荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ジョギング渡り鳥』 鈴木卓爾

2016-02-10 23:24:22 | 映画
 変幻自在に作風を広げていく鈴木卓爾という映画作家は、現代日本映画にとって驚くべきダークホースなのかもしれない。前作『楽隊のうさぎ』(2013)を見た際には、こんなとりとめもない群像劇もできる作り手なのかと本当に吃驚させられたが、昨年公開された安川有果監督『Dressing UP』では、事なかれ主義の自閉するヒロインの父親役を演じてもいる。鈴木卓爾演じる父親がいたからこそ、少女の奇怪なるメタモルフォーズが劇的なものになったのだ。
 『楽隊のうさぎ』における多視点性、そして『Dressing UP』におけるメタモルフォーズへの不可逆性が、自身の新作『ジョギング渡り鳥』の157分という長い上映時間のなかで何食わぬ顔で融合し、肥大化するにまかせる事態となっている。和製ジャック・リヴェットなどと陳腐な形容を、画面を眺めながらつい考えてしまったのは面目ないが、『ゴダール・ソシアリスム』のごとく多方向に画面と音響が乱反射し、不断に見る者を刺激しつづけるだろう。
 「モコモコ星人」なる未知の言語をあやつる異星人の集団を仮構し、彼らにカメラとマイクを持たせて、地球人の孤独にして滑稽なる生態を記録させる。「モコモコ星人」が持つ数台のハンディ・デジ、そして映画全体を客観的に撮影する本隊(鈴木卓爾組)のカメラ。映画の主体はこれらの複数の記録媒体が混在し、いったいこれが誰によって作られたのか分からなくなっていく。時に、本隊のカメラマンやカメラマンの横で現場を睨みつける鈴木卓爾監督本人さえ写りこむ場合さえある。映画全体が主観の統一性を喪失し、分裂症的にふるまい、私たち観客をあらぬ方向へと連れ去っていく。
 そして、これは逆説的ではなく、映画そのものの限界として、映ったものは映っているというトートロジーに達するが、それでも、ロケ地である埼玉県深谷市の、ありふれた住宅街、鄙びた土手、雑木林、特産であるネギ畑、JRの駅舎などの風景、そして遙か遠景に見える秩父山地の黒い影の連なりが、どうしようもない美しさをまとってしまうのだ。地球人の孤独にして滑稽なる生態、そしてそれを記録する「モコモコ星人」のグループもその中にどうしようもなく折り込まれている。そんなシニシズムと唯美主義の中間地点で、157分間、映画は安定することなく揺れつづけていた。その揺れは、危機にある現代日本を間接的/象徴的に写し出す。スクールあるいはセミナーの履修の延長線上でワーク・イン・プログレスとして作られた点では濱口竜介監督『ハッピーアワー』と共通するが、その制作理念は180°異なる。まさに現代を象徴する、必見の作品が誕生した。


3/19(土)より新宿K’s cinemaにて公開予定
http://joggingwataridori.jimdo.com


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