【江戸幕府の宗教政策】
寺請制度・檀家制度の確立へ
≪本山末寺の制≫
・僧二人を顧問に据えた。
(仏教格宗派を取り込むため)
① 天台宗の天海(1536~1643)
② 臨済宗の金地院(以心)崇伝〈すうでん〉(1569~1633)
・内部事情に詳しい二人の意見で、各宗派に「法度(はっと)」という
定め書きを与えて、本山を頂点にして、中本山、直末寺、末寺と
いったピラミッド型の組織を作らせた。
・本山の責任者である大僧正の任命権は、幕府が握った。
つまり、本山に幕府のイキのかかった人物を据える事で、
末端まで幕府の意思を伝えるラインを確立した。
・本山には、末寺までの住職の任命と財産管理の権利を認めた。
↓ (双方が納得する形でスタート)
・切支丹信者を探し出して転宗をすすめ、転宗しない信者は追放
するなど、厳しい処分で成果をあげる。
↓
・1637(寛永十四)年、島原の乱が起こる。
九州島原半島でキリスト教徒3万人による大反乱に大衝撃!
原因は島原藩の圧政にあったが、
最後は幕府軍に全員殺され終結した。
↓ (切支丹信仰の根強さを警戒のため)
≪寺請制度≫ (今日の基本がスタート)
・日本人一人一人を強制的に仏教徒として管理する
「寺請」制度が考え出された。
・最初は、禁教とされた切支丹から仏教徒に転向した
人間についてのみ適用された。
↓
・やがて、全ての日本人(神主も含む)にどれか寺の檀家
となるよう義務付けられて行った。
『宗門人別帖』(=檀家の戸主と家族について、生まれから
死亡までを書き込んだもの)を各藩に対して定期的に提出
させるようになった。(戸籍上の役割を果たすもの)
旅行に使う関所手形の発行・結婚・離婚・移住・奉公人の出入
りなどに『寺請証文』が必ず必要となり、お寺の権力が増した。
〔強制と浸透〕
民衆に仏教への信仰強制はなかなか簡単ではなかったようで、
そのために利用された文書があります。
慶長十八(1613)年五月、
「神君様御掟目(しんくんさまごじょうもく)十六箇条 宗門檀那請合掟」
(神君様=徳川家康)
現代に繋がる戒名制度はこのときスタートしました。この文書
は、いかにも幕府の方針であるかのように庶民を説得するのに
利用したようですが、後に幕府の関与しない、元禄時代(1688
~1704)以降の偽文書であることが指摘されているようです。
仏教(寺院)への帰依を強制するような内容をもつもので、
切支丹や禁教とされた日蓮宗の不住布施派の徒としての疑
いをかけられたくないなら、檀那寺との関係を密にしろと言う
ようなことが書かれているそうです。(竹田聴洲『先祖崇拝』参照)
〔檀家へのすすめ〕
・寺の行事に参加すること
・寺の用事や修理、建立をつとめること
・葬式の際には一切の寺の指図により、死者に剃刀を与え、
住職から戒名をつけてもらい、引導をわたしてもらうこと
・中陰・年忌・命日、あるいは先祖の仏事法要を怠らないこと
等々…
江戸時代においての戒名は仏教の信仰に対する証ではなく、
危険宗教を持っていないと言う社会への身分証明だったのです。
寺請制度の確立によって、仏教が民衆の生活に浸透し、
仏教式葬儀が一般化していくことになりました。
そして、強制による戒名やお布施への負担などの問題も
出て、批判する声も出てきました。
現代も似たようなこと、あると思います。。。
→次回 戒名へと続きます。
『お坊さんが困る仏教の話』:村井幸三著参照
『戒名 なぜ死後に名前を変えるのか』:島田裕巳著参照