李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【 ロスにも在った 「 ガ ダ ル カ ナ ル 島 前 線 」 】     第三話          

2011-09-23 20:49:33 | Weblog

     ーー 股 間 に 袋 を 吊 っ て 、

          つ い に 陥 落  ーー

 

『抜粋』 (1)

   智に働けば角が立つ, 情に棹させば流される、

   意地を通せば窮屈だ,

 これは、明治の文豪夏目漱石の作品「草枕」の中に出て

   いる、人口に膾炙している名言である。

 意地を通せば窮屈だと漱石先生は言う。意地で、無謀な

   太洋戦争を起こして、日本は戦時中の「窮屈」な耐乏

   生活、更に、今日のアジア諸国の反日感情の悩みに対す

   る「窮屈」な思いを長年強いられて来た。

 それは、国の意地が齎 ( もた ) らした 「窮屈」である

 が、個人が意地ばかり通しても、結果は似たようなもの

 で、村上氏などは、その良い例ではなかろうかと思う。

 

『抜粋』 (2)

 村上氏の植木園は盆栽も手掛けている。「盆栽」は、限ら

 れた窮屈な空間を利用して、豊かな生活の情緒を作り出す

 為に創意工夫された芸術の一種である。

 人びとに、豊かな情緒生活の材料を提供する仕事に生き甲

 斐を求め続けて来た村上氏の日々も「豊か」であるべき筈

 だが、氏は敢えて「窮屈」に甘んじている。それも、一寸

 した窮屈ではなしに、掘っ立て小屋の中で自分の老躯を虐

 ( しいた) げている窮屈であるから、彼を知る人びとには

 実に解し難い。

     

『抜粋』 (3)

 ガダルカナル戦で日本軍は熾烈に戦ったが、結果は悲惨な

 撤退を余儀なくなされた。村上氏も植木園の掘っ立て小屋

 に立て籠って、果敢に奥さんに反抗したが、これもつい

 に、撤退を余儀なくされるようになった。

 ガダルカナルと言い、村上氏と言い、つまらぬ「意地」を

 張る事の、如何に「窮屈」である事か、漱石の言葉を借り

 るまでなく、まざまざと目の前に見せられた人生の貴重な

 ヒト駒であった。

 

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『本文』 

 

「ガダルカナル」の話から二週間ほど経って、私は又植木園に行き、色々氏と雑談した。村上氏の体調は常よりもずっと良く見えた。分かれ際、氏は「来週の水曜辺り、矢田さんを誘って、また三人でスシでも喰おうか」と言う。

矢田さんとは、私同様、時折植木園に姿を見せる同世代の女性の方で、三人の年齢を足すと二百十九歳になる、昭和ヒトケタの生き残り連である。同世代のせいか、非常にウマが合う。それに、年功のせいで、話題も豊富で、三人寄るとお喋りで夢中になり、時が経つのも、食事を取ることもよく忘れてしまう。

 

スシでもつまみながら、久しぶりに又雑談でもしよう、という氏の提案で、「矢田さんの連絡は貴方にお願いする」という氏の頼みを受け、週明け矢田さんに電話して承諾を取り付け、明くる日の火曜、その旨村上氏に伝えるべく電話したところ、思いがけなく、「二日入院してやっと自宅に戻った許りだ」という。

 

なんでも、数日前、体が異常に怠( だる) いので医者に診て貰ったところ、心臓が非常に弱っていることが判明、医者の指示で即刻入院してペース メーカーを取り付けたそうだ。三日目退院し、自宅に戻って、やれやれと思たのも束の間、その晩、小便が出なくなり、一晩中四苦八苦で顛倒、翌朝、医者の所へ駆け込んだ所、今度は、尿道に管を通され、股間に袋を吊るすような憐れなことになってしまったそうで、「もうスシどころの騒ぎでないよ」という氏の話であった。

 

無理の積み重ねが溜り過ぎ、一度に爆発したような感じの氏の話だった。

        智に働けば角が立つ, 情に棹させば流される、

   意地を通せば窮屈だ,

これは、明治の文豪夏目漱石の作品「草枕」の中に出ている、人口に膾炙している名言である。

 

意地を通せば窮屈だと漱石先生は言う。意地で、無謀な太平洋戦争を起こして、日本は戦時中の「窮屈」な耐乏生活、更に、今日のアジア諸国の反日感情の悩みに対する「窮屈」な思いを長年強いられて来た。

それは、国の意地が齎 ( もた ) らした 「窮屈」であるが、個人が意地ばかり通しても、結果は似たようなもので、村上氏などは、その良い例ではなかろうかと思う。

 

村上氏の植木園は盆栽も手掛けている。「盆栽」は、限られた窮屈な空間を利用して、豊かな生活の情緒を作り出す為に創意工夫された芸術の一種である。

人びとに、豊かな情緒生活の材料を提供する仕事に生き甲斐を求め続けて来た村上氏の日々も「豊か」であるべき筈だが、氏は敢えて「窮屈」に甘んじている。それも、一寸した窮屈ではなしに、掘っ立て小屋の中で自分の老躯を虐 ( しいた) げている窮屈であるから、彼を知る人びとには実に解し難い。

 

戦後六十余年、日本から遠く離れた異郷の小さな植木園で、「ガダルカナル島の熾烈な戦い」を偲ぶ村上氏の言葉に、島国日本の「意地」という、魂の名残りを、改めて目の辺りに見せ付けられたようであった。

 

しかし、股間に袋を吊らざるを得なくなったら、もうこの先、辛抱の出来る限界は知れている。勿論、熟女を交えてスシを楽しむ事など望めようがない。そう思って、スシは諦( あきら) め、「くれぐれもお大事に」と言って、電話を切った。

 

その後、しばらくして、久し振りに植木園に寄ってみた。入り口は閉まっていて植木園に人影は見えなかった、星条旗も見えない。ああ、やっぱりなあー、と思った。念の為、植木園のすぐ傍にある、氏がずっと寝泊まりしていた長屋の戸を叩いてみた所、意外にも、姿を現したのは氏ではなく奥さんだった。

 

「おや、暫くですね」という挨拶の跡に、奥さんの口から出たのは、「もう、閉園しましたよ」という、私が予期していた一言だった。続いて、「今、娘が面倒を見ています」という現状の簡単な説明があった。

 

村上氏の奥さんはお年だけれども、非常にお元気で、氏に五月蝿いと言われながらも、よく植木園に来て手伝っていた。閉園後、氏は本宅に戻って、奥さんに面倒を見て貰うのが筋だと思うが、そうではなく、自宅からかなり離れた一人娘の嫁入り先に老後の身を横たえ面倒を見て貰うということは、意地でも奥さんに面倒を見て貰いたくないという事でしょう。かなりの意地である。

 

ガダルカナル戦で日本軍は熾烈に戦ったが、結果は悲惨な撤退を余儀なくなされた。村上氏も植木園の掘っ立て小屋に立て籠って、果敢に奥さんに反抗したが、これもついに、撤退を余儀なくされるようになった。

 

ガダルカナルと言い、村上氏と言い、つまらぬ「意地」を張る事の、如何に「窮屈」である事か、漱石の言葉を借りるまでなく、まざまざと目の前に見せられた人生の貴重なヒト駒であった。

                                                         全文完 

                                                             


【 ロスにもあった 「 ガ ダ ル カ ナ ル 島 前 線 」 】   第二話

2011-09-23 02:42:08 | Weblog

     ーー 東 風 ( こ ち )  吹 か ば  ーー

        

       東風( こち) 吹かば にほひおこせよ梅の花

      主なしとて 春を忘るな

 

一度、紅梅が欲しくなったので、彼の植木園に行った時、「昔の日本人は梅をこよなく愛したね」と言って、氏は藤原道真が千年の昔に詠んだ有名な歌をすらすらと読み上げ、私を驚かした。又、私の読書趣味を知って、掘っ立て小屋の棚から本を一冊抜き取り、「これ貸して上げる」と言って渡して呉れた事もある。有吉佐和子の「恍惚の人」だった。

 

村上氏は無粋な人間ではない。それどころか、非常に話せる人である。彼の植木園は規模が小さいせいか、訪れる人はさ程多くない。その多くない来園者のほぼ半数は、植木が目当てではなしに、彼と雑談をする為にやって来る。それなりの人徳があるから、人が寄って来るのだろう。

 

氏は、還暦を過ぎても、古稀を迎えた後になっても、常に「又、一旗揚げたい」という考えを持っていたと、私に漏らしたことがある。そのような意気込みとは裏腹に、氏の健康状態は目に見えて悪化の一途を辿っている。氏は何年か前久し振りに帰国した際、故里の知人、友人から綺麗に染め上げた大きい「豊漁の旗」を一枚贈られた。「異郷で一旗揚げたら、この旗を立てなさい」と云って激励されたという。その旗を、氏は掘っ立て小屋の中の棚から取り出して私に見せたことがある。私に見せた「豊漁の旗」を再度畳んで仕舞い込む時、氏の面持ちには、淡い「郷愁」が漂っていた。すでに喜寿を迎え、体調が思わしくない氏は、明らかに、「又、一旗揚げる」夢が叶( かな) えないことを知っていたのだろう。

 

一旗揚げるというのは、具体的に、どの程度の事業、あるいは、成功を遂げれば良いのか、これといった基準は無い。しかし、異郷で、苦労努力し、経済的に完全自立が出来、自分の事業を持つことが出来るようになった。これは立派な成功である。しかし、氏には「又、一旗揚げたい」とう未練が残っている。

 

二年余り前、突然、植木園の中に旗の掲揚台を作った。或いは、何時の日か、この「豊漁の旗」を高高と揚げる積りで作ったのかも知れない。だとすれば、「星条旗」に変わったのは、氏の本心ではなかったということも考えられる。

 

氏は雑談の最中に、「昔の日本」「昔の日本人」というような表現をよく使う。その「昔」というのは、明治開化による「日本」の近代化を振り返って見る場合が多い。

ペリーの黒船に代表される「米国」の外圧を受け、鎖国日本は一転して明治の開化に踏み切り、日露、日清戦を経て、形ばかりの「世界一等国」になった。この短期間の激変を、手放しで喜ぶ人もおれば、あれは、災いのもとだと言う人もいる。

 

日露戦役、日清戦争、この二つの戦いは、共に、国家間の総体的な戦争ではなく、局部の戦 ( いくさ) であった。日本はその局部の戦に勝った。しかし、国と世論の誤導により、「ロシヤ」と「清」いう世界の二大大陸国に、全面的に戦勝したものだと、日本の国民は有頂天になり、もうこれで、世界に敵なしだと、とんでもない勘違いをして、間もなく、更なる大国「米国」に戦いを挑むこととなった。

結果は、原爆により、戦に敗け、国土は殆んど廃墟と化した。原爆投下は誠に不道徳な行為である。しかし、原爆の投下が無かったら、日本は一億総玉砕になるまで戦い抜き、国は亡びていたであろう。「ガダルカナル島の熾烈な戦い」、続く「悲惨な敗退」も、このような誤算の元に生じた「無謀な戦い」の結果であった。

 

その裏には「負け嫌い」という性格によって培われた「意地」が大きく作用しており、「勝つ」か「負ける」か、の二極志向の国民性を造成し、「負ける」ということは即ち「死」の道に至るという思い詰めた国民心情の形成に繋がるようになった。

 

村上氏が奥さんの思いやりを無視して、冷房器の取り付けを頑として拒否した。

その拒否の口実に六十年余り前の「熾烈なガナルカナルの戦い」を引き合いに出した。明らかに、意地を張っている。その意地は危ない所で国を亡ぼすものだった。

 

今の氏に取って、奥さんの思いやりを素直に受けるのは、即ち「負け」を意味する。それだったら、意地を通し、「耐え難き」を耐えていくしかないのだろう

                   つづく、、、、


【 ロスにも在った 「 ガ ダ ル カ ナ ル 島 前 線」 】     第一話

2011-09-22 11:31:52 | Weblog

       ーー  時は二〇〇五年  ーー

 

『抜粋』(1)

 村上氏の植木園は米国の加州にある。その植木園の入口の

 傍に、二年余り前、氏はセメント作りの高い旗の掲揚台を

 建造した。何に使うかなと思っていたら、そのうち、

 「星条旗」が毎日掲揚されるようになった。その星条旗を

  見上げながら、氏は私にこう語ったことがある。

「おらの兄貴も此方に居る。その兄貴は、死んだら自分の

 骨を日本に持って帰り、生まれ育った故里に埋めるよう

   家族の者にはっきり言い渡してあるが、わしはこの地に

   骨を埋める、から、すでに墓地の手当てもちゃんと済ま

   している」。

 

『抜粋』 (2)

 昭和の始め日本に生まれ、戦前、戦中を通してずっと日本

 で生きて来た彼は、四十余年前に渡米し、人生の後半を過

 ごした米国という異郷に骨を埋めると言う。そう言うから

 には、彼は米国がかつての敵国であったという意識はもう

 無くなっているか、あるいは、かなり薄れてしまったもの

 だと思われる。そして、官庁でもない、学校会社でもない

 小さな植木園に、彼は「星条旗」を高々と揚げている。

  掲揚台と掘っ立て小屋は僅か十五メートルほどしか離れて

 いない。蒸し風呂のような掘っ立て小屋の真正面に、星条

 旗が旗めいている、そこで、昔の軍国精神を思い起こす

 「ガダルカナル激戦の兵隊さんの苦労を思ったら、、、」

 という話を、彼の口から聞いた。 私は、「そんな無茶な

 話で奥さんの好意に報いるのは、不味いね」と答えるしか

 無かった。

 

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 『本文』【ロスに在った「ガダルカナル島前線」】 第一話 

       ーー 時は二〇〇五年 ーー

 

過日、懇意の植木屋に又ぶらりと立ち寄った。

主人の村上さんは、私の顔を見るなり、まず体の不調を訴え、そして、「昨夜、言わなくてもよいことを口にして、又、女房と喧嘩した」という。

 

氏は昭和の初頭生まれで、今、俗に言われる「古い世代」の人間に属する。お年だから、体にかなりガタが来ている。この所、訪ねる度に、顔や足にむくみがあったり、体の調子が良くないことを訴える。それで、「もう喜寿だから、隠居されたらどう?」と勧めても、首を横に振る。

偶に、奥さんと顔を合わせた時に、その話をすると、「そうなんですよ、家中の者も勧めるんですが、仕事をやめたら、外にすることがなく、退屈するのが嫌だと云って聞かないんです」、「本人はそれで好いでせうけど、身内の者が大変ですわ」、と奥さんも困っている。

 

色々と主人の健康が気になる奥さんを、彼は、「五月蝿い」という。奥さんは奥さんで、一生苦労し、子供達もそれぞれ自立して家庭を持ち、経済的にゆとりも出来たので、残り少ない老後を楽に過ごしたいという。しかし、主人には全くそのような積りはなく、諍( いさか) いが絶えないので、二年程前から、奥さんは一戸建ての本宅に住み、主人は植木園の傍にあるちっぽけな長屋で寝起きし、昼間は植木園の中にある掘っ立て小屋で一日を過ごす別居生活を始めた。

 

人間、幾ら気丈夫であっても、寄る年波でガタが来るのは避けられない。村上氏は二年程前に心臓の病で大手術をした。本来なら長期静養を必要とする体を、病後、彼はトタン張りの掘っ立て小屋に預けた。

 

真夏の掘っ立て小屋は、蒸し風呂に等しい。その中に老体を預けて、健康状態が良好に保てる訳がない。ますます下り坂に向かう主人の体調を見るに見兼ねて、奥さんが冷房器を買って掘っ立て小屋に取り付けようとしたところ、氏はそれを拒否した。

「太平洋戦争の、ガダルカナル島の熾烈な戦い、その時の兵隊さんの苦労を偲んだら、冷房器なんか使えるか」

というのが、氏の言い分であった。

頭に来た奥さんは、「又、ああいうことを言う」と云って怒り出す。そうなると、売り言葉に買い言葉だから、冷房器どころの騒ぎではない。又しても、折角の好意の果てが喧嘩分かれになる。

 

これが、冒頭に出ていた、「昨夜、言わなくてよいことを口にした」と氏がしんみりと漏らした一言の内容であった。この一言に、彼が自分の非を認めた後悔の念がにじんでいた。しかし、彼は間違った拒否を撤回するつもりは毛頭無い。

 

村上氏の植木園は米国の加州にある。その植木園の入口の傍に、二年余り前、氏はセメント作りの高い旗の掲揚台を建造した。何に使うかなと思っていたら、そのうち、「星条旗」が毎日掲揚されるようになった。その星条旗を見上げながら、氏は私にこう語ったことがある。

 

「おらの兄貴も此方に居る。その兄貴は、死んだら自分の骨を日本に持って帰り、生まれ育った故里に埋めるよう家族の者にはっきり言い渡してあるが、わしはこの地に骨を埋める、だから、すでに墓地の手当てもちゃんと済ましている」

 

昭和の始め日本に生まれ、戦前、戦中を通してずっと日本で生きて来た彼は、四十余年前に渡米し、人生の後半を過ごした米国という異郷に骨を埋めると言う。そう言うからには、彼は米国がかつての敵国であったという意識はもう無くなっているか、あるいは、かなり薄れてしまったものだと思われる。そして、官庁でもない、学校会社でもない小さな植木園に、彼は「星条旗」を高々と揚げている。

 

掲揚台と掘っ立て小屋は僅か十五メートルほどしか離れていない。蒸し風呂のような掘っ立て小屋の真正面に、星条旗が旗めいている、そこで、昔の軍国精神を思い起こす「ガダルカナル激戦の兵隊さんの苦労を思ったら、、、」という話を、彼の口から聞いた。 私は、「そんな無茶な話で奥さんの好意に報いるのは、不味いね」と答えるしか無かった。

 

本人もそれに気が付いているが、それでも我を通すつもりでいる。我を通す性分でますます自分を窮地に追い込み、掘っ立て小屋に立てこもり困っている。

 

村上氏のような性格の人間を世間では俗に「頑固一徹な人間」と称しているようだが、このような類型の人間は、世の中に沢山居る。単にそういう意味だけで、取り立てて彼を取り上げて論じることはないと思うが、この逸話には、「ガダルカナル島の戦い」という六十年前の過去を引き出して、目前の窮地に立たされた自分の頑固を通す言い訳に使うという「時間的な超越」がある外に、起きた場所が、意外にも、日本ではなく、米国だったという「空間的矛盾」が重なっている。

                  つづく、、、、

 

 


 【  作 家 の 名 前 と 時 代 性  】      

2011-09-12 08:12:53 | Weblog

                   ーー 文 学  と  漫 画  の 間  ーー

 

抜粋』 (1)

 鴎外 森 太郎、漱石 夏目金之助、荷風 永井壯吉 、 紅葉 尾

 崎徳太郎、などのような文士名から感じられるのは、軍医

   としての森 太郎と文士としての森 鴎外という同一人間の

    二面性である。文学者夏目漱石が借金証書に署名する時は

    夏目金之助になる。鴎外、漱石から感じられる風流で独特

    な味わい、このような風情を表現可能にしたのは、漢字と

    いう表意文字に外ならない。オウガイ、ソウセキでは出し

    ようのない雰囲気である。

 

『抜粋』 (2)

 明治、大正時代に較べ、当世の列島人は、一般に然程文

  学というものに興味を持っていない。寧ろ、漫画物を好

  む人が増える傾向にある。

 考えてみると、「風情」と「個性」の欠落した文士の作

  品から、伝統的な日本文学の特徴である、きめ細かい

 「喜怒哀楽」の情緒を感じとる事は到底無理である。人

   びとが文学から遠ざかり漫画物に興味を感じる原因はそ

   のところにあるのではないか、と思う。

 

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                  『本文』   

 

正宗白鳥の作品 「近松秋江 ーー 流浪の人」の文中に、明治時代の文士、作家名が数多く頻繁に出て来る。順を追って拾い上げてみると、次のようになる。

 

田山花袋、 徳田秋声、森鴎外、浮田和民、樋口一葉、坪内逍遥、島村抱月、高山樗牛、 厳谷小波、坪谷水哉、長谷川天渓、江見水蔭、小杉天外、水口薔陽、東儀鉄笛、土肥春曙、林田春潮、滝田哲太郎、馬場孤蝶、二葉亭四迷、伊原青青園、中島孤島、後藤宙外、泉鏡花、尾崎紅葉、幸田露伴、小栗風葉、岩野泡鳴、与謝野鉄幹、夏目漱石、滝田樗蔭、島崎藤村、齊藤緑雨、国木田独歩、柳川春葉、広津柳浪、川上眉山、内田魯庵、大町桂月、塚原渋柿園、永井荷風、小波眉山、西村酔夢、小山内薫、小川未明、ーー馬琴、野上臼川( 野上豊一郎 )、田中王堂、千葉鉱蔵、長田幹彦、上司小剣、などなど。

 

数えてみると、優に五十を越している。書物に親しむ人は、これらの文士名を目の前にして、何を感じるのだろうか。恐らく、風情がある、そして、個性的である。この二つの印象に集約されるのではないか。

前者は、秋声、一葉、逍遥、抱月、春曙、鏡花、紅葉、露伴、桂月、風葉、春葉、荷風、酔夢、魯庵、などに依って代表され、後者は、樗牛、天外、鉄笛、宙外、鉄幹、漱石、独歩、渋柿園、王堂、小剣、などに依って代表されると思う。

表意文字の漢字だから、一見して直ちにそのような感知が可能で、表音文字なら、そのように伝わっては来ない。

 

文学には、国柄や民族の違いにより、色々と異なる特色があるようだが、日本文学の主な理念とされているのは、「物の哀れ」であると良く言われる。主観的であって、哀感が強いという特色を持っている。

このような特色を持つ文学の表現に表意文字は欠かせない。と言うよりも。表意文字を基盤にして来たから、そのような特色が育( はぐく) まれるようになった、と言う方が適切なかも知れない。

 

日本の文学に付いて語るとき、人々は得てして明治から語り始める。明治文学は作者が重厚な漢籍の素養を元に、豊富な漢字を駆使して書き上げた作品が多いという特徴を有する点では、昭和文学は遠く及ばず、況して、平成以降よりますますその距離は広まる一方になるのは避けられない。だから、日本文学にふれると人々は重点的に明治文学を取り上げて語る。

その明治文学も、今はすっかり人々の書斎から遠ざかり、目にすることも稀れになって来た。

 

昭和一ケタ生まれの私は、給料取りながらも、人並みに「読書」が趣味の一つになっている。しかし、前記の五十を越す明治作家の作品で、目を通したことがあるのは、十指にも満たない。それどころか、その存在すら知らなかった作家名が十八人もいた。

 

上司小剣、などは勿論始めて見る作家名であるが、個性の強い感じがする筆名なので、好奇心にかられ、白鳥の著書に記載している注解を見てみた。

明治七年 ー 昭和二十二年 ( 1865 ー 1950 ) 小説家。本名延貴。当時、読売新聞記者。のち作家に転じ、自然主義から社会主義的作風に移った。「(魚豊) ( れい ) の皮」「新聞年代記」などがある。

 

ところが、見たこともない作家名だ、とばかり思っていた上司小剣の作品を、前に読んだことがあるのにある日偶然気が付いた。

昭和四十六年麦書房出版の 「雨の日文庫」というのがある。現代日本文学の短篇を集めたもので、全六集の最終である第六集の「大正編」が本棚にある。本棚にあるということは、自分が嘗て購読した本である。

最近、本棚を整理している時に、この「雨の日文庫」を再度読み返してみようと思って取り出した。

 

この文庫は一集毎に、二十の作家の短篇を、それぞれ一つの小冊子に分けており、一冊毎のページが三十枚程度のものだから、気軽に読める。特に、寝そべって読むのに便利である。自分は、夜、床に入ってからも本を読む癖が若い時分からあった。それは未だに変わらないが、読む対象が、年を取るごとに長篇から短篇、分厚い本から薄っぺらな本を好むように変わりつつある。体力の衰えによるもので致し方がない。それで、小冊子の「雨の日文庫」を本棚から下ろし、枕元に移した。

 

この「大正編」の第一冊は夏目漱石の「夢十夜」「変な音」「クレイグ先生」に始まり、以下総勢二十の作家を二十の小冊子に分けて網羅していた。

島崎藤村、森鴎外、志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎、野上弥生子、芥川竜之介、菊池寛、田山花袋、葛西善蔵、豊島与志雄、広津和郎、佐藤春夫、宇野浩二、小川未明、上司小剣、正宗白鳥、室生犀星、木下杢太郎、平沢計七、細井和喜蔵、荒畑寒村、宮地嘉六、宮島資夫。それに、小田切秀雄の「解説」が付いていた。

 

久しぶりに、この目次に目を通し、上司小剣も小川未明も、前に読んだことがある。それに思いがけなく気が付いて、はっとした。

この文庫で読んだ上司の作品は、「新しき世界へ」と「分業の村」、二つの短篇だった。それらは、昭和初期の社会主義風潮を反映する内容であった。

 

読書は、園芸や音楽などの趣味と同様に、現実社会からの、暫しの逃避と憩いのためにある、という一面の作用がある。そのような一面に重点を置く読書であれば、社会主義の作品は、逆に、現実社会に引き戻し、面と向かはせるようなものだから、是と非、或いは、善し悪しを抜きにして、一般人の趣味としての読書としては、必ずしも好ましい性格の作品ではないだろう。そのせいか、上司や小川未明の作品を読んだことがあるにも拘らず、印象に残っていない、原因は、そのところにあるような気がする。

 

自分は、「雨の日の文庫」の第六集しか持っていないが、付録の目次を見てみると、第五集が「昭和戦前編」、第四集が「昭和戦中戦後編」になっている。その目次には、この二集の作品も全て載っている。それらの作家名を一覧すると、明治、大正時代とかなり趣 ( おもむき ) が違う。以下に列挙してみる。

 

「昭和戦前編」 ーー 葉山嘉樹、小林多喜治、黒島伝治、山内謙吾、横光利一、川端康成、梶井基次郎、牧野信一、坂口安吾、林芙美子、佐多稲子、壷井栄、嘉村(石義)多、武田麟太郎、島木健作、本庄陸男、木山捷平、新田潤、荻原朔太郎、堀辰雄、広津和郎、阿部知二、金史良、中野重治、伊藤永之介、徳永直、井伏鱒二、伊藤整、上林暁、外村繁、太宰治、田中英光、( 解説者) 和泉あき。

 

「昭和戦中戦後編」 ーー 伊藤整、壷井栄、国分一太郎、由紀しげ子、余寧金之助、野間宏、大岡昇平、長谷川四郎、島尾敏雄、田宮虎彦、山代巴、耕治人、大田洋子、いぬい とみこ、阿部知二、井伏鱒二、佐多稲子、中野重治、上林暁、金達寿、西野辰吉。

 

以上、列挙し終えて、自分でも少々物好きの度が過ぎるのではないかと思って、苦笑したが、同時に、現実的で、在り来たりの名前が多く、風情のある、個性的な文士名が流行った、明治大正時代との明白な違いに、改めて驚きを禁じ得なかったことも事実である。

この移り変わりは、勿論、社会的、並びに文化的な変化を物語っているものであるが、その筋道は何だろうかと思う。

 

鴎外 森 太郎、漱石 夏目金之助、荷風 永井壯吉 、 紅葉 尾崎徳太郎、などのような文士名から感じられるのは、軍医としての森 太郎と文士としての森 鴎外という同一人間の二面性である。文学者夏目漱石が借金証書に署名する時は夏目金之助になる。鴎外、漱石から感じられる風流で独特な味わい、このような風情を表現可能にしたのは、漢字という表意文字に外ならない。オウガイ、ソウセキでは出しようのない雰囲気である。

 

今から二千年もの昔の唐土の詩人 李白、白居易などは今日の日本でも良く知られ、親しまれている。彼等にはそれぞれ 「李太白」「白楽天」という字がある。白居易などは日本で寧ろ「白楽天」と称される場合が多い。鴎外、漱石みたようなものである。森太郎、金之助と言ってもピンと来ない。

日本で最も良く知られていれる現代中国の文士 魯迅、これも筆名であり、本名は 周作人という。

 

明治、大正時代に較べ、当世の列島人は、一般に然程文学というものに興味を持っていない。寧ろ、漫画物を好む人が増える傾向にある。

考えてみると、「風情」と「個性」の欠落した文士の作品から、伝統的な日本文学の特徴である、きめ細かい「喜怒哀楽」の情緒を感じとる事は到底無理である。人びとが文学から遠ざかり漫画物に興味を感じる原因はそのところにあるのではないか、と思う。