ーー 股 間 に 袋 を 吊 っ て 、
つ い に 陥 落 ーー
『抜粋』 (1)
智に働けば角が立つ, 情に棹させば流される、
意地を通せば窮屈だ,
これは、明治の文豪夏目漱石の作品「草枕」の中に出て
いる、人口に膾炙している名言である。
意地を通せば窮屈だと漱石先生は言う。意地で、無謀な
太平洋戦争を起こして、日本は戦時中の「窮屈」な耐乏
生活、更に、今日のアジア諸国の反日感情の悩みに対す
る「窮屈」な思いを長年強いられて来た。
それは、国の意地が齎 ( もた ) らした 「窮屈」である
が、個人が意地ばかり通しても、結果は似たようなもの
で、村上氏などは、その良い例ではなかろうかと思う。
『抜粋』 (2)
村上氏の植木園は盆栽も手掛けている。「盆栽」は、限ら
れた窮屈な空間を利用して、豊かな生活の情緒を作り出す
為に創意工夫された芸術の一種である。
人びとに、豊かな情緒生活の材料を提供する仕事に生き甲
斐を求め続けて来た村上氏の日々も「豊か」であるべき筈
だが、氏は敢えて「窮屈」に甘んじている。それも、一寸
した窮屈ではなしに、掘っ立て小屋の中で自分の老躯を虐
( しいた) げている窮屈であるから、彼を知る人びとには
実に解し難い。
『抜粋』 (3)
ガダルカナル戦で日本軍は熾烈に戦ったが、結果は悲惨な
撤退を余儀なくなされた。村上氏も植木園の掘っ立て小屋
に立て籠って、果敢に奥さんに反抗したが、これもつい
に、撤退を余儀なくされるようになった。
ガダルカナルと言い、村上氏と言い、つまらぬ「意地」を
張る事の、如何に「窮屈」である事か、漱石の言葉を借り
るまでなく、まざまざと目の前に見せられた人生の貴重な
ヒト駒であった。
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『本文』
「ガダルカナル」の話から二週間ほど経って、私は又植木園に行き、色々氏と雑談した。村上氏の体調は常よりもずっと良く見えた。分かれ際、氏は「来週の水曜辺り、矢田さんを誘って、また三人でスシでも喰おうか」と言う。
矢田さんとは、私同様、時折植木園に姿を見せる同世代の女性の方で、三人の年齢を足すと二百十九歳になる、昭和ヒトケタの生き残り連である。同世代のせいか、非常にウマが合う。それに、年功のせいで、話題も豊富で、三人寄るとお喋りで夢中になり、時が経つのも、食事を取ることもよく忘れてしまう。
スシでもつまみながら、久しぶりに又雑談でもしよう、という氏の提案で、「矢田さんの連絡は貴方にお願いする」という氏の頼みを受け、週明け矢田さんに電話して承諾を取り付け、明くる日の火曜、その旨村上氏に伝えるべく電話したところ、思いがけなく、「二日入院してやっと自宅に戻った許りだ」という。
なんでも、数日前、体が異常に怠( だる) いので医者に診て貰ったところ、心臓が非常に弱っていることが判明、医者の指示で即刻入院してペース メーカーを取り付けたそうだ。三日目退院し、自宅に戻って、やれやれと思たのも束の間、その晩、小便が出なくなり、一晩中四苦八苦で顛倒、翌朝、医者の所へ駆け込んだ所、今度は、尿道に管を通され、股間に袋を吊るすような憐れなことになってしまったそうで、「もうスシどころの騒ぎでないよ」という氏の話であった。
無理の積み重ねが溜り過ぎ、一度に爆発したような感じの氏の話だった。
智に働けば角が立つ, 情に棹させば流される、
意地を通せば窮屈だ,
これは、明治の文豪夏目漱石の作品「草枕」の中に出ている、人口に膾炙している名言である。
意地を通せば窮屈だと漱石先生は言う。意地で、無謀な太平洋戦争を起こして、日本は戦時中の「窮屈」な耐乏生活、更に、今日のアジア諸国の反日感情の悩みに対する「窮屈」な思いを長年強いられて来た。
それは、国の意地が齎 ( もた ) らした 「窮屈」であるが、個人が意地ばかり通しても、結果は似たようなもので、村上氏などは、その良い例ではなかろうかと思う。
村上氏の植木園は盆栽も手掛けている。「盆栽」は、限られた窮屈な空間を利用して、豊かな生活の情緒を作り出す為に創意工夫された芸術の一種である。
人びとに、豊かな情緒生活の材料を提供する仕事に生き甲斐を求め続けて来た村上氏の日々も「豊か」であるべき筈だが、氏は敢えて「窮屈」に甘んじている。それも、一寸した窮屈ではなしに、掘っ立て小屋の中で自分の老躯を虐 ( しいた) げている窮屈であるから、彼を知る人びとには実に解し難い。
戦後六十余年、日本から遠く離れた異郷の小さな植木園で、「ガダルカナル島の熾烈な戦い」を偲ぶ村上氏の言葉に、島国日本の「意地」という、魂の名残りを、改めて目の辺りに見せ付けられたようであった。
しかし、股間に袋を吊らざるを得なくなったら、もうこの先、辛抱の出来る限界は知れている。勿論、熟女を交えてスシを楽しむ事など望めようがない。そう思って、スシは諦( あきら) め、「くれぐれもお大事に」と言って、電話を切った。
その後、しばらくして、久し振りに植木園に寄ってみた。入り口は閉まっていて植木園に人影は見えなかった、星条旗も見えない。ああ、やっぱりなあー、と思った。念の為、植木園のすぐ傍にある、氏がずっと寝泊まりしていた長屋の戸を叩いてみた所、意外にも、姿を現したのは氏ではなく奥さんだった。
「おや、暫くですね」という挨拶の跡に、奥さんの口から出たのは、「もう、閉園しましたよ」という、私が予期していた一言だった。続いて、「今、娘が面倒を見ています」という現状の簡単な説明があった。
村上氏の奥さんはお年だけれども、非常にお元気で、氏に五月蝿いと言われながらも、よく植木園に来て手伝っていた。閉園後、氏は本宅に戻って、奥さんに面倒を見て貰うのが筋だと思うが、そうではなく、自宅からかなり離れた一人娘の嫁入り先に老後の身を横たえ面倒を見て貰うということは、意地でも奥さんに面倒を見て貰いたくないという事でしょう。かなりの意地である。
ガダルカナル戦で日本軍は熾烈に戦ったが、結果は悲惨な撤退を余儀なくなされた。村上氏も植木園の掘っ立て小屋に立て籠って、果敢に奥さんに反抗したが、これもついに、撤退を余儀なくされるようになった。
ガダルカナルと言い、村上氏と言い、つまらぬ「意地」を張る事の、如何に「窮屈」である事か、漱石の言葉を借りるまでなく、まざまざと目の前に見せられた人生の貴重なヒト駒であった。
全文完