李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【 夏目 漱 石  の  酔 興 】   

2014-05-14 19:02:52 | Weblog

       ーー    淵明、王維 の 世界 には 

              酒 が ある ーー

 

『抜粋』

 陶淵明は無類の酒好きだった。彼は自身の文学に酒を素材

   として取り上げ、多くの作品を作り上げた。

 又、王維にしても、彼に有名な『酒を酌んで裴迪に與う』

   という詩がある。その第一句が 『酒を酌んで君に與う 

  君自ら寛うせよ人情の翻覆 波瀾に似たり』 ( 酌酒與君

  君自寛人情翻覆似波瀾 ) に始まっている。王維も淵明と

  同じように、酒が人生の一部になっている。これは、こ

  の二人に限らず、殆んどの唐土の詩人に対して云える。

 漱石はこの点、かなり事情が異なる、というのは、彼は酒

   とは無縁のようで、漱石が酒を好む話も、彼が作品の中で

    特に酒を取り上げた例もない。

 『草枕』の紀行を漱石は「一つの酔興だ」と形容した。確

 に、景色や風情に酔うという面はあったが、惜しいこと

  に酒の相伴がない。

 漱石の「草枕」を読み、川柳なみの口調で、次のように

  評た人が居た。

     塵外境の平和な世界である。そのうえ、

    酒でも飲めばもう羽化登仙の気分である 、、、、

                              ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『本文』   

 

夏目漱石は作品「草枕」について、冒頭で、このように言う。

《《 こうやって、ただ一人絵の具箱と三脚几を担かついで春の山路をのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間までも非人情の天地に逍遥したいからの願ねがい。一つの酔興だ》》

 

「春の山路をのそのそあるくのも全くこれがためである」、というのは「何のためだろうか

漱石が、「山路を登りながら、こう考えた」事の中に、次の一節がある

 

《《 苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である

いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。

うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊東籬下 ( きくをとるとうりのもと ) 、悠然見南山 ( ゆうぜんとしてなんざんをみる ) 。ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗のぞいてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。

(ひとり) 坐幽篁裏 (ゆうこうのうちにざし) 、弾琴 ( きんをだんじて) 復長嘯( ( またちょうしょうす) 、深林 ( しんりん) 人不知 ( ひとしらず) 、明月来 ( めいげつきたりて) 相照 ( あいてらす) 。ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は「不如帰」や「金色夜叉」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後のちに、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である》》

 

この一節を読むと、淵明の詩境は、『超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる』、そして、王維の詩境は、『乾坤の功徳であり、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である』と。漱石は、そのような心持ち功徳を求める「ため」に「山路をのそのそあるいている」ということが分かる。

 

淵明と王維は、唐時代の漢詩人で、漱石は二十世紀の列島作家、異なる空間に活き、千数百年以上の時間の隔てがある。にも拘らず、両者の間に、共感や共鳴が難なく存在している。何時の世の中に於いても、人間が求める理想な「人生」というものは、基本的には、違わないというのが分かる。

 

採菊東籬下 ( きくをとるとうりのもと ) 、悠然見南山 ( ゆうぜんとしてなんざんをみる ) は、陶淵明の詩「飲酒其の五首」の抜粋であるが、その全文を見てみる;

在人境  人里に庵を結んでいるが

而無車馬喧  車馬騒音は聞こえない

問君何能爾  どうしてそんなことができるんだ

心遠地自偏  心が俗世から離れれば、自然と僻地にいる

              ような分になる

采菊東籬下  東籬の下で菊を採り

悠然見南山  悠然と南山を見る

山気日夕佳  山の空気は夕方が素晴らしく、

飛鳥相与還  鳥は連れ立って巣に還っていく。

此中有真意  この境地の中にこそ真意はある

欲弁已忘言  説明しようとするが、もう言葉を忘れてし

              まった

 

なるほど、このような境地の中に活きておれば、『超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる』だろうし、「どうして?」などという余計な説明は、必要はない。

 

一方、王維の「竹里館」の方は、というと

獨坐幽篁裏  一人ひっそりとした竹林の中に座り

彈琴復長嘯  琴を弾いたり、詩歌を長吟したりして過ご

              している

深林人不知  深い林の中なので知る人はいない、が

明月來相照  明月が来て、私を相照らす

 

「竹里館」というのは、王維が長安の東南、秦嶺山脈のふところにあった藍田県に所有していた広大な別荘「モウセン荘」の一つです。

その竹林の中で、一人で琴を弾いて、詩を吟じているわけで、実に優雅、風流ここに極まるという感じ。『乾坤の功徳であり、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である』と、漱石はその境地を形容している。

 

漱石は、列島の押しも押されもしない「文豪」であるが、「とかくに人の世は住みにくい」と、『草枕』の冒頭で強調している。ならば、どうすれば良いか。

漱石は又、こうも云う;

《《 住みにくさが高こうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟さとった時、詩が生れて、画えが出来る。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、束つかの間まの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降くだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするが故ゆえに尊たっとい 》》

 

こう云う漱石自身は芸術の士であり、小説家のみでなく、詩も得意で、画も描く。それで居て、本人は、終生を通じ、殆んど「神経衰弱」に悩まされていた。

 

陶淵明は無類の酒好きだった。彼は自身の文学に酒を素材として取り上げ、多くの作品を作り上げた。例えば、采菊東籬下、悠然見南山という詩句の中に、「酒」という字は見えないが、この詩の題名が『飲酒其五』となっている事からも分かるように、淵明は、菊を採り、南山を見ながら酒を楽しんでいるのである。

又、王維にしても、彼に有名な『酒を酌んで裴迪に與う』という詩がある。その第一句が 『酒を酌んで君に與う 君自ら寛うせよ人情の翻覆 波瀾に似たり』 ( 酌酒與君君自寛 人情翻覆似波瀾 ) に始まっている。王維も淵明と同じように、酒が人生の一部になっている。これは、この二人に限らず、殆んどの唐土の詩人に対して云える。

漱石はこの点、かなり事情が異なる、というのは、彼は酒とは無縁のようで、漱石が酒を好む話も、彼が作品の中で特に酒を取り上げた例もない。

 

『草枕』の紀行を漱石は「一つの酔興だ」と形容した。確に、景色や風情に酔うという面はあったが、惜しいことにお酒の相伴がない。

漱石の「草枕」を読み、川柳なみの口調で、次のように評した人が居た。

     塵外境の平和な世界である。そのうえ、

     酒でも飲めばもう羽化登仙の気分である

 

成程ねえ、と思わせる評言である。と同時に、なぜ、漱石が淵明王維に傾倒するのかというわけも、これで十分納得出来る。

 

ここで、「たられば、、、」を言わして貰うなら、もし、漱石が「酒好きであったなら」、彼は一生、恐らく「神経衰弱」に、そんなに悩まされることはなかったであろう。

 

 


【  比較 文化  の 話  】   三話

2014-05-12 12:52:48 | Weblog

      ーー   ザビエル の 日本像 と 中国像  ーー

 

『抜粋』

  中世の西洋人が云う「異教徒」、英語の HEATHEN は、

  邪教徒の意味を併せて持ち、俗語として「未開人」を意

  味する。従い、ザビエルの云わんとする所を作り直さず

  に、訳者がザビエルの本意をそのまま日本国民に伝えて

  いたなら、ザビエルという十六世紀の一介の宣教師はと

 うの昔に日本人に忘れ去られていたであろう。

     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 『本文』   【 比較文化  の話 】 三話  

        ーー   ザビエルの日本像中国像  ーー

ザビエルという宣教師が日本に来たのは1549 年のことで、日本に滞在したのは僅か二年余り、しかも、鹿児島と山口という「地方」にしか殆んど居なかったから、日本全体を総括的に見て了解する機会に恵まれていなかった筈である。

 そのザビエルがその他幾多の宣教師よりも遥かに日本人の記憶に残り、記念されて居るのは、彼が、「日本に初めてキリスト教を伝えた」というのが一応主な原因になっている。が、そればかりでなく、彼が初めて「良き日本」を欧洲に紹介したという事の方が、その後の日本人に取り最も「忘れ難い」人として、彼はいまだに語り継げられているようである。

    「日本人はこれまで自分が接触した国民の中で、

     一番優れた国民である」と言っている」

という一言に集約されて、今日の列島でザビエルを紹介している。

 

同じ時期に、ザビエルは本国当ての書簡で、日本のみならず、中国についても、次のように紹介している;

 

《《  日本の対岸に中国という、巨大な、極度の平和を楽しんでいる帝国がある、そして、ポルトガル商人が私に伝えた所によると、そこの、正義と公平の慣習は、全てのキリスト教国よりも優れている由。私が日本或いは外の所で見た、又は、知り合った中国人は、日本人のように肌が白く、鋭敏な感覚を持ち、物覚えには熱心である。知性の面でも、彼らは日本人より優れている。彼等の国(中国) は諸々の物資が豊かで、数多くの巨大都市がその地表をおおっている 》》

 

ザビエルの中国紹介は、云うなれば「べた褒め」である。べたというのは、「隙間のないさま、すっかりその状態であるさま」の意味で、べた褒めの場合は、少しもけなすことなく全面的にほめるという意味になるようだが。

 

ザビエルの中国紹介の「資料」は、先ず、「ポルトガル商人が私に伝えた所によると」に始まり、次に、「私が日本或いは外の所で見た、又は、知り合った中国人は」という程度の物で、客観的な資料の裏付がない、どちらかと云うと「主観的」或いは「気分的」な感想に過ぎなない、と云える。

 

似たようなもので、ザビエルの「良き日本」の紹介についても、然程、当てにならないという事が言える。先ず、ザビエルが日本を紹介する原文 ( テキスト) は、「自分が接触した『異教徒』( HEATHEN ) の国民の中で、、、」という一言が前提になっていたが、日本語の訳文には『異教徒』の文字が外されていた。そうなると、意味合いはかなり違ってしまう。

 

ザビエルの布教は日本とインドの二つの異教徒の国に殆んど限られていた事から、『異教徒』国間の比較であれば、日本はせいぜいインドよりは優れている、という程度のものが、『異教徒の国』という前提を外したので、ザビエルの生まれ故郷スペイン、留学先のフランス、ポルトガルなどなどの文明国を全部含めて、「日本は一番優れている」という事になって、日本の庶民は大いに喜び、ザビエルは日本で「忘れ難い」人物として、今日に至るも慕われているが、それは、一種の翻訳の「虚構」であって、実態ではない。

 

ザビエルは、滞在したこともない中国について、上述のような大変な「べた褒め」をしていた。ところが、肝腎の中国では、ザビエルのこの「べた褒め」を知っている人も、興味を感じる人すら居ない。地理的には、僅か一衣帯水の隔( へだ) てしかないが、大陸と島国の民族気質の違いは、想像以上に異なる。

 

このような大袈裟な「べた褒め」の対象が、中国ではなしに、日本であったなら、恐らく、「ザビエル神社」というのが列島に隈無く建ち、今日に至るも、参拝者は後を絶たないであろう。

 

精神分析の大家 岸田著書『ものぐさ精神分析』の 35 で、日本人の気質を、次のように分析している

 

《《 日本人が外国人、とくに欧米人の評判を過度に気にするのも自己同一性の不安定さの症状である。外国人の書いた日本人論は、どんなにくだらぬ内容のものであっても、馬鹿みたいによく売れる。 はじめて日本を訪れて羽田に着いたばかりの外国人に 日本の印象をたずねたという笑い話があるが、 自分がどこの誰であるかの確乎とした内的確信がないので、せめて外国人の眼に映るところの自分の姿に、その手がかりを求めようとするのである。しかし、外国人の眼に映った自分の姿をどれだけたくさん集めても、自己同一性が確立できるわけはない 》》

 

確かにその通りで、十六世紀中頃に、一介の宣教師が ( 異教徒の中で ) 、日本人は一番優れた国民である』と言ったというだけで、二十一世紀の日本人はいまだそれを自慢の種にしている。 実際に、 ザビエルが云わんとするのは 「異教徒の国々の中で日本は優れている」というものだが、 日本語に訳す際に、日本人の訳者が、意図的に、 「異教徒の国」を削り、あたかも 「凡ゆる国の中で」日本が一番優秀だと 「格好よく」したもので、云うなれば 「自己欺瞞」であり、その欺瞞が土台になって、日本の庶民は何世紀にも亙って、「自己陶酔」している。

 

中世の西洋人が云う「異教徒」、英語の HEATHEN は、邪教徒の意味を併せて持ち、俗語として「未開人」を意味する。従い、ザビエルの云わんとする所を作り直さずに、訳者がザビエルの本意をそのまま日本国民に伝えていたなら、ザビエルという十六世紀の一介の宣教師はとうの昔に日本人に忘れ去られていたであろう。

 

 

ーー    見せかけの格好良さに拘る虚栄  ーー

 

 

歴史文学の大家 海音寺潮五郎作家の司馬遼太郎の二人による『日本歴史を点検する』対談が 1974 年講談社より出版されて以来、今日に至るも多くの人に読まれている。

 

題名は一応『歴史の点検』となっているが、対談の振り出しは「日本人の無思想性」から語り始め、最後は、「軽忽さの根元」「自らによる熟成を」で締め括っているから、歴史点検と言うよりも、日本の「人」と「文化」の諸々の不可解を取り出し、興味本位で語り合った「対談」である。

 

対談の締めくくりに該当する最終章の『軽忽さの根元』で、次のようなやり取りがある

 

海音寺 :  有史以前から、すぐれたものは常に海の向うから来た。長い長い間です。ついには、新奇なものでありさえすれば魅力を感ずるという民族性になったんでしょうな。従って古いものをおしげもなく捨てもする。

 

司馬 :  その根がどこにあるにせよ、形に現れたところでは軽薄という言葉でしか言いようがありませんね。仰有ったように、カッコよさという意識が、どの民族よりも強烈にあって、それが今も昔もかわらぬ受容上の体質になっている。

 

そのあと、『自らによる熟成を』という最終の章で、海音寺が、「自信も持たなければいけない。自らの文化の自信のない民族は、いかに経済的に繁栄しようと、品位に欠けます。それでは一流の民族とはいえません」、と発言した後を受け、司馬が下記のような一節を付け加えて、この対談の締めくくりにしているのは、非常に興味深い。

 

《《 中国人は世界のどこのはしにいても自分が中国人であることに自信をもっていますね。気負いたつことなく単独で平然としてもっておる。英国人なども、単独にどの土地に住んで居ても、よかれあしかれ、英国という人間文化のすべてを背負って平然としていますね。それが、人間としての威厳になるのでしょう。

戦前の日本人は国家を背負いすぎてきた。世界のどこにいても大日本帝国を背負いこむときにやっと自分の尊厳が保てた。それはおかしいわけで、そういう軍艦や大砲がなくても一私人として毅然たるものが日本人になければいけませんね。それがおっしゃっるような自信でしょうね。

「日本国はエライ」と、そういうことで出来る自信じゃなくて、自分の民族と文化についての正しい認識からうまれた毅然としてものが、日本人になければならない。でなければ薄よごれポンチ絵のような日本人像からぬけだせませんね 》》

 

普段、調子の良い話が得意な司馬にしてはかなり辛辣な発言であるが、海音寺という史学文学の老大家に面と向かえば、調子のよい話だけで済ませるわけにいかない、時として辛辣にならざるを得ないという事でしょう。

 

未だに、十六世紀の一介の宣教師の「ほめ言葉?」を借りて、「日本国はエライ」と自己顕示に努める列島気質と、宣教師が「べた褒め」しようとしまいと一向気にせず、自分で確たる「自信」を持っている大陸気質、この両者の違いに、海音寺潮五郎は民族の「重み」を懸けている。正しく、『一言九鼎の重み』である。

 

 

 

 

 


【 頤和 園  と 戦艦 大和 】    

2014-05-03 21:15:50 | Weblog

                     ーー    文化  と  喧嘩 の 違い  ーー

 

『抜粋』

  この両者は共に莫大な国費を費やして建造されたもので

    ある。昔、戦艦は、戦争に勝ち、国家の隆盛に寄与する

    もの思われ、評価されていた。そして、庭園は、軍艦

    建造の費用を横流しして国家衰亡の原因になったという

    ので世評はかなり悪かった。

  ところが、時が経ってみると、軍神乃木が愚将に変わ

      り、営発表の戦果を提灯行列で祝ったものの、後で

      蓋を開けてみると、戦果の実態は玉砕だったりした。似

      たように、昔、不評だった庭園の方は、1750 年から今日

    まで、264 年生きて来たが、別に、国も亡びていない。

    一方、無敵を誇った戦艦の方は、1941 年から1945

    まで、享年は僅か4 年しかなったし、建造した帝国は

    滅びてしまった。

   

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『本文』     

 

広島大学長 牟田泰三2005 6に、「庭園と軍艦」という一文をMuta Mail Magazine に掲載していた。一読に値いするので、取り上げる。

次のような「書き出し」になっている

 

《《 昔,中国に,軍艦の建造費を流用して皇室庭園の造営に充てるなど横暴を極め,結局,それが国を滅ぼすもとになったと言われる皇太后がいました。

清王朝最後の権力者西太后として知られる慈禧(じき)太后(1835~1908)がその人です。

 北京市西北15kmほどのところに「頤和園(いわえん)」という庭園があります。これは,庭園と言うより壮大な公園です。18世紀の清王朝繁栄期に,第6代皇帝の乾隆帝(けんりゅうてい)(在位1735~1795)が自ら設計し造営を指揮した皇室庭園です。その中心をなす昆明湖は人造湖で,この湖を掘るときに出た土砂で北側の万寿山が作られています。》》

 

中国で庭園と云えば「頤和園」、日本で軍艦と云えば「戦艦大和」、この両者の人気を日本のウエブで検索してみると、戦艦大和の記事  330000 件に対して、頤和園の記事はその三倍強の 1110000 とかなり多い。思うに、頤和園はいまだに健在だが、戦艦大和は単なる「過去」でしかないからであろう。

 

「戦艦大和」の誕生地である広島県呉市の「呉観光」のウエブに、戦艦大和について次のような紹介が掲載されている

 

戦艦大和誕生 ーーワシントン条約によって日本の戦艦保有数は不利な状況にたたされていた。アメリカやイギリスの6割と規定されていたのだ。そこで、旧日本軍は世界最大の主砲46cm砲を搭載した戦艦を建造するという「壮大な戦艦大和建造計画」をうちたて、量に対抗して質で勝負を図った。戦艦大和総工費は当時のお金で1億3780万円。国家予算の3%に相当した。(後略)

戦艦大和の運命と歴史的背景ーーしかし大和が建造された頃には、時代は皮肉なことに大艦巨砲主義から航空戦力へと移り代わってしまっていた。そのため、史上最大と謳われつつもその実力を発揮することなく、最期は特攻と命じられる。昭和20(1945)年4月7日沖縄特攻戦略で乗員3056名とともに大和は悲劇的な最期を迎える

 

戦艦大和は、昭和16年(1941年)12月の竣工後、連合艦隊に編入され、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦で初陣を迎えます。その後、マリアナ沖海戦(米軍呼称はフィリピン海海戦、昭和19年(1944年)619日~20日)、比島沖海戦(米軍呼称はレイテ海戦、同年1023日~25日)はともに対空戦闘に終始したため、大和の主砲が威力を発揮することはなかった。しかし唯一、比島沖海戦中、サマール島沖で米護衛空母部隊と交戦した際に敵艦に対して砲撃が行われ、この時が、大和が敵艦に向けてその主砲を放った最初で最後となった。

 

次に、頤和園の歴史のあらすじを見てみる

かつて、清綺園と呼ばれていた頤和園は、乾隆帝が母の誕生日祝いに1750年に造営したもので、皇帝、皇后、妃が、憩いの場として足しげく通っていた場所でした。1860年、野蛮な英仏連合軍に焼き払われたが、1886年になり、西太后が海軍の軍費を流用して再建し、頤和園と名を改めた。1900年になって、再び八国連合軍に破壊され、1902年に改めて修築された。1914年には清朝の王室財産として開発され、1924年になってはじめて、公園として一般公開されるようになった。

1992年、頤和園は『世界で最も人工の景観が多く、建築物が集中し、保存状態がよい皇室庭園である』との評価を受け、そして1988年、ユネスコの世界遺産に登録され『世界文明の重要な象徴の一つ』との美称を獲得した。頤和園は、歴史文化を内包し、科学的、芸術的価値が高く、人類文明の至宝と言っても過言ではないでしょう。という具合いに、日本のウエブで紹介している。

 

とは言うものの、実際に、北京に出かけ、頤和園を自分の眼で観賞出来る日本人は数多くはない。それよりも、日本で人気が高いのは、「頤和園」という名の付く料理屋で楽しむ「中華」宮廷料理の雰囲気にわけがあるようだ。『頤和園のチャーハン』というブロッグがある。ウエブで出して、参考までに眼を通してみるとよい。

 

この両者は共に莫大な国費を費やして建造されたものである。昔、戦艦は、戦争に勝ち、国家の隆盛に寄与するものと思われ、評価されていた。そして、庭園は、軍艦建造の費用を横流しして国家衰亡の原因になったというので世評はかなり悪かった。

ところが、時が経ってみると、軍神乃木が愚将に変わり、大本営発表の戦果を提灯行列で祝ったものの、後で蓋を開けてみると、戦果の実態は玉砕だったりした。似たように、昔、不評だった庭園の方は、1750 年から今日まで、264 年生きて来たが、別に、国も亡びていない。一方、無敵を誇った戦艦の方は、1941 年から1945年まで、享年は僅か4 年しかなかったし、建造した帝国は滅びてしまった。

 

庭園軍艦、云うなれば、『文化』『喧嘩』の象徴である。国に取って何れの方がより大切で貴重であるか、紛れもなく一考に値いする。

 

本文の冒頭に、広島大学長 牟田泰三の「庭園と軍艦」という一文の「書き出し」の部分を紹介したが、ここで、同一文の「全文」を紹介して、本文の締めくくりとしたい。牟田学長、無断で引用しますが、失礼のほど、是非ご容赦下さい。

 

「庭園と軍艦」         広島大学長 牟田泰三

 

<< 昔,中国に,軍艦の建造費を流用して皇室庭園の造営に充てるなど横暴を極め,結局,それが国を滅ぼすもとになったと言われる皇太后がいました。清王朝最後の権力者西太后として知られる慈禧(じき)太后(1835~1908)がその人です。

 北京市西北15kmほどのところに「頤和園(いわえん)」という庭園があります。これは,庭園と言うより壮大な公園です。18世紀の清王朝繁栄期に,第6代皇帝の乾隆帝(けんりゅうてい)(在位1735~1795)が自ら設計し造営を指揮した皇室庭園です。その中心をなす昆明湖は人造湖で,この湖を掘るときに出た土砂で北側の万寿山が作られています。

 さて,第10代皇帝の同治帝(どうちてい)(在位1861~1875)の母として権力を得たのが西太后で,驚くべきことに,以後50年にわたって権力の中枢に座り続けるのです。

 ところで,頤和園は,1860年に英仏連合軍の攻撃を受けて破壊し尽くされてしまいます。これを修復するために,西太后は国の巨額の金を注ぎ込みましたが,その財源として,こともあろうに,海軍拡張費(軍艦などの建造費)を流用してしまったのです。そのため,清王朝は軍事力の弱体化を招き,世界各国からの宣戦布告に対抗できず,滅亡することとなったのです。

 もっとも,西太后のように長期間にわたって権力を保持し続けた女性は中国でもかって無く,優れた政治的能力を持った彼女がいなかったら,王朝の崩壊はもっと早かったという説もありますので,彼女の名誉のために付け加えておきましょう。

 それから百数十年経ったいま,残った遺産は素晴らしい頤和園です。(頤和園は1998年に世界文化遺産に登録されました。)私達は頤和園を訪れ,その壮大さ,美しさ,技術力に感嘆しています。多くの中国の人達だけでなく,世界中から訪れた人々が,この頤和園の美を楽しんでいるのです。

 西太后は,確かに,時節もわきまえずに軍事費を使って庭園修復にうつつを抜かしたという意味では,責められるべきでしょう。しかし,歴史の大きな流れの中で見たとき,彼女が遺した偉大な文化的事業は賞賛せざるを得ません。

 為政者が行った事業をどのような角度から評価するかによって,評価は180度変わるものだなあと思いました。

 長い長い歴史の中では,何が高く評価されるのでしょうか。国を守るために軍艦を建造することと,国民のための文化遺産を創造することは,ともに違った次元において極めて重要なことです。為政者達が生きたその時点で,どちらを優先するかを決めることが為政者の役目であり,歴史をどのように形成していくかは神様の仕事と言うべきでしょうか。>>

 

これで全文の引用は終わる、が、神ならぬ読者はどう思われるのだろうか ?