快作『愛の渦』における高級マンションの一室で繰り広げられる乱交パーティの解放感と、宴の翌朝の幻滅の余韻がどうにも忘れられず、その後も三浦大輔(ポツドール主宰)の作・演出を、欠かさずとは言えないが見る時間のあるときには見てきた。映画作品の『ボーイズ・オン・ザ・ラン』(2010)、それからプロデュース公演の『裏切りの街』、そして今回の『おしまいのとき』(ザ・スズナリ)と見続けて遅まきながら確信に至ったのは、三浦という作家がセックスに対する、とくに不貞や乱交に対する飽くなき探求をどうしても続けなければならない粘着質な動機を有しているということだ。私をふくめ、観客の100%がその探求の野次馬になりたいと思って、切符を手配するのだ。
篠原友希子が、自分と家族に降りかかった不幸を逆手にとってエゴイズムの権化に変貌するヒロインの主婦を一心不乱に熱演している。また、きれい事ばかりを巧みに並べてみせる同じマンションの住人を演じた松浦祐也は、やはり最高である。この人はものすごい名優になるのではないか。すぐれた映画作家にどんどん使われていってほしいと思う。
と同時に、ますます確信を強めるのは、物語の語りに対する平穏無事な信頼につつまれていることである。不貞や乱交を通して三浦は、現代人のいい加減さ、不実さ、残忍さ、滑稽さを容赦なくえぐり出す。性悪説に準じた戯曲である。また、その性悪ゆえに人間は愛おしいものでもある、とも静かに言い足しているようでもある。
ところがこの容赦のなさは、三浦自身の語りのありようそのものに対してはじゅうぶんに向けられない。劇が終わって幕が下りても拍手ひとつ出ずにぼう然とした面持ちで退出してゆく超満員の観客の背中を舞台袖の影からそっと眺めながら、作家はひとり悪魔的な笑いをこらえているのだろうか? あるいは重労働を終えた後のように抜け殻となっているのだろうか? それもいいかもしれない。しかし、女優や男優にあれほどの痴態を演じさせ、観客をふしだらな野次馬に仕立てた上に、作者が作者自身に向けられるものが何なのかを考える時期がきているのではないか。「終わってる」「自信があるんだね」「まだ諦められないの」といった他人を封じる捨てゼリフが三浦の戯曲に頻出する。これらの次にくる言葉を、もっと広い場所から、語りへの信頼とは無縁の場所から見つけられるといい、などと野次馬のひとりは勝手に考えさせてもらった。
篠原友希子が、自分と家族に降りかかった不幸を逆手にとってエゴイズムの権化に変貌するヒロインの主婦を一心不乱に熱演している。また、きれい事ばかりを巧みに並べてみせる同じマンションの住人を演じた松浦祐也は、やはり最高である。この人はものすごい名優になるのではないか。すぐれた映画作家にどんどん使われていってほしいと思う。
と同時に、ますます確信を強めるのは、物語の語りに対する平穏無事な信頼につつまれていることである。不貞や乱交を通して三浦は、現代人のいい加減さ、不実さ、残忍さ、滑稽さを容赦なくえぐり出す。性悪説に準じた戯曲である。また、その性悪ゆえに人間は愛おしいものでもある、とも静かに言い足しているようでもある。
ところがこの容赦のなさは、三浦自身の語りのありようそのものに対してはじゅうぶんに向けられない。劇が終わって幕が下りても拍手ひとつ出ずにぼう然とした面持ちで退出してゆく超満員の観客の背中を舞台袖の影からそっと眺めながら、作家はひとり悪魔的な笑いをこらえているのだろうか? あるいは重労働を終えた後のように抜け殻となっているのだろうか? それもいいかもしれない。しかし、女優や男優にあれほどの痴態を演じさせ、観客をふしだらな野次馬に仕立てた上に、作者が作者自身に向けられるものが何なのかを考える時期がきているのではないか。「終わってる」「自信があるんだね」「まだ諦められないの」といった他人を封じる捨てゼリフが三浦の戯曲に頻出する。これらの次にくる言葉を、もっと広い場所から、語りへの信頼とは無縁の場所から見つけられるといい、などと野次馬のひとりは勝手に考えさせてもらった。
ボクも「顔よ」「愛の渦」「裏切りの街」「おしまいのとき」観に行ったのですが、毎回ラストがどうも納得いきません。
どうも取って付けたような感じで、物語として終わっていないというか、終わらせているだけというか・・・。
でも、ちょっとずつですが変化してきているような気もするので、次回もまた観に行くのですが。
調べたら私も『ザ・シェイプ・オブ・シングス』は見逃していました。見る予定の日を手帳に書き込んではいたのですが、まったく覚えていない。結局なにかの都合で見なかったのだと思います。われながらこのいい加減さは、どうも相済みません…。
どうも納得できないのに、なぜかまた見に行ってしまうというのは同じです。ポツドールに関しては、なんだかかんだ言っても次回作も見に行きます。こういうのを「ファン」と呼ぶのでしょうか。
なんとなく「ファン」と呼ばれるのもくやしい感じがして・・・妙な感じです。
役者さんには毎回驚かされています。
とくに私が期待しているのが篠原友希子。ポツドールの『おしまいのとき』における彼女の一心不乱な変貌には大いに心揺さぶられました。