羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

現実と虚構……閾値を超えた母

2016年10月01日 22時55分15秒 | Weblog
 NHKの8時45分のニュースのあと、何となく土曜ドラマを見ていた。
「夏目漱石の妻」の二回目である。
 ドラマだ、と認識していたものの、漱石ってこうだったのか、と迫力に圧倒されて見続けていた。
 突然、一緒に見ていた91歳の母が、立ち上がっておこり出した。
 自分の母親、つまり祖母を守っていた自分に重なってしまったのかもしれない。
 母方の祖父もこのドラマに描かれているように、今で言うところのドメスティックバイオレンス、DVの傾向があったと聞いていた。
 日々の暮らしを困らせることはなく、むしろ不自由は一切させなかった。
 戦時中も他家に比べれば、苦労は少なかった、という。
 それでも許し難い体験があって、おそらく祖母への想いが甦ったのだろう。

 ものすごい興奮状態で、おさまりがつかない。
 ちゃぶ台をヒックリかえそうとしたり、襖をバンバン音を立てて締めてみたり、あわや漱石の書斎になりそうな剣幕。
 そのうちに、寝床の布団の上で
「かわいそうなのは奥さんなのよ!どうしようもないのよ」
「だからね、あれはドラマ……」
 母をなだめようと言葉を繋ぐ。
「何言ってるのよ。現実はもっと凄いんだから。かわいそうなんだから」
「だからね、明治の男達は、無理してたのよ。西洋にバカにされないよう、一等国になろうとして……」
「うるさいッ」
 火に油を注ぐ言葉だった。母にしてみれば、天下国家はどっちでもいいわけだ。

 こちらもついつい余計な言葉ばかりが口をついて出る。
 そのうちに情けなくなって、涙がこぼれた。
 内心、いい年してみっともない、と思いつつも、自制心をうしなって母の娘になってしまった。

「ここに座りなさいよ」
 興奮さめやらぬ母がソファに並んで腰をかけるように強要してくる。
「帰れるものなら家に帰りたい。奥さん(ドラマのなかの漱石の妻)だって帰るところはないのよ。皆、貧乏になっちゃって」
 仕方がない、しばらく寄り添って、おもむろに
「明日は仕事があるから、準備をするわ」
「そうね、仕事は大事だから」
 ようやく現実に戻ったらしく、にっこりと笑った。(この手がよさそうだ!)


 NHKも91歳のおばあさんを、ここまで興奮させるドラマをつくるなんて、罪創りだわ。
 いや、やり過ぎの感は否めないけれど、尾野真千子さんはじめ、役者がうまい!

 今、キーボードに向かっている。
 何となく階下では玄関の鍵をいじっているような音がしていたが、もう静かになった。

 母の中のトラウマが、こうした形で現れたのだろう。
 ドラマのなかの漱石の狂気が、母に乗り移ったかのような夜だった。
 高齢になるということは、現実と虚構の境界線が曖昧になるってことだろうか。
 高齢になるということは、あるよろしくない感情の閾値を超えると収拾がつかなくなって、母の場合は堰が崩れるように感情のうねりを止めることができなくなるようだ。
 
 明日は明日の風が吹く。
 おやすみなさい。
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人生最後の買い物

2016年09月25日 08時49分08秒 | Weblog
 長い期間にわたって使うことになる“もの”を買い替える時、最近ではしばし足踏みするようになった。
 今回は、iPadである。
 私が一台目を手にしたのは、いつのことだったろう?
 いつだったのか、思い出せないくらい前のことだった。
 銀座Appleストアで、最初に手にしたのは。。。。。。この製品が売り出された初期のころだった。

 パソコンにはパソコンのよさがあり、iPadはiPadの便利さがあって、とりわけkeynoteは重宝に使わせてもらった。
 そのうちに、Mac Book Air にとってかわられて、初代iPadはいつの間にかお蔵入りとなってしまった。

 そしてこれが2代目。
 今年の9月5日に手に入れた。
 とにかくその進化に、目を見張った。

 さて、昨日のこと、朝日カルチャーセンター土曜日クラスに持参てみた。
 実は、10月から教室の場所がかわる。
 その前に、ひとつの区切りとして、次につながる新たな試みをしたかった。
 そこで「野口流ヨガ逆立ち」の時、何人かの方が練習する様子をiPadのビデオや写真におさめて、逆立ちをしている方と包助している方にみていただいた。
「映像がキレイだわー」
「ヒジが浮いてるわー」
「ウデに力が入りすぎてるわー」
「ソケイブが伸びてないわー」
「O先生、逆さになると、とってもスタイルがいいのねー」「逆立ちにならないと、ダメですか」「いやいやそんなことはないですよ」
「客観的に自分の姿を見るのは、嫌だったんですがネ、こうしてみるとー」
 etc
 それぞれが、明るい声で話し、微笑みながら、ご自分の映像に見入っておられる。

「わかってたんですよね。でも、思っている以上だわ、問題は……」
 大方の感想だった。
 集団レッスンのなかに、個人レッスン的要素を少しだけ組み込みたかった。
「いろんな方向から映してもらわないとねー」
 私もそう思いました!

 レッスンの最後に全員揃って、一通り撮影したビデオと写真を見ていただいた。
 それそれが想いのままに自由な発言をしてくれて、とても参考になった。
 それがひとつひとつ確かな手応えとして残った。
 これも一つのレッスンの方法だが、あくまでも一つの方法にすぎない。

「このiPadは、私の人生最後のiPadです」
「えー!?そんなことある分けないじゃないですか」(爆笑)
「でも、この年ですですからー」
「そんなわけないよねー」

 2016年9月24日土曜日、この教室での最後のレッスンは終わった。
 ホッ!
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誰が訳したの? コメントに添付されていた貴重な記録

2016年09月19日 18時15分41秒 | Weblog
「日本国憲法改正草案」を、アメリカ側と議論するにあたって、佐藤達夫氏の通訳を主につとめたのがミス・シロタであった。
 彼女が1996年、母校のアメリカンスクールを訪ねて講演をした模様を、佐治嘉隆さんが写真におさめておられた。
 土曜日のブログのコメントに添付してくださった。
『the only Woman in the room』と題された記事には、1946年当時の貴重な写真が何枚も掲載されている。
 
 これはアメリカンスクールの記録なので、誰でもが簡単に見つけられるものではなさそうだ。
 ぜひ、みていただきたい。

『日本国j憲法成立史』のなかで、この日の彼女の印象を、著者はこのように描いている。

《私の通訳は、大体ミス・シロタという司令部側の若い女性がやってくれた。たまには、私も下手な英語で直接に議論をしたが、法律用語にさえ気を付けておれば、このシロタ嬢で十分であった。この人は日本に長くいた音楽家のレオ・シロタ氏の娘と聞いていただけに、日本語もよくわかるし、頭も鋭敏で私の意のあるところは、そのまま伝えてくれたと思っている。なお、白洲氏にもときどき発言をたのんだ》

 アメリカンスクール資料の写真のなかには、ホイットニー准将か、ケーティス大佐か、あるいはハッシー中佐ではないかと思われる人物の写真も掲載されている。
 当然のことだけれど、(まだ、精確には読んでいないが)『日本国憲法成立史』の裏付けになる内容が、しっかり書かれているようだ。

 佐治さんは1996年のシロタ女史の最初と最後の写真を撮られたそうだ。
 穏やかな表情と醸し出される雰囲気が素敵だが、そこには戦時中から戦後を生き抜いた強さもにじみ出ている素晴らしい写真だ。
 撮影当時のお話を、もう少し詳しくお聞きしたい、と思っている。

 1946年3月4日、アメリカと日本の「憲法論議」に、女性が一人同席し、通訳をするだけでなく、女性問題に関しては彼女の考えが反映されていると読んだことがある。
 
 私のなかで、終戦後のこの時代が急に近づいてくれたような、気がしている。
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誰が訳したの?

2016年09月17日 09時40分07秒 | Weblog
 かれこれ5ヶ月が過ぎようとしている。
「誰が訳したのでしょう」
 その日は朝日カルチャーの教室で、『現代語でよむ日本国憲法』柴田元幸翻訳 木村草太監修 アルク出版 を紹介したときだった。
 ホワイトボードの下で、この本を手に取ってページをめくっていた方のつぶやきが耳に入った。
「エッ?」(私)
 耳の奥にその言葉がしっかりと刻まれた瞬間だった。
「誰が訳したのでしょう」
「はじめに」に書かれていた1946年11月3日、「英文官報号外」に、日本側が作成した英文の日本国憲法が発表された、という記述を読んでのつぶやきだった。

 そのつぶやきに促されて、まず最初に『日本国憲法成立史』佐藤達夫著 有斐閣 第四巻を手に入れた。
 開いてみると「帝国議会の審議ー衆議院」憲法議会の開幕 第九〇回 から始まっている。
「やはり一巻から読み進まないといけないわ」

 Amazonの古書を検索して、全巻が揃うには、多少の時間がかかった。
 とくに二巻が手に入るのがいちばん遅かった。これだけは目の玉が飛び出るほどの値段だったし。
 
 全巻揃ったところで、一巻からノートにとって、頭を整理しながら読みはじめた。
 その間、戦時中の本等々も次々手に入れて、そちらも並行しながら読んでいった。

 はや9月も半ばにさしかかった今週になって、「誰が訳したのでしょう」の答えが書かれているページに到達した。
 時系列を遡ってみる。
 昭和21(1946)年2月8日に日本側がGHQに「憲法改正草案(松本案)」を提出した。
 2月13日、草案が拒否され、GHQ草案が提示された。
 2月26日、それに基づいた日本案の起草を決定。
 そしていよいよ、
 3月4日午前一〇時に草案は民政局に届けられた。このときには、英文翻訳もままならない状態であった。
 松本国務大臣に、翻訳の手伝いに同行を求められたのが、この著者である佐藤達夫(法制局第一部長)だった。
 著者が日比谷の第一相互ビル(現・第一生命ビル)六階 六〇二号室に入ってみると、白洲次郎(終戦連絡中央事務局次長)と外務省嘱託の長谷川元吉及び小畑薫良の三名がすでに到着していた。この外務省の嘱託両氏は、翻訳のベテランだと佐藤には紹介された、という。
 司令部側の将校二、三名、婦人一名、二世の青年一名とで、英訳がはじめられた。婦人一名の婦人は、音楽家のレオ・シロタ氏の娘で優秀なミス・シロタ。
 
 この瞬間から、3月6日に日本政府とGHQとの協議に基づいた「憲法改正草案要綱」が発表されるまでの攻防が記されている第二章は、読みながらも先へ先へとページを繰りたくなる緊迫感が伝わってくる。私は焦るきもちを抑えて、ゆっくり読み進んだ。世に伝えられているマッカーサー・ノートに基づいてつくられていくのだが、このノートの存在は国民には極秘とされた。こんな注がある。
《この草案を日本の法文として自然な形に仕上げたい》そのやりとりのなかで、とりわけ日本側が留意したことは、先方からの注文に《「そういう表現をすると、いかにも法文が異国調になって、国民は、外部から押し付けられたのではないか・という疑問を抱くであろう」ということで抗弁をした》とある。
 こうした思惑をもってつくりあげられ3月6日に発表された草案は新聞紙上でも掲載され、それを読んだ日本人の中には、文体や用語が日本式とは思えない、あるいは独立宣言やルーズベルトの演説からの引用等々《新聞は常に草案が内閣のものではなく最高司令部の作品であることを陰に陽にいうた。(土屋正三 〈レファレンス〉四八号》と注に補足してある。

 ところでこのマッカーサー草案立案に関係した民政局員はホイットニー准将をのぞいて25名という報告を、後から佐藤は受けたらしい。
 さらにもう一人、部外の関係者としてノースウエスターン大学のコールグローブ教授の名前があがっている。
 3月4日から5日の徹夜の攻防戦に、影の人物としてこの教授の存在が鍵を握っていることが記されている。
 この人物は、アメリカにおける日本政治・日本憲法の数少ない専門研究者として知られていた。その教授が1946年3月初旬に「GHQ憲法問題担当政治顧問」という肩書きで来日していたことが、日本側関係者にも伝えられていた、という。
 佐藤は推測する。
《総司令部の作業に関与していたのではないかとも推測されていた。》
 アメリカ側の関係者は軍人が、軍人である前に法律家でもある。
 そこにもう一人、大学の研究者であり政治学の教授が加わっていたのが実情のようだ、と読める。

 極東委員会に対するアメリカの思惑、アメリカ本国とGHQの微妙な関係といった切羽詰まった状況。
 とりわけ急かれる時間のなかで、GHQ側の周到な誘導のもとに、おもに天皇制の問題、戦争放棄の問題、基本的人権の問題を三本柱に、(その他も検討されているのだが)日本の戦後が形づくられていく。
 3月5日午後4時ごろ、司令部での作業が全部終了した。
《そのときには、それまで一度も顔を見せなかったホイットニー准将も出てきて、大いに安心した表情で、われわれの労をねぎらい、深い謝意を表明したのであったが、その喜びようは、私たちから見ると不自然に感じられるくらいであった》
 それに対して著者は複雑な気持ちであった。
《そのときの足取りの重さはいつまでも忘れない》
 そう吐露している。
 いずれにしても、3月4日、5日、そして6日の発表までの記録を読みながら、ひたすら息をのむ。

 佐藤は書いている。
 作業の間、机の上にはミルクと砂糖がふんだんにおかれ、コーヒーは飲み放題。食べ物に救われ、火急の大仕事にまったく疲労を感じなかった、と。

 その後、4月にも修正が加えられ、4月10日新選挙法による第22回衆議院議員選挙が行われ、4月17日には日本政府が口語体の「憲法改正草案」を発表する。

 1946(昭和21)年、巷ではインフレが猛烈な嵐を呼び起こしていた。
 庶民生活は困窮。
「憲法よりもコメよこせ!」の声が大きかった当時である。
 ようやく外地からの復員、帰国も軌道に乗りはじめたときである。
 そうした状況のなかで、どのくらいの日本人が、憲法改正に関心をもつことができただろう。
 この選挙は、新憲法への信任投票といってもよさそうな国民投票的な性格をもっていたようだが、どれほどの考えをもって投票にでかけたのだろうか。ましてや口語体による「憲法改正案」は、選挙後に発表されている。

 いずれにしても、そのことはおいても、新聞紙上で発表された憲法草案を読むことができる人々は存在していたのだ。
 日本人の識字率の高さは世界に冠たるものがあるとはいえ、漢字とカタカナで綴られた文章をある程度読む力があってこそ戦後の復興が可能だった、と成立史を読みながら、感慨を覚えた。(私自身この本が遅々として読み進めないのは、慣れないとはいえ、漢字とカタカナの文章を読むのに時間がかかっている)

 このように英文と日本文を双方から翻訳する力こそ、日本文化の底力にちがいない。
「誰が訳したのでしょう」
 この疑問こそが、すべての始まりである。
 万葉仮名がつくられる以前から、私たちは外国の言葉を翻訳し、咀嚼し、新たに構築し、自分たちの文化を血の通うものにしてきた。法文までも、というかすべては法文(律令・法律・法令のホウブン、経・論・釈など仏法を解き明かすホウモン)から始まっていたのだ。なにはともあれ記紀・万葉を持つ日出ずる国である。

 おっと、話が飛んでしまいそうだ。
 話を戻そう。
 この発表された改正案に対して毎日新聞が行った輿論調査が載っているが、「天皇制、戦争放棄、国民の権利・自由・義務、国会、草案審議方法」主な5項目に対する肯定的な答えは、平均で70%〜80%に及ぶ結果が出ている。細かな数字をみていると”なるほどそうか”と頷ける。
 戦後民主主義で教育され、戦後民主主義のなかにとっぷりつかって生きてきた世代の私としては、バランスのとれた良識を感じさせる数値だと思った。
 アンケート対象者は、個人企業者、財界人、医師、官公吏、農業者、宗教家、会社員、法曹人、教育者、文筆家、学生、労働運動家といった職業別内訳だから、もっともな数値といえるだろう。
 ただ一抹の不安を感じるのは、女性がはじめて参政権を得た選挙だったが、はたしてどれだけの女性が自分の意思で投票したのだろうか、といった点である。選挙権がある、と言われて「はい、そうですか」と手放しで喜んだ後にくるだろう「誰に入れたらよいのかな?」
 とまどいを多くの女性が持ってもふしぎではないだろう。
 しかし、彼女たちには、戦時中の暮らしの窮屈さ、失われた命への思い、戦後の想像以上の困窮の実感がある。あるにはあるが、その実感が投票に生かされたかどうか、である。
 91歳の母に、21歳当時のことを聞いてみた。
「なにしろ生きるのが大変で、選挙の記憶ははっきりしないわ」
 ちょっと残念だったが、正直な答えがかえってきた。

 さて別の本の年表をみると、11月3日憲法が公布されたあと、憲法普及会が冊子をつくって啓蒙活動をすすめた、とある。
 当然、教育界にも戦後民主主義の波が本格的に押し寄せてきた。
 野口三千三が終戦を迎えた東京体育専門学校を中心にして、GHQのなかにあるCIE(民間情報教育局)の指導のもと、戦後の体育指導要綱作成が相当なスピードをもって開始される。
 校長・大谷武一のもとで、三十代前半の野口は腹の皮が背中の皮にくっつきそうな状態をひたすら我慢しながら、おもにモダン・ダンス(創作舞踊)とフォークダンスの研究に没頭する。
 そして自らの身体に負った二つの傷を抱えて、新しい時代を必死に生きはじめたのである。
 野口に限らず、日本人のすべてが、ゼロからの出発である。

「誰が訳したのでしょう」
 小耳に挟んだ新井英夫さんのつぶやきから始まった私の読書。
 備忘録−2−である。
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ロホクッション

2016年09月07日 10時03分01秒 | Weblog
 一月に一回のペースで、母を皮膚科につれていく。
 巻き爪と爪水虫の治療のためである。
 
 ところで最近になって気づいたことがある。
 就寝前に赤ちゃんの沐浴剤を入れた湯で湿らせたタオルを使って、母のからだを拭いている。その際に、お尻に傷が出来て出血していた。
 こうなる前までは、変色している部位を濡らしたガーゼで拭き、乾いたガーゼで水気を拭き取っていたけれど、痛がってそれができなくなっていた。
「これって床ずれかもしれない」
 密かに思っていたが、母には言わなかった。

 昨日、足の治療の際にそのことを伝えると、患部を見た先生の見立ても同様であった。
 2種類の治療薬を出し、車椅子用の床ずれ防止クッシュン「ロホクッション」を教えてくれた。
 介護保険でも借りられるそうだ。
 といわれてもピンとこなかった。

 帰宅して、Web検索してみた。
 迂闊でしたね。
 床ずれというのは、寝たきりの人がなるものと思い込んでいた。
 しかし、母の一日の暮らし方を思い返してみると、柔らかな二人〜三人掛けのソファに座って過ごしている時間が殆どである。
 長時間同じ状態を続けていれば、寝たきりでなくても”座りきり床ずれ”は出来る可能性があるというわけだ。
 最近は以前に比べて転ばなくなった。気をつけているのだなぁ、くらいにしか考えていなかった。
 実態は、家のなかでも歩くことがとみに少なくなった証拠なのだ。
 寝たきりでないから、という安易で間違った認識しかもっていなかった。
 母も、自分はまだ寝たきりではない、と思い込んでいた。
 
 そんな母に、今朝、話しかけた。
「あのね、座りっきりで、床ずれが出来てしまったみたい。夏だから汗もかくし、年中、押し付けられて空気がかよわないから、なるんだと思うの。まぁ、生活習慣病と思えばいいんじゃない。車椅子の生活を強いられている人も床ずれが出来るんですって」
「エッ、そうなの?」
「だからね、先ずは、用事がなくても玄関の方にいったり、二階に上がったり、家の中をウロウロしてみたらいいんじゃない」

 母は、体操をしましょう、歩きましょう、などというと嫌がる。
 そこで家のなかをウロウロすることと、以前やっていた食後の食器洗いを再開することなどもすすめてみた。
「わかったわ!」
 と宣うのだが……。

 はじめて、車椅子用の床ずれ防止クッション「ロホクッション」なるものがあることを知って、高齢者問題がぐっと近づいてきた。というか、自分の問題にもなってきた。
 本日から朝日新聞で始まったシリーズ『教えて! 2025年問題 都心の「介護難民」深刻に』
 他人事じゃない、と記事を切り抜いたが、先送りている場合じゃないー。

 すぐ私に出来ることは何だろう。
 野口体操だ、とばかりに二階へ。
 たっぷり1時間、久しぶりに、真剣に体操をした。

「生きるということは、誰のものでもない、自分の命を生かしているのだ」
 体操するということは、気持ちがいいとか、健康にいいとか、老化防止とか、それも十分大事なことであるけれど、もっとダイレクトに「自分の命」とどう関わるのか、ということだった。
 野口体操で教えられたこと、求めたことはそういうことだったはずだ。
 月並みな言い方だが、自分に言い聞かせましょうぞ。
「初心忘るべからず!」
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片付け事始め記念日

2016年09月04日 09時13分18秒 | Weblog
 ファックスというものを使わなくなって久しい。
 思い返してみると、使う回数は、一年に一回あるかないか状態である。
 実は、両親が使っていた電話を、ファックス用として名刺に電話番号を刷り込んである。
 そのためになかなかこの電話を解約することができなかった。

 ある日、91歳の母が聞いてきた。
「電話に出なくなったし、みんな知り合いは死んでしまって、かからなくなったから、この電話、いらないんじゃない。ただじゃないんだし、勿体ないしー。」
 たしかに、外出先から母に電話をしても、出てくれない。
「二階のガスストーブ、消してきたかしら。見にいってくれない」
 などという、電話もかけることはなくなった。
 この母の言葉を聞いて“わかってるんだ!”と、残された母の脳機能に、僅かながら安堵した。

 とはいえ、まだ母が生きていると、何かの連絡が来るかもしれない。
 それにかかりつけの医者や、母の役所関係の電話番号は、この番号だったような気もする。
 しかし、母が経済を考えて、一軒に1本の電話でいいと思う気持ちを大切にしよう。

 とはいえ、解約手続きをとる積極的な気持ちがおこらなかった。
 何ヶ月も過ぎてしまった。

 ところが、結構高い料金をし払っている携帯電話を変えよう、と思いはじめていたこともあって、その前に、まずはNTTのHPから解約手続きを探し、読んでみた。
 今朝のことである。
 気がついたら、Web上で「手続き完了」まで終えていた。

 たしかに家の中を見回すと、片付けなければならないところは随所にある。
 見えるところはまだいい。見えないところほど厄介なものはない。
 おそらく、あそこには○○が入っているはず。思い浮かべることだってできる。
 あれも捨てたい、これも捨てたい、限りなく浮かんで来る。
 なのに、なぜ捨てられないのか。
 捨てたいもの、捨てた方がよいもののうち、三分の一は3年かけて、捨てている。
 
 結局、電話を解約したのは、後の残りに取りかかるはずみが欲しかった、と気づいた。
 本日、9月4日は、「片付け事始め」記念日となって欲しいー、のだが。
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巡礼……パール・ハーバー……『1941』という本について

2016年08月30日 07時55分22秒 | Weblog
 この夏「野口三千三を巡る旅」は、いよいよ戦中から終戦直後に迫った。
 それにちなんで、会って話を聞いておきたい数名の名前を、すぐにも挙げることができる。
 しかし、私事、要介護3の母を一人自宅に残して行く外出は、あまり遠出ができない。
 畢竟、一人で出かけ、先方との約束がなく、日時の勝手がきき、半日からそのプラスαで帰宅できる範囲で、野口ゆかりの場所を訪ねることくらいにとどめざるを得ない。
 そうした状況のなかで出来ることは、まず、資料や本を読むことに集約されてしまう。
 積ん読の山を崩し、一冊一冊を端から平らげるようにしたいところだが、これがなかなか思うに任せない。
 気が滅入るもの、歯がガタガタになりそうなもの、噛み砕くには時間がかかりそうなもの等々、しかたなく学生時代にやっていたタイプの違う数曲のピアノ曲を同時に練習するように、何冊かの本を同時並行で読み進めていた。

 その中で決して楽に読める本ではなかったが名著に出会った。 

 書名は 『1941 ー 決意なき開戦 現代日本の起源』
 著者は  堀田 江理
 出版社  人文書院

 まず「あとがき」にあった話を紹介したい。
 歴史教育には問題がつきものだ、という前提からはじまり、2001年9月11日の同時多発テロ直後のニューヨークの街中で聞かれたやりとりから、いささか極端な例かもしれないと著者は断って
《一人の男が言う。「なんてことだ。これじゃあ、まったくパール・ハーバーと同じじゃないか」。もう一人の男が聞く。「パール・ハーバーって何だっけ?」「え、知ってるだろ。ベトナムが攻撃してきて、アメリカをベトナム戦争に巻き込んだ、例のあれだよ」。》
 例のあれか?!(冷笑)

 この本には、米国民に日米開戦にまつわる新しい見方を提供する狙いがあったという。
「日本はなぜ真珠湾を攻撃したのか」を説明する目的で、2013年末に、japan 1941 : Countdoun to Infamy という原題で書かれた。出版されるとたちまちニューヨーク・タイムスをはじめとして、米国内で発行されている各紙が称賛した、とある。その後、今年、2016年6月、著者自身の日本語訳で出版された本である。

 1941年の4月から12月までのおよそ8ヶ月間、「避戰」と「開戦」に揺れる政策決定の過程を、日本側に焦点を当てながら、丹念に史実をひも解き、克明に緻密に、細密画を描くように、さらに精確に記してゆく姿勢が(不適切な言い方かもしれないが)たいそう小気味よい。
 しかし、入り乱れる人間関係、切羽詰まった密な時系列のなかで起こる出来事の記述に、時に迷子になりそうなときもあった。
 それを救ってくれたのが、永井荷風の日記『断腸亭日乗』から、街の変貌や市井の人々を描きながら戦争の行く末を案じる作家の冷静な言説の挿入だった。
 読者は、要所要所で荷風が示す住所表示と時間を確かめることができる。日記の言葉の挿入が道標となって、迷い道から抜け出して本道へと戻してくれる、その筆のはこびは巧みで見事だった。
 たとえば、たてられている道標のひとつに、こんなエピソードがある。
 中国との戦争が泥沼化し、ありえない英米戦争が合法的にいくつもの会議を経た上で、最終的に国策としてのし上がってきた時のこと。
「結婚報国」の旗のもと「結婚奨励協議会」が活動を活発化させ、封建的な家にまつわるあらゆる概念を排除して「産めよ、増やせよ」と、計画された。求愛や結婚を取り巻く社会背景や制度が、不穏な時代に、急激な変化を遂げていく日本。この時代に、陸軍や海軍の恤兵部に届けられる慰問袋には、戦地の兵隊さんに宛てた手紙を入れるように奨励された。そのことから起こる出来事を見聞きして、荷風が拾い上げた挿話である。
『前略 未婚妙齢の女子をその親の知らぬ間に出征の兵士と手紙の往復写真の交換をなすものあり。中略 戦地より帰還し除隊となりし兵士の中には慰問状の住所姓名をたより良家の女子を訪問し、銀座通りにて会合するものさへあるに至りたればなり』『待ち合いの女中酩酒屋の女カフェーの女給らは帰還後の兵士を客にせむとて、それとなく慰問状を利用して誘惑する者もありといふ』
 良家の子女や女学生だけでなく、兵士もまた誘惑に落ちる者もいたわけだ。
 荷風は底辺で生きる女たちのしたたかさ、彼女たちの生命力の強さに、関心したという。
 ここの記述を読むと、帰還し除隊になった兵士がまだまだ相当数いただろうと想像できるその時点で、なぜ開戦を踏みとどまることができなかったのか、とさらにページをめくる手が速まっていた。
 
 この本のどこが凄いのか。
 日本がはじめた戦争は「勝ち目のない戦争」だと指導者たちはおおむね正しく認識していた、と書くところ。
 さらに「捨て鉢の戦争」であった、ときっぱりと書いたところだ。
 開戦への決意は、決してみごとなまでの一本道ではなかったことが、読み進む途上で次第にはっきりと見えてくる。
 そしてきわめて曖昧のまま突き進んだ結果が、1945年の敗戦であったことを描き出す。
 最後には、原発事故や新国立競技場の建設問題にまで話は及ぶ。
 
 圧巻は、エピローグ「新たな始まり」である。
 開戦と戦争の拡大に「一億總懺悔」せよ、ということは「すべての国民の責任だ」としたことによって、『ほぼ「誰も悪くなかった」と主張するのに等しいのだった。』と、著者は書く。
 刮目!である。
 
 この言葉にいたるまでの道のりを振り返って、今を生きる一人一人への問いかけの重さに圧倒されている。
 が、逃げてはいけない。
 時、今、この時にこそ、問題はつきものだと知った上で、歴史を自分の血や肉にして、個人として生きるからだに落とし込む作業をしなければならないのだろう。
 それは、生半可なことではすまされない。結構、しんどい作業だ。

「いっそ、ここまでで、やめてしまいたい」
 しかし……続けることが……、野口三千三を巡る旅をはじめてしまってからの躊躇いを、払拭するたった一つの道なのかもしれない、と、しぶしぶ思い直している。

 八月もあと一日を残すだけとなった。
 まだまだ暑い晩夏を、いかに過ごそう。
 
 本日は、この夏の備忘録として、この本のことをブログに残したい。
『1941 決意なき開戦 現代日本の起源』
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夏のにぎわい…… 祭の町 阿波踊りの町 高円寺

2016年08月28日 14時33分02秒 | Weblog
 8月27日、28日と、高円寺の町は祭一色で染め上げられる。
 JR駅の近く、地名の由来となった禅寺「高円寺」へは、傾斜の強い坂を下りていく。
 その途中、左手に源頼朝時代に建立されたという氷川神社が鎮座している。
 因みにこの神社の本殿脇には、日本で唯一と言われる”気象神社”があることが知られて久しい。
 この気象神社は偶然に残された、と伝わっている。
 経緯はこうだ。
 もともと馬橋(高円寺北四丁目)にあった大日本帝国陸軍気象部に、1944年(昭和19)年4月10日に「八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)」を祀ったのが始まり。気象予報があたりますように、と祈ったという。
 戦後は、神道指令で撤去されるはずだったのが、連合軍宗教調査局の調査もれで残存した。
 高円寺南口、氷川神社にうつされた、ということである。

 この神社の縁日は、8月27日28日、である。
 今年は丁度、その日にあたった。
 実は、もう一つの呼び物、「阿波踊り」が縁日にあわせて開催される。長いことそのしきたりは守られていたのだけれど、かなり前から、阿波踊りを8月の最終土曜日と日曜に変更した。はじめは“よし”としなかった宮司さんや氏子たちも、100万人からの観客を呼ぶ阿波踊りに引きずられて、祭礼を行う日を縁日とは関係なく、移動させてしまった。

 昨日、本日ともに小雨はぱらつくものの大雨にはならず、昼過ぎから各町内会の神輿や山車が繰り出している。
 つい先ほども、半世紀以上もお兄さんと呼んでいる隣家の主が、祭半纏を身にまとって御神酒所にでかけるところで、奥さんが記念写真を撮っているところに出くわした。
「似合ってますね。お二人揃っている写真を撮りましょうか」
「いやぁー、そう、ありがとう」
 会話が始まった。
「すれ違う人の半纏の名を見ると、いろんなところから御神輿を担ぎにきてくれるんですね」
「地元だけでは無理だよね。この頃の若い人は背が高くなったでしょ。だからね、自分では担ぎ棒を担いでいると思っていたら、なんだか軽いんだよね」
「そうらしいわ。若い人の肩の位置が高いんですって」
 奥さんが笑う。私も笑う。
「そうそう、前後に若い担ぎ手がいると、いかにも担いでいるようで、肩に重さはのってこないの」
「楽しちゃうってことですね」
「それで、後期高齢者になっても神輿は担げるわけよ」
 
 町を歩いていると、あちこちからワッショイ・ワッショイ、ピピッ・ピピッ、ドンドンドドン、音が聞こえて来る。
 暮れ方、祭太鼓に代わって阿波踊りの鳴りものに歓声が混ざり合って、グワァーン・グワァーンと轟き、町全体を震わせる。
 今、時計は2時半を回ったところ。
 踊りのはじまりまで、しばしお待ちを!
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2016年08月26日 20時55分21秒 | Weblog
 気象情報によると明日から曇りや雨、台風の予報などが出ている。
 本日の快晴と湿度の低さは、貴重だと言う。
 乾きにくい洗濯物は、本日中にすませるように、とご親切にも教えてくださる。

 洗濯もさることながら、掃除もしておこうと、早朝から取りかかった。
 まず障子や襖の敷居を中心にハタキをかける。
 埃が落ちる時間に、新聞紙を水に浸す。たたまれている中まで、水が浸透したら、しっかりしぼる。
 細かいもの、少し大きめのもの、無造作にちぎって畳の上にポンポンとばらまく。
 畳の目に沿って、座敷の角や縁を箒ではきながら、部屋の中心に集める。
 埃や塵や髪の毛などが絡まっている濡れた新聞片を、ちり取りにはき入れる。

 それから雑巾を硬く絞って、同じく畳の目を横に、縁は特に丁寧にこちらは縦に、力を入れて拭き上げる。
 気温も高く、湿度も低いので、みるみる乾いてすっきりした感触が素足に伝わる。

 階段も濡らした雑巾で、角は念入りに拭き掃除する。
 最後にトイレを終えると、一応、朝の掃除は終了。

 掃除機をつかわないので、五月蝿いモーター音がしない。
 どんなに早朝でもご近所迷惑にはならない。

 床の間に軸物を掛け、香炉をおく。
 冷房をかるく入れて、障子を閉める。
 真夏のひかりは窓の外側に掛けている簾を通して部屋に差し込む。
 でも、とても明るい。
 畳の上に座して、しばし、『HOSHINO DIARY』のページをめくって写真を見る。
 白熊、氷河、アザラシ、エスキモーの子供、氷河が融けて海に崩れ落ちる、トナカイと雄大な雲、狐の子供のじゃれ合い、熊の親子、カリブー、森の静けさ、翼をひろげた鷲、鮭をとらえた熊、クジラ、オーロラ、そして生と死。

 ようやく、町は、一日の活動を本格化する。
 でも静かである。

「午後からは、母をお風呂に入れてあげよう」
 その手順もイメージしながら、本を閉じ、おもむろに階下へ。
 階段を下りる。
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巡礼……ひとやすみ HOSHINO DIARY

2016年08月24日 13時12分11秒 | Weblog
「羽鳥さーん、ほら、これ上げる」
 息せき切ってやってきた井上修美さんから手渡された本は、新潮文庫『HOSHINO DIARY』。
 表紙に目が釘付けになる。
 目を閉じた顔を少しだけ空にむけている白熊。なんと穏やかな。

 てっきり星野道夫の写真と文だとおもった。
 それが一瞬にして裏切られた。
「なに、これ?」
 私の言葉を受けて、彼はニヤニヤとわらっている。

《 1月1日(  曜日)元日 1月2日(  曜日) ……》

 曜日が書かれていない手帳だった。
 15日ごとに見開きページをつかって写真が挿入されている。
 最後には、2012 2013 2014 2015  
 1ページを使って、各1年分のカレンダーが載っている。
「つまりーこれは、4年間のどこかで日記帳のようにつかえばいいのね」
 そのとき、すぐにも合点がいった。

 2016年8月23日のこと。
 久々に楽譜棚にしまい込んでいたの本(DIARY)を思い出し手に取ってページをめくった。
「せっかくいただいたのに、つかえなかったんだ」
 奥付をみると平成二十三年一月一日と記されている。
 西暦にすると2011年ということになる。
 あれから5年の歳月は流れたのだ。
「分厚い5年間だった」
 来し方を振り返って、ちょっぴり溜息をつく。
 
 本日8月24日から、銀座松屋で星野道夫写真展が開かれることも新聞で知った。
 すでにその前日、FBに『BRUTUS 9/1』の特集『こんにちは、星の道夫 心を満たす、極北の物語』が発売されたという書き込みを読んで、さっそく書店に寄った。
 雑誌の表紙も白熊である。
 実は、この表紙の写真を見て『HOSHINO DIARY』を思い出したのが順序だった。

 思い起こせば野口三千三が亡くなってそれほど時間が経たない頃だった。
 銀座松屋で写真展が開かれたことがあった。
 そのときには福井から上京してきた女友達と出かけた。
 一部屋、一部屋、巡るごとに写真と文に引込まれる度合いと深さが増してゆく。
 最後の部屋では涙が止まらなかった。
 写真家が急逝をしたときの衝撃も思い出す。
「まさか、よりによって、熊に……」
 
 さて、『BRUTUS』のページをめくると、星野が残した写真と文、それに作家や動物写真家、なかにはプロデューサー等、それぞれに嫌みのない星野讃歌が次々に現れる。
「あッ、養老先生だ」
 手が止まる。
 目が止まる。
 プロフィール写真がいい!
 なんてたって時流に抵抗しているのだから。
 いや、ご本人には抵抗意識はないのだろう。
 ただ自然にご自分の嗜好を楽しむ姿を写してもらっているだけ。
 内容は、養老節健在である。
 読んでいて、清々しいとしか言いようのない思考に引きずりこまれる。
 自然、社会、生きもの世界、人工の世界、生と死……星野を軸に多岐にわたって話を展開しておられる。
 しかし、すべてが一本の道に通じている。
《星野さんのような男はもういない。だから熱心に読まれるのかもしれません》養老孟司

 おもむろに、雑誌の上に文庫手帳をのせてみる。
 下を向いて眠る白熊、顔をもたげて眠る白熊。
「安らかに死んでいるようにも見え……いやいや、安らかに眠っているのよね。ちがちがう。眠っているのよ」
 白熊の見る夢はいったいどんな夢なんだろう。

 自然の流れで、文庫をプレゼントしてくれた人を思い出す。
 一緒に写真展を見に行った人も思い出す。

 しかし、一人は還暦の年に、もう一人は還暦を前に、この世を去った。
 私よりも若い二人だった。

 そういえば龍村仁監督が星野道夫の世界を映像化したかった『地球交響曲』も、生きている星野の姿をおさめることができない哀しい作品となってしまった。あれは鎮魂歌だった。
 その鎮魂歌を、野口三千三が見ることは叶わなかった。
 野口もまた封切りから間もなく、死で旅路に出られたから。

《生きる者と死す者。有機物と無機物。その境とは一体どこにあるのだろう。》星野道夫
 
 今度の写真展は、一人で見にいこう。
 そう心に決めた朝。
 宇多田ヒカルの歌が聞こえてきた。
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本日(8月17日)朝日新聞「天声人語」に触発されて……

2016年08月17日 07時50分37秒 | Weblog
 今朝、先ずはじめに「天声人語」を読んだ。
 この内容にちなんで、紹介したいNHKの番組と本がある。

 まず、番組は「日本国憲法誕生」2015年4月6日公開。
 近藤早利さんから今年の5月に教えられたので、このブログでも紹介した。再度のおすすめである。

 本は『日本国憲法成立史』全四巻である。
 実はこの本は、同じ頃にAmazonで手に入れた。特にここで紹介する第二巻だけは、他の三巻とは異なって、清水の舞台から飛び降りる覚悟で大枚をはたいてしまった。
 この第二巻は、天声人語でも触れられていたこの部分《日本国憲法が米国主導で生まれたのは事実だ。日本政府がまとめた憲法改正案が民主的でないとして、連合国軍総司令部(GHQ)が短期間で草案を作り直した。ただ、そのなかで日本の研究者たちの意見も参照されたといわれる》この政府案(松本案)、主に参考にされたと言われる民間グループ「憲法研究会案」についての非常に詳細なリポートと検討がなされている。
 遅々として進まなかった読書だが、ちょうど第二巻を読み終えていたところだった。
 外側だけ紹介させていただく。

 書名 :『日本国憲法成立史』第一巻〜第四巻
 著者 :佐藤達夫(憲法成立に深く関わった。内務省から法制局長官)
 発行所:有斐閣
 年月日:昭和三十九年九月三十日 初版

 四巻のうち、『第二巻 第十一章 政党その他の民間憲法改正案 第四節 憲法研究会案』784ページ〜846ページ
 敗戦後、新しい憲法を定めるに当たって、さまざまな政党や民間から、政府案とは別に憲法案が発表された。
 そのなかでも1945(昭和20)年12月26日に参考として内閣に届けられた「憲法研究会」の案は、非公式に総司令部にも提出されたらしい、と同書の序説にある。

 一部、ここに引用する。
《研究会は、高野岩三郎・馬場恒吾・杉森辰男・岩淵辰雄・室伏高信・鈴木安蔵というような多くの知識人によって構成されていたこと、要綱として具体的に整っており、民間案として最初のものであったこと、その内容が当時の一般の感覚からいって、きわめて革新的であったこと・などの理由から諸方面の注目をひき、新聞にも大きく報道された。中略 総司令部ではこれに対し、後述のように相当に大きな関心をもって臨んだようであり、のちのマックアーサー草案に何らかの影響を与えたのではないかという観測もなりたつし、近年、内閣の憲法調査会でも相当に立ち入った調査を行っているので、この案については特に一節を設けて扱うことにする》 784ページ

『序説 要綱の内容 立案の経過 憲法研究会と総司令部との関係 憲法研究会に対する総司令部の評価』
 62ページにわたって詳細に記述されている。

 1945年中頃、この私的なグループによる憲法改正案は、総司令部の連合翻訳局と国務省政治顧問事務所と二手で翻訳され、1946年1月3日頃、民政局のラウエル中佐に翻訳が渡り、それに対して意見を述べるように命じられた、と833ページに書かれている。最終的に覚え書きとして残されている。
 
 佐藤氏はこの節の最後に《前略 この研究会案が、マックアーサー草案の起草について何らかの意味で参考とされたことは、〈この私的グループの草案にヒントをえて、民政局の案では、はじめ、一〇年後に憲法を改正するために憲法議会を招集するという規定を設けていた〉というラウエルの談話からも推測できる。したがって、総司令部としては、この研究会案に対し、他の多くの日本側の諸案にくらべて、実質的にもっとも大きな親近感をいだき、かつ、これを重視したと見てよいであろう。》843ページ

 とにもかくにも当時の凄まじいやり取りを読むと、短期間であっても世界に類を見ない平和憲法をつくりあげた思いをあだ疎かにしてはならない。

 戦争と平和を、祈りとともに考える戦後日本の8月は、特別な月なのである。
 戦争を語ることのできる人の多くが鬼籍に入られたが、昭和24年生まれの私は、戦争を実体験として語る人々に囲まれ、戦争を体験した先生に教育を受けた世代である。
 小学生のころの記憶をたどると、戦争が終わって前途は明るく、新しい憲法がどれほど優れたものであるか、という価値観で育てられた。
 ただ、今は、まっさらな状態で日本国憲法を知りたい、という一心で読みはじめた『日本国憲法成立史』である。
 読めば読むほどに、安易な改憲には待ったをかけたい。

 本日の天声人語には、実に、共感を覚えている。
 それがため、このブログが、このような内容になってしまった。自分自身の備忘録として……。
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巡礼……八月十五日 ある本に当たる……そして思いがけない見学

2016年08月16日 13時31分57秒 | Weblog
 終戦記念日の国会周辺では、警察車両と警察官ばかりが目立っていた。
 昨日、私は、国会図書館に出かけた。我が家から行くには、交通の便がすこぶるよい。
 滅多にない本を調べたいときはここに限る。

 さて、本館に入ってみると、さすがに来館者は少なかった。
 江口隆哉・宮操子、お二人が1931(昭和6)年末に、ドイツに留学し、当時ベルリンには「舞踊」と「体操」をコラボさせた教室が200〜250もあった、という記述を『江口隆哉芸術年代史』で読んでいた。そこで当時の体育事情を知りたくて出かけてきた。
 その文章は、1938(昭和13)年10月6日、《掲載紙不明『舞踊と体育』》江口による。
《日本でも体位向上運動が起こり、最近では国民舞踊の提唱もなされているが、その前に根本的な体育の設計が建てられるべきである。その具体策としては体育思想の普及と実際方法の検討及び実施普及が挙げられる》
 この提案の前にも「舞踊体操」についてドイツの例を引きながら、ドイツの体育政策の素晴らしさを語っている。

 敗戦後、舞踊家・江口隆哉に出会ったことで、野口三千三はドイツ仕込みの身体観や体操の理論、方法について学び、少なからず影響を受けたに違いない、と、ずっと思っていた。
 ただ、具体的に1930年代のドイツに於ける体操について調べることはしてこなかった。

 野口は東京体育専門学校で、スエーデン体操・デンマーク体操の研究をまかされていた、と聞いていた。
 そのときにはドイツ体操と言葉は一度も聞いたことがなかった。
 それもあって調べる時期が今年までずれ込んでしまった。迂闊であった。

 ところで先日、8月13日に出かけた「予科練平和記念館」で、海軍体操の映像を見た。You Tube でも「海軍体操」「海軍と体操」で、動画で見ることができる。
 たとえば「上体のぶらさげ」のやり方は、野口体操独自のものかと思っていたが、海軍体操の紹介動画で、前屈運動をしているシーンのなかに、「おろして行くとき、おり切るギリギリの段階で首が緩められて頭が下にむく」そして「起きてくるときは、頭が最後になっている」その動きを発見した。これは意識的に行おうとしている、というより、二つに折れ曲がるほど柔らかいからだで動く「前屈」で、スピードも速い場合、安全に行うにはこの順序がいちばん自然であることを実証しているに違いない、と思えた。若い海軍兵士の動きであった。
 この海軍体操はデンマーク体操からヒントを得て、堀内豊秋大佐が考案したとされているらしい。
「一人の完成は全体の完成」を目指して、体操が行われていた。

 それはそれとして、昨日は、1930年代のドイツ体操に関する翻訳本に当たるべく国会図書館に出向いた、というわけ。
 お目当ての本は、デジタル化されていて、館内のみの閲覧だった。
 1943(昭和18)年に翻訳出版された本で、ドイツ体育の創始者フリードリッヒ・ルードヴィッヒ・ヤーンの体育論に負うところが多い、と訳者序文にあった。
《チャンピオンシップ及び競技のための競技を排斥し、従って全國民の一般體育能力水準の全體的昇揚化を圖っている》

 訳者の著作権に抵触しない枚数を計算しながら、コピーをとってきた。
 実に楽な作業だった。例えば、3コマ〜18コマまで、とか23コマ〜44コマ、というように印刷指定を次々打ち込んでゆく。それが終わったら、印刷担当カウンターに「登録利用者カード」を提出する。しばらく待っていると名前が呼ばれる。料金を支払い印刷物と預けたカードを受け取とるまでに、14〜15分ほどですべてが完了する。

 このデジタル化は、本の色合いや手触りに拘る方には不評らしい。
 ただ、古い本で冊数が限られているものを守るためでもある。
 土曜日の朝日カルチャーのクラスには持参したいと思っているが、ここに書名を記すことは御勘弁いただこう。
 ご想像にお任せしたい。

 本を検索し、手元にかり出して、印刷をすませるまでに長時間がかかるものと心づもりしていた。
 夕方にはなるに違いない、という予想に反して、国会図書館本館を出たのは入館して1時間半くらいしかたっていなかった。
 わずかに曇っていたが、真昼間だ。
「このまま帰るのも……どこかに寄っていこうかしらー」
 信号機を渡って、国会議事堂裏手を地下鉄丸ノ内線駅に向かって歩いていた。
 途中、参議院の裏口前にさしかかったとき、一般人らしい数名の人だかりを認めた。
 不思議に思った私は、塀の脇にある立て看板に目をやった。
「参議院見学のお知らせ」
 文字を目でおいながら立っていると、声をかけられた。
「どうぞ中で書類を書いてください。次の回は2時からです」
 そう話しかけられても、参議院建物内を参観する人たちだった、と得心するまでに少しの時間が必要だった。

 なんとなく、意思もなく、ぼーっとしたまま、書類に必要項目を書き込み「参議院 見学ガイド」横幅10センチ、縦21センチほどの立派なカラー刷り冊子をもらった。これが通行証になるらしい。
 列をつくって10分ほど待っていると、入場手続きが始まった。
 一人ずつ前に進んで、持ちもの検査、バックを開き中身を見せ、金属探知機を通り抜け、地下ロビーへと案内された。

 ロビーで待つ間に、或る方のFBで、国会議事堂の建物は石材・木材、室内装飾すべてが国産で建てられている、と読んだ記憶が甦っていた。
 次々見学して行くうちに、日本で産出する大理石をはじめとする石材の多様なこと、欅の彫りものには目を見張るものがあることに気づかされた。
「ステンドグラス、通気口の装飾蓋、各階から投函可能な郵便受け、消印は銀座ですが。これらは輸入品です」
 皆がほーっと声を出した。
 なにより驚いたことは、本会議場の音響だった。グァングァンというような種類の反響はなく、人の声が明瞭に聞こえる響きのよさを生み出す空間だったのだ。

 1920(大正9)年1月地鎮祭、1936(昭和11)年11月完成と冊子にはある。
 まるまる17年の歳月をかけてつくられた議事堂である。
 約254万人の作業員が工事に携わったという。
 完成は、昭和11年というと「2・26事件」が起こった年である。
 日中戦争前夜のことである。
 見学途中の待ち時間に、冊子を読んで、建物は先の戦争をまるごと生きて見続けていたことになる、と気づく。
 それからは気持ちを立て直して、これまで考えたことがなったことに驚きながらの見学となった。

 建物内を見回って、違った意味の二つ溜息をついてしまった。
 大理石や木彫を見たいために参加したのだったが、皮肉な巡り合わせの時に誕生したものだ、と。

 見学もそろそろ終盤、表の庭に出て都道府県の“樹木の道”を抜けて、正門の前に誘導された。
「ここが写真をとっていいスポットです。自由にお撮りください」
 一緒に見学した二十数名は、入れ替わり撮影スポットに立ってカメラを向け、記念撮影をしている。
 少し離れたところから、蜃気楼でも見るかのように眺めていた。
 静かに門から外にでる。振り返ると議事堂の建物が悠然とたっている。

「そうだ『1941ー決意なき開戦 現代日本の起源』をバックにいれてきたわ」
 まさか家を出た3時間半ほど前には、議事堂内を見学するとは予想だにしなかった。
 人生はわからないもの……。
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巡礼……八月十五日を前に−4−

2016年08月14日 08時53分45秒 | Weblog
 昨日、8月13日午前9時17分、常磐線ときわ53号は、土浦駅に時間通り到着した。
 西口に降り立った私は、「阿見公民館行」バス停を探した。
 それはロータリーを四分の一ほど左回転したところにある1番乗り場だった。
 土曜・休日・祭日の時刻表を見ると、9時台だけ一時間に3本。他の時間帯は一時間に2本しかなくラッキーだった。
 しばらく周辺を見回って、9時40分発のバスに乗り込んだ。
 凡そ20分もかからず、目的下車の「阿見坂下」に到着。
 降車して周りを見回し、バス停からすぐ脇の家に住む人に聞くと、近道を教えてくれた。
 2分くらいで「予科練平和記念館(平成二十二年開館)」の脇にある入り口から敷地にはいる。
 すると左手の芝生上にある「回天」の出迎えを受けた。
「人がやっと滑り込めるくらいの幅しかないんだ!」
 実物模型を目にして、衝撃をうける。

 天気は快晴。
 霞ヶ浦から吹き込む風は、気温の高さを緩和してくれるようだ。
 そのまま私は「回天」の傍に立ちすくんだ。
 目を閉じ、胸いっぱいに空気を吸い込む。
「この匂い、覚えておこう」
 霞ヶ浦の水と水面を渡る風、松・杉・梅・櫻などの樹木、池を埋め尽くす蓮の葉と花。
 なんといっても青い空はどこまでも広がっている。
 ここで学び訓練を積んだ若者が、太平洋に飛び立っていったのか……。

 かつて西巣鴨の自宅で、野口三千三に話を聞いたのは、かれこれ20年くらい前になるだろうか。日時の正確な記憶は、すでになくなっている。というか当時は野口の健康状態が波打っていて、話を聞いておいただけでもよかった、と後になって思った。
 ただ、そのときに聞き書きした原稿に、赤を入れもらい、没後は大切にしまい込んでいた。
 その原稿が日の目を見たのは、2004年に出版された『DVDブック アーカイブス野口体操』だった。
 それから12年目の今年、念願かなってここにやってくることができた。

《「佐野(小学校)の教師時代、僕らも参加した明治神宮国民体育大会で、土浦航空隊の実演は群を抜いてすごかったんだ」中略「どんな訓練をするとあそこまで上達するのか、この目で確かめたくて、土浦航空隊に出かけたことはあるんだ。そこで士官の人に小学校の子供たちの体育訓練の大事さを話された。僕は血気盛んな若者だったからね。自分には何ができるのか、真剣に考えたもんだ」》『DVDブック アーカイブス野口体操』52ページより
 それから鉄棒運動に集中して、野口の研究ははじまり、そして成果を見た結果、東京体育専門学校の助教授として迎えられることになる。

「明治神宮体育大会」が「明治神宮国民体育大会」と改称し、国防競技を採用したのがこの年。
 昭和十四年(1939年)五月だった。
 そこから計算すると、はやくて同年夏休みに出かけた可能性は否めない。そうであって欲しい、と勝手に決め込んだ。
 とすれば、77年前、大空のもと、炎天下、訓練を見学した野口が、士官の言葉を待つまでもなく、熱い思いをたぎらせただろう、と想像し、その場に私も立ってみたかった。
 昨日のまずの目的は、この場に立つことだった。
 そこで最初に「回天」のお出迎えだった。

 ゆっくりと進んで館内へと足を踏み入れた。
 展示は予科練志望者の憧れだったという七つボタンに因んで、七つのテーマに分けられている。
「入隊」「訓練」「心情」「飛翔」「交流」「窮迫」「特攻」
 海軍飛行予科練習生のすべてが網羅されている。
 遺品、遺物、映像、写真。当時の印刷物。貨幣。諸々。
 14歳から17歳、少年から青年へと成長していく過渡期に、彼らは考えられないほど十分なる教育と訓練を受けていた。
 頭上にひろがる大空は、七つの大洋につながっている。
 しかし、この地は彼らにとって“死出の旅路への滑走路”だった。

 昭和19年(1944年)、二ヶ月近く生活を共にして写真を取り続けた写真家がいる。
 彼の名は、土門拳。
 各部屋には「まぼろしの写真」として戦後封印した土門の写真がふんだんに展示されていて、当時の学びや訓練や暮らしがしっかりと見えてくる。『古寺巡礼』の写真家は、戦前・戦中に外国向けに日本を紹介する冊子を制作した「日本工房」でも、数多くの写真を残している。思わず「封印」という行為の向こう側にある惨さを思わずにはいられなかった。
 とはいえここに暮らした予科練生の写真は、はなむけ写真として美しい。
 美しすぎる。
 許されざる美しさである。

 さて、館の周辺には、公園がつくられていて、その一角には開かれた格納庫に「零戦」が展示されていることに気づいた。近づいてみる。
「この大きさなの?」
 小振りである。
「確かに」
 なんとなく納得してしまう大きさである。

 ぐるりと公園周囲を散策して、隣接する陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校内にある「雄翔園・雄翔館」にも立ち寄った。こちらの展示遺品は、生々しかった。一人ひとりに焦点が当てられていて、個人の死がはっきりと知らされる。
「なぜ、世界から戦争がなくならないのだろう」
 いや、ここで呟く言葉ではないのかもしれない。
 この建物の向こう側には、終戦当時に建てられたのか、と思わせる平屋の建物が残されていて、広い敷地の中には戦車が何台も止められているのが、遠くからでもはっきりと認められる。

 戦争の記憶を残す場には、かならず「平和」の文字が冠されている。
 その平和の対の言葉は戦争で、単独の平和ではない。
「平和・平和・平和」というこは、「戦争・戦争・戦争」ということなのだ。

 雄翔館を出て、自衛隊のフェンス沿いに、きた道とは逆方向に歩き続けた。
 太陽の光は燦々とふり注いでいたが、風は強くもなく弱くもなく、心地よい。
 私はひたすら歩いた。
 坂とは言えないほどのなだらかな坂を、ゆっくりとのぼった。
 のぼりきると霞ヶ浦を回る平らなサイクリングロードに出る。
 左は自衛隊のフェンスに阻まれているので、右折して道沿いに歩く。
 目の前に霞ヶ浦が広がっている。そこに立ち止まって眺めると、はるか遠方にヨットの姿が見えるが、他には一艘の舟も見当たらない。
 静かである。

 しばらく浦風に身を晒しながら、手元のメモを取り出して読み返す。
《 飛行機乗りで三十にもなればもうお爺さんと云われます。三十以上のパイロットなんて多くはいません。大概二十代で戦死します。海軍パイロット界に入ったら絶対にぬけられません。死ぬまで御奉公です。
 好きでなったがパイロット 娑婆の五十を三十で繰らす 左様奈良 》
「心情」の部屋壁にかかれていた言葉を写し取ってきた言葉だ。

 はたして野口三千三が封印した戦時は?
 私の巡礼は、平和を希求する複雑に畳み込まれた野口の戦時と終戦直後を、薄紙を丁寧に剥いで風を通すことなのだろうか。
 いったいどこまでが許されるのだろう。
 もしかすると、ここからは踏み込んでは行けない、と停止がかかるのだろうか。
 私が目にしたものとは全く違う風景を見ていた。
 77年前に野口が立ったこの地で
「もうしばらく巡礼を続けさせていただきます」
 そっと胸にしまった二つ目の言葉である。

 明日は、8月15日。
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巡礼一休み……映画を見る『シン・ゴジラ』

2016年08月11日 07時26分02秒 | Weblog
 水曜日はレディース・デイ。
「映画がお安く見られますのよ」
 そこで、暑さをも顧みず、午後のいちばん気温の高い時間帯に、新宿ピカデリーに出かけた。
 会場に子供がいるのかと思いきや、全くゼロ。見回すと中高年夫婦、初老の男性、男性同士の若者、若い女性同士も見受けられた。
 この手の映画ははじめてなのだけれど、なかなかの見応えだった。というかシビアな内容で、終始考えさせられてしまった。
「まず、大震災が起こったら、もうどうにもならないし、いつでも死を覚悟しておけ、って感じ」
 なのである。

 防衛のために総力挙げて戦う自衛隊、日米安保の難しさ、時間との戦いのなかで謎の進化生物の生命体解析にかけるハグレもの学者たち、事に当たる官僚と政治家の力関係と駆け引き、etc。
 謎に満ちた静かなはじまりから、怪物の登場。そして上陸によって引き起こされる災害。
 一応は、生物による自然災害のようでそうではない。
 人類が人工的に産み落とした生物を超えた怪物。つまり、人災への対処の難しさを描いてゆく。

 テレビでもおなじみの男性俳優総出演の感あり。
 長谷川博己、竹野内豊、石原さとみ3名を軸にストリーは展開する。
 脇をかためる主な俳優38名中、女優は4名。
 それだけで硬派な内容であることを、事前に読んだプログラムでつかんでいた。が、それは、想像以上であった。
「ゴジラといっても、子供向きではないんだ!」
 そう気づくのに時間はあまりかからなかった。
 
 大都会・東京を舞台に虚構と現実をうまくリンクさせて、死んでいても死んでいない、死んでいないのに死んでいる、いやいや、もともと生命体でありながら生殖無しに次世代を次々とつくりだせるゴジラの姿は、そのままメルトダウンを起こして手に負えない原発そのものの姿なのだ。あの手この手で進化し、増殖を続ける核兵器でもあるのだ。
 ドキュメンタリー色をふんだんに塗り込めたエンターテイメント映画「シン(新・進)・ゴジラ」だった。

 ラスト、東京の街に悠然と立つゴジラを背に、内閣官房副長官役の長谷川博己の制御不能な核に対する不安な表情が印象的だった。
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巡礼……八月十五日を前に−3−

2016年08月05日 14時11分35秒 | Weblog
 本日、昨年からたずねたいと思っていた巡礼のひとつの地にようやく立つことができた。
『明治大学平和教育登戸研究所資料館』である。
 小田急線生田駅から歩くこと20分。
 まず難関は、登校路門から入るとすぐに出くわす急な登り坂である。
 ただし樹木が日光を遮ってくれるので涼しいことが救いである。
 坂を上がり切ったところにある「弥心(やごころ)神社(現・生田神社)」を右手に見て、さらに奥へとキャンパス内を進む。
 資料館は校内のいちばん奥まったところにひっそりと佇んでいる。
 館内は5つの部屋にわかれていて、秘密裏に研究されていた内容を分けて、展示している。
 各部屋で、ビデオ装置を操作して、15分くらいにまとめられた解説をきく。

 中でも話には聞いていた風船爆弾を小型化した展示物があり、使われた和紙を生紙の状態からこんにゃく糊で重ね合わせ、さらに弾力を持たせる加工を行ったものまで、行程ごとの紙に触れることができる。
 考え方も作り方もなかなかのもので、「風船」という名前からイメージする可愛らしさとは裏腹なものであることをしった。

「この地で、偽札つくりやら、スパイの道具やら、いろいろあるのだけれど、多いときには千人に近い日本人が研究・開発・製造に携わっていた」と思うと複雑な思いを抱かざるを得ない。
 香港から持ち込んだ紙幣印刷機は、終戦間際まで中国のお札を印刷し続けていたというから、驚きである。
 昨年から今年の春にかけて読んでいた『満州国演義』に描かれれていた陸軍特務機関の描写の大本を、ここで見ることになった感慨は深い。
 戦時中にもかかわらず、軍国少年、軍国少女たちは、一般から隔てられた多摩丘陵の木々のなかで、(ここがすごいことだけれど)極めて穏やかに働いていたという。
 現在は、明大の理工学部と農学部で学ぶ同年代の若者がキャンパス内を闊歩している。
「平和っていいなー」
 樹木に囲まれた敷地内は、程よく風が抜けて暑さをしのぐことができる。
「あの時代も、同じように風が吹き抜けていたのだろうか?」
 歩いてきた道ですれ違った若者の姿を思い出す。
 
 一時間以上かけて見て回った資料館を出て、倉庫跡(通称 弾薬庫)を見て、ヒマラヤ杉の並木が残されている場に佇んだのは、お昼近くだった。
「時世が変われば、掌を返すように、平和利用から兵器開発研究に転換するのは実に簡単なことなのだ」
 言葉は胸の奥にしまった。 
 
 実は、終戦間近に長野に疎開した登戸研究所も、終戦と同時に焼却命令が通達された「戦時ポスター」同様に、というかもっと切羽詰まった状態で、GHQの目に触れさせないためにさまざまなものを秘密裏に隠し、なきこととした経緯がある。
 今では不都合な真実(事実)を、展示公開している明大に敬意を表したい気持ちになった。(というのもこの大学で六年間、野口体操を体育授業で指導してきたことも、こうした気持ちにさせてくれたひとつの理由かもしれない。)

 横目で通り過ぎた弥心神社に帰りには立ち寄った。
 お宮の右手に立てられている句碑を読んでいると、当時を懸命に生きた若者たちの複雑な思いが伝わってくる。簡単に善し悪しを言うことができなくなってしまった自分に気づく。

《すぎし日は この丘にたち めぐり逢う》と刻まれている。
「すぎし日」とは、かつてこの研究所に勤めていたことを、誰にも語れなかった人々が、「墓場まで持って行こう」と胸の奥にしまい込んでいた記憶を、戦後數十年を経て再び丘の上に立ち、ようやく話し合うことがゆるされた、という気持ちを詠ったものだという。
 碑には「昭和六十三年建立」と彫られている。
 翌年六十四年(1989年)一月には昭和天皇が崩御され、昭和から平成へと元号はかわった。
 ちょうどその境界に立つ碑である。
 それを機に、研究所記憶の継承を希求する市民運動がおこり、登戸研究所資料館建設の道がひらかれていった、という。
 二十数年後の平成二十二年(2010年)に、この資料館は一般公開されることになった。

 明日は戦後七十一年目の八月六日である。
 改めて、合掌。
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