羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

小猫の戦略

2017年02月25日 08時38分38秒 | Weblog
 2月23日のブログに、猫の手も借りたい、と書いた。
「そうだ、猫の智慧も借りてみよう」

 この二週間の行動を振り返ってみよう。
 つまり、会場探しに歩いてみたわけ。
 団体登録書類を書いてみたわけ。
 国立の施設と区立の施設とでは、書き込む内容や条件に微妙な差があったことに気づいたわけ。
“わけ”のさわりを話してみようかなー。

 区立の場合は、どこまで守られるかは別としても、確実に・間違いなく、区内に住んでいる人の割合がいちばんの問題になる。
 そりゃそうだわ。
 区に入るさまざまな税金がつかわれているわけなんだから。
 ここで面白いと思ったのは、以外に重要視されている事項に、「代表者が複数の団体代表をつとめている場合」は、最初からお断りなのである。
 それにも納得。

 さて、国立青少年センターの場合は、営利団体でないことがいちばんの条件であるわけ。
 それにも納得。
 野口体操の場合、それは全く問題はない。
 そこで気づいたことがあった。
 野口体操はとことん「個人」との関わりのなかで成立する体操である、ということ。
 あえていわせていただくと、個人を尊重した集団である、ということである。(固い表現だなー)
 今回の会員を募るとき、性別・年齢・職業・住所などの個人情報は、「個人情報の保護」のことからしていただかなかった。これはまずもって珍しいことに違いない。
 言ってみれば、長年のおつきあいのなかで何となくわかっている人間がいる、からでもあったかもしれない。

 しかし、提出書類には、主なメンバーの名前・年齢・性別・職業・都道府県(海外)名を書き込む欄がある。
 これは当然のことだ。全員を書く必要はなく、5名以上の会員情報を出せばよかった。

 その後、小猫ちゃんはなんとなくそわそわ。
「何を考えているの」
「いままで考えたことのない数にしてみたらどうよ!」
 にゃんにゃん語で教えてくれた。

 やってみたのよ。
 男女の比率、年齢構成、住まう所、等々を数字にしたとたんに、「個人」が消えてしまった驚き。
 まったくゼロの年代があったことへの驚き。
 住まう区の偏りと人数への驚き。

 10年、20年、30年の時間の経過を取り込んで、お一人おひとりのお顔や風貌等々を想像しながら、名簿を見ていると、数値に置き換わった瞬間に、今までとはまったく異なった関係に引きずり込まれることへの驚きだった。

 せっかくだから、小猫ちゃんの智慧をもう少し借りてみよう。
 現在、野口体操を思ってくださる方が、ゼロの世代は何十代か、と。
 野口体操を大切に思わなくても、単位をもらうために実際に体操をやってくれている世代がいること。
 
 もう少し拡げて、自分の身体にかかわる時間を持てない世代は何十代か。
 これは数値を見なくても、考えなくてもわかってしまう。
「ほー、見える、見える」
 小猫の目がキョロキョロあたりを伺っている。

 一つの決断が、導かれた。
「変わるしかない。変わることをおそれるな!」

 やって来たことを振り返ってみる。
 まず、野口先生没後に得た野口体操を伝える場、伝えてきた人々の、年齢、性別、職業、住まう所……を想い浮かべる。
 そして、受ける方々の前に立った瞬間に感じるその場の空気で、3つのことを即断して伝えることだったと気づく。

「ここまでは野口先生の生涯をかけた体操への深い思いを守る」
「ここからは相手に合わせて少しだけ変えてみよう」
「このことは危険だからあえて隠しておこう」
 
 上手くいくときもあった。
 ボタンの掛け違いのまま終わってしまったこともあった。
 とにかくレッスンや授業、そしてワークショップは、その場に集まった全員がつくりだすものだから、生きものなのである。次に何が起こるかわからない。次にどんな反応が出て来るかはわからない。次にどんな変形や変種が生まれるのかはわからない。

 そうしたこととは別に、数値化にしてみると、見える風景が変わった。
 これからの野口体操を考える時に、団体登録で求められたこの視点もちょっとだけ持ってみよッ、と。

「我が輩は小猫である」 
 なんちゃって!
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あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、小傷を負う毎日

2017年02月23日 21時47分37秒 | Weblog
 来年、2018年は、野口三千三先生の没後20年の年にあたる。
 そこで準備のために、今年から「野口体操の会」に会則をつくり、会員を募集して、少しはまとまりのある方向を探りはじめた。
 探るだけでなく、昨年の秋から実際に動き始めている。
 
 このところ、毎日、気づかされること多々。
 いや〜、これまで事務のことは他人まかせで生きてことに、はっきりと目覚めさせられた。
 自覚だけではなく、関わってくださっている方々に迷惑をかけてしまっている状態がつづき、なんともはや“申し訳ない”しか言葉がない。
 実に、細かい見落としや、慣れない書類に、あたふたするのである。

 たとえば一つだけ挙げれば、今週は、没後20年に開きたい“集いの行事”に、国立オリンピック記念青少年総合センターに団体登録を試みた。
 以前にもらってきた書類に、別紙の「野口体操の会」についての説明文を添えて提出をした。
 別紙は、殆ど私自身の履歴書のような雰囲気になってしまった。
 それでもすんなりと通って、ほとんど手続きが終わる段になったら、営利団体でない証明のための提出物を求められた。
 一週間以内にファックス送信する約束をして帰宅した。
 それからの2日間、空き時間に書類を作成していた。
 
 こんな具合で、朝から夜まで、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、大傷は負わないが、小傷を負っている。
 とんでもないことをはじめてしまった! と思わなくもないが、「気負いすぎずにやりましょう」と励ましてくださる方がいて、なんとか自分を取り戻している。

 そうなのだ。
 ひとりでは何も出来ない。
 今のこの時期をのがしたら、もう手遅れになるのは自分自身の年齢の問題だけでなく、野口体操の灯火が消えてしまうぎりぎりの時期に来ていると、つくづく思って気を取り直しているのだが……。

 昨日2月22日は「猫の日」だったそうだ。
 あ〜、猫の手も借りたいのよー!
 一日遅れの溜息を深くついて、本日はおやすみなさい。
 
 以上、ひとり言でした。
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風に吹かれて

2017年02月18日 09時20分13秒 | Weblog
 昨日、関東地方には「春いちばん」が吹いた。
 その風のなか、武蔵野台地中央部に位置する杉並を出て、代々木国立オリンピック記念青少年総合センターから、文京区千駄木へ出かけた。ここは武蔵野台地東端部に位置する。
 目的のダンススタジオは、急な坂道である”団子坂”を登って、住宅地のなかにある個人のお宅である。
 長居をせずに団子坂上に出ると、「森鴎外記念館」が目に入った。因みに、最寄り駅の東京メトロ「千駄木駅」の海抜は6・7メートル。ところが団子坂上の海抜は20メートルである。いかにこの坂が急な登り坂であるかが実感としてもわかるのである。ここが森鴎外記念館が位置する大事なところなのである。
 
 実は、今年に入って「鉛直」と「垂直」を調べている時に、鴎外の文章のなかに使われていることを知った。
 この記念館は旧居跡地につくられている。
 鴎外30歳から亡くなる60歳までここで暮らした邸宅があって、大きな屋敷は当時の文人達のサロンでもあったという。
 そして、増築した二階からは、品川沖の白帆が遠く眺められたため、鴎外自身が「観潮楼」と名付けたという。

 1892年(明治25)から1920年代当時の東京を想像することは難しい。
 しかし、遠く離れた品川沖まで眺められたということに思いを馳せてみると、100年の時間があまりにもはやく過ぎていったことに不思議な実感をもってしまうのである。

 館内を見学して、受付・ショップに立ち寄った。
 手に取ったのは『森林太郎立案 東京方眼圖』である。
 1909年(明治42)東京市日本橋區通四丁目角 「春陽堂發行」の復刻版である。
 ひらりと一枚はいっていた説明書きを読むと、鴎外がドイツに留学した際に、ヨーロッパではすでに一般的だった方眼付き地図を参考にして立案したもの。この地図が刊行された当時の日本では、方眼つきは非常に珍しかった、と書かれている。
 よこ軸には「いろはにほへとち」と記述され、たて軸には「一二三四五六七八九十十一」と自分が立っている位置が検索しやすい地図である。
 さすがに理系の作家、森鴎外を彷彿とさせる地図である。
 小説のなかに「鉛直」「垂直」という記述があっても、その使い方が正確である意味がここからも伝わって来る。

 地図に山手線を探す。
 東京駅が見つからない。
 目を皿のようにしてよく見ると、東海道の終着駅は新橋停車場で、北からおりて来る鉄道路線は秋葉原仲町でストップしている。それもそのはず。この駅は1908年に本格化し、1914年(野口三千三誕生の年)に完成したわけだから。今年で103年になる。
 当然、1909年の地図に東京駅が載っているわけがない、と得心した。

 地図を観ながら思うこと多々。
 まず、千駄木という地名はどんな由来か。そこから離れた田舎であった内藤新宿ちかくに原宿村あたりに千駄ヶ谷があるのだろう。
「千駄」が共通である。キーワードは「駄」であった。駄馬、駄菓子、駄洒落の「駄」である。
 荷役に使う馬のことで、値打ちのないもの、つまらないもの、粗悪なものの意である。
 人を乗せる「乗馬の馬」は一段上であり、荷物を運ばせる馬は「駄馬」なのである。
「なんともはや馬がかわいそう」
 こん差別感はいかに。
 物流が止まれば、人間はその日から生活できなくなる。とりわけ生産をしない都市生活者にとって、生活物資、建築物資、その他、ありとあらゆものを運ぶ馬は、貴重であるはずなのに、なんたることか!
 それはそれとして、地名の由来だが、「千駄木」は、太田道灌が千駄木林と呼ばれる地に「栴檀(センダン)」木を植えた。そのセンダンがなまったか、あるいは「千駄」も植えた、「馬」一頭に負わせる荷物の量を「一駄」とし、それが千頭にも運ばせた多量の植林をいうらしい。
 では、「千駄ヶ谷」は何か。
 ここは、渋谷川上流域にはたくさんの萱がはえていて、それを一日に「千駄の萱を積むところ」集積地ということに由来する、とある。
 まとめると「駄」というのは荷物の単位を示す助数詞である。江戸時代には、荷物運び専門の本馬が1駄36貫(136キロ)を定量とした。人一人を乗せる軽尻(からじり)が1駄16貫(約60キロ)。この軽尻の重量に換算して、酒3斗5升(約63リットル)入りの樽二つを1駄といい、一つのを片馬といった。

 ようやく「千駄木」と「千駄ヶ谷」の地名の由来に納得した。

 春風に吹かれて飛ばされて、とんでもない遠方まで話が飛んでしまった。

 とにかくも森鴎外の「鉛直」「垂直」観が、一枚の地図から読み取れるわけであります。

 蛇足:この地図のなかに「東照宮」はあっても「寛永寺」という寺の名称が見つからないのである。
 さらに野口先生の墓所、第二霊園は、徳川第二◯(読めない)廟と記されているだけである。
 穿った見方をすれば、寛永寺は徳川慶喜が一時蟄居していた寺院であることも地図から名前が消えるなんらかの関わりがあるのかしら?
 わからない。
 謎は謎をよんで、面白くなりそうだ。
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片付け事始め−2−

2017年02月15日 05時51分14秒 | Weblog
〈記事のタイトルを入力してください(必須)〉
 ブログを書き始めようと「新規投稿」を開くと、この文字列が眼に入る。
「片付け」と打ち込むと、「片付け事始めー!ー」「片付け事始め記念日」と、過去に書いたタイトルが小文字で列挙される。
 ふむふむ、何度も宣言して長続きしていない証拠のようだ。

 数年前に、片付けたいことの全体のうち、三分の一をクリアした。
 3年かかってしまった。
 その場所が再び眼も当てられない状態に戻りつつある。
 保留してあった物も、今では捨てられる気持ちになっている。

 冬は片付けにもってこいの季節である。
 はじめのうちは寒くても、動くうちにポッポッとからだがあたたかくなって、着込んでいたセーターを脱ぐことになる。
 その点、夏の片付けは汗で体力を消耗するので、長い時間続けることができない。
 そこで私の「片付け事始め」は、いつも「事始めの状態」で、冬に行っている。

 次なる三分の一を、今年は本日から始めることにした。
 同じく3年を目安に、事始めを返上したい。

 入った部屋の足下から、一つずつ手を付けることにしよう。
 仏壇に手を合わせた早朝のこと。
 
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花曇り……「時鐘堂」の時の鐘音

2017年02月12日 08時24分55秒 | Weblog
 北緯35度42分51・2秒 東経135度46分21秒
 ここに「大仏下の時の鐘」と呼ばれた上野寛永寺の「時鐘堂」がある。
 寛永2年(1625)に建てられた当時、敷地面積は35万5千坪と言われている。
 それから41年後、寛文6年(1666)初代の鐘は鋳造された。
 それから21年後、貞亨4年(1687)松尾芭蕉は大川(隅田川)に近い芭蕉庵に住まいこの句を詠んだ。 

花の雲 鐘は上野か 浅草か

 桜の花が一面に満開となって雲のように咲きそろう江戸の春を、鐘の音に託して讃えたのである。
 芭蕉庵は上野の寛永寺、浅草の浅草寺ともに、耳にすることができる位置にあった。
 これらの時を告げる鐘は、江戸幕府後公認の「時の鐘」で、上野、浅草、本所、日本橋など江戸市中10カ所に設置されていたとある。京都、大阪、長崎は、それそれ一カ所にしかおかれなかったらしい。
 つまり、複数の「時の鐘」があったのは、江戸だけである。
 そのこともわざわざ二カ所を詠み込むことで江戸の町が大きな都会に発展していることを、詠んだのではないだろうか。
 なかなかに凝った趣向といえる。
 それはともかく、江戸風情が伝わる句として、素直に味わってみたい。
 おそらく芭蕉は、上野の鐘の音、浅草の鐘の音を聞き分けられたというのが大方の識者の意見であるが、私の個人的な思い入れ、つまり寛永寺に野口先生のお墓があるという勝手な思いから、上野の鐘にちがいないとしたいのが人情というもの。
「大仏下の時の鐘」である、と。
 
 時は330年後、平成29年(2017)来る4月1日にある会合を上野で予定している。
 人、人、人、人、人、………で埋め尽くされるであろう、この時期である。
 なるべく人を見ないで、花を見ようぞ! 
 今から心掛けて、去る2月1日にランチ処を探しに、幹事をしてくれるKさんと出かけた。
 彼女は、上野駅に近くで落ち着いて話が出来る店を、ピックアップしてくれたので、何件かをのぞいたあとに有名フレンチレストランで試食をすることにした。
 予算の都合もあるが、そのあたりは範囲内なので安心して席についた。
 フランス料理としはまずまずの値段と味であった。
 二人の意見は一致して、この店に決めてることにしたのである。
 その後、レストランに電話予約を入れてくれたKさんから連絡をもらった。
 午前中の予約はないので、裏技を教えてもらったという。
「確と承った」
 だがちょっとまずいかなー、という思いがして、他も当たってもらことにした。

 一軒は、「時の鐘」にもほど近い、一度は行ってみたい和食店であった。
「ぜんぜん、話になりません」
 Kさんからの電話である。
 すでに1月から、花見時の予約ははじまっていて、すべて満室ということであった。

 ここからが彼女の真骨頂である。
「もしや、他の店も同様かも」
 そこでもうもう一軒の店に電話を入れた。
 その時点では最終的な人数は決まっていない。
 予想すらたたない。
「どうしましょう」
「見切り発車しましょう」
 なんとか交渉の末に、個室を確保してくれた。
 翌日のこと、Kさんは試食にでかけ、まずまずの感触をつかんで、我が家に報告に来てくれた。
「なんだか綱渡りですねー」
 お互いに顔を見合った。
 
 日本の花見は外国人に人気が出て、各地のお花見処は、ものすごい混雑になることや、食事するところを確保することが大変であるということは、ニュース等々で知っていた。
 が、しかし、これほど大変な状況になっているとは、実際に当たってみなければわからなかった。

 さて、さて、鐘の話に戻そう。
 現在の寛永寺「時の鐘」は元明7年(1787)につくられたもので、平成8年(1996)「日本の音風景100選」に選ばれているとうだ。
 朝夕6時、正午、1日3回、聞くことができる。
 4月1日には、人の波音にかき消されてしまうのだろうか。
 いやいや、心して耳を傾けよう、と今から心待ちにしている。 
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Webおのぼりさん

2017年02月08日 08時18分33秒 | Weblog
 このところしばらくパソコンに向かって事務的な仕事をしている。
 一つは名簿つくりである。
 名前・メールアドレス・電話番号をエクセルに記載する前準備である。
 メールでいただいたものは、そのまま貼付ければよいのだけれど、手書きのものは打ち込み作業を行っている。
 そもそも注意力にかける私としては、打ち込みミスがいくつもあって、エクセルにうつしてくださる方に迷惑をかけている。
 単純ミスの他に、いくつかの間違いやすい点を自覚した。
 自分自身への反省として覚えておきたい。

*O(オー)と0(ゼロ)の違いは実に判別しにくい。
 手書きの場合は、0(ゼロ)は縦長に書くべし!

*手書きの場合は、「a」の小文字は、活字体だと書いているうちに「d」に似てくることがある。4文字もaがある方からの手書きに遭遇して、よく考えずに打ち込んだら、最後のaをdと読み間違えた。
「a」は筆記体で書くべし!

*氏名をアドレスに使用するときは、ローマ字つづりでつながった小文字列は読みにくい。
 氏と名の頭を大文字にするか、「ー」でつなぎどちらかをイニシャルだけにするべし!

  等々。

 さて、もう一つの作業は、「ゆうちょダイレクト」の申し込みで気づいたことである。
 中国へ頻繁に出張する女性、Sさんから聞いた話からはじめよう。
 彼の国では近年のスマホの普及はすさまじいものがある。
 あらゆるところでスマホ決済がされていて、大店舗だけでなく屋台まで利用されている、という。
 そういえばインドでも、高額紙幣が急に廃止されて、電子決済に移行するというようなニュースも聞いた。

 実は、「ゆうちょダイレクト」の登録作業を自宅のパソコンで行ったが、順調にすすむと思えた作業が、突然中断せざるを得ない状況に追い込まれた。
 それはワンタイムパスワードを受け取る段階でのことだった。
 このパスワードは、携帯電話に送られてくるように設定されていた。
 我がiPhoneにはSo-netが入っているから大丈夫だと思っていた。
 ところが「ゆうちょダイレクト」では、So-netは、受け付けてもらえなかった。
「なぜ?」
 よくわからない。

 つまづいたところで文面をよく読むと、携帯のdocomoメールに送信するとかかれている。SOFT BANKでもよいのだろうけれど、強調されているのが「docomo」なのであった。
 そこで調べてみると、今使っているスマートフォンにドコモメールアドレスを入れていなかったことが判明し、したがって、すでに、先方からワンタイムパスワードが送信されているにもかかわらず、受信できなかった。

 実は、昨年、ある事情からSOFT BANKからdocomoに変更していたにもかかわらず、そのアドレスを入れていなかった。
 急遽、「ゆうちょダイレクト」の操作を中断して、スマートフォン対応に追われた。
 これがなかなか面倒なのである。しかたなく電話で指示をうけて操作を完了した。
 それでも20分以上の時間が経過していた。
 
 無事に「ワンタイムパスワード」は即座に受信できた。
 ところが操作ストップに時間がかかり過ぎていて、「ゆうちょダイレクト」をやり直すハメに陥ったのである。

 ここで気づいたこと。
 郵貯はもともと郵政省で、docomo は電電公社であった。
 なるほど、ともに「民」ではなく、「官」なのである。
 あの文面は将来を見据えた抱え込み作戦に違いないと穿った見方をしてしまった。
 やけっぱちの心境だ。
 2010年といわずに、ゆうちょもdocomoと組んでスマートフォン決済を全国隅々まで行き渡らせようという考えに違いない。
 Appleはスイカとくんでいるし、iPhoneで支払いが出来るように初期設定を促すことを画面で何度も繰り返して知らせてきた。

 どこも顧客の抱え込み競争が激しいってことだ。
 これもメールアドレス作業で知ったことだが、東急東横線沿線に住まう人は、東急のプロバイダーを使用している人が多いという。これも「o 」と「0」の判別に苦労したすえ、電話で確かめてわかったことだった。

 まとめます。
 これから生きて、生活していくにあたって、“すでに”というのかもしれないが、スマートフォンやタブレットはなくてはならない必需品になってしまった。

 Webおのぼりさんとしては、あっちを向いてきょろきょろ、こっちを向いてきょろきょろ、ドキドキしながら、新しい風景に驚きを隠せないこの頃であります。
 
 最後の一言。

 我は、リアルでレアな世界で生きている実感を得る体験を、意識的に組み込むべし!

 最後にもう一言、自戒。

 注意散漫、そそっかしい自分がいちばんあぶない、気をつけるべし!
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終着駅のない旅

2017年02月03日 14時12分08秒 | Weblog
 一昨日の昼過ぎに、日曜日に取材を受けたライターさんから、入稿前のゲラが写真とともに送信されてきた。
 外出先で気がついたが、その日は手つかずのままにしておいた。
 翌朝、かなり早く目覚めたので写真と照らし合わせながら、キャプションやコメントを読み込んだ。
 資料があるとしても、一回、二時間のレッスンでよく捉えられているとは思った。
 写真はどのようなカットをとりたいのかが決まった段階で取材撮影をされていたので、すでに構成はできているのだから、短文もイメージはほとんど出来上がっているに違いなかった。

 そこで私の作業は、微妙な言葉使いに、修正を加えることになる。大幅な修正になってしまったとこもあった。
 ライターさんの意図するところを感じ取りながら、野口体操の言葉に置き換えていくリフォームは、それなりに工夫がいる。
 以前ならば、文字数を数えて、ぴったり合わせながら修正をしたけれど、年をとったせいか、いや、ライターさんを尊重したい思いから、こちらの主張を字余り状態でも書いて送ることにした。
 そうすれば先方も自分の考えを活かしながら、修正文をさらに修正してまとめあげることができるはずだと思うようになった。

 昨日には、2回目の原稿が送信されていて、月曜日までに戻して欲しい、とあった。
 今朝も早くから目が覚めたので、ゆっくり読み直した。
 訂正するところは見つからず、OKとあいなりました。

 いずれにしても野口体操の実技紹介は、文章化が難しい。
 読んでわかるものではない。それでも読んで試してみる読者もいるわけだから、危ない表現に対しては、たとえばV字形の指示を波形に変えてもらったり、イメージを伝えるオノマトペは柔らかい「ほわ〜ん」などと訂正してもらった。
 これで来週には校了となって、2月中旬には店頭に並ぶらしい。

 さて、最近の傾向だれれど、朝日カルチャーにはじめて参加される方のなかには、本やビデオやホームページ上の動画を見て、予め体操を練習してくる方も増えた。
 特に人気なのは『DVDブック アーカイブス野口体操』がいちばんに挙げられる。

 以前ならば、写真も動画も、文章も、すべてで伝わっていない印象だったが、最近ではそれが変わって来た。
 社会の身体に対する価値観、実践が、より野口体操に近いことになっていることもあるかもしれない。
 それでも実際に教室に来て「上体のぶら下げ」「上体のぶら下げを一息で何回か繰り返す動き」「上体のぶら下げのヴァリエーションで、一回放りあげて何回か揺する動き」等々、はじめて生の動きをみた時の驚きは、尋常ではない。

「腕立てバウンド系」も同様で文章を読んで、写真を見たり、DVDの動画で見ていても、自分の目の前で繰り広がられる動きから受け取れる印象はまったく違っているようだ。
 とはいえ一昔前とは雲泥の差、事前リサーチのレベルが高くなっている。

 可能ならばしばらく教室に通って、身につけていただけるといいのだけれど。
 あすの土曜日は、日曜日に不完全燃焼の感があった「味わう」をテーマにしたい。

 伝えるって難しい。
 でも難しいからやり甲斐があることも事実。
 終着駅のない旅をしているようだ。
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「老女力」って?

2017年02月01日 08時25分37秒 | Weblog
「女子力」に対して「老女力」を自分のこととして考えてみた。
 老女といっても60代や70代と85歳以上の老女では基準が違うような気がする。
 年金や社会保障問題から、70代になってからをお年寄りとする基準がいつの間にか出来たようだが。
 でも年をとればとるほど、暦年齢と実際の老化度とは個人差が大きいようにも思える。
 分けるのは好きではないけれど、92歳になる母を見て来た実感からして、大雑把に「前期・老女力」と「後期・老女力」があるような気がする。

 前期はこんな感じ。

*背筋と膝が無理のない範囲でまっすぐに保っていられる。
*臆面もなく若作りのお洒落ができる。
*自分の年齢よりもずっと若いお友達が男女をとわず若干名いる。
*若いときから続けている楽しみを他の人に分けて(教えて)あげられる。
*老後破綻予備軍にならずに、とにもかくにも日常のひそやかな暮らしが維持できる。

 あぁ〜、無い物ねだりみたいだー、と思わなくもない。
 気をつけないと最後にあげた老後破綻回避が、あんがい難しいかも。

 気を取り直して。

 後期はひとこと。

*寝たきりにならない!

 ご一緒に考えていただけません。
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今時の「女子力」、そして「老女力」ってあり?

2017年01月30日 09時52分11秒 | Weblog
 昨日、朝日カルチャー「野口体操講座」日曜クラスで「美と健康」を売りにした雑誌の取材を受けた。
 野口先生存命のころから今までに、雑誌や新聞、他、数えきれないほどの取材を受けて来た。
 今朝になってふと口について出た言葉が「女子力」だった。
 真逆の意味で女子力を持ったライターさんとカメラウーマンさんだった、と思いながら朝刊を取りにいった。
 朝日新聞を手に、ソファにかけて開いてみると、9面「オピニオン」に『「女子力」って?』の見出しに目が釘付けになった。
 グッとタイミングである。
『「かわいい」より努力がいる』の小見出しにクスッ!
 確かにフリーで仕事をしている二人とも、なかなかの気概があった。

 新聞と照らし合わせながら二人を思い出す。

*料理や掃除など家事が得意である。 これはどうかな?「?」マークがついた。
*細やかな気配りができる。     まずまず。
*いつもきれいにしている。     真逆のお洒落が行き届いていた二人。
*人間性や教養を深めるなど、内面を磨いている。  そうだ!
*出しゃばらず男性を立てる。    まぁまぁかな?
*性的な魅力がある。        よしよし。
*リーダシップや頼りがいがある。  バッチリ。
*その他。             このその他の要素が大事そうだ。

 女子力コンビのふたり。
 女性として魅力を十分に発揮してるが、女を生かす女子力、むしろ男らしさを兼ね備えた女子力を見せてもらった。
 ニコンのカメラに舞台撮影でもするのか、と思うほどのレンズをガバッとつけて、「バッチリ写真は撮りますわよ!」というカメラウーマン。
「決められたことは漏らさずやり抜きますわ」雰囲気は柔らかいものの、臆せず押し出してくるライターさん。
 むしろ最近では男性のライターさんの方が遠慮がちになる印象ありますね。こちらは『無理をしなければ、無理が通る』を地でいった美魔女だった。

 女性誌なので、撮影は女性が中心だったが、今時珍しいカメラのシャッター音が教室内に鳴り響くたびに、男性群も目が輝いてくるから大したものだ。私も音に合わせて動きの調節を、あからさまにしてあげたりして。

 当日まで、必ずしも双手を上げて「取材してください」という思いに至っていなかったが、引き受けたからにはしっかりやらないと、とは思っていた。
 しかし、なかなか気分が乗り切らないでいたけれど、彼女たちの女子力にしっかりはめられていった。

 記事はとても小さいスペースであっても、あれだけ一生懸命な姿勢を見せてくれると、多少の傍若無人ぶりにも、許す気持ちがおこって来たのが不思議だった。
「あのくらいに強気でいないと、あの世界ではやっていけないのだろうな〜」
 クールに逆取材させていただく私でもあったことに“ごめんなさい”。
 というわけで、実に楽しく、充実した日曜日の午後を過ごさせていただいた。

 実は、これまで経験しているスタジオに呼ばれていく取材では、ヘアメイクをしてもらえるのだが、昨日は普段のレッスン会場である。
 とはいえ若い読者体験者まで入ることになっているし、教室で長く続いているいちばん高年齢の女性にも取材と撮影をおねがいしたい、という申し出まで受けていた。
 考えましたねー。
 迷ったあげく、出かけるギリギリになって行きつけの美容室に飛び込み、ヘアメイクをしてもらった。
「あのー、自然に。。。。バッチリメイクにならないで。。。。ごめんなさいね……プロにやってもらったって感じにならないで、お願いしますー」
 取材を受けるときとしては、はじめての心遣いだった。

「女子力」、なるほど。
「今更、遅いわねー」などといわずに、老化防止のつもりで気遣ってみましょうか?
 朝日新聞記事を思わず切り抜いて、手元に置いた(苦笑)。
「老女力」めざして!ネ。

 



 
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近況

2017年01月27日 08時17分51秒 | Weblog
 しばらくブログへの書き込みが疎かになっていました。
 いくつかご報告もかねて近況をお知らせします。

 秋学期の授業もテストもすませ、2016年度の成績を出し終えました。
 ホームページ上で発表したい素晴らしいリポートがいくつも提出されました。
 とりわけなかなか難しかったクラスは、今までのなかでいちばんいいクラスに成長し、結果として素敵な関係を築くことができました。秋学期になってからは気合いをいれて準備し、一人ひとりに向き合った甲斐がありました。
 
 いづれにしてもWeb成績入稿といういうのは、慣れてしまうとなんとも便利というか仕事が楽であることを、最近は実感するようになってきましたが、不安感はまったくないわけではありませんが。

 そして先週の木曜日は立教大学の最後の授業のあと、感謝会を開いていただきました。
 本数こそラッキーセブンでしたが誕生日のように蝋燭が立ったケーキやサンドイッチや飲み物が用意されて、2004年から2016年まで、授業を持たせていただいた労をねぎらっていただきました。
 体育担当の先生方の心のこもったメッセージが書かれた寄せ書きや、可憐なブリザードフラワーの記念品を戴きました。
 私の人生のなかで立教で過ごした時間は、かけがいのない宝ものの時間となっています。
 定年を2年延長してつとめさせていただきましたが、ここで無事に卒業できましたこと感謝しています。
 この間、応援し支えてくださった先生方や、授業履修を希望して抽選に応募してくれた学生の皆さんのお蔭で、野口体操が立教に根付いてくれました。
 2017年度4月からは、推薦した新井英夫さんが、後任として授業を引き継いでくれることになったことをご報告できてホッとしているところです。

 さて、このたび1998年の野口三千三先生没後、佐治嘉隆さんのご尽力を得て続けて来た「野口体操の会」の間口を少しだけ拡げて、これまで同様に杉浦康平氏から贈られたロゴマークのもとに「新・野口体操の会」を発足させる準備を整え、会員を募るところまでようやく辿りつきました.
 まずは戴いている年賀状をたよりにして、野口体操にご縁のある方にお声をかけています。
 
 4月からは朝日カルチャーセンター「野口体操講座」も40年目に入ります。
 土曜日と日曜日のクラスは、それぞれに異なった個性で、こちらも和気藹々とした雰囲気で続けることができています。
 
 また、2016年度から始まった中央大学法学部の体育授業(野口体操)も、二年目を迎えることができそうです。

 遅々として進まない亀の歩みですが、いずれにしても次の世代に手渡す準備を本格化させる2017年度の新学期にむけて、準備を始めたいと思っています。
 立春も間近になりました。
 野口先生の祥月命日も近づきました。

 こうして来し方を振りかえると、皆さまの思いに支えられて野口体操の灯火が消えずにいることを、身にしみて感じるこの頃です。
 4月1日には、寛永寺の墓所で泉下の先生に、ご報告をしたいと思っています。
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「垂直」と「鉛直」の違い……野口体操で最も重要なこと

2017年01月09日 10時03分17秒 | Weblog
 『人間が人間であることの基礎感覚は、地球の中心との「繋がり感覚」である』
  野口三千三著 『野口体操 おもさに貞く』4頁より

 年があけて調べはじめたのは、「鉛直」と「垂直」いう言葉だった。
 この言葉を聞いたことがある、とこたえる人は少ない。
 まして使ったことがある、とこたえる人は殆どいない。

 すくなくとも野口体操を始めた1975年頃に、野口の話ことばとして「鉛直」と「垂直」の違いを聞いたのが、私にとっては、最初のことだった。
『「鉛直」は、地球上では絶対的な方向です。それに対して「垂直」は相対的な概念です。そして「鉛直線」とは糸や紐の先に鉛の玉をつり下げた時に出る直線のことです。だから「鉛直」なんです』
 
 それから40年、はじめて小学館『国語大辞典』を引いてみた。(なんと遅かったことよ!反省) 

「えんちょく(鉛直)」
1、鉛直線の示す方向と等しいこと。また、そのさま。
2、ある直線が、ある直線・平面に対して垂直であること。また、そのさま。
「えんちょくせん(鉛直線)」
1、物理学で、重力の方向を示す直線。すなわち、物体をつり下げた糸の示す方向の直線。水平面と垂直をなす直線。
2、一点からある直線。平面に対して垂直な方向に引いた直線。

「すいちょく(垂直)」
1、まっすぐに垂れていること。また、そのさま。
2、水平面・地平面に対して直角の方向を示すこと。また、そのさま。物体を糸でつった時、糸が示す縦の方向。重力の方向。鉛直。
 数学では(1)二つの直線が互いに九〇度で交わること。
     (2)一つの直線が一つの平面と交わりその平面に含まれその交点を通るすべての直線と九〇度で交わること。
     (3)二つの平面が交わり、一方が他方と九〇度で交わる直線を含むこと、をいう。

 なぜ、国語大辞典を引く選択だったのか、それにはわけがあった。
 この二つの言葉が、日本ではいつの頃から使われるようになったかを知りたかった。
 おそらく西周や福沢諭吉が、盛んに翻訳語をつくりだしたり使い出したりした明治期に違いない、と当てずっぽうに始めたことだった。

 国語大辞典には、その例文が挙げられている。

「鉛直」1、の意味では、『二人の女房』〈尾崎紅葉〉上・三「杉箸を鉛直に立てて遠くから測量して」
  『妄想』〈森鴎外〉「砂山の岨(そは)が松の根に縦横に縫われた、殆ど鉛直な、所々中窪に崩れた断面になってい(旧字)るので」

「鉛直」2、の意味では、『青年』〈森鴎外〉「権現前から登って来る道が、自分の辿って来た道鉛直に切る処に袖浦館はある」

「鉛直線」では、『浮世絵の曲線』〈寺田寅彦〉「全体の支柱となるからだの鉛直線に無理なく流れこんでいる」
 
「垂直」では『灰燼』〈森鴎外〉一三「お種さんは大きな麦藁帽の縁が垂直になる程傾いてい(旧)る」
      『歩兵操典—第四八』「床尾踵を右足尖の傍に置き銃身を概ね垂直に保つ」

 やはり思ったとおり、「鉛直」も「垂直」も明治の作家と近代兵術を取り入れた「歩兵操典」で、軍事で使用されているのだった。
 尾崎紅葉の場合は測量に使用されている。
 森鴎外の場合は、鉛直は地形の表現に使用され、垂直は人工のものの有様に使用されている。(因みに、「灰燼」という題がなんともやるせないが)ちゃんと、書き分けられている。
 
「垂直」という言葉、「歩兵操典」に使用された軍事用語だが、軍医として陸軍に所属していた鴎外が、「鉛直」と「垂直」を使い分けていたところに注目したい。

 多くの日本人にとって、正確に言うならば日本語を国語とし、さらに母語としても育てられた人々にとって、この二つの言葉は、「垂直」に集約されて使われいる、と言っても過言ではない。

 それでは英語ではどうなるのか。
「鉛直」vertical 意味:重り(錘)を糸でつり下げたときの糸が示す方向、すなわち重力の方向。水平面に対して垂直の方向。鉛直線 vertical line、plumb line とはその方向の直線のこと。
 *「測鉛」水深を図るときに使われる紐に鉛をつり下げる道具の意味でもあった。
 *「鉛」Plumb の語源は、ラテン語の「鉛」。垂直に きちんと といった意味である。

「垂直」vertical,perpendicular の数学においては、次のような使われ方である。
「垂直(すいちょく)」英: perpendicular であること、すなわち垂直性 (perpendicularity) は直角に交わる二つの直線の間の関係性を言う。この性質は関連するほかの幾何学的対象に対しても拡張される。
 ここまでくると「鉛直」と「垂直」の概念を持っているかどうかを、ネイティブの方に確かめる必要がありそうだ。

 日本語として使われたのは、いったいいつの頃か、と先ほども書いたが、『日本における近代物理学の受容と訳語選定』と『明治初期日本数学界における伝統数学と西洋数学の競争』をひも解いてみると、明治13年7月に東京数学会社が、「訳語会」をつくった、とある。西洋数学を日本語に翻訳する際に、数学用語を統一するための述語をつくりだすためである。
 物理学の述語に関しては、会津藩士だった山川家の山川健次郎、他、が中心になって「物理学訳語会」が、明治16年に活動を始めたとある。
 いずれにしても明治期の近代化を学術的におしすすめた日本人の熱意は、想像を絶するほどであったことが「鉛直」と「垂直」を調べることで伝わってくる。

 野口の『地球の中心との「繋がり感覚」』を、地球での鉛直線の性質で言ってみると、こんな風になる。
『地球上のあらゆる鉛直線は地球の中心の一点で交わる』
 このとき、重力の方向と一致することから
『物体を自由落下させたとき、物体が辿る経路は鉛直線に一致する』
 これが「おもさに貞く」という原点なのであろう。

 こうして調べてみると、野口の思考は、実に物理学的発想によっていることがわかる。
 つまり野口体操の理論“おもさを生かす基本感覚”は、近代物理学の基本概念から導き出されたことである、と言えるし、「おもさ」に注目し「鉛直」や「垂直」を厳密に分けた野口発想は、戦後体育の世界では、はじめてのことだと言っても過言ではないだろう、と私は思っている。

 この「鉛直」「鉛直方向」「地球の中心方向」といった一連のことばは、どれほど多く野口の口から発せられていただろう。レッスンのたびに、耳にたこができるほど聞かされていた。

 よくよくその経緯を思い返すと、野口がこれらの言葉と概念に極度なこだわりを見せるようになったのは、宇宙飛行士にTBSの秋山さんが選ばれて、無重力空間での体験を話すころからだったように記憶している。そしてその回数は頓に増えた。
 高田栄一さんを朝日カルチャーにお呼びして『蛇に親しみ 蛇に貞く』公開講座を行ったときのは一発触発寸前となったことがあった。
「自然はすべて曲線です」
 という高田さんに
「いや、そうでもない。直線だってあるんです」
 刀でスパッときったような直線をもつ貝殻を見せていた。
 この対立を起こしたのも、無重力による人体への影響、心理的変化、等々の研究が進み、多くの情報がもたらされてからの出来事だった。
 宇宙の無重力空間に対して、常に地球の中心に働いている力を動きの基本とし、その感覚を育てることが大切であると自信をもって強調するようになった時期に、私は野口体操を始めたのだった、と、今、振り返っている。

『野口体操 おもさに貞く』9頁には、次のようにまとめられている。
『今、西ドイツに住む長男一家とも、水平方向を指さしても方向が間違ってしまうが、地球の中心への重さ(思ひ)の方向なら間違うことなく確実に地球の中心で結ばれることを感ずる。妙なことに、いつでも一緒にいるような気がするのである。「地球上のすべての存在の究極のふるさとは地球の中心である」ー「地球感覚」とでも名づけたい、私にとって大切な感じ方なのである』

 最初に読んだ時には、「実感? ホントかな?」と思ったものだった。
 皆さまは、いかがですか。

 本日は、備忘録として書かせてもらいました。
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お漬けもの

2017年01月08日 08時19分14秒 | Weblog
 毎朝、日経新聞朝刊、昨年から始まっている『琥珀の夢』ー小説、鳥居信治郎と末裔 伊集院静 の連載を楽しみにして読んでいる。
 大枚をはたいて一等客船に乗り込んで、神戸港から小樽まで船旅をする主人公は、本日は横浜港に入港した。
 当時の日本、イギリス、中国の関係をさらりとした描写。
 明治の開国期における、軍事、貿易、異国とのかかわり、そして主人がカルチャーショックを受けながらも貪欲に、すべてを吸収していく姿がイキキと描かれている。

 読み終わって視線をずらすと、見出しの『なにを食べたか』の文字が飛び込んで来た。
 書いた方は「馬場あき子」さん。
 懐かしかった。
 90歳近くになられているが、筆の具合からお元気な様子がうかがえる。
 野口先生が存命のころ、朝日カルチャーセンターの「野口体操講座」を終えて住友ビルを出る折りに、入れ替わりに入っていらっしゃる馬場さんとすれ違うことがあった。
 普段着よりはちょっとだけよそゆきの和服をさらりと着こなして、楚々として歩かれる姿は、日本女性のしなやかな趣の名残でもあったような印象を受けていた。
 つい、振り向いて後ろ姿を追ってしまう失礼を、毎回のこと繰り返していたことを思い出しながら、エッセーを読み終えた。

「昭和20年(終戦の年)の大晦日の夜に何を食べたか」というインタビューを受けた時、全く何も思い出せなかった。そのことがそれ以来頭から離れなかった、という書き出しからはじまって、食料事情が戦時中よりもむしろ悪化したのは戦後のこと。そのあたりの事情が日常の出来事にのせて綴られている。
 戦後71年たった馬場家の大晦日の食卓には、『手作りならぬ料理が並ぶようになった。色彩豊かな御馳走を眺めながら、あの日の大晦日の切実な食への思いがよみがえり、食の原点を忘れてゆく今日に感慨無量である』
 結ばれていた。

 我が家の食卓にもこのところ、手作りに混じって小田原から取り寄せる御節が数種類ならぶようになった。
 以前は、野口先生のお宅にお届けすることもあって、ほとんどすべてを手作りし、その量も相当であった。
 20年間は続いていたことだが、その後、父も亡くなったこともあって、少しずつ手抜きが始まって久しい。
 
 今年は、取り寄せ分は変わらないが、手作りの分量を極力少なくしたので、残り御節もはやめに食べ終わっていた。
 とはいえ三ヶ日を過ぎて、もまだまだ残っている。
 手をかえ品をかえて、食べ残さないようにしているが、さすがに飽きてくる。
 そんなとき包みをあけるものがある。
 年末に送ってくださるお漬け物である。なかみは山東菜と沢庵の二種類。

 今年はとくに驚いた。去年もそうだったのかもしれないが、沢庵の太さと長さである。
 いちばん太いところはゆうに10センチはこえる。ということは漬け込む前の大根は、大きくて太いに違いない。
 正月4日の朝、まな板の上に半分にたたんでおいた沢庵をしみじみ眺めながら、ふと有田焼の皿を思い出した。磁器を窯に入れる前の大きさは、焼き上がった大きさを比べると信じられないくらい大きい。
「高温で焼かれるためにものすごく縮むんです」という説明を受けながら、焼く前と焼き上がった後の皿を見せてもらったことがあったからだ。そのとき焼き物の材料となる、有田の石をもらってきた。この石を砕くと微粉になる。
 いやいや、沢庵にもどろう。 
 ところが、母は沢庵を好まない。大嫌いである、という方は正確な現状を言いあらわしている。
 そこで一計を案じた。
 まず、山東菜を細かく刻む。そのあとに沢庵も細かく刻む。その刻んだものを一つの器に何気なく盛る。
 その上に鰹の削り節とすりごまをパラパラとかける。
 さらに、一滴二滴、神経を集中して、ほんの気持ちだけ醤油をたらす。
 このおつけものをいただくようになった当初から始めたこの策は、毎年のこと大成功なのである。
 白いご飯を口に運ぶ合間に、おつけものにも箸が伸びているの見届けて、抑え気味にほくそ笑む私である。

 思いは巡る。
「例年になく野菜が高かった去年にも、どれほどの漬けものをつくられるのだろう」
 お裾分けまで出来る量だから、想像がつかない。
 そして山東菜も沢庵も、気持ちいいほど切れ味がよいので、数珠つなぎになることはない。
 つまり新鮮な材料の状態で、漬け込まれたことが包丁と握る手に伝わる。

 いただいたその味はとても深い。
 板垣さん、ありがとうございます。
 ごちそうさまです。
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初夢……賽は投げられた

2017年01月07日 09時15分52秒 | Weblog
 初夢でルビコン川を渡った。
 エッ、行ったことも、見たこともない川なのに。
 でもその川は多摩川のようだった。
 その脈絡の乱れが、夢なのである。

「賽は投げられた」
 夢の中で、何度もその言葉を繰り返して自分はカエサルか?
 いやいや自分は自分だと認識しながら
「賽は投げられた」
 舞台に立つ俳優が台詞をいうように繰り返している。

 目が覚めた。
 正月七日の早朝のことであった。

 川を渡らなければ破滅。
 ここは反逆の意味ではなく、投げられた賽の目はかえられない、と取ることにする。
 既に後戻りはできない、たとえ結果がどうなろうとも進しかない、と意味を取ろう。

 なんとも不思議な夢であった。
 というのも年末、日本橋三越で、一年に一度顔を合わせる江戸独楽作家の福島保さんとの会話が伏流となっている、と気づく。
「なんで賭け独楽は、一から順番に並んでいなんですか」
「エッ」
 福島さんは紳士だから、そんなこともご存じないの、という言葉は飲み込んでおられた。
「反対側と足してご覧なさい。どれも七になるんです」
 一の裏(向かい側)は六(向かい側)、二の裏(向かい側)は五、三の裏は四、どれも「七」である。
 なーるほど!

 偶数は「丁」
 奇数は「半」
 賭博は、二個の賽子を使うわけだから、八という数もあり得るんだ。
 などとあらぬ方向へと思いが遊んで、二人でニヤニヤ。
 独楽で丁半をやるとしたら、二個の独楽がいるってことなのね。

 はてさて「賽は投げられた」
 ルビコン川を渡る私は、今年、どこに向かおうとしているのか。
 何とも不思議な夢だった。が、もしや、不思議でもなんでもなく、かなり確立が高い今年の予想かもしれない。
 エッ
 野口先生に叛旗を翻すか?
 そんなことはあるまいぞ、あるまいぞ、あるまいぞ!

 丁度お時間となりました。
 五日おくれの初夢の一席で……。
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Web入稿のドキドキ感

2017年01月06日 14時55分59秒 | Weblog
 2016年度から始まった中央大学法学部の授業だが、2017年度も担当することになっている。
 
 なんとなく気が重かったが、本日、シラバスの入稿をすませた。
 1月16日が締め切りで、その後シラバス審査があるようだ。
 なかなか厳しい。

 大学によってシラバス入稿の手順が全く違って、作業にエネルギーを使う。
 エイヤッ、と気合いを入れてパソコンの前に座る。
 深く呼吸を繰り返し、背筋を伸ばして取りかかる。
 ログインしてページを次々と開いていく。
 いざ、書き込み画面にたどり着いて、案の定、不安になる。
 やっぱりはじめての場合はしかたがない。
 担当者に電話で教えてもらってから、恐る恐る作業に取りかかった。

 やってみればどうってことはなかったが、何故これほどにたじろいでしまうのだろう。
 かなり楽に入稿できる、今までにない使い勝手のいいサイトになっていたことに安堵した。

 こうなってみると、手書き入稿は出来なくなっているに違いない。
 ワープロからパソコンに変わるまえから、すでに手書きでは文章が浮かんでこなくなっていたのだから。
 今ではどうしても手書きでなければならない文書は、一度、パソコンで仕上げてから紙に書き付けるようにしている。
 思考と手と目は、完全にパソコン仕様になっている。
 先日、新聞で読んだのだが、今の若者はスマホに慣れてしまって、パソコンを使いこなせなくなっているのだという。キーボード操作にとまどうらしい。しかし、若いということはすぐに慣れるから救いがある。
 
 かくして時代は変わる。
 その変化に野口体操も何らかのアクションを起こさねばならないのか。

 さてもさても、無事に入稿完了できたことで気持ちがすっと楽になった。
 
 さて、次なる作文の推敲にかかりますかー。
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講演会+ワークッショプのお知らせ

2017年01月05日 08時17分16秒 | Weblog
 いよいよ2017年の幕開けです。
 さっそく今週の土曜日・7日から朝日カルチャーセンター「野口体操講座」1月〜3月期が始まります。
 
 さて、少し先になりますが、2月11日(土)『耳をすます』エッグツリーハウス講演会2「こころとからだに」のご紹介です。
 エッグツリーハウスは、《大切な人、身近な人を亡くした子ども、10代の子、若者、保護者のグリーフケア「たまごの時間」を行っている一般社団法人 The Egg Tree House 》の活動です。
 代表理事の西尾温文さんとは、野口三千三先生の教室で、一緒に体操を習っていた仲間であり知人です。

 こちらの活動は、現代日本でも求められる時代になってきた、と感慨深いものがあります。
 たとえば、思いがけず、突然に、あるいは長患いであっても愛する人を亡くした悲しみを癒してくれる場として、昔はお寺さんがありました。
 また、遠くの親戚より近くの他人といわれるような親しくしてくれる近所のおじいさんやおばあさん、おじさんやおばさんがいて、多少の鬱陶しさも感じつつ、それでも濃密な関係をつくりあげることができました。
 近年ではそうした付き合いが途絶えて、後悔や悲しみ、いたたまれなさを見守り、癒しの手をさしのべてくれる人も少なくなりました。
 
 そういえば、川合隼雄さん、養老孟司さんと丸の内「元気塾」で、鼎談をさせていただいたことがありました。
 その折の楽屋話で伺った話を思い出します。
 川合さんが
「臨床でいちばん難しいことは、クライアントが、今、本当にどん底に達してしるのかを見極めることなんです」
 口火をきられた。
 話しのつづきはこうです。
 おっしゃりたかったことは、落ち込んでいく途中で、しばしば「ここが底だ」と、見誤ることがあることが問題だということでした。
 人は中途半端なところで引き上げようとすると、もっとひどく落ち込むことがあって、大事なことは底の底で引き上げるタイミングをはかることだといったお話でした。
 つつきがあります。
 もっと大事なことは、独りでは無理だけれど、誰かが寄り添って手助けをすれば、人は必ず立ち直ることができる、ということなのです。

 さて、私の経験からも、野口先生を失った時、いつがいちばん苦しかったかというと、死が直前に迫ったときではなく、まだ猶予の時間があると感じられるときに、病に接し「先取りの悲嘆」にくれていたことでした。
 人の悲しみの深さは、人それぞれで、その時、その場、その人がどのような状態におかれているのかによって、全く違うあらわれをするようです。
 亡くなったあとに、買い物にいったスーパーマーケットで、先生が食べていらしたお煎餅をみつけた棚の前で、急にどっと涙が出てしまったこともありました。
 悲しみはどんな状況のときに、感情の底から沸き上ってくるのか、本人でさえ予想がつきません。
 そうしたときに周りに見守ってくれる人、ともに悲しんでくれる人がいてくださった。その中のお一人が西尾さんだったのですが……。
 大きな悲しみ、小さな悲しみ、細かな悲しみを繰り返していくうちに、いつしか時が過ぎて、自然に癒されていったような気がします。

 さて、この「エッグツリーハウス」、悲嘆に寄り添うグループは、これから大切な活動をしてくださるのだろう、と予想しています。
 このたび、臨床心理士、僧侶、看護士といった皆さまの地道な活動のお手伝いを、たった一回のことではありますが、させていただくことになりました。
 最後にもう一度紹介をさせていただきます。
 
 エッグツリーハウス 講演会2 こころとからだに「耳を澄ます」

 場所:小金井市 宮地楽器ホール 小ホール
 日時:2017年2月11日(土)講演会は10時〜14時30分 懇親会も企画されています。
 詳細・予約は、ホームページをご覧ください。

 
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