羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

「垂直」と「鉛直」の違い……野口体操で最も重要なこと

2017年01月09日 10時03分17秒 | Weblog
 『人間が人間であることの基礎感覚は、地球の中心との「繋がり感覚」である』
  野口三千三著 『野口体操 おもさに貞く』4頁より

 年があけて調べはじめたのは、「鉛直」と「垂直」いう言葉だった。
 この言葉を聞いたことがある、とこたえる人は少ない。
 まして使ったことがある、とこたえる人は殆どいない。

 すくなくとも野口体操を始めた1975年頃に、野口の話ことばとして「鉛直」と「垂直」の違いを聞いたのが、私にとっては、最初のことだった。
『「鉛直」は、地球上では絶対的な方向です。それに対して「垂直」は相対的な概念です。そして「鉛直線」とは糸や紐の先に鉛の玉をつり下げた時に出る直線のことです。だから「鉛直」なんです』
 
 それから40年、はじめて小学館『国語大辞典』を引いてみた。(なんと遅かったことよ!反省) 

「えんちょく(鉛直)」
1、鉛直線の示す方向と等しいこと。また、そのさま。
2、ある直線が、ある直線・平面に対して垂直であること。また、そのさま。
「えんちょくせん(鉛直線)」
1、物理学で、重力の方向を示す直線。すなわち、物体をつり下げた糸の示す方向の直線。水平面と垂直をなす直線。
2、一点からある直線。平面に対して垂直な方向に引いた直線。

「すいちょく(垂直)」
1、まっすぐに垂れていること。また、そのさま。
2、水平面・地平面に対して直角の方向を示すこと。また、そのさま。物体を糸でつった時、糸が示す縦の方向。重力の方向。鉛直。
 数学では(1)二つの直線が互いに九〇度で交わること。
     (2)一つの直線が一つの平面と交わりその平面に含まれその交点を通るすべての直線と九〇度で交わること。
     (3)二つの平面が交わり、一方が他方と九〇度で交わる直線を含むこと、をいう。

 なぜ、国語大辞典を引く選択だったのか、それにはわけがあった。
 この二つの言葉が、日本ではいつの頃から使われるようになったかを知りたかった。
 おそらく西周や福沢諭吉が、盛んに翻訳語をつくりだしたり使い出したりした明治期に違いない、と当てずっぽうに始めたことだった。

 国語大辞典には、その例文が挙げられている。

「鉛直」1、の意味では、『二人の女房』〈尾崎紅葉〉上・三「杉箸を鉛直に立てて遠くから測量して」
  『妄想』〈森鴎外〉「砂山の岨(そは)が松の根に縦横に縫われた、殆ど鉛直な、所々中窪に崩れた断面になってい(旧字)るので」

「鉛直」2、の意味では、『青年』〈森鴎外〉「権現前から登って来る道が、自分の辿って来た道鉛直に切る処に袖浦館はある」

「鉛直線」では、『浮世絵の曲線』〈寺田寅彦〉「全体の支柱となるからだの鉛直線に無理なく流れこんでいる」
 
「垂直」では『灰燼』〈森鴎外〉一三「お種さんは大きな麦藁帽の縁が垂直になる程傾いてい(旧)る」
      『歩兵操典—第四八』「床尾踵を右足尖の傍に置き銃身を概ね垂直に保つ」

 やはり思ったとおり、「鉛直」も「垂直」も明治の作家と近代兵術を取り入れた「歩兵操典」で、軍事で使用されているのだった。
 尾崎紅葉の場合は測量に使用されている。
 森鴎外の場合は、鉛直は地形の表現に使用され、垂直は人工のものの有様に使用されている。(因みに、「灰燼」という題がなんともやるせないが)ちゃんと、書き分けられている。
 
「垂直」という言葉、「歩兵操典」に使用された軍事用語だが、軍医として陸軍に所属していた鴎外が、「鉛直」と「垂直」を使い分けていたところに注目したい。

 多くの日本人にとって、正確に言うならば日本語を国語とし、さらに母語としても育てられた人々にとって、この二つの言葉は、「垂直」に集約されて使われいる、と言っても過言ではない。

 それでは英語ではどうなるのか。
「鉛直」vertical 意味:重り(錘)を糸でつり下げたときの糸が示す方向、すなわち重力の方向。水平面に対して垂直の方向。鉛直線 vertical line、plumb line とはその方向の直線のこと。
 *「測鉛」水深を図るときに使われる紐に鉛をつり下げる道具の意味でもあった。
 *「鉛」Plumb の語源は、ラテン語の「鉛」。垂直に きちんと といった意味である。

「垂直」vertical,perpendicular の数学においては、次のような使われ方である。
「垂直(すいちょく)」英: perpendicular であること、すなわち垂直性 (perpendicularity) は直角に交わる二つの直線の間の関係性を言う。この性質は関連するほかの幾何学的対象に対しても拡張される。
 ここまでくると「鉛直」と「垂直」の概念を持っているかどうかを、ネイティブの方に確かめる必要がありそうだ。

 日本語として使われたのは、いったいいつの頃か、と先ほども書いたが、『日本における近代物理学の受容と訳語選定』と『明治初期日本数学界における伝統数学と西洋数学の競争』をひも解いてみると、明治13年7月に東京数学会社が、「訳語会」をつくった、とある。西洋数学を日本語に翻訳する際に、数学用語を統一するための述語をつくりだすためである。
 物理学の述語に関しては、会津藩士だった山川家の山川健次郎、他、が中心になって「物理学訳語会」が、明治16年に活動を始めたとある。
 いずれにしても明治期の近代化を学術的におしすすめた日本人の熱意は、想像を絶するほどであったことが「鉛直」と「垂直」を調べることで伝わってくる。

 野口の『地球の中心との「繋がり感覚」』を、地球での鉛直線の性質で言ってみると、こんな風になる。
『地球上のあらゆる鉛直線は地球の中心の一点で交わる』
 このとき、重力の方向と一致することから
『物体を自由落下させたとき、物体が辿る経路は鉛直線に一致する』
 これが「おもさに貞く」という原点なのであろう。

 こうして調べてみると、野口の思考は、実に物理学的発想によっていることがわかる。
 つまり野口体操の理論“おもさを生かす基本感覚”は、近代物理学の基本概念から導き出されたことである、と言えるし、「おもさ」に注目し「鉛直」や「垂直」を厳密に分けた野口発想は、戦後体育の世界では、はじめてのことだと言っても過言ではないだろう、と私は思っている。

 この「鉛直」「鉛直方向」「地球の中心方向」といった一連のことばは、どれほど多く野口の口から発せられていただろう。レッスンのたびに、耳にたこができるほど聞かされていた。

 よくよくその経緯を思い返すと、野口がこれらの言葉と概念に極度なこだわりを見せるようになったのは、宇宙飛行士にTBSの秋山さんが選ばれて、無重力空間での体験を話すころからだったように記憶している。そしてその回数は頓に増えた。
 高田栄一さんを朝日カルチャーにお呼びして『蛇に親しみ 蛇に貞く』公開講座を行ったときのは一発触発寸前となったことがあった。
「自然はすべて曲線です」
 という高田さんに
「いや、そうでもない。直線だってあるんです」
 刀でスパッときったような直線をもつ貝殻を見せていた。
 この対立を起こしたのも、無重力による人体への影響、心理的変化、等々の研究が進み、多くの情報がもたらされてからの出来事だった。
 宇宙の無重力空間に対して、常に地球の中心に働いている力を動きの基本とし、その感覚を育てることが大切であると自信をもって強調するようになった時期に、私は野口体操を始めたのだった、と、今、振り返っている。

『野口体操 おもさに貞く』9頁には、次のようにまとめられている。
『今、西ドイツに住む長男一家とも、水平方向を指さしても方向が間違ってしまうが、地球の中心への重さ(思ひ)の方向なら間違うことなく確実に地球の中心で結ばれることを感ずる。妙なことに、いつでも一緒にいるような気がするのである。「地球上のすべての存在の究極のふるさとは地球の中心である」ー「地球感覚」とでも名づけたい、私にとって大切な感じ方なのである』

 最初に読んだ時には、「実感? ホントかな?」と思ったものだった。
 皆さまは、いかがですか。

 本日は、備忘録として書かせてもらいました。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

お漬けもの

2017年01月08日 08時19分14秒 | Weblog
 毎朝、日経新聞朝刊、昨年から始まっている『琥珀の夢』ー小説、鳥居信治郎と末裔 伊集院静 の連載を楽しみにして読んでいる。
 大枚をはたいて一等客船に乗り込んで、神戸港から小樽まで船旅をする主人公は、本日は横浜港に入港した。
 当時の日本、イギリス、中国の関係をさらりとした描写。
 明治の開国期における、軍事、貿易、異国とのかかわり、そして主人がカルチャーショックを受けながらも貪欲に、すべてを吸収していく姿がイキキと描かれている。

 読み終わって視線をずらすと、見出しの『なにを食べたか』の文字が飛び込んで来た。
 書いた方は「馬場あき子」さん。
 懐かしかった。
 90歳近くになられているが、筆の具合からお元気な様子がうかがえる。
 野口先生が存命のころ、朝日カルチャーセンターの「野口体操講座」を終えて住友ビルを出る折りに、入れ替わりに入っていらっしゃる馬場さんとすれ違うことがあった。
 普段着よりはちょっとだけよそゆきの和服をさらりと着こなして、楚々として歩かれる姿は、日本女性のしなやかな趣の名残でもあったような印象を受けていた。
 つい、振り向いて後ろ姿を追ってしまう失礼を、毎回のこと繰り返していたことを思い出しながら、エッセーを読み終えた。

「昭和20年(終戦の年)の大晦日の夜に何を食べたか」というインタビューを受けた時、全く何も思い出せなかった。そのことがそれ以来頭から離れなかった、という書き出しからはじまって、食料事情が戦時中よりもむしろ悪化したのは戦後のこと。そのあたりの事情が日常の出来事にのせて綴られている。
 戦後71年たった馬場家の大晦日の食卓には、『手作りならぬ料理が並ぶようになった。色彩豊かな御馳走を眺めながら、あの日の大晦日の切実な食への思いがよみがえり、食の原点を忘れてゆく今日に感慨無量である』
 結ばれていた。

 我が家の食卓にもこのところ、手作りに混じって小田原から取り寄せる御節が数種類ならぶようになった。
 以前は、野口先生のお宅にお届けすることもあって、ほとんどすべてを手作りし、その量も相当であった。
 20年間は続いていたことだが、その後、父も亡くなったこともあって、少しずつ手抜きが始まって久しい。
 
 今年は、取り寄せ分は変わらないが、手作りの分量を極力少なくしたので、残り御節もはやめに食べ終わっていた。
 とはいえ三ヶ日を過ぎて、もまだまだ残っている。
 手をかえ品をかえて、食べ残さないようにしているが、さすがに飽きてくる。
 そんなとき包みをあけるものがある。
 年末に送ってくださるお漬け物である。なかみは山東菜と沢庵の二種類。

 今年はとくに驚いた。去年もそうだったのかもしれないが、沢庵の太さと長さである。
 いちばん太いところはゆうに10センチはこえる。ということは漬け込む前の大根は、大きくて太いに違いない。
 正月4日の朝、まな板の上に半分にたたんでおいた沢庵をしみじみ眺めながら、ふと有田焼の皿を思い出した。磁器を窯に入れる前の大きさは、焼き上がった大きさを比べると信じられないくらい大きい。
「高温で焼かれるためにものすごく縮むんです」という説明を受けながら、焼く前と焼き上がった後の皿を見せてもらったことがあったからだ。そのとき焼き物の材料となる、有田の石をもらってきた。この石を砕くと微粉になる。
 いやいや、沢庵にもどろう。 
 ところが、母は沢庵を好まない。大嫌いである、という方は正確な現状を言いあらわしている。
 そこで一計を案じた。
 まず、山東菜を細かく刻む。そのあとに沢庵も細かく刻む。その刻んだものを一つの器に何気なく盛る。
 その上に鰹の削り節とすりごまをパラパラとかける。
 さらに、一滴二滴、神経を集中して、ほんの気持ちだけ醤油をたらす。
 このおつけものをいただくようになった当初から始めたこの策は、毎年のこと大成功なのである。
 白いご飯を口に運ぶ合間に、おつけものにも箸が伸びているの見届けて、抑え気味にほくそ笑む私である。

 思いは巡る。
「例年になく野菜が高かった去年にも、どれほどの漬けものをつくられるのだろう」
 お裾分けまで出来る量だから、想像がつかない。
 そして山東菜も沢庵も、気持ちいいほど切れ味がよいので、数珠つなぎになることはない。
 つまり新鮮な材料の状態で、漬け込まれたことが包丁と握る手に伝わる。

 いただいたその味はとても深い。
 板垣さん、ありがとうございます。
 ごちそうさまです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

初夢……賽は投げられた

2017年01月07日 09時15分52秒 | Weblog
 初夢でルビコン川を渡った。
 エッ、行ったことも、見たこともない川なのに。
 でもその川は多摩川のようだった。
 その脈絡の乱れが、夢なのである。

「賽は投げられた」
 夢の中で、何度もその言葉を繰り返して自分はカエサルか?
 いやいや自分は自分だと認識しながら
「賽は投げられた」
 舞台に立つ俳優が台詞をいうように繰り返している。

 目が覚めた。
 正月七日の早朝のことであった。

 川を渡らなければ破滅。
 ここは反逆の意味ではなく、投げられた賽の目はかえられない、と取ることにする。
 既に後戻りはできない、たとえ結果がどうなろうとも進しかない、と意味を取ろう。

 なんとも不思議な夢であった。
 というのも年末、日本橋三越で、一年に一度顔を合わせる江戸独楽作家の福島保さんとの会話が伏流となっている、と気づく。
「なんで賭け独楽は、一から順番に並んでいなんですか」
「エッ」
 福島さんは紳士だから、そんなこともご存じないの、という言葉は飲み込んでおられた。
「反対側と足してご覧なさい。どれも七になるんです」
 一の裏(向かい側)は六(向かい側)、二の裏(向かい側)は五、三の裏は四、どれも「七」である。
 なーるほど!

 偶数は「丁」
 奇数は「半」
 賭博は、二個の賽子を使うわけだから、八という数もあり得るんだ。
 などとあらぬ方向へと思いが遊んで、二人でニヤニヤ。
 独楽で丁半をやるとしたら、二個の独楽がいるってことなのね。

 はてさて「賽は投げられた」
 ルビコン川を渡る私は、今年、どこに向かおうとしているのか。
 何とも不思議な夢だった。が、もしや、不思議でもなんでもなく、かなり確立が高い今年の予想かもしれない。
 エッ
 野口先生に叛旗を翻すか?
 そんなことはあるまいぞ、あるまいぞ、あるまいぞ!

 丁度お時間となりました。
 五日おくれの初夢の一席で……。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

Web入稿のドキドキ感

2017年01月06日 14時55分59秒 | Weblog
 2016年度から始まった中央大学法学部の授業だが、2017年度も担当することになっている。
 
 なんとなく気が重かったが、本日、シラバスの入稿をすませた。
 1月16日が締め切りで、その後シラバス審査があるようだ。
 なかなか厳しい。

 大学によってシラバス入稿の手順が全く違って、作業にエネルギーを使う。
 エイヤッ、と気合いを入れてパソコンの前に座る。
 深く呼吸を繰り返し、背筋を伸ばして取りかかる。
 ログインしてページを次々と開いていく。
 いざ、書き込み画面にたどり着いて、案の定、不安になる。
 やっぱりはじめての場合はしかたがない。
 担当者に電話で教えてもらってから、恐る恐る作業に取りかかった。

 やってみればどうってことはなかったが、何故これほどにたじろいでしまうのだろう。
 かなり楽に入稿できる、今までにない使い勝手のいいサイトになっていたことに安堵した。

 こうなってみると、手書き入稿は出来なくなっているに違いない。
 ワープロからパソコンに変わるまえから、すでに手書きでは文章が浮かんでこなくなっていたのだから。
 今ではどうしても手書きでなければならない文書は、一度、パソコンで仕上げてから紙に書き付けるようにしている。
 思考と手と目は、完全にパソコン仕様になっている。
 先日、新聞で読んだのだが、今の若者はスマホに慣れてしまって、パソコンを使いこなせなくなっているのだという。キーボード操作にとまどうらしい。しかし、若いということはすぐに慣れるから救いがある。
 
 かくして時代は変わる。
 その変化に野口体操も何らかのアクションを起こさねばならないのか。

 さてもさても、無事に入稿完了できたことで気持ちがすっと楽になった。
 
 さて、次なる作文の推敲にかかりますかー。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

講演会+ワークッショプのお知らせ

2017年01月05日 08時17分16秒 | Weblog
 いよいよ2017年の幕開けです。
 さっそく今週の土曜日・7日から朝日カルチャーセンター「野口体操講座」1月〜3月期が始まります。
 
 さて、少し先になりますが、2月11日(土)『耳をすます』エッグツリーハウス講演会2「こころとからだに」のご紹介です。
 エッグツリーハウスは、《大切な人、身近な人を亡くした子ども、10代の子、若者、保護者のグリーフケア「たまごの時間」を行っている一般社団法人 The Egg Tree House 》の活動です。
 代表理事の西尾温文さんとは、野口三千三先生の教室で、一緒に体操を習っていた仲間であり知人です。

 こちらの活動は、現代日本でも求められる時代になってきた、と感慨深いものがあります。
 たとえば、思いがけず、突然に、あるいは長患いであっても愛する人を亡くした悲しみを癒してくれる場として、昔はお寺さんがありました。
 また、遠くの親戚より近くの他人といわれるような親しくしてくれる近所のおじいさんやおばあさん、おじさんやおばさんがいて、多少の鬱陶しさも感じつつ、それでも濃密な関係をつくりあげることができました。
 近年ではそうした付き合いが途絶えて、後悔や悲しみ、いたたまれなさを見守り、癒しの手をさしのべてくれる人も少なくなりました。
 
 そういえば、川合隼雄さん、養老孟司さんと丸の内「元気塾」で、鼎談をさせていただいたことがありました。
 その折の楽屋話で伺った話を思い出します。
 川合さんが
「臨床でいちばん難しいことは、クライアントが、今、本当にどん底に達してしるのかを見極めることなんです」
 口火をきられた。
 話しのつづきはこうです。
 おっしゃりたかったことは、落ち込んでいく途中で、しばしば「ここが底だ」と、見誤ることがあることが問題だということでした。
 人は中途半端なところで引き上げようとすると、もっとひどく落ち込むことがあって、大事なことは底の底で引き上げるタイミングをはかることだといったお話でした。
 つつきがあります。
 もっと大事なことは、独りでは無理だけれど、誰かが寄り添って手助けをすれば、人は必ず立ち直ることができる、ということなのです。

 さて、私の経験からも、野口先生を失った時、いつがいちばん苦しかったかというと、死が直前に迫ったときではなく、まだ猶予の時間があると感じられるときに、病に接し「先取りの悲嘆」にくれていたことでした。
 人の悲しみの深さは、人それぞれで、その時、その場、その人がどのような状態におかれているのかによって、全く違うあらわれをするようです。
 亡くなったあとに、買い物にいったスーパーマーケットで、先生が食べていらしたお煎餅をみつけた棚の前で、急にどっと涙が出てしまったこともありました。
 悲しみはどんな状況のときに、感情の底から沸き上ってくるのか、本人でさえ予想がつきません。
 そうしたときに周りに見守ってくれる人、ともに悲しんでくれる人がいてくださった。その中のお一人が西尾さんだったのですが……。
 大きな悲しみ、小さな悲しみ、細かな悲しみを繰り返していくうちに、いつしか時が過ぎて、自然に癒されていったような気がします。

 さて、この「エッグツリーハウス」、悲嘆に寄り添うグループは、これから大切な活動をしてくださるのだろう、と予想しています。
 このたび、臨床心理士、僧侶、看護士といった皆さまの地道な活動のお手伝いを、たった一回のことではありますが、させていただくことになりました。
 最後にもう一度紹介をさせていただきます。
 
 エッグツリーハウス 講演会2 こころとからだに「耳を澄ます」

 場所:小金井市 宮地楽器ホール 小ホール
 日時:2017年2月11日(土)講演会は10時〜14時30分 懇親会も企画されています。
 詳細・予約は、ホームページをご覧ください。

 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

散歩で見つけた「古民家カフェ」とひとり言

2017年01月04日 15時37分01秒 | Weblog
 午後から作文をしていた。
 大雑把に書き上げたところで、散歩に出かけた。
 まず、南口の氷川神社によるとテレビ朝日の中継車が三台の車を連ねて神社の境内に入って来た。
 何か中継があるのかな?

 そこから坂を下っていくと、高円寺の由来になった「高円寺」禅寺の裏門に出る。
「通り抜け禁」の札を横目に、木戸に手をかけると鍵はかかっていなかった。
 本堂を左手に歩いて参道へ。

 そこから道路を渡って、寺町へと向かう。
 次の道を左にとると、「ゆるーい時間を」と書かれた手書き看板を見つける。
「築80年の民家をカフェにしました」とある。
 お財布も携帯も持たずに、ふらりと出てしまったことを後悔する。
 NHKでやっている古民家カフェが、高円寺にあっても不思議でもなんでもない。
 お酒も用意されているらしい。
「ムムッ、我が家にも築91年の蔵があったわ!。そういえば一昨年の12月14日、忠臣蔵の討ち入りの日に亡くなった井上さんは、この蔵でコヒー店をやりたい、って言ってわね」
 本気で考えて、いろいろ調べたらしい。
「羽鳥さん、何が大変って、常にお湯を湧かしておかなければならないことなのよ」
 還暦をほんの少し前にして亡くなってしまうなんて、残念すぎる。
 永遠の喫茶店になってしまったのね、と歩きながらぼそぼそと話しかけながら、坂をのぼって寺町へと向かう。
 青梅街道まで出て、そこから引き返すことにした。

 前回、この当りを散歩したのはいつだったかしら。
 相当に前のことだったに違いない。
 町は変わる。
 人も変わる。
 時代の社会もかわる。

 そうそう、午前中に昔からの知り合いである鉱物愛好家であり業者もある男性から、久しぶりにご機嫌伺いの電話をいただいた。
「○○さんの消息を知ってる?」
「いいえ、この頃疎遠になってます」
「そう、僕の家のそばにあるアパートに住んでいたんだけど、その古アパートが取り壊しになるの。で、最近見かけなくなったからどこに引っ越したのかなぁ〜、とおもってるのよ」
「野口先生が亡くなってしばらくは連絡をとっていたけれど……、去年か一昨年か忘れてしまったけれど、町で見かけたけたの。でも、あまりの変貌ぶりに声がかけられなかったわ」
「そうだろう、やっぱりそうか。生活に困っている人が入るアパートなんだよね。僕も、声がかけられなかったんだー」

Oh,Miserables

 なんだか悲しかった。
 なんだか寂しかった。
 なんだか哀れだった。
 いい人だったのにー。


 思い出した話を打ち消すように、作文の推敲を頭のなかですることに切り替えた。
 青梅街道に出たところで、引き返した。

 そして坂を下って、古民家カフェの前をふたたび通りかかった。
 今度は、誰かを誘ってきてみよう。
 場所をしっかり頭にいれた。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

タクティール

2017年01月04日 05時35分41秒 | Weblog
 昨日、例年の通り親戚のものが年始に来てくれた。
 一人は、妻が若年生認知症を発症して10年。昨年施設に入居するまで自宅介護を続けていた。
「認知症家族の会」の会長をしていることもあって、相談にのってもらっている。

 さて、彼の母への接し方が実に見事だったことにはさすがだと思った。
 座敷に置いてある一人がけの椅子に腰掛けている母の前に座って、話しかける。
「おばちゃんの手は、きれいだね」
「えー、そんなことないわ、しわだらけよ」
「いやいやとってもきれいよ」
 母は腕まくりしてみせる。
「ほら、しわだらけでしょ」
「いやいや、きれいだよ」
 語尾をやさしく、ちょっと女ことばふうにして、手から腕へ自然に撫でていくのである。

 もともと穏やかな母だけれど、もっともっと、自然にいい雰囲気につつまれる。
「ゆっくりしていってね。気兼ねはいらないから」
「ゆっくりしてるよ」
「とにかくうちには年寄りがいなから」
 大笑い。
「おばちゃん、冗談が出るから大丈夫だわよ」
 
 ひとつだけシーンをあげると、こんな感じ。
 
 帰りがけには飾ってある独楽を囲んで、皆、お名残惜し気。
 玄関に座って帰っていく年始の客に手を振って見送る母の表情はかわいい。

 そのあともいつも以上に穏やかにすごしていた。
 夜はNHK eテレ、9時からの番組を嬉しそうに見ていた。
 古民家カフェを全国にたずねて、地元の人とつくるドラマ仕立てである。
 昨晩は「金沢」だった。
 全体ゆるーい雰囲気に和ませてもらった。

 そして就寝。
 とにかく、母にとって素敵な正月の一日となったようだ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ビックリ! 野口体操の世界制覇!?

2017年01月02日 11時27分00秒 | Weblog
 正月2日、イスラエルから電話をもらった。
 今年8月に二週間の予定で、イスラエルの舞踏ダンサーで身体系のさまざまな学びをしている女性が、野口体操を学ぶために来日するという話が始まっていた。
 今朝、概要が見えて、驚愕したところである。

 なんと一日6時間、二週間継続してパーソナルレッスンを受けたいという話だった。
 ある方に相談してみた。
「それはですね、舞踏のワークショップのやり方で、ある期間に人里離れた空間に缶詰状態にして、徹底的に集中レッスンを行うことを体験されていて、そのイメージで申し込まれているのではないでしょうか」
 奨学金をもらって来るのだと言う。
 そのためにどのくらいの費用が必要かを事前に知りたいという。
 そういわれても、スタジオ代や助手代や、指導者への謝礼は拘束時間のみなのか、といった問題が浮上する。
 どのように計算をするのだろう。
 まともに考えたら、相当に高額になるのは必須であろう。それでいいのかな?

 そもそも身体パフォーマンスを生業としている人は、はじめて野口体操を習ってもそこそこの動きができてしまう。
 そこそこ動けてしまうと、常識的な意味での誤解と錯覚で「理解できたー!」と思われることも問題である。
 野口体操には言葉の理解もあってこそ、本当の理解なのだから、そこをどのようにクリアするのか、ただし、そのことを真剣に問題にすると日本に数年以上に渡って住みながら学んでいただかないとならない。

 難しい。
 かといって最初から海外からのこのような申し出を排除してしまう、というのも世界を狭くすることになるわけ。
 思案のしどころではあるけれど、発想を変えていかないと、たちどころにこの話は終わってしまうことになる。

 理解とは何か。
 学ぶとは何か。
 からだでわかるとはどういうことなのか。

 伝える立場から言うと、
 理解してもらことは可能なのか。
 学ぶためにこちらが出来ることは何か。
 からだでわかってもらう手だてとはどうしたものか。
 野口体操のスタンダードなど、つくることができるのか。

 スパッと断りきれない何かがあるのは、なぜ?か。
 世界制覇を狙っているわけではないけれど、閉じてしまうのも何かなー。

 Oh my God!

 正月早々、天を仰いでいる私である。
 お力をお貸しください。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

エア・綱引き

2017年01月02日 05時28分00秒 | Weblog
 昨年末、12月24日が、朝日カルチャー土曜日クラス、2016年最後のレッスンだった。
 そのときのエピソードをひとつ。

『原初生命体としての人間』第一章 「体操による人間変革」ー『状態の「差異」を感覚する』に次のような記述がある。
 以前、某大学の体育の先生から質問を受けたことがある。
「からだのなかに差異をつくる、とか状態の差異ってなんですか!?」
 そのとき野口先生が例にひかれる「綱引き」からご説明を申し上げた。
「綱引きの話はわかるけれど、からだの動きの実感は、どうもねー、わかりませんがねー」
 次の授業開始の時間がせまったので、話はそこで立ち切れでしまった。

 さて、岩波現代文庫をお持ちの方は、19頁をお読みください。

《前略 大勢の若者が盛んな応援のもとに、歯をくいしばり満身の力をこめて綱を自分の方へ引こうとする。ところが、なかなか綱はこちらへきてくれない。いったいこれはどうしたことなのだろうか。理由はきわめて単純明快、相手もまた満身の力をこめて反対方向に同じくらいの力で引いているからである。この場合。たとえそこに働くエネルギーの総量がどれほど強大であったとしても、綱一本自由に動かすことができないのである。》

 24日のレッスンでは、参加している方を二手にわけて、教室を斜めに使って「エア・綱引き」を行った。
 皆さん、急にやる気満々。
 腕まくりする人、手につばを付ける人、四股を踏んで足腰の力をこめる人、それぞれに準備OK。
 綱があると思う。
 真ん中の位置に私は立つ。
「ヨーイ、はじめッ」
「よいしょ、よいしょ」
 猛烈な力で引っぱり合う。

「はい、では左側の方がまず一人、抜けてください」
 そしてまた、引っ張り合う。
 力の互角はあまり変化がない。
 一人抜け、二人抜け、三人抜け、……。
 ここで、人数が減った組が相手側にドンドン引き寄せられていくはずだった。
 ところがこれがエア・綱引きの弱点だった。
 ものすごい勢いで汗をしたたらせ、夢中で演じるものだから、片方に残った人のからだがどんどん後ろに引けてしまう。
 気迫負け状態である。
「なんだか綱が伸びてるー」
 ある人が言う。

 結局、実験は不成功に終わった。
《動きが成り立つための絶対必要条件はエネルギーの総量ではなくて、同一の系の中において「差異」があることなのである。綱引きにおいては相手が一人やめても引くことができるし、相手が全部やめていなくなれば、こちらは一人でも引くことができる。》同書

 このことは野口体操の動きの理論のいちばん核のことがらである。
 それをやってみたかったのだが、何が楽しいって、「綱引き」なのである。
 満身の力をこめて演じる綱引きを、片方のグループのメンバーが楽しみすぎてしまった、という落ちである。

 この話は「腕立て伏臥の腕屈伸」つまり「腕立て伏せ」のとき腕の筋肉の働き方に繋がっていく。
『極端な言い方をすれば、いい動きをいたければ、半分の筋肉は休んでいる』ことが肝要であると先生はおっしゃるわけだ。

『本気でその気になる』とは、野口先生の名言だが、エア状態ではなく、本物の綱を用意すべきであった、と反省仕切りの羽鳥であった。

「疲れたー。でも楽しかった」
 しかし、本末転倒であっても、全員を楽しさの渦に巻き込んだエア・綱引きは、忘れることのない記憶として刻まれたことだろう(笑)。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

野口先生の非常識なお雑煮が……

2017年01月01日 14時58分52秒 | Weblog
 昨年は、母にとって久しぶりにお餅のお雑煮が食べられるお正月となった。
 今まで我慢していた歯の治療を受けることができたからだった。
 ところが別の歯がぐらぐらになって、今回ばかりは徹底的に治療することができないので、現状を少しでも残して食べられる状態にする治療を受けてきた。
 固いものや食べにくいものを避けて、大事にするしかない。

 ここ数年来つづいてきた、お餅の代わりに乾麺を茹でて、お雑煮に入れていた状況にまいもどるのか、と思って溜息をついていた。
 ところが、ふと、思い出したことがある。
 野口先生のお雑煮である。
 これがなんともはや、常識ではありえない食べ物であった。
 ご説明いたします。
 まず、出汁は鶏肉でとって、いろいろな野菜を入れる。葉ものは白菜。このあたりまではまぁまぁ常識のうちだろう。
 ここからが問題1
 お餅は焼くことをせずに、ドロドロに近くなるまで、形が辛うじて残るくらいグツグツと煮込んでしまう。
 問題2
 味付けは醤油をたっぷり入れるので、濃い!

「エッ、先生、これを召し上がるんですか?」
 いささか躊躇った。
「そうよ、でもここからが真骨頂なの」
 柔らかく煮たお餅に、海苔を巻いて食するのである。
 するとどうだろう。
 しょっぱかった味が中和されて丁度良い加減なのである。
 つまりお雑煮の磯辺巻きである。
「はーっ」
 これがたった一度だけごちそうになった、野口先生自らお造りになったお雑煮である。
 別の意味で、天下一品!

 そのことを思い出して、今年の母のお雑煮をお餅にすることにした。
 まず、一切れを六等分に切る。少し大きめのアラレ状態。
 湯を多めに湧かして、グラグラ沸騰したところに、お餅を一個ずつ投入。
 火は強めで煮ていく。
 柔らかくなってくるとお餅が自然に浮き上がる。
 しかし、ここでもしばらく待つ。
 湯が白く濁りはじめたら、もう一呼吸置いて、ふたたび一切れずつ取り上げて器に盛る。
 その上から汁をかけ、野菜やしゃぶしゃぶ用の豚肉を入れる。

 上手くいきましたね。
 無理なく食べてもらいました。
 一件落着。

 三元日は、これでいこう!
 野口先生さまさま、でございます。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

夜回り……一石二鳥いや、一石三鳥……

2017年01月01日 10時49分50秒 | Weblog
 年末恒例の火の番・夜回りに参加した。
 12月25日から29日の5日間、夜8時に集まって二丁目と三丁目の二手に分かれて町内を回る。
 拍子木のあと「ひのよーじん(火の用心)」を声を張り上げて、30分ほどで一回りである。
 腹からしっかり声を出さないと、夜風にかき消される。
 最後の路地を曲がるころには、体全体がぽかぽかとあたたかくなっている。

 実は、11月半ばに風邪をひいて、声がまったく出なくなった。おさまった12月に入ってからも、声の戻りが芳しくなくこのままの状態が続いたらどうしたののか。年のせいだと諦めようと思ったりもした。
 野口先生の言葉を思い出した。
『「あきらめる(諦)」とは「明らかに見る」ということであり、「明らかにするために試みる」ということでもある。それは簡単に結論を出して止めてしまうことをしない」ということである。したがって、諦めることの本質は「簡単には諦めない」ということである。』

 おっしゃる通り。
 5日間、連日、参加し、「火の用心」を何度も繰り返しいい続けた結果、これが戻ってきたのである。

 思えばご町内を大きな声を張り上げながら歩く、ということは火の番だから怪しまれないわけで、一人で大声を上げて歩き回ったらまず110番されておまわりさんに、職務質問される。
 
 空の見えないせせこましい下町であっても、年末の夜の町の響きは天高く筒抜けるのである。
 単純な言葉を思い切り大きな声で繰り返すことは、声のリハビリとして最高であった。

 なにより同じ町会に属する方々とのお顔つなぎができました。
 これって一石三鳥かな!
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

謹賀新年

2017年01月01日 07時49分47秒 | Weblog
 晴れやかな新年の朝を迎えました。
 皆様の御健康と御多幸をお祈りいたします。

  平成二十九年元旦

  旧年を振り返ると、大波小波が寄せては返す一年でした。
  その時々に助けてくださる方がいらっしゃって、小波も大波も乗り越えてまいりました。
  おかげさまでございます。

  今年は、平成三十年(2018年)野口三千三先生の没後20年に向けての準備の年になりそうです。
 
  一年の計は元旦にあり

  いよいよ新しいことに取り組み始める酉年の幕開けを無事に迎えられたことに感謝しております。

        羽鳥 操

  
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

Air Mac EX の「ハード・リセット」

2016年12月25日 09時26分20秒 | Weblog
 先週のことだった。
 2011年1月から使っている、Air Mac EX 無線LANが突然に警告を出してきた。
 初期の段階で2点ほどの問題がみつかったので、インストールをするように、とあった。
 PCの右上にある扇のマークをみると、反転してなくて接続が出来なくなっている。
 クリックして中を確かめる。すると鍵をかけている自分のWi-hiの文字がみつからなかった。

 そこで、警告に従って手続きをした。
 ところが最後の段階で受け付けてくれない。
 しかたがない、Appleサポートに電話をかけたのが、夜の7時過ぎだった。
 指導に従って、いくつかの手順をふむ。
 途中で担当者が電話を切って、先方からの電話をまった。
 また音楽が流れている間、受話器をもって待ったこともあった。
 そして8時半過ぎにようやく回復した。
 その時は、その回線がAppleのフリーWi-fiだということに気がつかなかった。

 一度 PC をスリープ状態にして、1時間後にまた立ち上げた。
 またまたインターネット回線が途切れてしまっていた。
 翌朝になるのを待って、今度は So-net 安心サポートに電話をいれた。
 今度はそれほど時間はかからず、前日の晩に行ったと同じ作業を、私のPCに入ってきて操作をし開通した。
 この操作を「ハード・リセット」と呼ぶことを、おしえてくれた。
 さらに加えて、So-net の担当者は、このような状態が何度も起こるようならば、Air Mac EXの問題か、PCの問題かもしれないから、修理に持って行くように、とアドヴァイスをくれた。

 困惑!
 これから大学の秋学期末の成績と来年のシラバスを作成して入稿しなければならない。
 また、今週にはイスラエルの方と Skype でのやり取りをしなければならない。
 どうしよう!?(汗)

 もう一つの疑問。
 ハード・リセットのやり方は身に付いた。が、毎回、使用した回線は、AppleのフリーWi-fi だった。
 それでは、大切な学生の成績など、この回線を使ったら、誰でもが侵入できて読まれてしまうのだろうか。
 とにかくもう一度、Appleサポートに電話を入れた。

 すると今度は、順調に、短時間で根本解決した。
 何が悪かったのか?
 それは私の初期設定の段階で、パスワードを数字8文字にしていたことが原因だった。
 新しいパスワード、アルファベット+数字、8文字以上につくり直した。
 あらためて扇マークをクリックすると、鍵がかかった私自身の特徴ある文字がいちばん上にあることを確認した。

 実は、今度のAppleサポートの担当者は、シニア・アドバイザーだったことがわかった。
 いやはや担当者によって実力はまったく違う。
 そしてこの担当者も私の PC に入ってきた。
 つまり、実質、同意・了解のもとにハッカーされたわけだ。
 かんがえなくても恐いことだけど、自分で修復できない者にとっては、わらをもつかむ状態だから仕方がない。
 同じサポートアドバイザーの方に連絡する内線番号を、メールで受け取って、一安心するのだから思いは複雑である。

 かくして、インターネット回線が断たれたときの動揺と困惑を味わい、架空の時空で社会と繋がっている危うさを実感した二日間だった。

 いずれにしても玄関を開け放ったまま、家の中心部に入ってこられる状況のなかで暮らしている。
 思い返せば、1995年ころメールを使いはじめたが、当時のメル友は数人しかいない時代だった。
 その時は電話回線に直PCを繋いでいたのでメールをしていると電話が通じない。
 しばらくするとISDNになって、電話をデジタル回線に変更した。このときは電話もつかえるし、他にもう1回線使用できた。
 それからたいした時間もかからず、ADSLに代わった。そこで電話をデジタル回線からもとに戻した。
 しかし、11年前に自宅の建直しをした時に、光通信に変更するに当たって、自宅の四カ所で回線を繋げるようにHOME LAN 装置で、家中にケーブルを張り巡らせる工事をしてもらった。
 丁度、住まっている辺りで「光回線」が使用できるようになるという。そこでNTT北の営業担当者が工務店を通してやってきた。実費で工事をしてくれるということで、ついつい乗ってしまった。

 なのにAir Mac EXを使うようになって、HOME LAN 工事は一体なんだったのか、と溜息をついていた。
 自己責任だけれど、勝手にやっているのだけれど、なんともはや、インターネットに振り回されている我が人生である。

 さて、さて、最後は、愚痴になってしまった。
 ご免! なさい。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

イブのレッスン

2016年12月24日 10時16分34秒 | Weblog
 本日は、朝日カルチャーセンター年内最後のレッスンになります。
 クリスマス・イブというのもはじめてかもしれない。
 例年のこと最後は「ジングルベル」のフォークダンスでしめくくることが多かったが、クリスマスを過ぎて最後のレッスンの日もあった。
 三十年はたっているだろうか。
 ある日のこと、野口三千三先生が北欧風の色合いと柄の紐と金色の鈴を持って来てくださった。
 紐は、幅2センチ・長さ1メートル75センチ。鈴は直径1センチ5ミリで、数は40個。
「ジングルベルはオノマトペなのよ。しゃんしゃんしゃん、とかリンリンリンでね、ジングルっていうのは帯状のものに鈴を沢山つけた時になる擬音語だよ」

 一個のすずではあまりいい音には聞こえないが、40個の鈴が次々伝えられて時間差と音程の差で柔らかな・いい雰囲気を醸し出してくれる、と言葉を添えて紐と鈴を置いていかれた。
 さっそく教わった通り針と糸で鈴を縫い付けてみた。
「わ〜、やさしいいい音がするわー」
 この鈴を鳴らしてジングルベルのフォークダンスをするというわけだ。

 先日、今年度で終わる大学の2クラスと今年度から始まった1クラスで、しめのフォークダンスを楽しんだ。
 男女が組になって、クラスによっては男子同士だったり、女子同士だったり、男女の比率がまちまち。
 はじめのうちこそ照れながら踊っているけれど、エンドレスで踊り続けるうちに、楽しさが若さの身内に広がってくるのがにじみ出てくる。
 だんだん上手くなって、息を弾ませ、輝く笑顔(笑)で、拍手でおわる。

「日本の盆踊りと違って男女が向かい合って組む。だから戦後の体育教育のなかでフォークダンスを導入した方がいいと僕は思ったんです。男女が組めるなんて、戦前・戦中から思えば、夢のまた夢なんです。もっと言うと、最初から最後まで同じ人を踊らなければならないと苦痛だけれど、フォークダンスのいいところはどんどん人が代わっていくことなんです。ちょっとこの人とはあわないな〜、とおもっても少し我慢をすれば大好きな○○ちゃんがもうじきやってくるって、いう楽しみがあるんです」
 野口先生らしい!
 ちなみに師範学校の時代に陸上部と体操部の他に、合唱部にも所属しておられた、と伺ったことがある。
 一年に一度、女子師範の女子学生といっしょになって、混声合唱曲を歌う機会があるから、というのが入部の理由だったとか。近い将来に妻となる女性と一緒に歌ったとおっしゃる。で、その女性は声が美しく、ソロを歌うこともあった、と記憶を引き寄せて話してくださった。出来すぎた話のようだけれど、まんざらでもなさそう。真偽のほどは確かめられませんわ。

 さて、1945年敗戦と同時にやって来た、連合国軍 GHQ (CIE) の指導のもと、全面改編された学校体育指導要綱の話を学生にきいてもらって、その上で踊ってもらう意味は、今だからこそ大切なんじゃないか、と思う。
 
 今朝は、今年の授業で使っているうちに、細めの帯からはずれてしまった鈴一個を縫い付けて、一応、朝日カルチャーに持っていこうと思っている。
 踊るか、踊らないかは、皆さんの様子を見ながら、といったところだろうか。
 
 今年も暮れていきますのう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『苦海浄土』と「五木の子守唄」

2016年12月12日 12時31分50秒 | Weblog
 まだまだ夏の暑さが残っている頃、常に汗ばむような肌がすこしだけ乾きはじめた頃、雲の形が秋っぽくなりはじめた頃だったかしら。
 こんなにも記憶が曖昧になってしまうのは、年のせいだろうか。
 でも、からだの記憶として、しっかり残っている思いもある。

 昨日、12月11日、日曜日の午後のこと。
 1140頁(『神々の村 ー『苦海浄土』第二部 二〇〇六年、「解説」より)に、とうとう到達した。
 藤原書店版『苦海浄土』全三巻。“辞書か” と見まがう厚みの最後のページである。

 最近、書物を手に抱いて行う儀式は、カバーを取りはずして、むき出しになった本の重さを量ること。
 真っ白な表紙の手触りは、多少のザラツキがあるものの柔らかい。
 はじめから言ってしまおう。
 その柔らかさは、読み進むうちに、しだいしだいに、もっともっと柔らかさの度合いを増していったのだった、と。

 長いこと、避けてきた本である。
 手元に届いて、たじろいで……おそるおそるページをめくる指先に “躊躇い” という文字がしっかりと刻まれていた。
 ところが目次を開いて、驚いた。
 目に飛び込む文字がことのほかやさしい。

 次に地図を見て、水俣の場所を確認する。
……不知火海 天草諸島 特に大きな文字で記されている風光明媚であろう海と島々を想い浮かべる……

 地図の左のページには『第一章 椿の海』
 その下に、ごく小さな文字で《繋がぬ沖の捨小舟 生死の苦海果てもなし》
 目が点になる。

 これはゆっくり読むことにしよう、と決めながらも、はじめのうちはドンドンと読み進めてしまった。
 かつてテレビのニュースで目にしたことがある水俣病の悲惨な姿を、記憶の底から引っ張り上げながら。
 しかし、著者の石牟礼道子さんの記述は、その映像よりも凄まじく、情け容赦なく、ことこまかに病状・病体を描き出す。
 しかし、情け容赦ない言説の裏側に、そこはかとなくただよう馥郁とした言霊が、一言一言、臓腑にしみるのである。
 海を描き、陸を描き、山を描き、人々の暮らしを描き、闘いを描き、朝を描き、昼を描き、夜を描く。
 都会のビル街に吹く師走の風を描き、荻窪の住宅地の空気とそこに暮らす人々とのやり取りを描く。
 ノンフィクションであるのか、小説であるのか、詩であるのか、そんなことはどちらでもよい。
 時間も空間も越境して、行きつ戻りつ描き出される「水俣」に、読み手の魂は、取り込まれてしまうのである。

 ある時から読むスピードがぐんと落ちた。
 浄土はこの本のなかにも存在するのだ気づき、紡ぎ出される言葉の美しさに救われながら、ゆっくりと向き合うことになった。

 人の世は永くして はからぬ春とおもへども はかなき夢となりにけり
 あつき涙のまごころを みたまの前に捧げつつ おもかげしのぶもかなしけれ 
 しかはあれどもみ仏に 救われてゆく身にあらば 思ひわずらふこともなく
 とこしえかけて安からむ 
 南無大師遍昭尊

 白装束を身にまとって、御詠歌を唱え、大阪厚生年金会館で開催されるチッソの株主総会会場へと入場する巡礼団。
 午前十一時前に中央座席に陣取った時、異様な緊張感が立ちのぼってくる、という記述。
 それから繰り広げられる一代絵巻。現代と前近代が衝突する。東大閥と無学の徒が衝突する。
 なんとなく植え付けられていた私のなかの価値が逆転する

「文明ってなんだ」
「文化ってなんだ」
「便利さってなんだ」
「現代の暮らしの危うさと、知らぬうちに浸ってしまっている罪深さの上に成り立つ都会暮らしってなんだ」

 水俣の人々のからだのそこから、血を吐くように、肉を殺ぐようにして発せられる方言の凄さが、読者の肉を裂き、血を逆流させる。
 何を上手く言おうが言うまいが、株主総会の舞台にあがっている会社側の人間の言葉の空疎さが際立つ。

 株主総会が終わった次の日、巡礼団は高野山に登った、とある。
『「昨日は、狂うたなあ、みんな」誰の声だったか、大きくはない、微笑を含んだ声が冷気の中にした。「ーーほんに……。思う存分、狂うた……」澄んだ細い笑い声があがり、すぐに消えた。いつものおしゃべりは出ない。ゆるやかな山坂道だった。彼女たちの伏し目がちなの表情が、弥勒菩薩さながらにふかぶかとしていたのが、今なお忘れがたい。』

 私は、腰掛けていた椅子からズレ落ちるように、畳の上にひたひたと座り込んでしまった。
 溢れる涙を止めることができなかった。
 にじんだ目に、障子から差し込む日差しが揺れながら秋になったことを知らせてくれた。

 その日から、季節はあっという間に冬に近づいた。
 読書は遅々として進まなくなった。1頁読むのがやっとの日が続いた。
 そんなある日、「舟非人(ふなかんじん」という文字に、ふと心が止まった。
 それからもう少し時間が過ぎて、今度は「花非人」という文字に、心が止まった。
 その瞬間に、からだの奥底からメロディーが立ちのぼって、歌が聞こえてくる。
《おどまかんじんかんじん あん人たちゃよかしゃ》
「五木の子守唄だ」
 ここで歌詞の記憶が途切れた。
 いったいいつ覚えた歌だろう。
 幼稚園に通い始める前ではなかったか。
 誰が教えてくれたのか。
 遡っても遡っても、影一つあらわれない。

 あの涙は何だったのか、と罪深さのページを思い浮かべながらも、こんな時はついついGoogleを頼ってしまう。
「かんじん」とは「非人」だったのだ。
 もっと辿ると、源平の合戦で敗れた平家一族が、熊本県五木村に定着し、源氏は梶原・土肥の武者を彼らの行動を監視させるために送り込んだのが始まりという。かんじんとは「勧進」で、小作人のことを指すらしい。つまり支配者層の地主に対して農奴、非差別民のこと、とあった。
《おどまかんじんかんじん あん人たちゃよかしゃ よかしゃおび(帯) よかしゃきもん(着物)》
 あん人たちは地主たちで、よき帯をしめよき着物を着ている、という歌詞と知った。

 さらに昭和28年(1950)から10年間、NHKが古関裕而編曲の「五木の子守唄」を放送し、日本の代表的な民謡として定着したとあった。ハモンドオルガンの演奏だったそうだ。これを聞いたような気がするのは、錯覚か。錯覚だとしても聞いたにちがいない。

 なるほど、幼児期に無意識に覚える歌というものがあるのだ!
 その一つが「五木の子守唄」だった。
 意味もわからず「かんじん」という音としての言葉が、メロディーとともに、からだの奥底にきざまれていた。

 本に戻る。
『「あの子はなあ、餓鬼のごたる姿になっても、死ぬ前の日に桜の花の見えてなあ。手足を持たん虫の死ぬ時のように、這うて出て、この世の名残りに花を見て……うつくしかな、ち。かなわぬ口しとって、ああ、かかしゃん、シャクラの花ち、いうて」花非人(はなかんじん)になって。わが身の水俣病には飽き飽きしたが、この世の花のあわれで……。このような雨雪の晩には、わが煩悩の始末のできません。魂の無かもんどもよといわれよる子たちも、年月というものだけを喰いました』

 逆転が起こるのだ。
 非差別民として生かされた花非人(はなかんじん)が、告発するのである。
 どちらが非人(かんじん)なのか? 
 美しい海、豊かな海、生命の海、命の母体としての海。その海と溶け合って、自然と折り合いをつけて、ひっそりと楚々として、真の信仰心を日常に育てた日々のどこがいけなかったのか。

「平家にあらずんば、人にあらず」
 おごる平家も久しからず、うたわれた落人の末路を重ねると、この『苦海浄土』で使われている“かんじん”という言葉の逆説を思わずにはいられない。

 
「舟非人」も「花非人」もおごることはいっさいせずに鬼籍に入っていかれた。
 しかし、非人になることで、現代文明を告発し、国策としてのチッソを訴えることをした。
 その思いを背負った巡礼団の人々の叫び雄叫びは非人の声なのだ。

 ふと憶う。
「五木の子守唄」を敗戦後の日本に流行らせようと突き動かした本心は、一体なんだったのだろう。
 太平洋戦争に負けた日本は、連合国に対しての平家か。勧進(非人)か。米国の農奴か。
 のっぴきならない、言葉を、私はここに書き付けてしまった。しまったッ!

 しかし、肉体に受けた傷の疼きとともに、「五木の子守唄」を日本民謡として復活させたところに、昭和20年代、新しい憲法を受け入れた大人の屈折した良心を見るというのは、穿ち過ぎの見方だろうか。

 日本が辿ってきた近代、現代。
 自らが望んだわけでもなしに、そこに生まれてしまった「舟非人」「花非人」と呼ばれた“存在”そのもが、人間の尊厳を復権させるために、告発を許された選ばれた人々にちがいない。
 これほどの書物が、生まれたその理由もそこにある。

 価値を逆転させて世界を見た時、まったく違った風景に出会う。
 なんとやさしく、なんとうつくしく、なんと厳しい一冊の本だろう。
 
 できることなら、泉下の客となってまだ日も浅い平幹二朗をこの世に甦られて、この一冊を朗読んでもらいたい、とあらぬことを憶う。
 だって、原発事故も、沖縄も、オリンピック前のみっともなさも、あやふやになりそうな豊洲問題も、根っこはいっしょのような気がしてならないから。
 とんでもない一冊である。
 頭がクラクラしている。
 そんな状態でも、文責は我にあり、言いたいところだが……。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加