諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

大山積神と大綿津見神の祓い。そして、その罪の意味。

2017年08月06日 12時16分29秒 | 神道

山神・大山積神。海神・大綿津見神。亦の名を大山罪神と大綿罪神。どちらも罪の字がある。何故なのか。

悪神だからか。最近頻発している土砂崩れ、山津波。そして震災で経験した津波。多くの人が犠牲になる。人の命を取る。それが山の罪、海の罪なのか。

神は善でもあり悪でもある。その悪の部分が強いからそれぞれに罪の字がつくのか。色々考えておりました。

そう言えば私、辛い事があると海を見に行っていた。何か気が晴れる。これって心の穢れを海が祓ってくれるからではないのか。

私は太っているのであんまり登山はしないが、山に登るのも達成感を感じるから。否、山が心の穢れを祓ってくれるからなのでは。

昔の人も海を見たり、山に登ったりする事により心の穢れを祓っていた。山や海が祓い清めの場所である事を知っていたのではないだろうか。

この世は穢れに塗れている。俗とは穢れる事。生きると言う事は穢れ汚れる事。人生は穢れを避ける事は出来ない。穢れを避けるには自分の身をこの世から消す以外方法は無い。

生きていれば体が汚れる。服も汚れる。そして心も汚れる。洗う必要がある。

身体や服は水で洗えば綺麗になるが、心は物理的に井戸の水では十分には洗えない。十分に祓う事は出来ない。

だから人は山や海に向かう。心の疲れ、つまり穢れを祓う為に。穢れる度に向かう必要があった。

穢れを祓う。それは神が人の心の穢れを引き受ける事。人の心の穢れをその身に積む事。だからこそ大山積神・大綿津見神との名前なのではないか。

穢れを積む。積みと罪。穢れは罪。人の罪をその身に引き受ける故に大山罪神・大綿罪神とも表記されるのではないか。

神職は海に身を浸して身を清める。山では滝行で身を清める。海も山も共に霊場。その場を身近にしたのが神社。神社に参拝することで山や海での祓い清めを成す。人の穢れを身近で祓って頂ける場所。それが神社なのだと思う。

そう考えると山神も海神も悪神と言う訳ではない。善も悪も超越している存在なのではないか。

否、祓い清めは時に人の命も祓い清める。海や山で命を落とす事は、悲劇ではないのかも知れない。多くの人に命の大切さを教え、慢心と言う心の穢れを祓うが為の最大級の祓い清めなのではないか。

それが人々に恐怖を与え、畏怖の念から罪の字がその名に付いたのではないか。

以上、山神・海神の名の「罪」の字に付いて考えて見ました。それが正しいかどうかは私には判りません。断言出来ません。

勿論、人それぞれ回答は違う筈。人それぞれ、現時点の考えこそが正解なのかも。その時々、そして過去と未来で正解は変化する。正解と思っていたことが失敗であった事が度々ある。100パーセント正解はありえない。それが人生なのかも知れない。

私の考えは現時点の私に対しての正解。それが何れ変更になる時が来る。そう言うものなのかも知れない。そう言うものだろうと思う。

 

ではでは。

 

 

 

 

 

コメント (3)
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