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ドイツの強制労働補償財団:「記憶・責任・未来」訪ねて 歴史的・道義的責任、前面に(毎日新聞)

2007年06月13日 06時58分27秒 | 時事スクラップブック(論評は短め)
「記憶・責任・未来」財団のあるビル。被害者の高齢化が進む中、解決が急がれた=ベルリンで

 ナチス時代の強制労働被害者に対するドイツ政府と企業の補償金支払いが、来月で終了する。日本の戦後処理との相違点と類似点は何か。ドイツの公的文化機関「ゲーテ・インスティトゥート」(ドイツ文化センター)の招きで訪れた補償財団の歩みを、いわゆる従軍慰安婦の問題に取り組んだアジア女性基金との比較を交えて検討する。また、ブラント元西独首相の「東方政策」の立役者として知られるエゴン・バール氏へのインタビューをあわせて紹介したい。【岸俊光】
 ◇集団訴訟と政変を機に
 強制労働者への補償を目的に創設された「記憶・責任・未来」財団は、ベルリンのビルの一角にあった。「50人余の職員は補償金支払いの終了で半数になる」と自分も古巣の外務省に戻るという広報担当者のヘニヒ氏は説明した。
 財団設立法が発効したのは00年8月。被害者が98年からフォルクスワーゲンやジーメンスなどのドイツの大企業を相手どり、米国の裁判所に次々に集団訴訟を起こした影響は大きかった。財団設立を言明していた社会民主党のシュレーダーが政権交代で首相に就いたことも契機になった。
 ソ連や東欧などからの強制労働者は、一時は労働者の約4分の1を占めたほど、ドイツ経済には不可欠の存在だった。戦後、東西ドイツの成立で平和条約が結べないまま、53年のロンドン債務協定により講和後の国家賠償の問題とされた。90年に東西ドイツと米英仏ソの間で平和条約に代わる「2+4条約」が結ばれたが、賠償の取り決めはなく放置されてきた経緯がある。
 慰安婦問題は被害者の告発などにより90年代初めに議論に火が付いたこと、社会党の村山富市内閣成立を機に95年にアジア女性基金が作られた点など、重なる部分は多い。
 「記憶・責任・未来」財団設立法の前文は、その特徴をよく表している。議会や企業が認めたのは歴史的、道義的な責任であり、法的な責任は含まれない。そこには、サンフランシスコ平和条約や二国間条約で問題は解決済みとされた法の壁を道義心によって乗り越えようとした女性基金と似た論理がうかがえる。
 驚かされたのは、補償財団設立時にドイツ側が米国にこれ以上の集団訴訟が起きないよう「法的安定性」を求め、クリントン大統領、シュレーダー首相のトップ協議を経てそれがほぼ確保されたことだった。米市場を失いたくないドイツ企業の思惑や米独関係重視の観点から、政治決着が図られたといえる。
 ◇百カ国余166万人に届く
 ドイツ政府と企業の拠出分はそれぞれ50億マルク。被害者1人当たりの補償金額は5000~1万5000マルク(約27万~80万円)で、補償財団によると今月までに百カ国以上の166万5000人に、43億6980万ユーロ(約7210億円)が支払われた。戦後60年を経た決着にはユダヤ社会から「遅すぎた」という不満の声も聞かれる。
 今後は補償財団の中に設けられた「記憶と未来」基金が、記憶をとどめ、被害国との理解を深めることに力を注ぐという。財団の7年は成功か、それとも失敗だったのか。
 それは難問だと言いながらヘニヒ氏は振り返った。「政府や産業界だけでなく、被害者にとっても大きな成功だったと思う。160万人以上の人々に補償を届けられたのは驚くべきことだ。お金は大切だが、それはすべてではない。本当に重要なのは不正が行われた事実を認めたことだ」
 ◇再発防止にも力注ぐ--佐藤健生・拓殖大教授(ドイツ現代史)の話
 補償財団の特徴は被害者への補償と再発防止を組み合わせた点にある。補償額が少なく、当事者にとって無念でも、今は昔のドイツではないという主張が説得力を持つ。日本の関心は補償中心で、再発防止の視点が欠けている。被害者も加害者もいない当事者なき「過去」の克服を求められる時代は、もうすぐ来る。その時に次の世代が互いに記憶にとどめていれば問題は少ないというのが、「記憶と未来」基金の考え方だ。謝罪を求めるのはアジアの特徴だが、課題はむしろ若者同士の対話が成立しにくいところにあると思う。
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 ◇「記者は左右両極と戦え」--東方政策の立役者・バール氏に聞く
 ブラント首相の側近だった元特命相のバール氏は、日本の報道陣の質問に次のように答えた。
 --現在のメルケル大連立政権をどう見ていますか。
 ◆大連立には反対する。民主主義の安定には、一つの大政党と小さなパートナーとの連立が望ましいからだ。大連立のもとで右翼政党が勢力を拡大しているが、これはルペンのフランスのようにドイツもヨーロッパの普通の国になったということだ。
 --西独のブラント首相が1970年12月にワルシャワのゲットーの碑の前でひざまずいた時、首相はどんな思いを込めたのでしょうか。
 ◆私もあの日、ブラントの後ろを歩いていた。記者やカメラマンがブラントを囲んでいた。突然静かになり、ブラントがひざまずいたことを知った。その夜、一緒にウイスキーを飲んだが、なぜああしたのか、尋ねる勇気はなかった。ブラントが語ったのは花輪をささげるだけでは十分でないというものだった。謙虚さからそうしたのだろう。
 --ジャーナリスト出身者としてメディアの役割をどう考えていますか。
 ◆記者は左右の両極端と戦うことが大切だ。ワイマール時代に左右の圧力で中道の市民の党が壊されたことを忘れてはいけない。
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 ◇ドイツ強制労働補償年表◇
53年 2月 西独が債権国とロンドン債務協定を締結
89年11月 ベルリンの壁崩壊
   12月 ドイツ連邦議会(下院)で公聴会
90年 9月 東西ドイツと米英仏ソ4カ国が「2+4条約」を結ぶ
98年 3月 米国の弁護士がフォード社に対し集団訴訟を起こす
   10月 シュレーダー政権成立
99年 2月 「ドイツ経済界の財団イニシアチブ-記憶・責任・未来」設立の方向でシュレーダー首相と12社社長が合意
    7月 ドイツ元経済相ラムスドルフが米国との協議開始
   12月 犠牲者側弁護士とラムスドルフが原則的合意に到達。補償総額は100億マルクに。ラウ大統領が許しを請う演説
00年 6月 今後の集団訴訟でドイツ企業の法的安定性確保で合意
    7月 連邦議会と連邦参議院(上院)で財団設立法案可決
01年 6月 補償支給開始
06年 9月 補償申請の受け付け終了
07年 6月 補償支払い終了(予定)
 (佐藤健生「ドイツ強制労働補償財団の現況と今後の課題」を元に作成)
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 ■人物略歴
 ◇Egon Bahr
 1922年生まれ。第二次世界大戦に従軍後、新聞記者として働く。72~90年、連邦議会議員。72~74年、ベルリン問題西独全権兼特命相として、東欧との関係正常化を目的としたブラント首相の東方政策などの助言者となった。
毎日新聞 2007年5月31日 東京朝刊


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