羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

乱調もまたリズム

2017年06月28日 09時18分06秒 | Weblog
 今朝、母の鏡台を粗大ゴミに出した。
 雨に濡れるのがかわいそうな気がして、濡れないように工夫をした。
 修復不可能なほど壊れているのだけれど、母の思いを想像した。

「羽鳥さんね」
 二階に上がって、体操をはじめていた。
 道路から男性の声が聞こえた。
 階下におりてみると、鏡台はなくなっていた。
 再び、二階に上がって体操を始めようとしたが、こみ上げるものがあって、部屋の柱に手を当て、さらに手の甲に額を乗せて、じっと堪えた。
 しかし、悲しさに、しばし涙す。

 これではいけない、とばかりに、吹っ切るように体操を再開した。
 まず「やすらぎの動き」の姿勢をとった。
 思い切り息を吐く。それを繰り返すうちに、からだの奥が静かになってきた。
「しばらく深い呼吸ができなかった。なのに……」
 何ヶ月、いや、何年ぶりだろうか。
 深い呼吸とともに、体操が続けられた。

“物の怪”とは、よくいったものだ。
 ひとつ、母の代わりにしょっていたこだわりが、スーッとからだから抜けてくれたような気がした。

 まだまだ新たな生活のリズムはつかめていない。
 夜中に目覚めて体操をしたり、昼間に睡魔に襲われそうになったり、夜テレビを見ているといつの間にか居眠りをしたり、それなのにどんなに遅く寝ても陽が登る時間には目が醒めてしまう。

“ぐっすり眠れた感”がほしいなー。

 まぁ、ぼちぼちですね。
 慌てずにリズムをつかんでいきたい、と理屈で思うものの、ちょっと焦りっぽい自分を感じている。
 無意識の緊張から、解放されるのは、いつのことだろう。

 先日、母を訪ねた。
「今朝、はじめて私に笑ってくれました」
 介護職員の女性が嬉しそうに話してくれた。
 母の顔をみる。
 目と頬のあたりに、入院以前の表情の片鱗をみつけた。

 話をしているうちに、最近ではめっきり少なくなったという服を脱ぐスイッチが入った。
「あら、鉄火場の女みたいね」
「ほほほッ」
 笑ってくれた。
「入れ墨はないけれどね」
 肩脱ぎしている腕を袖に通している。

 彼女もまた施設でのリズムがつかめるには、時間が必要だ。

 生きているものには、自ずからのリズムがある。
 生きているから、生命のリズムが生まれる。

 そして、乱調もまたリズムのうちだ!
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

立ち話

2017年06月25日 07時47分05秒 | Weblog
 母の施設まで、徒歩13分ほどである。
 ほぼ3週間が過ぎて、通う道も定まってきた。
 先日、大きなトート・バックに持参するものを目一杯詰めて左肩から下げ、右手にも大きな袋を下げて、いつもの道をテクテクと歩いていた。

 太陽は真夏を思わせる。気温はジリジリとあがっている。
 日傘はさせない。
 こんな時には大きな麦わら帽子をかぶるのが、私の慣わしとなって久しい。
 畑仕事にでも出かける出で立ちである。

 気づくと2メーターくらい前を、犬を連れて散歩中の女性が歩いている。
「お久しぶり」
 声をかけると振り返って
「ほんとうに」
 にっこりと笑ってくれた。

 どちらへ、と言葉には出さず、少々怪訝な表情を一瞬みせた。
「母がこの先の施設に入所して、届け物なの」
 それがキッカケで話がはじまった。

 彼女は私と同い年。
 30年以上も前に、二人のお嬢さんが我が家にピアノを習いに通っていた。
 時々、こうして会うと、なんとなく世間話をする間柄である。

「母を家に引き取って5年、施設に入ってもらって5年、ざっと10年介護したの。でも引き取ってすぐに、母におむつを当てたのよ。そしたら“こんなことなら死にたい!”っていわれてしまって……」

 しばらく間をおいて
「介護だけに専念しようと思ったんですけどねー」
 周りの人たちに画廊の仕事だけは続けるようにすすめられ、土曜と日曜の二日間だけ続けたそうだ。
「それはそれでよかったんですけど。死にたい、繰り返し言われると……」
 仕事も介護も、どちらか選択を迫られたときの、何とも言いようのない切なさはよくわかる。

 とくに親におむつを当てる判断は苦しいし、それ以上に当てられることへの抵抗感はいかばかりか。
「私もそろそろ母におむつをしなければ、と思いはじめた矢先に母の入院と施設からの入所のすすめの電話をもらったの」

 そういえば『母に襁褓をあてるとき』なんて題の本があったことを思い出す。
 著者は、最後は都知事の地位に就いたものの、晩節を汚した政治家だったなぁ〜。
 いやいやまだお元気でご存命のようだ。失礼。

 彼女は話し続けた。
「施設に入って亡くなる頃には、まったく食事をとらなくなって、自然に衰えて静かに逝ってくれて」
「そうでしたか」

 昨今、友人や知人、ある年齢の方との会話内容は、親の介護話であることが増えた。
 それほど親しい関係でなくても、道で偶然に出会って、さらりと話をかわすことが、どれほど気持ちを落ち着かせ、気持ちを楽にさせてくれるかが、わかってきた。

 この街に住んで半世紀。
 両親を知っている何人もの方と、こうして立ち話をする機会がある。
 声をかけたり、かけられたり、世間話を少し超えた会話は、萎えている心に束の間の安らぎをもたらしてくれる。そして元気をもらっている。
 
 この日も、お互いに、黙礼して、別れた。
 日差しが燦々とふりそそぐ道を、私は、ふたたび歩きはじめた。
 環状七号線はすぐそこだった。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

この数字、どう思われます?

2017年06月24日 09時22分06秒 | Weblog
 いよいよ東京都議会議員選挙の投票用紙が郵送された。
 ニュースでもさまざまな角度から報道されている。

 お恥ずかしいことだが、今回、私にとってはじめて、と言ってもいいほどに自分の問題を考えて、投票に行きたいと思った。
 やはり老後のことが、具体性を帯びて迫ってきたからだ。

 たとえば実父が亡くなったのが80歳だった。
 現在68歳の私には、80歳まではあと12年しか残されていなしい。
 その前に命を落とすこともあるだろうし、それ以上に長生きするかもしれない。
 それはわからない。
 が、しかし、80歳まであと12年という数字は、ちょっとショックだった。

 それもこれも母を施設にあずかってもらい、これまで滞っていた部屋の整理や掃除や洗濯、とりわけ母の寝具や衣類の整理とすることで、気持ちがすっきりしたところで、たどり着いた自分の老後問題だった。
 
 さて、選挙投票用紙と前後して、入所している特別養護老人ホームの「平成29年度 家族懇談会」議事録も郵送された。
 当日、出席してメモはとってあった。
 改めてこの数字を読んだ。

1) 特養の1割が介護職不足で空きの状態である。

2) 有効求人倍率 全国全業種平均1・45倍に対し、都内の介護職に関しては6・4倍にのぼる。
   現時点で都内では、1万5千人の介護人材不足。
   2025年までに3万6千人の確保が急がれる。
   ※人員確保には、派遣・人材紹介が手段となり、人の確保に大きなお金が必要となるっている。

3) 都内特養養において施設独自の配置基準を満たしていない施設が62・1%。
   その状態が6ヶ月以上続いている施設も65・4%にのぼる。

4) 23区内の孤独死 1日13人

5) 介護殺人の背景 2010年〜2014年の5年間に44件発生し
   加害者80%⇒介護疲れ 45%⇒深刻な不眠 25%⇒複数の介護 
   70%⇒男性(息子・夫)

6) 中学校・高等学校の教科書に「介護現場は重労働で低賃金」と堂々と記載されている。

7) 2015年の介護報酬の大幅引き下げにより、特養でも▲4〜5%報酬減。

******

 母が入所している施設は、かなり大きな規模である。

 先を読むと次のような記述があった。
 この施設では、202床を国の基準では、68名のスタッフとされているところ、112名(44名多く)雇用し、常勤換算としては100名超えを維持している、とあった。

 その他、さまざまな問題を抱えているが、近隣の施設に比べて恵まれているらしい。
 今後も安定経営につとめたい、と記述もあった。

 なんというか、自分に呆れている。
 安定経営などまったく考慮せず、どこよりも近いという条件で希望し、運良く入所させてもらえた。
 これまで有料老人ホームもいくつか見学し、在宅での特養並のサービス等々も検討した。
 しかし、どれも条件がいまいちで、落ち着いた先がこの特別養護老人ホームであった。

 このタイミングで、この施設に入所できたのは、きっと神様の計らいに違いない。
 開催された一年に一度の「家族懇談会」にも出席できるタイミングだったことも幸いしている。

 こうして議事録の数字を読んでみると、今までにまして都民としての自分を意識する契機となった。
 ちゃんと考えて投票にいきたい、と殊勝な私である。

 ちょっと、苦笑いであります。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

細やかな心遣い……カイロス的時間とクロノス的時間のはざまで

2017年06月23日 14時22分57秒 | Weblog
 昨日、7日ぶりに母を訪ねた。
 私のことは忘れられているかもしれない、とドキドキしながら5階のエレベーターをおりた。
 母にお近づくと「いつ来たの」と自然に声をかけてくれた。
 ホッとした瞬間だった。
「少しずつ落ち着いていらっしゃいましたよ」
 その言葉でさらにホッとした。
 
 入所時から、部屋には動くと “ ピポピポピポ ” と、かなりけたたましく反応するセンサーの敷物があったが、それを取り外して、外に出たときだけ知らせるためのドアチャイムがつけられた。昼間でも結構よく聞こえるし、よい音色なのだ。
「これからの季節、風鈴みたいですね」
 担当の方が話しかけてくれた。
 つまり、部屋の中では危険はないので自由に動いていい、という判断らしい。

 ここまでが昨日のこと。
 ここからが今日のこと。

 衣類の入れ替え、長年使っていた枕を用意し、自宅から茶葉と急須を持って行くことが主な仕事だった。

 10時ごろに、デンタルクリニックの訪問診療で、歯のクリーニングをしてもらったあとの時刻に到着した。
 ちょうど皆さんにそれぞれの好みの飲み物を配る時間で、母には50年以上も日常的に呑んでいる狭山茶を入れてくれた。
 母と話していると、日本茶のよい香りが漂ってきた。
 こんなにいい香りがするとは、今日の今日まで気づかなかったことに驚いた私だった。
 こんなふうに一日に一回でも入れてもらえたら、母にとってはありがたいことだと思う。
 スタッフの方々の心遣いに感謝しかない。

 いつもは私がお茶を入れていた。にもかかわらず、香りに気づいて新鮮だった。
 これも私が得られた「レスパイト・ケア(施設入所することによって、介護者が自分の時間を持つ)」の賜物であろうか。
 これは多くのスタッフに支えられていることを、現場で身にしみた瞬間だった。

 先日行われた施設の「懇談会」でも話題になっていたことがる。
 介護は、サービスかホスピタリティーか。
 そのことを考えながら、講習等々も受けているという。
 またKさんからのメールにもあったが、『本来ケアの本質は、その人の固有の時間、歴史時間(カイロス的時間)を共有する事にあると思いますが、制度化された介護業務はどうしても定量化された時間管理(クロノス的時間)の中で業務が遂行されていきます。施設介護の限界のように思います』

 限界の中でも、50年以上呑み続けたお茶を入れてくれる、ということは身体記憶のカイロス的時間を過ごさせてもらった、と言える。
 母は、すぐにも呑みたそうだった。
 言葉には出さなかったが、香りが懐かしかったかもしれない。
 じれったそうに冷めるのを待った。
 そして、表情も変えずに、お茶をすすっていた。
 5月20日以来、久しぶりの我が家のお茶である。

 他にも、ほぼ一週間過ぎたが、床に寝具をおろして就寝するということで、少しずつ落ち着きはじめたらしい。
 ベットではなく布団を敷いて休む、という90年の習慣は、からだの芯にしっかり刻まれている固有の時間(カイロス的)、そのものなのだ。
 
 深夜の状況はわからないが、朝・昼・夜の介護現場を垣間みながら、たくさん学ばせてもらっている。
 徐々にです。
 ぼちぼちです。
 日常の些細なことは、けっして些細なことではないんですねー。

 ひたすら、ありがとうございます。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

高円寺にも空があった! レスパイト・ケアの賜物

2017年06月21日 08時25分25秒 | Weblog
 高円寺駅の北口改札を出て、交番前にある信号機を渡ろうとしたその瞬間、信号は赤色に変わった。
「アラッ、残念ッ!」
 舌打ちをするようなはしたない行動まではとらないが、帰宅時間に追われている私は、からだの奥にキュッと締め付ける違和感が走るのを覚えていた。

 つい最近のこと、そうした状況に何事も感じないで、ゆったりした気分で立ち止まった。
 それだけではない、なんとはなしに西北の空を見上げていた。
 ビルの最上階のむこうにひろがる淡いブルーの空に、薄い雲が薄紅色に染まって細く長くたなびいていた。
 住宅密集地のこの街でも、何かを忘れさせてくれる夕焼け空が見えるではないか。

 このところ何年間も、真っ直ぐ目の前をみてセカセカと帰宅する毎日だった、と気づいた。
 まだ二週間くらいのことだが、ほぼ同じ時間に帰宅している。
 しかし、気分は全く違う。
 気持ちが楽になった。
 帰宅してすぐ、母をトイレに連れて行かなくていい、という安堵感。
 なんでこんなホッと出来るのだろう。

 Kさんから再び内容の濃いメールをいただいた。
 読みながら納得である。
 刮目である。
 
 書かれていた「レスパイト・ケア」とはこの体験なのだろう、と思った。

 さて、懸案事項のうちの一つ、母の寝具の片付けを行った。
 本日、6月21日が夏至である。その前日、つまり昨日6月20日は、昼間の時間がいちばん長い夏至と同じだけあるのだとニュースで耳にした。
 晴天の上、気温も夏日とあっては、この日に片付けをするのがいちばん。
 寝具を干し、布団カバーをその他を洗濯した。干しきれないほどの洗濯物に寝具類をなんとか干し切った。

 夕方になっても明るく、気温は高かいままだった。
 4時になるのを待って、冷房除湿を入れた部屋に取り込みそのまま放置して一時間待つ。
 十畳の部屋が足の踏み場もない状態を見ながら、野口先生から教えられた言葉を思い出す。
「宮本武蔵だ! 何人いても切るのは一人づつよ」
 野口体操で鍛えたからだである。軽々と易々と押し入れにしまい込んだ。
 ふっくらとした寝具の山で、押し入れは飽和状態であった。
 しかし、圧縮してしまう気持ちになれなかったのである。

 そしてもっと気持ちに変化が起きてきた。
 これまでにかなりの数のものを整理し捨てた。 
 家のなかのあちこちを片付けている。
 まだ躊躇っていたものもある。
 その一つに、蔵に入っている桐の箪笥のうち、すでに空にしてあった一竿を粗大ゴミに出そうと思っていたがとりやめにした。
 ハンガーを吊るすスペースがある箪笥だ。数少なく残しクリーニングし、ハンガーにかかった状態でもどってきている母の服を、この箪笥にしまっておこう。
 もう着ることはないかもしれない。
 だととしても箪笥がそこにあって邪魔になるわけではないから、残す決心がついた。
“寝具を丁寧に片付けた”という行為の向こうから、母からのメッセージが届いた。

「私は、まだ、生きているのよ」

 デイ・ケアサービスも、シュート・ステイも自宅で受けられる理学療法士の方のリハビリも、頑固に嫌がって拒否してきた母にとっては、まったく納得できず不本意ながら生きる時間かもしれない。

 私は、限界だった。
 その現実が、実感として感じられた瞬間であった。

 祖父から母へ送られた三竿の桐箪笥、洋材の小振りの箪笥、シンガーミシンは、やはり捨てることは出来ない。
 修繕不可能なほどに壊れてしまった鏡台だけは、いかんともし難い。
 28日に粗大ゴミとして出すことになっている。

 さて、「今は、捨てない」という選択ができたのも、レスパイト・ケア、つまり「施設に入所することによって、介護者が自分の時間を持つこと」のお蔭のような気がしている。
「今からではもう遅い、しかし、今からでも遅くはない」野口のことばだ。

 負担に感じはじめていたレッスンや授業から、負担感が失せた。
 日常の暮らしの時間が、ゆったり流れてくれるようになった。
 それもこれもレスパイト・ケアの賜物であろう。

 そして
「高円寺にも空があった!」

 その気づきもまた……。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

内田樹氏 必読 必見 ご紹介

2017年06月20日 09時33分32秒 | Weblog
 内田樹さんの『「天皇主義者」宣言のわけ 契機は「お言葉」動画も紹介します。
 6月17日「報道特集」内田氏の必見インタビューです。
《国会審議は意味がないんだ!ともっていこうとしている 立法府不要論が出て来るのは時間の問題》
 ズバリ発言です。
 
 ぜひ、記事をお読みいただき、動画も短いですからご覧ください。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

迷って、迷って、迷って……迷いながらやっていること

2017年06月18日 07時31分43秒 | Weblog
 母と娘の一対一の濃密な依存関係から、多くの方々に振り分けられた薄い依存関係に移行して、二週間が過ぎた。
 6月15日木曜日に母を訪ねたときは、しっかり服を着て、静かに過ごしていた。
 当座、私がやらなければならないことは、おおむね終わっていると感じながら徒歩で帰宅した。
 翌、金曜日からしばらくは、施設に通う予定はない。

 そこで自分の体力をつけることと自宅の整理に取りかかっている。
 
 まず、今まで通りに料理をするようにしている。
 いちばん欠かせないのは、酢の物である。
1、トマトを湯向きにして種を取りスライスしたタマネギと一緒に、酢・砂糖・酒に漬けこむ。日持ちもしてさっぱりして美味。
2、新生姜が出て来たので、これは甘酢漬けにして食す。
3、茄子を素揚げして、醤油・砂糖・酢・酒・ごま油につける。日持ちして助かる。
4、紅白なます。夏大根はおいしくないと思い込んでいた。小振りの大根を手に入れた。江戸風卵焼きにおろし大根にして添えてみたが、これが美味だった。そこでいかにも季節外れではあるが、紅白なますを作ってみた。父がぎりぎり存命の頃には、たっぷり茹でて柔らかくした。母はなますを嫌っていたので、つくることを正月ですらきっぱりやめていた。

 そんなこんなで、母が嫌っていることで遠慮していた鰻やビーフステーキ等々、久しぶりに食している。
 誰にも気遣わず、誰にも遠慮も気兼ねもなくいただくひとりの食事は、今のところホッとし、美味しいのでありまーす。
 ほどほどに疲れているのかも!と実感あるのみ。

 そうそう、秋田の料亭の麺をお土産にいただいて、これが美味だったことも特筆しておきたい。

 さて、もう一方の片付けだが、これがちょっと目も当てられない状況だ。
 片付けているのか、散らかしているのか、あっちこっちに手を付けて、すべて中途半端である。
 いつもことながら、最終的にはちゃんとおさまってくれる、と確信はあるものの、現状では一向にはかどらない。
 粗大ゴミにだすもの、出さない方がいいのか迷うもの、その選別をしている段階である。

 そんななかで、思い切った買い物をした。
 友人・知人、野口体操の関係者の方々が少し大人数で集まっても快適であるように、座敷のエアコンを交換したのである。
 清水の舞台から飛び降りる覚悟で、贅沢な機種を選んで、金曜日に設置してもらった。
 静かで快適この上ない。
 野口先生のことばを思い出した。
『高い買い物をする前は、贅沢は敵だ、とおもいつつ悩み考えるんだよね。熟慮に熟慮をかさねて、やっぱりほしくて、大枚をはたいてしまえば、それでおわり。大金のことは忘れてしまうんだ。満足感が得られて、それなりに気持ちいいんだよ。後はあとのことさ』
 名言である。

 改築をして満12年。
 少し部屋の模様替えをしたいと思っている。
 さらに何をどのように処分するのか、ここは思案のしどころである。

 というわけで、ここまできたら母のことは施設のプロの皆さんにお任せしようと落ち着いたところだ。
 といって目の前にぶら下がって来た自分の老後の問題を考え行動することは、遠くへ追いやれないけれど、しばらく先延ばしさせていただく。

 といいつつ、母のことが頭から離れない日々である。
 そんな折り、おねえちゃま! と私を呼んでくれるNさんから涙ながらの訴え電話をもらった。
「後悔のない人生なんて、ないのよッ」

 周りの皆さんが、私が母を自宅に連れ帰るのではないか、と本気で心配してくれている。

 迷います。迷いました。迷います。迷いました。

 現実的に考えてみると、たとえ連れ帰っても、長続きしないだろうし、共倒れになりそうだ。

「物理的にも心理的にも母との距離をとってみよう」
 グッと下腹に力をこめて、覚悟を決めた。
 6月18日、日曜日の朝である。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ことばのお見舞い

2017年06月14日 08時57分58秒 | Weblog
 母が施設に入所した6月5日から数えて、丁度、10日目になった。
 一日おきに脱いたり着たりしているが、声を荒げたり、暴力的な行動は一切ないことで、多少は救われている。
 
 この間、私のブログを読んで、介護関係の仕事をしている野口体操の仲間であるKさんからことばのお見舞いをいただいた。
 目から鱗が落ち、発想の転換ができ、こころが軽くなった。

 それにつれて思い出されるのは、野口三千三先生の『人間は皆、身体障害者であり、精神障害者である。とりわけ老人になればなるほどその程度は増すのである』
 もうひとり、養老孟司先生の『正常も異常も、それは程度の差でしかない』

 さて、いただいたことばの主は、脳性麻痺で医師の熊谷晋一郎さんである。
 Kさんからは、次のようなメッセージが添えられていた。
《人が人や物とつながる時に、いわゆる健常者としていわゆる障碍者として位置付けられている当事者として、そして医師として、客観性を持って記述されており、野口体操にも参考になるのではないか思いご紹介させてい頂きました。》

 以下、熊谷さんのことばをそのままここに、掲載させていただきます。

 *******

「自立は、依存先を増やすこと、希望は、絶望を分かち合うこと」

 “自立”とはどういうことでしょうか?
 一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。
 東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。
 なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。
 そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。
 エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。
 これが障害の本質だと思うんです。
 つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。
 健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。
 けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。
 依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。
 世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存している事を忘れているわけです。
 実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。
 だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。
 障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく、依存先が集中している状態です。
 だから、障害者の自立生活運動は「依存先を親や施設以外に広げる運動」だと言い換えることが出来ると思います。
 今にして思えば、私の一人暮らし体験は、親からの自立ではなくて、親以外に依存先を開拓するためでしたね。
   熊谷 晋一郎

 ********

 今回の母の施設入所は、どれほどの方々の力を借りて実現したことだろうか。
 人手不足といいながらも、自宅での私つまり娘ひとりに依存していた暮らしから、もっと多くの人に助けられる暮らしに移行できた、と考えることはできないだろうか。

 母のことはおいても、介護の現場をすこしだけ知った。
 施設開催の懇談会で話を聞き、新しい世界が開かれた。
 あくまでも個人の老いの問題でありながら、同時に難易度のたかい社会問題であることに気づかされた。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

理屈で生きるか 感覚で生きるか そして落ち着きどころは

2017年06月13日 16時27分50秒 | Weblog
 今朝は、隣家のおじさんの車で、先日入れたばかりのテレビと、動かすたびに壊れていく鏡台を自宅に持ち帰った。
 鏡台は祖父が戦時中にもかかわらず、母のために用意したというもの。あっちこっちがいたんでいるのに、執着していた。
 さすがに鏡の部分がグラグラして、危険であった。

 施設に入ってしばらくすると自由得た母は、夜中に起きだして這ながら自室内を動き回り、あげく引き戸をあけて廊下まで出てくるようになったそうだ。
 車椅子からも自分ひとりでおりて、這うようなったという報告をうけた。
 実は、入院する前、一年以上になるが、「もう二度と転びたくない」と自分から、“這う”という移動手段をとるようになった。

 施設の方々と話をし、先方からも提案をいただいた。

1、骨折や怪我をしない対策をとってみる。

2、昼夜逆転のリズムを正常に戻す。

3、便秘を改善し、食欲を普通に戻す。

 以上の三点にしぼって何が出来るのか、検討してくださった。

 そのためにテレビと鏡台をもどした。
 ベット使用をやめるために床に敷くカーペットを用意した。中野には島忠があるので、すぐにも買いそろえることができた。
 大きさを部屋に合わせるために、ハサミで簡単にきれて、よごれもすぐに落ちるものがあった。ペットを飼う家が増えて、このような製品が売り出されているという。

 あとは睡眠導入剤を使用するか、するとすれば、ふらつくといった副作用を考えて、ベットをやめる選択をした。
 便秘の問題も含めて、どの程度の薬を使うのか、使わないのかを検討することになった。

 事細かに考えに考えを巡らせて実行しても、何が起こるかわからない。
 それが生きているということだ。

 熟睡もどこへやら、昨晩も夜中に目覚めた。
 悪い方にばかりに考えてしまう。
 そこで、暗闇で体操をし、呼吸を整える。
 しばらく過ごして、また、床に入り直す。

 朝、目が覚めると、疲労感は免れない。
 それでも施設の申し入れを受けて、行動に移す。
 そうしたら上手くいく保障はない。
 それでも母のために、何か出来るという自己満足で、今夜はゆっくり眠れるような気がしている。
 手だてをこうじることが出来るということは、死を予告されて過ごす時間の重苦しさとは違っていることを感じている。

 野口三千三先生は厄介な「肝内結石」を罹患した。その時から20年、亡くなるまで病気と末期に関わらせてもらった。
 父は膠原病の全身性エリテマトーデスに罹患し15年、最後の5年間は癌におかされていった。
 先生と同じ順天堂病院で息を引き取った。

 そして、今度は母である。
 平成19年に「腰椎の圧迫骨折」を起こしてから、少しずつ老化がはやまり、とりわけ最近の5年間は超スピードで進行した。
 私の介護力限界の閾値ギリギリで、今回の入所となった。

 通算するとおよそ40年、野口先生、実父、実母、三人の「老・病・死」に立ち会っている。
 母の場合は、いつになるのかは予想もつかないが、これから彼岸へと送り届けることになる。 
 
 一つだけ言えることは、感覚器官が衰えたり、ある感覚器の機能を失っても、残された感覚をフル活用して、“感覚で生きる”ことに精一杯つとめている姿を思い出す。ちょっとしたからだの違和感が、老・病・死にとっては非常に大きな違和感としてあらわれる。
 理屈で説明してもそれは通らない。
 残されている感覚が納得しないと、不快感は限りなく増幅される。
 そのためにそばにいる者は、ときに振り回されてしまうのだが、それもこれも向き合っている人が生きているからである。

 これまで同じケースはひとつもなかった。
「えー、何、それって」
 お世話をする私も、起こることにひとつひとつ立ち向かってほぼ40年が過ぎていった。

 誰しも元気なときは理屈で生きられる。
 しかし、老いて病いを得て、そろそろ死が射程に入ってくると理屈ではなく”感覚で生きる”ことになる。
 それは3人とも共通している。
 衰える感覚を補うように、超感覚が活性化し顕現してくる。
 しかし、その超感覚は言葉にはなりにくい。
 したがって周りのものは予測し、忖度し、推し量って、身の回りの改善をしていくしかない。
 それでも来るものは来るのだ。

 40年を振りかえって、常に逃げなかった自分がいる。
 そして支えてくれる多くの人がいてくれる。
 
 ただ、今回ばかりは本当の母の希望を叶えてあげられない。
 からだの芯がギュッとつかまれて、ものすごく苦しいときがある。

 お母さん、ごめんなさい。
 お互い、今がいちばん辛いときなのだと思う。
 自然に落ち着きどころにおさまるまで、時間をください、もう少しだけ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

久しぶりの熟睡

2017年06月11日 12時21分16秒 | Weblog
 母が入所した特別養護老人ホームは、中野区野方と杉並区高円寺北の地域が複雑に混じり合っている区域に位置している。
 早稲田通りに面しているが、近くには環状七号線が通っている。
 環七が通る前は、ここが中野区と杉並区の境だった。

 むしろ中野北口再開発地域内という、地の利のよさは抜群である。
 その便利さを、昨日はしっか実感させてもらった。

 話は、ざっと、こんな感じだ。
 まず、午前中「平成29年度 家族懇談会」に出席した。
 1時間半ほど、特養の現状を中心に話を聞いた。
 以前、NHKでも「都民フォーラム」のリポートしていたが、こうした施設の人材対策が急がれる現状が報告された。
 政府が出した介護報酬の引き下げの影響がもろに出て、介護職員を確保できない。部屋は空いているにも関わらず、入居者を受け入れられない施設が多くこと。現在すでに小さな施設は倒産に追い込まれているという。
 具体的な数字を聞き、人員確保のための努力現状を知ると、経営がいかに危機的な状況にあることがわかった。
 ここでは詳しい話は割愛させていただく。

 職員の紹介や、意見交換、施設からのお知らせ、“「看取り介護」について”の話 等々、高齢者介護の現状を知ることができた。
 社会福祉法人でかなり大規模な施設に入所させてもらった母は幸せだ、という思いに至ったのである。
 ありがたいと思った。

 さて、懇談会を聞き終えて、徒歩15分弱で自宅に戻り、そのまま近所の商店街で補充するパジャマや下着を買い物し、昼食を済ませ午後からの朝日カルチャーレッスンに出かけるまでに、少しの休憩をとることができたのも驚きだった。

 その後、カルチャーのレッスンを終えてから、中央線快速電車で5分ほどで中野駅下車して施設に到着したのは18時20分くらいであった。
 そのまま居室に入って、持って来たものすべてに「ハトリ」と名前を記入し、夕食中の母を訪ねた。
 またまた裸体である。
 それでも食事をとっている。
 私に気づいて、着るものを身につけてくれた。
 そのままひとりにしておく方がちゃんと食べてくれることを心得ていたので、居室に戻り部屋を整頓し、荷物を持ってラウンジへ。

 車椅子で活発に動き回るおばあさんが、母の傍にいて食べさせてあげようとしていた。
 それをその晩の介護職男性が遮って、彼女の部屋に戻したところ、至極ご機嫌が悪くなった。
 なんとなく部屋までついていった私は、静かに彼女の手を取って、話しかけた。
 担当の介護職員は諦めて、テレビの前に車椅子を移動し、他の男性のおむつ替えに飛んでいった。
 私は手をとったまま移動したこともあって、彼女の横にひざまづいて、目をしっかり見ながら、従兄がやっていたように手から腕を撫でながら話しかけた。
「今日は、どんな一日でした」
「かわりばえしない、平凡だったわ」
「それはよかったですね。交通事故があって多くの人が怪我をしたみたいですよ。一日何もなく平凡に、普通に、すごせることは、しあわせかも」
「そうね。ほんとね」
 とても素直な反応である。
 にこやかに笑いながら、私の説教に耳を傾けてくれた。
 それからテレビを一緒に見ながら、内容に触れたたわいのない話をしばし交わす。
 その間、介護職員の男性は次々おむつ替えに飛んでいった。
 その間、私は、ときどき母の様子を伺って、静かに食べていることを後ろ姿で確認していた。

 ひとまず落ち着いたところで職員の男性に挨拶しかけた。 
「ありがとうございます。助かりました。あの方はパニックを起こすと大変で……」
 まだまだ食事を終えない母を残して、その場をあとにした。

「認知症家族の会」で仕事をしている従兄を習って、タクティールだかユマニチュードだがわからないが、見よう見まねでやり方を少し実行してみただけだったが、手応えを感じた。
 自室に戻されることに対して大声を出して抵抗したおばあさんには、効き目は大きかったようだ。
 笑い顔、そしておとなしくテレビを見ながら会話をする。
 帰る時には「ありがとう」と言ってもらえた。

 再び徒歩で帰宅するとまだ7時半であった。

 一日の行程は、高円寺→中野→高円寺→新宿→中野→高円寺。
 朝9時15分から夜の7時半まで、高円寺・新宿・中野といった中央線沿線の駅に近い狭いエリアを、二巡りした土曜日は無事に終了した。
「どこも固定資産税が高くてもしかたないよねー」(笑)
 書くべきではないかもしれないが、つい下世話なことを考えてしまった。
 特養の経営について知ったことも影響しているのだが……。

 それはそれとして、下準備してあった夕飯を食し、片付け、入浴、体操、そして就寝まで、ゆっくり時間を過ごし、その間、まったく疲労感を感じなかった。

 適度な距離感、適度に近いということの便利さをつくづく味わった一日である。
 
 何年ぶりだろうか。
 今朝までぐっすり眠ることができました。
 お蔭さまです。
 これを幸せと言わずして、いつどんなときに言うのかしらねー。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

匂い

2017年06月10日 03時50分28秒 | Weblog
 6月9日、夕方。
 安定した母でいてくれるだろうか。
 半信半疑のまま、施設に母を訪ねた。
 案の定、ラウンジの片隅に追いやられて、裸の状態で車椅子に腰掛け、おやつを食べ終わっていた。
 
 顔にも、からだにも、西日が当たって暑い。
 本人はそれをさけようともしない。
 手がたらなくて、もっと大変な状態の誰かの世話に当たっているようだ。
 カーテンは、あけられたままだ。
「そうか、レースのカーテンでも閉めると、部屋がすこしだけ暗くなるんだわ」

 ふと、母の足下にある箱の上に、一枚のタオルが乗せられていることに気づく。
「あれっ、探していたタオルじゃない?」
 手に取って見ると「ハトリ」と名前が書いてある。
 もう三日もここにあったことになる。
 いかに皆さんがぎりぎりに働いていることが察せられる。
「いかたがない」
 思わず、首をたれた。
 
 そのタオルを膝掛けにして、ブラウスを肩から羽織らせて、自室に連れて行く。
 車椅子に腰掛けさせたまま、二階さんからいただいたぬいぐるみを手渡した。
 母は、大切そうに抱き上げて、タオルの中に包み込む。
 靴を脱がせ靴下を脱がせ、足をマッサージした。
 時々、歯についている食べかすを指でとろうとする。
「どうしようかな」
 迷った。
 こうするのも出過ぎたことなのに……。
 いたたまれず、髪を三つ編みにしてピンで留めて、洗面台に車椅子をつけてうがいをさせた。

 テレビをつけて彼女の関心をそちらに向けさせた。
 その時、担当者が入って来て、彼と話をする。
「とても器用に脱いでしまうんです」
 車椅子から上手に腰を浮かすことが出来る。
 車椅子に座ったまま、両足を高く上げることもできる。

 まいったなぁ〜!
 立って、少しは歩けるんじゃないか?
 
 服を着せて、ラウンジに母を戻した。
 一緒にいると手を出してしまう。
 それってよくない、と振り切るように施設を出た。

 母は、すでに理屈で説明してわかる状態ではない。
 この条件のなかでは、仕方のないこと、と頭では諦める。
 任せるしかない、と。
 また、変化するかもしれない。
 どのように変わるかは予想はできない。
 心は母のところに置いて来てしまった夜は更けた。

 そして6月10日。
 今朝もはやく目が覚めたが、布団のなかで呟いていた。

 裸のままでいい、お母さんの匂いがついている布団に寝かせてあげたい。
 裸のままでいい、お母さんの匂いがついているソファに腰掛けさせてあげたい。
 裸のままでいい、お母さんの匂いがついている座布団に座らせてみそ汁を飲ませてあげたい。

 自分の匂いがついている空間で、当たり前の日常がおくれなくなって起こっている混乱を、私は、今、目の当たりにしているのだ。
 ふと、このあたりを住処にしている猫の顔が浮かんだ。
 我が家の玄関の扉に、たびたびマーキングしてついてしまっているシミに、腹を立てたことがあった。
 でも、猫にとっては生きる!ことなのだ。
 見方がかわった。

 匂いの中には、生きて老いた暦が凝縮されているのだ。
 匂いの中には、自分だけのからだに共生してきた数多の微生物の幾重にも積み重なった痕跡が残されているのだ。
 今、自分は生きている。
 確かな、でも、無意識のうちに確認で出来ることで、安心が得られる。
 
 抗生剤で体内の微生物の構成がすっかり変容した母。
 ちゃんとお通じがなくて、病院で浣腸をし、便を掻き出されて泣いていた母。
 皮膚にも歓迎できない環境の変化が起こるはずの母。

 それでも、病気は、一応、治った。
 家よりはましな空間で、生活できる条件は揃った。
 でも、母の匂いは変わってしまった。
 そして、母は、崩れていくの……。

 目には見えないし、明確な意識では捉えられない染み付いた匂いが失われるって、人格崩壊の危険水域に入ることかもしれない。

 匂い。
 それは生きものが生きている証。
 
 思わず膝を打った。
 これだ!

 古くなった家の状態で困り果てておられた野口三千三先生に頼まれて、45年間過ごされたご自宅の改造をしたことがある。
 亡くなる4年前のこと。近くの病院に入院中に、お引き受けた大仕事だった。
 退院し、綺麗になった部屋に入った。
 第一声。
「自分の匂いがなくなってしまった!」


 *******

 ここまで書いて、ようやく自分を取り戻せたような気がしています。

 さて、本日は、いかなる一日になるのかな?
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

68年目の別れ……そして新しい暮らし

2017年06月09日 08時35分09秒 | Weblog
 高齢者施設に入所した母は、二日目の晩から三日目の朝にかけて、あまり眠れぬ夜を過ごしたようだ。
 それだけでなく、脱衣行動が顕著となって、昼間も皆さんとともに過ごすラウンジでも服を脱いでしまっている、と7日の夕方に施設方から電話をもらった。
 夜になって訪ねてみた。
 施設に用意されている脱ぎにくいワンピースも肌脱ぎして、上からかけている状態で車椅子に腰掛け、皆さんと離れたところで夕食を食べていた。
「あなたのヌードは誰も見たくないわ」
 冗談も言えない雰囲気であった。
 その晩は、自室に戻してパジャマに着替えさせ、脱衣行動がおさまらない可能性を見越して、暖房を入れてくれたところで私は退散した。

 入院中の身体拘束、トイレに行くことができないイライラ感、手足に残っている点滴の無惨な内出血の痕等々思えば、それくらいのパニック症状が出てもおかしくないと、誰でもが思う。
 自分がどこにいるのか、これからどうなっていくのか、まったく不安のなかにいるのだから、大波小波押し寄せるに違いない。
 その時はプロの方にお任せしよう。
 そうは思っても夜中に目が覚めてしまった私である。

 さて、昨日は、午後に二階さんと中野駅で待ち合わせし、施設にご案内をした。
 彼女も様々な経験をなさっているから、来てくださることが心強かった。
 ブロードウェーで可愛らしいぬいぐるみのプレゼントを選び、道々、事情をはなした。

 驚きましたね!
 ラウンジでおやつをほとんど平らげている母は、穏やかで脱衣行動もなく、にこやかに迎えてくれた。
「夕べはぐっすりよくお休みになりましたよ」
 昼間の担当の女性が、嬉しそうに報告してくれた。
 ホッとした。雰囲気が柔らかくなったところで、二階さんともしっかり会話し、お茶を飲干し、おかわりまでしている。
 ホッとして、次に何かがあっても大丈夫だと安堵した。
 施設側で自然にお友達になれるおばあさんが常に母の傍にいてくれるようだ。
 4人でしばし歓談。

 そこに約束してあったテレビを我が家近くの街の電気屋さんが搬入してくれた。
 部屋の掃除もしながら、30分ほどで設置完了。
 二人を見送ってラウンジに戻ると、母と二階さんが話をしている。
「お母さんが、ここはどこ?って聞くので、中野っていうと“家からちかいのね”って……聞かれたから答えちゃったけど、よかったかしら」
「ありがとう。いいと思うわ。私には聞かなかったから……」

 そのあとも4人で話をし、自室に母を連れてテレビを見せた。
 母は、字幕を読みながら画面を見ているうちにうつらうつらしたり、画面を見たりを繰り返していた。

 5時少し前に施設を出て、徒歩で我が家へ。
 しばらく共に時間を過ごした。

 二階さんを見送って、部屋に戻った。
 母が座っていたソファが目に入った。
「68年暮らした母と、別れた日だ」
 実感が沸々と湧いた。

 何度も迷って迎えた日である。
 つくづく思う。
 ひとりでは母を入所させることは出来なかった。
 親戚の者、隣家の方々、友人知人、商店街の知り合い、1年間見守ってくれたケアマネージャー、入所者として選んでくれた施設の方々、沢山の人が後押しをしてくれて実現したことである。

 母92歳、娘68歳。
 関係は逆転しても、母はいつまでも母であり、娘は娘なのだ。
 特別なことがない限り、母を自宅に戻すことはないと思う。
 もうもう限界だった。皆さんもそれを認めてくださった。

 新しい住まいは、広々としたラウンジにそれなりにまとまった彼女のこじんまりとした部屋。
 どこにいても5階の窓からは、大きな空に刻々と姿を変える雲の流れが見える。
 目の前を遮る高い建物はない。
 東京23区内、大都会の空の下とは思えない明るい静かな空間に、ゆったりとした時間が流れている。
「きれいな空よ」
 母は太陽を透かしてあわいピンクに染まる雲をさして、私たちにも見るように促していた。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

母、入所 二日目

2017年06月07日 08時29分49秒 | Weblog
 6月6日、昼に母を訪ねた。
 ハイ状態の夜は、どれほどぐっすり寝たのかと思いきや、上体を起こすたびに反応するセンサーが鳴っていたとのこと。
 午前中に入浴をさせてもらったという。
 そんなこともあってか、昼食をテーブルに並べたまま、車椅子で居眠りをしていた。
 起こそうとすると「うるさい」と拒否されるので、届け物を部屋に置きそのまま退散した。
 あんな調子で、朝食も、昼食も、あまり口にしなかったのではないかと思う。

 さて、その後は所用をすませ、はやめの夕飯を終えて、6時半頃に再び施設を訪ねた。
 やはり夕食は、進んでいなかった。
 それでも私のことを認識してくれて、目も醒めている状態で穏やかな対応をしてくれた。
 食事時間は6時から8時までの二時間とってある。
「2時間は長い」
  そう思っていたが、入居者が時間的にもまちまちの食べ方をするので、ユニット10名弱の人の面倒をみている。
 たったひとりの男性が、食事の世話から、食事を終えた人から薬を飲ませ、トイレの介助をし、就寝の手伝いをし、上手にこなしていることに驚愕した。

「ほら、かいがいしく世話をしてくれるでしょ」
 他の人へのお世話を見ていた母が、私に話しかける。
 耳は遠くなっているが、目はしっかりしていて観察力が衰えていない。
 見ると母の前の席のおばあさんは、ひとりで食べようとしない。そこでおばあさんの口に食べ物を運び、彼女がモグモグと噛んでいる間に、他の人のさまざまな世話を、次々と交互にこなしていく。
 いやいや神業である。
 自然に身に付いたことだとしても、大変な仕事である。

 私は食事をちゃんとしない母に付き添いながらも、メールを打ったり、途中で部屋の様子を見に行ったり、7時半で食事を切り上げて、居室に戻してもらうことにした。
 トイレに連れて行き、おむつ交換とパジャマのズボンに交換するという。
「みさお」
 トイレから、私の名前を呼んでいる。
 介助の男性が「どうぞ」と促してくれたので、すこしだけ手をさしのべた。
 それから居室に戻して歯磨きをすませる様子を遠くから、近くから見守っていた。
 上下ともしっかり着替えを終えた母を車椅子に座らせたまま、私がベッドに腰掛けて足をマッサージしながら8時まで過ごして部屋をあとにした。

 傘のかかった月を眺めながら、私がこの3年〜5年間、母にして来たことは間違っていなかったし、よくやったなぁ〜と自分で自分を褒めてしまった。
「でも、もう限界だわ」
 そのことがわかっているのか、薄々感じているのか、母はひとことも帰りたいとは言わなかった。
 早くも諦めてしまったのか。
 それとも無言の最後の抵抗が、食事をあまりとらない行為なのか!?
「お腹がすかない」
 そういいながら少しだけ、箸でつまんで口に入れている様子を思い出しながら、なんともやるせなく複雑であった。
 
 いずれにしても施設の方々はよくやってくれている。
 頭が下がる。
 ただ、人手不足は否めない。

 高齢化社会の現実を目の当たりにした。

 何も出来ないのに、思うことばかり多し!
 
 母の入居二日目の夜は、こうして更けていった。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

母、無事に入居!

2017年06月06日 08時37分42秒 | Weblog
 5月20日の夜、緊急入院した母が、昨日6月5日に退院し、そのまま高齢者施設に入居した。
 入院中は、身体拘束を受けざるを得ない状態で、食事も食べなくなってしまった母だった。
 そのためにさらに栄養補給の点滴がつづき、不自由な毎日を我慢させられていた。
 身支度を整えて、17日ぶりに解放され、朝からご機嫌でハイ状態であった。

 自宅に帰らないことは言わずに、病院から介護タクシーで10分ほどの施設に移動。
 その間、街の様子に一つずつ関心を示し、施設に到着してからは、玄関ロビーにあった水槽に飼われている熱帯魚に感動し、彼女の部屋がある5階のエレベーターをおりると同時に目にした、造花の花々に”綺麗だ!”と感嘆の声をあげる。
 自室からは、広く大きな空がよく見える。
 このあたりで、上首尾にいきそうだ、とすこしだけ安堵感が広がった。

 当初は病院に来たのかとおもっていた母だが、そのうちにどこにいるのかは、まったく気にかけなくなっていったようだ。
 自室で、リハビリの先生の診断を受け、下敷き調整をしてもらった室内履きの履き心地に満足しているうちに、かわるがわる訪ねてくる関係者の方々と接触。
 医療担当の方の身体検査、管理栄養士さんとの食事に関する打ち合わせ。
 その他、こまごまとした面倒を見てくれる方々、施設長さんの顔合わせ。

 部屋から皆さんと過ごす場所に移動。
 昼食もしっかり食べ、お三時のおやつもしっかり食べ、「病院から報告を受けていたのとは全くちがっている」と、報告をいただいた。

 その間、私は自宅に帰って、必要なものを取り揃え、隣家のおじさんの車で施設まで届けてもらった。
 母が、食堂で皆さんと交流している間に、部屋を設えてこれから暮らす場の雰囲気を一気につくりあげた。
 一旦、戻った母は、ご機嫌であった。
 皆さんとの交流や自分の物が置かれた部屋に、終始にこやかであった。
 これまで自宅にいる間よりも、病院での苦しい我慢の日々よりも、きれいで快適な空間を、実感してくれているように見受けられた。
 
 それから、再び、皆さんのもとに連れて行ってもらう。
 ドアを閉めているにもかかわらず、スタッフの若い男性と話をする母の声が、ビンビンと聞こえて来た。
 その声を聞いて、朝の退院からずっと手伝いに来てくれている従姉と、ホッと胸をなで下ろした次第だ。

 夕食前から食卓について、他の入居者さん二人と会話をしている母を残して、合流した従兄と従姉の三人で施設を出たのは、6時少し過ぎだった。
 入居の第一関門は、まず、順調に運んだ。

 従兄の車で、豪雨と雷の中、中野駅近くの食事処に移動。
 久しぶりに食事らしい夕食を終えて、自宅まで送ってもらったのは、7時半過ぎのことだった。
 長い一日は終わった。

 そして、一夜明けた。

 いよいよ、母にとって本格的な施設の暮らしがはじまる。
 先ずは、一週間の経過を見ることになっている。

 病気をせずに、転ばずに、これから残された時間を気持ちよく過ごしてもらいたい。
 昨晩は、疲れ切ってよく眠ってくれた、と思いたい。

 我が家からは徒歩でも中央線の電車でも15分だ。
 この近さがなんといっても、すばらしい!
 後は後のこと。
 今回も眠れずにあれこれ思案したが、”案ずるより産むが易し”であった。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

何かをしても 何もしなくても 土曜日はやってくる

2017年05月27日 08時23分25秒 | Weblog
 20日の夜の救急入院から、一週間がたった。
 怒濤の日々であった。
 何かをしても 何もしなくても 土曜日はやってくる。
 朝日カルチャーに出かける前に、母の様子をみて、私の風邪の咳をもらってくれていたが、大したこともなさそうで「いってらっしゃい」と送り出してくれたのが夢のようだ。

 病院のベットで、点滴づくめの毎日。
 それでも時折リハビリで歩行練習をしているようだ。

 もともと自由気ままに暮らして来た人だったから、身体的な拘束はいたたまれないのだろう。
 はたして入院して治療を受けている自覚がどこまであるのか、ないのか。
 点滴の針を抜こうとして、拘束やむなしのサインを私がした。
 母につききりになるわけにはいかない。
 しかたがないがかわいそうだ、と思うしかない。

 食事はどれも柔らかく、くちゃくちゃなのも誤嚥を避けるための方策だとしても、意識低下はまねくし食欲はわかないようだ。

 なにもかもしかたがない。
 先ずは体温が平熱に維持されないことには、何事もはじまらないのである。

 高齢者が病気になると身体機能がことごとく失われるのに時間は待ってくれない。
 失われるのは筋力だけではない。あっという間に、すべての機能が、ガタガタと音をたてて瓦解していく。
 どちらが先ともいえないが、判断力、意思の力も失われ、ただ「痛い」とか「不快」とか「自由にして」といった欲求が残っていることだけでも、最後にのこされた生との絆かもしれない。
 それをすらなんともしてあげられないことが、忍びない。

 今のところ私のことはわかっているようだ。
 嫌だ、と何かを拒否しても、私の顔を見て、声をきくとおとなしく柔らかな表情に変化してくれる。
 リハビリの先生にも「娘です」と紹介してくれた。

「みさお 傍においておいてね。傍にいてね」
 鮮明なことばで告げられた昨日の夕方。
 しばらくベットの傍で過ごし、母の荒れた唇にリップクリームを塗って、別れを告げずにそっと病室を出た。
 
 振り切るように病院をあとにしながら、野口先生のときのことを思い出した。
 虎ノ門病院の病室の窓から、帰っていく私の後ろ姿をじっと見つめておられた。
 20年にわたって、先生の入院生活に深く関わり、最期の時まで、お見送りが出来た。
 力があっただけに、今の母よりも大変だったことが多い。
 おっしゃることは正しいのだけれど、病気になって入院すれば、我慢しなければならないことばかりだった。
 先生と母は身体感覚において非常によく似ている傾向がある。
 いたたまれないことは、よくわかるのだが、如何せんどうにもしてあげられなかった。
 それもこれも今となっては懐かしい思い出である。

 一方で、医者に“最期までジェントルマン”でした、と言わしめた我が父は手がかからなかったのか、というとそれはそれで別の大変があったことも確かだ。

 老い、病い、末期……、同じ状況は一つとしてない。
 支える人間の負担の大きさ重さと、病に苦しむ人・死に逝く人の尊厳は天秤にかけられない。
 難しい、の一言である。

 こうしたなかで一冊の本を読み終えた。
『近代天皇論ー「神聖」か、「象徴」か』片山杜秀 島薗進 集英社新書
 幕末から明治維新、そして太平洋戦争〜起こるべくしておこった現代の危機。
 歴史のなかで人間の尊厳を問う、なかなかの対談である。

 さて、気を取り直して、午後からの朝日カルチャー講座の準備をしよう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加