ロック・ミュージカルかと勘違いしてしまうが、役者は誰ひとりとして、革ジャン着用でのど自慢などしない。トム・ストッパードによる社会派風の家庭劇である。ストッパードといえば、昨秋、総上演時間10時間におよぶ超大作『コースト・オブ・ユートピア』(演出 蜷川幸雄)を、見に行くことができなかったのは残念だった。現在、東京・三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで、最新作(といっても2006年ロンドン初演だが)の『ロックンロール』が、日本初演されている。演出は栗山民也。
1968年の「プラハの春」から、1989年の「ビロード革命」以後にいたる、プラハとケンブリッジを往還する20余年の物語。ケンブリッジ大学でマルクス主義を教える英国人教授(市村正親)と、ロックを愛するチェコ人留学生(武田真治)のあいだの愛憎が、クロノロジカルに紡がれてゆく。紡がれた糸は併行し、数年に1回は交わる。フィリップ・カウフマンの映画『存在の耐えられない軽さ』(1988)のことも、当然、見る者の頭をよぎる。
「ビロード革命」の頃、日本を含む世界中のニュース番組でさかんに喧伝されたのは、「LennonがLeninに勝った」というフレーズだった。共産主義国の圧政が、ロックのもつ民衆愛によってついに瓦解した、というプロパガンダである。ストッパードのこの作品も、どうもこのプロパガンダの内部に留まっているようにも見えるが、もう少し検討が必要かもしれない。しかし、栗山民也の演出解釈は、あきらかにそうであるように思えたし、じつはあの時代は私自身、そういうことでいいのだと思っていた。
ピンク・フロイドの初代リーダー、シド・バレットの隠居生活に対する特別なリスペクトは、本作のもっとも美しい部分であろう。教授の孫娘(前田亜季)が、病状の進んだシドをサポートしているという設定。ただし、シドは登場しない。ちなみにシド・バレットは、本作が2006年の6月にロンドン・チェルシーのロイヤル・コート・シアターで初演されてからちょうど1ヶ月後に、生まれ故郷であり、本作の舞台でもあるケンブリッジ市内でこの世を去っている。
1968年の「プラハの春」から、1989年の「ビロード革命」以後にいたる、プラハとケンブリッジを往還する20余年の物語。ケンブリッジ大学でマルクス主義を教える英国人教授(市村正親)と、ロックを愛するチェコ人留学生(武田真治)のあいだの愛憎が、クロノロジカルに紡がれてゆく。紡がれた糸は併行し、数年に1回は交わる。フィリップ・カウフマンの映画『存在の耐えられない軽さ』(1988)のことも、当然、見る者の頭をよぎる。
「ビロード革命」の頃、日本を含む世界中のニュース番組でさかんに喧伝されたのは、「LennonがLeninに勝った」というフレーズだった。共産主義国の圧政が、ロックのもつ民衆愛によってついに瓦解した、というプロパガンダである。ストッパードのこの作品も、どうもこのプロパガンダの内部に留まっているようにも見えるが、もう少し検討が必要かもしれない。しかし、栗山民也の演出解釈は、あきらかにそうであるように思えたし、じつはあの時代は私自身、そういうことでいいのだと思っていた。
ピンク・フロイドの初代リーダー、シド・バレットの隠居生活に対する特別なリスペクトは、本作のもっとも美しい部分であろう。教授の孫娘(前田亜季)が、病状の進んだシドをサポートしているという設定。ただし、シドは登場しない。ちなみにシド・バレットは、本作が2006年の6月にロンドン・チェルシーのロイヤル・コート・シアターで初演されてからちょうど1ヶ月後に、生まれ故郷であり、本作の舞台でもあるケンブリッジ市内でこの世を去っている。
ゾルゲの若い愛人を演じていた葉月里緒奈が、年老いて加藤治子となり、テレビの前で涙を流しながらベルリンの壁崩壊の映像を眺め、「ゾルゲさんは大きな人だった」とかつぶやく。すると、椅子に腰かけてテレビの前にいる加藤治子のバックショットとなり、『イマジン』のインストバージョンがかかり、同曲の歌詞の日本語訳が左から右へとスクロールしてゆく、という、なんともおぞましい展開を最後に見せていました。この篠田という人は、いったいなんなのでしょうね。