ーー 大 人 の 思 考 力
を 要 す る ーー
『抜粋』
ある大学の、人文学部一年の神津という学生が、次のよう
な疑問をウエブ上に載せていた;
《『中華思想』という言葉に大抵の人は良い感情を抱い
ていない。その思い上がりに反発を感じるからである。
人によっては日本にとっての 「屈辱」とまで言及する
人もいるかもしれない。
いずれにしても 日本においては中華思想はその差別主
義的言説のみ取り上げられて理解、説明されている。
しかし仮にも世界帝国となった中国王朝を支えた思想で
ある。単なる 排外思想、差別思想だけで説明されるべき
ではない。何らかの国際性 があったはずである。その
国際性について、これから歴史的に考察してみたいと
思う 》
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『本文』
書籍雑誌で学者、専門家、評論家などが「中華思想」の四字を引用して論証する例をよく見かける。読んで見ると、明らかに、誰のものでもない「中華思想」に属する。例を幾つか挙げてみる;
例えば、下記の通り;
例一、 「フランスが欧州防衛共同体に対し、反対の姿勢を取ったのは、 防衛は自分だけでやるべきもの、という古くからの 《中華思 想》に固執したためであった」
例二、 「魏略逸文のなかに、倭人が『自ら太伯の後といふ』とあり、伝 説上で呉の始祖とされる太伯の子孫を自称していた、と伝え られている。 しかし、これは中華思想にもとずくものとおも われ、そのまま受けとるわけにはいかない」
例三、 「ベトナム ー 漢字では越南だが、ベトナムでは名詞の後に形容 詞がくるから、日本流の語順に書けば「南越」になる。同国 の古文書でも、『越 ( 戦国時代に浙江省にあった ) の遺民の 子孫』と自称していた。信頼できないが、そのくらいどっぷ りと中国文化、中華思想に浸かり 込んでいた証拠には挙げら れよう」
以上三つの文例に出て来る「中華思想」とは、一つとして中国と直接係わりのあるものはない。にも拘らず、全てに「中華」の二字を冠している。明らかに、これらの「中華思想」は、誰のものでもない思想である。
例一の場合、「防衛は自分だけで」というのは、古くからの中華思想だと云う。しかし、何故それが中華思想なのか、説明はない。また、フランスが中華思想に固執したと云うが、何故フランスが中華思想に結び付くのかという説明もない。
例二は、倭人が『自ら太伯の後といふ』とあり、これは中華思想にもとずくものとおもわれる。と言うが、倭人と「中華思想」の結び付きは、如何にも可笑しい。
例三は、ベトナム史を紹介する本の冒頭に出ていたものだが、ベトナムの古史書の記載を、信頼できないものだと決め付け、その裏付けとして中国文化、中華思想を引合いに出している。ベトナムの古史書の記載がなぜ信頼出来ないのか、説明は一切ない。
何事によらず、理路整然と説明することが出来ない場合、列島では、「中華思想」の四字にこじつけうまく誤魔化して逃げることが可能だという標本をこれらの実例は見せているようなものである。丁度、昨今の文化人の論説に、何かにつけ「欧米」という二字の流行り言葉が頻繁に使われるのに極めて似ている。
一度、ニューヨークにある日系紙で、「欧米は魔法なり」という読者の投稿を読んだ事がある。次のような内容だった;
<< いつになったら、日本人は大人になれるのだろうか。
美しい自然とおいしい海山の幸に恵まれた先進国日本の人々は、「日本人に生まれてよかった」と言う。そのとおりだと思う。
一方で、日本人は外国に憧(あこが) れる。それは欧米に限っての 外国で ある。
『赤毛のアン』という本は世界中で読まれたが、集団でプリンスエドワー ド島に押しかけ、そこで結婚式を挙げるのは日本人だけである。
わけが分からんのは庶民だけかと思ったら、文化人が先頭に立って、そ のような気風を作り上げている。たとえば、車検や運転免許の更新につ いての発言、
『 欧米人には信じられないだろう。アチラでは車検などしない。自分の車は、自分でちゃんと走るように整備する』
これは、ちゃんとした肩書きの人物の「文芸春秋」紙上に於ける発言で ある。
私はニユーヨークに長年住んでいるいるが、毎年法令により車検を受け ている。すると、この方の言う「欧米」とは、どこのことだか分からな くなってくる。
何事によらず「日本ではこうだが、欧米ではああだ」と言えば、日本側 がおかしいと世間で受け取るから、不思議である。つまり、「欧米」の 二字は、列島同胞を「煙に巻く」魔術に他ならない >>
列島に於ける、学者専門家が口にする、「中華思想」という概念も、この「欧米」の二字に似て、はなはだ曖昧糢糊であるから、一般庶民の受け売りや巷説に至っては、荒唐無稽の内容にならざるを得ない。
それを又、膝を叩いて「そうだったのか!」と叫ぶ人がいるから、ますます列島は変な方向に向かって進み、「自分」が何者であるかという事を忘れてしまう。
誰のものでもあり、誰のものでもない「中華思想」を、列島で作り上げ、それを、中国産だと言う。それは、列島の土壌、又は、島人の気風、その何れによるものだろうか、という疑問になって残り、常に新鮮味を帯びて、時として、人々の目の前に現れて来る。
ある大学の、人文学部一年の神津という学生が、次のような疑問をウエブ上に載せていた;
《『中華思想』という言葉に大抵の人は良い感情を抱いていない。その思い上がりに反発を感じるからである。人によっては日本にとっての 「屈辱」とまで言及する人もいるかもしれない。
いずれにしても 日本においては中華思想はその差別主義的言説のみ取り上げられて理解、説明されている。
しかし仮にも世界帝国となった中国王朝を支えた思想である。単なる 排外思想、差別思想だけで説明されるべきではない。何らかの国際性 があったはずである。その国際性について、これから歴史的に考察してみたいと思う 》
「欧米」の二字にしろ、「中華思想」の四字にしても、それだけの二字、四字の熟語引用でもって、物事の「是」と「非」の根拠にする列島に普遍的な「短絡評論」に較べると、この大学一年在籍の学生が抱いている「疑問」は、「大人の思考力」を有する「疑問」である。
世界で最も教育の普及している国「日本」に、このような「大人の思考力」を持つ人が、果たしてどの位居るのだろうかと、時折思う事がある。