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Nikkoh の 徒然日記

ゲイ(=男性同性愛者)の Nikkoh が、日々の雑感やまじめなこと、少し性的なことなどを、そこはかとなく書きつくります

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ゲイ(男性同性愛者 / ホモセクシュアル)の Nikkoh が、徒然なるままにいろいろ書いてます。
マスキュリズム / メンズリブ にも関心があり、調べたり考えたりしています。
※ マスキュリズム(masculism) = 男性に対する性差別(男性差別)の撤廃を目指す思想・運動。フェミニズムの対置概念とされますが、僕は、並置概念と言いたいと思っています

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オタク気質と対人関係 ~来る者拒まず、去る者追わず~

2015-12-30 21:25:15 | 僕のこと
エニアグラム という性格類型論がある。これでいくと、僕は タイプ5 にあたるらしい。
書籍やwebサイトによってバラツキがあるが、たとえば、
「調べる人」「観察する人」「考える人」「準備する人」「研究者」「傍観者」
などと表現される。

先日読んだ以下の記事は、共感できる部分が多くあった。

1人が好きで「自分はつまらない人間だ」と思ってる人たち

「僕も同じだ」と何度も思いながら読み進めていくと、エニアグラムのタイプ5について述べたものだったということが分かった。
そして、やはりそうなのかと思った。なんだか腑に落ちた。

僕は、一人の時間をとても大切にしている。
他者への思いが一番募るのは、一人の時間だ。一人きりになって、その人と話したことやらその人と一緒にした行動やら、諸々を反芻する時間だ。
人と会った後は、必ず一人になりたくなる。その相手が大切な存在であればあるほど。

お祭騒ぎが好きじゃなくて、たいてい輪には加わらない。少し離れたところから、時にほほえましく思いながら、時に呆れながら、見守っている。
小中学生の頃は、行事やレクリエーションが、基本的にあまり好きじゃなかった。

ワーッと盛り上がるより、じっくりしっとり語り合うのが好き。できれば少人数で。それも、共通の興味・関心を持つ人とともに。
そういう場でならば、饒舌になれる。

話題がコロコロと変わるような、とりとめもない世間話がちょっと苦手。何を話したらいいのだか分からなくなることも多い。考えているうちに、次から次へと話題は変わっていく。
そういう場では、ひたすら無口でいる。いや、結果的に無口になってしまうというのが正しいのかもしれない。

あるときは饒舌で、あるときは無口だから、どちらの姿も見た人は、ギャップに驚くのだろう。実際に、それを伝えてくれた人が何人か居る。

オタク気質で、対人関係に悩んだり煩わされたりすることも多い。
他者と関わるという点において、自分でもうんざりするほどに不器用なのだ。

とりわけ、日常のコミュニケーションが決してうまくはない。その点は自覚している。
周りには、とっつきにくくてよく分からない人と思われているのかもしれない。KYだと思われているかもしれない。つまらない人間だと思われているのかもしれない。意図せず他者を傷つけたり不快な思いを抱かせたりしていることもあるかもしれない。

でも、オタク気質というのは、強みでもあるんだよね。偏っているからこそ、ものごとを極められる。 
だから、無理をして性格・気質を変えようとは思わない。僕は僕らしく生きていく。 
もちろん、社会の中で生きていく以上は、ある程度の適応のための努力は続けていくけれど。

来るものは拒まず。去る者は追わず。それが僕の基本スタンス。

2015年の更新はこれにて終了です。
来年も、ときどき思い出したように更新していくと思います。
よいお年をお迎え下さい!
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僕と漫画 (『キャプテン』について)

2015-01-31 14:57:50 | 僕のこと
ちばあきおの『キャプテン』という野球漫画が大好きです。

『キャプテン』 は、『月刊少年ジャンプ』で1972年2月号から1979年3月号にわたって連載されました。
また、1983年には日本テレビでアニメ化され、2007年には実写映画も作られました。
もう漫画本編の連載からはかなりの年月が経っているのですが、今なお、根強い人気のある作品だと思います。

この作品の良さはたくさんあるのですが、僕が惹かれているポイントは

1.等身大の少年たちが描かれている。
2.見事なまでに女っ気が無い。


の2点に集約されるのではないかと思います。

『キャプテン』の舞台となる墨谷二中野球部には、超越的なスーパースターは誰一人として居ません。彼らは、野球が大好きなごくごく普通の中学生であって、ごくごく普通に未熟ですし、欠点もいっぱい持っています。だからこそ、「ああ、そうだよなあ」と共感できるところもたくさんあります。
そんな等身大の少年たちが、摩擦や葛藤をひとつひとつ乗り越えながら、直向きに練習を重ねていきます。確実に、半分以上が、野球の練習か試合のシーンだと言っても過言ではないでしょう。
そして、出てくるのはひたすら、男・男・男……です。見事なまでに女が出てきません。レギュラー的に出てくる女性といえば、谷口タカオの母ちゃんくらいでしょう。あとは、応援に来た女生徒がちらちらと映る程度です。
恋愛要素など、入り込む余地はありません。もちろん、描かれていないところでは色恋もあったのでしょうけれど、徹底してそういうところを描かないのです。

『キャプテン』というタイトル通り、キャラの異なるキャプテンたちの奮闘が描かれています。
それぞれに愛着があって、語り始めたらきりがないので、ごくごく簡潔に紹介してみましょう。

(1)谷口タカオ



『キャプテン』の中核をなす重要人物です。すべては彼から始まったと言ってもいいのかもしれません。
野球の名門である青葉学院で“2軍の補欠”だった谷口は、2年生の途中で墨谷二中へ転校してきて、野球部へ入部します。当時の墨二野球部は弱小で、谷口は「ここならのんびりと野球を楽しめそうだ」と喜んでいました。
しかし、ふとしたことから彼が青葉学院からの転校生であることを部員たちに知られてしまいます。谷口は自分が“2軍の補欠”だったと言い出すことが出来ませんでした。周囲の期待に応えるために、夜の神社で父親と一緒に壮絶な努力を積み重ねていきます。この陰の努力が実り、谷口は力をつけることができました。そして、前キャプテンから次期キャプテンに指名された谷口は、様々な試練を乗り越えながらもチームを率いて、古巣である青葉学院を相手に善戦します。

ポジションはサードです。

谷口の父ちゃんがとても良い味わいを出していると思います。気弱な息子・タカオを鼓舞して、奮起させたのはこの父ちゃんです。神社で一緒に練習するシーンや、木陰から見守っているシーン、肩を抱き慰めるシーンなど、父親の厳しさとやさしさが描かれています。

また、先代のキャプテンも好人物です。人望もあり、冷静にものを見極める目もあり、なぜ彼がチームを立て直せなかったのかが少し疑問なほどです(^^;

なお、高校生になった谷口タカオを主人公に据えた作品に、『プレイボール』があります。こちらについては、また記事を改めて書いてみたいです。

(2)丸井



谷口の引退後、キャプテンに就任したのが丸井でした。セカンドを守る、小柄の選手です。
きわめて直情型の性格で、すぐ調子に乗ったり激高したりします。単純で熱い男ですね。
一年後輩のイガラシとは、当初は折り合いがかなり悪く、まさに犬猿の仲でした。
(よくよく見てみると、丸井は犬っぽくて、イガラシは猿っぽいような気もする)



しかし、次第に丸井とイガラシは、上手く連携し合うようになっていきました。リーダーシップを取りたがるものの、感情的で視野が狭くなりがちな丸井に対して、沈着冷静なイガラシが名参謀として機能するようになった感じですね。
丸井は情に厚いところがあって、面倒見の良さもあります。『キャプテン』では、引退後にもたびたびOBとして顔を出しては、後輩のためにあれやこれやと世話を焼くのです。そういうこともあって、おそらく登場期間が一番長い人物なのではないかと思います。

なお、丸井のファーストネームは分かりません。『キャプテン』では、ファーストネームが分からない人物が多いので、異例ということではないのですが、丸井ほどの重要人物ですら名字しか分からないというのも、すごいことのように思えます。

(3)イガラシ



丸井の次のキャプテンがイガラシです。彼もまた、たいへん小柄の選手です。
クールな性格で、「学年で10番以内の成績」ということで、学力も高いようです。野球の技術も高くて、多くのポジションを守ることが出来ます。
1年生の時には、先輩に対しても歯に衣着せぬ生意気な言葉を投げつけては、部内に険悪な雰囲気をつくることもしばしばでした。特に丸井との折り合いは悪く、丸井には「猿かラッキョみたいなやつ」という形容をされていました。
2年生になると、少し大人になったイガラシは、名参謀としての役割を果たすようになりました。丸井 - イガラシ の体制は、実にうまく機能していたと思います。
3年生になったイガラシは、知将としてチームを引っ張り、全国優勝を果たすに至りました。この、優勝を果たすまでの一戦一戦は、どれも読んでいて面白いです。

僕が『キャプテン』で一番好きなキャラクターは、イガラシです。たぶん、僕自身に一番近いのも、イガラシだと思います。
中高生の頃は、イガラシに移入しながら読んでいたような気がします。今となっては、とてもかわいいキャラですね。イガラシの抱き枕とか、抱いて寝たいです(←黙れ

ところで、イガラシには弟がいます。シンジという名前です。



この兄弟、外見はそっくりなのですが、性格はだいぶ異なります。
イガラシ(兄)は先述の通り、我の強い人物です。それに対して、弟のシンジは、温厚で人当たりの良い人物なのです。
世渡りも、シンジの方が上手そうですね(^^;
イガラシ(兄)のファーストネームも不明なのですが、弟がシンジならば、シンイチあたりでしょうかね。

イガラシの実家は中華料理屋であることが描かれています。2階に兄弟の部屋があるようです。原作を見ていると、イガラシ(兄)はランニングと白ブリーフのままで寝ているのに対して、シンジはきちんとパジャマを着て寝ているようです。そういうところにも、性格が表れるのだなあと、なんだか興味深いところです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

原作は、文庫本で15巻になります。
アニメは、全26話です。いろいろと差異はありますが、概ね原作に副った展開になっています。
実写映画は、およそ100分の作品です。原作とは違う部分も多いですが、原作の世界観は大切にされているのではないかと感じます。

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僕と父親・父性 ~〈 父の日 〉にあたって~

2014-06-15 00:07:30 | 僕のこと
この記事は、2012年9月28日に未完の状態のままで公開し、長らくそのまま放置されていたものです。
あれから1年9ヶ月が過ぎて、ようやく最後まで書き上げることができました。
〈 父の日 〉を記念して、この記事を世に送ります。 2014年6月15日(日)

--------------------- 以下、2012年9月28日公開分 ---------------------

塾で中学生や高校生を教えるようになって、7年目になります。
(本業は学生さんなんだけれど、塾の先生もしているのです)
高校生には数学や物理を教えることが多いです。一方、中学生には、社会科と国語を担当しています。
僕は理系の専攻にいるので、数学や理科を教えるのが自然なのかもしれないけれど、もともとは文科系寄りだった(もしかしたら今も?)人間なので、希望してそれらの科目をやらせてもらってます。
中3の授業は継続的に担当していて、もう7回目になりました。中2は今年で5回目です。中1は一度担当したきりなんですよねえ。

閑話休題。

中2の国語の教科書(光村図書版)には、ちょうど9月の時期の単元に、《 四.きずなを読む 》という単元があります。
(2006年度から2011年度まで使用されていた版では、学習時期は同じだけど《 三.人間のきずな 》となっていました)
この単元では、

『盆土産』(三浦哲郎) ※ 出典『冬の雁』
『字のない葉書』(向田邦子)  ※ 出典『眠る盃』

という小説と随筆がとりあげられています。
両作品とも《 出稼ぎ 》とか、あるいは《 疎開 》とかが出てきたりして、描かれている時代が古いので、もしかしたら今時の中学生には実感は湧きづらい部分があるのかもしれないけれど、家族の絆みたいなものは普遍的だと思うし、とても温かい雰囲気のするこれらの作品が僕は大好きなのです。うまく言えないけど癒されるというのかなあ。味わい深い作品たちですし。だから、目の前にいる中学生諸君にもこれらの作品を存分に味わってもらいたいなあと思って授業をするわけです。
で、今年も例年通り授業したのですよね。もう5回目ですよ。子どもたちは毎年変わるけれど、僕は同じ授業を毎年しているわけです。もちろん年が経つ毎に教え方は上手くなっているとは思うんだけど、基本的には同じ事を繰り返すわけです。
ただ、今年はひと味違った感じが自分の中であったんですよね。

『盆土産』も『字のない葉書』も、単元名にあわせて、《 家族の絆 》を描いた作品で、僕も今までずっとそういう読み方をしていたわけです。それは間違っていないと思います。
ただ、今年はちょっと 《 父親 》にスポットを当てた読み方 をしていたんですよねえ。もちろん父親は家族の一員ですから、家族の絆を描くとすれば父親にもスポットが当たるのは当然なんですが、今年は 《 父親 》という存在 ,あるいは、《 父親の愛 》 みたいなものがかなり意識されていたのです。これはあくまでも僕の内面の話だから、授業として子どもたちへ語りかける言葉としては去年までのあまり変わらなかったと思うんだけど。

(ア)『盆土産』の父親

『盆土産』のお父さんは、東北地方の自宅に実母と息子(彼が主人公)と娘を残して、東京へ出稼ぎへ出ています。仕事がキツくて、お盆とお正月くらいしか自宅へは帰れませんし、子どもたちにも会えません。きっと寂しいことと思います。
子どもたちは普段は祖母と生活していて、父親が帰ってくるお盆とお正月を心待ちにしているのです。子どもたちから見た祖父と母はすでに亡くなっている設定でした。
このお話はちょうどお盆の父親の帰省を描いたものでした。《 えびフライ 》を土産に、東京から9時間かけて帰ってくるわけです。
最初は、「父親が帰ってくるのを心待ちにしながら釣りをする少年」という場面で始まり、

  

「みんなでえびフライを食べる」場面、「お墓参りへいく」場面と続いていきます。

 

そして、最後に父親が再び東京へ戻るシーンとなるわけです。



この最後のお別れのシーンが好きなので、少し引用してみます。


 父親が夕方の終バスで町へ出るので、独りで停留所まで送っていった。谷間はすでに日がかげって、雑魚を釣った川原では早くも河鹿が鳴き始めていた。村外れのつり橋を渡り終えると、父親はとって付けたように
「こんだ正月に帰るすけ、もっとゆっくり。」
と言った。すると、なぜだか不意にしゃくり上げそうになって、とっさに、
「冬だら、ドライアイスもいらねべな。」
と言った。
「いや、そうでもなかべおん。」と、父親は首を横に振りながら言った。「冬は汽車のスチームがききすぎて、汗こ出るくらい暑いすけ。ドライアイスだら、夏どこでなくいるべおん。」
 それからまた、停留所まで黙って歩いた
 バスが来ると、父親は右手でこちらの頭をわしづかみにして
「んだら、ちゃんと留守してれな。」
と揺さぶった。それが、いつもより少し手荒くて、それで頭が混乱した。んだら、さいなら、と言うつもりで、うっかり、
「えんびフライ。」
と言ってしまった。
 バスの乗り口の方へ歩きかけていた父親は、ちょっと驚いたように立ち止まって、苦笑いをした。
「わかってらぁに。また買ってくるすけ…。」
 父親は、まだ何か言いたげだったが、男車掌が降りてきて道端に痰を吐いてから、
「はい、お早くぅ。」
と言った。
 父親は、何も言わずに、片手でハンチングを上から押さえてバスの中へ駆け込んでいった。
「はい、発車あ。」
と、野太い声で車掌が言った。


とっても優しくて温かいんだけど、すごく不器用なお父さんですよねえ。《 朴訥 》ともいうのかな。
とって付けたように 言葉をかける。今を逃せば、もう次はお正月まで息子とは話が出来ない。だからもっといっぱい喋りたいんだけど、うまいこと喋れない。この感じがいいです。
最後の、まだ何か言いたげだったが、結局は 何も言わずに バスに乗って行ってしまうところも、このお父さんらしいです。
頭をわしづかみにして 揺さぶることで愛情を表現するところも、とっても不器用な感じです。主人公の少年は頭が混乱してしまったみたいですが

不意にしゃくり上げそうになって、とっさに、 言葉を継ぐ息子、すごくかわいいですねえ。お父さんには絶対に涙なんか見せたくない。そんな意地を感じます。

思えば、この場面って、父と息子だからこそ成立し得たんでしょうね。父と娘でも,母と息子でも、こうはならなかったような気がするのです。
この、父と息子のシーンは大好きです。

後で述べようと思いますが、僕の実父はこういう朴訥なタイプではありません。どちらかというと祖父がこういうタイプでした。前に書いたかどうかわかりませんが、僕はお祖父ちゃん大好きっ子で、そういう思い出があるからこのシーンが好きなのかもしれませんねえ。どことなく祖父のことを思い出しているのかもしれません。

--------------------- 以下、2014年6月15日加筆分 ---------------------

(イ)『字のない葉書』の父親

『字のない葉書』は向田邦子氏の随筆です。したがってそこに出てくる人物も、書かれているエピソードも、基本的には現実のものです。
教科書のページ数にしてたった4ページの短い作品で、大きく2つのエピソードが綴られています。

【 第1のエピソード : 女学校時代に受け取った手紙 】

向田さんは女学校時代を、親元から離れて過ごしました。
筆まめな父親は、「3日にあけず手紙をよこした」といいます。「一日に二通来ることも」あったというので、相当な数ですね。
その手紙の中での父親の姿と、日ごろの父親の姿の間には、大きな乖離があったようです。

手紙の中の父親

威厳と愛情にあふれた非の打ちどころのない父親

・ 「向田邦子殿」と書かれた表書き
・ 折り目正しい時候の挨拶から始まる文面
・ 「貴女の学力では難しい漢字もあるが、勉強になるからまめに字引を引くように」という訓戒
・ 他人行儀(「暴君ではあったが、反面照れ性」な父はこうするしかなかった?)


日ごろの父親

ふんどし一つで家中を歩き回り、大酒を飲み、かんしゃくを起こして母や子供たちに手を上げる父

・ 「おい、邦子!」と呼び捨て
・ 「ばかやろう!」の罵声やげんこつは日常のこと


この乖離はどこか面白いですよね。
向田さんは、本作において、「もしかしたら、日ごろ気恥ずかしくて演じられない父親を、手紙の中でやってみたのかもしれない」と書いていますが、おそらくそんなところでしょう。
〈 暴君 〉の中に秘められた、恥じらい やら 照れ やら 深い父性愛 やら が可視化されて、なんだか可愛らしい感じですらあります。
もしかしたら、日ごろの姿は、かなり虚勢を張っていたものなのかもしれません。
戦前の父親の典型的なイメージだなあと思います。当然、いろんな父親が居たはずなのですけれどね。


【 第2のエピソード : 末の妹の学童疎開と〈字のない葉書〉 】

時代はもう少し進み、昭和二十年。大東亜戦争はいよいよ末期へと突入し、空襲が激化していました。
向田家は一男三女の四人きょうだい。向田邦子さんには、弟が1人と妹が2人居たのです。
この年、小学校1年生だった末の妹が学童疎開することになりました。
父親はどうにかして娘の安否を知りたいものの、困ったことにまだ字が書けません。そこで、表面に自分宛の宛名を書き、裏面は白紙のままの葉書を大量に用意しました。
大きく○印の書かれた葉書が届けば、「元気だよ!」の合図というわけです。

最初の葉書には、

威勢のいい赤鉛筆の大マル  (意訳例:「元気だよー!!(^^)」)

が書かれていました。
しかし、それは長くは続きません。

情けない黒鉛筆の小マル  (意訳例:「うん、元気・・・」)

を経て、とうとう

バツ  (意訳例:「もう、…ダメ……(><)」)

が書かれた葉書が届くのでした。

最終的には葉書が来なくなり、母が迎えに行くと、「百日ぜきをわずらっていた妹は、しらみだらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていた」といいます。

その末妹が帰宅する日、向田さんは、弟と一緒に家庭菜園のかぼちゃをすべて収穫し、客間に並べます。
言うまでもなく食糧の確保が大変な時代です。まだ小さいかぼちゃを含めてすべて収穫してしまうという行為は、もちろん平素であれば許されない悪事であり、父の雷が落ちたことでしょう。
でも、このときの父は何も言いません。向田さんと弟がどういう動機から行動を起こしたのかをよく分かっているのです。

ついに、末妹が帰宅するというシーン。ここがこの作品のクライマックスです。
引用します。

茶の間に座っていた父は、はだしで表へ飛び出した。防火用水桶の前で、やせた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。

もしかしたら、これが娘の前で見せた唯一の涙だったのかもしれませんね。(本当のところはわかりませんが)
そして、この父の姿から、向田さんは何を感じ取ったのでしょう。

もちろん色々な要素が絡み合っているのでしょうけれど、僕は、〈 父の愛 〉を感じ取ったのだと思います。

日ごろは〈 暴君 〉だけれど、それは そういう表現の仕方しかできない ということなのであって、本当はとても愛情深い人物なのだということ。
それを、向田さんは、女学校時代に受け取った手紙と、昭和二十年の〈 字のない葉書 〉を通じて知ることができたのだと思います。


■ 僕と父親

『盆土産』に描かれた父親の姿と、『字のない葉書』に描かれた父親の姿。
いかがでしたでしょうか?

僕は、どちらの父親も〈 不器用 〉だなあという感じを受けました。そこが2人の共通点でしょうか。

その不器用さゆえ、『盆土産』の父親は〈 朴訥 〉に振る舞い、『字のない葉書』の父親は〈 暴君 〉として振舞っているのだと思います。

好みは分かれますよね。僕はやっぱり『盆土産』に描かれた父親のような〈 朴訥 〉なお父さんが好きです。
乱暴なことが苦手なので、〈 暴君 〉タイプの父親は、遠慮したいなあと思ってしまいます(^^;)

ただ、世の中はうまく行かないものですね。

『盆土産』の項の最後に書いたとおり、僕は祖父とは相性が良くて懐いていたのですが、実父とはなかなか反りが合いませんでした。
今でも、残念なことにしっくりいかないままです。

父は声が大きくて、物事に対して批判的で、ちょっぴり押し付けがましいところがあります。
このブログの読者諸氏はご存知かもわかりませんが、僕は結構な繊細さを持った人間です。
少し聴覚過敏なところがあって大声は怖いのです。
そして、なにより、自分のテリトリーを侵すような押し付けがましい人は苦手なのです。

何か一貫した基準に則って叱るというより、自分の怒りをダイレクトにぶつけてくるところも僕は嫌でした。
決して叱られることは嫌いではなくて、むしろ真剣に叱ってほしいという願いもあるのですが、実父の場合は、自身の感情を解放するための行為としての〈 怒る 〉であって、相手のことを考えて〈 叱る 〉では無かったのです。
少なくとも、僕にはそう感じられました。残念な話ですが。

実父は一生懸命に働いて、僕や母や妹を養ってくれています。その点では頭が上がりませんし、素直に感謝するところです。
そして、『字のない葉書』の父親がそうだったように、きっと父は父なりに、僕のこともあれこれ考えてくれているのだとも思います。
ただ、どうしても相性が合わないということなのでしょう。
僕は父に対してどうやって接したらいいのか、正直言って、わかりません。
父は父で、僕に対してどうやって接したらいいのか分からなくて困って居るのかもしれません。

息子は父を選ぶことはできません。
また、父も息子を選ぶことはできません。
これはもう、不可避の運命なのですよね。理不尽でも不条理でも受け入れていくしかないわけです。

そういう事情があるからこそ、僕は〈 父 〉というものに対しては、特別な思いがあります。
父親的存在に対して、かなり憧れがあります。

僕は基本的に〈 年上専 〉です。基本的には、父ちゃんや兄ちゃんのような人に憧れ、恋をします。
父ちゃんや兄ちゃんに思いっきり甘えたり、叱られたりしたいのです。
たっぷり〈 父性愛 〉を注がれたいのです。

まるで息子のように、弟のように、可愛がってほしいなあというのが、根っからの願望です。

(したがって、僕は断じて少年愛者ではないのです。自分自身が少年のように扱われたいのです)


■ 父性・父性愛のこと

ところで、〈 父性 〉って何なんでしょう。
〈 父性愛 〉って何なんでしょう。

そのことについて考えるにあたって、僕が大いに参考にしている書籍が、『父性の復権』(林道義著,中公新書)です。

父性の復権 (中公新書)
林道義
中央公論社


この本の表紙を開いたところには、以下のような記述があります。

父の役割は家族を統合し、理念を掲げ、文化を伝え、社会のルールを教えることにある。この役割が失われると子どもは判断の基準,行動の原理を身につける機会を逸してしまう。いじめや不登校が起こり、利己的な人間,無気力な人間が増えるのもこの延長線上にある。独善的な権威を持って君臨する家父長ではなく、健全な権威を備えた父が必要だ。父性の誕生とその役割を家族の発生と社会の形成との関連から検証し、父性の条件を探る。

人間が育つとき、そして生きていくとき、〈 母性 〉と〈 父性 〉がどちらも必要なのだと思います。

〈 母性 〉の受け止める作用によって、我々は自尊感情を高めることができます。自分自身の存在を肯定したり、他者と一体感を持ったりすることができます。

〈 父性 〉のはたらきかける作用によって、我々は自立(自律)することができます。混沌に秩序と規範をもたらし、的確な判断をしながら生きていくことができます。

これは両方あってこそのものです。
もし父性のみが作用すると、自尊感情が極めて低い状態となり危険でしょう。
もし母性のみが作用すると、無秩序になったり無気力になったりしてしまうでしょう。

父性も母性も、誰しもが持つものですし、高めていくことができると思います。
また、高めていくのが望ましいのだと思います。

『父性の復権』においても、

父性については、基本的には父も母も両方が持たなければならないと考えている。どちらかが一方的に担うべきものとは考えていない。だから私は父親の役割とか性質と言わないで、父性という抽象的な言葉を使っているのである。もし読者の中に、父性は父親だけが持つべきものだと理解した人がいるとしたら、それは大きな誤解だということを、ここでとくに断っておきたい。
したがって、もし家庭の中で父親に父性が足らない場合には、母親が父性を発揮して子どものしつけにあたるということは可能であるし必要でもある。祖父が代わりを務めることができるのはもちろんである。
また父親に父性がある場合にも、母親が父性を持たなくてもいいということを意味しない。つまり父性に関して現実にどのような役割分担をするかということとは別に、誰が分担しようが、父性という性質を体現する存在が必要だと言っているのである。
(p.207)

との記述があります。父性についての本のため、父性のことだけの記述になっていますが、母性についても同等のことがいえるでしょう。

僕が祖父から注がれたのは、〈 母性 〉でした。
そして、母から注がれたのは、〈 父性 〉と〈 母性 〉でした。
父や祖母とは反りが合わなかったのですが、母と祖父から、父性も母性も受けて育つことができました。
ただ、若干、父性が物足りないという感覚を持っていることは否めません。そして、だからこそ、父親的存在への憧れが生起してくるのかもしれません。

なお、父性 と 男性性(あるいは、母性 と 女性性)の関係については、林さんはこれらを異質なものとして捉えています。
僕も同様の立場をとります。
男性性が強い人が、必ずしも父性も強いとはいえないと思うのです。

( 註 : ただ、〈 男性性 〉と〈 女性性 〉についても、誰しもが持つものですし、高めていくことができるといえそうです。
すべての人が、男性性 と 女性性 をどちらも持っていると思います。もちろん、どの程度持っているか、どちらのほうが強く発現しているかには、ひとりひとり大きな差異があるわけですが、両方持っているには違いないはずなのです。
そこで、すべての人が 男性性 と 女性性 について理解することが重要でしょう。どんな効をもたらすのか,どんな問題を生み出すのか,過剰になったり不足したりしたときにはどうなるのか,暴走させてしまったらどんな危険が発生するのか…etc.
そして、自分が 男性性 と 女性性 をどの程度持っているのかを知り、上手に制御しながら生きていけたらいいと思います)

現代は、〈 インヒビター 〉が存在しなくなった時代ともいわれます。
インヒビターとは、衝動や反社会的行動に対し、それを正面から受け止めて抑止する力のことです。たとえるならば、〈 壁 〉みたいなものでしょうか。
この〈 壁 〉は、「自由を保証しながらある一定の線は絶対に越えられない存在として機能すると同時に、外に対する守りとしての存在でもある」(『生きる力が育つ生徒指導と進路指導』(松田文子・高橋超編著,北大路書房)p.86)と考えたとき、林道義さんの言うところの〈 父性 〉とかなり近いもののように思えます。

今こそ、『父性の復権』が強く求められる時代なのかもしれませんね。

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僕とジェンダーフリー

2013-01-26 14:33:09 | 僕のこと
この記事では、僕自身と《 ジェンダーフリー 》との関わりについて述べてみようと思います。

※ 関連記事
 ・ 僕と 《 男らしさ 》 -少し「ジェンダー」を考える (2012年7月31日公開)
 ・ 僕とぬいぐるみ (2012年10月28日公開)

■ ジェンダーとは?
《 男らしさ 》とか《 女らしさ 》というのはあいまいな概念です。
何が男らしい(女らしい)のかというのは、人によって、時代によって、文化によって、さまざまな要素によって異なってくるものだからです。
しかし、あいまいとはいえ、やはり男らしさ(女らしさ)のイメージはある程度社会の中で共有されているものともいえるでしょう。
そのような社会的なあるいは文化的な部分における性差のことを、ジェンダー といいます。

■ ジェンダーフリーとは?
ジェンダーは決してそれそのものは悪いものではないと僕は思います。ごく自然に、あたりまえに、知らず知らずのうちに身につけているものといえるでしょう。あまりに自然すぎて、意識することすら普段はないのかもしれません。
ただ、人にはそれぞれ個性があります。その個性がジェンダーのイメージから外れていた場合、その人は抑圧を受けることになってしまいがちです。それは悲しいことだと思います。
上述したとおり、ジェンダーが時には人を苦しめてしまう結果になる場合があります。
ジェンダーフリー は、ジェンダー(あるいはジェンダー規範)の抑圧から解放されて、《 男らしさ 》や《 女らしさ 》にとらわれることなく、各人が《 自分らしさ 》を大切にしていけるようにしましょうという考え方です。
ただし、その実現の仕方については、いろいろな意見があるように見受けられます。

■ 性差を否定することの是非
ジェンダーフリー論者の中には、性差そのものを否定してしまおうとしているように見受けられるような方もいらっしゃいます。僕はそれに対しては反対の立場をとります。
男性と女性はやはり基本的には異なるものだと思います。だから、区別されているのです。性差は自然に存在するものです。それを否定してしまうのは、あまりに乱暴なことであり、社会を歪ませたり混乱に陥れることになると考えます。
男性・女性という相異なる2つの性が社会の中に存在する以上、それぞれの性の理想像としての、《 男らしさ 》や《 女らしさ 》は必要なものであると考えます。ただし、その中身がどういうものであるのがよいのかは精査されるべきですし、時代にそぐわない部分は変えていくことも重要であると思います。
ところで、社会の中には、トランスジェンダー,両性具有など、男性と女性というくくりでは考えづらい方も少数ながらいらっしゃいます。そういった人々への配慮や人権の保障などは、当然必要なことです。それはいうまでもありません。
しかし、大多数は男性か女性のいずれかに属することに違和感がないのも事実ですし、忘れてはならないことです。そして、大多数が男性あるいは女性のいずれかに属すのだから、大枠では男性と女性というくくりで考えていくことになんら問題はないと考えます。
少数者の問題はあくまでも少数者の問題として扱わなければならないと、僕は思います。
繰り返しになりますが、僕は 性差そのものの存在を否定することに反対 です。ただし、少数者への配慮は別途考える必要がある と考えます。

■ ジェンダー規範を押し付けられることの苦しみ
ジェンダー規範としての《 男らしさ 》や《 女らしさ 》から大きく外れた人にとって、これを押し付けられることは苦痛以外の何者でもありません。まして、規範から外れているという理由で、嘲笑に付されたり、辱めを受けたりするようなことはあってはならないことです。
冒頭部分に掲げた関連記事をお読みいただけばわかるとおり、僕もそういう苦しみを味わって生きてきたので、より強くそう思います。
ここで、注意しておかないといけないのは、ジェンダー規範が存在することが悪いのではなく、それを押し付けることが悪いのだということです。あるいは、規範から外れている存在を劣等なものとして見下すことが悪いともいえるでしょう。
つまり、規範から外れている人が感じる苦しみは、規範が存在するから生ずると捉えるのではなく、規範を押し付けるから生ずる(規範から外れている存在を劣等なものと見てしまう風潮から生ずる)と捉えるべき だというのが、僕の意見です。
つまり、僕のような人間を苦しみから解き放つためには、ジェンダー規範そのものをなくしてしまうのではなく、ジェンダー規範を押し付けることをやめる(ジェンダー規範から外れた存在を劣等なものとみなすことをやめる) ことが必要なのだということです。

■ まとめ
僕はある意味ではジェンダーフリー論者ですが、過激なジェンダーフリーのあり方には違和感を持っています。この記事を書くことで、そのあたりの微妙で複雑な思いを、少し公にすることができたように思います。
もう一度要点を整理すれば、

・ 性差そのものを否定することには反対である(ただし少数者への配慮は別途考える必要あり)
・ ジェンダー規範の押し付けをなくすことが重要である
・ ジェンダー規範から外れた存在を劣等なものとして見下す風潮をなくすことが重要である
・ ジェンダー規範そのものをなくす必要はない(ただしその中身については柔軟性を持たせる必要がある)

となります。これが僕の意見であり、立ち位置です。
最後になりましたが、《 自分らしさ 》と《 男らしさ・女らしさ 》は、ジェンダー規範の押し付けを排除し、規範から外れた存在を劣等なものとして見下さないようにすることにだけ注意していれば、矛盾することなく並置可能であると思います。誰しもが《 自分らしく 》生きることはすばらしいことです。しかし、闇雲に《 男らしさ・女らしさ 》を否定することには、僕は抵抗があります。

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僕とぬいぐるみ

2012-10-28 22:44:04 | 僕のこと
今回はぬいぐるみのことを書こうと思います。
僕はぬいぐるみが大好きなんです
お気に入りの「わに」さんのぬいぐるみが居るんですよねえ。
(僕は《 わに 》だと思っているんだけど、「これは、わにじゃないよ~」って言う人もいたりします。ほんとのところはよくわかりません。まあ、《 わに 》ということにしときましょ)
オンラインに写真を載せたことって記憶には無いので、これがデビューですね。

1.先代のわにさん(数年前に他界(?))



この子は、それこそ幼稚園の頃から大事に可愛がってきた思い入れのある子です。
残念ながら、傷みが激しく、ボロボロになってしまって、数年前に他界なさりました。
まあ、15年以上も経てばそうなりますよね。抱いて寝たりとかもしてたからね。
ここに載せている写真は、まだ在りし日、今から7年前の2005年に撮影したものです。

  

このわにちゃんは、メスという設定にしていて、女言葉をしゃべらせていました。しかも毒舌キャラという設定で。
リアルの僕は基本的にはオネエ言葉とかしゃべらないんだけど、わにちゃんモード(?)の時は、ある意味オネエ全開だったかも。
何か悲しいことがあったとき、辛くて耐えられないようなことがあったとき、この子を抱きしめながら泣きはらしたり、時には愚痴ったりとかもしてたなあ。ずっと表情変えずに、黙って聞いてくれて(ぬいぐるみなんだから当たり前なんだけど)、ほんとにお世話になりました

ちなみに、後の2枚の写真には、愛知万博のキャラクターであるところの、モリゾー&キッコロも写っていますね~。
僕はモリゾー派でした。モリゾーおじいちゃん大好きでしたよ。その辺は、やっぱりおじいちゃんっ子だったからかなあ。

2.現役のわにさん

 

こちらは現役で可愛がっているわにちゃんです。
ここだけの話、今でもたまに抱いて寝たりしています
前の子とちがって、スリムな感じの子で。コードレス電話の子機をこの子みたいな形にしたらかわいいだろうなあなんて勝手に思っています。
この子もメスの設定にしてあります。でも、先代ほどの毒舌キャラにはしていないかな。いや、違うか。毒舌なのは同じだけど、毒舌のベクトルが違う方向を向いていると言った方が適切か。何言ってるか、読者諸氏にはわかんないね。まあ、たまにはいいでしょ、こういう記事も。
気持ち悪かった? ごめんね。でもこれが僕っていう人間だから。仕方ないでしょ。

前に 僕と 《 男らしさ 》 -少し「ジェンダー」を考える という記事を書いたけど、僕はジェンダー的に言えば、結構女っぽいとこも持っていて、でも男っぽい部分もあって、総合すると中性的なのかなあなんて自分では思っています。
今回書いたような、ぬいぐるみを可愛がったりとかは、ジェンダー的には女の子になっちゃうのかな。
こういうことしてるから、祖母とかに「女の腐ったみたいな奴」とか言われちゃってたんだよね。男の子がぬいぐるみ可愛がって、何が悪いんだろうね。
一応補足しておくけれど、別にゲイであることとこういうジェンダー的な意味での《 女らしさ 》ってのは無関係だから。ゲイがみんなぬいぐるみ抱き抱きしちゃうとかそういう風には思わないでくださいね。あくまでも僕という人間がぬいぐるみ好きだったというだけです。それに、ノンケの男の子がぬいぐるみ抱いてたって別にいいでしょ。その子がそうしたいんだったら。

あ、リアルの僕を知ってる人がこの記事を読むと、ギャップを感じて笑っちゃうかもしれないね。
人間っていろんな側面を持ってるから。だから面白いんだよね。

堅苦しい記事が多いブログなので、たまには思いっきり軽~~~~い&ゆる~~~~い記事も書きたいなあと思って、こんな記事を書いてみました。

じゃあね~


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僕と閑寂美

2012-09-26 10:24:26 | 僕のこと
タイトルに《 閑寂美 》などという難しい言葉を入れていますが…。
《 閑寂 》というのは、辞書で引くと、
もの静かなさま。静かで趣のあるさま。
というように、出てきます。そこに美を見いだすというわけですね。

僕は、昔から、《 寂しい 》感じ《 哀しい 》感じ に惹かれるところがあって、これらのどちらかというマイナスの感情を、美しいもの として肯定的に捉えています。
例えば、桜は散っていくときが一番美しいと思うのです。満開の花盛りよりも、はらはらと散っていく花びらがとっても綺麗なのです。
それから、黄昏(たそがれ)ほど美しい景色はないとも思うのです。朝焼けと夕焼けって物理的には同じはずなんだけど、全然違うように感じますね。あれはすごく不思議です。
以前、僕と叙景詩 という記事を書いたときに、中1のときに作った『無人駅の灯』という詩を載せたのですが、思えばあれも寂しい景色を描き出した叙景詩でしたね。
やはり、僕は、賑やかなものよりも、寂しいものや、もの哀しいものに惹かれる人間のようです。

この記事では、閑寂美の面から見て、お気に入りの文学作品や歌を紹介してみようと思います。

1.新古今和歌集より

新古今和歌集は、鎌倉時代の初期に後鳥羽上皇の勅命によりまとめられた勅撰和歌集で、技巧に富み、しめやかで内省的な作品が多いのが特徴とされています。
その中に収録されている、藤原定家の和歌を引用します。

見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮

和歌が詩の一種だとすれば、これも叙景詩にあたるのでしょう。
この和歌に描かれている風景がありありと目の前に浮かぶのですが、ものすごく寂しくて、もの哀しい景色なのですが、とても美しいです。
残念ながら絵の才能がこれっぽちもないので、絵画に出来ないのが残念なくらい。だれか、絵を描ける人に、この和歌をモチーフにして絵はがきを作って欲しいなあって。
そんなことを考えるくらい、大好きな和歌です。

■ 藤原定家:新古今和歌集の選者の1人。藤原俊成の子。父とともにこの時代の歌壇の中心人物であった。また、古典研究にも大きな業績を残した。


2.漢詩

漢詩にもお気に入りの作品があります。
王維の『鹿柴(ろくさい)』という作品です。

空山不見人
但聞人語響
返景入深林
復照青苔上

空山(くうざん)人を見ず
但(ただ)人語の響きを聞くのみ
返景(へんけい)深林に入り
復(ま)た青苔(せいたい)の上を照らす

※ 口語訳
木の葉が落ちつくしてひっそりと静まりかえった
山の中に人かげは見あたらない。
しかしどこからか、わずかに人の声が聞こえてくる。
夕日の照り返しが奥深い林の中へとさしこんで、
みどりの苔を照らし出している。

ここに余計な説明を付け加えるのはもはや野暮ったいと思うので、特に何も書かないことにしようと思います。
これも絵はがきにして大切に持っていたいなあというくらい美しいと感じます。

■ 王維:盛唐の大詩人。画家でもあり、南画の祖と仰がれている。書家としても知られ、音楽にもすぐれていた。熱心な仏教信者で「詩仏」と称せられた。蘇軾により「詩中に画有り、画中に詩有り」と評されている通り、王維の詩は一幅の絵を見るようなものが多い。彼の関心は、杜甫のようにこの世の矛盾や不合理にあったのではなく、自然の美しさやその自然と融合した人間生活の楽しさにあった。
■ 杜甫:中国、唐時代の詩人。科挙(高級官僚になるための試験)に及第できず、放浪生活を送る。そのとき李白(詩人。後出)と親交を結んで影響を受けた。社会,人生,自然を見つめ、誠実な人柄を反映した詩が多い。のちに「詩聖」と称された。
■ 李白:中国、唐時代の詩人。玄宗皇帝に仕えたが、気ままな性格が災いして、宮廷を追放される。直後に杜甫と出会い、旅をともにする。作風は明るく、躍動感にあふれ、七言絶句を得意とした。月,酒,旅の詩を多く作り、のちに「詩仙」と称された。


3.『山月記』より

中島敦の小説『山月記』が大好きです。高校の現代文の超定番教材なのでご存じの方も多いのでは?
この作品についてはまた単独で記事を書こうと思っているのですが、閑寂美の観点からお気に入りの描写があるので、それを紹介してみようと思います。

時に、残月、光冷ややかに、白露は地に滋(しげ)く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。

虎になってしまった主人公・李徴が、親友・袁傪に対して、即興の詩を詠んできかせた直後の一文なんですが、簡潔明瞭ながらすごく美しい、もの哀しい描写ですね。この場面にピッタリです。
中島敦さんは漢文が大好きだった人で、こういう描写にもその影響が色濃く出ていますね。

4.『小さい秋みつけた』

『小さい秋みつけた』はとても有名な歌ですよね。作詞はサトーハチローさん,作曲は中田喜直さんです。




だれかさんが だれかさんが
だれかさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
めかくし鬼さん 手のなる方へ
すましたお耳に かすかにしみた
よんでる口ぶえ もずの声
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた

だれかさんが だれかさんが
だれかさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
おへやは北向き くもりのガラス
うつろな目の色 とかしたミルク
わずかなすきから 秋の風
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた

だれかさんが だれかさんが
だれかさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
むかしの むかしの 風見の鳥の
ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
はぜの葉赤くて 入日色
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた

子どもが歌ったりもするんですが、この歌詞の味わいみたいなものは大人になってから分かるのかもしれません。
中田喜直さんのつけた旋律もまた秀逸で、寂しい・哀しいけれど美しい、そんな歌に仕上がっています。
子どもの時から大好きでした。

この曲について、少し追加情報などご覧になりたい方は、こちらのサイト が参考になるかもしれません。

5.『 丑男 -cow boy- 』

最後は文学作品ではないのですが…。
僕が今ひいきにしている野球チームは、メインは オリックス・バファローズ です。
このチームは、2005年に、オリックス・ブルーウェーブ(BW)大阪近鉄バファローズ(Bu) の合併により発足したチームです。僕はもともと、大阪近鉄バファローズのファンでした。
合併球団が発足したとき、最初につくられたチャンステーマが、今から紹介する『 丑男 -cow boy- 』です。





熱き情熱 紅く染まり
蒼き稲妻 輝く
ここで 立ち向かえ戦士たち
悲しみ乗り越え突き進め
深紅の魂を
炎と燃やして攻めろ
「 ○○ ○○ 決めたれ~! 」


野球の応援歌で、チャンステーマといえば、だいたい明るいものです。
でもこのチャンステーマは本当に哀しい歌詞と旋律です。《 日本一哀しいチャンステーマ 》だし、こんなチャンステーマはこのチームでしか存在し得ないのかもしれないなあとも思います。
そして、もしかしたら、《 日本一美しいチャンステーマ 》なのかもしれません。
あれから8年が経過したけれど、今でも僕の心の中に、大阪近鉄バファローズ(Bu) は生きているし、きっと、オリックス・ブルーウェーブ(BW) のファンだった人も同じなんだろうなあと思うのです。
もう、この2つのチームは存在しないし、一緒に今のチームを、選手たちを応援していくんだけれども、でも思い出はいつまでも忘れないし、愛するチームを消滅させられてしまった傷も痛みも癒しこそはすれど、絶対に風化させはしないんだという、そういう思いがこもったとても深いチャンステーマなのです。

ちょっと長い動画ですが(いろいろな応援歌を順番に演奏しているので)、この動画の最後(34分あたりから)にこの曲が出てきます。演奏開始前に、作曲者による説明もあるので、よろしければお聞き下さい。他の応援歌もカッコイイので、ネットサーフィンでもしながら通して聞いていただくのもオススメです。



オリックス・バファローズの応援歌集CDはAmazonで買えます。

真紅と蒼の響 オリックスバファローズ選手別応援歌2009~2010

全然野暮ったい感じではなく、ふつうにロックのCDとしても楽しめるくらいの出来映えなので、興味のある方はどうぞ。

というわけで、まとまらない感じになりましたが、閑寂美についての記事はこのあたりで終りにしようと思います。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
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僕と叙景詩

2012-09-22 10:50:21 | 僕のこと
叙景詩 が大好きです。

■ 参考:詩の分類(中学国語の復習
 ・ 叙情詩 = 感情の表現を目的とした詩
 ・ 叙景詩 = 表面上は風景や物事のありさまを詠み、心情は奥に秘めた詩
 ・ 叙事詩 = 伝説や歴史の叙述を中心にした、筋を持つ詩

まあ、詩と言えば、叙情詩が圧倒的に多いでしょうし、それも嫌いではないです。
でも、僕は叙景詩が大好きなんです。《 文字による風景画 》 ですよねえ。とても美しいです。

恥ずかしながら、中学1年生の時に、国語の授業で作った叙景詩が、校誌(年に1回発行され、全生徒&教職員に配布される冊子)に載ったことがあります。
全部で5編掲載されていたのですが、僕の作品以外の4編は全部女子のつくった叙情詩でした。つまり、男子の作品も、叙景詩も、僕のものだけだったということです。

「無人駅の灯」
一番列車がホームに入り扉を開けた
誰も乗らない
誰も降りない
すぐに扉が閉まり列車が発っていく
灯のみがただ明るく空しく
駅舎もなく駅員もいない
この無人駅を照らしている
冬のまだ寒い朝
雪がしんしんと降る

なんだか気恥ずかしいですが、全世界向けに自分の作品を発表できたのは嬉しいような気もします。もう12年も昔の、実に拙い作品ですけどね。
自分で言うのもなんだけど、中学1年生の作品にしては渋いでしょ? 僕のキャラがよく出ているような気もします。

詩は大好きなんですが、自分で作るとなるとそうそうできるものではないですし、上に載せた作品以来、あれを上回るものは僕自身は作れていません。
我が国ではたくさんの優れた叙景詩が作られてきました。ただ、最近は叙景詩というのは流行らないようで、あまり作られていない印象があります(実際のところはどうなんでしょう?)。

せっかくなので、僕のお気に入りの叙景詩を、春・夏・秋・冬から1つずつ紹介することにしましょう。といって、有名な作品ばかりですから、ご存じの方も多いとは思うんですが。

記事が長くなるので、エントリーを分けて書こうかなあと思います。
下のリンクから辿ってください。

春 : おぼろ月夜(高野辰之作詞,岡野貞一作曲)
夏 : 夏は来ぬ(佐々木信綱作詞,小山作之助作曲)
秋 : 紅葉(高野辰之作詞,岡野貞一作曲)
冬 : 冬景色(作者不詳)


あと、いいメドレーがあるので、それはここで紹介しておくことにします。
混声合唱のための唱歌メドレー『ふるさとの四季』(源田俊一郎編曲)というのですが、秀逸な叙景詩がたくさん織り込まれています。
上に書いた4つの曲もこのメドレーの中に出てくるのですが

故郷 → 春の小川 → おぼろ月夜 → 鯉のぼり → 茶摘 → 夏は来ぬ → われは海の子 → 村祭 → 紅葉 → 冬景色 → 雪 → 故郷

混声合唱のための唱歌メドレー『ふるさとの四季』/横浜紫友会合唱団

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僕と 《 男らしさ 》 -少し「ジェンダー」を考える

2012-07-31 18:18:22 | 僕のこと
今日は少しジェンダー(社会的性差)についての僕の考えを書いてみようかなと。
ジェンダーというのは、社会・文化的につくられた性別役割分業や《 男らしさ 》,《 女らしさ 》のことです。
「男は強くなければならない」とか、「女は出しゃばってはいけない」とか、「男は仕事,女は家事」とか、そういうのですね。子どもとかだと、「男の子は野球やサッカーをして、女の子は鞠突きやおままごとをする」みたいなのも一緒ですね。
世の中には、こういう《 らしさ 》を押しつける、ジェンダー規範があります。
それで、《 男らしくない男性 》や《 女らしくない女性 》は、いろいろな側面において辛い思いをしているのです。
《 自分らしさ 》あるいは《 個性 》を消し去ってまで、《 男らしさ 》や《 女らしさ 》を手に入れようとあがいている人はたくさんいるように見えます。
もちろん、そういう人々が、自らの意志で、自らそうありたいと願って、行動しているのならば全然問題はないのですが、自らの意志に反して、無理をしてそういう行動を起こさざる得なくなっているのだとすれば、哀しいことです。

ちなみに、ジェンダーと性的指向には関係が無いと僕は考えています。
異性愛者でもゲイでもレズビアンでもバイセクシャルでも、それぞれにいろいろな個性の人が居るのですから、ジェンダー的な意味で男らしい人,女らしい人,あるいは中性的(中間的)な人がいるはずです。
ゲイには女らしい人が多く、レズビアンには男らしい人が多いなどというのは偏見だと僕は考えています。

さて、ここからは少し僕自身のことを書いてみましょう。

僕自身は、ジェンダー規範の押しつけにすごく苦しんできた感があります。
性自認は男性で、男性であることに違和感はないし、女性になりたいとか女性の身体が欲しいとか思ったことは一度もありません。僕はどう考えても男性だし、男性であることをやめたいとは思わないのです。
でも、ジェンダー的な意味では、結構女性的なところが多い人間だと自分で思います。僕はまったく強くないですし、泣き虫です。箸やペンより重たいモノなんか持たせたら潰れてしまいます。ケンカとか乱暴なことはとにかく大嫌い。怒声を聞いただけで身体が硬直します。甘いものが好きで、少食です。小さい頃はぬいぐるみやお人形さんで遊んだり、おままごとをしたりするのが大好きでした。どうですか?
もちろん、ジェンダー的な意味で男性的な部分もたくさんあるんですよ。例えば、かなり理性的だったりとか、鉄道が好きだったりとか、長時間かけて買い物するのは嫌いだったりとか、群れをなすのは嫌いだったりとかね。オシャレとか無頓着だし。

こういうのって要は、僕の《 個性 》ですよね。ただ、ジェンダーってものに照らしあわせて男性的な部分と女性的な部分に分けたけど、これってそもそも分ける必要あるのかなって思うのです。だって、僕は僕だから。
ジェンダー的な意味で、完璧な男性とか、完璧な女性っていないでしょう。どんな人だって、男性的な面と女性的な面があるはずだから。ただ、最初にも書いたとおり、《 女性的な面の強い男性 》とか《 男性的な面の強い女性 》は生きづらいのです。それは社会がジェンダー規範を押しつけるから。

僕は実父とか祖母に「女の腐ったような奴」とかさんざん言われて育ちました。彼らにはそう見えたのでしょうけど、そういうとらえ方しかできない可哀想な人たちだなあと思いました。人にはさまざまな個性があるのになぜ枠にはめようとするのだろうと。
異性愛だけがあるべき形で、それ以外は認められないという発想も、なにかこれと近いものを感じます。結局は、典型的な《 家庭 》像を万人に押しつけようとするから、そういう発想になってしまうのかなと。
「《 男らしい 》父親と、《 女らしい 》母親がいて、子どもを育てる」という典型的な《 家庭 》像。これを否定する気は毛頭ありません。これで幸せな方々はたくさんいらっしゃるからです。でも、皆が皆そうではないですよね。別に、男らしくない父親がいたっていいし、女らしくない母親がいたっていいではないですか。それでみんな《 幸せ 》なのだとすれば。
「《 強い 》男性が《 弱い 》女性を守る」というのも同じかな。なぜ、男性は《 強く 》ないといけないのか。なぜ、女性を守ることを押しつけられなければいけないのか。僕は男性ですけど、僕より強い女性はいっぱいいますよ。ケースバイケースではダメなのでしょうか。人と人は支え合う生き物です。それぞれの持っている《 個性 》や《 特性 》に応じて、時には人を守ってあげ、時には守られる側に回る。それこそが幸せのように思えます。
ジェンダー規範に過度にとらわれず、各人が持って生まれた個性をのびのびと出して明るく生きられる世の中が来たらいいなあと強く思います。

僕は、僕らしく、生きていきたい

※ 関連記事
僕とぬいぐるみ (2012年10月28日更新)
僕とジェンダーフリー (2013年1月26日更新)


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僕と恋愛小説

2012-06-11 21:15:33 | 僕のこと
僕は読書が好きなので、小説もよく読みます。
小説といってもいろいろあるんですが、その中には当然恋愛ものもありますよね。それも結構たくさん。
僕も恋愛小説は嫌いでは無くて、それなりに読んだりはします。
世の中、異性愛者が大半なので、恋愛小説も基本的には男女間の恋愛を描いたものばかりですが。
だから、第三者的に見守りながら読んでいるか、男性側に少し惚れながら読んでいるかのどちらかであることが多かったりします。

かつて、中学校3年生の国語の教科書(東京書籍版)に、『いちご同盟』(三田誠広) という小説の一部分が掲載されていました。
中学生の三角関係のお話で、まあ、ベタといえばベタなんですが、中学生のときの僕は結構この小説が好きでした。
主人公は北沢良一くん。内向的でちょっと自殺願望なんかもあったりする大人しい感じの少年。クラシック音楽が好きで、ピアノを弾く子です。
ライバルは羽根木徹也くん。良一くんとは対照的で、外向的で明るい感じ。野球部で4番かつエースをしていて、体育会系の子です。
で、ヒロインは上原直美さん。徹也くんの幼なじみで、病気のために入院している女の子。小説の中では手術を受けて、それは成功するんですが、最終的には亡くなってしまうのです。
僕としては、主人公の良一くんとタイプが似ている(内向的、大人しい系、クラシック音楽好き)こともあって、結構彼になりきって読んでいたりしました。
ただ、作品中の良一くんは直美ちゃんが好きで、現実の僕は徹也くんが好きだったという歴然とした違いがあったんだけども。
つまり、本来は、

良一 → 直美 ← 徹也

という三角関係の話なんだけど、僕的には、

良一(=僕) → 徹也 → 直美

という、片想いが2つの構図になってしまっていたんですよね(苦笑)
いろいろとお気に入りのシーンがありましたが、一番は、良一くんと徹也くんが病院の待合室で相撲をとるシーンでした。ええ、妄想込みです。ごめんなさい。
いやあ、懐かしいなあ。中学時代を思い出します。


男性と男性の恋愛を描いた作品となると、BOYS LOVE に頼るしかないのが現状。
実はあまり読んだことはなかったけど、今、恋をしている相手に、『箱の中』(木原音瀬) と、続編の 『檻の外』(木原音瀬) を薦められて読み、すっかりお気に入りになりました。
ちょっと、恋というよりも執着になってしまっている側面もあるんだけど、僕は堂野さんや喜多川さんにすごく移入しながら読めたかな。堂野さんと出会って、喜多川さんがどんどん人間性を取り戻して、最後にはすごくステキで可愛い男になって、それがすごく嬉しくて、何度も読み返しています。
他にも同じような作品を読んでみたいなあと思っている今日このごろ。
ただ、BOYS LOVE を書店へ買いに行くのは、僕にとっては勇気が要るので、Amazon で取り寄せることになるのでしょうけどもね。

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僕とスポーツ

2012-06-04 18:32:13 | 僕のこと
ブログを1週間も更新していないので、さすがにそろそろ更新しないとなあと思って、記事を書き始めました。
で、テーマが「僕とスポーツ」というものなんですが

スポーツっていうものは、《 見る 》という要素と《 する 》という要素がありますよね。
僕の場合は、基本的には、スポーツは《 見る 》ものとして認識しています。

身体が弱くて、ヒョロくて、すぐにへばってしまうし、
動作も悪くて全然うまくできないし、
とにかくありとあらゆるスポーツに、ろくな思い出がないのです。
だから、自分からスポーツを《 する 》ということは基本的に無いんですよね。

※ もっとも、虚弱体質ゆえ、健康保持のためにウォーキングをしたり、体操をしたりはするのですが。これはスポーツとは言えないですね


で、《 見る 》ほうなんですが、野球の試合を見ることはかなり好きでして、
家の PC で中継を見ていたりとか(パ・リーグTV という便利かつ廉価なモノがある)、
球場へもちょくちょく通ったりしております。
贔屓チームは、オリックス・バファローズ です。なんというか、(悲しいけど)ファンの多くはないチームなので、もしかしたら特定されてしまったらという危惧はありますが、公表しちゃいました。
このチーム、2005年に、オリックス・ブルーウェーブ と 大阪近鉄バファローズ の合併によってできたチームで、僕はもともとは 大阪近鉄バファローズ のファンだったのでした。

試合を見るというのは、もちろん試合そのものもしっかりと楽しんでいますが、それ以外の面もあって。
まずは、応援歌ですかね。日本のプロ野球は、メジャーリーグと違って鳴り物での応援がどのチームでもあって、僕は結構それを楽しんでいたりします。
特に、僕の贔屓チームの応援歌は、旋律も歌詞も秀逸で、それを外野スタンドで歌うのは、なかなかに気持ちいいのです。
それから、選手そのものを見ることでしょう。この辺りはたぶんノンケ女性の野球ファンの方と同じだったりするのかもしれません。まあ、ある種のアイドル的な感じで、カッコイイなあ(あるいは時にかわいいなあ)と思いながら見ております。
僕が気に入っている選手たちのことは、またいつか改めて書くことにしましょう。
(もっともそれを書いたら本当に特定されかねないのですが…)

他のスポーツは、野球ほど熱心に見ている訳ではありませんが、オリンピックのときなど、柔道とか水泳とかは結構見ています(男子ばかりですが)
柔道選手にもお一方お気に入りの方がいらっしゃいます。そのこともまた記事を改めて。
(いっぺんにいろいろ書きすぎたらネタがなくなるからねえ)

というような感じで、久々の更新でしたが、僕とスポーツの関わりについて書いてみました。

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