荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ラスト、コーション 色|戒』 アン・リー

2008-02-22 10:42:00 | 映画
 徹底したリアリズムの中に幻視を見出す『長江哀歌』の賈樟柯(ジャ・ジャンクー)が、現代中国のアベル・ガンスであるとすれば、李安(アン・リー)は、華人社会にとってのマルセル・カルネだろう。

 親日傀儡政権のお偉方イー氏を肉欲で虜にしたあげく、その隙を狙って暗殺してしまおうという、実行性があるのかないのか判断しかねる壮大なプランを考案するのが、ただ単に香港大学の演劇サークルの素人臭い男女グループに過ぎない点が、まずブラック・ユーモアとなっている。
 抗日を題材とする最初の芝居が、観客の愛国意識をほどよく刺激して成功裏に終わった数ヶ月後の朝、舞台に姿を現したヒロインは、劇団のメンバーが自分を残しみんな天井桟敷に上がってしまっているのを発見する。この辺りから、映画は《擬態》の様相を呈する。

 このヒロインを貴婦人〈マイ夫人〉に変装させて、敵の屋敷に潜入させるというプランはあっけなく成功し、〈マイ夫人〉は首尾よくイー氏と恋仲となるが、暗殺計画はどうということもない理由で、再三延期され、なかなか実行に移されない。その間に〈マイ夫人〉とイー氏の恋愛は、単なる化かし合いの段階から、破滅的な不倫メロドラマの様相を呈するに至る。
 こうして、映画ファンであるヒロインがかねてから涙を絞りながらスクリーンに視線を投じたメロドラマは、生身の肉体である自分自身を担保に入れた象徴的な《擬態》となって、反復されるわけである。

 抗日ゲリラ・グループの打ち合わせの席上でも、彼女は最初のうちこそ、意地らしい《女優》として振る舞っていたものの、徐々にこの計画の主導権は彼女が握るところとなり、彼女はむしろ《演出家》として振る舞うようになる。抗日ゲリラ・グループの幹部でさえ、自分たちの練る暗殺計画をよそに、《擬態》によるメロドラマの行方を固唾を飲んで見守るばかりで、身動きが取れないかのようである。

 こうした《擬態》が現実を浸食し、1つの愛が街角の中心となり、歴史の中心であるかのごとく傍若無人に一人歩きする状況は、マルセル・カルネ監督の名作『天井桟敷の人々』(1945)のものだ。この映画におけるマイ夫人とはアルレッティであり、この映画で大々的に建設された1940年代上海の日本租界およびフランス租界のセット(このセットの素晴らしさ、規模の大きさには、素直に感動せざるを得ない)は、1840年代のパリ犯罪大通りそのものだ。
 私が本文冒頭で、『ラスト、コーション』の映画作家に、「詩的レアリスム」の巨匠の名を当てはめたのは、以上のような理由からである。


日比谷シャンテシネなど、全国で公開中
http://www.wisepolicy.com/lust_caution/


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