さあ~てと 帯しめましょか。

人生、山あり谷あり
向かうはわが身の置き場所よ。
帯締め、気を染め、往きましょか・・・  ~part 2~   

仏教の話 ☆ 11≪江戸宗教政策≫  

2009年12月14日 16時24分30秒 | 神・仏教・民俗の話

 【江戸幕府の宗教政策】

寺請制度・檀家制度の確立へ

本山末寺の制

・僧二人を顧問に据えた。
      (仏教格宗派を取り込むため)

 ① 天台宗の天海(1536~1643)

 ② 臨済宗の金地院(以心)崇伝〈すうでん〉(1569~1633)

・内部事情に詳しい二人の意見で、各宗派に「法度(はっと)」という

定め書きを与えて、本山を頂点にして、中本山、直末寺、末寺と

いったピラミッド型の組織を作らせた。

・本山の責任者である大僧正の任命権は、幕府が握った。

  つまり、本山に幕府のイキのかかった人物を据える事で、

  末端まで幕府の意思を伝えるラインを確立した。

・本山には、末寺までの住職の任命と財産管理の権利を認めた。

           ↓ (双方が納得する形でスタート)

・切支丹信者を探し出して転宗をすすめ、転宗しない信者は追放

  するなど、厳しい処分で成果をあげる。

           ↓

・1637(寛永十四)年、島原の乱が起こる。

  九州島原半島でキリスト教徒3万人による大反乱に大衝撃!

  原因は島原藩の圧政にあったが、

  最後は幕府軍に全員殺され終結した。

           ↓ (切支丹信仰の根強さを警戒のため)

 

 寺請制度 (今日の基本がスタート)   

 ・日本人一人一人を強制的に仏教徒として管理する

   「寺請」制度が考え出された。

 ・最初は、禁教とされた切支丹から仏教徒に転向した

   人間についてのみ適用された。

           ↓ 

 ・やがて、全ての日本人(神主も含む)にどれか寺の檀家

  となるよう義務付けられて行った。

  『宗門人別帖』(=檀家の戸主と家族について、生まれから

  死亡までを書き込んだもの)を各藩に対して定期的に提出

  させるようになった。(戸籍上の役割を果たすもの)

 

 旅行に使う関所手形の発行・結婚・離婚・移住・奉公人の出入

 りなどに『寺請証文』が必ず必要となり、お寺の権力が増した。

 

 

 〔強制と浸透〕

民衆に仏教への信仰強制はなかなか簡単ではなかったようで、

そのために利用された文書があります。

 

慶長十八(1613)年五月、

「神君様御掟目(しんくんさまごじょうもく)十六箇条 宗門檀那請合掟」
(神君様=徳川家康)

 

現代に繋がる戒名制度はこのときスタートしました。この文書

は、いかにも幕府の方針であるかのように庶民を説得するのに

利用したようですが、後に幕府の関与しない、元禄時代(1688

~1704)以降の偽文書であることが指摘されているようです。

仏教(寺院)への帰依を強制するような内容をもつもので、

切支丹や禁教とされた日蓮宗の不住布施派の徒としての疑

いをかけられたくないなら、檀那寺との関係を密にしろと言う

ようなことが書かれているそうです。(竹田聴洲『先祖崇拝』参照)

 

 〔檀家へのすすめ〕

・寺の行事に参加すること

・寺の用事や修理、建立をつとめること

・葬式の際には一切の寺の指図により、死者に剃刀を与え、

 住職から戒名をつけてもらい、引導をわたしてもらうこと

・中陰・年忌・命日、あるいは先祖の仏事法要を怠らないこと
                                 等々…

 

 

江戸時代においての戒名は仏教の信仰に対する証ではなく、

危険宗教を持っていないと言う社会への身分証明だったのです。

寺請制度の確立によって、仏教が民衆の生活に浸透し、

仏教式葬儀が一般化していくことになりました。

 

そして、強制による戒名やお布施への負担などの問題も

出て、批判する声も出てきました。

現代も似たようなこと、あると思います。。。

 

 

 

              →次回 戒名へと続きます。

 

     『お坊さんが困る仏教の話』:村井幸三著参照  
  『戒名 なぜ死後に名前を変えるのか』:島田裕巳著参照  

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