東北には古代についての歴史書がなく中世についても敗者のそれまでの歴史が歴史書として残されていない。安倍(安東)氏や阿曽沼氏、奥州藤原氏などは代表的な例だ。ところが戦後まもなく青森県五所川原市に住む和田喜八郎氏の自宅天上裏から東日流外三郡誌なる史書が発見された。その後この史書をめぐり偽書説が展開され新聞はじめテレビの主要番組でも偽書として報道が相次いだ。その最先端に立ったのが歴史研究家と称する安本美典なる人物だった。しかし彼を始めとする偽書論者の反論はことごとく非論理的であまりにも稚拙で結局裁判でも偽書の認定はされることがなかった。にもかかわらず現在までこの史書は公には取り上げられることがなく学会なども完全に無視している。しかし東日流外三郡誌には東北のみならず日本の古代の貴重な史実が記されている。東日流外三郡誌は秋田孝季(あきたたかすえ)が三春藩の藩主、秋田千季(倩(よし)季)の命により1789年から1822年までの間にわたって調査行脚の上書かれた史書だ。蝦夷の安倍・安東氏の一族としての三春藩主秋田家の歴史を後代に残すためであった。命を受けた秋田孝季はロシア語の通辞であった父橘左近将督の次男として長崎に生まれ隆将と名付けられたが、秋田へ移って父の死後に母が三春藩主秋田千季の後添えとなる。それとともに秋田次郎橘孝季と改名した。秋田孝季(あきたたかすえ)は秋田千季の三男で九代藩主秋田孝季(のりすえ)と同じ漢字名であるが読みが異なる。若き日長崎で語学、史学、西洋学を修め、博識を人に知られるところとなった。また秋田孝季(あきたたかすえ)は老中田沼意次の命で海外巡察も行っている。東日流外三郡誌の記述に基づき当時の青森県市浦村の依頼で発掘調査した東北学院、東北大学チームは中世の東北最大規模の宗教施設があった山王坊・日吉神社遺跡を発見している。奥州藤原氏の平泉以上の豪壮な寺社を安倍氏が建立し、南部氏により焼失させられた。この遺跡には中世安倍氏の末裔かつ松浦水軍の末裔である元首相の安倍晋三も訪れている。明治維新で政府は旧藩主に爵位を与えるにあたり系図の提出を求めた。秋田家は日本書紀の神武東征の敵であった長髄彦・安日王兄弟の兄、安日王の子孫であることから宮内省は天皇の逆賊であるのは困るとして系図の書き換えを迫った。しかし最後の藩主秋田映季は「恐れながら、当家は神武天皇の御東征以前の旧家ということをもって家門の誇りといたしております。天孫降臨以前の系図を正しく伝えておりますのははばかりながら出雲国造家と当家のみでこざいます」として断ったという。東日流外三郡誌も代々世に知られないよう秘諾されて来ていた。和田喜八郎氏は東日流外三郡誌の編纂を手助けした秋田孝季(あきたたかすえ)の妹りくの夫、和田吉次の子孫にあたる。東日流外三郡誌原本は残念ながら江戸期に焼失し、控えが和田家に伝承された。 アメリカ芙蓉に休むツユムシ