李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

  【 豚 、 食 う べ か ら ず 】   (下)   

2009-02-18 02:42:07 | Weblog

      ーー メ ル の 弁 舌   爽 や か  ーー

 

『抜粋』

「ならば、豚を食わないユダヤ人が人口倍増しないのはお

 かしいではないか」と、今度は彼と同じ論法で負けずに

 遣り返してみた。

 「それはね」、とメルは涼しい顔で、諭すように訳を話

 し始めた。

 「本来、人口倍増になるべきものだが、隠れて豚肉を食

 らう不届きなユダヤ人が結構居るため、今日、貴方が

 見るように、ユダヤ人口は一向に増えていない。如何

 に豚肉が不衛生であるか、これをもっても十分に理解

 ができる筈だ」

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

       『本文』 

 

ある日、メルと雑談した折、私はこの疑問を彼にぶっつけてみた。メルは事もなげに、「それは旧約書にある通り、不衛生だからだ」という。

 

「不衛生なら、中国人の人口膨張はありえない筈だ」と、私は息子の智慧をそのまま借用し、異論を挟んでみた。ところが、「豚をずっと食っていなければ、中国人の人口はいまの倍以上になっていた筈だ」とメルに軽くあしらわれてしまった。

 

成程、宗教に限らず、何かの道を説く立場に置かれた物知り先生ともなれば、道なき道を歩む術を身に付けなければ、権威を保つことは出来ないだろうし、また、なによりも沽券にかかわるようである。長年に亙って受けた訓練の賜物で、彼は、道なき道を切り開く術を十分心得ているようであった。

 

「ならば、豚を食わないユダヤ人が人口倍増しないのはおかしいではないか」と、今度は彼と同じ論法で負けずに遣り返してみた。

 

「それはね」、とメルは涼しい顔で、諭すように訳を話し始めた。

「本来、人口倍増になるべきものだが、隠れて豚肉を食らう不届きなユダヤ人が結構居るため、今日、貴方が見るように、ユダヤ人口は一向に増えていない。如何に豚肉が不衛生であるか、これをもっても十分に理解ができる筈だ」。「考えてみると、昔のユダヤ先覚は頭脳抜群で、誠に先見の明があった。現代医学は、人々に、脂っこい豚肉は体に良くないから食べないように戒めている。そのような医学知識を数千年昔のユダヤ人はすでに常識として知っていたんだから、我々の先祖が如何に恐るべき頭脳の持主であったか、実に想像を絶するものがる」。

 

説法に興味のない私に御構いなく、メルの弁舌はますます爽やかになっていく。だが、これ以上続けても、私の興味を引く話は彼の口から出て来そうにないので、「メル、話の次元がおかしくなって来たからもう止めましょう」と言って、私は豚肉に終止符を打ち、普通の雑談に切り換えた。

豚肉禁断の本当の訳は、相変わらず疑問のままで残った。

 

 ーー ラビ ソロモンの告白 ーー  

そのうち、ある日古本屋で、七十年代、日本で評判になった【ユダヤ人の戒律】という本が目についたので、好奇心にかられ、買って読んでみた。その中で、「戒律の役割」について、著者のラビ・ V M・ソロモンは、次のように述べていた。

 

  『 ユダヤ人の食事の戒律は、異民族から不思議な目をもってみられてきた。しかし、これはユダヤ人が二千年近くも世界中に離散しても、まだ一家 だったという秘密を解き明かすカギのひとつである。

私は、カトリックの僧侶を集め、ユダヤ教の食事に対する戒律を話したこと があった。 (中略) 講義してから、感想文を提出するようにいった。

ある一人の若い僧侶の感想文は、私に目を開かせた。

 「ユダヤ教の食事の戒律はカトリック教の僧院の役目を果している。カト    リック教を長く守ってきたのは、山の中か、あるいは町の中に高い塀をめぐらした僧院であった。僧院のなかでカトリック教の伝統や教義の研究が守られてきたので ある。

しかし、ユダヤ教の食事戒律は、ユダヤ人を他の人から分けるのに 強い力 をもっていたに違いない。それはちょうどカトリック教の僧院が、カトリック教とほかの宗教 を分けるのに役立ったのと同じことだろう」

私はこれを読んで、まことにそうだと思った 』

 

ユダヤ律法の先生である著者のラビ・ソロモンが、カトリック僧侶の感想文を読んで、「まことにそうだと思った」という。

つまり、旧約書がいう ーー豚は汚れたるものなりーー の説は、あまり当てにならないというアーサ爺の見解を裏付けていることになる。

 

豚肉禁断は、「ユダヤ人を他の人から分ける」ために、つまりユダヤ人独自の identity 確立が目的で、古代ユダヤの賢人は、それを信仰の戒律にした、というのが真実のようであり、「反芻せざれば、汚れたるものなり、その肉食うべからず」というのは、アーサー爺が言う「体裁のよい言い分である」に違いない。

 

ーー ミセス フリードマンも豚好き ーー 

 

いまロスの我が家のすぐ左隣りに、ミセス・フリードマンというご婦人が一人で住んで居る。偶然にも、年はアーサと同じ九十の高齢者であるが、いまだに乗用車を自分で運転して買物に出かける健康体。フリードマンの苗字で分かるように彼女もユダヤ人である。隣人になって間もなく、ミセス・フリードマンは、自分が豚肉を食べることを、私に漏らした。「健康に良いものを食べない訳がないでしょう」という。更に、彼女は、「口に出して言はないけど、この団地に住んでいるユダヤ人の七割方は豚を食べている筈だよ」とも教えて呉れた。

 

ニューヨークの嘗ての良き隣人 アーサー爺、ロスの新しい隣人ミセス・フリードマン。二人共に豚肉を好んで食べ、九十歳の高齢を迎えて、尚、かくしゃくとしている。

古い昔の言い伝えよりも、現世の活き証人のほうが、事実を雄辯に語っているようである。

ー 豚、大いに喰うべし なりと。


  【 豚 、 食 う べ か ら ず 】    (上)    

2009-02-18 02:19:51 | Weblog

     ーー 豚 カ ツ は 駄 目 ? --

 

世界中の人々の大好物である豚肉を、ユダヤ人は食べないという。勿体ない話である。

私の一家は、イスラエルに次いでユダヤ人の多いニューヨークに長年住んだことがある。その時分、マンハッタンの米国企業に勤めていた長男は、よく好物の豚カツ弁当を持参して出社していた。

 

ある日、同僚の若手ユダヤ人に、

「おい、豚肉は不衛生で体によくないから、食わんほうがいいよ」と言はれた。

好物の豚肉を食って六尺豊かに育った息子は、

「もし、それが事実なら、豚肉の大好きな中国人の人口は十二億に増える訳がないだろう」と答えて、相手を黙らしたそうだ。

 

ーー 旧約書の教え ーー

ユダヤ人が豚肉を食べないようになったのは、旧約書で「食事戒律」について、

「豚、蹄(ひずめ)分かれたるも、反芻(はんすう)せざれば、汚れたるものなり、その肉食うべからず」と書いてあった為らしい。

旧約書の云い分にそのまま従うなら、人間も反芻しないから、汚れたる動物のうちに入る。つまり、豚並みになってしまう。

 

ーー アーサ爺の識見 ーー

ニューヨークの我が家は、ユダヤ人地区にあったので、向う三間両隣は殆どユダヤ隣人だった。すぐ右隣は、七十余年前にコロンビヤ大を出た良識あるアーサ爺と女医の奥さんレイが住んで居た。アーサ爺と私は親子以上に年の開きがあるが、不思議と二人は非常にウマが合う。すぐ隣だから、よく顔が合う。会うと、止め処なく四方山話に花を咲かせる。

 

豚は汚れたるものだから食うべからず、という。その真相について、一度アーサ爺に意見をきいてみたところ、インテリ爺さんは、不衛生だから食べるなという言い伝えはあまり当てにならないと言う。

「よく考えてごらん、数千年前の古代人に、いまどきの衛生観念と知 識があったと思うかね。おそらく、なにか訳あって、古代ユダヤ人 は豚肉を禁断にした。不衛生だからというのは、後日付けた体裁のよい言い分であって、 本当の訳は誰も知らない筈だよ」

という爺さんの見解だった。

 

アーサご夫妻は、れっきとしたユダヤ人である。果たして豚肉を食べるかどうか。豚肉禁断の話題に触れたついでに、私は、アーサ爺にきいてみた。

「我々は宗教の狂信者ではないから、豚肉は好んで食べるよ」

ということだそうで、その後、我家が食料品店で買い求めた肉ギョウザを時々ご夫妻に分けて賞味して貰うことにした。その都度、お二人は「おいしかった、おいしかった」と言って喜ぶ。

 

ニューヨークにしばらく住みつくと、当世のニューヨーっ子ユダヤ人に中華グルメの常連が非常に多いことに気がつく、そして、少なからず驚かされる。その事実は、アーサ爺が言うように、豚禁断の不潔説が当てにならないことを、多くの現代ユダヤ人がよく心得ていることを如実に物語っているのではなかろうかと思う。

 

ーー NY から ロス へ ーー

ニューヨークに十数年住んだあと、私共一家は、前後左右の良き隣人たちに別れを惜しまれながら、暖冬を求めて、ロスアンゼルスに移住した。

ロスの閑静な所で見つけた格好なアパートの売り主が、最も典型的なコーン ( Cohn )という苗字が付いたユダヤ人であることを知って、私は、少なからず驚いた。ニューヨークの良き隣人アーサ爺も苗字はCohn だった。偶然とは言え、ユダヤ人がさ程多く居ないロスでまたコーン氏に出会うとは、私も余程ユダヤ人と縁があるらしく、二人は、初対面から旧知のような親近感をお互いに持ち、アパートの売買も一週間足らずで済ませて、私共一家はロスでまた、ユダヤ隣人に囲まれた環境で暮らすことになった。

 

ロスの新しい我家は、九十所帯ほどの小さなユダヤ人団地の中にある。住民は殆どがごく普通の市井人だが、中には、メルという一風変った住人も居る。八十年配のメルを始めて私に引き合せたのはサイという隣人だった。

「この人は世間万事なんでも知っているから、いろいろ教えて貰いなさい」、と言って、サイは彼を私に紹介した。

 

メルの祖父と親父は二代に亙りラビの職に付いた、所謂、由緒のある家柄で、彼も三代目を継ぐべく幼い時分からその道の厳しい訓練をずっと受けていた。ラビというのは、ユダヤ律法博士の称で、ユダヤ教の先生に当たる。そのような先生になる訓練をメルは成人になるまで受けたが、訳あってラビにならなかった。しかし、長年に亙って受けた知識訓練は残り、彼は物知りになったと、メル私に説明した。

 

「ユダヤ人豚肉禁断の本当の訳は誰も知らない筈だよ」とアーサ爺は言ったが、若しかしたら、メルは知っているかも知れない。

 

 つづく 、、、