私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 



現在のバッハ研究の出発点とも言える大著、フィリップ・シュピッタの「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」では、BWV 1020とBWV 1031に若干の疑念を暗示しながらも、すべて真作と見なして記述されている。ここで掲げたすべての作品は、バッハ協会版(BGA)で出版されている。その後、ト短調のソナタ(BWV 1020)に関しての疑問が提示され、様式的に類似しているという観点から、変ホ長調のソナタ(BWV 1031)にも疑問が出されるようになった。一方、ヴァイオリン・ソナタト長調(BWV 1021)の発見と新バッハ協会による出版に際して、フリートリヒ・ブルーメがこのソナタとトリオ・ソナタト長調(BWV 1038)が共通の通奏低音に基づいていることを見つけ、トリオ・ソナタト長調に関しては、その上声部をバッハの息子の一人か弟子の作ではないかという推定をした*。この様な背景があって、1949年から1951年にかけて刊行された「歴史と現代における音楽(Musik in Geschichte und Gegenwart = MGG)と題する音楽百科事典の第1巻の「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」の項目を著したブルーメは「3曲のフルートのためのソナタ、ロ短調(BWV 1030)、変ホ長調(BWV 1031)、イ長調(BWV 1032)、1720年頃、その内ロ短調とイ長調は自筆譜;変ホ長調のソナタは明らかにバッハ作ではなく、次のソナタと同一作者。フルートのためのソナタト短調(BWV 1020)はバッハ作ではなく、前の作品と同一作者。3曲のフルートと通奏低音のためのソナタ、ハ長調(BWV 1033)、ホ短調(BWV 1034)、ホ長調(BWV 1035)、1720年頃、筆写譜;ハ長調ソナタはバッハ作ではない。」と記述している。このような判断の根拠としてブルーメは、「バッハの様式の多くの特徴、例えば鍵盤楽器組曲や教会ソナタにおける一貫した協奏曲形式の採用、協奏曲における一貫した対位法の採用、独唱や楽器独奏部の長い装飾音型、活気に満ちた動機や旋律の造形、韻律的に統一された経過や持続音型風の低音の扱いを好む傾向、多声法の緻密さ、好んで楽器の音域の限界まで使い尽くす旋律法、韻律的構造の精密さなどが認められる。これらの様式手段のどれも認められない疑わしい作品(例えばフルートとチェンバロのためのソナタ変ホ長調やト短調・・・)は、たとえバッハの手稿が存在していたとしても、真作ではないとして除外されるべきである。」と述べている。更にBWV 1038に関しては、「バッハが他の作曲家の主題や作品の一部を取り上げた場合(レグレンツィやコレッリのフーガ、ラインケンのソナタ、様々な作曲家の協奏曲、そして同じ通奏低音を有するトリオソナタト長調、ヴァイオリンソナタト長調とヘ長調もおそらくこれに含まれるであろう)、(真作か否かの)境界は曖昧になってしまう。」と述べている。このブルーメの記述は、1950年前後におけるこれらの作品に対する、バッハ研究者の意見を代表するものと言って良いであろう。シュミーダーのバッハ作品目録では、BWV 1020については「真作かどうか疑わしい(Echtheit angezweifelt)」と記されているが、BVW 1030からBWV 1035は、オブリガート・チェンバロをともなう3曲と、通奏低音をともなう3曲それぞれがまとめて扱われており、そのような記述はない。BWV 1038に関しては、「バッハに由来する低音基盤上に築かれた上声部が真作かどうか疑わしい。」と記している。1963年に刊行された新バッハ全集シリーズVI第3巻、フルートのための作品から4曲が除外されたのは、このようなブルーメやシュミーダーに代表されるバッハ研究者の意見に基づいた新バッハ全集編集役員の判断によるものであろう。楽譜巻の序文の最後に「それに対して、真作かどうかについての強い疑念のため、3声のソナタト短調(BWV 1020)、変ホ長調(BWV 1031)、ト長調(BWV 1038)および2声のソナタハ長調(BWV 1033)はこの巻に収められなかった。これらの内どれが当シリーズの第4巻に取り上げられるかは未定である。」と記されている。
 その後1966年に出版されたハンス・エプスタインの「J. S. バッハの1つの旋律楽器とオブリガート・チェンバロのためのソナタの研究」と題する学位論文と、1972年号のバッハ年刊に掲載された「J. S. バッハの通奏低音をともなうフルートソナタについて」で、様式分析によって、新バッハ全集から除外された作品が、バッハの作品でないという見解を示し、以後これらの作品を、バッハの作品ではないとする意見の強力な論拠としてしばしば引用されている。
 しかしながら、BWV 1031とBWV 1033の原典が示すバッハの身近な人物による写譜とその作者名標記の重要性が決して失われたわけではない。アメリカの学者ロバート・マーシャルは1978年に「バッハのフルートソナタの真性と成立年代について:伝記的、様式的考察」**という論文で、BWV 1033については、エプスタインの考え、フィリップ・エマーヌエル・バッハが自身の作品に対して、父親が手を加えた結果優れた作品となり、そのため主題の着想や楽章構成作業が自身のものであったにも関わらず、自ら曲の作者とすることには抵抗があって、父親の作としたという推定に対して、「若いフィリップ・エマーヌエル・バッハが、本来自作の曲を、父親のものとすること、特に彼が父親と同居していた間にそのようなことをしたとは信じられないように思われる。」とエプスタインの考えを批判している。そして、フルート、ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタト長調(BWV 1038)は、父親が通奏低音を与え、フィリップ・エマーヌエル・バッハに、それに上声部を書く様に指示をしたと推定している。BWV 1031については、その原典の状態はこのソナタが真作であることを示していると主張し、BWV 1020については、このBWV 1031を手本にして、フィリップ・エマーヌエル・バッハが書いたものと推定している。
 ハンス・エプスタインは、マーシャルの見解に反論して***、BWV 1033については、「この作品を、いかなる形であろうと、バッハの作品とする可能性は問題にならない」と主張し、一方BWV 1031について、マーシャルが原典の状態から見て真作であることは否定出来ないと主張している点に関し、「バッハの息子(フィリップ・エマーヌエル・バッハ)もペンツェルもこの点で誤りがないわけではない」と述べている。
 ところが、近年バッハの作品ではないという意見が支配的であった、ヴァイオリンとオブリガート・チェンバロのための組曲イ長調(BWV 1025)が、リュート奏者ジルヴィウス・レオポルト・ヴァイス(1686 ? 1750)の組曲をもとに、バッハがヴァイオリンパートを付け加えたものであることを、バッハ年刊の1993年版にクリストフ・ヴォルフが寄稿して明らかにした。したがって、この作品は、ヴァイオリン・パートに関してはバッハの作であり、合作とはいえ、バッハの作品と言えなくはない。フィリップ・エマーヌエルは、当時すでに親元を離れており、この詳しい事情を知らないで、バッハの作と標記したものと考えられ、ハンス・エプスタインがこのBWV 1025を理由にして、BWV 1033やBWV 1031のフィリップ・エマヌエル・バッハによる表記が必ずしも信頼出来ないという主張している根拠が揺らいだといえるだろう。(この項続く)

注)この項を執筆するに当たっては、新バッハ全集の校訂報告書や、バッハ年刊の種々の寄稿をはじめ、バッハ研究の論文集、学会の報告書に掲載された論文を参考にしたが、一部を除いてその出典は省略した。それは、読む際の煩雑さを避けるためで、決して参考にした研究結果を無断で引用しようとするものではない。もしこの項目の内容をさらに詳しく知りたい方は、筆者のウェブサイト「湘南のバッハ研究室」の「バッハ関連エッセイ集」の「ヨハン・ゼバスティアン・バッハのフルートのための室内楽作品―その真性(Echtheit)と成立事情(Entstehungsgeschichte)を探る―」を参照して下さい。す。

* Friedrich Blume, “Eine unbekannte Violinsonate von J. S. Bach”, Bach-Jahrbuch 1928, p. 96 - 118
** Robert L. Marshall, “Zur Echtheit und Chronologie der Bachschen Flötensonaten: Biographische und stilistische Erwägungen”, in “Bachforschung und Bachinterpretation heute”. Wissennschaftler und Praktiker in Dialog, Bericht über das Bachfest-Symposium 1978 der Philipps-Universität Marburg, Bärenreiter, 1981, p. 48 - 71
*** Hans Eppstein, “Zur Problematik von Johann Sebastian Bachs Flötensonaten”, Bach-Jahrbuch 1981, p. 77 - 90

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