織内将男の日 光 讃 歌 

世界遺産の二社一寺などの歴史、文化を育んだ、日光の自然や地域を訪ねます。

東北紀行(24)仙台 「仙台城(青葉城)」

2011年02月11日 11時15分36秒 | 福島、仙台
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 東北紀行(24)仙台 「仙台城(青葉城)」  ,




青葉城址の伊達政宗公が仙台市内を見下ろす



仙台城は、約270年に亘り伊達氏代々の居城であった
主城・「仙台城」は伊達政宗によって江戸開府直前の1601年に築城が始まり、併せて城下町・仙台の建設をはじめ、居城も完成と同時に岩出山から仙台城へ移している。 

政宗は、「大坂の役」(大阪夏の陣)での重臣・片倉重長が後藤基次(後藤又兵衛)らを討ち取り、又、真田幸村の攻勢を受けて立つなど大きな功があったとして開府後、家康より60万石を安堵されている。

正宗は幕藩体制時代になって世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、「貞山堀」と呼ばれる運河を整備し、北上川水系の流域を整理、開拓し、現代まで続く穀倉地帯を造り上げている。 
この結果、仙台藩は石高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保したという。 一説には江戸中期には300万石を超えていたとも言われる。
文化的にも上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、大崎八幡神社(社殿は国宝)や松島の瑞巌寺などの建造物を残している。


仙台城」は、現在の仙台市の青葉山にある山城で、慶長年間に伊達政宗が築造してから、廃藩置県・廃城令までの約270年に亘り、伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁でもあった。 
幾度となく、地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、幕末、奥羽越列藩同盟など戊辰戦争を経るも、一度も戦火にまみえることなく要塞としての機能を終えた。
その後城郭は、明治初期から大正にかけて本丸破却、大火により二の丸焼失、又、昭和期の戦災によってその大半が失われたという。

「仙台城」の本丸は、海抜115~140mの丘陵台地に立地し、東西約240m、南北260mの広さがあって、東側が広瀬川に臨む断崖であり、西側を青葉山と呼ばれる深い原生林に囲まれ、南側を竜の口峡谷が囲むという天険の要害となっていた。

青葉山に位置する事から「青葉城」という雅称を持ち、一般的に青葉城と呼ばれる事が多い。 
青葉山は、仙台七崎(藩政期から呼ばれている仙台市内にある七つの崎が付く地名)の一つ「青葉ヶ崎」に由来する。
正宗は、仙台城は山城で、江戸期における平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後、平城へ移ることを奨めていたともいう。


「仙台城」、「仙台」の名前の由来は・・?
仙台城は、かって国分氏の居城があったところで、其の名を「千代城」と名付けていた。
陸奥国の国分氏は、南北朝時代から戦国時代の末まで、陸奥国分寺付近から宮城郡南部に勢力を張った武士の一族であり、戦国時代末に伊達氏に臣従したが、伊達政宗の不興を買って滅んでいる。
1601年、伊達政宗 が今井宗薫(秀吉の御伽衆として仕え、秀吉没後は徳川家康と接近し、家康の子・松平忠輝と伊達政宗の娘五郎八姫:いろは姫の婚約成立に尽力している。)にあてた書状の中に、『去る十四日此地仙台へ相移り申候』と記されていることから、 伊達政宗が「千代」から「仙台」に命名されたといわれる。

次回、岩手 「北上川


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東北紀行(23)仙台 「始祖・伊達政宗」

2011年02月10日 10時54分30秒 | 福島、仙台
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 東北紀行(23)仙台 「始祖・伊達政宗」  ,


福島から宮城にかけては褶曲した山間地を走る。
村田からは山形道が通じているが、その庄内山形や「蔵王」の事については帰路立寄ることになっているので、記述はその時にいたします。

さて、仙台はさすがに東北一の街で、高層ビルもチラホラ見えている。
杜の都・仙台市は慶長5年(1600年)伊達政宗が開いたというのは衆知のことで、仙台といえば伊達藩、伊達藩と言えば「伊達政宗」であろう。

東北の覇者、「伊達者」(だてもの)といわれた正宗は、御存じ「戦国の雄」として名を成し、「秀吉・家康を翻弄した男」ともいわれる。 
伊達者(だてもの)」とは、朝鮮出兵時に政宗が揃えた戦装束が余りに派手で華美なものであり、上洛の道中において巷間(ちまた)の噂となったことから呼ばれるようになったといわれる。 これ以来、派手な装いを好み、着こなす人を指してと伊達者と呼ぶようになったと伝えられる。

だが、正宗の本音は派手好みの秀吉の気に入るよう、危ない橋を渡らないようにと十分な気配り、計算をしたものでもあった。 
この「伊達者」から、人目につくように形を表す意味;侠気を示す意;派手に振舞うの意になり「伊達な若い衆」、「伊達や粋狂じゃない」などと言われ、又、見えを張ること;外見を飾ることで「伊達めがね」などと言われるようになった。



伊達政宗は1567年に「米沢城」で生まれている。 
1567年といえば室町末期に当り、世は戦国期の動乱に入ろうとしていた時期である。
因みに、同時期の織田信長(34歳)は美濃・斉藤家の稲葉山城を陥し、「天下布武」を発して京に上った時期であり、秀吉(31歳)は信長傘下で墨俣城を築城し、美濃攻めで稲葉山城を攻略、美濃の竹中半兵衛を軍師に迎える。 
又、家康(26歳)は、今川義元亡き後、武田信玄と協定して今川氏の領国を割譲し、遠江(とうとうみ)を得ている。

豊臣政権下の政宗25歳の時、米沢の約150万石から73万石に減封となり、岩出山城に入る。 米沢城はその後、米沢藩の主城となり上杉家の名相・上杉景勝、上杉鷹山(ようざん・治憲、日向国高鍋藩出身)などの居城として有名である。 


伊達政宗は豊臣政権時代から隙あらば天下を収奪しようと何度も策略していたとされ、中央から常に警戒されてもいたという。 
彼は『あと20年早く生まれていれば、天下が取れたのに』と悔しがっていたともいわれる。
徳川期の正宗は、後の三代将軍・徳川家光からは尊敬されていたらしい。 
家光に「伊達の親父殿」と呼ばれていたこともあり、将軍就任の際に、正宗は率先して頭を下げ諸侯を抑えたともいわれる。 
病床に着いた際も将軍・家光自らが見舞ったり、医者の手配をするなど配慮を見せている。 
将軍の前での脇差帯刀も許されていたが、側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると中身は木刀であったともいわれる。
伊達者・伊達政宗は、1636年(寛永13年)5月江戸で永眠した、享年70歳であった。 

独眼流正宗は、「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という考えから、死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられているという。

辞世の句は・・、

  『 曇りなき 心の月を 先だてて 
               浮世の闇を 照してぞ行く
 』



次回、仙台・「青葉城



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東北紀行(22)福島 「佐藤氏と継信・忠信兄弟」

2011年02月09日 09時45分58秒 | 福島、仙台
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 東北紀行(22)福島 「佐藤氏と継信・忠信兄弟」  ,



翌朝、時間が制約される中、朝食後急いで支度にかかり出発する。
岳温泉から東北道の二本松ICまで、概ね、20分で到着した。

時間的制約というのは、高速道路でETCを利用する場合の割引制度があり、その中の1つに「通勤割引制度」がある。 その制度とは、入口料金所または出口料金所を午前6時~午前9時までの間、または午後5時~午後8時までの間に通過すれば100Kmまでしゃ50%の割引として料金計算されるのである。 
尚、余計かもしれないがETCカードを別々に2種類持ち合わせる場合は、倍の200kmまで利用できるのである。

これから東北道・二本松ICから花巻まで向かう予定だが、因みに、二本松⇔花巻は通常では(245.3km、2時間半、料金5500円)、ETCを利用すると二本松⇔仙台宮城(96km 、2,650円、通割1,350円)、仙台宮城⇔平泉前沢(99.4km2,750円、通割1400)平泉前沢⇔花巻南(49.5km 1450円、平割1000円)で、3350円で走れることになる。
二本松ICへは、当初思っていた通り、7時45分にゲート・インすることができた。



佐藤氏と継信・忠信兄弟  、

先ず、福島市街地に到る。
中世の頃、福島、及び福島県の中央部である信夫、伊達、白河地方を支配していたのは奥州平泉の覇者・藤原氏で、其の三代目・秀衡の下で管理を任されていたのが豪族・佐藤基治(佐藤庄司ともいう)という人物であった。
基治は、その秀衡の私有地の、荘園管理の職名を庄司(荘司;荘園の領主の命を受けてその荘園を管理していた職名、郡司で荘司を兼ねるものを大荘司という)と称したので「佐藤庄司」とも呼ばれ、湯野・飯坂を本拠としたため「湯庄司」とも呼ばれていた。


源氏の御曹司・「源義経」は平清盛に捕えられ仏門修行で鞍馬山に入っていたが、その後、密かに平泉の藤原秀衡のもとに下り保護されていた。
同様に平治の乱の後、伊豆の地に蟄居幽閉(実は全く自由であった)されていた源頼朝であるが、源平物語の段でいよいよ平家衰退が見え始めた頃頼朝が挙兵する。
併せるように義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつける。
この時、福島(出身は奥州信夫郡:現在の福島市飯坂町)からは基治の子、継信(つぐのぶ)と忠信が加わった。

継信と忠信は義経四天王といわれる勇猛な兄弟で、父の願い通り平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなる。 
兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導き、後の歴史に大きな足跡を残した。
一方、弟の忠信は頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、自らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させている。 その後、六條堀川の判官館にいるところを攻められ壮絶な自刃を遂げた。

無事奥州に下った義経一行は平泉に向かう途中、福島の基治に会って継信、忠信の武勲を伝えるとともに、追悼の法要を営んだと言われる。
福島市飯坂町にある寺院・医王寺は、信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺で、境内には、平安時代末期の武士で奥州藤原氏の姻族・佐藤基治とその子佐藤継信と佐藤忠信の墓が残されている。

後年、松尾芭蕉が奥の細道の旅の際に訪れ、

「 笈も太刀も 五月に飾れり 紙のぼり 」
(弁慶の笈:おい、も義経の太刀も、5月の端午の節句に紙幟と一緒に飾って祝ってもらいたい)

という句を詠んでいる。

松尾芭蕉が医王寺宝物として所蔵していた弁慶の笈や義経の太刀を見て詠んだ句で、句中に登場する「」は武蔵坊弁慶が寄進した物という言い伝えがある。
尚、奥州藤原氏については後ほど詳しく、

次回、仙台の始祖・「伊達政宗



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