羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

埋められた青銅器・銅鐸

2006年01月18日 10時51分08秒 | Weblog
 1月16日付けの日経新聞文化欄に「銅鐸は呪器だった」という見出しで埋められた青銅器に対する白川静氏の解釈が記事として報道されていた。
 
「古代中国では神霊の力が絶対視されていた」
 白川氏の説によれば、青銅器は鋳込まれた文字そのものに呪の意味が込められ、呪器としての性質があったことを指摘している。

 30年前、野口三千三先生に導かれて、甲骨文字・金文の世界を垣間見て、古代社会のおどろおどろしさに最初は、抵抗感があった。
 とくに子供たちに漢字の字源を教えるときなど、古代社会のありようをそのまま伝えることが果たしてどのような意味があるのかと、当時は考えていた。
 しかし、文字にしても言葉にしても、その裏側にべったりと張り付いている「もの・こと・おもい」を無視して、曲げて読み込むことは、人間をほんとうに知ることにはならないという思いも深かった。

 漢字はその文字の成り立ちを当時の社会や政治、哲学や宗教、風俗や習慣、つまり文字の内側に内在する「出来事」「事実」「心情」エトセトラ、を知ることによって、難しいと思い込んでいる文字ですら、身近になってくれる。殊に、画数の多い文字は字源をしることは不可欠だと言いたい。調べてみれば「なるほど、納得」なのだから。

 言葉は、事の端・言の葉である。
 しかし、漢字は、「端」とか「葉」というには、あまりにも「実体」をリアルにそっくり写し取る力が与えられている世界に類を見ない「文字世界」を具現していると思える。

 そのことを下敷きに、世界で、日本で、今、おこっている出来事に目を転じてみると、古代中国の漢字世界が、決して特殊ではなく、21世紀の現代社会との共通項を感じるのは、私だけだろうか。
 
 血祭りにあげる、生贄にする、見せしめにする行為は、なくなっていない。
 自分の領地を守る、既得権を守る。
 あるいは欲に任せて、理不尽にも他に攻め込む。攻め込まれた方は、たまったものではない。等々。
 
 昨日から今朝にかけて、ものものしい報道が、いくつもされている。
 確かに問題行動はあったとしても、なぜ、この時期に? とか、なぜ、あの人だけが? といいたくなるようなニュースもあって、巷を騒然とさせている。
 人間は、現代といえども、古代とそう変わりない俗界を生きているものなのだと思う。

 それにしても甲骨文字・金文を生みだした古代人の洞察と表現力には、脱帽するしかない。
 その文字研究を90歳過ぎても、精力的に行っておられる白川静氏の前世は、いったい何者だったのか。そんな思いすらもちたくなる「古代漢字世界」の面白さだ。

 はたして、私たち大人は、これからの時代を担う子供たちに何を教えられるのだろう。いや、何を教えたらいいのだろう。
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