釜石の日々

自然の循環

珍しく今朝は気温がプラスの8度になっていた。今日と明日は最低気温が2度で、残った雪が融けてくれるかも知れない。先日は職場の裏山にアオジが来ているのを見かけたが、今日はヤマガラとシジュウカラの一団を見かけた。わずかの時間だがいつものゴイサギも見かけた。東北の山は落葉樹に覆われ、秋には美しい光景を見ることが出来るだけでなく、落ち葉は肥沃な土壌を与えるため、山野草も多く、木の実が豊かなために小動物もたくさんいる。野鳥も種類が多く、ほんとうに自然の豊かさには驚かされる。しかし、現代の自然から離れた日常生活によって、これほど豊かな自然にも地元の多くの人たちが関心をもっていない。確かに他地方に比べて山菜の時期にはたくさんの老人たちが山へ入っているが、それも全体からすれば、数は決して多いとは言えないだろう。先日もスーパーで目にしたタラの芽の天ぷらを買ってみたが、料理に使う油のせいかタラの芽の天ぷらのあの美味さは感じられなかった。せっかくのタラの芽もその本来の美味さを生かすにはそれなりの工夫がいるのだろう。目の前にある豊かな自然もそこにただあるとしか認識されていなければ、その豊かさに意味がないのかも知れない。津保毛族の手によると思われる青森県の山内丸山遺跡では明らかに人の手によって整えられた栗の栽培が行われた跡が見つかっている。縄文や稲作が行われた弥生の時代ですら、東北では山海の幸が人々の生活を豊かにしていたのだ。狼が棲息し、山の動物たちの必要以上の繁殖が制限されることで、山の幸が守られて来た。人々も自然の掟の中でバランスを保った生活を営んでいたのだ。運送手段も限られていたことから、山や海で捕獲出来る数にも限界があることで、結果的に生態系がバランスよく保たれ続けることが出来た。近代化により、人は科学技術を手にして以来、次第にその生態系を無視し始め、自然の循環には乗せることが出来ない物質を次々に創り出し、不用になると還元出来ないものを自然界に放置するようになった。今地球温暖化が声高に叫ばれるが、それもかなりうさんくさい。今、人が考えねばならないのはこの地球の自然をどう守れるかということだ。単に気温だけではないだろう。制御不可能な核の停止は無論だが、さらに慣れ親しんでいる日常生活そのものの中に生態系のバランスを崩すものが入り込んでいることに目を向ける必要がある。現代的な意味での豊かな生活はもはや今後は望んでも得られないものになって行くだろう。日本の国力は確実に落ちて行く。かっての大英帝国が力を失ったように、米国も日本もその最盛期は過ぎてしまった。人口が減少して行く国家にはもはや国力の伸長は望めない。しかし、だからと言って国がなくなるわけでもない。国力は衰退して行っても国は残り、人はそこで生きて行かねばならない。そして、それはこの日本の今ある国土で生活することであり、その時の国土の状態こそが現代に生きる我々の守って行かなければならない、その姿勢にかかっているのだ。これからの科学技術の発展も常に自然との調和が必須の条件とならなければならい。次世代を担う子供たちは大人の背中を見て育って行く。今ある若者や子供たちの有り様は大人たちの反映でもある。今回の大地震と津波はあらためて我々に自然へ真摯に向かい合う必要を教えてくれた。この太古から続いて来たであろう東北の豊かな自然がいつまでも残されて行って欲しいと願うばかりである。
アオジ スズメと同じくらいの大きさのホオジロ科の鳥
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