李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【 白 髪 三 千 丈 Wikipedia の 遭 難 軌 跡 】 その一 (下)

2012-09-25 10:53:58 | Weblog
                ーー      類 語 :「 佳 麗 三 千 人 」 --

 

李白は、西暦七六二年に亡くなったが、奇しくも、同じ年に

玄宗も亡くなっている。その四十三年後、詩人白居易 (

楽天) が、玄宗と楊貴妃の悲恋物語「長恨歌」を作る。その

中で、白居易は、「後宮佳麗三千人、三千寵愛在一身」と

詠い、後世の人々は、それにより、玄宗の後宮に美女が三千

人居ることを始めて知った。

果たして、その通りだろうか?

答えは「否」であろう。


先ず、「詩歌」というのは、「史記」ではないという事。

次に、良識で判断してみること。楊貴妃が皇帝に望まれ、始

て驪山の華清池に召された時、玄宗は年が五十六、貴妃は

二十二で、正式に妃に冊立された時、玄宗は六十一、貴妃は

二十七であった。それから、二人は日夜一緒に暮らすわけだ

が、精神的な慰安は扨置き、肉体的な溺愛は、心欲すれど、

体力意の如く成らず、と云った所が実状であった筈。

「三千寵愛在一身」というのは、玄宗の全ての愛が貴妃一人を

象にしていた事を物語っている訳だが、六十一の年寄り、

しかも、今から千三百年昔の六十一だから、昨今の八十位の

爺さんに相当する。如何に妖艶であろうと、よれよれ爺さん

に、美女は一人で充分であろう。だから、白居易は「三千寵

愛在一身」とはっきり詠った。

そこから、もう一つ考えてみるべき事がある。

ならば、「後宮佳麗三千人」は何の為、誰の為にあるのかと

う事である。

答えは、常識で判断出来る。つまり、後宮に佳麗は居たが、

人は居なかったという事である。玄宗は、そんなに覇気

のある皇帝でない、況して、貴妃一人を終始溺愛した。

貴妃が非業の死を遂げたあと、玄宗皇帝の悲しみは並み並み

ぬものであった。

「長恨歌」の中で、白楽天は玄宗の深い悲しみを、

  「天長地久有時尽、此恨綿綿無絶期」

 

と形容している。つまり、天長地久と言えど尽きる時がある

しかし、此の恨みは綿綿として絶える期(とき)は無い、と

いうのである。玄宗はかなり純情だったようで、一人の美女

にぞっこん惚れ込み、そして、彼女が亡くなったあとは、深

い悲しみに沈み、夜な夜な、枕を抱いて、独衾(ひとりね )

ていたそうで、そのような純情皇帝の後宮に、三千人の美

を置いて遊ばせ必要は毛頭ない。察するに、言わんとす

のは、後宮に美女が多数居たということであろう。百人

かどうかも疑わしい、勿論、三千人など居るわけがない。

識で判断すれば、こうなる筈。だから、詩歌の一句を以っ

史実に当てるのは、何ら意味を成さないと言える 

 

以上のように、これは大変な改訂工事であり、船は大きく動いた。この大改訂工事を行なった第五船頭「446195225」は、その「仁目」という利用者名に改める。

 

2004530日から31日にかけて、この改訂記事は、管理者「Sat.K 」によって、体裁を整える為、下記のような「目次」が付けられた

 

《 目次 : 1原義と日本語の意味のズレについて

    2シラガの算術

    3類語:

      31 「佳麗三千人」

      32 百代、千代、万代

      33 黄塵万丈

 

内容が飛躍的に充実し、体裁も整ったこの記事は、同日( 531) 、同じく管理者である「Mishika 」により、次のように推薦される。

 

(ノート) 推薦します。百科事典の記事としても注目でき

   るし、また一般の理解の誤解を指摘しつつも、驕慢に流

   れず、位のある記事のスタイルを保っていることに敬

   意を表したいと思います。

      Mishika 2004531(UTC)

 

これによって、2004 531日の時点から、「白髪三千丈 wikipedia」の記事に下記のような「タグ」ガ冒頭に付くようになった。

 

この記事は秀逸な記事に推薦されています。秀逸な記事

  の考にて、批評・投票を受け付けています 》

 

振り返ってみると、2003 9月に始まった僅か三行の記事が、八か月を経て、六十行以上の記事に成り、秀逸な記事に推薦されるという事は、それなりに内容が充実して来たという事を意味するのに外ならない。

この間、この航海の舵取りに携わった船頭は、利用者、管理者併せて、優に七、八人に上る。多数の協力有っての成果というものであろう。

 

、、、、 その一 おわり 、、、、


【 白 髪 三 千 丈  wikipedia  の 遭 難 軌 跡 】    その一(上)   

2012-09-25 09:53:11 | Weblog

    ーー そ の 舵 を 取 っ た 船 頭 達  ーー

 

ウエブに、「白髪三千丈 wikipedia」という項目が出ている。Wikipedia は衆知のように、「フリー百科」だから 、物事「本来の姿」を正しく伝える為に存在している文献である。

その「百科」文献を参考迄に出して見ると、記事の冒頭に、疑問詞のマークと併せ、次のような「タグ」が付いている

  この記事の正確さに疑問が呈されています。問題個所

   に頼できる情報源を示して記事の改善にご協力くだ

   さい。議論はノートを参照してください。 ( 2005

   7)

 

明らかに問題のある記事が、20057月から現在( 20129) 迄、七年余りの長い間、問題無くウエブに掲載され、種々の辞書にも引用されているのは、信じ難い事である。

又、そのような「タグ」が付き、「記事の改善にご協力ください」と呼び掛けを続けて来たにも拘らず、そして、「白髪三千丈」を語る人が列島に溢れているのに、七年余りの月日を経て、いまだに些さかの改善もなされていないのは、尚更の事、驚きに値いする。

 

Wikipedia という自由百科に、世に名高い「白髪三千丈」という詩句の記事が初めて載ったのは、九年前の2003919日であった。「左利きのかぼちゃ」という「利用者」の投稿で、記事の内容は、以下のようになっていた

 

白髪三千丈は、唐代の詩聖杜甫の「秋浦歌」の冒頭の一句

  である。日本では中国人の誇張癖を象徴するものとしてし

  ばしば引用されるが、中国ではそういう使い方はしないよ

  うだ》

 

この利用者は2003 127日に《何と幸せか、我をウィキペディアンと言える者は() 》という一言を残して wikipedia から去った。これが「白髪三千丈 woikipedia 」最初の船頭である。この船頭は、李白を杜甫に間違えている。だから、この船は出だしから舵取りが怪しいのである。

20031130日に船頭が「Makoto」に代わり、記事は次のように修正された;

 

白髪三千丈は、唐代の詩聖杜甫の五言絶句「秋浦歌」の

    冒頭句。誇張が甚だしいときの比喩で使う》

 

相変わらず、李白は杜甫になっている。この船頭は「wiki は国語辞典ではありません」という言葉を残し、同年121日「リレーハンスト」を投稿して去った。

同日(20031130) 第一船頭「かぼちゃ」に依って、記事は又、

 白髪三千丈は、唐代の詩聖杜甫の「秋浦歌」の冒頭の一

   句である。日本では中国人の誇張癖を象徴するものとし

   てしばしば引用されるが、中国ではそういう使い方はし

   ないようだ》

に差し戻される。

 

2004210日に至り、第三船頭「らりた」に依り、やっと、杜甫を李白に訂正し、船は前に動き出し始めた;

 

《白髪三千丈は、唐代の酒仙李白の「秋浦歌」の冒頭の一句

  である。日本では中国人の誇張癖を象徴するものとしてし

  ばしば引用されるが、中国ではそういう使い方はしないよ

  うだ》

 

2004317日、第四船頭「corwin 」により、更に、若干改訂される;

 

白髪三千丈(はくはつさんぜんじょう)は、唐代の酒仙李

  白の「秋浦歌」の冒頭の一句。「白髪が三千丈の長さに伸

  びるくらい長いあいだ」という意味で、長期間をあらわす

  表現のひとつである。日本では中国人の誇張癖を象徴する

  ものとしてしばしば引用されるが、中国ではそういう使い

  方はしないようだ》

 

その後、2004522から 25日にかけて、第五船頭「446195225」によって、従来の記事に加え、下記のように大きく新規改訂編集された;

 

   ーー以下、新規改訂編集ーー

 

何故原産地の中国で誇張の表現として使われていない文句

が、日本で誇張の表現として使われるようになったのか?

その原因は、解釈の違いにある。つまり、日本は字面だけを

捉え、真意を解していないためである。白髪、つまりシラガ

は、増えるものであって、長く伸びるとは言わない。伸びる

のは髪の毛であり、白髪はそれの変色した部分を指して言

。だから、白くなった髪の毛が多いか少ないかが問題に

なる。

李白の「秋浦歌」は計十七首よりなっている。白髪三千丈

は、のうちの第十五首の冒頭の一句である。

白髪三千丈、縁愁似箇長、不知明鏡裏、何処得秋霜

以上が第十五首の全句で、最終句が「何処より秋霜を得たる

か」となっている事からも分かるように、頭上の白い部分が

面霜降りの状態になっている。つまり、李白はシラガが増

えた, 或いは、多くなったと言っている。中国の詩集「千家

詩」の現代語注釈をみると、白髪三千丈は、「頭上の白髪が

ふえた、一一本継ぎ足すと延べ三千丈になるだろうとの作

者の嘆声」になっており、長く伸びたとは言っていない。

又、三千丈という表現は、仏法の「三千大千世界」から来た

で、元は、広大無辺の仏法世界を意味していた概念を、

が取り入れて、「極めて多い」、「極めて広い」など

いう味で包括的な形容に使うようになったものであって

算術の「三千」ではない。

従い、白髪が長く伸びた、三千丈の長さに伸びた、という列

ける解釈は、間違った字面の解釈であり、本来の詩

句、白のんとする真意を解していない。

従い、この文句でもって、中国人の誇張癖を象徴するものと

用するのは、見当はずれであるのみならず、日本人の

漢文素養疑問視されるもとになる。

 

、、、、 つづく 、、、、


【 甘 言 を 好 み 、 苦 言 を 憎 む 】    

2012-09-07 10:21:05 | Weblog

  ーー 【 好き、嫌い と は 何 か 】 その  ーー

 

列島の書籍、雑誌を読み、又は、ウエブと対面して、常々、意外に思うのは、特定の外国、或いは、外国人の日本に対する「一挙」「一動」「一言」を取り上げ、たちどころに「嫌日」「親日」「反日」と簡単に決め付け、大きな帽子を被(かぶ)せるという事である。

 

誰しも、ある特定の国、或いは、国民に対し、好きか嫌いか、ただ一つだけの感情を持つのは稀である。大抵は、個別の物事に分かれて、幾つかの複雑な感情を分かち持つというのが実状である筈。

 

簡単に一つの例挙げてみる。「ロシヤ人」に触れると、一般の日本人は嫌な顔をするが、バレー「白鳥の湖」、「胡桃割り人形」のチャイコウスキー、『罪と罰』のドストエフスキー、戦争と平和』のトルストイの愛好者は、日本に極めて多く、わけても、テニスの女王シャラボアーに対する列島マスコミの傾倒振りは異常とも言える。つまり、「ロシア善し悪し」は、「嫌」の一言で片付けられないのである。

 

一度、ロスのゴルフ場で三人の日本人と一緒のグループになった。内一人はゴルフよりも、専ら自分のアパートは百万ドルの値打ちがある事をしきりに自慢し、私がどの様な家に住み、何軒のアパートを持っているか、については一言も聞いて来ない。分別盛りの五十年配の人だったが、その内、今度は話を換え、色んな国の人の悪口を言い始めた。それまで、黙って聞いていた私は、さすがに堪り兼ねて、「如何なる国にも、良い人が居れば、悪い人も居る、日本だってそうだよ」と軽く悟した所、「日本を批判しちゃ駄目だ」と云う。

まだ、第一ホールのテイーショットも打っていないので、私は、「一寸用があるので失礼」と言ってその場を去った。少し離れた所に居た 外の二人は事情が分からないまま、私が突然グループから離れたので面喰らったようである。

後日、同じコースで又三人に再会したが、彼は私を遠く避け、他の二人は、私に近寄って来て、「しばらくです」と挨拶し、しばらく雑談をした。別れるとき、内一人が遠くに立っている「彼」を指さし、「彼が居ない時、また、一緒にやりましょう」と言った。

私は終始何も言わなかったけれども、あの日、何故私が突然彼らのグループから去ったのか、この二人はちゃんと「見当」が付いて居たんだなと、その時初めて分かった。

 

「孔子家語」の伝えによると、子は、次のような教えを残していたという。

子曰く、良薬は口に苦けれども、病に利あり。忠言は耳に逆えども、行いに利あり。湯・武は諤諤を以て昌え、桀・紂は唯唯を以て亡びたり

原文「孔子曰、良藥苦於口、而利於病。忠言逆於耳、而利於行。湯・武以諤諤而昌、桀・紂以唯唯而亡」

 

孔子のこの家語は、「良薬、口に苦し、忠言、耳に難し」で、日本にそのまま伝わっているが、それを「和風」に書き換え、和風類語として : 「苦言は薬なり、甘言は病なり」とも言う。

 

大平洋戦争前、日本帝国の拡張を封じ込む為の、「A. B. C.D. 包囲陣」というのがあった。 A = America , B = British , C = China , D = Dutch ( Hoilland ) によるこの封じ込みは、角度を換えて見た場合、親ごが勝ち気でわんぱくなきかん坊の暴走を食い止めようとする姿勢に似ている所がある、と言う事も出来なくはない。

日本という国の、文化文明、近代化の基礎は、殆んどが「舶来の力」に助けられ、徐々に発展を遂げたもので、この歴史の過程は否定のしようがないものである。

米国は「日本の開国」、英国は「皇室の近代化」「海軍の模型」、唐土は「日本文字文化の源泉」、オランダは「蘭医学の開祖」として、各々に、日本の歴史に計り知れない貢献をした、恩の深い国々である。だから、日本は一時期自分を「中国」「小中華」と称した事もあり、維新後は、「脱亜入欧」を夢見ていた事からも、これらの国々に対し、少なからず「畏敬」と「恩義」を感じていた事が分かる。

所が、皮肉な事に、明治開化後、一人前に育ったかのように見えた「日本」は、手の平を返すように、これらの国々に「恩を仇で返す」ような行動を取り始めた。

 

A. B. C. D.が万事につけ正しかったとは言はない、又、日本が万事につけ間違っていたとも言はない。だが、仮令間違いがあっても親は親であり、恩人は恩人であり、極めて「恩義」を重んじるサムライの国であれば、仮令、恩返しが出来なくても、少なくとも、「仇で返す」事だけはするべき事ではない、そうではなかろうか。

 

A. B. C. D.包囲陣を突破して狂喜し、日夜「提灯行列」に浮かれた「帝国日本」は結局崩潰してしまった。私も小さい頃「提灯行列」に浮かれた、貴重な体験をした。

「帝国日本」の崩潰に際し、列島一億の民は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」よう、天皇に求められた。嘗ての恩人達 ( ABCD ) , 「日本よ暴れるのは止めさない」という苦言を、日本が聞き入れていたなら、「帝国日本」を潰さずに済み、列島の民草も「耐え難き耐え、忍び難きを忍ぶ」苦難に遇わなくて済んだ筈である。

その前に國際聯盟の脱退というのがあった。

1933 年2月、國際連盟で、満州における中国の主権を認め、日本の占領を不当とする決議案が、賛成42の圧倒的多数で可決された。この決議に反対票を投じたのは日本だけだった。

42一票の結果にも拘らず、日本は国聯から脱退した。つまり、世界を「敵」に回した事になる。それは、ナチスとの同盟があるという「恃 ( たの ) み」があった。その立て役者だった松岡洋右は帰国後、列島で「国民的英雄」に祭り上げられた。しかし、後年の松岡は、ナチスとの同盟を推進したのは「一生の不覚」だったと悔やんでいたと伝えられている。

それから、十年も経たず、日本は全世界に「戦」を挑( いど) んだ。「勇ましい」と言えば聞こえは良いけれども、実際は、「短気」と「意地」が合わさって「激情化」した揚げ句の、血気に逸( はや) る無謀な「戦」であった、という事を、戦後日本の識者が殆んど例外なく指摘している通りである。

それは、簡単に詰めて言うと、列島の「好き、嫌い」の感情の動きが如何に激しいかを物語っているのみならず、「甘言は喜ぶが、苦言は極端に怒る」という心情の一方的な偏( かたより) も同時に表わしている。その所に、外国人との付合いを好まない日本人の「弱味」というものを感じとる事が出来るような気がする。

 

今の日本は、遠い国米国に一辺倒のように見え、そして、近隣諸国とはさ程仲が良くないようで。だから、嫌韓、嫌中、親日、反日、などのような「剣呑」「殺伐」な用語が紙面に溢れている。

一寸、目を通して見ると、「嫌」「反」という字は「悪」という字と結び付け、「親」という字は「善」と結び付けられて使われている場合が多いようで、これはとんでもない事だと思う。「不味いから、嫌い」が嫌いであれば、「食わず嫌い」も嫌いになるから、好き嫌いは、善と悪の問題よりも、明らかに、感情的な、感覚的な要素に左右される場合が多い。

 

具体的に、ウエブに載っている「好き嫌い」を表す記事数字を参考までにここに出してみる (検索日 2012 9 2 )

 嫌韓 11900000   親韓 11400000

 嫌中 3230000    親中 12800000

 嫌米 98300000   親米 816000

 嫌日 12300000   親日 4840000

 

この具体的な数字を目の前にして、「あれっ」と意外に思われる人は少なくない筈である。

 

先ず、米国一辺倒だと思われている「日本」のウエブに出ている「嫌米」記事が98300000 件に対し、「親米」記事がその百分の一にも満たない 816000 しかない事。

次に、「嫌韓」と「親韓」の記事が ほぼ 同じ数字である事。

三つ目に、「嫌中」記事の数が 「親中」記事の四分の一しかない事。

最後に、「嫌日」の記事数が 「親日」記事よりも三倍 多いという事。

 

上記四つの記事数字の割り振り( 配分) は、かなり予想外のものであり、その間の「矛盾」をどのように説明すればよいのか、私に分からないが、一つだけ言える事は、列島の人びとは、果して、自分の 「良友」と「悪友」が見分けられるのだろうかという疑問を抱かずにおれないという事である。

 

本多時生の「幸せのホームページ」に載っている、《「好き嫌い」について》を読んで、特に共感を覚えた次の一節を次に記して本文の締めくくりとしたい。

 《 人の好き嫌いは感情やフィーリングの問題だからどうしようもない、と言う人もいます。そういう部分もありますが、そうじゃない部分もあると思います。だから、人の好き嫌いはある程度は自分で変えることができるはずだと思います。

「好き」という思いは大切にしたほうがいいのですが、「嫌い」という思いを募らせるのはよくありません。

「この人が嫌い」という思いが強く心の中にあると、相手のイヤなところが目につきやすく、相手のことを悪く考えがちになります。きっと自分の表情や言動にもそれが(なんとなくでも)表れてしまい、相手にも伝わるような気がします。よけいに人間関係が悪くなりやすいと思います 

 

 

ーーーーー 【好き、嫌いとは何か】全文完  ーーーーー


 【 ザ ビ エ ル は 、 何 を 言 っ た の か 】   

2012-09-04 11:16:10 | Weblog

       ーー  【 好き、嫌い、と は 何 か 】  (二)  ーー 

 

『抜粋』

  ザビエルが、何故日本に興味を持ったか、彼は、こう

      書いて

 “ I have learnt from good authorities that there is a country

        near China called Japan, the inhabitants of which are all

        heathen,  quite untouched by Muslims or Jews, and very

        eager to learn what they do not know both in things divine

        and things natural,  I have determined to go thither as soon

        as I can  (A letter of St Francis Xavier to St. Ignatius

        de Loyola, 15 April 1549)

 

     私は、良き権威筋から、中国の近くに日本という国が

     ある事を知った。その地の住民は全て異教徒であり、

    まだ、イスラムやユダヤは手を付けられていないし、

    私は、彼等が神や自然の諸事について、どのように無

    知であるを切に知りたい、私は、出来るだけ早くあ

    の地に赴きたいと決めた」( 1954415付け、St.

        イグナシスロヨラ宛書簡 )

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『本文』   

 

鉄砲が日本に伝来したのは、1543 年だと伝えられている。そして、スペイン生まれの宣教師フランシスコ・デ・ザビエルがポルトガル王ジョアン三世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後、日本に初めてキリスト教を伝えに来たのは1549 年のことで、鉄砲の列島伝来から僅か六年しか経っていない。鉄砲もザビエルも共にポルトガルから、然も、ほぼ同じ時に来日したことになる。

 

ザビエルが日本に滞在したのは僅か二年余りで、しかも、鹿児島と山口という「地方」にしか殆んど居なかったから、日本全体を総括的に見て了解する機会に恵まれていなかった筈である。

 

そのザビエルがその他幾多の宣教師よりも遥かに日本人の記憶に残り、記念されて居るのは、彼が、「日本に初めてキリスト教を伝えた」というのが主な原因である。が、そればかりでなく、彼が初めて「良き日本」を欧洲に紹介したという事の方が、その後の日本人に取り最も「忘れ難い」人として、彼はいまだに語り継げられているようである。

 

「日本人はこれまで自分が接触した国民の中で、

  一番優れた国民である」と言っている」

 

という一言に集約されて、今日の列島でザビエルは紹介されている。

 

列島の昔ながらの社会体質は、何かを「外国」から取り入れる時は、先ず、例外なく、それを一旦都合よく「和風」に作り直して「国内」で使うという習慣がある。

それだと、ザビエルはもともと、一体どのような「言い方」で日本を総括的に紹介したのかという事が知りたくなる。

 

米国のウエブにも、「ザビエルと日本」の記事が沢山載っている。米国の記事は、ザビエルがスペイン語、もしくは、ポルトガル語で書いたものを英語に訳したもので原文( text ) ではないが、他国関係の文献に、第三者が手を加える事はしないというのが「世間の常規」であれば、それを参照にした方が、より客観的な内容がつかめる筈で、ロスに住んでいるので、こちらで、肝腎の書簡文句を検索して見た。次のように出ていた;

 

St. Francis Xavier, during his missionary in Asia, saw in Japan an impressive cultural, economic and social potential. He valued Japan more than any of the nations discovered.

 

直訳すると、「ザビエルは、宣教師としてアジアに滞在中、日本で、印象に残る文化、経済、社会の潜在力を見た。彼は、彼が見い出した何れの国々よりも日本を評価していた」になる。

 

この一文の重点は " potential " 即ち、( 日本の) 「潜在力」に言及したものであって、「現実の姿」を伝えたものではない。それを、日本では、簡単に「一番優れた国民」という一言表現に置き換え、「現実の姿」であるようにしている。所謂、「作り直し」というものでしょう。

 

ザビエルが、何故日本に興味を持ったか、彼は、こう書いている

 

“ I have learnt from good authorities that there is a country near China called Japan, the inhabitants of which are all heathen, quite untouched by Muslims or Jews, and very eager to learn what they do not know both in things divine and things natural, I have determined to go thither as soon as I can  (A letter of St Francis Xavier to St. Ignatius de Loyola, 15 April 1549)

 

「私は、良き権威筋から、中国の近くに日本という国がある事を知った。その地の住民は全て異教徒であり、まだ、イスラムやユダヤは手を付けられていないし、私は、彼等が神や自然の諸事について、どのように無知であるを切に知りたい、私は、出来るだけ早くあの地に赴きたいと決めた」( 1954415付け、St. イグナシスロヨラ宛書簡 )

 

ザビエルは日本が「異教徒」( heathen ) の地である事に興味を持ち。日本人が、神や自然の諸事について、どのように無知であるかを知りたい為に日本に来た。

 

英語のheathen は、異教徒と邪教徒の意味を併せて持ち、俗語として「未開人」の意味で使われる、という事を英和辞典で教えているから、知っておくと、非常に良い参考になる。

 

それらを綜合して判断すると、ザビエルは、キリスト教文化から見ていまだ「未開の地」である日本に宣教に来た事になる。

 

ザビエル日本発の書簡第3 巻に、次のような中国に関する紹介がある

- Opposite to Japan lies China, an immense empire, enjoying profound peace, and which, as the Portuguese merchants tell us, is superior to all Christian states in the practice of justice and equity. The Chinese whom I have seen in Japan and elsewhere, and whom I got to know, are white in colour, like the Japanese, are acute, and eager to learn. In intellect they are superior even to the Japanese. Their country abounds in plenty of all things, and very many cities of great extent cover its surface.

 

「日本の対岸に中国という、巨大な、極度の平和を楽しんでいる帝国がある、そして、ポルトガル商人が私に伝えた所によると、そこの、正義と公平の慣習は、全てのキリスト教国よりも優れている由。私が日本或いは外の所で見た、又は、知り合った中国人は、日本人のように肌が白く、鋭敏な感覚を持ち、物覚えには熱心である。知性の面でも、彼らは日本人より優れている。彼等の国(中国) は諸々の物資が豊かで、数多くの巨大都市がその地表をおおっている」

 

この一節を読んで、気が付くのは、ザビエルという宣教師は、神や自然の諸事については、かなりの知識を持っていたが、世間一般の事は余り知らないようで、古い中国は、日本はおろか、全キリスト教国よりも色んな面で優れていると言い切っている。それが、事実であるかどうかを扨置いて、一方で、中国は日本より優れていると言っておきながら、片方で、日本人が一番優れているとも言うのは、どうにもこうにも通しようのない論理で、果して、それらが、ザビエルの本心であったかどうかの疑問が生じて来る。

 

ザビエル書簡の「日本評価」について、日本で紹介されている幾つかの代表的な記述を拾い上げてみる

 

( 1 ) 暁教育図書株式会社、1975 年発行、日本の歴史 第十七巻「異郷の人々」35 ページ ( 青山大学院教授 岡田 章雄 )

  「日本人はこれまで自分が接触した国民の中で、

   一番優れた国民である」と言っている。

 

( 2 ) 弘文堂 1987 年発行 「公式 日本人論」ーー ルース

         ベネデイクトの弟 子達による 執筆ーー 48 ページ

  「日本人を今まで見た未開人の内でもっとも優れた

      民族」と評価している。

 

( 3 ) 中央公論社 1983 年発行 「フロイスの日本覚書」

      著者 松田毅一、E. リッセン P 42

1549 海外向け通信の中で、ザビエルはこう述べている。

「日本について今日まで私が観察したところを書き送ろう。

第一に、この国民は、私が今日までに交際した限りにおい

て、すべていままでに発見されたあ諸国民のうちで最良の

ものであり、異教の国民中、日本人に比しうべきものあり

とは考えられぬ」

 

ザビエルという一人の人間の一言「評言」が、日本で異なる人に依って、異なる日本語表現で紹介されている。

このうち、どれがザビエル本来の言うわんとする意向を、もっとも率直に伝えているか、読者の判断に任せる事にしたい。

 

、、、 つづく  、、、


【 好 き 、 嫌 い  と は 何 か 】   (一)

2012-09-03 10:09:26 | Weblog

         ーー 感 情 や 感 覚 の 問 題 ーー

 

偶然目に止まった記事だが、本多時生の「幸せのホームページ」で、「好き嫌い」について、次のように書いてあった;

 

《《 人に対する考え方でいちばん影響が大きいのは、「好き嫌い」ではないでしょうか。好きな人といっしょだと気分よく過ごしやすく、嫌いな人といっしょだとイヤな思いをしやすいと思います。

 人の好き嫌いは感情やフィーリングの問題だからどうしようもない、と言う人もいます。そういう部分もありますが、そうじゃない部分もあると思います。だから、人の好き嫌いはある程度は自分で変えることができるはずだと思います。

 「好き」という思いは大切にしたほうがいいのですが、「嫌い」という思いを募らせるのはよくありません。

 「この人が嫌い」という思いが強く心の中にあると、相手のイヤなところが目につきやすく、相手のことを悪く考えがちになります。きっと自分の表情や言動にもそれが(なんとなくでも)表れてしまい、相手にも伝わるような気がします。よけいに人間関係が悪くなりやすいと思います。

 また、その人といっしょの時にイヤな気もちになるだけでなく、その人と会う前に憂うつになったり、会った後にもイヤな事やその人を思い出してイヤな気分になってしまいがちです。相手を憎んだり、懲らしめたいなどと、悪い考えをしてしまうこともあります。そのために、幸せに暮らせるはずの時間を損なってしまうのは、もったいないと思います。

 「この人がイヤ・嫌い」と、ふと思ってしまうのはしかたがありません。でも、そういうことを考えているのに気づいたら、「人を嫌ってもいいことはない」とその人のことを考えるのはやめて、「それより、いいこと(好きな人のことややりたいことや幸せになれることなど)を考えよう」と考えられたら、と思います。

 「嫌い」という思いを、消し去ることは難しいかもしれませんが、その人に対することによって、弱めることはできるのではないかと思っています。

 少しくらい嫌いな人がいても当たり前、そういう人とは、というのが大人の人づきあいというものではないでしょうか。》》

 

非常に、共感を覚える内容だったので、ここに引用した訳だが、確かに、「好き嫌い」というのは、感情或いは感覚的なものであって、客観的に、良いから好き、悪いから嫌い、という事ではないようである。

 

一寸変わったウエブ記事の数字を、下記に出してみる

一般記事 :   フランシスコ ザビエル 379000

       ルイス フロイス 163000

特定記事 :   ザビエル 日本」 230000

      「フロイス 日本」 135000

 

ご覧のように、ザビエル 方が、フロイスよりも ずっと多くの日本人に関心を持たれている。では、この二人の日本との繋がりは如何なものか、「はてなキーワード」で見てみる

 

Luis Frois 》 (1532年~1597年)

ポルトガル出身の宣教師。イエズス会士。

永禄6年(1563年)に来日し、以後30年あまりに渡って日本で布教活動に従事。

信長をはじめとする権力者の知遇を得、また、日本滞在中の報告書簡は百数十通にものぼる。

後に日本における布教の記録を著書「日本史(Historia de Iapan)」にまとめた。

慶長2年(1597年)、長崎で没。

日本史:実際には布教と関係ない当時の習俗や社会や文物に関する情報が多量に含まれており、当時の日本を知る上での貴重な資料となっている

 

《 Francisco de Xavier ( 1506 ~ 1552 )

日本にカトリックをもたらしたイエスズ会の創立メンバーの一人で伝道者、(1506-52)1537年ベネチアで叙階。1541年、東洋での布教を目指して旅立つ。当時の日本は、中国仏教の影響下にあったため、中国での宣教が先と判断し中国へ渡るが、1542年中国の川上島で病気のため帰天する。

 

一読して分かるように、ザビエルは日本滞在僅か二年余りで、フロイスは三十年。ザビエルは初めて日本に来た宣教師というだけで、フロイスは数多くの仕事をし且つ「日本史」という貴重な史料まで残している。

それでいて、列島の人びとは、なぜ、フロイスよりもザビエルにずっと多くの関心を持っているのか 多くの関心も持つのは、言葉を換えて 「好きだから」と言うことも出来る。

 

今一つ、面白い資料を出してみる。日本の近代から現代にかけ、極めて重要な役割を果たした米国人が二人居る。一人はペリー 提督で、いま一人は マッカーサー 元帥である。

昨今の列島で、どちらの方が「関心」を持たれているか、下記のウエブ数字が示している

一般記事 :   ペリー 8530000

       マッカーサー 1710000

特定記事 :  「ペリー 日本」 9150000

       「マッカーサー 日本」 2080000

 

ペリー マッカーサー 二人の日本との繋がりはマッカーサーの方が ずっと多くの実績を残して、国会で「マッカーサー神社」を建てる事まで決議したが、帰国後の「日本は十二歳」の一言で、 マッカーサー株は一挙に大暴落したのは、衆知の通りで、所謂、単なる「感情的」、或いは、「感覚的」な問題に属する。

 

ザビエル フロイス も似たようなもので、フロイスは日本について、百数十通に及ぶ書簡で、善しも悪しも、併せて忌憚のない見方を言い表しているが、ザビエルの方は、僅かに五通やそこらの書簡で、日本について、良い報告を本国にしている、例えば、「ザビエル」に関する記事を見ると、殆んど例外なく、「日本人はこれまで自分が接触した国民の中で、 一番優れた国民であると言っている」という文句に集約して紹介されている。それで、列島に於けるザビエルの受けが良いようになった、のではないかと思う。

そうであるか否か、それは日本人が良く知っている筈であり、もし、その通りに相違ないのであれば、これ又、「感情感覚」の問題で、善し悪し以前の、好き嫌いになる。

 

というのは、「日本十二歳」の一言だけ取り上げて、マッカーサーは日本をバカにしたと断定できないように、ザビエルの一言だけ引用して、ザビエルは「日本を高く評価」したと断定し難いからである。

 

、、、次回 <ザビエルは、何を言ったか> につづく 、、、