習志野市民フォーラム

市民情報交流センター

習志野市政の歴史(習志野市民フォーラムだよりNO6より)

2013年11月24日 | フォーラムだより
次期市長選まで1年数か月となりました。
歴代の習志野市長についてのレポート記事を元市会議員のK氏が執筆し「習志野市民フォーラムだより」に掲載しました。
「市民フォーラム便り6号」の記事より転載します。

習志野市政の歴史
市内藤崎 K
前振り
 宮本市長、荒木市長がどういう市長なのか、本人をいくら見てもわからない。
そもそも、地方自治とは何なのか?市長の役割とは何なのか?習志野市という市はどういう市なのか?
何でも評価するには物差しが必要!その物差しを明らかにし、その物差しで宮本市長、荒木市長を評価
しないとわからない。物差しとは我々が市民として、どういう市政を良いものとするのかという評価観、
あるべき市政の全体像ということである。
 さてしかしながらそれがまた難しい。では、まちづくりの価値観という問題をもう少し具体的に考えてみよう。
このヒントはやはり歴史に学ぶということである。習志野市はどのように出来上がってきたのか?そこから
習志野市のあるべき姿の物差しを考えてみたい。
 習志野市→もともと軍都であった。大久保商店街というのは、その軍都の商店街だった。
当時の中心地区は明らかに大久保地区であった。津田沼地区というのは今でこそ、市の中心であるが、習志野市全体
から見れば、地理的には端っこの位置にあたる。当時その端っこの地区であった津田沼に市役所を建てたこと自体が
昔の尺度でいえばすごいこと。将来性ということ、ここが市の中心となるという見通しがあったということ。
習志野市というのは、その市の成立、誕生からして、基本的なポリシーのもとにできた市である。
明確なビジョンをもった政治家がいなかったならば、習志野市自体が存在しなかったと言っても過言ではない。
そこにこそまた市としてのアイデンティティがある。
 市民生活を物心両面から、つまり文化や精神面も含めて快適な町をつくっていくことを町づくりとするならば、
ビジョンを持った市長が良い市長であり、何もしないで利益誘導だけで政権を維持してきた市長は強大な権力を
もったとしても悪い市長ということになるであろう。荒木市長は選挙に強かった。それだけ多くの市民が支持したのだと思う。
しかし、市全体の発展ということから言えば明らかに失われた20年であったと言われてもしかたがないであろう。
この20年の間に習志野市のあらゆる組織(行政、町会関係、福祉、人権組織等々)は硬直化し活力を失っていった。
他の先進市との格差は開くばかりである。
初代習志野市長  白鳥義三郎
昭和29年(1954年8月1日)習志野市誕生 (K、小学1年生)
昭和22年(1947年)4月7日~昭和38年(1963年)
旧津田沼町会長
 ・全国町村会長
 ・千葉県市町村会長
  経歴 
ベルリン工科大学建築科出身、早稲田大学建築科教授、ドイツと日本の両方で都市計画論を教えていた。 
白鳥義三郎氏がドイツの大学で教鞭をとっていた頃、大きな都市を理想とする考え方に対して、人口2万人規模の中小都市
を理想とする「小都市論」も唱えられていた。
また、彼が視察で訪れたアメリカでも巨大都市と衛星都市のついての研究がさかんであった。白鳥義三郎氏はこれらの議論
を踏まえたうえで新生習志野市の都市建設を明確に考えていたといえる。
そのエピソードを一つ
昭和29年(1954年)1月12日
 千葉市に入るか津田沼町と合併するか幕張町は町を二分するほどに揺れていた。その幕張町の講演会で意見を求められた
白鳥津田沼町長は次のような話をしました。
 「私は去年娘を嫁に出すにあたって、大資産家や名望家にするか、あるいは庶民階級ではあるが、前途ある青年にするか
ということについてずいぶん考えた。結局後者のほうを選んだが、今は幸せに暮らしている。大きな市への合併が必ずしも良いとはいえない。」
 その後、新聞のインタビューに対しても、「おそらく全国で最小の市かもしれませんが、こじんまりとしたモデル都市として、
市民が住みよい都市建設をしたいと思います。」と答えています。この白鳥市長の知識・理論に裏打ちされた明確なビジョンがなければ、
今の習志野市は存在しない。そして、習志野市はこの理想を実現することを施策の基本としてきた。
 学園都市、教育重視、安い水道・ガス、住宅都市という市のイメージ
 町が発展するためには、子どもを教育することが最も重要 ついた名前は教育市長
 津田沼小学校の円形校舎、市立習志野高校は市の王冠である!
昭和39年建築、習志野市役所庁舎、庁舎前に古代ハスの咲く池、玄関までの丸いアプローチ
 都市建設を市が先頭になってぐんぐん推し進めた。市の土木課=習志野建設部隊、建設機械をもつ直営の建設部隊。
 白鳥市長の理想⇒小さくとも効率の良い活力あふれる中小都市(強烈なビィジョンであり理想)

戦後すぐに手をつけたこと
 ・軍隊の跡地に日本大学(騎兵第一旅団跡地)、千葉工業大学(鉄道第二連隊跡地)、順天堂大学(藤崎五丁目、1951年騎砲兵連隊跡地)、
東邦大学付属校(騎兵第二旅団跡地)・東邦大学(騎兵第一旅団跡地)を誘致し学園都市に!
 ・市営水道、市営ガスの工事
 ・市立習志野高校(市の王冠である)、市立中学校、市立小学校校舎建設
 ・市庁舎、市民会館、図書館、公民館の建設、給食・視聴覚教室・清掃施設(センター)の建設
 ・公園、体育館、球技場の建設
 ・海を埋め立てても工場を誘致せずに基本的に住宅街とした。当時の他の市と正反対の道を取る。
 ・市立幼稚園、保育所も手掛ける。

 人口3万人にも満たない全国最小の市、財政規模も極めて小さい市大胆にも莫大な借金をして、次から次の公共事業

ドイツ語が話せてドイツの事情に詳しい市長⇒第二次世界大戦ではドイツは先に
降伏し、すでに戦後インフレに入っていた事情を熟知していた。インフレで莫大な借
金はすぐに返済できるという明確な見通しをもって大規模な町建設をした。当然すご
い借金をしたが、その後のインフレであっという間に借金は解消。
 しかし、本人が言うところの井戸塀政治家。

 第2代 大塚軍記市長
 昭和38(1963年)5月1日~昭和42年(1967年)4月30日
 ほとんど資料がないので、不明。大久保の人。代々医者の家系。

 <1964年  東京オリンピック>

 第3第  吉野 孝市長 昭和42年(1967年)5月1日~昭和58年(1983年)3月2日
 白鳥市長がハード面での理想を追求していったとすれば、ハード・ソフト両面習志
野的町づくりを集大成したのが吉野市長ともいえる。そういう意味では、白鳥市長の
系譜を引く正統な後継者市長だったといえるかもしれない。
 ○市民主体の民主主義を育成するということを施策として実行
 旧態依然とした町会体制に代わって、町づくり会議を設置。しかし、現在は有名無
実化している。ただし根っこは残っているので、活用化している連合町会は活用されて
いる。地域の町づくり、活性化を市民自身が行う。
 ○音楽教育、市民スポーツ
 習志野秋津サッカー場、野球場等の施設、習志野文化ホールの建設
 ○文教住宅都市憲章
 ○広大な緑地帯→香澄・秋津・谷津にまたがる。
 ○意識的な子育て、幼児教育の充実 市立幼稚園・市立保育園(全入体制)
○議会答弁は全て自分で行う。行政のすみずみまで熟知。かなりの頭脳明晰。
津田沼一の名家といえる。
 一族の吉野信は昭和6年から昭和21年まで旧津田沼町の町長を務めた人、
 習志野市の現在の姿は吉野市長時代に完成。
 当時全国でもめずらしい社会党員市長の誕生。徹底して政治の民主化を図る。市職
員はまず市民のところに出かけ市民の声を聞け。

 第4代  三上文一市長
 昭和58年(1983年)4月24日~平成3年(1991年)4月25日
 三上市長昭和61年(1986年)4月26日 アメリカタスカルーサ市と姉妹都市提携
 市立第2中学校校長 習志野教育界のドン 習志野教育界の特徴→ほとんどが縦
系列で人閥化している。
 K 市議当選 1987年4月

 三上市長の特徴
 ○議会答弁での常套文句は「重点順序化して検討します。」=実際は何もしない。
 ○私が二中の校長の時は便所のドアだって古くなって隙間風が入るような状態だ
った。それでもみんな頑張った。今はあそこを直せ、ここを直せて要求ばかり多い。
 ○とにかくケチケチが基本なので、市のお金は残った。それを全部使ったのが荒木市長。
 具体的なエピソード
 市庁舎建設基金
 三上市長は自分の在任中に10億蓄えたが荒木市長はゼロ。荒木市政、別名習志野市不動産政権。

  第5代  荒木 勇市長  平成3年(1991年)4月~平成23年(2011年)3月
 土地ブローカー久米三雄と深い関係
 市議会100条委員会設置さる。谷津の1h土地問題、藤崎の不法土地買収問題
 なかよし幼稚園跡地売却問題
 ファーストエステイト(バックはリクルート)
 市の多くの土地が売却され、市有財産調査委員会はいつも紛糾。
 藤崎の土地不法買収問題については、警察が市に捜査に入った。担当課長は首になった。
その後のめんどうは荒木市長がみた。
 ☆行政組織の硬直化 
 ☆人事は半永久的に人閥優先→有能な人材が無能に 
 ☆箱モノ行政で借金は増え続け
  習志野市の土地に老人施設、秋津・屋敷・大久保
  こども園、芝園清掃工場、東部体育館、JR津田沼駅南口開発

 100条委員会の調査から
 この100条委員会の議論をわかりやすく歴史に残す作業は、またチャレンジしてみたい。