羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

丸裸の身体で生きている覚悟

2016年05月09日 09時48分07秒 | Weblog
 2016年5月9日付けの朝日新聞朝刊に『難民支える瞳認証 UNHCR、中東で活用』という見出しに目が止まった。
 紛争が続くシリアからの大量の難民を受け入れているヨルダンで、瞳認証・虹彩登録を始めたというニュースだ。
 難民キャンプではなく街中に入り込んだ人々に生活費を確実に届けるためにこの新技術を導入する、という話である。

 すでにアンマン近郊のキャンプでは4万人がスーパーなどの買い物の際に利用しているらしい。
 銀行のカードは紛失したり盗まれたりすることも多く、虹彩認証は登録さえすれば、手ぶらで買い物にいけばよい。レジに備え付けてあるカメラをまっすぐにみつめると、カシャッと撮影音のあと数秒で会計はすむという。

 この瞳認証に注目が集まったキッカケは2011年に始まったシリア紛争。
 カードの不正使用が相次ぎ、別の場所で難民手続きをとり、生活支援費を二重に受け取る人が続出したことへの対策だった。

 注を読むと、虹彩は2歳ころまでに文様が決まり、経年変化しにくい。また一卵性双生児でも異なり、同じものが見つかる確率は「10の78乗分の1」だそうだ。
 これなら瞳認証は、個人を識別する生体認証として確実性が担保されている、と素人でも納得できる。

 今では生体認証は、指紋はもとより、静脈、虹彩、掌紋、声紋、顔貌、歩容等々、多様化している、と『指紋と近代ー移動する身体の管理と統治の技法』高野麻子 みすず書房で、読んだばかりだったこともあった。この記事がすーっと目に入ってきたわけだ。

 さらに記事を読み進むと、アフガニスタン、コンゴ民主共和国、ハイチ、インド、パキスタンなどで難民の虹彩と指紋の登録を始めたとある。

 大なり小なり、個人情報が売買の対象となっている現代社会では、その保護問題はかつてないほど重大さを増した。
 広範囲に、時空を超えて、グローバルな問題となっている。
 難民の保護のための生体認証技術が、差別や不当な扱いに利用されないためには、一人一人が “私には関係ない!” という無関心ではいけないことを先にあげた本は教えてくれる。難民に限らない問題で、いつ個々人の身に降りかかってくるかわからい、と用心にこしたことはない。
 
 歴史的には、一度登録すればいつでも個人情報を引き出せる指紋は、植民地統治者にとって「夢」の道具だったという。
 さらに進化し続ける生体認証システムは、WEBの進化と相俟って、全世界を巻き込んだ情報流通としての価値があるからこそ、そこに危険が潜んでいる。
 どうやら自己責任だけではやっていけないし、誰かが守ってくれるだろう、という甘い考えは幻想にすぎないようだ。
 どんな危険が身に降りかかるのか、一般人には想定もできないから空恐ろしいのである。防ぎようがないのだ。

 維新後の日本にやってきた英国人医師が1880年に指紋に関する論文を科学雑誌に投稿したことが、指紋による生体認証のはじまりだという。
 136年後の現代社会は、近代と地続きであることを忘れてはない、と教えてくれたのも『指紋と近代』だった。

 さて、朝日新聞の記事は次のようにまとめている。
《この新技術の運用には課題もある。治安維持やテロ対策が高まるなか、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が管理する虹彩データなど個人情報の提供を期待する国もあるからだ。UNHCRのシンメルさんは「難民を保護する大前提を守りながら、いかに各国政府と協力体制を築いていけるか。大きな挑戦になる」と指摘する》

 こうなったら開き直って、本の帯にあった “識別される私” の先に「丸裸の身体で生きる覚悟」を持った方がよいかもしれない。

「一寸先は闇」とか、「明日は我が身」とか言った昔の人は偉い。
 今となっては、この先をいかに生きるのか、と問いかけながら自分自身の足下をみなおしてみる……。
 なんとなく虚しさが忍び寄るのは、気のせいだろうか。
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