オーソレ、何それ?

私、o_sole_mioが好きな歴史、旬の話題、
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適当に書きつづります。

スローライフと宇喜多秀家

2004-06-17 00:03:45 | 戦国時代
最近スローライフという言葉がもてはやされている。

厳しい競争社会から、抜け出して少々貧しくてものんびりゆったりと暮らすということだろう。

この言葉を聞くと宇喜多秀家を思い出す。彼は望んでそういった生活としたわけではないが、彼も違った意味で苛烈な戦国時代の勝者だったのかもしれない。

宇喜多秀家は、備前美作57万石の大名で豊臣政権の五大老に任じられた人物で、関が原の合戦で敗れ、流人として八丈島でその一生を終えた人物である。

宇喜多秀家の父直家は、祖父が陰謀にまきこまれ没落した宇喜多家を備前美作57万石の太守にのし上げた人物であるが、武勇というよりは数々の陰謀を駆使して成り上がったため、非常に評判の悪い人物である。直家は秀家が幼い頃に亡くなるのであるが、死に際に秀家と宇喜多家を豊臣秀吉に託した。秀吉は貴公子然とした秀家を非常に可愛がり、秀吉の庇護の下秀家はとんとん拍子に出世していき、ついには二十代で権中納言の官位を受け、五大老に任じられる。秀家は秀吉が最も信頼している武将だったのかもしれない。

しかし、秀吉の死で若くして人位を極めた秀家の人生は急転する。まずはお家騒動が勃発する。宇喜多家中で古参の法華信徒と新参のキリシタンの家臣との間で諍いがあり、ついには大阪城下であわや乱闘沙汰となった。この結果古参の重臣が宇喜多家を離れ、宇喜多家の戦闘力は低下した。そしてついに関が原を迎える。現実に多くの大名がそうしたように、父直家なら旗幟を明確にせず、勝つほうについただろうが、お坊ちゃんでかつ秀吉に忠誠を誓っていた秀家は迷うことなく西軍についた。石田三成も「備前中納言(秀家のこと)の御覚悟は御見事」と書き残している。

関が原の合戦は、ご存知の通り小早川秀秋の東軍への参加(裏切り)により決着がついたが、秀家は戦場を生き延び島津へかくまわれる。しかしついに幕府の手の元に落ち、罪一等を減じられ八丈島へ島流しにあう。

前置きが長くなったが、ここからが本論である。

こうして秀家は、強制的に大大名から流人と言う名のスローライフを始めることになる。島の生活は、質素であり、貴公子として生活してきた秀家にとって不便であったに違いない。食事も粗末であった。それでも口うるさい重臣もおらず、自分の地位を危うくするライバルもおらず、精神的な自由さは感じていたかもしれない。

秀家は30代で八丈島へ流され、この流刑の地で84歳の天寿を全うする。そのとき徳川幕府は第4代を数えていた。秀家は関が原に参加したどの大名よりも長く生き延びた。3代将軍家光が亡くなり4代家綱が将軍になったとき、秀家に恩赦の沙汰が下るが、秀家は本土に戻らなかった。そのときは年をとりすぎていたのだろう。果たして宇喜多(浮田)家は幕末まで八丈島で繁栄する。

秀家は、人生の半分以上と流人として過ごすのであるが、彼は本当に敗者だったのだろうか、失意の中でその長すぎる晩年を過ごしたのだろうか。そうではなく、彼自身は厳しい競争社会から開放されスローライフを楽しんだかもしれない。彼の長寿がそれを示しているような気がしてならない。人を勝者と敗者に峻別しようとする世の中を見るにつけ宇喜多秀家が晩年「スローライフ」を楽しんでいる姿を想像し、そういった色分けは何の価値もないのではと思っている。

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2 コメント

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さかのぼり、コメントします。^^ (eilene)
2007-04-21 04:30:38
スローライフの言葉に引き寄せられました(笑)30代~84才まで生きていた、驚きですね!本土に戻れたのにも関わらず島を離れなかった、秀家。彼もやはり自分で野菜を作ったりしていたのでしょうかね?私も彼が楽しんで生活していたのではないかな?と想像を膨らましました(^^)『お!今日は、きゅうりが食べ頃だ』とかでしょうかね?

『うるさい重臣もおらず、自分の地位を危うくするライバルもおらず、精神的な自由さは感じていたかもしれない。』
↑ 秀家の島流し、最初は大変だったと思いますが、晩年になり、o_sole_mioさんの解釈分かるような気がしました。

現代はスローライフと言っても、あまりにも忙しくしているために、いざペースを落とすとなると、これもまた難しいんだと聞きます。。。ペースを落として、一体何をすればいいんだ!と。。

秀家は、きっとスローライフの『コツ』をつかんだのでしょうね!

記事、ありがとうございました!
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貴公子のしぶとさ (o_sole_mio)
2007-04-22 17:59:24
eileneさん、コメントありがとうございます。

ブログを書き始めた頃の文章久しぶりに自分でも見ました。

秀家は島津に匿われているときに出家し「休復」と名乗っています。「休復」とは「復讐をしない」という意味だそうです。仰る通りどこかでふっきれたところがあるのかもしれません。

しかし、武門のプライドにこだわらず生き延びることに固執し、84才の天寿を全うした秀家のしぶとさは見習うべきと思っています。
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