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東北紀行(132)只見 「六十里超え(2)」 ,
この辺りまで上ってくると、周りの景色を含めて遥か眼下に田子倉湖の眺めが壮大で、なかなかの絶景である。
気が付くと「六十里越峠開道記念碑」と記された石碑がドーンと座っている。
石碑には・・、
『 会越の窓開く六十里越峠開道記念碑 昭和48年9月内閣総理大臣 田中角栄 』 とあった。
今の若い人は「田中 角榮」(たなか かくえい)と言ってもピンと来ない世代が多くなっていると思うが、第64代の内閣総理大臣であった。
昭和の大政治家であったが、当時の高等小学校しか卒業していないため、秀吉に因んで彼自身「今太閤」と自称している。
仕事振りは「コンピュータ付きブルドーザー」と形容されるほど、知識量・実行力や巧みな官僚操縦術を見せつけるなど、党人政治家と官僚政治家の長所を併せ持った稀有な存在であった。
特に、土木建設業界には顔が利き、日本列島改造論で一世を風靡した。
新潟県柏崎市の出身で、常に大雪に悩まされる越後を妬んだ末、関東に対して・・、
その彼が・・、
『 皆さあーん。 新潟は半年も雪の孤島だ。 この雪をなくすため上越国境、三国峠の山を削って平らにする。 削った石や土を新潟の海に埋めて佐渡と陸続きにするんだ。 三国峠が平らになると、水気を含んだ冬の雲は新潟に降らないで関東平野まで行く。 海の手前で東京の野郎どもの上に雪が落ちる 』
と語っていた。
この発想は後に、「日本列島改造論」を着実に実を結ばせることになる。
この「六十里越え」をトンネルも無く、道路も細々と通じていた時代、侍の大軍団が通過しているのである。
2009年のNHK大河ドラマで『天地人』(てんちじん)が放送されていた時期、この辺りにのガードレールに 『 天地人 上杉景勝六十里越で会津入り 』と張られた垂れ幕があったらしい。
先にも記したが、戦国期、秀吉の差配を受けたとき上杉家(上杉景勝)は、陸奥の国・会津120万石に封じられる。
この時、上杉家と家臣団、領民込みで越後の春日山を去り、会津へ集団移民するすることになり、向かった峠越えがここの「六十里越え」だったそうである。
実際、会津側では八十里越えと六十里越えは隣接している峠道である。
先に、「 八十里 こし抜け武士の 越す峠 」と吟じたのは、幕末の長岡藩家老・河井継之助
であったが、長岡からはやはり、「八十里越え」が近かったのであろう。
一方、時代はまったく異なるが、上杉景勝軍団は越後上越からの道程なので、こちらの「六十里越え」が便が良かったのであろう。
「八十里越え」も「六十里越え」も、実際にいつ頃開削されたかは定かでないが、何れも相当古い年代から開かれていたことは間違いなさそうである。
小生も、六十里越えを間もなく通過する。
とはいっても今はブーンと一走りでトンネルを抜けるのであるが、そして出たところは既に越後・新潟であった。
次回、「東北紀行」の終わりに寄せて・・!、
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東北紀行(132)只見 「六十里超え(2)」 ,
この辺りまで上ってくると、周りの景色を含めて遥か眼下に田子倉湖の眺めが壮大で、なかなかの絶景である。
気が付くと「六十里越峠開道記念碑」と記された石碑がドーンと座っている。
石碑には・・、
『 会越の窓開く六十里越峠開道記念碑 昭和48年9月内閣総理大臣 田中角栄 』 とあった。
今の若い人は「田中 角榮」(たなか かくえい)と言ってもピンと来ない世代が多くなっていると思うが、第64代の内閣総理大臣であった。
昭和の大政治家であったが、当時の高等小学校しか卒業していないため、秀吉に因んで彼自身「今太閤」と自称している。
仕事振りは「コンピュータ付きブルドーザー」と形容されるほど、知識量・実行力や巧みな官僚操縦術を見せつけるなど、党人政治家と官僚政治家の長所を併せ持った稀有な存在であった。
特に、土木建設業界には顔が利き、日本列島改造論で一世を風靡した。
新潟県柏崎市の出身で、常に大雪に悩まされる越後を妬んだ末、関東に対して・・、
その彼が・・、
『 皆さあーん。 新潟は半年も雪の孤島だ。 この雪をなくすため上越国境、三国峠の山を削って平らにする。 削った石や土を新潟の海に埋めて佐渡と陸続きにするんだ。 三国峠が平らになると、水気を含んだ冬の雲は新潟に降らないで関東平野まで行く。 海の手前で東京の野郎どもの上に雪が落ちる 』
と語っていた。
この発想は後に、「日本列島改造論」を着実に実を結ばせることになる。
この「六十里越え」をトンネルも無く、道路も細々と通じていた時代、侍の大軍団が通過しているのである。
2009年のNHK大河ドラマで『天地人』(てんちじん)が放送されていた時期、この辺りにのガードレールに 『 天地人 上杉景勝六十里越で会津入り 』と張られた垂れ幕があったらしい。
先にも記したが、戦国期、秀吉の差配を受けたとき上杉家(上杉景勝)は、陸奥の国・会津120万石に封じられる。
この時、上杉家と家臣団、領民込みで越後の春日山を去り、会津へ集団移民するすることになり、向かった峠越えがここの「六十里越え」だったそうである。
実際、会津側では八十里越えと六十里越えは隣接している峠道である。
先に、「 八十里 こし抜け武士の 越す峠 」と吟じたのは、幕末の長岡藩家老・河井継之助
であったが、長岡からはやはり、「八十里越え」が近かったのであろう。
一方、時代はまったく異なるが、上杉景勝軍団は越後上越からの道程なので、こちらの「六十里越え」が便が良かったのであろう。
「八十里越え」も「六十里越え」も、実際にいつ頃開削されたかは定かでないが、何れも相当古い年代から開かれていたことは間違いなさそうである。
小生も、六十里越えを間もなく通過する。
とはいっても今はブーンと一走りでトンネルを抜けるのであるが、そして出たところは既に越後・新潟であった。
次回、「東北紀行」の終わりに寄せて・・!、
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