羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

土と植物、盆栽ブーム

2017年05月10日 08時45分11秒 | Weblog
 世の中、2020年のオリンピックに向けて、わけのわからないことまで含めて達成しようという風潮に、首を傾げたくなる昨今である。
 

 たとえば「盆栽、BONSAI」。悪いことではないけれど、ブームを起こそうとしている。
 それでもいかにも自然! いかにも風雪に耐えて! といった雰囲気を、チェーンソーを使ってまで、無理矢理つくり出そうとする盆栽には、感覚的に痛みを感じて、いかがなものかと正直なところ思ってしまう。

 さて、我が家でも平成14年に亡くなった父が、丹精していた盆栽鉢が残された。
 いまでは見る影もないぼさぼさ状態だが、それでも家の玄関までのロケーションに緑があるのは捨て難く、水やりと植え替えだけは続けている。
 
 当初からみると鉢数も減った。
 毎年、3月の春彼岸時に植え替えをしているが、昨年も今年も時間がなかく、ごめんなさい状態が2年も続いてしまった。
 さらに今年は50年来、盆栽用の土を自宅まで運んでくれているお店が改装のために、土を手に入れることができなかった。

 よく見ると、土の上にのせている鉢のものの葉はのびのびとして・青々として元気がいい。
 鉢を動かそうとしても、びくともしない。
 おそらく鉢の下に開いている小さな穴から、土の中にいちばん主になる太い根が伸びて、そこから養分を吸い上げているに違いないからだろう。

 それ以外にコンクリの上に置いてある物のうち、元気がない鉢を選んで、今週になってようやく3鉢の植え替えを終えた。
 物置に残っていた“赤玉土の小”は、これで終わってしまった。

 今朝になって小振りの雨のなか、植え替えたばかりの木を見ていた。しっとりと濡れた葉から、息を吹き返しているような雰囲気を感じて嬉しかった。他の人には、このくらいの変化では気づかれないだろう。
 ほかにも植え替えなかったものの、楓や欅の中鉢は今までになくこんもりと茂って青さを増していた。
 この形は、どこかで見た。
 ふと、思った。
「そうだ、野口三千三先生の西巣鴨の庭だわ」
 今ころの季節は花にも恵まれ、緑も鮮やかに、初夏のさきどりを感じされる季節だった、と懐かしかった。
 父が育てていた頃は、盆栽としての体裁を整えられて、それなりの日本的自然形の佇まいであったのに、今年の形はむしろ野口先生の庭で見かけた形に似ている、と気ずかされたのだ。
 先生の植物との関わりは、殆ど自然のままの形を維持する方向で、鉢植えされていたものが多かった。
「あのかたちだ!」

 今、『土と内臓』築地書館 を読んでいる。
 読みながら、自然の威力、微生物の面白さを感じながら、もし、私が10年若かったら、ここから引っ越しをして本当に自然の庭をつくってみたい、とあらぬ妄想に浸っている。
 野口家の庭は、栄養剤や殺虫剤をまくことを拒否して、できるだけ自然のままにし、虫は手で捻り潰せる程度の手入れだった。枯れ葉も全部を取り除くことはなさらなかった。
 きっと、あの庭には、植物の健康を維持するのに大切な微生物が、縁の下の力持ちとして存在していたにちがいない。
 
《微生物が自然の土壌肥沃に生物学的な触媒としてはたらいているとする新しい解釈は、現代の農業の哲学的基礎に異を唱えるものだ。農芸化学が短期的に収穫量を高めるうえで効果的だったことは、誰にも否定できない。しかし徐々に長期的な収穫を危うくしてしまったとおもわれるようになってきた。栄養移行の阻害に加えて、農薬の過剰使用は植物の防衛機構を低下・無力化させ、弱った作物を病原体が攻撃する隙を作ることがある。うかつにも有益な土壌生物を激減させてしまったことで、植物が微生物との適応的な共生によって築き上げた栄養と防衛のシステムを私たちは邪魔しているのだ》上述 132頁より

 思い出したことがある。
 父は60代になってSLE 全身性エリテマトーデスに罹患した。
 ステロイドを服用し、二週間に一度の割合で血漿交換治療を行っていた。
 担当の血液内科(膠原病)の医師に、盆栽の土いじりをやめて欲しい、と言われたらいい。
 病を抱えながらも、父は土いじりをやめることはしなかった。
 盆栽の鉢の中には、それほどの微生物がいるとは思えなかった。
 植え替えの時に、ミミズもダンゴムシもいっさいみたことはない。
 しかし、待てよ、もしかすると目には見えない微生物、カビ類が土のなかでは育っているのかもしれない。

 形が崩れて、ぼうぼう状態の我が家の植物を一鉢ずつながめて、複雑な心境に迷い込んだ。
 野口先生の庭は、失われて久しいが、なんとも懐かしい。
 あの庭は、先生が彼岸へと連れて行かれたような気がしている。
 毎日、そこで暮らし、細やかに手入れをし、愛情をかけた主を失った庭は、生態系のバランスを崩して人がつくりあげた庭としての命を維持できないことも知った。
 それに比べて、同じ鉢植えであっても、我が家の盆栽はいかがだったのだろうか。

 さて、最初の話にもどろう。
 500年も生きながらえている盆栽はスゴイが、オリンピック便乗の日本文化・BONNSAIブームが、あまりにも行き過ぎた虚飾・奇をてらう方向に歩かないで欲しいと思うのは、無理な願いなのだろうか。

 つくづく、自然と文化のバランスとりは微妙である、としか今は言いようがない。
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