夜、洗面所で歯磨きをしていた。
気づくと母が私のそばで正座している。
「あなたの名前がわからなくなちゃった!」
「うぇ、もにょもにょ」
明快なことばにならない。
口を濯いで
「はとり みさお よ」
「あ〜、そうだった」
それから寝るまでの間、母につきあった。
「名前を思い出そうとしてるのに、思い出せない。思い出そうとすることも思い出せない」
かるい焦燥感をにじませて
「なんかみんな忘れてしまった。急にいろいろがわからなくなってきたのー、そうなっちゃうの」
それってつらいだろうな。
認知症の妻と10年つきあった従兄が言っていた。
「大きな声を出したり、行動がおかしくなるのは、不安だからだと思うよ。何かが自分のなかで壊れていくことはわかるんだとおもうよ」
たしかに、壊れていく自分が薄々でもわかることは、不安だし、恐いし、これからどうなるのか考えようにも考える力がなくなることは、とっても恐い、と思う。
母にとってどの道がいいのだろう。
私は母との暮らしをどのように選べばよいのだろう。
一昨日のこと、再来週には特別養護老人ホームの方が、訪ねてくることになった。
そのことが頭から離れない。
母を寝かしつけて、二階にあがりひとりになった。
体操を始めたが、続かない。
ふと、父が思い出された。
本館が古い建物のころだった。病室は天井が高く、一部屋の広さもたっぷりしていて、昔ながらの威厳のある順天堂医院に入院していた。
誘われてさらに奥まった建物にある喫茶室で父が注文してくれたクリームソーダーが、体操用のマットの上に現れた。
メロン色のソーダー水に白いアイスクリームが浮いていて、赤いサクランボが添えられていた。
先日の「ひよっこ」のシーンが記憶に残っていたのだろう。
父は65歳、私は39歳だった。
父の戦後、私の子供の頃は、クリームソーダーはあこがれの特別な飲み物だった。
あのとき、内心「この年になってクリームソーダーはないだろう」と言葉に出さなかったが、手放しで喜ばなかった自分だった。
あの日の父の年齢を少し超えた今になって、ようやく父の気持ちがわかった。
難病の「全身性エリテマトーデス」と、診断が下った。
病名がつくことで、ステロイドの治療がはじまり、次々におこるわけの分からない状態から少しずつ解放されていたときだった。
それから15年後。
同じ順天堂病院の病室で、癌の治療を受けていたものの、日に日に衰えていく父が言った。
「お母さんをよろしく頼むね」
もう、クリームソーダーを飲む力は父に残っていなかった。
私は、こうして父を思い出しているが、母はもう父を思い出さないような気がする。
おとなしくうなだれる母をみて思う。
次の瞬間には、明るさを取り戻す母をみて思う。
母から不安な気持ちが一切失せた時、母はもっともっと楽になるのだろうか。
どこで誰と暮らしているのかわからないけれど、自分が寝るところはわかって床につく母。
毎晩「おやすみ、また明日」と穏やかに言葉を交わす母。
料理をしながら、喜んで食べてくれる母のために食事を作ることをしなくなる日常を想って、悲しくなる私がいる。
これからの暮らし方を選択する岐路にたっていることだけは間違いない。
もしかすると選択できるだけ幸せなのかもしれない。
迷うだけ迷うことにした。
体操を続けることができず、たまらなくなって傍にあったiPadを手に取って、FBに逃げこんでしまった。
Edith Piaf “La vie en rose”をクリックして、流れてくる歌をいっしょに口ずさんだ。
C’est la Vie!
そう軽く言ってみたいけど、今は、言えない。
気づくと母が私のそばで正座している。
「あなたの名前がわからなくなちゃった!」
「うぇ、もにょもにょ」
明快なことばにならない。
口を濯いで
「はとり みさお よ」
「あ〜、そうだった」
それから寝るまでの間、母につきあった。
「名前を思い出そうとしてるのに、思い出せない。思い出そうとすることも思い出せない」
かるい焦燥感をにじませて
「なんかみんな忘れてしまった。急にいろいろがわからなくなってきたのー、そうなっちゃうの」
それってつらいだろうな。
認知症の妻と10年つきあった従兄が言っていた。
「大きな声を出したり、行動がおかしくなるのは、不安だからだと思うよ。何かが自分のなかで壊れていくことはわかるんだとおもうよ」
たしかに、壊れていく自分が薄々でもわかることは、不安だし、恐いし、これからどうなるのか考えようにも考える力がなくなることは、とっても恐い、と思う。
母にとってどの道がいいのだろう。
私は母との暮らしをどのように選べばよいのだろう。
一昨日のこと、再来週には特別養護老人ホームの方が、訪ねてくることになった。
そのことが頭から離れない。
母を寝かしつけて、二階にあがりひとりになった。
体操を始めたが、続かない。
ふと、父が思い出された。
本館が古い建物のころだった。病室は天井が高く、一部屋の広さもたっぷりしていて、昔ながらの威厳のある順天堂医院に入院していた。
誘われてさらに奥まった建物にある喫茶室で父が注文してくれたクリームソーダーが、体操用のマットの上に現れた。
メロン色のソーダー水に白いアイスクリームが浮いていて、赤いサクランボが添えられていた。
先日の「ひよっこ」のシーンが記憶に残っていたのだろう。
父は65歳、私は39歳だった。
父の戦後、私の子供の頃は、クリームソーダーはあこがれの特別な飲み物だった。
あのとき、内心「この年になってクリームソーダーはないだろう」と言葉に出さなかったが、手放しで喜ばなかった自分だった。
あの日の父の年齢を少し超えた今になって、ようやく父の気持ちがわかった。
難病の「全身性エリテマトーデス」と、診断が下った。
病名がつくことで、ステロイドの治療がはじまり、次々におこるわけの分からない状態から少しずつ解放されていたときだった。
それから15年後。
同じ順天堂病院の病室で、癌の治療を受けていたものの、日に日に衰えていく父が言った。
「お母さんをよろしく頼むね」
もう、クリームソーダーを飲む力は父に残っていなかった。
私は、こうして父を思い出しているが、母はもう父を思い出さないような気がする。
おとなしくうなだれる母をみて思う。
次の瞬間には、明るさを取り戻す母をみて思う。
母から不安な気持ちが一切失せた時、母はもっともっと楽になるのだろうか。
どこで誰と暮らしているのかわからないけれど、自分が寝るところはわかって床につく母。
毎晩「おやすみ、また明日」と穏やかに言葉を交わす母。
料理をしながら、喜んで食べてくれる母のために食事を作ることをしなくなる日常を想って、悲しくなる私がいる。
これからの暮らし方を選択する岐路にたっていることだけは間違いない。
もしかすると選択できるだけ幸せなのかもしれない。
迷うだけ迷うことにした。
体操を続けることができず、たまらなくなって傍にあったiPadを手に取って、FBに逃げこんでしまった。
Edith Piaf “La vie en rose”をクリックして、流れてくる歌をいっしょに口ずさんだ。
C’est la Vie!
そう軽く言ってみたいけど、今は、言えない。