(1) 「 カタカナ人種 」
(2) 「 国際通用型日本人 」
(3) 「 日本人らしい日本人 」
ーー 内 一 つ は 紛 い 物 日 本 人 ーー
『抜粋』 (1) 「 カタカナ人種 」
一つは、「カタカナ人種」で、俗に云う所の「単細胞」
人間に属する。カタカナ人種は、大きく分けて二通り
あるようで、「真面目」を「マジ」に言い替える人達
で、これは智能の低下とも関係があるものと思われる。
今日の列島には、この「単細胞」人間が多数を占めて居
るようである。
逆に、外国語に弱い知識人が、つまらぬ「見栄」を張り、
「真面目」を「シリアス」に言い換えて、これ又外国語
に弱い衆愚を騙そうとする人達である、特に、何とか
「評論家」という肩書きが付いている者にこのような傾向
が強いようである。
『抜粋』 (2) 「 国際通用型日本人 」
二つは、「国際通用型日本人」で、日本語は言うに及ば
ず、外国語にも堪能で、言うなれば、加藤周一氏のような
人間で、世界何処へ行っても通用する人間である。が、残
念なことに、列島にはこの人種の人間は然程多くは居ない
ようだ。
『抜粋』 (3) 「 日本人らしい日本人 」
三つは、「日本人らしい日本人」で、分かり安く例を挙げ
ると、森鴎外、夏目漱石、永井荷風などに代表される。鴎
外は独逸留学、漱石は英国留学、荷風は仏国留学で、各々
外国語に堪能であるが、揃いも揃って、「カタカナ」を使
わずに、立派な「日本語」で数多くの名作を後世の日本人
に残した。明治以降今日に至る迄、列島には数え切れない
ほどの作家が存在したが、今だに、鴎外、漱石、荷風の右
に出る者は居ない。
理由は簡単である、彼等は日本語らしい日本語で名作を残
したからである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『本文』
日本の代表的国際知識人加藤周一氏が、一九七七年二月に、朝日新聞社から『言葉と人間』という本を出している。その中に、ーージャポングレまたは「フラングレ」の事ーーという一文があった。
フラングレとはフランセ(フランス語)+アングレ(英語)から来た単語で、英語が混じったフランス語という意味。従い、ジャポングレとは、ジャポン( 日本語 )+ アングレ( 英語 ) の「ちゃんぽん語」という意味になる。
ジャポングレの具体例として、《言葉と人間》加藤周一 1977 、P 67 に、『ジャポングレまたは「フラングレ」』の章に出ている。その一部分をここに出してみる;
《《 カンジをおぼえるには、テマがかかる。テマのかかることをミニマムにするのは、デモクラシーのプリンシプルである。そこでカンジセイゲン。もっとテッテイして、いっそカンジをやめてしまえば、コンミュニケイションはスムースになり、マイホーム、マイカントリ、マイトーキョーのナウなセンスがいきるだろう。
「ヒャッカテンがやすもののカグをうりだした」といっては、ツマンナーイけれど、「デパートのカジュアルショップにフアニチュアフエアがオプン」といえば、オモシローイのである。
ナガヤにすむより、アパートまたはマンシヨン、またはいっそシャトーにすみ、ナツヤスミのダンタイリョコーではなくて、バカンスのツアーやツーリングやジャルパックやゴルフアックにでかける。
(中略)
ああ、カタカナのメリットやかくのごとし。エルゴ、わたしはそらにむかってさけびたいのである、カタカナ、ゴー・デスカバー、ジャポングレ・レット、カム、リンギステイッシェ・ヒュペルエグゾーテイシェ・ヤブレカブレール・フィエスタ・ナチオナーレ!》》
加藤氏は、多国語を解し、この『ジャポングレ』の一文は、同氏が、定着しない日本語、変転と摸倣を盲目的に好む日本人の性格を嘆いているもので、全文、カタカナと平仮名で書き上げているが、カタカナという記号が代表している字句の原語は、漢字、英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語、スペイン語、イタリー語等のちゃんぽんであり、個々の日本人が好んで使う片言のカタカナ外来語を拾い集めて、加藤氏が文章に仕上げたものであるが、いざ文章にすると、そのままで読んで分かる日本人は、居ないことはないと思うが、極めて稀れであるのが実情であろう。
そこで、これら諸々の外国語音読を、辞書、辞典の助けを借りて原語に書き下してみると、次のようになる;
《《 漢字を覚えるには、手間が掛かる。手間の掛かる事を minimum にするのは、 democracy のprinciple である。そこで漢字制限。もっと徹底して、いっそ漢字を止めて仕舞えば、Communication は smooth になり、my home, my country, my Tokyo の now な sense が活きるだろう。
「百貨店が安物の家具を売り出した」と言っては、ツマンナーイけれど、「depart (ment) の casual shop に furniture fair が open」と言えば、オモシローイのである。長屋に住むより apart または mansion , またはいっそ cha^teau に住み、夏休みの団体旅行ではなくて、vacance の tour や touring や Jal Pac や golfuck に出かける。
(中略)
ああ、片仮名のmerit やかくのごとし。私は空に向かって叫びたいのである、カタカナ、go 。discover, Japonglais 。 let, come, linguistische ヒュペルエグゾーテイシェ ( huper exotische ) 破れかぶれーる Fiesta Nationale! 』》》
さて、上記の如く、片仮名外国語を全部原語に書き戻してしまったら、今度は、横文字だらけになってしまい、とても一般の人には読めそうにないので、日本語の「現代語訳」に今一度取り組む外はない。そうすると、次のような「訳文」になる;
《《 漢字を覚えるには、手間が掛かる。手間の掛かる事を最小限にするのは、民主主義の原理である。そこで漢字制限。もっと徹底して、いっそ漢字を止めて仕舞えば、意思の伝達は順調になり、我が家、吾が国、わが東京の現代的な感覚が活きるだろう。
「百貨店が安物の家具を売り出した」と言っては、ツマンナーイけれど、「デパートのカジュアル・ショップにファーニチュア・フエイアがオープン」と言えば、オモシローイのである。長屋に住むより、アパートまたはマンション、またはいっそシャトウに住み、夏休みの団体旅行ではなく、バカンスのツアーやツアリングやジャル・パックやゴルファックに出かける。
(中略)
ああ、カタカナの取り柄やかくのごとし。私は空に向かって叫びたいのである、カタカナよ去れ。ジャポングレ の正体を明らかにしよう。来たれ、真なる語学、去れ、外来語。破れかぶれだよ、国を挙げてのお祭りさわぎは ! 》》
いくら、外来語も日本語のうちに入ると力説する人が居ても、また、力説した所で、それは、圧倒多数の日本人の分からない言葉であるから、勿論日本語では有り得ない。恰度、中国の拉麺が、ラーメンに名を変えて、日本で大繁昌した所で、元祖は中国から日本に変わることがないのと一緒である。そして、いくらSushi が米国で流行り、米国の風味に変わったところで、それはもはや日本食ではないという説を認める日本人はまず居ないだろうから、外来語は、所詮、外来語である。
上述のように、同じ一つの物事を言い表すのに、列島では、三つの異る言い方がある。三つの異る言い方があるという事は、列島に三つの異なる型の「日本人」が存在しているという事に外ならない。
一つは、「カタカナ人種」で、俗に云う所の「単細胞」人間に属する。カタカナ人種は、大きく分けて二通りあるようで、「真面目」を「マジ」に言い替える人達で、これは智能の低下とも関係があるものと思われる。今日の列島には、この「単細胞」人間が多数を占めて居るようである。逆に、外国語に弱い知識人が、つまらぬ「見栄」を張り、「真面目」を「シリアス」に言い換えて、これ又外国語に弱い衆愚を騙そうとする人達である、特に、何とか「評論家」という肩書きが付いている者にこのような傾向が強いようである。
二つは、「国際通用型日本人」で、日本語は言うに及ばず、外国語にも堪能で、言うなれば、加藤周一氏のような人間で、世界何処へ行っても通用する人間である。が、残念なことに、列島にはこの人種の人間は然程多くは居ないようだ。
三つは、「日本人らしい日本人」で、分かり安く例を挙げると、森鴎外、夏目漱石、永井荷風などに代表される。鴎外は独逸留学、漱石は英国留学、荷風は仏国留学で、各々外国語に堪能であるが、揃いも揃って、「カタカナ」を使わずに、立派な「日本語」で数多くの名作を後世の日本人に残した。明治以降今日に至る迄、列島には数え切れないほどの作家が存在したが、今だに、鴎外、漱石、荷風の右に出る者は居ない。
理由は簡単である、彼等は日本語らしい日本語で名作を残したからである。
さて、読者諸氏よ、上述三つの内、貴方は自分がどの人種に属するものなのか、この際、検証して見ませんか。
検証法は簡単であえる、加藤周一のような日本人を尊敬する、或いは、そのような人間に成りたいと思うなら、貴方は、国際通用型の日本人に成れる素質を持っている。
鴎外、漱石、荷風などの名作を好んで読む、或いは、それらの名作に興味を持ち、なんとか読みこなしてみたいと思うのであれば、貴方は、「日本人らしい日本人」の内に入るでしょう。
ところがもし、「真面目」を「マジメ」と言うのを嫌がり、「マジ」を好んで口にするようであれば、日本離れの嗜好が濃厚で、又、福袋に手にした時「福袋ゲットした」、野球得点を「点をゲットっした」などと云う貴方であれば、国際通用は言うに及ばず、日本の文豪、鴎外、漱石、荷風などの純然たる日本語で書かれた名作ですら読みこなせないから、とても「日本人」とは言い難い。そのような貴方であれば、紛(まが)い物の日本人になりつつあると言うことが出来る。
いかがでしたか、読者諸氏の検証結果は ?