Nikkoh の 徒然日記

ゲイ(=男性同性愛者)の Nikkoh が、日々の雑感やまじめなこと、少し性的なことなどを、そこはかとなく書きつくります

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ゲイ(男性同性愛者 / ホモセクシュアル)の Nikkoh が、徒然なるままにいろいろ書いてます。
マスキュリズム / メンズリブ にも関心があり、調べたり考えたりしています。
※ マスキュリズム(masculism) = 男性に対する性差別(男性差別)の撤廃を目指す思想・運動。フェミニズムの対置概念とされますが、僕は、並置概念と言いたいと思っています

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・ ここのブログは同性愛者が運営しており、同性愛の話題がたくさん出てくるブログです。また、管理人はマスキュリズム / メンズリブ にも関心を持っており、それらに関する記事も多いです。その点をご承知の上でご覧ください。(各人の責任で、読む記事を取捨選択してください)

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セクシュアリティ勉強会(第13回~第14回)

2014-08-23 22:14:35 | セクシュアリティ勉強会(豆腐さん主催)
おととし5月に知り合った、僕のゲイの友人、マイノリティのパイオニア・豆腐さん が、《 セクシュアリティ勉強会 》を、2014年3月まで開催されていました。

僕は2012年10月の第6回からだいたい毎回参加して、学びを深めてきました。
過去の開催分については、この記事の一番下にリンクをまとめて載せてあります。


※ この勉強会について、僕のブログのエントリーへのリンクです。よかったら読んでね
第9回(テーマ:友人関係) (2013年4月27日実施。2013年5月12日記事公開)
第10回(テーマ:カミングアウト) (2013年6月22日実施。2013年6月23日記事公開)
第11回(再)(テーマ:カミングアウト2)前編 (2013年9月5日実施。2013年9月6日記事公開)
第11回(再)(テーマ:カミングアウト2)後編 (2013年9月5日実施。2013年10月9日記事公開)
第12回(テーマ:僕たちが選んだ結婚) (2013年10月26日実施。2013年11月28日記事公開)


第13回と第14回について、参加レポができていませんでした。
もうかなりの時間が経過してしまったのですが、せっかくなのでごく簡単にでも記録を残しておきたいと思い、この記事を書いています。
幸い、手元には配布資料と簡単なメモが残っているため、それをフル活用です。

※ この勉強会は、発展的に解消され、現在は じぶん発見プロジェクト しろにじカーサ が月に2回定例開催されています。
毎月第2日曜日は、セルフイメージチェンジルーム です。
毎月第4土曜日は、セクシュアリティ勉強会の流れを汲んだ、マイノリティスタディルーム です。
引き続き、(毎回ではないですが)顔を出しています。さらにパワーアップして、内容の濃いものとなっていると思います。

■ 第13回(再) 普通って何?(2014年1月22日)

豆腐さんのブログでの報告はこちら

まだ名称は〈 セクシュアリティ勉強会 〉だったのですが、この回は、発達障がいを持つ男性についてのTV番組を視聴してのディスカッションでした。
主に、〈 普通 〉ということについて、考えを深めました。
以下は僕の考察文です。

・ 〈 やりたいこと 〉は何なのかということと、〈 できること 〉は何なのかということ

自分のやりたいことは人それぞれにあるでしょう。そして、自分にできることも、また、人それぞれにあるでしょう。
残念ながら、〈 やりたいこと 〉が〈 できること 〉では無いという場合もあります。そういう場合、人はどういう行動をとるのでしょうか。
番組に登場した男性は、鉄道が大好きで、鉄道に関わる仕事に就きたいという願望を持っています。しかし、視覚の認知能力の弱い彼は、鉄道会社の採用試験で必出となる計算問題がどうしても合格ラインに届きません。
ここで、彼の〈 やりたいこと 〉を無視してしまって、〈 できること 〉にだけ着目した選択をすると、もしかしたら後々になって困ったことになるのかもしれません。
鉄道に関わる仕事といってもいろいろあります。運転士や車掌,駅員,保線,車両整備,車両製造,清掃員,売店の店員などなど。そのいろいろある中で、〈 できること 〉を見つけていくのがいいのではないかという気がします。
要は、自分の〈 やりたいこと 〉を大切にしつつ、それにできるだけ副う形ような〈 できること 〉を選び取るのがよさそうだということですね。

・ 〈 普通 〉の対義語は?

〈 普通 〉を辞書で引くと、『特に変わっていないこと』とか『ごくありふれたものであること』とか『それがあたりまえであること』などと書いてあります。
では、〈 普通 〉の対義語は何なのでしょう?

Weblio対義語・反対語辞書 で調べてみると、特別,稀少,奇抜,異常 の4つが出ています。

〈 平凡 〉という趣旨で普通と言う場合、確かに対義語は〈 奇抜 〉が適切でしょうね。
また、〈 通常 〉という趣旨で普通と言う場合、確かに対義語は〈 異常 〉になるでしょう。
量的なものに着目して普通と言う場合の対義語は、〈 稀少 〉ですね。
そして、他の多くとの差異に着目して普通と言う場合の対義語は、〈 特別 〉となるわけです。

もちろん、どれも間違っていないと思うのですが、僕は〈 特別 〉か〈 稀少 〉という捉え方が一番好きです。
〈 異常 〉や〈 奇抜 〉だと、なんとなく、負の価値判断が入ってしまうように感じます。
それに比べて、〈 特別 〉や〈 稀少 〉は、フラットな印象です。

・ 自分と相手と社会の重なりを広げると、苦しみが和らぐ

自分と相手の間には、ズレがあります。もちろん、ズレの大きい相手とズレの小さい相手はいるのですが、どんな人との間にも必ずズレがあります。
ズレの小さい相手とは、重なる部分(共通部分)がたくさんあるので、あまり違和感を感じません。
ズレの大きい相手とは、重なる部分(共通部分)が少ししかないので、かなり違和感を感じます。

ところで、人は社会の中で生きていて、社会の中の規範とか通念みたいなものと無縁でいることはできません。
この社会規範や社会通念とのズレも考える必要があります。

もし、自分と相手は重なっていても社会とは重ならない部分があったとすれば、それは、その2人(或いは小集団)の中では普通だとしても社会一般的には普通ではないところということになります。

違和感は、第11回(再)(テーマ:カミングアウト2)後編 で考察を深めたとおり、自己理解への切り口となります。違和感を感じたとき、人は、他者をセンサや鏡のように活用して自己の中に他者と異なる部分を発見しているからです。したがって、たいへん有用なものです。
でも、違和感はしんどさも伴います。違和感を感じたとき、人は疎外感とか罪悪感を抱きがちです。これがあまり増幅してくると、耐えられないくらい苦しくなってしまいます。

自分と相手と社会の重なりを広げていくことがもしできたならば、違和感を感じることは少なくなり、疎外感や罪悪感による苦しみも少なくなっていきます。

・ 人それぞれの〈 普通 〉の範囲は違う

ある事象を見て、それを〈 普通 〉と感じるかという調査をしてみるといいと思うのですが、おそらく結果はばらつくのではないかと思います。
何を〈 普通 〉と判断するかは、人それぞれに違うのです。あるいは、社会集団ごとに違うのです。

〈 普通 〉と判断される範囲にズレがあるのもそうですが、その範囲の広さにも各々の差があって、広い人もいれば狭い人もいるでしょう。
当然、範囲が狭い人ほど、「普通でない」と感じる事象が多くなります。

〈 普通 〉の範囲からはずれたものは、普通でない、すなわち、特別,稀少,奇抜,異常 として判断されることになります。
ここで、正の価値を持ったものとして認識すればそれは〈 個性 〉となって光り輝きます。一方、負の価値を持ったものとして認識すればそれは〈 コンプレックス 〉となり、ダメ出しの対象となります。

・ 〈 普通 〉の範囲を広げる

〈 普通 〉の範囲は広かったり狭かったりと人それぞれですが、これを広げていくことができます。
他者あるいは異文化と接したとき、自分にとって普通ではないものがたくさんあるものです。そこで人は違和感を感じます。

そのとき、 その違和感を感じた対象を受容する ことができたとしたら、いったいどうなるでしょう。
もしかしたら、いつの間にやらその対象は〈 当たり前 〉に思えてくるかもしれません。そうであれば、もはやそれは〈 普通 〉の範囲に入ってしまったことになります。つまり、〈 普通 〉の範囲が広がったのです。

もちろん、何でも受容しなければならないなどということは無いと思います。どうしても受容でき得ないものだって、人間ですからあるのが当然でしょう。
ただ、〈 受け止める力 〉を最大限発揮してあらゆるものを受容していったとするならば、その人の〈 普通 〉の範囲は確実に広がっていくことでしょう。
それは、結果的に違和感を感じる頻度を少なくすることにつながります。そして、自分と相手と社会の重なりを広げることにもなるので、疎外感や罪悪感による苦しみも軽減されていくかもしれません。

可能なものは受容していくというのが、得策のような気がします。


■ 第14回 生き方の選択(2014年3月1日)

豆腐さんのブログでの報告はこちら

〈 セクシュアリティ勉強会 〉としては最後となったこの回は、性同一性障害の当事者を取り上げたTV番組を視聴してのディスカッションでした。
この日は、スタッフ以外の参加者が常連の僕しかおらず、そのためか相当に濃密な内容でした。まさにフィナーレにふさわしいものになりましたね。
あれから5ヶ月以上経っていますが、今でもあの日のノーミソの疲れと爽快さ・快感は覚えています。
僕の理解力と執筆能力が至らないために、その濃さが伝わらないのがたいへん残念です。

・ Want と Must の葛藤

WANT 自分が 「こうありたい」 と望むあり方
   ↑
   | 【 葛藤 】
   ↓
MUST 周囲が 「こうあって欲しい」 と望むあり方

自分の望むあり方と、周囲(他者とか社会とか)の望むあり方の間に乖離が生ずることは、しばしばあることでしょう。
そして、これは別にマイノリティに限ったことではなく、誰にでもあることです。
この葛藤にどう対処すればいいのでしょう。

もし MUST を優先させて WANT を無視すると、どこかで我慢できなくなるのではないかと思います。いくら他者・社会が望んでいるあり方だからといって、むりやり自分自身をそこへはめ込んでいくのは苦しいことですよね。どうしても限度があるとも思います。

また WANT を優先させて MUST を無視すると、それはそれで苦しいと思います。何故ならば、人は社会の中で他者と関わりながら生きていくしか無いからです。あまり自分を押し通しすぎると、必要以上に摩擦を生み、疲弊することにつながるかもしれません。あるいは、排除されたり処罰されたりといった結果につながるかもしれません。

ここはやはり、自分の WANT もできるだけ大切にしつつ、周囲の MUST にも配慮していくというのが良いのだろうなあと思います。
一番うまくいく妥協点を、ある程度手探りで見つけていくことになるのでしょうね。

WANT では無いけれど MUST なことがらを実行する場合、それは本当は「やりたくない」ことなのだということを自分の中ではっきりさせておくことも必要かもしれません。
自分のやりたくないことだけれど、他者・社会との関わりの上で必要なものだからこなしているのだという認識ですね。
要は、自分の中にある「やりたくない」という気持ちを抑圧しないで受け止めてあげることが必要なのでしょう。

・ 一歩踏み出すことと立ち止まったままでいること

何らかの生きづらさ・苦しさを感じているとき、その状況を変化させることもできますし、変化させないこともできます。
これは、どちらが良いということは一概には言えず、諸条件を考慮しながらその場合によって決断するものなんだと思います。

一歩踏み出して変化させることを選択して実行することで、生きづらさ・苦しさを緩和することができるかもしれません。
でも、そのためには、勇気が要ります。労力が要ります。覚悟も要るでしょう。

立ち止まったままで変化させない選択をする場合、今まで通りということなのである意味でラクなのですが、生きづらさ・苦しさは変わりませんので、ずっと付き合い続けていく必要があります。

結局、今ある生きづらさ・苦しさが、変化のために一歩踏み出すために必要な勇気や労力や覚悟と比べて大きいのか小さいのかということなんだろうなあと思います。
それによって、どちらの選択をするかが決まりそうですね。

・ 自分が自分を認めてあげること

「認めて欲しい」というのは、普通は、〈 他者から認められたい 〉という欲求を指すでしょう。
ただ、この欲求を持つ人は、実は自分自身が自分を認められていない場合もあるかもしれません。
自分で自分にダメ出しをしている状態というのは、とてつもなく苦しいものです。仮に他者が認めてくれなかったとしても、自分だけは自分の味方でいてあげられたなら、どんなにかラクでしょう。

自分自身のことを認めてあげるというのは、難しいことだと思います。
誰しも、自分自身の恥部みたいなものがあるはずです。そういうところは、どうしても認めたくないでしょう。
そういう部分さえも認めていくためには、〈 受け入れる力 〉あるいは〈 受け止める力 〉がかなり必要だと思います。

そう思うと、他者のことを認めていくというのも、やはり難しいことだということが改めて分かってきますね。
とはいえ、一度自分自身をとことん認めるという作業を経験した人にとっては、他者を認めていく作業も比較的スムーズにできるのかもしれません。

自分自身ととことん向き合う中で、自分自身を認めてあげることができれば、自分自身の最大の理解者でいてあげることができればいいなあと思います。



※ 過去の開催分について、豆腐さんのブログのエントリーへのリンクです
第1回 2011年12月23日 記事1記事2
第2回 2012年2月26日 記事1記事2
第3回 2012年4月29日 記事1記事2
第4回 2012年6月24日 記事1, 記事2
第5回 2012年8月26日 記事1記事2
第6回 2012年10月28日 記事1記事2
第7回 2012年12月15日 記事1記事2
第8回 2013年2月23日 記事1記事2
第9回 2013年4月27日 記事1記事2
第1回夜の部 2013年5月27日 記事
第10回 2013年6月22日 記事1記事2
第2回夜の部 2013年7月22日 記事
第11回 2013年8月24日 記事
第3回夜の部 2013年9月5日 記事
第12回 2013年10月26日 記事
第4回夜の部 2013年11月25日 記事
第13回 2013年12月22日 記事
第5回夜の部 2014年1月22日 記事
第14回 2014年3月1日 記事
第6回夜の部 2014年3月20日 記事

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第12回セクシュアリティ勉強会

2013-11-28 18:15:37 | セクシュアリティ勉強会(豆腐さん主催)
去年5月に知り合った、僕のゲイの友人、マイノリティのパイオニア・豆腐さん が、《 セクシュアリティ勉強会 》を隔月開催で主催されています。
(基本的には偶数月の第4土曜日午後)

また、2013年5月からは、平日夜の部の取り組みも始まっています。
こちらは定例会のテーマの再放送が基本のようですが、参加メンバーが違ったり、内容の練り直しが行われていたりで、テーマは同じでも完全な再放送にはならないようです。

僕は去年10月の第6回からだいたい毎回参加しています。今回(10月)で8回目となりました。
1年継続して参加し続けたことになりますね。
過去の開催分については、この記事の一番下にリンクをまとめて載せてあります。


※ この勉強会について、僕のブログのエントリーへのリンクです。よかったら読んでね
第9回(テーマ:友人関係) (2013年4月27日実施。2013年5月12日記事公開)
第10回(テーマ:カミングアウト) (2013年6月22日実施。2013年6月23日記事公開)
第11回(再)(テーマ:カミングアウト2)前編 (2013年9月5日実施。2013年9月6日記事公開)
第11回(再)(テーマ:カミングアウト2)後編 (2013年9月5日実施。2013年10月9日記事公開)


10月26日の勉強会の記事が、11月の末に公開という遅さに呆れますが、なかなか落ち着いて記事を書く余裕もなかったので仕方ありませんね。
諸々あって、次に僕がこの勉強会へ出席するのは年明けの1月になりそうなので、「ま、年内に書ければいいか」と気楽に考えていました。
そんなわけで、長く寝かせたわりに内容が濃いわけではないので、期待せずに読んでください。
(9月の分が前後編にわたる超力作だったのですが、それには及びもしません)

今回のテーマは、『僕たちが選んだ結婚』でした。
ともすれば、政治的な色彩が強くなるテーマですが、この勉強会ではどんな感じになるのかなあと楽しみでした。結果的に、期待を裏切らず、いつもと同様に良質な勉強会になったと感じました。

■ 中村さんの事例(要点)

実は、『僕たちの選んだ結婚』というタイトルは、昨年(2012年)の12月にNHKで放送された番組のタイトルなのです。
日本人のゲイ男性、中村さんのことを取り上げたドキュメンタリでした。
勉強会では、まずこの映像を視聴し、それをもとにしてディスカッションを行ったのでした。
僕はその放送をリアルタイムで見たので、だいたいのあらすじは覚えていました。
(そのときに書いた記事をお読みになりたい方は、こちら をお読みください)

ここでは、内容をご存じない読者のために、中村さんの事例の要点をご紹介しようと思います。
放送の内容をすべて書き起こすとたいへん長くなってしまうので、かなり端折って、簡潔にまとめています。

(1) 日本にいたころの中村さん

中村さんは思春期のころにはすでにゲイとしての自覚を持っていました。ただし、「男性を好きになる自分を人に知られてはいけない」という思いを持ち、誰にも打ち明けることなく生きていました。
もちろん、このような〈クローゼット〉な生き方を望む人もたくさんいます。でも中村さんにとっては苦しかったようです。
24歳のとき、彼が悩みを書き連ねていた日記が、母親の目に入り、結果的に母親へのカミングアウトということになりました。
幸いにして、中村さんは両親に理解・受容してもらえました。
2008年、中村さんはNHKの番組へゲイを公言した上で出演しました。当時、人口2000人あまりの島で暮らしていた彼は、番組への出演を通して周囲の人たちにカミングアウトした形になりました。
放送前は島の人たちと良好な関係を築けていましたが、放送後、多くの同僚や友人が中村さんから離れていってしまいました。そして、精神的に追い込まれた中村さんは島を出ることになったのでした。

(2) オランダへ移ってからの中村さん

日本には居場所が無いと感じ、自分らしく生きられる場所を探していた中村さんが行き着いた場所は、オランダでした。
オランダは2001年に世界で始めて同性結婚が合法化された国であり、セクシュアルマイノリティにもっとも寛容な国の1つとされています。
とはいえ、色々な人が住んでいるので、同性愛者の存在を快く思わない人ももちろん存在します。特に、イスラム圏からやってきた人たちの抵抗感は根強いようです。
インターネットでオランダ人のミヒルさんと知り合った中村さんは、次第に彼と惹かれあうようになり、ついには結婚することに決めたのでした。
2人は、2012年10月2日、結婚式を挙げました。式には、中村さんの両親も出席しました。

■ 〈 逃げる 〉ことと〈 選択する 〉ことについて考える

(1) 中村さんの〈 失敗 〉

中村さんはNHKの番組を通して島の人たちへカミングアウトすることを〈 選択 〉しました。
その選択をするにあたっては、「きっと島の人たちは受容してくれるはずだ」という希望的観測があったことと思います。
両親に受容してもらえたのと同じように、島の人たちにも受容してもらうことができる。そうすれば、ゲイをオープンにしてのびのびと幸せに暮らしていくことができる。
そんな思いを抱いての番組出演という形を通じたカミングアウトだったと思います。

でも、結果的に中村さんの思いは打ち砕かれました。それは経緯を前節でお読みいただいたとおりです。
中村さんの選択は〈 失敗 〉だったわけですね。

第三者の立場から見ると、「考えが甘かったのでは?」と思えてしまいます。ものごとはそんなにうまくいくとは限らないのに、無謀だったのではないかと感じます。もし僕ならばきっとこの〈 選択 〉はしないでしょう。

中村さんとしては、「受け入れてほしい」という思いがあったはずで、その気持ちも分かります。
でも、それは彼の勝手な思いであって、他者はそのとおりになるとは限らないわけですね。
自分の思惑通りにならなかった場合(失敗した場合)のことをきちんと考えて、相当の〈 覚悟 〉を固めて〈 選択 〉しなくてはいけなかったと思います。
(もちろん、本当のところは分からないので、中村さんは相当の覚悟を固めて選択したのかもしれないのですが…)

いずれにせよ、中村さんの選択は失敗に終わってしまいました。
彼は、(彼自身の責任でももちろんありますが)ダメージを受けてしまったわけです。

(2) 〈 再生 〉のための〈 逃避 〉を選ぶこと

失敗してダメージを受けた中村さんは、結果的に日本に居場所を見つけることができず、オランダへ移住しました。
これは、 日本で失敗したのでオランダへ〈 逃げた 〉 ということもできそうです。
中村さんの場合はたまたま行き先がオランダという国外でしたが、たとえば、東京や大阪などの都会へ引っ越した場合でも、
同様に、 島(田舎)で失敗したので都会へ〈 逃げた 〉 といえそうです。
別の言い方をすれば、日本 or 島(田舎) でもう一度やり直すことを〈 諦めた 〉ともいえそうですね。

ところで、〈 逃げる 〉とか〈 諦める 〉といった言葉から受ける印象というのは、どちらかというと、マイナスのイメージが強いのではないでしょうか。
確かに、逃げずに諦めずに、何度でも挑戦する姿は心を打ちます。
それに対して、逃げてしまう,諦めてしまう,投げ出してしまうというと、なんとなく「もったいない」とか「卑怯だ」とかいった印象があります。

(逆上がりができないAくんとBくんがいたとします。Aくんは何度失敗しても逃げずに諦めずに練習し続けました。Bくんは「もう無理だ」と逃げてしまいました。結果的に2人ともできるようにはならなかったとしても、多くの人はAくんの姿に心打たれ、彼をほめるのではないのでしょうか。そしてまた、逆にBくんには負の印象を抱く人が多いのではないでしょうか)


もちろん、闇雲に逃げたり諦めたりばかりしているのはもったいない生き方だと思います。卑怯なのかもしれません。
ただ、〈 逃げる 〉とか〈 諦める 〉とかいったことは、必ずしも悪いばかりではないとも思います。

失敗したり挫折したりしたとき、人はダメージを受けます。そこから立ち直ること、〈 再生 〉することは、大変なことです。
そのとき、一度〈 リセット 〉することが功を奏するのかもしれません。
失敗や挫折に至った環境から離れ、リセットして、再び歩み始めるという選択は、あっていいと思うのです。
それは前の環境からの〈 逃避 〉であり、〈 諦め 〉なのですが、決してもったいなくはないですし、卑怯ではないと思います。

中村さんは、日本 or 島(田舎) から逃げました。日本 or 島(田舎)でやり直すことを諦めました。
でも、僕は彼のしたことはもったいなくないと思いますし、卑怯でもないと思います。
彼は 失敗から立ち直り、再出発を果たすために、リセットすることを〈 選んだ 〉 のだと思います。
そして、そのために自分にとって適した場所として、オランダを〈 選んだ 〉のだと思います。

(先ほどの逆上がりの喩えでいくと、もしかしたらBくんは逆上がりから逃げて、水泳を頑張っていたのかもしれません。そして、水泳大会で入賞したのかもしれません。だとすれば、彼が逆上がりから逃げたことはもったいなくも卑怯でもなかったのかもしれません。少なくとも僕はそう思います。もちろんAくんにも心打たれますが、Bくんも讃えたいですね)


〈 逃げる 〉こと、〈 諦める 〉こと、〈 投げ出す 〉ことは、悪いこととは限らない と僕は思いました。

むしろ、逃げたり諦めたり投げ出したりすることで、上手に再出発を果たし、よりよいものを手に入れることができるかもしれないということですね。
逃げることや諦めることや投げ出すことを、悪いこと(勿体無いこと,卑怯なこと)と決め付けず、どういう選択をするのが一番いいのかということをよくよく吟味した上で決断するのが大切なのだと感じました。

逃げずに諦めずに投げ出さずに、向き合い続けるのもあり。
そして、〈 再生 〉のための〈 逃避 〉を選ぶのもありということですね。

■ 自己と相手と、そして〈 社会 〉と

中村さんのドキュメンタリの中には、オランダ在住のイスラム圏の男性(ウォニさん)が登場します。ウォニさんは中村さんと同じオランダ語教室へ通っていて、中村さんはミヒルさんとの結婚のことをウォニさんに伝えたのでした。
当然のことなのですが、ウォニさんは否定的な反応を示しました。
イスラム教の戒律では、同性愛を厳しく禁じています。
それが「当たり前」のなかで育ったウォニさんにとって、やはり同性愛や同性結婚は受け入れがたいことでしょう。

互いに理解しあう、承認しあうといった場合、〈 自己 〉と〈 相手 〉だけを考えただけでは不十分であって、もう1つのファクターとして〈 社会 〉も考えなければならないと思います。

どんな人でも〈 社会 〉の中で生きています。そして、それぞれの社会の中にある〈 文化 〉に無意識のうちに多くの影響を受けているわけです。
(それがいいとか悪いとかではなくて、影響を受けているという事実です)

近頃、教育学の界隈ではよく〈 ヒドゥン・カリキュラム 〉という言葉が聞かれるようです。これは「意図して教えようと思っている内容でなくても、結果的に教えていたり体得させていたりするものごとがある」ので、「これからはそこにも目を向けて教育を考えていこう」という趣旨ですが、社会の中の〈 文化 〉や〈 慣習 〉というのはまさにヒドゥン・カリキュラムだと思います。

同性愛者に限らず、マイノリティの生きづらさというのは、
・ 〈 法 〉や〈 制度 〉によるもの
・ 〈 慣習 〉や〈 文化 〉によるもの

に大別されると思います。そして、おそらく、慣習や文化に起因するものの方が多いのではないかと思います。

法に従わない者は処罰され、慣習や文化に従わない者は排除されます。
制度は完璧なものを作るのは難しく、どうしても零れ落ちてしまう部分が出てしまいます(そして零れ落ちるのはたいていはマイノリティです)。

法や制度は、明示的に定めたり作ったりするものですから、手続きを経て変えていくことができます。
はっきりしている分、話はクリアではあります。
変わるとなれば、スパッと変わる性質のものです。

一方、慣習や文化というものは明示されるものではありませんし、無意識のものです。
そこに難しさがあると思います。
慣習も文化も、もちろん不変のものではないのですが、あくまでもじわじわと変わるだけです。
変えようと思って変わるという性質のものでもなさそうです。

何らかの事情で、慣習や文化に従えない( or 従いたくない )という場合、その事情を抱えたままで、排除されることの無いように生きていかなければなりません。それが「生きづらさ」なのだと思います。

仮に、法や制度を整備したとしても、慣習や文化による生きづらさは残ってしまいます。
あまり直面したくない厳しい現実ですが、しかし、マイノリティの立場にある人は(もちろんそれが〈 公認 〉でも〈 非公認 〉でも)、このことをよく見据えておく必要があると思います。
それは、自分の身を守ることに直結するはずだからです。

そして、相互理解や相互承認をすることは、この「生きづらさ」を緩和することになると思うのですが、
その際には、〈 自己 〉と〈 相手 〉だけでなく、〈 社会 〉というファクターがあるということを考慮する必要があると思います。
自分も相手も、社会の影響を受けて育ってきましたし、今も影響を受けて生きているということです。

--------------------

中村さんのオランダでの同性結婚を扱ったドキュメンタリから、主に2つのことを考えることができました。
1つは、〈 再生 〉のための〈 逃避 〉ということ。
もう1つは、自己と相手に加えて〈 社会 〉というファクタを認識するということ。(特に社会の中の〈 慣習 〉や〈 文化 〉にかかわること)
後者に関しては、依然としてもやもやしたままではありますが、これからも考えていきたいですね。

次回の勉強会は、2013年12月21日(土) の午後に開催されるようです。(僕は行けないんですけどね……)
また、それと同じ内容で、1月のどこかの平日の夜に開催されるようです。(僕はそちらへ行く予定!)

興味のある方はぜひどうぞ。告知や申し込みは、こちら からです。



※ 過去の開催分について、豆腐さんのブログのエントリーへのリンクです
第1回 2011年12月23日 記事1記事2
第2回 2012年2月26日 記事1記事2
第3回 2012年4月29日 記事1記事2
第4回 2012年6月24日 記事1, 記事2
第5回 2012年8月26日 記事1記事2
第6回 2012年10月28日 記事1記事2
第7回 2012年12月15日 記事1記事2
第8回 2013年2月23日 記事1記事2
第9回 2013年4月27日 記事1記事2
第1回夜の部 2013年5月27日 記事
第10回 2013年6月22日 記事1記事2
第2回夜の部 2013年7月22日 記事
第11回 2013年8月24日 記事
第3回夜の部 2013年9月5日 記事
第12回 2013年10月26日 記事


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セクシュアリティ勉強会(第3回平日夜の部) 後編

2013-10-09 23:23:30 | セクシュアリティ勉強会(豆腐さん主催)
この記事は、《 後編 》です。
《 前編 》をまだお読みでない方は、 先に《 前編 》からお読みいただきますよう 、お願いします。
こちら からどうぞ

※ 前編の目次
■ 剛志くんの手紙を読んで
(1) 穏やかな文体と安心感
(2) 恵まれた環境と感謝の気持ち
(3) 自己理解・自己受容に到るまでの苦悩
(4) 僕自身の場合は……

■ お母さんの手紙を読んで
(1) 力強い文体と息子へのエール
(2) 母の愛(親ごころ)
(3) 気丈さの裏の苦悩
(4) 母の覚悟と決意
(5) 実母と重なる……


カミングアウト・レターズ
砂川秀樹 + RYOJI
太郎次郎社エディタス

(今回の勉強会で取り上げられたのは、pp.45~65 です。全文をお読みになりたい方は、お手元にご用意の上参照してください)

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■ 今、読み返しての涙の意味は?

前編 で書いたとおり、僕は『カミングアウト・レターズ』を去年の4月~5月に既読でした。
それから1ヶ月少し経って、久しぶりに読み返す機会を得たというわけです。

なんとなく内容は覚えていたので、比較的スラスラと読み進めたのですが、お母さんから剛志くんへの手紙を読んでいると、涙が止まらなくなってしまいました。
それは、剛志くんのお母さんが、僕の実母とオーバーラップしてしまったからなのですが、1年と少し前に読んだときには、こんな風に涙が出てくるというようなことはありませんでした。

この違いはいったいどこから出てきたのでしょうか。

その答えは、《 1年と少し前の僕 》と《 今の僕 》は違うというところにあるのではないかという気がします。

1年と少し前の僕は、簡単に言ってしまえば、 自分自身のことで手一杯 でした。
どうやって母へのカミングアウトを進めていくのか。母にきちんと理解してもらうにはどうすればいいのか。受け止めてもらえるのだろうか。そもそも、これからどうやって生きていくのか。
さまざまな事が渦巻いていて、圧倒されていました。
とてもとても、「他者の視点に立って考える」とか「他者の立場を理解する」ことのできるような状況ではありませんでした。

でも、今の僕には余裕があります。
それは、 他者の視点で考えたり、他者の立場を理解していこうとすることができるようになった ということです。
今の僕は、カミングアウトの受け手の視点から、1年と少し前のあのカミングアウトを振り返ることができます。そして、受け手(母や妹や一部の友人たち)の立場も少しずつ理解できてきたのです。
そうすると、受け手の側にも大きな衝撃と葛藤があったのだということと、それを乗り越えてなんとか僕のことを受け入れようと(多かれ少なかれ)努力してくれたのだということが見えてきます。
そして、いくら余裕が無かったとはいえ、どれほど自分本位な行動をしていたのかということに直面させられて、恥ずかしくなりました。
それと同時に、そんな僕を結果的に受容してくれた母や妹や友人たちへの感謝の気持ちで、今の僕は満ち溢れているのです。

結局、《 1年と少し前の僕 》と《 今の僕 》では、お母さんから剛志くんへの手紙の 読み方そのものが違った ということだと思います。

《 今の僕 》は、お母さんから剛志くんへの手紙を、カミングアウトの受け手であり手紙の書き手であるお母さんの視点から読むことができたわけです。
そして、この手紙を書いたお母さんと僕の実母がどことなく似通っていて、剛志くんと僕もどことなく似通っているということも手伝って、僕は1年と少し前のあのカミングアウトのときの、母の側の心境を追体験させられた形になったわけです。
母がいろいろな複雑な思いを乗り越えて僕のことを受容してくれたのだということを思ったとき、涙があふれて止まらなくなりました。
やはり一番大きいのは感謝の気持ちなので、この涙も大まかに言えば 感謝の涙 と言っていいのかもしれません。


■ 《 違和感 》について考える

《 違和感 》は、セクシュアリティ勉強会の重要キーワードの1つと言えるでしょう。

豆腐さんの書かれた勉強会の趣旨も、
「みなさんの心の中に、ほかの普通の人とどこか違う、違和感 に感じていることはありませんか? それは、もしかしたら、あなたにしかない光り輝く宝石のような 個性 かもしれません。「性差」という視点から、その個性について一緒に勉強してみませんか」
となっていて、《 違和感 》というフレーズが出てきます。

今回の勉強会では、この核心に触れるともいえる《 違和感 》そのものについて、少し考えを深めることができました。
ここでは、その成果をまとめてみようと思います。
ただし、壮大なテーマゆえに、どの程度まで上手くまとめられるかは自信がありません。
あくまでも、現時点での考えを、そこはかとなく書きつくったものとしてお読みいただければ幸いです。

(1) 違和感は誰にでもある

違和感は、「あれ?みんなと違うぞ!」という自覚 だと思います。人はすべて異なっていて、誰一人として同じ人間は存在しません。ゆえに、違和感をまったく抱くことのない人間というのは存在しないのではないでしょうか。
もちろん、もの凄くたくさんの違和感を抱く人もいれば、少ししか違和感を抱かない人もいます。量的な差は結構ありそうです。
でも、《 違和感を抱く 》という事実そのものは、人類共通なのだと僕は思います。
お母さんから剛志くんへ宛てた手紙の中で、

「みんなと違う」って違和感を感じたのは、多かれ少なかれ誰だってあるものだよ。

とありましたが、これは確かにその通りだと思います。
違和感は、他者との関係性の中から必然的に生まれてきます。
人間社会で生きていれば、もれなく違和感を抱かされるようになっているのです。

(2) やり過ごせる違和感 と 心に引っかかる違和感

とはいえ、一口に違和感と言っても、そこには《 質 》の違いがありそうです。
例えば、違和感の中には、

(a) 特に意識し続ける必要もなくやり過ごせる違和感
(b) 心に引っかかって意識させられてしまう違和感

というそれぞれのタイプがありそうです。
(a)のタイプは、あまり益にも害にもならないようなものです。良くも悪くも、我々の人生に与える影響は小さいといえます。
一方、(b)のタイプは、益になるにせよ害になるにせよ、大きな影響を与えてきます。場合によっては、人生を左右することもあるかもしれません。害になっているのならば、何らかの対処が必要でしょう。益になっているのならば、その効果をもっと強化するといいかもしれません。
いずれにせよ、注目すべきは(b)のタイプの違和感ということになりそうです。

2つのタイプの違和感について、少し例を挙げて考えてみましょう。

【 例1 】居住地に起因する違和感

人は日々過ごしている土地に強く影響されているものです。
他地域の人と交流する機会があると、言葉や食べ物や生活習慣など、様々なものが異なっていることに気づかされます。
そこに、《 違和感 》が生まれます。
この違和感は、僕は基本的には(a)のタイプの違和感であると考えています。経験上、この種の違和感が心に引っかかることはほとんどなかったのです。
でも、場合によっては(b)のタイプの違和感になることもあるかもしれませんね。
特に、引っ越しなどで居住地が変わった場合などは、高確率で(b)のタイプの違和感となりそうです。

【 例2 】血液型に起因する違和感

血液型は、僕はAB型ですが、世の中にはそれ以外にA型,B型,O型の人が存在しています。
存在比率的に言えば、AB型が一番マイノリティ(少数派)です。
AB型の僕が、A型やB型やO型の人と出会えば、そこには差異があるので、違和感が生まれるはずです。
でも、それを意識させられるようなことは滅多にありません。あるとすれば、病院で医療を受けるとき,献血に協力するとき,世間話で血液型が話題になったときくらいでしょう。
いずれにせよ、ここで生ずる違和感は、(a)のタイプの違和感ということになりそうです。

【 例3 】趣味・嗜好に起因する違和感

人それぞれ自分の趣味や嗜好を持っているものです。
どんな本が好きか、どんな服が好きか、どんな食事が好きか、どんなスポーツが好きか、どんな音楽が好きか、どんなドラマ・映画が好きか、挙げていけばきりがありません。
この趣味・嗜好に起因する違和感には、両タイプあると思います。
僕はネギと椎茸の味噌汁が大好物ですが、妹はネギも椎茸も苦手で食べられません。ここには差異があり、違和感を生みますが、この違和感は(a)のタイプです。
僕はプロ野球が好きですが、世の中にはサッカー好きな人,ラグビー好きな人,柔道好きな人,相撲好きな人,水泳好きな人などいろいろです。ここには違和感が出てきます。あるいは、同じスポーツが好きでも、贔屓チームが違ったり、贔屓選手が違ったりすればそこに違和感が生まれるでしょう。でも、これも基本的には(a)のタイプの違和感だと思います。
僕はセクシュアルな面において、独特な嗜好・特性を色々と持っています。それらは独特であるゆえに、ゲイのコミュニティの中でも認知されていたりされていなかったりします。僕が一番違和感を感じずに済むのがゲイの集団ですが、それでもそれなりに違和感があります。ここに生まれてくる違和感は、僕にとっては(b)のタイプの違和感です。
(最後の例は一般の方にとってはかなり分かりにくいですよね。すみません…)

【 例4 】身体的特徴に起因する違和感

持って生まれてきた身体も人それぞれ異なります。
小さい人もいれば大きい人もいます。細い人もいれば太い人もいます。毛が濃い人もいれば薄い人もいます。目が大きい人もいれば小さい人もいます。鼻が高い人もいれば低い人もいます。
こうした差異はもちろん違和感を生みます。
チビとかデブとかガリとかハゲとか、これらはすべて身体的な特徴を指して、蔑視のニュアンスを込めて使われることの多い言葉だと思います。
そして、これらの身体的特徴を持った人の中には、かなり深刻に悩んでいる人もいます。
かれらの感じている違和感は、紛れもなく、(b)のタイプのものでしょう。

【 例5 】性的指向に起因する違和感

セクシュアリティ勉強会についての記事なので、性的指向のこともきちんと書いておきます。
僕の性的指向は男性へ向いています。一方で、世の中の大多数の男性の性的指向は女性へ向いています。
性的指向を男性へ向ける人たちというくくりで行けば、その大多数は女性です。
いずれにせよ、ここには差異が存在し、違和感が発生します。
この違和感は(b)のタイプです。少なくとも僕の場合はそうです。
世の中には、恋愛とか結婚とかに関わる話題が、思う以上に満ちあふれています。
そうした話題が出される度に、「僕はみんなとは違う」と意識させられてしまいます。心に引っかかってきてしまいます。
この違和感に、どのようにしてアプローチをかけていくのかが、同性愛者や無性愛者の生きやすさに直接つながっていくのだと思います。

(3) 違和感は悪いものなのか? ~個性とコンプレックス~

《 違和感 》という言葉を聞いて、読者の皆様は、ポジティブな印象を受けますか? それとも、ネガティブな印象を受けますか?
僕は、違和感と聞くと、どちらかというとネガティブな印象を受けてしまいます。
「あまり感じずに済むのなら感じないで居られる方がいいのかなー」と思うわけです。

でも、せっかくの機会なので、そこを問い直してみようと思います。
そもそも違和感というのは悪いものなのでしょうか。

改めて考えてみると、もしかしたら、違和感は必ずしも悪いものではないのではないかという気がしてきました。

違和感は差異の自覚から生まれてきます。僕はAで、彼はBだから、僕と彼は違う。そのことを自覚したときに、違和感が発生するわけです。
ここにあるのは、AとBの差異という事実です。差異そのものには、良いも悪いも無いと思います。ただ、「違う」というだけのこと。
そして、そのことを自覚した結果生まれてきた違和感も、やはり本来はフラットなものなのかもしれません。

ただし、実際にはたいていはそうはならないわけです。

違和感を感じたとき、その発生源となった差異を、当人が好ましいものと認識しているか好ましくないものと認識しているかによって、その違和感に ポジティブ / ネガティブ の感情が上乗せされてくるのだと思います。

好ましいと思っている差異を自覚すると、生じてきた違和感にはポジティブの感情が上乗せされてきます。これが 自己肯定感 へとつながっていきます。
このとき、違和感の発生源となった差異は、《 個性 》として認識されているともいえそうです。

一方、好ましくないと思っている差異を自覚すると、生じてきた違和感にはネガティブの感情が上乗せされてきます。これが 自己否定感 へとつながっていきます。
このとき、違和感の発生源となった差異は、《 コンプレックス 》 として認識されているともいえそうです。

こうしてみてみると、《 個性 》と《 コンプレックス 》というのは、実は似ているのかもしれません。
そして、もしかしたら、今まで《 コンプレックス 》だったものを、《 個性 》に変えるということも可能なのかもしれないという気がしてきます。
言い換えれば、自己否定感が自己肯定感へ変わるという現象を引き起こすことができるのかもしれない。
もし現実になれば、喜ばしいことですよね。

違和感は、自己否定感やコンプレックスだけではなく、自己肯定感や個性とも密接につながっているのだと思います。
だとすれば、決して悪いものだとも言い切れないですね。
むしろ、「違和感を感じたらシメタ」なのかもしれません。うまく生かせば、個性を発見したり、自己肯定感を高めたりすることができるのですから。

(4) 違和感は自己理解への入り口になる

先述したとおり、違和感は他者との関係性の中から生まれます。
他者が存在しなければ、違和感というものは存在し得ないものです。

他者と関わる中で、他者の中に自己と異なる部分を発見 し、差異を自覚することで、違和感が生まれてきます。

これは、別の見方をすれば、他者をセンサや鏡のように活用して自己の中に他者と異なる部分を発見している と言うこともできます。

自分自身のことというのは、実のところよく分からない部分も多いものです。
そして、漠然と生きていても、分からないままで時間ばかりが過ぎていってしまうという気もします。
したがって、自分自身のことをしっかりと理解するためには、意識的に努力をする必要がありそうです。

このとき、他者というセンサが発してくれる(他者という鏡が映し出してくれる)違和感というサインが、突破口となってくれます。
違和感を通じて、「(彼は××だけど、)僕は△△なんだ」という認識が生まれます。
自己の新たな一面を、これまでは認識していなかった一面を、はっきりと認識することができるのです。
これを積み重ねていくことで、自己理解はどんどん深まっていきます。

違和感を感じて辛いことも多いと思います。
心に引っかかり続けてしまう違和感。どうしてもコンプレックスとしか思えないような違和感。
こんなものを抱えて生きるのは、やはり大変なことです。多ければ多いほど、。圧倒されてしまうでしょう。
でも、どうせ辛い思いをしなければいけないのならば、利用できるところでは利用しちゃえというのも一理ありそうです。
違和感を、自己理解への切り口として活用してしまうというのは、なかなか賢明なやり方のような気がします。

そして、自己理解をしっかり深めた後に、自己開示を行うことで、もしかしたら今までコンプレックスだったものが個性に変わることがあるのかもしれません。
そこまでは行かなくても、辛さが軽くなることが期待できるかもしれません。

違和感というのは、結構、役に立つものなのですね。


■ 僕もあなたもマイノリティ?

さて、かなり長く述べてきましたが、いよいよ最終節です。

この勉強会は《 セクシュアリティ勉強会 》であり、執筆者である僕は、男性同性愛者( ゲイ / ホモ )です。

でも、ここで書いていることは、決して、同性愛者とか、セクシュアルマイノリティとか、特定の人々にだけあてはまることではないと思います。

違和感は誰しもが抱くものです。

個性もコンプレックスも、誰しもが持っているものです。

心にまとわりついて離れない違和感に苦しむ人、コンプレックスを抱えて辛い思いをしている人というのは、世の中にはたくさんいます。
社会的に認識されてカテゴライズされた、《 公認の弱者 》や《 公認のマイノリティ 》だけが辛く苦しいわけでは決してありません。
今の日本においては、誰しもがある側面に於いて弱者であり、マイノリティである、というのが正しいのではないかと、僕は考えています。

僕はマイノリティの総合商社のような男ですが、それでも全ての側面に於いてマイノリティというわけでは決してありません。
いわゆる、マジョリティ(多数者)の側に属する部分だってたくさん持っています。

そして、逆に、ごく普通の凡庸な方であっても、全ての側面に於いてマジョリティ(多数者)ということはあり得ず、必ずマイノリティ(少数者)の部分を背負っているのだということなのです。

僕もマイノリティ、あなたもマイノリティ。

このブログでは、同性愛のことを中心に、セクシュアリティのことを綴ることが多くなりますが、それは、同性愛者が同性愛のことを書くブログと銘打っているからに過ぎません。

同性愛の当事者ではない読者の皆様におかれましては、もちろん「同性愛者について知るため」という読み方をしていただいてもいいわけですが、
それと同時に、「ご自身の抱えているマイノリティの部分と照らし合わせて生かしてみるため」という読み方もぜひしてもらえるといいのかなあという気がします。
(もっとも、それで本当に得るものがあるのかについては、責任は負いかねますが)

1人でも多くの方が、何かしらの気づきを得てくださったのだとすれば、記事を書いた者として幸いに思います。
この長い長い記事を最後までお読みいただき、感謝です。

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この記事は、僕のゲイの友人、マイノリティのパイオニア・豆腐さん が主催されている《 セクシュアリティ勉強会 》の、9月5日(木)開催分を振り返りながら書いたものです。

勉強会については、豆腐さんのブログ で告知が出ていますので、興味・関心のあります方はそちらをご覧ください。


※ この勉強会について、僕のブログのエントリーへのリンクです。よかったら読んでね
第7回(テーマ:教育) (2012年12月15日)
第9回(テーマ:友人関係) (2013年4月27日)
第10回(テーマ:カミングアウト1) (2013年6月22日)
第11回(再)(テーマ:カミングアウト2)前編 (2013年9月5日)


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セクシュアリティ勉強会(第3回平日夜の部) 前編

2013-09-06 14:07:32 | セクシュアリティ勉強会(豆腐さん主催)
去年5月に知り合った、僕のゲイの友人、マイノリティのパイオニア・豆腐さん が、《 セクシュアリティ勉強会 》を隔月開催で主催されています。
(基本的には偶数月の第4土曜日午後)

また、2013年5月からは、平日夜の部の取り組みも始まっています。
こちらは定例会のテーマの再放送が基本のようですが、参加メンバーが違ったり、内容の練り直しが行われていたりで、テーマは同じでも完全な再放送にはならないようです。

僕は去年10月の第6回からだいたい毎回参加しています。今回(9月)で7回目となりました。
平日夜の部ということで、第11回(2013年8月24日開催)の再放送でしたが、ちょうどその日は欠席だったため、僕としては初めてのテーマでした。
過去の開催分については、この記事の一番下にリンクをまとめて載せてあります。


※ この勉強会について、僕のブログのエントリーへのリンクです。よかったら読んでね
第7回(テーマ:教育) (2012年12月15日)
第9回(テーマ:友人関係) (2013年4月27日)
第10回(テーマ:カミングアウト) (2013年6月22日)


今回のテーマも、《 カミングアウト・レターズ 》でした。

『カミングアウト・レターズ』というのは、本のタイトルです。

カミングアウト・レターズ
砂川秀樹 + RYOJI
太郎次郎社エディタス


この本は、ゲイやレズビアンの当事者と、カミングアウトを受けた家族や教師との間の往復書簡集です。
完全クローゼット・ゲイとして、無性愛者(ア・セクシュアル)を演じきって生きていた僕は、去年5月に妹や母へのカミングアウトを果たしました。
一部の友人へもカミングアウトしました(まあ、これは半ば事故だったのですが・・・)。
そのころ、何度も何度も、読み返した本がこの本でした。
そして、あれから1年と少し経ち、久しぶりに読み返す機会を得たというわけです。

『カミングアウト・レターズ』には、何通かの往復書簡が掲載されています。前回は大学教員と学生の間のものを題材として取り上げていましたが、今回はゲイの息子とその母親との間のものが題材になっていました。
pp.45~65 が該当しますので、全文をお読みになりたい方は、お手元にご用意の上参照してください)

さて、以下では、自分の頭の中で考えたり、豆腐さんやほかの参加者の皆さんのお話を聞いたりしていく中で、印象に残ったことを少し書いてみようと思います。

■ 剛志くんの手紙を読んで

(1) 穏やかな文体と安心感

剛志くんがお母さん宛に書いた手紙を読み通してみて、とても穏やかで落ち着いた文体 だと感じました。
自分自身の生い立ちを冷静に見つめ直し、かつての自分がどんな状態にあったのかを的確に把握しているのがうかがえます。
これは、もしかしたら彼自身の人格の現れなのかもしれません。もちろん彼が実際にどんな人物なのかを知る由はありませんが、優しくて穏やかな人柄が文章からにじみ出ているように僕は感じました。
ただ、それだけではないという気もまたしています。
彼のカミングアウトは、お母さんに受け入れられました。そのことが彼に 安心感 を与え、それがこれほどまでの穏やかさや落ち着きにつながっているのではないかと思うのです。

(2) 恵まれた環境と感謝の気持ち


同性愛のカミングアウトを考えるとき、家族へのカミングアウト、特に両親へのカミングアウトはやはり特別なものなのではないでしょうか。
一番理解して貰いたい相手であり、かつ、一番障壁を感じる相手でもあると思うのです。
この手紙の剛志くんは、幸いにしてお母さんに受け入れて貰うことができました。これは正しく “幸いにして” であって、やはり彼は恵まれていたのだと思います。
そのことを彼自身が自覚しているようです。

・ それ(ゲイなのかということ)を聞いてきたときのお母さんの雰囲気はとげとげしいものではなくて、どちらかというと好奇心にみちたわくわく感が感じられたように記憶しています。もちろんまだ不安定な十代の子どもの発言だから、それほど真剣に受けとめていなかったのかもしれないけど、お母さんのこういう態度には 僕はとても救われたよ
・ 面白がって小説まで書いてくれる感性豊かな母に恵まれただけでも 充分幸せです

このあたりなどを読むと、彼のお母さんへの 感謝の気持ち が伝わってきますね。

僕自身も彼と同様にして、自分の母へのカミングアウトをして、受け入れてもらえた人間です。
僕は恵まれているのだと思っていたし、母に対しては言葉では表せないくらいに感謝しています。
そして、きっと彼も同じような感じなのではないかなあと、勝手に思っています。

(3) 自己理解・自己受容に到るまでの苦悩

今の彼はとても穏やかに自分自身の過去を振り返ることが出来ています。どうやら、自己理解自己受容 が、かなり出来ているような気がします。
ただ、そこに到るまでには、もちろん、紆余曲折があり苦悩もあったようです。
彼の手紙からもその道程が見えてきます。

・ 幼心に、男の子なのに女の子っぽい趣味が好きな自分は 少しおかしいのかもしれない、という気持ち をずっともっていました。

・ きっとそのうち、保健体育の教科書にあるように、「異性に対する関心」というものがだんだん芽生えてくるのだろう、と考えることにして、中学生のころは 自分で自分に蓋をしているような状態 でした。

・ でもそのとき(註:高校入学前の春休み)の自分は、相変わらず「このさき高校生になれば、異性に興味が出るかもしれないから、まだわからない」と、まだ自分の正体を直視できない状態 だったけれど。

・ (高校生の時、初めてゲイ雑誌を買った後)それまでなんとなく抱いていた「いつか治るかもしれない」という気持ちはその時点ですっぱりなくなってしまって…(中略)…身近な大人のような普通の人生を歩むことはない、と、なにか覚悟したような、ひらきなおったような気持ち でした


“みんな”との違いを認識し、それをどこか《 異常 》なもののように認識していた幼少期。
さらに“みんな”との差異が浮き彫りになり、しかしその事実と向き合うことから逃げていた (自分で自分に蓋をしていた)中学時代。
同性愛者についての情報を集め出し、知識が増えていく中でも、自分の正体を直視できなかった高校入学直前の春休み。
そして、いよいよゲイであることを確信せざる得なくなったとき、彼は 《 覚悟 》 へと到ったのでした。
それは、自分の正体(この場合はゲイであること)をしっかりと見据え、その運命を受け入れて、生きていくのだという《 決意 》でもあるでしょう。
おそらくその後もかなり紆余曲折があったはずだと想像しますが、29歳になった彼は、かなり自己理解と自己受容ができているように見えます。
もちろん誰しもが《 覚悟 》や《 決意 》をしなければならないなどということはありません。ただ、彼が自分で選び取った生き方はそういう生き方であって、そしてそれはわりと成功しているのかもしれないなあという印象を、僕は持ちました。

(4) 僕自身の場合は……

せっかく剛志くんが自分自身の過去を振り返っていますので、僕自信も少し振り返ってみようと思います。

幼少の頃の僕も、『自分が男の子か女の子かというところで、他の子どもたちのようにすんなりいかない』部分があったのは事実だと思います。
「男の子である」という点については、僕は一貫して揺らぎが無いのですが、いわゆる「男の子は○○」とか「女の子は○○」とかいった類の固定観念に対しての違和感は結構あったのです。
剛志くんは坊主頭にさせられるのが嫌だったとか、サッカーや野球に興味がもてなかったといった違和感を綴っていますが、これは僕にはあてはまりません。なぜなら僕は丸刈り大好きだし、野球観戦が趣味だからです。
でも、彼の気持ちは分かります。
例えば、僕は おままごとの好きな子ども でした。一般的には女の子の遊びとして捉えられていますよね。でも僕は好きだったんです。このことについて、ある種の違和感は僕自身の内面にもあったと思いますが、うちの母なんかは好きなようにままごとさせてくれたので、そんなに困ったりはしませんでした。
また、僕は 性的羞恥心の強い男の子 で、並の女の子以上に恥ずかしがりでした。「男の子は恥ずかしくない」などと勝手に決めつけて、男子の性的羞恥心を悉く無視するような無神経な大人たちに対しては憤りを覚えることもありました。でも、それを表明したら「男の子のくせに」と言われるのは目に見えていましたから、黙っていましたけれど。
一方、鉄道が好き だったりとか、機械に興味 があったりとか、いわゆる男の子っぽい部分もいっぱいありました。
(総じて見ればそっちの方が大きいのかな)
僕にとっては、「好きなものは好き」だし「嫌なものは嫌」なのであって、なぜそこに性別による縛りがあるのかなあと幼心に疑問でした。

小5のころ、同性に性的に惹かれる自分に気づきました。そのことを僕自身はあまり嫌だと思わず、そういう事実として受け入れていました。ただ、「このことは人に知られたらいけない」という思いは強く持ちました。それは、「もし知られたら気持ち悪がられたり忌避されたりしちゃう!」という危惧だったと思います。

ひ弱で理知的なタイプという僕のキャラクターもプラスに作用してくれました。僕は《 中性的 》と思われることはあっても、《 女性的 》に映ることはあまりないようで、「おかま」などと言われるいじめの経験は一度もしませんでした。また、恋愛とか性とかとは縁遠い人間だと勝手に思ってくれるので、無性愛者(ア・セクシュアル)を演じるのも存外たやすいことでした。
これは見方を変えてみれば、同性愛者である自分を、あまり直視せずに生きてきたということでもありました。

20代も半ばになって、そのことを直視せざるを得ない事情が発生し、僕は「僕が同性愛者である」という事実と真剣に向き合いました。いろいろと紆余曲折を経て、今は剛志くんと同じように、自己理解と自己受容ができつつあるような気がしています。

■ お母さんの手紙を読んで

(1) 力強い文体と息子へのエール

お母さんから剛志くんへのお返事は、とても力強い文体 でしたためられています。この文章を読む限り、たいへん気骨のある人物なのだろうなあと想像させられます。
剛志くんの出した手紙の、静かで穏やかな文体とは対照的だと感じました。
優しくて穏やかな息子さんと、気骨のある強いお母さんという見立てが正しければ、そんな息子さんに力を与え、鼓舞するような意図もあって、こんな勇ましいお手紙になったのかもしれませんね。
手紙の最後は、

ちょっとこのごろ弱気になってないかい? やあねえ ―― 私の息子はクヨクヨするほどやわじゃないはず。じゃあね。お元気で。また会おう

と締めくくられています。
剛志くんの穏やかな手紙から、お母さんは《 弱気 》を読み取り、そして力強く鼓舞して、エール を送ろうとしたのかもしれませんね。

(2) 母の愛(親ごころ)

この手紙には、力強くエールを送ると同時に、《 親ごころ 》もにじみ出ているように感じました。
世間の厳しさを切々と説く部分が多くありますが、これらの部分から、「息子には上手く生き抜いて欲しい」という痛切なる願い と、そんな厳しい社会に対する行き場のない怒りや不条理感 を僕は読み取りました。

例えば、カミングアウトについては、以下の通り述べています。

彼女 【註:剛志くんのことを「性障害者」と言ってきた女性】 が生意気でも残酷でも特別でもないのかもしれない。そのとき私は、それが当たり前の同性愛者への世の中の大半の目なのだと改めて思った。彼女が世間一般の見方を代表して、厳しい世界のことを、「性障害」というまちがった言葉で私に教えてくれたのかもしれない。
私は、あんたが己の性的し好【註:本来は性的指向だが、原文を尊重】を、わざわざ不特定多数の公に知らしめる意味は見いだせないし、悔しい。なにがなんでも隠す必要はないかもしれない。が、告白する対象者を時間かけて吟味しなさいと心から願う。
物分りのいい人ばっかりじゃあないからだ。よけいなマイナスの先入観で見られることのほうが明らかに多いからだ。社会人になれば自然に分かってきていると思うが、それでなくても世の中は甘くはない。

ここでお母さんが述べていることについては僕自身も共感するところです。これからカミングアウトをしようとしている人には、この趣旨のことを伝えたいのです。こういうことを知った上で、十分に吟味して行動を起こさないといけないと思うのです。
社会は確かに不条理です。でもそれが現実なのだから、しっかりとわきまえた上で、上手く生きていくことが必要なのです。こんなことをお母さんは言いたかったのではないでしょうか。

別のところで、以下のようなことも書いています。

もっと欲を言わせてもらえば、「本人のし好の問題」と「生きるため、食べるための糧を得るために働くこと」や「人間界の仁義」「健康」「臨機応変な社交性」「遊ぶことも大事」などの優先順位を間違えないでほしい。知性と感性と理性は人間だけの特権。生かしてもっと身につけてほしい。自分の人生なんだから、たいせつに生かしてほしいなあ。あんたの人生はあんたが好き勝手に使えるのだから、まわりの雑音を取捨選択する力だって鍛えなきゃダメ。

これも親ごころを感じさせる部分だと思います。
《 まわりの雑音 》に惑わされずに、自分の人生を大切にしないといけないと、僕も身に滲みて思います。
このことを忘れてしまうと、まかり間違えば、人生を棒に振ることにもなりかねませんからね。
(もちろんそういう選択をしたというのなら、それはそれでいいのかもしれないですが…)

(3) 気丈さの裏の苦悩

力強く親ごころに満ちた手紙の文面からは、このお母さんの気丈さが伝わってきます。でも、その気丈さの裏には実のところはかなりの苦悩があったと思います。そしてその苦悩は今でも無くなっていないのかもしれません。
結果的に、剛志くんがゲイであるということを受け止めたお母さんでしたが、そうすんなりと受け止めることができたわけではなかっただろうと思います。

手紙の中には、以下のようなくだりがあります。

関係者がそうなってからあわてて努力して知識を得て、理解しよう、認めようと努めているのが現実ではないだろうか。私だって、無関係ならば、正しい知識を知る機会もなかったし、学ぶ気もなかった。そもそも一生、無関心なことだっただろう。それどころか、ひょっとしたら誤解したまま、無理解の塊だったかもしれない。

きっと、お母さんは、関係者である剛志くんがゲイであるという事実に直面し、あわてて努力して知識を得て、理解しよう、認めようと努めたのだと思います。
それまで、世間一般の多くがそうであるように、無関心 ないしは 無理解 だったところから、正しく知り、認めていくところまでたどり着くのには、相当の葛藤があったはずです。
でも、やっぱりお母さんにとって剛志くんは大事な息子だから、彼のことを認めたいという思いがあって、もしかしたらかなり無理をした部分もあったのかもしれません。

理想を言えば、関係者がそうなってから慌てふためかなくてもいいような社会などというものが実現すれば、いいのかもしれません。しかし現実はそうなっていません。
当事者に苦悩があるのと同じように、当事者の周辺の人(特に受け入れたい・認めたいという思いが強い人)にも大きな苦悩があるのです。

(4) 母の覚悟と決意

剛志くんがゲイであるという事実を認め・受け入れたお母さんでしたが、おそらく苦悩は続いたことでしょう。
手紙の中にもあるとおり、世間は甘くはありません。ゲイであるということは、多かれ少なかれ生きづらさを生む要素ですし、偏見の目にさらされるリスクを背負い続けることにもなります。
大事な息子が、そうした厳しさの中で生きていかなければならない宿命を背負っているという現実を見つめたとき、お母さんとしては苦しかったと思います。
悲しさと不条理感と閉塞感と心配の気持ちと、いろいろなものが交錯したのではないかと推測されます。

でも、お母さんは、剛志くんがそうした現実をしっかりと見据え、その運命を受け入れて生き抜いていこうとする、《 覚悟 》と《 決意 》を感じ取りました。
そして、お母さん自身も、剛志くんと一緒に《 覚悟 》を固め、《 決意 》したようです。
手紙には以下のような文面があります。

「ぼくは幸せになるよ。幸せになるからお母さん、心配しないで。ぼくは犯罪者じゃないよ」と、母親に向かって毅然として言える言語能力と意志のある息子を内心誇りに思っているんだ、私。すごく人間らしくてかっこいいと思うけどなあ。遠慮することないよ、あんた。

これは、もう、剛志くんにとっては最高に嬉しい部分だったのではないでしょうか。
こんな素敵なお母さんを持って、彼は幸せ者ですね。

(5) 実母と重なる……

今回の9月5日の勉強会は、8月24日のものの再放送だったので、実は事前にどの往復書簡が題材になるか知っていました。
(8月24日は行けなかったものの、その報告を読んだら分かったのです)
『カミングアウト・レターズ』は1年と数ヶ月前に読んだというものの、それからだいぶ経ってしまっていますし、予習にもなればというつもりで、勉強会へ出かける前に、剛志くんの手紙とお母さんの手紙を読みました。

すると、お母さんの手紙を読んでいたら、なんだか実母が重なってしまいました。
僕の母が、僕に宛てて書いてくれた手紙なんじゃないのかという風に思えてきてしまって。
涙が溢れて止らなくなってしまいました。
家で泣いておいたおかげで、勉強会の時は少しウルっときただけで済んだわけですが。

文面を見ている限り、剛志くんのお母さんと僕の母は似たタイプの人のように思えます。
また、剛志くんと僕にも、どことなく似たところがあるような気もします。
母へのカミングアウトをして、それが成功した(受け止めてもらえた)というところも同じです。
こうした諸々が重なって、オーバーラップしてしまいました。

僕の母は、手紙を書いてはくれないだろうけど、もし書いたら同じような内容になるだろうなあ。
(2) 母の愛(親ごころ)のところで書いた2つのことは、実際に僕自身が実母から同じ趣旨のことを言われたのです。カミングアウトした後に対話しているときのことでしたが。

(3)節と(4)節も、書きながら、脳内では実母のことを思い浮かべていました。

1年と数ヶ月前に読んだときには、このお母さんからの手紙を読んで泣くことはありませんでした。
ここまで実母と重なることもありませんでした。
(なんとなく、うちの母と似た感じの方だなあくらいは思っていましたが)

この違いは何なのか、少し考えてみたいところです。


※ 記事がかなり長くなりましたので、一旦ここで区切ります。続きは《 後編 》 をご覧ください。

--------------------

次回の勉強会は、2013年10月26日(土) の午後に開催されるようです。
あと、大阪出張版が 2013年9月21日(土)に、東京出張版が 2013年11月3日(日・祝) にそれぞれ開催されるようです。

興味のある方はぜひどうぞ。告知や申し込みは、こちら からです。



※ 過去の開催分について、豆腐さんのブログのエントリーへのリンクです
第1回 2011年12月23日 記事1記事2
第2回 2012年2月26日 記事1記事2
第3回 2012年4月29日 記事1記事2
第4回 2012年6月24日 記事1, 記事2
第5回 2012年8月26日 記事1記事2
第6回 2012年10月28日 記事1記事2
第7回 2012年12月15日 記事1記事2
第8回 2013年2月23日 記事1記事2
第9回 2013年4月27日 記事1記事2
第1回夜の部 2013年5月27日 記事
第10回 2013年6月22日 記事1記事2
第2回夜の部 2013年7月22日 記事
第11回 2013年8月24日 記事
第3回夜の部 2013年9月5日 記事


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第10回セクシュアリティ勉強会

2013-06-23 17:27:34 | セクシュアリティ勉強会(豆腐さん主催)
去年5月に知り合った、僕のゲイの友人、マイノリティのパイオニア・豆腐さん が、《 セクシュアリティ勉強会 》を隔月開催で主催されています。

僕は去年10月の第6回から連続で参加しています。今回(6月)で5回目となりました。
過去の開催分については、この記事の一番下にリンクをまとめて載せてあります。


※ 過去の開催分について、僕のブログのエントリーへのリンクです
第7回 (2012年12月15日)
第9回 (2013年4月27日)


今回のテーマは、《 カミングアウト・レターズ 》でした。

『カミングアウト・レターズ』というのは、本のタイトルです。

カミングアウト・レターズ
砂川秀樹 + RYOJI
太郎次郎社エディタス


この本は、ゲイやレズビアンの当事者と、カミングアウトを受けた家族や教師との間の往復書簡集です。
完全クローゼット・ゲイとして、無性愛者(ア・セクシュアル)を演じきって生きていた僕は、去年5月に妹や母へのカミングアウトを果たしました。
一部の友人へもカミングアウトしました(まあ、これは半ば事故だったのですが・・・)。
そのころ、何度も何度も、読み返した本がこの本でした。
そして、あれから1年と少し経ち、久しぶりに読み返す機会を得たというわけです。

※ 実母や妹へのカミングアウトについては、こちらこちらこちら をご覧ください

『カミングアウト・レターズ』には、何通かの往復書簡が掲載されています。今回題材として取り上げられたのは、大学教員と学生の間のものでした。
(聞くところによると、次回(?)は親子のものを取り上げるみたいです)

今回の参加者は僕を入れて8名。そして、ゲイの当事者が4名(僕を含む)ということでちょうど半数でした。主催者・講師の豆腐さんを入れると、過半数がゲイ当事者ということになります。これだけ当事者比率が高いのは、この勉強会では初めてだそうです。
確かに、僕は第6回からの参加ですが、記憶する限り初めてですね。
当事者の数は、ある程度多いほうがいいと思います。ゲイといってもさまざまで、このような勉強会で当事者の数が少ないと、その人が《 代表例 》みたいになってしまいがちです。数が多くなると、そのリスクがなくなります。
僕なんかは、ゲイの中での外れ者ですから、実は僕を《 代表例 》と捉えられては困るわけです。でも、僕みたいな外れたゲイの存在もまた認めてほしいというか知ってほしいという思いももちろんあります。
というわけで、ゲイ・レズビアン・バイセクシュアル・トランスジェンダー・アセクシュアル等、セクシュアルマイノリティの当事者の皆さんで、真剣にセクシュアリティのことを語り考える場に興味のある方、ぜひ勉強会へ参加してください。あなたのお越しをお待ちしています ( ← いつから宣伝マンになったのやら )

さて、以下では、自分の頭の中で考えたり、豆腐さんやほかの参加者の皆さんのお話を聞いたりしていく中で、印象に残ったことを少し書いてみようと思います。

■ 《 自己開示 》の前に《 自己理解 》を

カミングアウトというのは、《 自己開示 》にあたると思うのですが、それは《 自己理解 》があってこそのものだといえそうです。
たとえば、数学の授業をするときに、数学を理解できていることは前提ですよね。理解できているからこそ、伝える・教えることができる。
自分自身のことを開示する(伝える)のもそれと同じで、自分自身のことをきちんと理解できていなければ、開示はできないわけです。
ところが、自分自身のことというのは、なかなかわからないものです。僕も自分のことがわからなくなることがしょっちゅうあります。
三田誠広の小説(芥川賞受賞作)に『僕って何』という作品があったと思いますが、まさにそのタイトルどおりの人生を歩んでいるような気がします。

僕は物事を観察したり分析したりすることが好きで、自分自身もその対象としている節がありますが、成果は芳しくありません。
《 理想の自己像 》と《 現実の自己 》の間には、当たり前だけれども乖離があります。そして、無意識のうちに、(まだ現実化されていない)理想の方をあたかも現実であるかのように思い込んでいることがあったりします。
たとえば、「感情に振り回されずに冷静に物事を捉えて判断できる僕」という自己像を僕は持っていたりします。それは確かに当たっている部分も多いのですが、でもそうでない自分を発見することもしばしばです。特に何か琴線に触れるようなことがあると、肥大化した憤りや悔しさや拒絶感などに圧倒されてしまうことがほとんどです。そういうとき、「あれ、僕はこんな人間だったか?」と思うわけですが、それが現実の僕なんですよね。ただ、「感情に振り回されず冷静に物事を捉えて判断できる僕でありたい」という理想があって、その理想像をそのまま自己像としてしまっているのだろうなあと考えています。こういった場合、「時には感情に圧倒されることもある僕」と「冷静に捉え判断したい僕」の両方を認めていくことが必要なんだろうなあと思います。そして、努力しているここ最近です。

また、《 自分から見た自分 》と《 他者から見た自分 》との間には往々にして乖離があります。
自分では「僕は○○な人間だ!」と思っていても、他者から「いや、私には××に見えるよ!」と言われて、驚かされることはしばしばです。
たとえば以下の如く。
・ 「僕は弱い」 → 「別に弱くなんかないと思うよ。特に内面を見るとね」「芯がすごくしっかりしてると思うし自信持ったら?」
・ 「僕は臆病だ」 → 「いや、実はすごく勇敢な人だと思う」「決断したら曲げずにブレずに臆せず主張できる人に見えるよ」
・ 「僕はセンスが悪い」 → 「私はあなたのセンス好きだよ」「文章とか綺麗だと思うけどねー」「服とかも言うほど悪くないんじゃない?」
・ 「僕は口が悪い」 → 「確かに毒舌だなあと思うことあるけど、でも、同時にいろんな人への配慮をしようと努力してることもかなり感じるよ」
・ 「僕はクールで冷たい」 → 「私には暖かくてやさしい人に見えるよ。笑顔も素敵だし」「むしろ太陽みたいに熱い人だと思う。メラメラと燃え上がる感じ」

こういう他者の視点が入ることで、立体視できますよね。本当に興味深いです。リアルの僕とつながりのある方、ぜひいろいろ教えてください。

さて、もし《 自己理解 》ができないままで《 自己開示 》をするとどうなるか。それは、おそらくただ単に感情をぶつけるだけになってしまうのだと思います。
何かをカミングアウトするときに、「苦しみから解放されたい…」という動機は当然あるでしょう。そして、《 自己理解 》がしっかりできていない状態での《 自己開示 》は内容を伴ったものにはなりませんから、その感情だけが相手にぶつかることになるわけです。「僕は苦しいんだ」「僕は辛いんだ」「僕は憤ろしいんだ」「僕は悲しいんだ」といった感情が、鋭く相手に突き刺さっていくわけです。これでは受け手はたまったものではありません。ここで重要なのは、感情を出してはいけないという意味ではないということです。苦しみも辛さも憤りも悲しみも伝えていいのだけれど、その感情だけをぶつけるのではいけないということなのです。

受け手のことも考えたとき、自己理解に基づいた自己開示はやはり大切だといえると思います。
僕も、自分自身という謎と、これからも向き合い続けていきたいと思います。


■ カミングアウトと葛藤

何かを隠して生きるということは、めんどくさいものです。
たとえば、ゲイを隠している場合、《 話のつじつまあわせ 》みたいなことを始終し続けなければなりません。この世の中では、特段何も言わなければ異性愛者とみなされるので、多くのゲイは実に巧妙に異性愛者を演じて生きています。
僕の場合は、異性愛者ではなく、無性愛者(ア・セクシュアル)を演じています。これはキャラクターのおかげでもあります。僕が「恋愛とか興味ないというか、そもそもそういう感情がないんだよねー」というと、ほぼ9割方の人が信じてくれます。「ああ、こいつは本当にそうなんだろうなー」と。すると、それ以後は余計な詮索もされなくなりますし、恋愛とかのネタを振られることもなくなるので、実に楽です。
でも、これはやはり僕のキャラクターゆえです。恋愛感情がないと言って信じてもらえる人と、「んなわけないだろ!」と信じてもらえない人がいると思うのです。そういうわけで、異性愛者を演じているゲイが多いのですが、大変そうだなあと思います。好きでもない女性芸能人を設定しておいたりしなければなりません。しかも深く聞かれてもつつがなく答えられるようにしなければならないわけです。そして、まったく感覚的にわからないような話にも、自然な形で相槌を打たなければなりません。「○○ちゃんってかわいいよなー」と話を振られたら、「へぇそうなんだ」ではなく、「そうだよねー、かわいいよねー、特に○○とかいいよねー」みたいな感じで答えなければいけないわけです。ずっと演技しながら生きている感じですよね。仮面をかぶりながらというのか。

こういう問題は、言ってしまうことによってすべて消え去ります。楽になることができます。

でも、言ってしまうことにはリスクが伴いますし、不安もあります。拒絶されるかもしれませんし、最悪の場合には名誉を毀損される結果を招くかもしれません。
もちろん相手にもよりますよね。「ほぼ受け入れられることが確実だな」と思える相手には、すんなり言えてしまうのかもしれません。あるいは、絶対無理ならば言わないでしょう。問題はグレーゾーンの場合です。これは悩ましいですよね。
あとは、もし言うことによって関係が断絶した場合、それでさほど問題がない相手と、そうはいかない相手がいます。ただの友人は前者でしょうが、家族や職場同僚などは後者に当たると思います。この辺の影響も大きそうです。

カミングアウトは、これら2つの思いの葛藤の中で選択していくものなんだと思います。
《 隠して生きるめんどくささ 》と《 言ってしまうリスク・不安 》の間で葛藤し、そしてどちらかを選び取るというわけです。


■ カミングアウトに求めるもの

カミングアウトをするとき、当事者が何を求めているのかということは重要です。それによって、意味合いも大きく違ってくるからです。
僕は、大きく2通りのカミングアウトがあると思います。

Type1 : とりあえず事実を知っておいてほしい

このタイプのカミングアウトは、事実を知ってもらうことが目的となるので、伝えればその時点で目的を達したということになります。
カミングアウト実行後に特にその話題に触れる必要性をもたないわけです。
(もちろん触れてもいいのですが…)
いずれにせよ、事実の伝達がゴールとなります。

Type2 : 事実を知らしめた上で新しい関係を築きたい。相互理解を深めたい

このタイプのカミングアウトは、事実を知ってもらうだけでは目的を達したとはいえません。
事実を伝えた後で、そのことについて深く語り合うことが必要で、むしろそれこそが重要ということになります。
つまり、事実の伝達はスタートとなるわけです。

カミングアウトの受け手が、事実を伝達された後、「うん、わかったよ」とだけ言い、それで話題を終了にしようとする場合があります。
そして、以後はその話題に触れようとしないという反応です。
これはもしかしたら気遣い・配慮なのかもしれません。「そっとしておいてあげよう」という思いやりなのかもしれません。
また、静かに隠れて生きたい当事者にとっては実はうれしい反応でしょうし、Type1 のカミングアウトならばこの反応に何も問題はありません。

ただ、もし、カミングアウトした側が Type2 の意図を持っていたならば、この反応は大いに不満でしょう。
なぜなら、彼らは事実の伝達はスタート点だと考えているのに、そこから一歩を踏み出していくことを拒まれたような感覚を受けるからです。

そういうわけで、カミングアウトをする場合、特に Type2 の考え方でする場合は、より心の準備が必要だといえそうです。


■ 《 互いに響き合う 》こと

今回の勉強会で取り上げた往復書簡では、ゲイ当事者の学生(=渡辺くん)と教員(=楠原先生)の間でのやりとりの中で、1つキーワードがありました。
それは、《 互いに響き合う 》という言葉です。
少し該当部分を引用してみます。

・カミングアウトは、たんなる告白ではありません。突然のびっくりするような強風で片付けられるものではありません。された側とする側が、そこからさらに新しい関係を築くことが、最終的な目的だと思うのです。 互いの存在そのものが響きあうこと なのです。(渡辺くん)

・ あなたもよくご存知のように、同性愛者がみな、自分の中に社会的・歴史的・文化的・身体的 <他者> を抱え、向きあい、 <他者> と「相互に響きあい」ながら生きようとしている わけではないのです。 (楠原先生)


これは、前項のカミングアウトの分類で言えば、Type2 を念頭においていることは自明でしょう。つまり、カミングアウトをスタート点として、そこから互いに響きあうことを理想としているわけです。
カミングアウトは、差異を明示すること でもあります。自分の中にある、他者(相手)と異なる部分をさらけ出す行為 です。これは、衝突や不協和音も生み出すことができますが、きれいなハーモニーを生み出すこともできるのです。

同質のものは、混ざり合うと区別がつかなくなってしまいます。まったく同じ音を同時に鳴らせば完全に1つの音になってしまいます(もちろん音量が上がりますが…)。
異質のものは、混ざり合っても区別がつきます。2つの音が鳴ると、条件如何によって、きれいなハーモニーになったり不協和音になったりします。

ハーモニーとか響きあいというのは、差異があるからこそ生まれるもの なのです。

人間にはそれぞれに異なった《 個性 》があります。そして、それが場合によっては《 コンプレックス 》になっている場合もあります。
ただ、自分ではコンプレックスにしか思えないものでも、捉えようによっては、あるいは生かしようによっては、《 宝物 》になりうるのかもしれません。
自分だけが持っている《 強み 》になるのかもしれません。
自分にとっての《 コンプレックス 》を、うらやましいと思っている他者がいるのかもしれません。

各人が持っている《 個性 》を出し合うと、不協和音が響いたり協和音が響いたりします。
協和音が響いた状態というのは、それぞれの個性が光り輝いて、うまく融和して、高めあっているすばらしい状態ですね。
一方、不協和音が響いた状態というのは、個性と個性が衝突してしまい、摩擦が生じている状態です。これは相性などの問題もあるでしょうけれど、努力によって解消することができる場合もあると思います。
要は、互いにチューニングすればいいわけです。発する音をうまく調整していくことで、不協和音は協和音へと変わるのですから。

その、チューニングをする過程というのが、相互理解を深めるとか新しい関係を築くということなのかもしれません。


■ 闘うこと・主張すること と 攻撃性

楠原先生の手紙の中に、《 闘う 》というフレーズが出てきます。
少し引用してみます。

・ ついでに引用すると、その<カミングアウト>レポートの末尾は「闘い続ける、それこそ、僕が生きていくということなのかもしれない」となっていました。

・ それは「闘うことだ」と、あなたは19歳のときに初々しい決意を述べましたが、しかし「寂しさを感じる。悲しさに震える」と付け加えざるをえませんでした。「闘うこと」、つまり、「相互に響きあう」新しい関係の創造とは、障害の少なくない難儀な永遠のプロセスだからです。


僕は《 闘う 》とか《 主張する 》という言葉にあまりいい印象を持っていないのです。それは、どこか攻撃的でけんか腰のニュアンスを感じるからです。
セクシュアルマイノリティの権利を求める運動をしている方々のされていることは、まさに闘いであり主張だと思うのですが、そこにも僕は 攻撃的でけんか腰の印象 を受けてしまいます。そして、そこに違和感を覚えてしまうのです。
ゲイのパレードなんかも、同じような理由で僕は苦手なんです。

それでも、彼らがそこへ至ったメンタリティは痛いほどにわかります。僕の中にも同じような心があります。
僕は、ゲイである以外にもありとあらゆる側面においてマイノリティ(少数者)になることが多いのです。それは別に意図的にマイノリティになっているわけではなくて、生まれつきそうだったか、自分の好きなように選択した結果として偶然にそうなるのです。運命的に宿命づけられているのか、無意識のうちに選び取っているのか、いずれにせよそうなのです。
そして、マイノリティ(少数者)というのは、どうしても、身構えて生きる ことになりがちなんだと思います。鎧を何重にも纏って、武装して、そうやって自分を守ろうとする のだと思います。そして、怖がりな犬ほどよく吠えるといいますが、恐怖におびえながら食って掛かってしまいがち だと思います。
僕は他者に攻撃性を向けることも、他者から攻撃性を向けられることも、どちらも嫌いです。それなのに、時折、僕から攻撃性を感じるという指摘を受けることがあります。後々振り返ってみると、そういう指摘を受けるときは、たいがい自らのマイノリティ性に関わることを話しているときだと気づきました。
そういう印象を他者に与えてしまうことは僕の望むことではないので、気をつけてはいます。それでも、やはり限度があります。どうしても抑えられないのです。先の引用の言葉を借りれば、「寂しさを感じ」ながら、あるいは「悲しみに震え」ながら、鎧の中で吠えている僕がそこにいるのです。

《 互いに響きあう 》こと、うまくチューニングして協和音を奏でることは、主張することなくしてできないのだとは思います。
また、その過程は、宿命的に《 闘い 》にならざるを得ないものなのかもしれません。どうすればいいのでしょう。

僕が、《 闘い 》や《 主張 》にいい印象を持てないのは、 攻撃的でけんか腰 なのがどうしても嫌だからでした。もし、攻撃的でもけんか腰でもない《 闘い 》や《 主張 》ができれば、僕のジレンマはある程度解消されるのかもしれませんね。
ただ、そういうことは可能なのでしょうか? 読者の皆様はどう思われますか?


■ 《 当事者であることを選ぶ 》とはどういうことか?

渡辺くんと楠原先生の往復書簡を取り上げたセクションのタイトルは、《 当事者であることを選ぶ 》となっています。
これはいったいどういう意味なのでしょう。少し意味深ですよね。
楠原先生の書いた手紙の中から、これと関連のありそうな部分を引用してみます。

あなたもよくご存知のように、同性愛者がみな、自分の中に社会的・歴史的・文化的・身体的 <他者> を抱え、向きあい、<他者> と「相互に響きあい」ながら生きようとしているわけではないのです。<他者> をもたず、<他者>に眼を向けることをどこかで恐れている、つまり自由になることを恐怖している同性愛者も少なくないはずです。それだけ、状況の不寛容がまだ続いているからでしょうが。
どんな <当事者> でも、それだけではけっして <当事者> になることはできず、<当事者> であることを自らの意志で選ぶことによって、かろうじて、歴史や社会や文化の、総じて言えば政治の、「相互に響きあう」関係の創造行為に参加できるというわけです。


ここでは同性愛者のことが取り上げられているわけですが、これをほかのマイノリティ(少数者)で置き換えても同じことがいえそうです。
もちろん、そこには、ある程度認知の進んだ、《 公認の 》マイノリティ以外に、マイノリティや弱者を名乗ったり、何かを主張することすら認められてすらいない《 非公認の 》マイノリティも含まれます。
(例として、弱者男性を挙げておきます。異性愛かつ健常者であり子どもでも老人でもない男性の中に存在する弱者は、本質的に弱者であるにも関わらず、弱者として扱われることはなく、声を上げることすらも許されていませんし、糾弾の対象にさえなります。見ようによっては、これほど息苦しくて立場の弱い存在もありません。僕は究極のマイノリティだと思っています)

さて、「どんな <当事者> でも、それだけではけっして <当事者> になることはできず」という表現は、初読のときにはよく意味がわかりませんでした。「ゲイであれば、それだけでゲイの当事者でしょ? それだけじゃ当事者になれないってどういうこと?」と思っていたのです。
今は楠原先生の意図がなんとなくわかります。
ゲイといってもいろいろで、自分がゲイであることを受け入れることができている人と、できていない人がいます。もし自分で受け入れることができていない場合、その人は <当事者> としてのアイデンティティを持っているのかというと、疑問符が出てきます。その人は事実としてゲイなのだけれど、< 当事者 > にはなっていない、あるいはなることを拒絶している(認められない)という風に捉えることもできそうです。楠原先生が言いたかったのはたぶんこういうことなのではないかと思います。
そして、「<当事者> であることを自らの意志で選ぶ」とは、自分がゲイであることを受け入れて,認めて、<当事者> としてのアイデンティティを持って生きていく道を選択することを指しているのだろうと思います。

そして、もちろん、ゲイではなくてほかのマイノリティに置き換えても同じことがいえそうですね。

この記事の最初のトピックで、自己開示の前に《 自己理解 》が必要だという趣旨のことを取り上げましたが、僕はそれと同時に《 自己承認 》もとても大切なのではないかと考えています。自分で自分を承認すること。これは存外難しいことです。
僕だって、全然できていません。自分を理解することも、自分を承認することも、特にコンプレックスの部分だったり、嫌いな部分だったりすれば、見たくないし認めたくないと感じてしまいます。
「<当事者> であることを自らの意志で選ぶ」というのも、《 自己承認 》の1つの形なのだと思います。
その観点から、僕はゲイの<当事者>だとたぶんいえます。ゲイに関しては、今の僕にとってはコンプレックスでもないし嫌な部分でもありませんし、「僕はゲイとして生きていくことを選んだ」と言えそうです。
(もちろんゲイは生まれつきですが、この運命を受け入れて自然体で生きていくことを選んだという感じでしょうか)
ただ、ほかのマイノリティ性の部分でも同じことが言えるかというと、疑問符がつきます。やはり容易なことではなさそうです。

また、「<当事者> であることを自らの意志で選ぶ」生き方が、必ずしも《 よい生き方 》とは限らないとも思います。どう生きたいかというその人の価値観によって変わってくるのだとも思います。
コンプレックスでも嫌いでも、認められなくても受け入れたくなくても、そういう選択をするのもありでしょう。
ただ、僕の個人的な考えとして、なるべくならば《 自己承認 》できた部分を増やしていきたいなあと考えています。
あせらずに、ゆっくりと。


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次回の勉強会は、2013年8月24日(土) の午後に開催されるようです。
また、今回と同じ題材(再放送?)で、2013年7月22日(月) の夜にも開催されるようです。

興味のある方はぜひどうぞ。告知や申し込みは、こちら からです。



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第7回 2012年12月15日 記事1記事2
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第9回 2013年4月27日 記事1記事2
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第9回 (2013年4月27日)


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第9回セクシュアリティ勉強会

2013-05-12 23:52:31 | セクシュアリティ勉強会(豆腐さん主催)
去年5月に知り合った、僕のゲイの友人、マイノリティのパイオニア・豆腐さん が、《 セクシュアリティ勉強会 》を隔月開催で主催されています。

僕は去年10月の第6回から連続で参加しています。今回(4月)で4回目となりました。
過去の開催分については、この記事の一番下にリンクをまとめて載せてあります。


※ 勉強会について書いた、僕のブログのエントリーへのリンクです
第7回 (2012年12月15日)
第9回 (2013年4月27日)
第10回 (2013年6月22日)


今回は4月27日開催で、ちょうど僕の誕生日の開催でした。
というわけで、誕生日に有意義な勉強会へ行ってきました。

勉強会開催から、2週間も経って、やっとこの記事を公開するという遅さに唖然としますが、お許し下さい。

テーマは、《 セクシュアルマイノリティと友人関係 》でした。

資料として、NHK「ハートをつなごう」製作班が監修した、『 LGBT BOOK 』 という本から抜粋したものが配布され、それも元にしながらディスカッションをしました。

NHK「ハートをつなごう」LGBT BOOK
クリエーター情報なし
太田出版


豆腐さんはこの本から当事者の声を8つ抜粋されていたのですが、僕が特に共感したり感銘を受けたりしたのは、20代のゲイの方のものと、30代のレズビアンの方ものもでした。

まず、20代のゲイの方のものから。

中学1年生のときに同性の友人を好きになり、「あぁ、自分は同性愛者だったんだ」と気がつきました。そして、そのことをすんなり受け入れてしまいました。「自分を受け入れられない苦しみ」というものはほとんど経験していません。
 → 僕の場合は小5のころに同じような経験をしました。そして、彼の場合と同じように、自分自身の内面ではすんなり受け入れてしまいました。同性愛者である自分自身を受け入れられずに苦しむ人もいますが、彼や僕みたいな当事者も居るということを知って欲しいです。

やはり家族には打ち明けられません。ばれたら自分の居場所がなくなる、家庭から排除される、という恐怖があるからです。今回の番組も、親の前では見られないから録画しました。そもそも、番組を録画していることもばれないように気をつけました。同性愛に関心を持っている=異常、という両親の考えがわかりきっているからです。身内に否定されたらどうなるのだろう、と考えるだけでも怖いです。
 → 僕も同じような感覚を持っていました。自分が同性愛者であることをすんなり受け入れた僕でしたが、同時に「これは誰にも知られたらいけない」と強く思ったのでした。幸運にして、僕は母や妹へのカミングアウトが成功して、今はかなり精神的にラクになっています。ただ、これはやはり幸運なケースといえると思います。


次に、30代のレズビアンの方のもの。

番組や周りの人たちはセクマイの権利を主張して理解してくれないことを声高に言っていますが、私たちはそんなことよりまず、社会人としてしっかりと働き自分の足もとを固めてきちんとした生活を送れることを心がけています。
 → この方のおっしゃりたい事に同意です。僕はまだ足もとを固めることができていると言えないので、そこをしっかり努力していきたいです。また、権利も必要なものは求めていけばいいと思いますが、あまり声高に「権利をよこせ!」,「理解しろ!」とまくし立てるのには、僕は懐疑的です。

誰しも悩む時期もあると思いますが、ある程度の年齢になれば、自分のセクシュアリティを認め覚悟を持ち当たり前の生活を送ることが、セクマイへの偏見を断ち切ることに繋がると思います。
 → これは自分自身の肝によく銘じておきたいです。

いつまでもグズグズと「周りにわかってもらえない」というネガティブな意見ばかりマスコミが取り上げていると、マジョリティの人たちの偏見はますます悪いものになります。もっと普通に前向きに生きているセクマイにも目を向けて欲しいと思います。
 → これも同意ですね。もちろんネガティブな側面や孕んでいる問題も報じることは必要ですが、セクマイ = 可哀想な人たち という認識になってしまうのはどうなのかなあと思います。


さて、今回の勉強会は、セクシュアリティと友人関係がテーマでしたが、このテーマを考える上で、カミングアウトの話題は避けて通れないでしょう。

僕の現時点での意見として、友人へのカミングアウトは、一種の嗜好品みたいなものだなあと思っています。
(家族へのカミングアウトはまたちょっと別なんですけどね…)

もしカミングアウトして、特に拒絶されなかった場合、当事者の側は嬉しいものですし、かなり気が楽になるのは事実でしょう。
ただ、受け手の立場に立って考えると、どうでしょうか。
もちろん、カミングアウトを受けて喜んでくれたりする人もいるのかもしれません。あるいは、特に何も思わないという人もいるでしょう。ただ、重たく感じる人も当然いるはずです。
カミングアウトすることで、自分はラクになれるかもしれないけれど、相手を重たい気持ちにさせてしまう可能性があるということを、僕らは自覚しておかないといけないと思っています。
また、カミングアウトをして拒絶される可能性もありますし、場合によっては何らかの不利益を被る可能性もあるという点はよく覚悟しておかなければならないでしょうね。

そういう次第で、僕は、少なくとも当分の間は、誰彼かまわずカミングアウトするというやり方を取るつもりはありません。
ただ、何が何でも絶対にカミングアウトしないというつもりもなくて、相手に応じて、流れにまかせて、臨機応変にやっていこうと思っています。

ゲイであることは、僕という人間がいろいろ持っている属性のうちの1つに過ぎません。
僕は、日本人で,男性で,AB型で,右利きで,メガネ使用者で,プロ野球ファンで,クラシック音楽好きで,茶道部出身者で,地図好きで,鉄道好きで,麺類好きで,ブリーフ派で,スパンキングフェチで,ゲイなのです。
ありとあらゆる要素が組み合わさって僕という人間が出来上がっていて、ゲイというのはその1つでしかありません。
ただ、その要素を持っている人間が、少数だというだけのことです。
(少数と言うことで言えば、ブリーフ派だってスパンキングフェチだって少数ですね。茶道部出身者もかな。マイノリティな属性なんて実は世の中には腐るほどあるわけです)
友人関係が出来上がるとき、たぶんそういう雑多な属性の中で、どこかが重なっていたりするから友人になれるのだと思うのです。
例えば、野球好きな僕には、観戦仲間が居ます。彼ら / 彼女ら とは、プロ野球が好きで、特に同じチームを気に入っているという点で一致して、友人になっているわけです。
その関係性を考えたとき、極論すれば、僕がゲイであろうが無かろうが関係ないわけです。
友人関係ってそういうものだと僕は思います。
だから、友人へのカミングアウトは、先ほど述べたようなスタンスを取っています。あくまでも、今の僕の場合はですが。

一方、カミングアウトの《 功 》の部分を考えるなら、その1つは、ゲイに対する謂れなき偏見や恐怖や嫌悪を除去することにつながるという点があるでしょう。
僕の友人の1人(同年代の異性愛男性)は、まだ小学生だったころ、通っていた塾の男の先生に性的ないたずらをされたそうです。たぶんその先生がゲイかバイセクシュアルだったと想定できるのですが、彼はその経験から、ゲイが怖かったそうです。
でも、彼は僕がゲイであることを知って、その恐怖心が薄れたらしいです。異性愛者に色んな人がいるように、ゲイにもいろんな人がいるということが、実感を持って伝わったということでしょう。
そんなことがあって、僕は彼から、感謝・尊敬されてしまうということになって、ちょっと照れくさかったのですが。
こういうことが成り立ったのは、そもそも僕という人間の人間性(?)が、彼にそれなりに良い評価をされていたからだということを忘れてはいけません。もし、そうでなければ、彼はゲイへの恐怖を余計に募らせたことでしょう。
これは、前半で引用した、30代のレズビアンの人の文とも関連してきますね。
ゲイへの偏見を取り除きたいのならば、闇雲にカミングアウトするとか、声高に権利を主張するとか、社会の無理解を嘆きわめき散らすとかする前に、《 きちんとした生活を送る 》とか《 当たり前の生活を送る 》ことが大切なんだなあと、今の僕は思います。

最後に、僕が社会に対して何か働きかけるとするなら、「もし良かったら、僕たちのことを少し知ってみませんか?(^^)」とか「僕たちが社会の中に存在していることを認めてくれたら嬉しいなあ(^^)」というつもりで、情報を流すくらいかなあと思います。
「もっと僕らのことを理解しろ!」とか「僕らのことを好きになれ!」と押しつけがましく無理強いしたって、知りたくないものは知りたくないし、生理的に嫌いなものは仕方ないですしね。そんなことをしても、余計に憎悪をかき立てるだけのような気がします。
それに、自分のマイノリティ性(あるいは弱者性)を振りかざして、その正義の前に相手が何も言えないのをいいことに、言いたい放題やりたい放題するような、横暴なマイノリティにはなりたくないです。それはあまりにも卑怯だと僕には思えるのです。
マイノリティだから(弱者だから)何でも許されるなんてことは、あってはならないと思います。
ただ、当事者としては、知って欲しいという風には思います。だから、非当事者の人たち向けに発信はします。僕らのことを嫌いでもいいけど、嫌うなら知った上で嫌って欲しいなあとも思います。でも、知ることを無理強いしたりはしないようにしたいのです。
「ちょっと知ってみたいな」と思ってくれた人たちに、歩み寄って、語りかけていければ理想的だなあと思います。

というわけで、勉強会のレポというか、自分自身の考えをダラダラと書いただけになってしまいましたが、このあたりで擱筆しようと思います。


※ 過去の開催分について、豆腐さんのブログのエントリーへのリンクです
第1回 2011年12月23日 記事1記事2
第2回 2012年2月26日 記事1記事2
第3回 2012年4月29日 記事1記事2
第4回 2012年6月24日 記事1, 記事2
第5回 2012年8月26日 記事1記事2
第6回 2012年10月28日 記事1記事2
第7回 2012年12月15日 記事1記事2
第8回 2013年2月23日 記事1記事2
第9回 2013年4月27日 記事1記事2



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第7回セクシュアリティ勉強会へ行ってきました

2012-12-19 20:14:45 | セクシュアリティ勉強会(豆腐さん主催)
少し時間がたってしまいましたが、15日(土)のことについて書こうと思います。

5月に知り合った、僕のゲイの友人、マイノリティのパイオニア・豆腐さん が、《 セクシュアリティ勉強会 》を隔月開催で主催されています。
第1回は2011年12月23日に開催されたので、ちょうど1年経ったということですね。このときはまだ僕は豆腐さんと知り合ってすらいませんでした。

※ 過去の開催分について、豆腐さんのブログのエントリーへのリンクです
第1回 2011年12月23日 記事1記事2
第2回 2012年2月26日 記事1記事2
第3回 2012年4月29日 記事1記事2
第4回 2012年6月24日 記事1, 記事2
第5回 2012年8月26日 記事1記事2
第6回 2012年10月28日 記事1記事2
第7回 2012年12月15日 記事1記事2


僕がこの勉強会へ顔を出すようになったのは、10月に開催された第6回から。
豆腐さんとはじめてお会いしたのは5月7日のこと。それ以後に開催された第4回,第5回は、実はすごく行きたかったんです。でも何やかんやと折り合いがつかず。

ちょうど、第6回と第7回は《 教育 》がテーマになっていました。
僕としては、教育に関わるお仕事をさせてもらっていますし、教育については強い関心を持っている人間なので、興味深いテーマでした。

第6回は10月28日でした。なぜだか、この勉強会のことをブログに書いていませんでした。その当日(!)にブログを更新しているのになあ
ちなみに、その日に更新した記事は、僕とぬいぐるみ でした。

第6回のほうは学校ならびに家庭における教育とセクシュアリティについて。第7回は学校に焦点を当て、教科書や学習指導要領などについても少し触れていました。
僕も、教科書や学習指導要領などについて、資料と知識の提供等、微力ながら協力させてもらいました。

学校には、児童・生徒として、あるいは教職員としても、相当数のセクシュアルマイノリティ当事者がいます。それは確実でしょう。
とくに、児童・生徒については、自分自身がセクシュアルマイノリティであることに気づくことの多い時期であり、そうでなくても気持ちの揺れ動く時期であるため、適切なケアが必要と考えています。そのためには、指導に当たる教職員の皆様に適切な知識を身につけていただくことが必須と思っています。
(僕の個人的な意見として、法曹関係者と教育関係者には最低限のことを知ってもらいたいし、お伝えしていきたい)
いずれにせよ、この問題については今後も考えていきたいと思っています。そして、今回の勉強会では意見の交流などもできたし、考えを深めることができました。

セクシュアリティについてまじめに語り合う会といえば、毎月開催で、7月から顔を出すようになった、「僕らのゲイライフプロジェクト」 があります。こちらは基本的には、ゲイばかりで集まって、その月ごとに決められたテーマについてまじめに語り合おうという趣旨のイベントです。
一方、「セクシュアリティ勉強会」は、まじめに語り合うという点では同じですが、さまざまなセクシュアリティの方が参加されています。初期のころは圧倒的に非当事者(まあ要は異性愛者のみなさま)が多かったそうですが、僕が参加するようになった近頃では、当事者の参加も増えていて、なかなかいいバランスになっているように感じます。

ゲイプロのようにゲイの当事者だけで語り合う会も、セクシュアリティ勉強会のようにいろいろな属性の人々が寄り集まって語り合う会も、いずれも僕にとっては貴重でたのしい場だと考えています。
そういうわけで、今後も継続してこれら2つの会への参加をしていくと思います。

次回ゲイプロ → 2013年2月9日(土)
次回勉強会 → 2013年2月某日(今のところ開催日未定。そのうち 、豆腐さんのブログ で告知が出るはず)


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