羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

惰眠

2016年12月01日 07時28分18秒 | Weblog
 数十年ぶりに高熱を出し、ものスゴイ発汗で一気に解熱。
 しばらくしてから今度は、咽が赤くはれて十数年ぶりに声が出なくなった。

 ようやく今朝になって、はじめて吹くオーボエのような声が、出るようになった。
 まだまだ会話したり、授業をするレベルには回復していない。

 最近、なにかと眠りが浅くなっていた。
 浅くなる原因である問題を、一つずつ解決しながら、年内にはメドがつけられろうなところまできた。
 その矢先の風邪だったのである。

 今、ここで一息入れておきないさい、という思し召しと受け取って静かにしている。

 なにこれと気をもみながら、考え事をしながら眠りについて、眠りのなかでも考えているような浅い微睡み状態がつづいていた。どんなに遅く寝ても早朝に目が醒めてしまう状況がつづいていた。
 ところが風邪をキッカケに、久しぶりに、眠りそのことに集中することができたこの数日間である。
 とにかく眠い。

 それが惰眠だとしても、をむさぼるように眠り、幸せを感じている。
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ふーッ!

2016年11月22日 14時07分08秒 | Weblog
 今までなんとなく心にひっかかっていたのだけれど、この秋になって顕在化ししたいくつかの懸案事項の一つを、今朝、すませてきた。
 
 一つは「特別養護老人ホーム入所申込書」を第一志望の施設に提出した。
 昨日のうちに、数枚の書類の裏表に書き込みをする。
 いちばん問題だったのは、該当する内容にチェックをいれて、申請理由及び介護上の特別な状況について手書きで書き込む欄である。
 小さな文字でびっしり事情を書き込んだ。
 母の夏目漱石事件がなければ、まだまだ行動にはいたらなかったかもしれない。
「まだ、私が引き受けて、できるんじゃないか」
 その後も、そういう気持ちが頭をもたげる。
 それに集団の中に入って母はどうなってしまうのだろう、という不安と親子の情のようなものが邪魔をしてくる。

 とにかく、提出しなければ、と思いつつのびのびになっていた。
 実は、日曜日のこと、いつも親身になって愚痴を聞いてくれる介護の先輩に、「もういい加減にいかないと、大変なことになりますよ!」
 叱咤激励された。
 どこも同じようだろうけれど、杉並区内の施設は、300人、400人待ちである。申請しても何年待たされるかわからないのだから、遅いということはない。
 わかっていても億劫なことだった。
 しかし、持つべきものは背中を押してくれる人だ、とつくづく思った。
「今月の末に、区役所に提出いたします」
 受理されたときにはちょっと力が抜けた。

 そして行動に駆り立ててくれたもう一つの懸案事項に、今週末にのぞむ前に肩の荷を軽くしておきたかった。

 ふーッ!
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2016 明治大学シェイクスピアプロジェクト公演終了

2016年11月15日 13時00分42秒 | Weblog
 文化の秋に恒例のプロジェクト公演が、去る13日の日曜日に楽日を迎えた。
 14日、昨日の夜、打ち上げの席で発表された、3日間・5ステージに観劇した人数は3950名とのことだった。
 この数字は、過去最高の記録だそうだ。
 年々歳々、評判が評判を呼んで、観に来てくださる方々が増えている。
 野口体操の関係者も私を含めて7名の方が集ってくれた。

 学生演劇とはいえ大学の文化活動でもある。
 ……それ以上にワークショップやアクティブラーニングを組み込んで、演劇学を生身で体験する授業の一貫である。

 台本づくりはコラプターズと呼ばれる翻訳チームが行う。
 因みにコラプターズとは《シェイクスピアの喜劇『十二夜』の三幕一場・道化の台詞》に由来しているそうだ。
《「俺はお嬢様の道化じゃない。ただ彼女の言葉を堕落させているだけなのさ」『言葉を一度壊して新しく創造しよう』》 そのような意味がこめられている、という。
 来月12月から、すでに来年の公演の準備は始められる。

 いくつも行程を経て、オーディションで選ばれたキャストの稽古は、夏の盛りから始まる。
 今年も野口体操の指導を、身体表現の基礎として仰せつかった。8月から9月にかけて関わらせてもらった。
 いつも私一人で指導していたが、今回は南アフリカからの留学生で理論物理学を専攻しているピーターが助手として手伝ってくれた。実は、助手として参加したわけではなかったが、いつの間にか皆がそう認めてしまったのだ。
 野口体操を真摯に学ぶ彼に、よきお兄さんとしてキャスト全員の尊敬と好感が得られたことは特筆しておきたい。
 
 こうして9月15日に最後のレッスンを終えた。
 それからほぼ二ヶ月後、ステージに現れる一人一人に祈るような気持ちで、座席に着いた。
 今年の出し物は、第一部『夏の夜の夢』。
 第二部がシェイクスピアの作品のなかでほとんど上演されることがない、という『二人の貴公子』であった。
 この作品は『ジョン・フレッチャーとの共作によるシェイクスピア最後の作品とされている』と、プログラムにあった。
 さまざまに謎めいた詮索がされている面白さも手伝って、ついつい舞台に見入ってしまう。

 いずれにしてもこの二作を上手く繋げてまとめあげた大胆さは、若者に許された特権のような出来映えだった。

 ごめん!
 いつの間にか、シェイクスピア劇であることは忘却の彼方に押しやっていた。
 台詞劇+ダンス+殺陣やその他の動き+生演奏+歌がイキイキとして、アクティブでファンタジー溢れる新作ミュージカルを観ていたのだ。
 いや、それでいい!って誰かが言っている。幻聴かな?

 実は、2009年第六回「ハムレット」から見続けている。
 第8回「冬物語」から野口体操を指導して、キャストの面々や演出部の学生と関わらせてもらっている。
 今回で13回の歴史を刻んでいる明大シェイクスピアプロジェクトだが、こうして積み上げるたびに進化を見せていた舞台だ。
 しかし、今年ばかりは大きな地殻変動を感じた。
 先にも書いたが、これまでにない若者の大胆さが随所に現れて、今までにない笑いの渦を巻き起こしてくれた。
 これほど可笑しみに包まれ、幸せだったことはない。
 作者が誰であろうと関係ない。
 芝居として面白かったのである。

 多くのスタッフに支えられての舞台表現である。
 それぞれがそれぞれの持ち場で、若さを爆発させてくれることで成り立つ舞台であった。
 
 ここまで長々と書いてしまったが、一言だけで多くの言葉はいらないのかも……。
 よき夢を見せてもらった!

 パックの独白で、2016年晩秋、一年がかりの幕はおりた。
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思いがけない感情に出会った……ほぼ3週間のできごと

2016年11月08日 04時26分05秒 | Weblog
 5日ぶりに荷をほどいた。
 ポーチからは、携帯用の櫛と歯磨きセット、ウエットティッシュ、ポケットティッシュ、ガーゼのハンカチ。
 パジャマ一組+予備のパンツ、名前をつけた下着を二組。ルームスリッパ一足。
 先方と交わした提出書類、介護保険証、後期高齢者保険証、おくすり手帳。
 そのままにしておこうと思ったが、すべてを所定の場所に戻した。

 遡ること11月3日のこと、祭日ながら大学の授業があった日の5時半過ぎ。
 帰宅すると母があられもない姿でソファに腰掛けていた。
「二回も頭を打ったの、トイレに行きたい」
 どうやら転倒したらしい。
 しかし手をさしのべると立ち上がって、歩きはじめた。転倒したと言っても骨折やひどい打撲はないような感じだった。

 湯沸かし器のスイッチを入れて温かいタオルでからだを拭いてあげようとしたのだが、お湯になってこない。
「壊れたの? なにもこんな時に……」
 慌ててがガス会社に電話をいれた。
「本日の営業は終了いたしました。ガスもれの場合には○○○へ」
 さらにあたふたして、ヤカンでお湯をわかそうとしたがこちらも火がつかない。
「地震だと感知して自動で止まった!」
 東日本大震災のときのことを思い出して、処置をすると2分後には復活した。
 相当な勢いで母が飛ばしたものの衝撃があったのだ、と、得心したのだった。
 それから夕飯も終えて、落ち着いた母に話かけた。

 遡ること10月18日のこと、認知症の会の仕事をしている従兄と近くの介護付き有料高齢者ホームを見学していた。
 ショートステイが可能らしい。
 夏目漱石事件以来、時々言動がおかしい日があって、不安を感じた私は、とにかく行動してみないことにはわからい、とばかりに実際に調べることにした。第一弾がここであった。
 母を長時間一人においておくことは出来ないだろうと、弱気になっているうちにしかない。
「どんなところかわからないのに、返事のしようがないわ。行ってみてもいい」
 翌日、ショートステイをためすことになって電話をすると、その日の午後には施設の女性が訪ねてくれた。
 5日のおとまりの契約をすませ、必要なものを買い足して、持って行くものの荷造りをしておいた。

 さて、11月5日の早朝、目覚めははやく、時間を持て余したこともあって、持ち物の最後の点検をしていた。
 なぜか心配になって、母のために新しく揃えたパジャマの着心地などを試してみたりした。
 そうこうするうちに、急に寂しさがこみ上げて、いつのまにかぼろぼろと涙がこぼれてきた。
 一泊といっても近い将来、母をこの施設に預けることを前提にした行動だった。
「67年一緒に暮らしたのに、これから一人でこの家にすむことになるの」
 食事の材料は今まで通りの商店では買えなくなるに違いない。
 帰宅したときに、部屋の灯りが消えていることになるに違いない。
 それに母が亡くなった時のことまでも想像して、先取りの悲嘆にくれてしまったのだった。

 しかし、気を取り直して、涙を拭いて、朝食の準備で階下に降りた。
 冷蔵庫あけると、常備菜を用意していなかったことに気づく。
 申し訳ないような気分になって、それでもご飯を炊き、みそ汁を作って、なんとか間に合わせる工夫をして準備完了。

 母を起こした。
「あのね、歯が痛いの」
 眠気眼で言う。
 治療して様子を見ていた歯がぐらぐらしているらしい。
 その瞬間、私は、へなへなと畳に座り込んでしまった。

「どうしたらいいの」
「もちろん、歯医者に行くのが先よ。今日は午後から朝日カルチャーのレッスンがあるから、おとまりはキャンセルしましょう」
 きっぱりと言う。
「からだが大事よ」

 9時なるのを待って、施設に謝りの電話をいれた。
「お母様はすごく緊張されていたんですね。弱いところに出るんですよ」
 その言葉を聞いて、幼稚園児じゃあるまいし、と思いつつもホッとしている自分に気づく。
「緊張していたのは私自身でもあったのね」
 
 遡ること11月1日のこと。
 ケアマネージャーの方が紹介してくれた少人数のデイケアサービスにも訪ねていた。
 お習字をしたり、絵手紙を書いたりしている。
 見回すとピアノもあった。
 そのピアノを94歳のおばあさまが弾いて聞かせてくれたのである。
 ハ長調でトニックとドミナントとサブドミナントしかない曲ではあったが、楽譜を見ながらリズムも狂わず、和音も間違わず弾いている姿を見て思わずそばによって、低音を補い連弾をしてしまった。
 彼女が途中で気がついたことがある。
「メロディを一オクターブあげましょうね」
 いやいや私もそれは思っていたけれど、言葉にせずに何曲か弾き続けた。
 自分が気づくことが大切なのである。
 その能力が喚起されたことは、素晴らしいことと感動してしまった。
 ところが不思議な感情が去来する。
「もし、ここに母を通わせるとしたら、何を着せてあげようか」
 94歳のおばあさまと母を比べているのである。少しでもよく見られたい、という微妙な気持ちがおこるのだった。
 娘としての見栄だ、とわかっていても、何ともしがたい心理だった。
 帰宅して、その日のうちに、デイケアサービスに通うことをすすめてみる。
「そんなところには行きたくない」
 あっけなく母に却下されてしまっていた。

 このブログにも書いた10月15日夏目漱石事件から、ほぼ三週間後。
 私の留守に、母が取り返しがつかない怪我でもしたら苦しかろう、とあれこれ歩き回って、迷惑をかけて、少しでもよい道を見つけたいという憑き物がストンと落ちたのが、この話の最初、11月5日土曜日のことだった。
 この間、
「まさか、私が、こんなさまざまな感情に振り回させるなんて……」
 本気になって行動しなければ、生まれてこない心の激震を味わっていたようだ。

 またしても本日、見学予約してあった特別養護老人ホーム、いわゆる特養に出かけた。
 気持ちはなぜかスッキリ、晴れやかだった。
 1時間半以上の時間をかけて、説明を聞きながら施設内を見せてもらえたが、とてもよい勉強になりました!

 寒空ではあったけれど、帰りは自宅まで歩くことにした。
 落語に出て来る妙法寺さんから、堀之内の葬斎場、そして「樹木葬 宙の会」と染め抜かれた旗が風に靡いていた寺に寄り道して、墓地を見て回りながら想いを巡らせた。
「わたしなら、インドに行って“死を待つ人の家” に、からだを横たえたいな〜」
 難しそう、とすぐ打ち消しました。

 最後に、疲れ果てボロボロ状態で出かけた先週の土曜日、話を聞いていただいた方々、日曜日にも話を聞いてくださった板垣さん、皆様の優しさに包まれて、適切な助言をもらって、嬉しかったことを書かせてください。
 優しさが染みました。
 言葉が腑に落ちました。気持ちが楽になりました。 
 心から感謝です。

 ******

 ここまで、まとまりない長い長い話を読んでいただきありがとうござました。
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『一個人』取材をうけて

2016年10月16日 08時23分36秒 | Weblog
 昨日の朝日カルチャーセンター「野口体操講座」は、新しい階に移って二回目のレッスンだった。
 まだ教室に慣れていなかったが、中高年向けの生活情報誌『一個人』の取材をお受けした。

 掲載予定は12月号「柔らかい『腰』をつくる』(仮)というテーマで、「(一生)痛まない腰を手に入れるための野口体操」(仮)という見開き2頁とのこと。
 詳しいことは、ゲラのチェック後に、改めてこのブログに書きたいと思っている。
 
 さて、いつも思うことだが、参加してくださっている皆様の大人の対応には、「感謝」という言葉しか見つからない。
 たった一回のレッスンを取材されるというのは「受ける方も、毎回、真剣勝負だよ」と、生前の野口のことばをいつも思い出す。
 その言葉を胸に潜めて、周到な準備はするけれど、事前に行っている周到な準備には拘らず、その時の全体の雰囲気をよりよい方向に盛り上げていく。野口直伝をご披露することになる。

 それはそれとして、レッスンの前の打ち合わせのとき、編集部の方が記憶を辿るようにして呟かれた。
「お話を伺っているとおもいだすことが……私は、合唱部に所属していたんですが……あのー、もしかしてー、合唱練習の前の脱力体操っていうのが……」
「そうです! 野口先生に体操を習った芸大の卒業生が合唱の指導者や指揮者で、『上体のぶらさげ』は取り入れてらっしゃるようですよ」
「あー、そうでしたか。なんか似てるなー、って」
 それだけで、お互いに打ち解けてしまった。
 いざ、教室へ。

 2時間のレッスンは無事に終了。

 そして今朝、おまけ付きのお話。
 いただいた見本誌『一個人』11月号「健康常識 本当の話」をパラパラとめくっていた。
 一瞬、目が点になってしまった。「日本遺産を旅する」頁を開いたときのことである。
 内容は、「かかあ天下ーぐんま絹物語 幕末〜昭和の日本を支えた上州の “かかあ” たち。その面影が色濃く残る群馬・絹遺産への旅」カラー写真が綺麗な8ページの特集だった。

 いやいや、なんとまぁ〜ご縁のあることか!
 取材もさることながら、野口三千三の故郷を紹介するときにご覧にいれたい “おまけ” つきであった。
 
 さぁ、午後からは雑誌を持って日曜日クラス・レッスンに出かけよう。
 気分よく、からだが急に軽くなったのであります。
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秋櫻花をゆらす風……かそけさ

2016年10月02日 07時47分52秒 | Weblog
 今朝はいつも通りに目覚めた。
 まだ暗い。
 暗い中、玄関の鍵を開け、郵便受けに朝刊を取りに行く。
 日経新聞も朝日新聞も、二紙ともすでに投函されていた。

 新聞を手に、鼻を少しだけ上に向けて、香りを探す。
 何日か前には金木犀の香りが朝の風に乗って、秋を告げてくれた。
 どうやら咲き始めだけがその存在を遠くまで運ぶらしい。
 鮮明な輪郭の香りは、到達してこない。

 しばらく新聞を読み、途中で電気釜のスイッチを入れ、朝餉のみそ汁の具、サツマイモを小口に切って水にさらす。次に、冷蔵庫からだし昆布とかたくち煮ぼしを水に浸した鍋を取り出しガスレンジの上に置いた。
 そこまで準備して、そっと襖を開けて母を見届ける。おそらく昨晩の動乱以後、一度も目をさまさずに熟睡しているのを確かめて、二階に上がった。
 ようやく半分ちかくに達した本を手に抱く。厚い、ぶ厚い、『苦海浄土』である。
 この本を読むことをずっと避けていた。しかし読みはじめてみると、悲惨な内容にもかかわらず、柔らかで穏やかな語り口の日本語に、なぜか引き込まれる。
「ゆっくり読みたい」
 日本の原風景は美しい。
 豊かな海は実に美しい。
 誠実に海と向き合い、海を慈しんだ暮らしを楚々としてきた人々を襲った禍い。
 まだ途中だが、避けていた理由と、避けてきた後悔を知る。

 本を閉じ、階下に降りて、みそ汁をつくる。
 野菜の煮物や夕べのうちにつくり置いた貝柱の佃煮。
 あれやこれやをちゃぶ台に並べる。
 耳も遠くなり、鼻もきかなくなっている。それでも気配を感じる力は失われていないようだ。
 母が起き上がって、一緒に食べるという。
 髪だけをまとめてパジャマのまま席につく。
 おもむろにみそ汁を口に含んで、満足そうに飲み込んでいる。ホッ!
 
 母の様子をみながら、本の世界に引き戻された。
『苦海浄土』にも、食の描写がたくさんあったっけ。
 なんといっても著者の日本語は、方言は、おそろしいほどに美しい。
 不知火海と天草諸島を水俣側に立って眺めたら、どんな思いが沸き上るのだろう。

 私は、欠かせない朝の一杯のみそ汁を飲みながら、情景を思い浮かべる。
 出汁の味をつくり出すのは、海の恵み。
 このごろ使っているいのは、瀬戸内海息吹島産だけれど……。

 朝食をすませ、狭山茶をすする。
 手早く朝の片付けはすませた。
 体操をしようと思って二階へ上がる前に、母を見るとソファにからだをあずけて微睡んでいる。

 おだやかな日曜日の幕開け。
 ベランダから、筋向かいの家に咲く秋櫻花をゆらす風をそっときく。
 かそけさ。
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現実と虚構……閾値を超えた母

2016年10月01日 22時55分15秒 | Weblog
 NHKの8時45分のニュースのあと、何となく土曜ドラマを見ていた。
「夏目漱石の妻」の二回目である。
 ドラマだ、と認識していたものの、漱石ってこうだったのか、と迫力に圧倒されて見続けていた。
 突然、一緒に見ていた91歳の母が、立ち上がっておこり出した。
 自分の母親、つまり祖母を守っていた自分に重なってしまったのかもしれない。
 母方の祖父もこのドラマに描かれているように、今で言うところのドメスティックバイオレンス、DVの傾向があったと聞いていた。
 日々の暮らしを困らせることはなく、むしろ不自由は一切させなかった。
 戦時中も他家に比べれば、苦労は少なかった、という。
 それでも許し難い体験があって、おそらく祖母への想いが甦ったのだろう。

 ものすごい興奮状態で、おさまりがつかない。
 ちゃぶ台をヒックリかえそうとしたり、襖をバンバン音を立てて締めてみたり、あわや漱石の書斎になりそうな剣幕。
 そのうちに、寝床の布団の上で
「かわいそうなのは奥さんなのよ!どうしようもないのよ」
「だからね、あれはドラマ……」
 母をなだめようと言葉を繋ぐ。
「何言ってるのよ。現実はもっと凄いんだから。かわいそうなんだから」
「だからね、明治の男達は、無理してたのよ。西洋にバカにされないよう、一等国になろうとして……」
「うるさいッ」
 火に油を注ぐ言葉だった。母にしてみれば、天下国家はどっちでもいいわけだ。

 こちらもついつい余計な言葉ばかりが口をついて出る。
 そのうちに情けなくなって、涙がこぼれた。
 内心、いい年してみっともない、と思いつつも、自制心をうしなって母の娘になってしまった。

「ここに座りなさいよ」
 興奮さめやらぬ母がソファに並んで腰をかけるように強要してくる。
「帰れるものなら家に帰りたい。奥さん(ドラマのなかの漱石の妻)だって帰るところはないのよ。皆、貧乏になっちゃって」
 仕方がない、しばらく寄り添って、おもむろに
「明日は仕事があるから、準備をするわ」
「そうね、仕事は大事だから」
 ようやく現実に戻ったらしく、にっこりと笑った。(この手がよさそうだ!)


 NHKも91歳のおばあさんを、ここまで興奮させるドラマをつくるなんて、罪創りだわ。
 いや、やり過ぎの感は否めないけれど、尾野真千子さんはじめ、役者がうまい!

 今、キーボードに向かっている。
 何となく階下では玄関の鍵をいじっているような音がしていたが、もう静かになった。

 母の中のトラウマが、こうした形で現れたのだろう。
 ドラマのなかの漱石の狂気が、母に乗り移ったかのような夜だった。
 高齢になるということは、現実と虚構の境界線が曖昧になるってことだろうか。
 高齢になるということは、あるよろしくない感情の閾値を超えると収拾がつかなくなって、母の場合は堰が崩れるように感情のうねりを止めることができなくなるようだ。
 
 明日は明日の風が吹く。
 おやすみなさい。
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人生最後の買い物

2016年09月25日 08時49分08秒 | Weblog
 長い期間にわたって使うことになる“もの”を買い替える時、最近ではしばし足踏みするようになった。
 今回は、iPadである。
 私が一台目を手にしたのは、いつのことだったろう?
 いつだったのか、思い出せないくらい前のことだった。
 銀座Appleストアで、最初に手にしたのは。。。。。。この製品が売り出された初期のころだった。

 パソコンにはパソコンのよさがあり、iPadはiPadの便利さがあって、とりわけkeynoteは重宝に使わせてもらった。
 そのうちに、Mac Book Air にとってかわられて、初代iPadはいつの間にかお蔵入りとなってしまった。

 そしてこれが2代目。
 今年の9月5日に手に入れた。
 とにかくその進化に、目を見張った。

 さて、昨日のこと、朝日カルチャーセンター土曜日クラスに持参てみた。
 実は、10月から教室の場所がかわる。
 その前に、ひとつの区切りとして、次につながる新たな試みをしたかった。
 そこで「野口流ヨガ逆立ち」の時、何人かの方が練習する様子をiPadのビデオや写真におさめて、逆立ちをしている方と包助している方にみていただいた。
「映像がキレイだわー」
「ヒジが浮いてるわー」
「ウデに力が入りすぎてるわー」
「ソケイブが伸びてないわー」
「O先生、逆さになると、とってもスタイルがいいのねー」「逆立ちにならないと、ダメですか」「いやいやそんなことはないですよ」
「客観的に自分の姿を見るのは、嫌だったんですがネ、こうしてみるとー」
 etc
 それぞれが、明るい声で話し、微笑みながら、ご自分の映像に見入っておられる。

「わかってたんですよね。でも、思っている以上だわ、問題は……」
 大方の感想だった。
 集団レッスンのなかに、個人レッスン的要素を少しだけ組み込みたかった。
「いろんな方向から映してもらわないとねー」
 私もそう思いました!

 レッスンの最後に全員揃って、一通り撮影したビデオと写真を見ていただいた。
 それそれが想いのままに自由な発言をしてくれて、とても参考になった。
 それがひとつひとつ確かな手応えとして残った。
 これも一つのレッスンの方法だが、あくまでも一つの方法にすぎない。

「このiPadは、私の人生最後のiPadです」
「えー!?そんなことある分けないじゃないですか」(爆笑)
「でも、この年ですですからー」
「そんなわけないよねー」

 2016年9月24日土曜日、この教室での最後のレッスンは終わった。
 ホッ!
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誰が訳したの? コメントに添付されていた貴重な記録

2016年09月19日 18時15分41秒 | Weblog
「日本国憲法改正草案」を、アメリカ側と議論するにあたって、佐藤達夫氏の通訳を主につとめたのがミス・シロタであった。
 彼女が1996年、母校のアメリカンスクールを訪ねて講演をした模様を、佐治嘉隆さんが写真におさめておられた。
 土曜日のブログのコメントに添付してくださった。
『the only Woman in the room』と題された記事には、1946年当時の貴重な写真が何枚も掲載されている。
 
 これはアメリカンスクールの記録なので、誰でもが簡単に見つけられるものではなさそうだ。
 ぜひ、みていただきたい。

『日本国j憲法成立史』のなかで、この日の彼女の印象を、著者はこのように描いている。

《私の通訳は、大体ミス・シロタという司令部側の若い女性がやってくれた。たまには、私も下手な英語で直接に議論をしたが、法律用語にさえ気を付けておれば、このシロタ嬢で十分であった。この人は日本に長くいた音楽家のレオ・シロタ氏の娘と聞いていただけに、日本語もよくわかるし、頭も鋭敏で私の意のあるところは、そのまま伝えてくれたと思っている。なお、白洲氏にもときどき発言をたのんだ》

 アメリカンスクール資料の写真のなかには、ホイットニー准将か、ケーティス大佐か、あるいはハッシー中佐ではないかと思われる人物の写真も掲載されている。
 当然のことだけれど、(まだ、精確には読んでいないが)『日本国憲法成立史』の裏付けになる内容が、しっかり書かれているようだ。

 佐治さんは1996年のシロタ女史の最初と最後の写真を撮られたそうだ。
 穏やかな表情と醸し出される雰囲気が素敵だが、そこには戦時中から戦後を生き抜いた強さもにじみ出ている素晴らしい写真だ。
 撮影当時のお話を、もう少し詳しくお聞きしたい、と思っている。

 1946年3月4日、アメリカと日本の「憲法論議」に、女性が一人同席し、通訳をするだけでなく、女性問題に関しては彼女の考えが反映されていると読んだことがある。
 
 私のなかで、終戦後のこの時代が急に近づいてくれたような、気がしている。
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誰が訳したの?

2016年09月17日 09時40分07秒 | Weblog
 かれこれ5ヶ月が過ぎようとしている。
「誰が訳したのでしょう」
 その日は朝日カルチャーの教室で、『現代語でよむ日本国憲法』柴田元幸翻訳 木村草太監修 アルク出版 を紹介したときだった。
 ホワイトボードの下で、この本を手に取ってページをめくっていた方のつぶやきが耳に入った。
「エッ?」(私)
 耳の奥にその言葉がしっかりと刻まれた瞬間だった。
「誰が訳したのでしょう」
「はじめに」に書かれていた1946年11月3日、「英文官報号外」に、日本側が作成した英文の日本国憲法が発表された、という記述を読んでのつぶやきだった。

 そのつぶやきに促されて、まず最初に『日本国憲法成立史』佐藤達夫著 有斐閣 第四巻を手に入れた。
 開いてみると「帝国議会の審議ー衆議院」憲法議会の開幕 第九〇回 から始まっている。
「やはり一巻から読み進まないといけないわ」

 Amazonの古書を検索して、全巻が揃うには、多少の時間がかかった。
 とくに二巻が手に入るのがいちばん遅かった。これだけは目の玉が飛び出るほどの値段だったし。
 
 全巻揃ったところで、一巻からノートにとって、頭を整理しながら読みはじめた。
 その間、戦時中の本等々も次々手に入れて、そちらも並行しながら読んでいった。

 はや9月も半ばにさしかかった今週になって、「誰が訳したのでしょう」の答えが書かれているページに到達した。
 時系列を遡ってみる。
 昭和21(1946)年2月8日に日本側がGHQに「憲法改正草案(松本案)」を提出した。
 2月13日、草案が拒否され、GHQ草案が提示された。
 2月26日、それに基づいた日本案の起草を決定。
 そしていよいよ、
 3月4日午前一〇時に草案は民政局に届けられた。このときには、英文翻訳もままならない状態であった。
 松本国務大臣に、翻訳の手伝いに同行を求められたのが、この著者である佐藤達夫(法制局第一部長)だった。
 著者が日比谷の第一相互ビル(現・第一生命ビル)六階 六〇二号室に入ってみると、白洲次郎(終戦連絡中央事務局次長)と外務省嘱託の長谷川元吉及び小畑薫良の三名がすでに到着していた。この外務省の嘱託両氏は、翻訳のベテランだと佐藤には紹介された、という。
 司令部側の将校二、三名、婦人一名、二世の青年一名とで、英訳がはじめられた。婦人一名の婦人は、音楽家のレオ・シロタ氏の娘で優秀なミス・シロタ。
 
 この瞬間から、3月6日に日本政府とGHQとの協議に基づいた「憲法改正草案要綱」が発表されるまでの攻防が記されている第二章は、読みながらも先へ先へとページを繰りたくなる緊迫感が伝わってくる。私は焦るきもちを抑えて、ゆっくり読み進んだ。世に伝えられているマッカーサー・ノートに基づいてつくられていくのだが、このノートの存在は国民には極秘とされた。こんな注がある。
《この草案を日本の法文として自然な形に仕上げたい》そのやりとりのなかで、とりわけ日本側が留意したことは、先方からの注文に《「そういう表現をすると、いかにも法文が異国調になって、国民は、外部から押し付けられたのではないか・という疑問を抱くであろう」ということで抗弁をした》とある。
 こうした思惑をもってつくりあげられ3月6日に発表された草案は新聞紙上でも掲載され、それを読んだ日本人の中には、文体や用語が日本式とは思えない、あるいは独立宣言やルーズベルトの演説からの引用等々《新聞は常に草案が内閣のものではなく最高司令部の作品であることを陰に陽にいうた。(土屋正三 〈レファレンス〉四八号》と注に補足してある。

 ところでこのマッカーサー草案立案に関係した民政局員はホイットニー准将をのぞいて25名という報告を、後から佐藤は受けたらしい。
 さらにもう一人、部外の関係者としてノースウエスターン大学のコールグローブ教授の名前があがっている。
 3月4日から5日の徹夜の攻防戦に、影の人物としてこの教授の存在が鍵を握っていることが記されている。
 この人物は、アメリカにおける日本政治・日本憲法の数少ない専門研究者として知られていた。その教授が1946年3月初旬に「GHQ憲法問題担当政治顧問」という肩書きで来日していたことが、日本側関係者にも伝えられていた、という。
 佐藤は推測する。
《総司令部の作業に関与していたのではないかとも推測されていた。》
 アメリカ側の関係者は軍人が、軍人である前に法律家でもある。
 そこにもう一人、大学の研究者であり政治学の教授が加わっていたのが実情のようだ、と読める。

 極東委員会に対するアメリカの思惑、アメリカ本国とGHQの微妙な関係といった切羽詰まった状況。
 とりわけ急かれる時間のなかで、GHQ側の周到な誘導のもとに、おもに天皇制の問題、戦争放棄の問題、基本的人権の問題を三本柱に、(その他も検討されているのだが)日本の戦後が形づくられていく。
 3月5日午後4時ごろ、司令部での作業が全部終了した。
《そのときには、それまで一度も顔を見せなかったホイットニー准将も出てきて、大いに安心した表情で、われわれの労をねぎらい、深い謝意を表明したのであったが、その喜びようは、私たちから見ると不自然に感じられるくらいであった》
 それに対して著者は複雑な気持ちであった。
《そのときの足取りの重さはいつまでも忘れない》
 そう吐露している。
 いずれにしても、3月4日、5日、そして6日の発表までの記録を読みながら、ひたすら息をのむ。

 佐藤は書いている。
 作業の間、机の上にはミルクと砂糖がふんだんにおかれ、コーヒーは飲み放題。食べ物に救われ、火急の大仕事にまったく疲労を感じなかった、と。

 その後、4月にも修正が加えられ、4月10日新選挙法による第22回衆議院議員選挙が行われ、4月17日には日本政府が口語体の「憲法改正草案」を発表する。

 1946(昭和21)年、巷ではインフレが猛烈な嵐を呼び起こしていた。
 庶民生活は困窮。
「憲法よりもコメよこせ!」の声が大きかった当時である。
 ようやく外地からの復員、帰国も軌道に乗りはじめたときである。
 そうした状況のなかで、どのくらいの日本人が、憲法改正に関心をもつことができただろう。
 この選挙は、新憲法への信任投票といってもよさそうな国民投票的な性格をもっていたようだが、どれほどの考えをもって投票にでかけたのだろうか。ましてや口語体による「憲法改正案」は、選挙後に発表されている。

 いずれにしても、そのことはおいても、新聞紙上で発表された憲法草案を読むことができる人々は存在していたのだ。
 日本人の識字率の高さは世界に冠たるものがあるとはいえ、漢字とカタカナで綴られた文章をある程度読む力があってこそ戦後の復興が可能だった、と成立史を読みながら、感慨を覚えた。(私自身この本が遅々として読み進めないのは、慣れないとはいえ、漢字とカタカナの文章を読むのに時間がかかっている)

 このように英文と日本文を双方から翻訳する力こそ、日本文化の底力にちがいない。
「誰が訳したのでしょう」
 この疑問こそが、すべての始まりである。
 万葉仮名がつくられる以前から、私たちは外国の言葉を翻訳し、咀嚼し、新たに構築し、自分たちの文化を血の通うものにしてきた。法文までも、というかすべては法文(律令・法律・法令のホウブン、経・論・釈など仏法を解き明かすホウモン)から始まっていたのだ。なにはともあれ記紀・万葉を持つ日出ずる国である。

 おっと、話が飛んでしまいそうだ。
 話を戻そう。
 この発表された改正案に対して毎日新聞が行った輿論調査が載っているが、「天皇制、戦争放棄、国民の権利・自由・義務、国会、草案審議方法」主な5項目に対する肯定的な答えは、平均で70%〜80%に及ぶ結果が出ている。細かな数字をみていると”なるほどそうか”と頷ける。
 戦後民主主義で教育され、戦後民主主義のなかにとっぷりつかって生きてきた世代の私としては、バランスのとれた良識を感じさせる数値だと思った。
 アンケート対象者は、個人企業者、財界人、医師、官公吏、農業者、宗教家、会社員、法曹人、教育者、文筆家、学生、労働運動家といった職業別内訳だから、もっともな数値といえるだろう。
 ただ一抹の不安を感じるのは、女性がはじめて参政権を得た選挙だったが、はたしてどれだけの女性が自分の意思で投票したのだろうか、といった点である。選挙権がある、と言われて「はい、そうですか」と手放しで喜んだ後にくるだろう「誰に入れたらよいのかな?」
 とまどいを多くの女性が持ってもふしぎではないだろう。
 しかし、彼女たちには、戦時中の暮らしの窮屈さ、失われた命への思い、戦後の想像以上の困窮の実感がある。あるにはあるが、その実感が投票に生かされたかどうか、である。
 91歳の母に、21歳当時のことを聞いてみた。
「なにしろ生きるのが大変で、選挙の記憶ははっきりしないわ」
 ちょっと残念だったが、正直な答えがかえってきた。

 さて別の本の年表をみると、11月3日憲法が公布されたあと、憲法普及会が冊子をつくって啓蒙活動をすすめた、とある。
 当然、教育界にも戦後民主主義の波が本格的に押し寄せてきた。
 野口三千三が終戦を迎えた東京体育専門学校を中心にして、GHQのなかにあるCIE(民間情報教育局)の指導のもと、戦後の体育指導要綱作成が相当なスピードをもって開始される。
 校長・大谷武一のもとで、三十代前半の野口は腹の皮が背中の皮にくっつきそうな状態をひたすら我慢しながら、おもにモダン・ダンス(創作舞踊)とフォークダンスの研究に没頭する。
 そして自らの身体に負った二つの傷を抱えて、新しい時代を必死に生きはじめたのである。
 野口に限らず、日本人のすべてが、ゼロからの出発である。

「誰が訳したのでしょう」
 小耳に挟んだ新井英夫さんのつぶやきから始まった私の読書。
 備忘録−2−である。
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ロホクッション

2016年09月07日 10時03分01秒 | Weblog
 一月に一回のペースで、母を皮膚科につれていく。
 巻き爪と爪水虫の治療のためである。
 
 ところで最近になって気づいたことがある。
 就寝前に赤ちゃんの沐浴剤を入れた湯で湿らせたタオルを使って、母のからだを拭いている。その際に、お尻に傷が出来て出血していた。
 こうなる前までは、変色している部位を濡らしたガーゼで拭き、乾いたガーゼで水気を拭き取っていたけれど、痛がってそれができなくなっていた。
「これって床ずれかもしれない」
 密かに思っていたが、母には言わなかった。

 昨日、足の治療の際にそのことを伝えると、患部を見た先生の見立ても同様であった。
 2種類の治療薬を出し、車椅子用の床ずれ防止クッシュン「ロホクッション」を教えてくれた。
 介護保険でも借りられるそうだ。
 といわれてもピンとこなかった。

 帰宅して、Web検索してみた。
 迂闊でしたね。
 床ずれというのは、寝たきりの人がなるものと思い込んでいた。
 しかし、母の一日の暮らし方を思い返してみると、柔らかな二人〜三人掛けのソファに座って過ごしている時間が殆どである。
 長時間同じ状態を続けていれば、寝たきりでなくても”座りきり床ずれ”は出来る可能性があるというわけだ。
 最近は以前に比べて転ばなくなった。気をつけているのだなぁ、くらいにしか考えていなかった。
 実態は、家のなかでも歩くことがとみに少なくなった証拠なのだ。
 寝たきりでないから、という安易で間違った認識しかもっていなかった。
 母も、自分はまだ寝たきりではない、と思い込んでいた。
 
 そんな母に、今朝、話しかけた。
「あのね、座りっきりで、床ずれが出来てしまったみたい。夏だから汗もかくし、年中、押し付けられて空気がかよわないから、なるんだと思うの。まぁ、生活習慣病と思えばいいんじゃない。車椅子の生活を強いられている人も床ずれが出来るんですって」
「エッ、そうなの?」
「だからね、先ずは、用事がなくても玄関の方にいったり、二階に上がったり、家の中をウロウロしてみたらいいんじゃない」

 母は、体操をしましょう、歩きましょう、などというと嫌がる。
 そこで家のなかをウロウロすることと、以前やっていた食後の食器洗いを再開することなどもすすめてみた。
「わかったわ!」
 と宣うのだが……。

 はじめて、車椅子用の床ずれ防止クッション「ロホクッション」なるものがあることを知って、高齢者問題がぐっと近づいてきた。というか、自分の問題にもなってきた。
 本日から朝日新聞で始まったシリーズ『教えて! 2025年問題 都心の「介護難民」深刻に』
 他人事じゃない、と記事を切り抜いたが、先送りている場合じゃないー。

 すぐ私に出来ることは何だろう。
 野口体操だ、とばかりに二階へ。
 たっぷり1時間、久しぶりに、真剣に体操をした。

「生きるということは、誰のものでもない、自分の命を生かしているのだ」
 体操するということは、気持ちがいいとか、健康にいいとか、老化防止とか、それも十分大事なことであるけれど、もっとダイレクトに「自分の命」とどう関わるのか、ということだった。
 野口体操で教えられたこと、求めたことはそういうことだったはずだ。
 月並みな言い方だが、自分に言い聞かせましょうぞ。
「初心忘るべからず!」
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片付け事始め記念日

2016年09月04日 09時13分18秒 | Weblog
 ファックスというものを使わなくなって久しい。
 思い返してみると、使う回数は、一年に一回あるかないか状態である。
 実は、両親が使っていた電話を、ファックス用として名刺に電話番号を刷り込んである。
 そのためになかなかこの電話を解約することができなかった。

 ある日、91歳の母が聞いてきた。
「電話に出なくなったし、みんな知り合いは死んでしまって、かからなくなったから、この電話、いらないんじゃない。ただじゃないんだし、勿体ないしー。」
 たしかに、外出先から母に電話をしても、出てくれない。
「二階のガスストーブ、消してきたかしら。見にいってくれない」
 などという、電話もかけることはなくなった。
 この母の言葉を聞いて“わかってるんだ!”と、残された母の脳機能に、僅かながら安堵した。

 とはいえ、まだ母が生きていると、何かの連絡が来るかもしれない。
 それにかかりつけの医者や、母の役所関係の電話番号は、この番号だったような気もする。
 しかし、母が経済を考えて、一軒に1本の電話でいいと思う気持ちを大切にしよう。

 とはいえ、解約手続きをとる積極的な気持ちがおこらなかった。
 何ヶ月も過ぎてしまった。

 ところが、結構高い料金をし払っている携帯電話を変えよう、と思いはじめていたこともあって、その前に、まずはNTTのHPから解約手続きを探し、読んでみた。
 今朝のことである。
 気がついたら、Web上で「手続き完了」まで終えていた。

 たしかに家の中を見回すと、片付けなければならないところは随所にある。
 見えるところはまだいい。見えないところほど厄介なものはない。
 おそらく、あそこには○○が入っているはず。思い浮かべることだってできる。
 あれも捨てたい、これも捨てたい、限りなく浮かんで来る。
 なのに、なぜ捨てられないのか。
 捨てたいもの、捨てた方がよいもののうち、三分の一は3年かけて、捨てている。
 
 結局、電話を解約したのは、後の残りに取りかかるはずみが欲しかった、と気づいた。
 本日、9月4日は、「片付け事始め」記念日となって欲しいー、のだが。
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巡礼……パール・ハーバー……『1941』という本について

2016年08月30日 07時55分22秒 | Weblog
 この夏「野口三千三を巡る旅」は、いよいよ戦中から終戦直後に迫った。
 それにちなんで、会って話を聞いておきたい数名の名前を、すぐにも挙げることができる。
 しかし、私事、要介護3の母を一人自宅に残して行く外出は、あまり遠出ができない。
 畢竟、一人で出かけ、先方との約束がなく、日時の勝手がきき、半日からそのプラスαで帰宅できる範囲で、野口ゆかりの場所を訪ねることくらいにとどめざるを得ない。
 そうした状況のなかで出来ることは、まず、資料や本を読むことに集約されてしまう。
 積ん読の山を崩し、一冊一冊を端から平らげるようにしたいところだが、これがなかなか思うに任せない。
 気が滅入るもの、歯がガタガタになりそうなもの、噛み砕くには時間がかかりそうなもの等々、しかたなく学生時代にやっていたタイプの違う数曲のピアノ曲を同時に練習するように、何冊かの本を同時並行で読み進めていた。

 その中で決して楽に読める本ではなかったが名著に出会った。 

 書名は 『1941 ー 決意なき開戦 現代日本の起源』
 著者は  堀田 江理
 出版社  人文書院

 まず「あとがき」にあった話を紹介したい。
 歴史教育には問題がつきものだ、という前提からはじまり、2001年9月11日の同時多発テロ直後のニューヨークの街中で聞かれたやりとりから、いささか極端な例かもしれないと著者は断って
《一人の男が言う。「なんてことだ。これじゃあ、まったくパール・ハーバーと同じじゃないか」。もう一人の男が聞く。「パール・ハーバーって何だっけ?」「え、知ってるだろ。ベトナムが攻撃してきて、アメリカをベトナム戦争に巻き込んだ、例のあれだよ」。》
 例のあれか?!(冷笑)

 この本には、米国民に日米開戦にまつわる新しい見方を提供する狙いがあったという。
「日本はなぜ真珠湾を攻撃したのか」を説明する目的で、2013年末に、japan 1941 : Countdoun to Infamy という原題で書かれた。出版されるとたちまちニューヨーク・タイムスをはじめとして、米国内で発行されている各紙が称賛した、とある。その後、今年、2016年6月、著者自身の日本語訳で出版された本である。

 1941年の4月から12月までのおよそ8ヶ月間、「避戰」と「開戦」に揺れる政策決定の過程を、日本側に焦点を当てながら、丹念に史実をひも解き、克明に緻密に、細密画を描くように、さらに精確に記してゆく姿勢が(不適切な言い方かもしれないが)たいそう小気味よい。
 しかし、入り乱れる人間関係、切羽詰まった密な時系列のなかで起こる出来事の記述に、時に迷子になりそうなときもあった。
 それを救ってくれたのが、永井荷風の日記『断腸亭日乗』から、街の変貌や市井の人々を描きながら戦争の行く末を案じる作家の冷静な言説の挿入だった。
 読者は、要所要所で荷風が示す住所表示と時間を確かめることができる。日記の言葉の挿入が道標となって、迷い道から抜け出して本道へと戻してくれる、その筆のはこびは巧みで見事だった。
 たとえば、たてられている道標のひとつに、こんなエピソードがある。
 中国との戦争が泥沼化し、ありえない英米戦争が合法的にいくつもの会議を経た上で、最終的に国策としてのし上がってきた時のこと。
「結婚報国」の旗のもと「結婚奨励協議会」が活動を活発化させ、封建的な家にまつわるあらゆる概念を排除して「産めよ、増やせよ」と、計画された。求愛や結婚を取り巻く社会背景や制度が、不穏な時代に、急激な変化を遂げていく日本。この時代に、陸軍や海軍の恤兵部に届けられる慰問袋には、戦地の兵隊さんに宛てた手紙を入れるように奨励された。そのことから起こる出来事を見聞きして、荷風が拾い上げた挿話である。
『前略 未婚妙齢の女子をその親の知らぬ間に出征の兵士と手紙の往復写真の交換をなすものあり。中略 戦地より帰還し除隊となりし兵士の中には慰問状の住所姓名をたより良家の女子を訪問し、銀座通りにて会合するものさへあるに至りたればなり』『待ち合いの女中酩酒屋の女カフェーの女給らは帰還後の兵士を客にせむとて、それとなく慰問状を利用して誘惑する者もありといふ』
 良家の子女や女学生だけでなく、兵士もまた誘惑に落ちる者もいたわけだ。
 荷風は底辺で生きる女たちのしたたかさ、彼女たちの生命力の強さに、関心したという。
 ここの記述を読むと、帰還し除隊になった兵士がまだまだ相当数いただろうと想像できるその時点で、なぜ開戦を踏みとどまることができなかったのか、とさらにページをめくる手が速まっていた。
 
 この本のどこが凄いのか。
 日本がはじめた戦争は「勝ち目のない戦争」だと指導者たちはおおむね正しく認識していた、と書くところ。
 さらに「捨て鉢の戦争」であった、ときっぱりと書いたところだ。
 開戦への決意は、決してみごとなまでの一本道ではなかったことが、読み進む途上で次第にはっきりと見えてくる。
 そしてきわめて曖昧のまま突き進んだ結果が、1945年の敗戦であったことを描き出す。
 最後には、原発事故や新国立競技場の建設問題にまで話は及ぶ。
 
 圧巻は、エピローグ「新たな始まり」である。
 開戦と戦争の拡大に「一億總懺悔」せよ、ということは「すべての国民の責任だ」としたことによって、『ほぼ「誰も悪くなかった」と主張するのに等しいのだった。』と、著者は書く。
 刮目!である。
 
 この言葉にいたるまでの道のりを振り返って、今を生きる一人一人への問いかけの重さに圧倒されている。
 が、逃げてはいけない。
 時、今、この時にこそ、問題はつきものだと知った上で、歴史を自分の血や肉にして、個人として生きるからだに落とし込む作業をしなければならないのだろう。
 それは、生半可なことではすまされない。結構、しんどい作業だ。

「いっそ、ここまでで、やめてしまいたい」
 しかし……続けることが……、野口三千三を巡る旅をはじめてしまってからの躊躇いを、払拭するたった一つの道なのかもしれない、と、しぶしぶ思い直している。

 八月もあと一日を残すだけとなった。
 まだまだ暑い晩夏を、いかに過ごそう。
 
 本日は、この夏の備忘録として、この本のことをブログに残したい。
『1941 決意なき開戦 現代日本の起源』
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夏のにぎわい…… 祭の町 阿波踊りの町 高円寺

2016年08月28日 14時33分02秒 | Weblog
 8月27日、28日と、高円寺の町は祭一色で染め上げられる。
 JR駅の近く、地名の由来となった禅寺「高円寺」へは、傾斜の強い坂を下りていく。
 その途中、左手に源頼朝時代に建立されたという氷川神社が鎮座している。
 因みにこの神社の本殿脇には、日本で唯一と言われる”気象神社”があることが知られて久しい。
 この気象神社は偶然に残された、と伝わっている。
 経緯はこうだ。
 もともと馬橋(高円寺北四丁目)にあった大日本帝国陸軍気象部に、1944年(昭和19)年4月10日に「八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)」を祀ったのが始まり。気象予報があたりますように、と祈ったという。
 戦後は、神道指令で撤去されるはずだったのが、連合軍宗教調査局の調査もれで残存した。
 高円寺南口、氷川神社にうつされた、ということである。

 この神社の縁日は、8月27日28日、である。
 今年は丁度、その日にあたった。
 実は、もう一つの呼び物、「阿波踊り」が縁日にあわせて開催される。長いことそのしきたりは守られていたのだけれど、かなり前から、阿波踊りを8月の最終土曜日と日曜に変更した。はじめは“よし”としなかった宮司さんや氏子たちも、100万人からの観客を呼ぶ阿波踊りに引きずられて、祭礼を行う日を縁日とは関係なく、移動させてしまった。

 昨日、本日ともに小雨はぱらつくものの大雨にはならず、昼過ぎから各町内会の神輿や山車が繰り出している。
 つい先ほども、半世紀以上もお兄さんと呼んでいる隣家の主が、祭半纏を身にまとって御神酒所にでかけるところで、奥さんが記念写真を撮っているところに出くわした。
「似合ってますね。お二人揃っている写真を撮りましょうか」
「いやぁー、そう、ありがとう」
 会話が始まった。
「すれ違う人の半纏の名を見ると、いろんなところから御神輿を担ぎにきてくれるんですね」
「地元だけでは無理だよね。この頃の若い人は背が高くなったでしょ。だからね、自分では担ぎ棒を担いでいると思っていたら、なんだか軽いんだよね」
「そうらしいわ。若い人の肩の位置が高いんですって」
 奥さんが笑う。私も笑う。
「そうそう、前後に若い担ぎ手がいると、いかにも担いでいるようで、肩に重さはのってこないの」
「楽しちゃうってことですね」
「それで、後期高齢者になっても神輿は担げるわけよ」
 
 町を歩いていると、あちこちからワッショイ・ワッショイ、ピピッ・ピピッ、ドンドンドドン、音が聞こえて来る。
 暮れ方、祭太鼓に代わって阿波踊りの鳴りものに歓声が混ざり合って、グワァーン・グワァーンと轟き、町全体を震わせる。
 今、時計は2時半を回ったところ。
 踊りのはじまりまで、しばしお待ちを!
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2016年08月26日 20時55分21秒 | Weblog
 気象情報によると明日から曇りや雨、台風の予報などが出ている。
 本日の快晴と湿度の低さは、貴重だと言う。
 乾きにくい洗濯物は、本日中にすませるように、とご親切にも教えてくださる。

 洗濯もさることながら、掃除もしておこうと、早朝から取りかかった。
 まず障子や襖の敷居を中心にハタキをかける。
 埃が落ちる時間に、新聞紙を水に浸す。たたまれている中まで、水が浸透したら、しっかりしぼる。
 細かいもの、少し大きめのもの、無造作にちぎって畳の上にポンポンとばらまく。
 畳の目に沿って、座敷の角や縁を箒ではきながら、部屋の中心に集める。
 埃や塵や髪の毛などが絡まっている濡れた新聞片を、ちり取りにはき入れる。

 それから雑巾を硬く絞って、同じく畳の目を横に、縁は特に丁寧にこちらは縦に、力を入れて拭き上げる。
 気温も高く、湿度も低いので、みるみる乾いてすっきりした感触が素足に伝わる。

 階段も濡らした雑巾で、角は念入りに拭き掃除する。
 最後にトイレを終えると、一応、朝の掃除は終了。

 掃除機をつかわないので、五月蝿いモーター音がしない。
 どんなに早朝でもご近所迷惑にはならない。

 床の間に軸物を掛け、香炉をおく。
 冷房をかるく入れて、障子を閉める。
 真夏のひかりは窓の外側に掛けている簾を通して部屋に差し込む。
 でも、とても明るい。
 畳の上に座して、しばし、『HOSHINO DIARY』のページをめくって写真を見る。
 白熊、氷河、アザラシ、エスキモーの子供、氷河が融けて海に崩れ落ちる、トナカイと雄大な雲、狐の子供のじゃれ合い、熊の親子、カリブー、森の静けさ、翼をひろげた鷲、鮭をとらえた熊、クジラ、オーロラ、そして生と死。

 ようやく、町は、一日の活動を本格化する。
 でも静かである。

「午後からは、母をお風呂に入れてあげよう」
 その手順もイメージしながら、本を閉じ、おもむろに階下へ。
 階段を下りる。
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