羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

あれから五年

2016年05月31日 04時37分59秒 | Weblog
 1950年、昭和25年、日本はまだ連合国軍の占領下にあった。
 人々の生活は貧しく、いや、皆が零からの歩みをはじめて5年。
 戦争から解放された安堵感は、赤貧のなかにあっても明るかった、と語った祖母の言葉が印象に残っている。
 5年を振り返ってみると、復興はまだまだ緒についた頃に違いない。
 
 それから61年後の大震災と原発事故から5年。
 戦後とは違う。
 しかし、5年しかたっていないのに、再び、原発という火を盗もうとしている。

 さて、もう一度、66年前に時間を戻してみる。
「もし」という問いはありえないのだけれど、あえて問いかけてみる。
 25歳の新進作家の三島由紀夫が、「プロメテの火」を見ていたとしたら、相当に衝撃を受けたに違いない。 
 のちの三島にはボディビルで鍛えた肉体のうえに、聖セバスチャンの殉教を自ら模した渾身の写真が残っている。
 ギリシャに憧れ、アメリカ文化の肉体を渇望し、自ら日本人の作家として名をなし、最後は武人として殉教の徒となることを演じた三島だ。

 もし、若き日に舞台を見ていたとしたら、コーカサスの山嶺の岩に繋がれるプロメテ。それを演じる50歳・壮年の舞踊家に、陶然として憧れ以上の感情を抱いたに違いない。そしてその憧れには嫉妬が渦をまいている。
「50歳になったとき、この人と同じ年になったとき、どんな芸術を自分は生きているのだろう」
 苦しくもあり、不安でもあり、胃はキリキリと痛む。鎮痛剤を注射器で体内に打ち込む以しか手ははなかった。
 しかし、ここで、立ち上がるんだ、と、それから5年後の昭和30年にボディビルの扉を本格的に叩いた。
 
 ……そんな妄想はいけないよ!……と先生がさとしてくれる。

 でも、敗戦によって明治以降積み重ねてきたすべてを失った時代、同時に日本の文化が破壊されアメリカ文化に取って代わられていく時代に、表向きギリシャを題材に西欧的な表現を駆使して、暗示的に日本を舞台化する。英雄を舞台化する。英雄への喝采と殉教を舞台化する。
「私たちはどんな火を盗もうとしたのか」

 ……そんな問いは穿ち過ぎだよ!……と先生がさとしてくれる。
 
 もし、もし、三島があの舞台を見ていたら、廃墟となった東京の街はコーカサスの山嶺。
 プロメテは自らが演じたかったに違いない。

 ……そんな妄想はいけないよ!……と先生がさとしてくれる。

 そのとき野口36歳。
 盗み取った火にこわさも、英雄の末路も、戦場に散る花の賛美も、どれも、皆、違うのではないのか、と問うたのではありませんか。
 だまされた、自分にだまされた。敗戦を生きるんだ。
 もう国策にはだまされてはいけない、と声にだして言えませんよねー。

 芸術というのはそれがエンターテイメントとして大掛かりなものをやろうとすればするほどに、どこかでだまされていく要素がなきにしもあらず。
 盗み取った火が、危ういものだと気づいていても、気づかないふりも……。

 自力で生きる。
 このからだ一つで自力で生きる。
 サーカスがあり、プロレスがあり、うさんくさいものだったヨガに、野口の思いは切り替わっていく。

 じい様の地歌舞伎は借金してでも、残すべき村の文化だった。
 大歌舞伎に比べれば田舎の大衆演劇である。自腹の芝居なのだ。
「自腹」それだ!

 ……おいおい、飛躍し過ぎだよ!……と先生が止めにかかる。

 でも、大学の授業で、自分の研究で必要なものは、自分で用立てする。
 文化や文明、人間が盗み取った火によって得られる以前の「生命の価値」は、いったいなんだろう。
 それって敗戦後の生き方ですよね。

 ……あんまり穿ちすぎないでね!……と先生がさとしてくれる。

 戦後、第二の火に喝采をおくったのは、私たち自身だった。
 しかし、今、プロメテはいない。
 かりにいたとしても、殉教でもなんでもない。
 だまされていたのは自分自身だ、という野口の自覚を、むしろもちたいね。

 なぜ、『原初生命体としての人間』だったのか、少しだけ見えはじまってきた。
 鏡もいらない、陶酔をよびこむ音楽もいらない。
 無音のなかで、ナルシストの水鏡もなしに、みずからの懊悩へ、一歩、踏み出してみよう。

 自然の音がたよりだ。
 自然の色がたよりだ。
 自然の畏さがたよりだ。
 
 あれから5年。
 5年という月日は、それぞれの分岐点なのかもしれない。
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江口・宮アーカイブ「プロメテの火」をみる

2016年05月30日 06時35分20秒 | Weblog
 その会場は華やかさと熱気に包まれていた。
 観客の大半は女性である。子供から高齢者まで、年令の幅はものすごく広い。
 昨日(5月29日)新国立劇場・中ホールでの催し物は「江口・宮アーカイブ プロメテの火」再演であった。
 江口隆哉が日本女子体育大学うや日本大学で舞踊を教えていた関係から、その伝統がモダンダンスの世界に引き継がれていることを目の当たりにした。
 集まった方々はグループごとにわかれ、それぞれ同窓会のようであった。
 とりわけダンスをこよなく愛してやまなかった青春時代を、なおも生きている高齢の女性達の紅潮した顔が輝いていた。
 会場内は、パートにわかれたエネルギーのウェーブが、そこかしこに現れて伝わっていくようだ。

 さて、15時、幕があいた。
 花と蝶、木々の香りがむせぶパリのエスプリ。その色と香りが生演奏のピアノの音となって耳に心地よい。
 宅孝二の曲をはじめて聴いた。
「お〜、シャンゼリゼ!」
 フランスの空気にのせて宮操子「春を踏む」、坂本秀子さんのダンスで公演はじまった。
「いや〜ステキー」
 思わず心のなかで呟いた。
「先生、宮さんに気に入られるのは、おっしゃる通り無理だったわねー」
 どんなに上手に逆立ちしてみせても、彼女のお気に召すはずはないわ。
「ただ呆然と立ちすくんで、宮さんの妖艶で麗しいダンスにみとれていらっしゃたのねー、わかるわ、その感じ」

 生前、野口先生からうかがったことがある。
「宮さんからは嫌われていたんだよ。江口さんと二階に上がって、ダンスの理論について語り合い、文章にしていくお手伝いを長い時間している僕に対して、踊りもしないで、わかりもしないで、理屈ばっかり、ってね」

 続いてシューベルト「スカラ座のまり使い」こちらは江口隆哉作品でコミックなダンスだ。
 江口さんの踊りはメランコリックだったと、金井芙三枝さんのプレトークであかされた。

 三曲目は、再び宮操子「タンゴ」。
 中村恩恵さんのダンスで音楽はドナートゥ。小品とはいえ圧巻だった。
 宮さんでなく他の方が踊っても伝わってくる。彼女のあふれんばかりの情感とセンスは、すばらしいってことが。
 ダンスを喜び、その喜びが膨張し、踊る快感に委ねられ浸されるダンスは、どれほどの至福だったろう。
 敗戦後、昭和21年に、野口先生が出会った江口・宮舞踊公演に圧倒された衝撃を、十二分に思いおこさせてもらった。
「これだったのか!」
 心の中で膝を打った。
「すぐにも研究所に入所を希望したはやる気持ちはよくわかりますわ」

 休憩をはさんで「プロメテの火」である。この舞台を先生はご覧にはならなかったかもしれない。
 66年前、1950年初演作品だから。すでに舞踊の世界は諦めて、体操に戻っていった先生だから。
 この作品は、新しいアレンジで現代に甦らせたい。
 場所は野外ステージ。当時のように本火を使う。音楽はもちろん生のフルオーケストラ。そこに電子音と電子音楽をドッキングさせる。踊り手は総勢100人超。コンピューターマッピングを使いながら、現代版として再構成したい。
 きっと日本のモダンダンスとして最高峰の作品になりそうだ、と私は思った。
 随所に息づく日本の伝統的な仕草というか振り。でありながら、十分ギリシャ神話なのである。そしてギリシャ神話を超えて人類の「火の物語」となる。

 1900年生まれの日本人が、西欧のモダンダンスと出会った。その大本には謡や能、邦楽の深い素養や日本の伝統文化の造詣があったことは非常に大きい。
 少し遅れて生まれてきたピアニストで作曲家の宅孝二も、江口と共通の文化的土壌に育ち欧州音楽、とりわけフランス音楽にであった。
 伊福部さんになると時代はズレるけれど、こうして網羅的に近現代日本のダンスと音楽の歴史に触れることができたのだ。まさにアーカイブなのだ……。

 幕がおりた時、私はまたもや隣の席の人に話しかけた。
 見渡せば殆ど満席の会場。この列のなかで隣だけが空席だったが、その席は野口先生のために用意されていたのだ。
「いっしょに見ることができて幸せ……」
「そうだね、江口さんと宮さんのダンスは、敗戦後の焼け野が原におりてきた光明だったんだ!」
 再炎。
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醍醐味……資料を読む面白さ……せめて、過ぎ去った時間を手元に引き寄せる

2016年05月27日 08時47分54秒 | Weblog
 昨日から降り始めた雨はやまない。
 いつもならまず二階の窓をすべて開け放って、外気を室内に呼び込むのが日課になっている。
 今朝はそれも出来ず。
 閉め切った部屋で体操をしていると、なんとなくただよう匂いがある。
 はたッ!と気づいた。
 本の匂いである。本と言っても新刊本ではない。
 ようやく届いて揃いはじめた古書の匂いである。

『新・雨月』『満州国演義』がどのような資料によって書かれたのか、またその資料をどのように活かすのか、そんな視点から読んでいた。作者にならって、何冊かの本を取り寄せる手配をしている。
 野口三千三の生まれ育った群馬県や村の記録、そして戦前戦中の日本から戦後の日本に変わっていく大本を押させておきたくて選び出した本である。

 昨日、届いた一冊を夜になってめくっていた。1620頁の分厚い『吉岡村誌』である。
 なるほど作家が郷土史を丁寧にひも解き、作品に反映させていくその過程が見えてくるようだ。

 ページをめくるごとに興味深い内容が目に飛び込んで来る。
 なかでもドキッとする住所と名前を見つけた。
「八 兵事」の章である。
《明治以降の事変、戦没等・戦没者芳名》の記録である。
 日清戦争以来、各種の事変、戦役に従軍し、不幸にして戦没された方々の芳名を記録し、そのご冥福を祈る。(三二二名)と前書きにあり、[亡くなった年月日 氏名 官位 本籍 死没年月日 年令 場所 遺族]が縦書きで記されている。
 昭和18年12月13日 氏名は野口先生の旧姓、陸軍軍曹 本籍地はご実家と同じ 年令が32歳 場所はチンスキヤ上空 遺族は弟名
 もし親族のかたであればだが、名前と年令からすぐ上の兄様のようだ。
 確証ではないので、ご本人・弟さんのお名前は伏せます。

 明治、大正、昭和に亡くなった方々が亡くなった場所の記載を全体を通してみると、中国(満州)からアジア全域にまたがっている。
 今朝になって《日華事変、太平洋戦争従軍者》陸軍の項の名簿に満州に予備役として従軍した人のなかに、戦没者の遺族名にあった弟さんの名前をみつけた。
 
 ほかにも満州開拓団の様子や氏名など、『満州国演義』で読んでいた内容を重ねてみる。
 小説という形で読んでいたことの意味を、今、実感している。ただの記録としてではなく、ここに人が生まれ、育ち、成人し、生き、亡くなった、その生き様・死に様の有様が、僅かではあるけれど伝わって来る。

 口頭伝承や郷土芸能の記録もあって、地芝居についても詳細に語られている。
 野口先生の名付け親であるおじいさまが村歌舞伎のために多額の借金を残していった、という話も納得である。
 また、秋祭りの出し物としての屋台と屋台ばやしの太鼓の音符等も掲載されている。
 遠くからでも父親の打つ太鼓の音色とリズムは、他の人とは違って「すごく上手いんだ!」とご自慢であった音が聞こえてくるようだ。

*屋台太鼓の音符(大塚重信による)の一部をここにうつしておきたい。

 ガラガラガラッ …… 太鼓の縁をたたく音
 ドンドコドン  …… 太鼓の中央を強くたたく音
 トントントン  …… 太鼓の中央を軽くたたく音
 ドウドウドウ  …… 太鼓の中央を左手おさえ右手で打つ
 スットン    …… 一拍休みをあらわす

 ぶちだし(たたき初めの知らせ)
 ドロドロドロ  …… 七、八回
 ガラガラガットン ドンドコドン
 ガラガットン   ドンドコドン
 ドコドコドン ドコドコドン ドコドコドン
 ドンドンドン ドウドウドウ  ………… 一〇回ぐらい

 まだ続きますが、ここまで。
 因みに先生のごご実家に近い地名に羽鳥さんという家があって、その家からも従軍者や戦没者を何名も出していたようだ。家の親戚かしらね。

 本日も最後の一冊がこれから届くはず。
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英文でよむ日本国憲法

2016年05月22日 11時51分59秒 | Weblog
 5月12日(木)以来、一つのテーマにはまって、時間がゆるせば資料と本を読んでいる。
 すべては同日の新聞記事から始まった。
 今年、2016年は戦後の新憲法公布70年に当たる。
 そこで朝日新聞は、さまざまな形で「憲法」について特集を組んでいる。
 私がはまるキッカケになったのは、12日付け「英文で読む日本国憲法」オピニオン&フォーラム17面の記事だった。
 アメリカ文学者で村上春樹氏と親しい間柄にある柴田元幸氏へのインタビュー記事である。
《主語は「私たち」絶対に戦争しない 気合いの入った表現》
 見出しにはそうある。
 昨年、『現代語訳でよむ日本の憲法』を彼が翻訳し、法律用語監修に木村草太氏で、アルク社から出版してあった。
 
 この本が届くまでのあいだ、Web上で検索できること、Amazonで手に入る本等々を調べてみた。
 国会図書館の『日本国憲法の誕生』サイトはすばらしく精緻な情報を、大量に提供してくれている。
 わざわざ出向かなくても、パソコンから自由に取り出し、印刷することができる。

 特筆すべきは一冊の本である。
『日本国憲法成立史』佐藤達夫著 佐藤功補訂 有斐閣 第四巻の内容である。
 1946(昭和21)年 第九〇回 帝国議会の審議ー衆議院 “憲法会議”とも言うべき会議の開幕から始まっている。
 ここから新しい日本の憲法が審議されて、11月3日には公布されるのである。

 審議の内容を速記録を起こしたままの文章で掲載されている。
 漢字ととカタカナの綴り方は、慣れないうちは手間取った。ところが漢字と平仮名の文章は、ついつい斜め読みをして分ったつもりになっているのに、それができない。そのことで次第に施政方針演説やそれに対する質疑など、丁寧に読んでしまうのである。
 だんだん面白さが増して、この問題の深みにはまっていく快感に酔っている自分に苦笑していた。

 さて、憲法議会が開催されている国会を出ると、そこには食料事情の極度の窮迫から餓死者が続出する敗戦後の現状があった。
 国会図書館のサイト「日本国憲法の誕生」でも、『現代語訳でよむ日本の憲法』でも、1945年7月26日に「ポツダム宣言」受諾から1946年11月3日日本国憲法公布、本の方はさらに1947年5月3日日本国憲法施行までの年表を読むことができる。
 しかし、私はその年表に、佐藤達夫版の注にあった食料問題に対する大衆運動活動を『近代日本総合年表』岩波書店 を参照して加えてみた。

 1945(昭和20)年11月1日 日比谷公園・飢餓対策国民大会 飢餓者続出 上野駅では1日最高6人
 1946(昭和21)年5月1日 復活メーデー
 1946(昭和21)年5月12日 世田谷(米ヨコセ)区民大会 宮城へデモ 初めて赤旗が坂下門をくぐる
 1946(昭和21)年5月19日 皇居前広場で「飯米獲得人民大会」の名による“食料メーデー”(約20万人参加)上奏文を決議。
 1946(昭和21)年5月20日 “大衆的デモンストレーションに関するマッカーサー元帥の声明”「組織された指導の下に、集団的暴行と、暴力による脅迫への傾向を増しつつある事実」について国民の注意を喚起した。
 1946(昭和21)年5月24日 天皇 食料事情に関して録音放送(家族国家のうるわしい伝統によって食料難克服を希望する由) *「日本ニュース」、それを聞いた市民の声は批判的であった。その後、アメリカ軍が小麦粉を配給 
 1946(昭和21)年6月13日吉田内閣は、“社会秩序保持に関する声明”と“食料危機突破に関する声明”を発表“
 
“憲法よりも食料を”と訴えた政党のはじめての議会における演説に注目された、とある。

 一日でも、一週間でもはやく憲法をもって国際的に日本の立場を鮮明に表明しなければならなかった事情と、国内の飢餓問題は、どちらも緊急の逼迫した問題であったことが、佐藤達夫の著書からは伝わって来る。

 読み進むと第九条に関する質疑には次のような記述を見つけた。
《戦争の放棄 「敗戦によって武装解除した国が、戦争をしないというのは、あたかも赤貧に陥って倹約するというのと同じことである。むしろ、進んで永世局外中立運動を起こすべきではないか。」北昤吉議員》
 ここで、一瞬、思わず、ページをめくる手を止めてしまった。

 さて、今日のところは今朝になって近藤早利さんからメールで知らされたNHK「日本国憲法誕生」を紹介しておわりとしておきたい。
 昨日の朝日カルチャー「野口体操講座」で話をしたこととも重なって、佐藤達夫もキーマンとして出てきます。
 ぜひ、見てください。
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とと姉ちゃん……福助人形

2016年05月18日 08時18分53秒 | Weblog
 NHK朝の連続ドラマを見ていて、ずっと気になっていたものがある。
 今朝も同様。
 ドラマのはじまりから、数分くらいたったころだろうか。
 そのものがアップになった。
「なんだっけなぁ〜、あの人形?」
 しばらく考える。
「アッ、福ちゃんだッ!」
 ドラマを見ながら思い出そうとする。
「あの足袋の会社はなんていったっけ?」
 まだ白黒テレビ時代にスポンサーになっていた有名企業だ。
「もしかして会社はなくなったのかなぁ〜」

 ドラマも8時14分で、本日分は終了。
 と、そのとたん思い出した。
「足袋の福助だ」

 インターネット検索をしてみると、あるではありませんか。
 渋谷の京セラビルが所在地になっていた。
 昔は足袋がなくては暮らせなかった。
 それによく伝線した女性のストッキングもここで製造されていたのかな。

 ……新宿駅の南口から甲州街道を初台方向に向かって坂をおりる途中に、婦人雑貨の店ああって、そこではストッキングの伝線をなおしてくれていた。子供だったわたしには関係なかったが、学校の帰りにその店の中をよくのぞいていたことを思い出した。懐かしい!……

 とにかく「足袋の福助」は、女たちにとってとて身近な会社だったのだが、あの人形とともに健在だったのだ。
 名前の通り、幸福を呼び寄せる伏見人形「福助」のお顔は、みているだけであったかい気持ちになれる。
 そういえば邦楽の家・西山家のお玄関には、ガラスケースのなかににたくさん並べられていたような記憶が甦った。

 出演者の役どころに、ちぐはぐさを禁じ得ないが、丁度、昭和11年が描かれているために見てしまう。
 帝都を揺るがした「2・26事件」では、今時、赤いシャツなんか着て!と言わせ、酔っぱらいには巷間で人口に膾炙した「阿倍定事件」をにおわせる。
 ドラマにはないけれど、「上野動物園のクロヒョウ脱走事件」
 この“昭和11年三大事件”を機に、日本が破綻へと向かう時代。 
 科白にはその時代が散りばめられているが、小物に凝った小道具さんに「よッ、座布団一枚!」

 それはそれとして、福助人形の置物に懐かしさを感じる私も、年をとったもの。

 足袋ねぇ〜。生活から失われて久しいー。
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朧朧にみる二つ目の月……『新・雨月』船戸与一 

2016年05月10日 11時22分50秒 | Weblog
 昨日、船戸与一著「叛史」史観によって描かれた『新・雨月 戊辰戦役朧夜話』徳間文庫を読み終えた。
 日本史上最大の内戦である戊辰戦争。教科書で習った記憶も朧げだったが、この本をとおしてご維新というものが、昭和の戦争の源流であったことを知った。
『日本近代史の分水嶺も、一皮めくれば、薩摩と長州という「正史の書き手」の激突、主導権争いをめぐる時間の過程であり、「鶴ヶ城落城」をもって「維新」に終止符が打たれたのではなく、薩長両藩の争覇の中から勝者による正史ーー近代軍制=帝国陸軍が産み落とされていく、そのような歴史的母体としての役割をもつ』解説・前田哲男より 

 山縣有朋と桂太郎の初陣が戊辰戦役で、そこから明治の陸軍が生み出されていく思想が象徴的に描かれている。
 一世代おいて、西軍(官軍)ばかりではなく、敗者となった奥羽越列藩同盟(北方政権樹立を画策)の藩からも、作中には描かれていないけれど「昭和の戦争」を領導する軍人たちが排出されていることが、『満州演義』とのつながりで読みとれるのである。
 盛岡藩・東条英機、同・板垣征四郎、庄内藩・石原莞爾、盛岡藩・米内光政、長岡藩・山本五十六
『さまざまな意味で戊辰戦争は昭和の軍閥光芒史にも揺曳している』同解説より

 解説からの引用をさせてもらったが、『新・雨月』と『満州国演義』を通読して、江戸末期から終戦までの日本の流れが見渡せる山の上にようやくのぼったような気がしている。

「強いものが勝つ、勝ったものが正しい」という権力者の史観に「叛史」というベクトルに軸足をおいて、命懸けで食い付いた船戸の執念は、小説という作法をとることで架空の人物を登場させることができる。そのことで過去の時間に生きた人間を、再び、現在という時間のなかに甦られるのに成功している、と私は読んだ。

 会津藩の人々が故郷をすてて行きついた先が、青森県斗南藩(現・六ヶ所村)であったこと、ブラジルへの移民政策で四番目おおおい人々が福島県民だったこと。
 東日本大震災に見舞われて、福島県から県外に転出した人は5万9000人にも達したという。
『維新後の新政府によって会津藩の下北半島への転封処分以来最大の人口移動を示すものだろう。「白河以北一山百文」の時代がめぐってきたのだともいえる』同解説より

 この解説を読むと、2010年に出版された『新・雨月』は、そのことを予感した作家の嗅覚によって書かれたものではなかったのか、とも思えてきた。
 昨年亡くなった著者に対して、文庫本の銀色の帯には、黒枠の中に白文字で「追悼」とある。あたかも供花のように記されている文字は、近代の歴史の墓標のようにもみえる。

 9巻からなる『満州国演義』、そして『新・雨月』の膨大な数の参考文献一覧を改めて読みながら、作家のイマジネーションと長編小説を構築する頭脳におののき、震えがとまらない。
『新・雨月』終章「月影、朧朧と」では、登場人物のその後が、書き添えられている。そこからは「勝って官軍、負ければ賊軍」の言葉に隠された、勝者による正史のしたたかさが読み取れる。
 つまり「叛史」という謀叛があって、歴史が歴史としての真実を伝承可能にするのだ。
 
 …… 雨空のなかに月をみる ” 意味”が、私のなかで朧朧にみえてきたような気がする ……
…… この小説自体が、二つ目の雨中の月なのである …… 二つ目の月をみながら、作者の思う壷にしっかりはまった感あり …… にくいね〜ったらありゃしない ……

 さて、野口三千三の地芝居に入れあげたおじいさんが生まれたであろう幕末から、野口体操の端緒となった敗戦まで、歴史を一気に辿る春の読書は一段落と相成りました。

 気がつくと新緑の青さが眩しい。
 すでに、五月も半ば……。
 さぁ〜て、超現実から、頬をつねって現実に戻ろう。
 
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丸裸の身体で生きている覚悟

2016年05月09日 09時48分07秒 | Weblog
 2016年5月9日付けの朝日新聞朝刊に『難民支える瞳認証 UNHCR、中東で活用』という見出しに目が止まった。
 紛争が続くシリアからの大量の難民を受け入れているヨルダンで、瞳認証・虹彩登録を始めたというニュースだ。
 難民キャンプではなく街中に入り込んだ人々に生活費を確実に届けるためにこの新技術を導入する、という話である。

 すでにアンマン近郊のキャンプでは4万人がスーパーなどの買い物の際に利用しているらしい。
 銀行のカードは紛失したり盗まれたりすることも多く、虹彩認証は登録さえすれば、手ぶらで買い物にいけばよい。レジに備え付けてあるカメラをまっすぐにみつめると、カシャッと撮影音のあと数秒で会計はすむという。

 この瞳認証に注目が集まったキッカケは2011年に始まったシリア紛争。
 カードの不正使用が相次ぎ、別の場所で難民手続きをとり、生活支援費を二重に受け取る人が続出したことへの対策だった。

 注を読むと、虹彩は2歳ころまでに文様が決まり、経年変化しにくい。また一卵性双生児でも異なり、同じものが見つかる確率は「10の78乗分の1」だそうだ。
 これなら瞳認証は、個人を識別する生体認証として確実性が担保されている、と素人でも納得できる。

 今では生体認証は、指紋はもとより、静脈、虹彩、掌紋、声紋、顔貌、歩容等々、多様化している、と『指紋と近代ー移動する身体の管理と統治の技法』高野麻子 みすず書房で、読んだばかりだったこともあった。この記事がすーっと目に入ってきたわけだ。

 さらに記事を読み進むと、アフガニスタン、コンゴ民主共和国、ハイチ、インド、パキスタンなどで難民の虹彩と指紋の登録を始めたとある。

 大なり小なり、個人情報が売買の対象となっている現代社会では、その保護問題はかつてないほど重大さを増した。
 広範囲に、時空を超えて、グローバルな問題となっている。
 難民の保護のための生体認証技術が、差別や不当な扱いに利用されないためには、一人一人が “私には関係ない!” という無関心ではいけないことを先にあげた本は教えてくれる。難民に限らない問題で、いつ個々人の身に降りかかってくるかわからい、と用心にこしたことはない。
 
 歴史的には、一度登録すればいつでも個人情報を引き出せる指紋は、植民地統治者にとって「夢」の道具だったという。
 さらに進化し続ける生体認証システムは、WEBの進化と相俟って、全世界を巻き込んだ情報流通としての価値があるからこそ、そこに危険が潜んでいる。
 どうやら自己責任だけではやっていけないし、誰かが守ってくれるだろう、という甘い考えは幻想にすぎないようだ。
 どんな危険が身に降りかかるのか、一般人には想定もできないから空恐ろしいのである。防ぎようがないのだ。

 維新後の日本にやってきた英国人医師が1880年に指紋に関する論文を科学雑誌に投稿したことが、指紋による生体認証のはじまりだという。
 136年後の現代社会は、近代と地続きであることを忘れてはない、と教えてくれたのも『指紋と近代』だった。

 さて、朝日新聞の記事は次のようにまとめている。
《この新技術の運用には課題もある。治安維持やテロ対策が高まるなか、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が管理する虹彩データなど個人情報の提供を期待する国もあるからだ。UNHCRのシンメルさんは「難民を保護する大前提を守りながら、いかに各国政府と協力体制を築いていけるか。大きな挑戦になる」と指摘する》

 こうなったら開き直って、本の帯にあった “識別される私” の先に「丸裸の身体で生きる覚悟」を持った方がよいかもしれない。

「一寸先は闇」とか、「明日は我が身」とか言った昔の人は偉い。
 今となっては、この先をいかに生きるのか、と問いかけながら自分自身の足下をみなおしてみる……。
 なんとなく虚しさが忍び寄るのは、気のせいだろうか。
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婦人画報6月号

2016年05月04日 11時37分36秒 | Weblog
 昨晩、入院加療中の佐治さんから、電話をいただいた。夜の7時半過ぎのことだった。話をしているうちに、この月刊誌を送ってもよいですか、と。
 坂本龍一さんが、今年、癌治療から復帰された。治療中のこと、復帰後のことなどを記事にしているので、お送りしたいと思いつつ、躊躇いがあったことを告げた。
 するとご覧になりたいということで、すぐ注文し、先ほどご自宅に配送が完了したという通知がAmazonからメールがきた。
 東京のレストランの特集、その他に、宝石、ドレス、和装、その他、10万円もするような大人スニーカー等々。
 華やかな写真におさまっているのは、縁遠い”もの”ばかり。
 しかし坂本さんの「健康と音楽」のページは、編集部の良心というか、気概が感じられる紙面になっている。他との対比が実に妙なのである。
 ある意味での現代がそっくり一冊に入り込んでいる。
 数日前にFBの広告で目にして手に取った。婦人雑誌とはいえ、癌との共生は私たちの必須条件になりつつある、ということなのだろう。
 
 佐治さんがどのような思いでお読みなるのか、まだ、ちょっと心配だが。
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私はどこにいくのだろう

2016年05月04日 07時15分02秒 | Weblog
 今年のGWは、とびとびにレッスンや授業が入っている。
 まとまった休み、といった雰囲気はゼロ。
 ずっと気にかかっていた襖をあけると無造作に積み上げてあったものがドッとあふれてくる押し入れの整理を中心に、3月に出来なかった片付けを黙々とすることにした。
 衣替えまでも終えて、昨日までで、今回の予定はクリアできた。

 今朝は、激しい雨と風の予報を信じて、昨晩のうちに洗濯もすませてあったこともあって、元日のようにスッキリした部屋で手持ち無沙汰感を味わうのも悪くない、と一時の暇を楽しんでいる。

 さて、そうした合間を縫って、本を読む時間はたっぷりとれていた。
 昨年度は野口先生の郷里に照準を合わせて、江戸期から続く「地芝居」、近代日本の礎となった「養業」関連の本を読んで、群馬にも通った。
 今年に入ってからは昭和10年前から師範学校〜東京体育専門学校時代、つまり先の大戦に関心が移っていった。
『満州国演義』船戸与一 9巻、そこから派生して『評伝 今西錦司』本田靖春、当然のように『大興安嶺探検』今西錦司編 1942年に行われた探検隊の記録。
 そして体操を始めた当初、野口先生からすすめられて一度読んだことがある『文明の生態史観』梅棹忠夫 を再読した。かれこれ40年ほどの時間が過ぎた。

 昭和史、とくに満州国建国、その歴史を通史として見渡すのに、研究書や歴史書といった硬派の文章ではない書の助けをかりることにした。生きた人々の息づかいはもちろん、こまやかな生活の匂いを感じながら、私もその時代をすこしでも生きてみたかったから。
 昭和5、6年から終戦までの日本を読み込むために、自分なりのレールをつくることが出来たように思っている。
 ここから時代の肉付けをしていきたい。

 で、そこまでは、自分の足場はここにある、と安定感を抱きながらページをめくっていたように思える。
 ところが今週になって手に入った本を読みはじめて、「なんだかとんでもないところに踏み込んでしまったかな〜」というこわさにおそわれてしまった。
 書名は『指紋と近代 移動する身体の管理と統治の技法』高野麻子 みすず書房である。
 まず、指紋の第一発見は、維新後に来日した英国人医師フォールズが大森貝塚から出土した器の表面に残っていた指の印象に気づいたことが研究発端になっていたという。
 そして「終生不変」「万人不動」の特徴を持つ指紋を、英国がインド領で個人識別に使いはじめ、その本格的利用を目指したのが「満州国」であったという。
《一度、登録すれば照合を通じていつでも個人情報を引き出せる指紋は統治者にとって「夢」の道具だった》
 ということだ。

 植民地政策から始まった近代的な統治はどこに向かうのか?
 そしてそれが現代社会にあってますます巧妙に巧緻になっていく「個人識別生体認証システム」が、今後、どこを目指すのか?
「識別と排除」生体認証はどこへ向かうのか?

「なんだかな〜」
 野口三千三の生きた時代を知りたくて始めた読書群だったが、とうとうパンドラの箱を開けてしまった気分だ。

 そうは言いながら、「ここまできてしまったから、読了するしかあるまい」といいつつ、「私は、どこにいくのだろう」と途方に暮れている。

 本は膝に乗ったままだ。
 床の間にかけた掛け物は、ぼんやりとしか映らない。
 耳を澄ますと……
 雨はすこし小振りになったようだ。
 風もすこし弱くなってきたようだ。
 
 障子からは雲間に見え隠れする刺すような光が差し込みはじめた。
 
 5月の朝。
 時は静かに刻まれていく。
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シューズを脱ぐ−2−「素足」

2016年04月26日 14時27分02秒 | Weblog
 入院中の佐治さんから「素足」について、メールをいただいた。
 一部転載。
《成蹊大学で法律を教えている先生にスアシスト(素足人)を名乗る人がいます。
 以前から彼のサイトはよく見ていて、Macのこと、SIGMAカメラのことなど大変参考になります。
「百年」での写真展には大学にも近いので案内状をお送りしました。
たまたま私がいない日でしたが見に来て下さいました。

 塩澤さんは普段は5本指に別れた靴を愛用していて、(見た目はちょっと不気味ですね)
 最近は通学途中の田舎道では素足になって歩くそうです。
 わたしもバリ島に行くとよく素足生活していますが、
 東京では勇気が要りますね。危険物も落ちていることだし。
 でも彼の考え方はよくわかります。》

 そこで野口先生の戦時中はどうだったのか、と気にかかって『DVDブック アーカイブス野口体操 野口三千三+養老孟司』(野口三千三、養老孟司、羽鳥操 春秋社)の冊子をめくってみた。
 56頁〜57頁:野口先生の指導のもと、体操をしている小学生たちは、皆、素足である。
 服装は、上半身裸で、短パンらしきものを履いているだけで、「逆立ち歩き」や「高い石垣のようなところからバク転をして地面におりるうごき」を行っている。
 ただし短い休み時間でも鉄棒運動の練習が出来るようにと、生徒たちに促したその時は、普通に服をきて楽しんでいる。
 
 野口先生は、校庭の真ん中を視察に訪れた男性と校長らしき男性、二人と共に歩く服装は生徒たちと同様で、上半身裸で短パン・素足である。
 この出で立ちに決めたのは、野口先生自身だと聞いた。
 戦時中で次第に物資がなくなっていくなか、体操服など用意できなくなった。それが理由だと言う。
 しかし、49頁に掲載している群馬師範学校の屋上で撮ったらしい「野口・片手逆立ち」は、体操用白い長ズボンに同色のランニングシャツ、茶色いゴム底の靴を履いている。
 いずれにしてもすべて戦争が激しさを増す時代の写真である。

 実は、この上半身裸、短パン一枚で体操をする、と決めたことによって、野口先生は後になって猛反省することになる。
「僕はね、からだに自信があったから、裸になることに躊躇いはなかったんだ。……なかったんだが、洗濯板のような体つきの先生もいたわけ。配慮が足らなかった。どんなにか恥ずかしかっただろう、と敗戦後にやっと気づいたんだ! 当時、校長の采配もあって、群馬県内の小学校をくまなく指導して回っていたから、恨みに思う先生は大勢いたと思うよ。なにしろ戦時中は、成績優秀でも、体が貧弱で体育不得意の生徒は、肩身が狭かったからね。まして指導者だったら、恥ずかしいを超えて、教師を辞めたいくらいの心境だったに違いなんだ……」
 
 戦後は、“群馬の郷里には帰らない、いや帰れない” と、何度も伺ったことがある。
 体育の服装の件も、ひとつの理由なのだそうだ。
 
 物資も次第に豊かになってきた戦後の先生は、体操競技用のシューズを常に履いて、授業やレッスンにのぞんでおられた。床との関係で何を履くのか、履かないのか、履くとしたらどのようなシューズが適当なのか。先生なりにあれこれ試されたことは想像できる。
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シューズを脱ぐ……清水の舞台を飛び降りる心境で……

2016年04月23日 11時29分49秒 | Weblog
 野口体操をはじめてかれこれ40年が過ぎた。
 その間、野口三千三先生が履いていらしたのと同じ体操競技用のシューズを愛用してきた。
 体操のレッスンや授業のときに、そのシューズを脱いだことはなかった。
 動きとともにシューズがあった。
 シューズ無しに体操は考えられなかった。というより履かない、という選択は、考えたこともなかった。

 さて、今月から始まった大学の教室は、空手道場であった。
 ここは、教室とは呼ばない。「教場」である。
 中央の位置には神棚がある。
 歴代の空手名人の写真が飾られている。

 さて、ここではシューズは厳禁。靴下もできれば無し。
「檜の床を何十年と磨きあげてきたので、ぜひ、素足で床を味わってくださいッ!」
 
 初日には、さすがにシューズだけ脱いで、靴下のまま過ごさせてもらった。
 そして今週の二回目の授業から、恐る恐る素足を決行した。
 おっしゃる通り、滑らかな檜の肌触りは、格別だった。
 授業を順調にすすめることができた。

 ところがである。
「腕たてバウンド」は、弾みが上手くとれない。
 鰭のような状態のつま先で、自然にうまれていたスナップが利かずに、動きが重くなってしまうのだった。
「あれ〜、どうしよう」
 その瞬間、顔には出さず、密かな宿題にすることにした。

 ふと、思った。
 幼稚園児か小学校1年生くらいのころだったか、島田歌穂さんのおばあさまに連れて行ってもらった映画「赤い靴」を思い出した。物語をしっかり覚えているわけではないけれど、鉄道の線路の枕木の上に赤いトウシューズが置かれていたシーンは記憶している。クラシックバレーと言えば、トウシューズなのである。

 ふと、思った。
 クラシックバレーに反旗を翻して、素足で踊ったモダンダンスの革新。女性を縛っていたコルセットとトウシューズを脱いだことで成り立つあたらしいダンスの幕開け。

 ふと、思った。
 NHKの「みんなの体操」はシューズを履いていただろうか?確かめてみた。履いてました!つまり体操というのは底が薄く柔らかいシューズを履く「これ、常識」。
 それにはいろいろな意味があるが、野口先生が言ってらしたことは「怪我を避けるため」であった。

 ふと、思った。
 野口体操は、まぎれもない「体操」なのである。

 夢ー「郷に入っては郷に従え」かなー、「それとはちょっと違うかなー」
 夜中に何回も同じ夢で目覚めるほど悩んだ「シューズを脱ぐ」という選択。
 その選択をしてみて檜の床はなかなかよい感触だったが、やりにくい動きだってあるのだ、ということを知った。
 この空手教場だけが、いくつもあるこの大学の武道系教場の中で、唯一の檜の床だ。
 そして清々しい雰囲気を醸している伝統をなにより誇りにしている。
「そうなのだ」
 この大学の授業を、ここで続けるためには蔑ろにしてはいけない、と思いつつも複雑な心境である。
 
「檜の床」に、いろいろ考えさせてもらっている。

 でも、冬になって冷気に耐えられなくなったら、真っ白な足袋をはかせてもらおうか。
 でも、そうすると “こはぜ” が、動きの邪魔になるかしらね〜。
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佐治嘉隆写真展、のこり三日

2016年04月16日 08時42分59秒 | Weblog
 3月30日から始まっていた「高田渡 1971/TOKYO 70’s」は18日(月)までです。
 昨日の様子が佐治さんのブログ「芭璃庵」にアップされていました。
 最終日は、片付けのために8時までだそうです。
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泉下の三千三先生に……ご報告

2016年04月08日 20時28分53秒 | Weblog
 かれこれ50年ほど前、中学の同級生のお母さんの実家があった熊本の玉名市に旅行したことがある。
 夏休みに帰省する友人の家族につれられて訪ねた。しかし、その友人とも最近ではすっかり疎遠になってしまっている。
 ご親族の方がいらっしゃる筈だ。

 昨晩、起こった地震の被害が、どの程度なのか。
 心配である。
 なんとか被害が大きくならないことを祈っている。
 いまのところ原発被害の報道はされていないが、大きな断層の真上に、こともあろうに原発がある、とわかった時点で、最善の判断をしてもらいたい、と切に願っている。

 さて、野口体操の報告をさせてもらう。
 新学期のクラスも昨日ですべて開いた。
 明治大学は2014年度で定年退職しているが、2016年度の今年は立教大学に加えて、新規に中央大学法学部の学生に野口体操を教えるコマをいただいた。
 朝日カルチャーセンターも、土曜日、日曜日ともに順調に開講している。
 9月には、同じ曜日、同じ時間のままだが、教室の階が移転するらしい。
 実に、朝日カルチャー新宿校に通いはじめて、今年の4月で満38年を迎えた。野口三千三先生の助手として20年間、没後は18年経過したことになる。過ぎてしまえば速かった、と感慨深い。

 月並みな言い方だが、野口体操を中心に充実した日を送ることができているのは支えてくださる方々のお蔭をひしひしと感じるこのごろ。
 没後、困惑のなかにあった私に、ある方からこう言われた。
「仕事は人生の一部です」と。
 先生の病気と看取り、重なるようにして父の病気と看取りがあり、現在は母をみている。
 常に、病院と縁がきれない時間のなかで、野口体操は人生の一部ではなかった。
 少なくとも数十年間、生きる時間の殆どが、野口体操関連の事柄に占められていたように思う。
 あえて言ってみれば、仕事というよりミッションだった。

 4月8日で67歳になった。私に残された時間の限りが見えてきたが、もうしばらくの間、ご縁のある方に手渡していくミッションをつづけることをお許しいただこう。
 と、綴りながら、泉下の野口先生に、よい報告ができる幸せを身にしみている。

 2016年4月15日快晴。
 清々しい春の朝である。
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『武満徹・音楽創造への旅』立花隆

2016年04月07日 12時47分41秒 | Weblog
 ちょうど朝日新聞「人生の贈りもの」に、立花隆の連載が始まったころ、一冊の本を読みはじめた。
 書名は『武満徹・音楽創造への旅』文藝春秋社刊 2016年2月20日である。
 最初に手に取ったときには、781頁・二段組みの分厚さに、いささか読み止しに終わりそうな気配を感じていた。
 しかし、それも杞憂にすぎない、と今は思っている。
 まだ半分ほどしかすすんでいないが、ぐんぐんと引き寄せられる快感に、ページをめくる手も先へ先へと急がれるのである。
 なにより立花氏が学生時代から、現代音楽に造形が深かったことに驚かされた。
 田中角栄研究のイメージが強く、音楽をこれほど身の内に醸成されておられたとは、予想だにしなかった。迂闊であった。
《 没後二十年 六年にわたる「文學界」の連載が完結後十八年のときを経て、ついによみがえる! 》
 帯にそう書かれている。

「ノヴェンバー・ステップス」をはじめて聞いたのは、いつのことだっただろう。
 高校生のころ現代国語の先生のお宅だったか?
 自分のときの記憶は、朦朧としている。
 あのとき、雷が落ちたような驚きを感じたことだけは鮮明だ。
 はじめて目にするのだが、この本のなかに琵琶の図形楽譜(ペータース社)が載っている。
「こんなだったんだ!」
 
 オーケストラに尺八と琵琶の組み合わせ。
 トロント交響楽団と最初の音合わせの様子を小沢征爾の言葉を引用して『37「天才指揮者、小沢征爾」』の章を締めくくっている。
《 びわが鳴りだす。西洋の音階にはない四分音が、ばらばらとび出してくる。二人だけのカデンツァにくると、オーケストラの連中はまるで凍りついたみたいに、ほんとに氷になったみたいにシーンとして、目の玉が飛出で、耳が三倍くらいになったようなツラをして聴きいっている》
 なんと臨場感のある言葉だろう。指揮者でなければ語れない言葉だ。
 この27行を全部ここにうつしたいのだが、それはやめておこう。
 立花はこの小澤の言葉群を「活写」といっているが、本当にそうだ。

 音楽を學ぶとは、どういうことなのか。
 まったく独学の作曲家の作品を聞きながら、誰もがその問いを発したに違いない。

 さて、武満徹は1930年生まれ。昭和でいうと5年である。昭和6年9月に勃発した満州事変前の年、大恐慌が日本を襲った年である。生まれたばかりの徹は、家族に連れられて満州の大連に渡った。6歳の小学校入学までそこで過ごす。多く住んでいた白系ロシア人に囲まれ、父親の聞くジャズで育つ。
 帰国後、軍国少年だった徹は、勤労動員にかり出されて陸軍の食料基地で働いていた。その時、半地下壕で見習士官が持ち込んだ手回し蓄音機から鳴る一曲。レコードから聞こえるその歌が、彼にとって決定的な出会いとなった、という。
『パルレ・モア・ダムール(私に愛を語って)』シャンソンだった、という。

『満州国演義』で、昭和3年から終戦直後まで、通史として読んでいたこともあって、この時代の少年の実体験を読んで、時代の深淵をのぞかせてもらったような気がしている。一軍国少年が、長じて作曲家となって、あの衝撃的な作品を書き上げたのだから。因みに、小沢征爾の父親は満州で活動した人物として『満州国演義』に何度も登場している。
 
 知の巨人・立花隆が書き残す日本の音楽の時空は、戦後の昭和文化の記録としてだけではなく、満州を舞台に繰り広げた昭和初期からのつながりのなかで捉えてみると、昭和文化の創造と、昭和文化の没落を、否応無しに描き出していることに気づかされるようだ。
 
 さぁ〜、キーボードを打つ手から、本のページをめくる手に戻ろう、と思う。
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最近のこと

2016年04月01日 07時01分21秒 | Weblog
 3月28日(月) 母のための一日。

 3月29日(火) 午前、母を補聴器テストにつれていく。午後、2016年度4月から始まる中央大学法学部の授業のために、打合会に出席。4月1日から施行される「障害者差別解消法」にともなって、改善されたドアなどのことを知った。学生の健康診断の中に心電図検査を実施し、その結果によっては体操の別メニューを与える等々、これまでにない体育指導上の注意事項の話もあった。

 3月30日(水) 二階さんと一緒に「佐治嘉隆写真展ー高田渡」を「百年」に訪ねた。どこに写真があるのか、最初は戸惑った。所狭しと並べられ、独特の感性で集められた本の背表紙がまず、目に入って来るからだ。視界を窓際の天井付近にうつすと、静かな佇まいでモノクロ写真が語りかけてくる。「やぁ〜、昭和だ」60年代〜70年代がそこにはあった。ひとしきり佐治さんと話をして、吉祥寺の街へ。少し歩いてお茶をして、焼き鳥屋の「いせや」から、井の頭公園で7部咲きの花を愛でる、というかすでに花見客でごった返していたなかを通り抜けて帰路につく。
 で、「芭璃庵」ブログに、佐治さんが載せた写真展「一日目」「二日目」の今でも吉祥寺に残っている昭和の写真、風雪に耐えた高田渡のポスターなど、カラーがまた新鮮。モノクロ・カラー、そして吉祥寺!なんで、「百年」で?のわけが無言のうちに伝わってくる。

 3月31日(木) 昨年秋から読みはじめていた『満州国演義』船戸与一著 新潮社 1巻〜9巻を読了。このことについてはいずれ書いておきたい。重かった!しかし読んでよかった!
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