入口)⇒10分⇒西ノ湖⇒10分⇒柳沢川⇒20分⇒千手ガ浜⇒20分⇒千手堂跡⇒20分⇒千手ガ浜(⇒1時間45分⇒竜頭ノ滝)


次回、戦場ヶ原 「自然探勝・戦場ヶ原コース






日光讃歌(19)いろは坂  「中禅寺道」

2012年12月19日 13時58分40秒 | 日光の歴史
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日光讃歌(19)いろは坂  「中禅寺道」 .





第二いろは坂の中ノ茶屋跡



日光・「いろは坂」は、長い歳月をかけての渋滞緩和、無料開放の歴史があった。
元より、いろは坂の名は、明智平ロープウエイが開通してから命名されたもので、古くは「中禅寺道」とよばれ、中ノ茶屋から下を「地蔵坂」、上を「不動坂」とよんでいた。
急な坂道を上下するため、かつては坂の途中に五軒の茶屋があり、下から深沢茶屋、剣ガ峰茶屋、中ノ茶屋、座頭茶屋、見晴茶屋などがあったらしい。 これらは昭和20年代の地図にも記されていたが、中ノ茶屋跡以外は道路改修により跡形もなくなってしまったという。

奥日光は、日光開山の祖である勝道上人のあとを追った山岳修験者が開拓したものが起源で、二荒山神社(男体山が御神体)がその聖域であったため、神々に通じる道として明治5年まで女性、牛馬の立ち入りは禁止されていた。

明治20年代、内外の要人が奥日光を避暑地として利用するようになったため、現在の「第一いろは坂」の原型が整備され、大正14年には、日光自動車(金谷ホテルが設立)が中禅寺まで車を乗り入れるための工事費を出資し、幅員を3.5メートルまで広げた。
その後、自動車交通の増加に対応するため、いろは坂起点・終点に信号を設け、一時間ずつ上り・下り専用道路として利用していたと言われる。

1984年(昭和59年): 無料開放
1986年(昭和61年):日本の道100選に選出される。
1987年(昭和62年):日本ロマンチック街道の一部となる。



次回、明智平





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日光讃歌(17)いろは坂  「馬返し」

2012年12月17日 10時30分17秒 | 日光の歴史
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 日光讃歌(17)いろは坂  「馬返し」  .  





いろは坂馬返し地点、



神橋付近を走る日光電気軌道



さて、宇都宮・日光道路・清滝インタから国道120号線をいろは坂方面に直進すると、右に古川電工の巨大な工場で大正・昭和に初期には日本有数の精銅工場であり、今では先端科学製品を製造している日本有数の企業である。

道路は左折すると足尾・桐生方面である122号線の分岐で、直進前方、いよいよ山裾に入り込んで行くと、有名な「いろは坂」である。

上りと下りが各一方通行に分かれていて、その基部に当たるところが「馬返し」である。



いろは坂の入り口となる「馬返」という地名は、これ以上は山道が険しく狭いため(当時は無論、未舗装の悪路、砂利道である)、馬はここで返すということからきた地名である。その名前のとおり急な坂道が続くが、しかし、今では自動車では登りも下りもおよそ15分程度の時間で通過できるのである。

当時は、中禅寺湖、奥日光方面への移動は大変だったのである。




この「馬返し」まで、日光市内を軌道電車が走っていたことは、あまる知られていない。


当時の日光町が、現在の古河電工と合弁で明治41年に日光電気軌道を設立した。
日光東照宮、輪王寺、二荒山神社等の観光地への旅客輸送や古河精銅所からの貨物輸送を目的に建設された。

日光の山道を行く珍しい路面電車で、沿線の標高は停車場前(のちの国鉄駅前)が533m、馬返が838mで、日本国内の路面電車では一番高かった。

軌道はいたるところが急勾配であり、終点馬返からは傍系の日光登山鉄道によるケーブルカー(後の東武日光鋼索鉄道線)が明智平まで延び、翌年から明智平では同社のロープウェイ(後の明智平ロープウェイ)に接続、奥日光方面や華厳滝、中禅寺湖への観光輸送も行っていた。

しかしその後は、いろは坂の整備も進み、又、車社会の発展に伴って、昭和43年で全線が営業が廃止され、58年にも及ぶ歴史に閉じた。



次回、  「いろは坂・国道120号





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日光讃歌(14)憾満ヶ淵  「慈雲寺」

2012年12月12日 11時17分51秒 | 日光の歴史
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日光讃歌(14)憾満ヶ淵  「慈雲寺」 .
 




慈雲寺本堂



慈雲寺は、承応3(1654)年に晃海上人が創建したもので、当時の建物は明治35(1902)年の洪水で流失したらしい。
現在の本堂は昭和48(1973)年に復元されたものという。
晃海上人は、天海僧正の弟子であり、初代の上野寛永寺の執当でもあった。 

天海大僧正(慈眼大師)が東照宮を日光に祀った時、付近(現在の日光山内)一体は、一山(僧侶)の墓地だったらしく、それで、天海は弟子の晃海に「墓地を何れかに移転するよう」依頼して死んだという。
その命に従って晃海が選んだ地が大谷川の対岸、現在の含満ヶ淵だったのである。
晃海はこの地に慈雲寺を建立し、阿弥陀如来と慈眼大師(天海)をその本堂に祀った。

明治35年(1902)9月の台風による洪水で、この辺りの人工施設は全て押し流されたといい、慈雲寺も例外ではなくその時に流失した。
現在の本堂は昭和48(1973)年に復元されたもので、その一年前には、この霊域の入口にふさわしい山門も再建された。
7月14日には、輪王寺一山の僧侶により、孟蘭盆会の法要が営まれる。




慈雲寺墓地群



お地蔵さんの左から崖上に通じる細い道があり、登りきると老杉に囲まれた静寂な地に墓地が広がっている。
江戸期からの輪王寺支院住職の墓で、墓石の形も僧侶独特のものである。



化け地蔵



この地は、別名で、「憾満ヶ淵」とも呼ばれるが、その右岸にある百地蔵は、俗に「化地蔵」とよばれ、約70体の阿弥陀如来の石像が並んでおり、どれも同じ姿なので往きと帰りに、これを数えると途中で間違えるところからきている。
この地蔵群には、「化地蔵」、「並地蔵」、「百地蔵」などの呼び名もあり、化地蔵の名前の由来は、みんな似たような姿なので何回数えても数が合わないからという説がある。  

大谷川を挟んで、地蔵群の対岸には日光植物園があり、春の新緑に始まり秋の紅葉、そして地蔵たちが雪をかぶるまで、美しい風光を楽しむことができる。
日光の自然探勝の中でも隠れた場所ともされ、この石仏群をお参りしながら、右側にある大谷川の素晴らしい清流を鑑賞探索するというのも、まことに結構なことなのである。



次回、  「霧降高原





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日光讃歌(5) 「日光の歴史・2」

2012年11月30日 13時59分49秒 | 日光の歴史
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日光讃歌(5) 「日光の歴史・2」 .





その日光が、記録的に歴史上に登場するのは、前記したように1200年も前の8世紀・奈良期のことである。

勝道上人が、遠くに聳える「補陀落山」(男体山)に観音浄土を描いた当初から、次第に山岳信仰の拠点として整備されてきたのである。



日光は、山岳信仰の上に神仏習合の信仰が加わって、「補陀落山」(仏の観音浄土)から「二荒山」(神が宿る山)へ、更には、「日光山」(仏が護る山)の双方の名称を併用しながらその基盤を固めていったといえる。

特に中世に入ると、男体-女峰-太郎の三山に、それぞれ神(男体権現-女体権現-太郎権現)と仏(千手観音-阿弥陀如来-馬頭観音)が宿るという「日光山・日光三所権現」の信仰が新たに広まったのである。
このことは以降、東照宮を含めて江戸期まで営々と存続することになる。



しかし、明治期の文明開化の時期になると、開山以来「日光山」唯一であったものが、太政官布告の神仏分離令よって、旧来を一新し、統治が分割されたため二荒山神社、輪王寺、東照宮の二社一寺となって、その影響が今に到っているのである。

つまり、二社一寺の具体的名称である二荒山神社、輪王寺、東照宮は、極く近年になってからのことであり、これらは、現在の姿とほぼ一致し、後の世界遺産へと繫がることになるのである。



次回、 「日光(旧日光市)の自然





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