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幻想見聞録

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。

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Die Schlange, welche sich nicht häuten kann, geht zu Grunde. Ebenso die Geister, welche man verhindert, ihre Meinungen zu wechseln; sie hören auf, Geist zu sein.

The snake that cannot shed its skin perishes. So do the spirits who are prevented from changing their opinions; they cease to be a spirit.


Friedrich Wilhelm Nietzsche



脱皮できない蛇は滅びる。

貴意を脱ぎ捨てることを妨げられた精神もまた、同様である。


フリードリヒ・W・ニーチェ



*****




『目から鱗が落ちる』とは、「何かがきっかけとなって、急に物事の本質・実体などがよく見え、理解出来るようになる」ということです。

その背景にあるのは、それまで自分の抱えていた固定観念の喪失や崩壊。

「新たな知識を得る」ことによってではなく、「保有していた思い込みが喪失」されることによって経験されるのが、ウロコポーロです。


つまり、人間一人ひとりが保有している「思い込み」や「固定観念」こそが、目の中にある鱗の正体。

それは「ネガティブ」と言われる要素だけではなく、ありとあらゆる概念が含まれ、僕たちが当たり前に活用している「常識」や「通説」、「信念」や「信仰」なども含まれます。

この鱗のことを、精神世界では「マインド」などといった名称で呼んでいます。


人間が経験するあらゆる苦しみは、この鱗の量に比例します。

鱗を重ねていくごとに、どんどん世界が歪んで見えていきます。

その歪みが、そのまま苦しみや痛みとなって感じられます。

しかし、その人にとって、どんなに世界が歪んで見えていても、世界そのものが歪んでいるのではありません。

歪んで見せている「鱗」があるだけなんです。

いや、もう少し正確にお話するなら、『そもそも「世界」というものが実在していないのに、鱗があることによって、それが実在しているかのように錯覚してしまっている』という方がいいのかもしれません。

僕たちが感じているこの「世界」は、存在はすれど実在はしないマトリックス(超バーチャルリアリティ)です。

もし、このことを認められないのであれば、是非実在する「世界」というものを探してみてください。

突き詰めていけばいくほど、「世界」どころか「社会」や「国家」、あなたの勤める「会社」や、通っている「学校」も実在しないことがわかっていくでしょう。


「これはこれである」「あれはあれである」

「私は○○である」「彼は○○でなければならない」「彼女は○○をしてはならない」

「この事態は○○である」「この状態に私は○○な対応をすべきである」

などといった鱗の束が、その人独自のマトリックス(仮想現実)を生み出します。


このことを逆に捉えると、そういった観念から解放されるごとに、世界の見え方が変わっていく、マトリックスから脱していく、ということになります。

そして、あるレベルまで鱗が落ちると、世界の見え方が急激に転換します。

でもそれは、「ネガティブ(不幸)(負)が、ポジティブ(幸福)(正)になる」という質のものではありません。

「ネガティブ」も「ポジティブ」も、どちらも「鱗」であったことに気づく地点です。

「自分」も「他人」も「世界」も「時間」も、すべてが「鱗」を通して見えた幻影であったことに気づく地点です。


そしてその気づきは、一瞬の出来事です。

「じわじわとゆっくり目から鱗が落ちた」という経験をした人はいないと思います。

ウロコポーロは、「あっ!!」というインパクトがあってこそのウロコポーロです。

「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」と、時間をかけて目から鱗が落ちた経験はありませんし、そういう人を、見たこともありません。

そしてまた、「わたしの目から鱗は落ちたでしょうか?」と、尋ねるのも何だか変な話です。

ウロコポーロは、「あっ!!」という明確な自覚があってこそのウロコポーロですから。


でも、人によって「一度に何枚の鱗が落ちたか」という差はあり得ます。

一枚ずつ落ちていけば小さな気づきの連続で、徐々に世界が変わっていくでしょうし、一気に何枚もの鱗が落ちれば、それに比例しただけのインパクトを感じることと思います。


で、その中に、日常の気づきとはちょっと次元の異なるウロコポーロ・ポイントが存在します。

そのポイントの特徴は、意識ステージの移行を伴うことです。

このステージの移行によって、理解できる法則や運用するツールが異なってきます。

このことは、また改めてご説明していきたいと思います。



さて。

ウロコポーロは、目の中に鱗があってこそ、はじめて経験できる喜びです。

もともと鱗の無い人が、ウロコポーロを経験することはできません。

さらに。

ウロコポーロは、目の中の鱗が、どんな鱗なのかがわからないからこそ、面白さがあります。

「うわっ!」とか「えええっ!!」という驚きは、それを想像もできなかったからこそ得られるものです。

既知の中に、驚きはありません。

だからこそ人は、自分が当たり前に実現できることを叶えても、そこに喜びは見出しづらく、なかなか叶いそうもないことが実現することの中に、確かな手応えや喜びを感じます。



鱗の量が増えることは、間違いなく苦しみを増やすことに繋がります。

しかしながら、鱗の量が多ければ多いほど、それが落ちたときの喜びは大きなものとなります。

視力のいい人が、わざわざ度の強いレンズの眼鏡をかけていると思ってください。

度数が合わなければ合わないほど、その眼鏡を外した時に開ける視界の良好さに感動することでしょう。

それは、「視力が矯正されたことによる喜び」ではなく、「もともと視力に問題がなかったことを知る喜び」です。


ウロコポーロの感動が小さくなるけど、その分苦しみを少なくするか、それとも、苦しみを沢山抱えて、その分ウロコポーロの感動も大きくするか、その選択・楽しみ方は、自由です。


とにもかくにも、自覚の有無にかかわらず、この世はこの「ウロコポーロ」を楽しむための仮想現実世界です。

いうなれば、神が創り出したゲーム、超リアル・オンラインRPG『幻想見聞録〜ウロコポーロの冒険〜』の世界。


このゲームは、人智を超えた、神の創造性によって生まれたクオリティを誇ります。

そのクオリティの高さゆえ、あなたはゲームの世界にのめり込みすぎ、ゲームの「キャラクター」になりきってしまいました。

ゲームの世界の外の次元にいる「プレイヤー」であることを、すっかり忘れてしまいました。

なんせ、誰もが納得の、とんでもない「このリアルさ」なのですから。


*****

このゲームをプレイする際の「意識」が、「キャラクター」の次元にあるとき、それは「自我」や「顕在意識」といった呼ばれ方をします。

そして、「プレイヤー」としての次元にあるとき、それは「ハイヤーセルフ」や「高次の自分」といった呼ばれ方をします。

さらに、意識が「ゲーム開発者」としての次元にあるとき、それは「真我」や「潜在意識」といった呼ばれ方をします。

*****


もしアナタがプレイヤーであることを忘れ、キャラクターと同一化してしまっていても、大丈夫。

そのことを嘆かないでください。

実は、その「忘却」すら、ゲームの一要素(ファーストステージ)として用意されたものだからです。



と、いうことで。

次回からは、この『幻想見聞録〜ウロコポーロの冒険〜』のゲーム構造と、いくつかに分かれるゲームステージの特徴をお話していきたいと思います。



【ライブ・インフォメーション】

「リラクゼーションハウス ゴールドマイン」さんから、ライブのお誘いとご協力をいただきました。

6月に、はじめて福井にお邪魔致します!

前回の福岡ソロライブに続き、プロジェクターを利用したプレゼンスタイルのトークライブを予定しています。

お楽しみに!

◎あの世に聞いた、この世の仕組み in 福井

【日時】6月17日(日) 14:00〜(13:30開場)

【会場】福井市地域交流プラザ 研修室607
    福井市手寄1丁目4番1号 AOSSA 6階
    JR福井駅東口から…徒歩1分
    北陸自動車道福井ICから…車で15分

【料金】お一人様 3,000円

※お申し込みは【こちら】(携帯からお申し込みの方は【こちら】



※現在、このほかに、阿部さんとのコラボライブ「阿雲の呼吸」のツアー準備を進めています。

7月1日(日)仙台、7月7日(土)京都、8月4日(土)横浜、会期未定:名古屋・広島、という感じで予定しております。

準備が整い次第、改めて告知いたします。( ̄Д ̄)ゞ



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ウロコポーロ

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えー。

そんなこんなで、早速「ウロコポーロ理論」のお話を進めていきたいと思いますが、その前に。

まずはですね、この「ウロコポーロ」という、この言葉のニュアンスからお話していきたいと思います。


【ウロコポーロ】

目から鱗が落ちるさま。また、その人。



「目から鱗が落ちる」という慣用句を、ユーモアとともに見事に単語化したこの言葉は、もともと、僕が言い出したものではありません。

数年前に、あるコメンテーターさんから書き込みをいただいたものなんです。

で、コメント欄で拝見して、すっかり一目惚れしてしまいました。


いわゆる「目覚めの一瞥」の説明をするとき、聞くとき、「悟り」と言われると何だか偉そうだし、妙に仰々しい。

「アセンション」だと、何だかわからない。

「目覚め」や「気づき」なら、少し仰々しさは和らぐでしょうか。でも、一般的に使われる「目覚めや気づきと、何がどう違うの?」ということもあるし…。

でも、『ウロコポーロ』には、そういう違和感を感じさせない軽やかさがあったんです。


そしてまた、僕の経験を振り返ってみても、『ウロコポーロ』が一番しっくりする気がします。


と、言いますのもね…

この「目から鱗が落ちる」という慣用句を辞書で調べてみると、そこには驚きの事実が。


*****

目(め)から鱗(うろこ)が落(お)・ちる

《新約聖書「使徒行伝」第9章から》何かがきっかけになって、急に物事の実態などがよく見え、理解できるようになるたとえ。

*****


と、いうことで、この言葉の語源は「新約聖書」。そしてまさに「キリストを迫害していたパウロ(サウロ)が目覚めを経験し、回心するエピソード」から、来ていたんです。

で、さらに調べてみますと、この「鱗」は、魚の鱗のことではなく、蛇の鱗のことだそうで。(蛇の目は鱗で覆われています。 脱皮のときに目の鱗も一緒に剥がれるため、「目から鱗が落ちる」んだそうです)

w( ̄Д ̄;)w え〜!ずっと、魚の鱗だと思ってた〜!! まさに目から鱗!



とにもかくにも。

「目覚め」も「気づき」も「アセンション」も「悟り」も、その言葉の奥に、なんというか「何か新たなものを知った」というようなニュアンスを感じたりしませんか?

「覚者」と聞くと、どこか「あらゆる真実を知った人(過ちを犯さない人)」をイメージしてしまいませんか?

でも、僕がお話している「目覚めの一瞥」や「ウロコポーロ」のニュアンスは、それとは、ちょっと違うんです。

「すべてを知った」というよりも、「誤っていたことに気がついた」ということなんです。

「正しさを知った(得た)」のではなく、「鱗(思い込み)が落ちた」だけなんですね。

勿論、鱗が落ちた分、視界は以前よりクリアになっています。

でも、目の中にある鱗は、1枚や2枚じゃないんですよ。

「まだ入ってるのかよ!」と、さまーず三村さんのテンションで突っ込みたくなるぐらい、いろんな種類の鱗が入ってる。


だから僕は、「真実を知った者(覚者)」ではありません。「目から、いくつかの鱗が落ちた者」です。

そしてまたその経験から、「ウロコ」の存在と、そのウロコを目に入れたがる人間の心理に気づいた者です。

さらにさらに、一度落ちたウロコを、わざわざ目に入れ直したりもする者です(笑)


だから、僕がここでお話しているのは、絶対的な真理の提示ではありません。

そしてまた、僕好みの価値観・観念を広めることでもありません。

そうではなく、僕たち人間が、すでに持ってしまっている「自分自身の可能性を閉ざし、自らを不自由にしている価値観・観念(鱗)」の存在に気づいて欲しいだけなんです。


ここは大事なポイントなので、改めてお話します。


僕の話を「情報として得る」ことは、あまりオススメしません。

そういう使い方を前提としてこのブログに関わると、それは新たな「鱗」になってしまいます。

それは、僕のしたいことと真逆のことです。

僕の話は、あくまで「目から鱗が落ちる」を経験するための一つの切っ掛として使ってください。

「得る」のではなく「落とす」(厳密には「落ちる」。自我には落とせません)ために、使ってください。



それから、

お気付きの方も多いとは思いますが、僕は頻繁に「極端な話し方」をすることがあります。

前回の「指摘」のお話もしかりで、時に、その極端さに対して「黒斎さんは、そうやって断定的に話すけど、それだけじゃないよ、もっと別な解釈だってあるよ」というツッコミが入るわけです。

その指摘の数々は、確かにその通りなんです。

だから、そのご意見を排除するつもりも、僕の提示したものだけを押しつけるつもりもありません。


ただ、知っておいて欲しいのは、僕がその話(話し方)を持ち出したのは、別な意図があってのことだということです。

その意図とは、「無数にある鱗の中から、ある特定の鱗を、ピンポイントで落とそうとしている」というものです。

「その鱗」が目に入っていた人は、そのメッセージを切っ掛けに「あっ!そうか!」となる可能性がありますが、その鱗がない方にとっては、まるで意味を持ちません。

まるでピンときません。僕が、何を話そうとしているのかが掴めません。

だって「元からその鱗がない人」は、「その鱗があることで、どんな世界が見えるのか」が、わかりませんから。

そして、そのギャップの中に、様々な意見が飛び交い、収拾の付かない論争が生まれてしまうんです。

ですので、ピンと来ないときは素通りしてください。


このブログは、その媒体の特性上、不特定多数の方に対して発信されます。

しかしながら、話の内容は、閲覧者全員に向けられているものではありません。

たとえ僕が「あなた」と書いていても、それは「あなた」ではなく、僕が想定している「鱗の持ち主」に向けたものです。


ここにあるメッセージは、万人のためのものではありません。その話を切っ掛けに「あっ!」となれる人のためのものです。

まずは、そのことを改めてご了承ください。

そしてまた、余裕がありましたら、そういった観点からこのブログや本を、何度か読み直してみてください。

そうすることで、以前は何気なく素通りしていたところに、新たな「ウロコポーロ」が起こる事もあると思いますので。




【ライブ・インフォメーション】

「リラクゼーションハウス ゴールドマイン」さんから、ライブのお誘いとご協力をいただきました。

6月に、はじめて福井にお邪魔致します!

前回の福岡ソロライブに続き、プロジェクターを利用したプレゼンスタイルのトークライブを予定しています。

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◎あの世に聞いた、この世の仕組み in 福井

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本日、『月刊アレ!』の5月号が配信開始となりました。

よろしくお願いいたします!



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指摘.2

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(  ̄Д ̄) 『なぁ黒斎。今日は「指摘」という行為の中から、自我を解読してみよう。まずは、理想論や精神論から離れて、一人の人間としての素直な気持ちで聞いてみて欲しい』

( ̄д ̄ ) 「はぁ、指摘、ですか」

(  ̄Д ̄) 『指摘というのは、「する側」と「される側」で、まるで表情が異なるものだと思わないかい?』

( ̄д ̄ ) 「どういうことです?」

(  ̄Д ̄) 『その行為の中で、自我の経験する「気持ちよさ」に違いがあるんだ。
勿論、する側にも、される側にも様々な解釈があるからね、絶対的な基準として話すことはできないけど、おまえ自身を省みればわかるとおり、指摘っていうのは「される側」にとっては、あまり気持ちのいいものとは言えないだろ?』

( ̄д ̄ ) 「そうですね。確かに、気持ちいいものではないです」

(  ̄Д ̄) 『そしてね、その指摘が事実か否かは問題ではないんだ。相手の勘違いで事実無根の指摘をされるのは気持ちのいいものじゃないよね』

( ̄д ̄ ) 「もちろんです」

(  ̄Д ̄) 『じゃあ、その指摘が「図星」だったら?』

( ̄д ̄;) 「なおのこと気持ちいいものではありませんね……」

(  ̄Д ̄) 『な、どちらにしても気持ちのいいものではないんだ』

( ̄д ̄ ) 「でもでも、中には「いえ、あらゆるご指摘は私を成長へ導く大切な道しるべですから、感謝とともに頂戴いたします」なんて人もいるでしょう?」

(  ̄Д ̄) 『そうだろうね。けれども、それにしたって、それが「気持ちいいのか」って言ったら、そういうことでもないだろう?』

( ̄д ̄;) 「ええ…」

(  ̄Д ̄) 『で、「する側」ってのは、けっこう気分がいいんだ。
「アナタのために」という言葉が、本当の気持ちであれ、優越感を得る為の隠れ蓑であれ、どっちにしろ、気持ちがいい。
どうだろう、そういう気持ちを、自分の中に感じないかい?』

( ̄д ̄;) 「思いっきり感じますね」

(  ̄Д ̄)  『それはね、自我が「指摘」という構造の中に、少なからずの上下関係を感じてしまうからなんだ。

指摘する側が正しく(私が善で)、指摘される側が間違い(あなたが悪)。
指摘する側が利口で(私の方がより知っていて)、指摘される側が無知(あなたはバカ)。
指摘するのは優しさで、指摘されたなら、その優しさに感謝すべき。
私があなたに合わせるのではない、あなたが私に合わせるべき。

以前話したとおり、自我には「自己防衛(反転して、優越性の保持)」という基本プログラムがあるから、そんな構造が見えるやいなや、過敏に自動反応してしまうわけだ。「指摘される側」なら、なおのこと』

( ̄д ̄ ) 「なるほどー」

(  ̄Д ̄) 『指摘される側の自我が強ければ強いほど、それは「怒り」や「抵抗」など、「拒否反応」として現れることになる。
拒否反応がある以上、言いがかりでも、正論でも、どちらも受け入れたがらない。
ただの「指摘」でさえそうなんだから、そこに「高圧」や「強要」などの態度、「怒り」などの感情、攻撃性、そういったものが加わって見える場合は余計に「拒否反応(防衛反応)」が強まる。
「指摘する側」が、相手に改善を求めてたとしても、「指摘される側」は「お前のいいなりになってたまるか」という反応となって、結局は望まない結果の方を導くことになってしまうんだ』

( ̄д ̄ ) 「つまり、指摘はしないほうがいいということですか?」

(  ̄Д ̄) 『いや、わたしが話しているのはそういうことじゃない。した方がいい、しない方がいいということじゃなく、その性質を理解したうえで活用しなさいということなんだ』

( ̄д ̄ ) ???

(  ̄Д ̄) 『つまりね、大切なポイントはここなんだ。

「相手が求めていない場においての指摘は、まるで役に立たない(むしろ逆効果)」

そしてそれは、「指摘や反省は、本来自分自身に向けて活用するツールであり、他者に強要するものではない」

とも言い換えられる。

これは、コメント欄でたびたび話題になる「投影」や、また「感謝」などについても同様だ。
これらは自分自身のためのものであり、相手に強要するためのものではない。
自分の自動反応(カルマプログラム)に気づく為の一手段であって、他者をコントロールするためのものではないんだ。
そのツールを使って他者をコントロールしようとすることで、自我は自らの手で、対立や口論や生みだし、そしてその中でストレスを感じるんだ。
つまり、自分自身の手によって、苦を生み出してしまっているということ』

Σ( ̄д ̄;)

(  ̄Д ̄) 『このポイントがわかると、そこではじめて「指摘」における健全な関係性が見えてくる。
「指摘」という行為の中で必要になるのは、「上下関係」ではなく「信頼関係」だ。
先ほど話したとおり、この構造の中にあるものは、そもそも自我にとって気持ちいいものではない。
それを覚悟・了承の上、あえて「指摘を受けよう」となった時に、はじめて活用できるものなんだ。
だからこそ、信頼関係がないところに、本来の「指摘」が機能するはずがない』


*****



さて、いかがだったでしょうか。

皆さんがお気づきの通り、上記は前回の記事をそのまま、「僕と雲さんの対話」という形式で書き直したものです。

お話している内容は同じです。

しかし、その中に大きな違いを感じられる方もおられることでしょう。


何が違うのか。

それは「指摘されている人の違い」です。

多くの方からご愛顧いただいている「僕と雲さんの対話」という表現の中には、「アナタ」がでてきません。

指摘されているのは、あくまで「黒斎」であり、「わたし」ではありません。

つまり、当事者にならずして、話を傍観することができていたわけです。


しかし、前回の表現には、雲さんが見えませんでした。

(もしくは、あの一人語りが、雲さんの言葉なのか、黒斎の言葉なのか、判断できなかったはずです)

そしてなにより、指摘されているのが「黒斎」ではなく、「わたし」になってしまっています。

これまで安全な場で傍観していたはずの「わたし」が、いつの間にか『指摘』の中に巻き込まれている。

それが、多くの方の不愉快さに繋がりました。


最近のコメント欄でも見られる「あの時の黒斎さんはどこにいっちゃったの?」「最近、ちゃんと雲さんと話をしているんですか?」や、「お前、いつからそんなに偉くなったんだよ。もっと謙虚になれよ」という反応がそれです。


前回の記事の通り、自我は指摘が嫌いです。

勿論、僕も苦手です。

だからこそ、ブログの開設当初、対話形式という表現を好んで使用していました。

このアウトプットの仕方は、今でもとても人気があります。

このブログや本に対して、多くの方が感想としてあげられている「これまでのスピリチュアル書では感じられなかった読みやすさ」の一番の秘密は、実は、噛み砕いた表現や比喩の奇抜さではなく、「わたしが直接指摘されることなく、安心して読むことができるから」なんです。

「わたしが指摘されているのではない」という、自我の警戒心を最小限に抑えた状況の中で、冷静に、客観的に自我の構造を知ることができるから、すごく、受け取りやすいんです。

そして、「わたし」が巻き込まれないその中に、多くの方が「やさしい黒斎」や「謙虚な黒斎」を見い出したのだと思います。

そのイメージの持たれ方にも、少々の違和感を感じてはいたのですが、僕はながらく、それに納得して書き進めていました。

しかし、この表現だからこそのデメリットも沢山見えてきました。


見えてきたデメリットは様々なものがありましたが、その中でも僕が特に気になってしまったのは、僕がお話したい話の核心よりも、「守護霊」というイメージが一人歩きすることで、一部の方の関心の寄せ方が、僕の望んでいなかった、ファンタジーの方へと進んでいってしまったことです。

僕としては、ウソを書いているつもりはありませんが、それが大きな誤解を作っている原因の一つであるという自覚もありました。


そこで僕は、あえてこの対話という表現から離れてみようと思いました。

雲さんを出さずに、僕の一人語りを始めました。

すると案の定、「お前の話はいいから雲さんの話を聞かせろよ」という拒否反応が見え始めました。

あらかじめ想定していた反応でしたが、対話形式に戻すことにも躊躇いがありました。

「雲さんの話なら聞く」というこの姿勢の中に、盲目的な依存を感じずにはいられなかったからです。

『誰が話しているか』よりも重要なのは、『何が話されているか』です。

それが、すっかり失われているように思えたんです。



対話には対話のメリット・デメリット。

一人語りには一人語りのメリット・デメリット。

それに合わせて、不特定多数の読者の皆さんの多様な趣味嗜好。


出来るだけバランスをとって、多くの方にメッセージできる方法を探し、僕は次いで「物語」という表現方法をとってみました。

そう、『極楽飯店』です。

物語なら、読者が指摘に巻き込まれることはありません。

それを担うのは、タクちゃんをはじめとした、登場人物です。

表現方法を物語にすることで、再度、読者の皆さんの警戒心を抑えることができました。

またすこし、客観的な視点で、冷静に話を聞いてもらえるようになりました。


が。

ここでまた僕は大きな壁に突き当たりました。

「物語」を、どうやって書いていいのか、知らなかったのです(笑)


実を言うと、僕は30歳を超えるまで、本というものをほとんど読んだことがありませんでした。

学生時代から勉強が嫌いで、相当な活字アレルギーでした。

なので、僕は「デザイン」という道に逃げ込んだんです(笑)


まぁ、余談は置いといて。

とにかく、小説もほとんど読んだ事がないので、どうやって物語を書いて良いのかさっぱりわからない。

僕が話したいことを、どうやって物語に組み込めばいいのかわからないのです。

そしてその戸惑いは、そのまま「更新頻度の激減」というものに繋がってしまいました(笑)


そして、なんとかかんとか、物語を閉じるまでに至ったのですが、今度はその次の表現方法がみつかりません。


そんなこんなをしている内に、実は、新たな「シフト」を体験しました。

これまで自分の中で上手く整理できていなかった複雑な(いや、複雑だと思い込んでいた)次元構造の一部がわかってしまったのです。

でもそれは、2004年のあの時と同じで、新たな戸惑いの始まりでもありました。


実は、そのことを、いままで以上にお話したいんです。

なのに、それをどのように言語化(もしくはどんな表現方法でも)すればいいのか、わからないんです。

言葉にしてしまうと、あまりにも「トンデモ」な世界なんです。

それこそ、「あ、黒斎が、とうとう壊れた」とでも言われそうなぐらい(笑)



少しだけお話しますとね、聖書に、こんな話が出てくるんです。

イエスが水をワインに変えたり、ちょっとしか無かったパンを増やして、何千人もの人の空腹をみたしたり、等といった奇跡。

僕ね、これらの話を、きっと何かの比喩だろうと思って、その意味を探っていたことがあったのですが……

最近の僕は「あの話は実話かもしれない」という風に思い始めているんです。


ね、「いや、それはちょっと……」なレベルでしょ?



そしてまた、世にある沢山の「真実」。

矛盾を抱えた、相反する沢山の「真実」の表明も、本当はすべてが「真実」である、ということが分かってきました。

そして、どの「真実」を採用するかによって、自分の人生がどのように変わるか、また、個人個人が採用できる真実と、採用できない真実があることも分かってきました。

簡単に言うと、いわゆる「アファメーション」や「引き寄せの法則」などのメソッドで、実際に効果を実感できる人と、できない人がいることの理由です。

何かを実現する際に、努力が必要になる人と、まったく別なカタチで実現してしまう人の違いです。



と、いうことで。

僕にはまだまだ稚拙なアウトプットしかできませんが、(最近の流れに合わせながら)このことをお話していきたいと思っています。

表現の仕方は、対話形式・一人語り・寓話・実例など、様々なものを縦横無尽につなげていくつもりです。

そしてまた、その中には限られた方にしかわからないであろう、とてもストライクゾーンの狭い話も放り込みます。

自我にとって安全な、観客席から傍観していただくこと(アウトプット:対話形式)もありますし、時には、フィールドに出て、一緒にプレイしていただくこと(アウトプット:一人語り)もあると思います。

皆さんの新たな気づきに一役買いたいと思っていますが、その中には、とても不快な思いをさせてしまう可能性も多々含まれます。


そういった諸々のことをご了承のうえ、ご参加ください。


これから僕がお話していくのは、「ウロコポーロ理論」。

随分と前に、コメンテーターの方からいただいた「ウロコポーロ(目から鱗が落ちる現象)」という名称を拝借して、『この世の仕組み』についてお話するものです。


僕はついつい、話を引っ張りすぎてしまう傾向があるので、今回はまず先に、その結論、というか、いま僕が提示できる範囲内での「全体像」をお見せします。

中には、この図だけでも、何らかの気づきにつなげることができる方もいらっしゃると思います。





これから先、瞑想の話の続きも含め、この図に乗っ取ってご説明してまいります。

色々なご意見もあるとは思いますが、しばしお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。



【追記】

今後、それが誰宛かに関わらず、煽りや揶揄、揚げ足取りや罵倒など、不要な不快感を感じさせるコメントの掲載は控えさせていただきます。

また、僕のお話したいことと明らかに異なる解釈をもってのコメントや、話の流れに混乱を生じさせる可能性が感じられた書き込みは、ネガティブ・ポジティブ関わらず、掲載を見送らせていただきます。

もちろんこれは、指摘や反論を拒んでいるものでも、排除しようとしているのでもありません。

指摘の際には、相手に対しての尊厳や、表現の配慮を心がけたものでお願いいたします。

僕に対しての叱咤、ご意見も、ありがたく頂戴致します。どうぞ、これまで通りお寄せください。




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指摘

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理想論や精神論ではなく、一人の人間としての素直な気持ちでお話したいと思います。


『指摘』というのは、「する側」と「される側」で、まるで表情の異なるものです。


何が一番違うかと言うと、多分、その行為の中にある「気持ちよさ」じゃないでしょうか。

する側にも、される側にも様々な解釈がありますが、まぁ、「される側」にとっては、あまり気持ちのいいものとは言えないですよね。

その指摘が事実か否かは問題ではないんです。

相手の勘違いで事実無根の指摘をされるのは気持ちのいいものではありません。

そして、その指摘が「図星」なら、なおのこと気持ちいいものではありません(笑)

そうではありませんか?

どっちにせよ、気持ちのいいものではないんです。

もちろん中には「いえ、あらゆるご指摘は私を成長へ導く大切な道しるべですから、感謝とともに頂戴いたします」なんて方もいらっしゃるでしょうけども、それにしたって、それが「気持ちいいのか」って言ったら、よくはないわけで。ねぇ。


で、「する側」ってのは、けっこう気分がいいんですよ。

「アナタのために」という言葉が、本当の気持ちであれ、優越感を得る為の隠れ蓑であれ、どっちにしろ、気持ちがいい。

これって、素直な気持ちで自分を振り返ってみれば、誰もが感じられることだと思います。


それは『指摘』という構造の中に、少なからずの上下関係を感じてしまうから。


指摘する側が正しく(私が善で)、指摘される側が間違い(あなたが悪)。

指摘する側が利口で(私の方がより知っていて)、指摘される側が無知(あなたはバカ)。

指摘するのは優しさで、指摘されたなら、その優しさに感謝すべき。

私があなたに合わせるのではない、あなたが私に合わせるべき。


自我には「自己防衛(反転して、優越性の保持)」という基本プログラムがありますから、そんな構造が見えるやいなや、過敏に自動反応してしまうわけです。「指摘される側」なら、なおのこと。

指摘される側の自我が強ければ強いほど、それは「怒り」や「抵抗」など、「拒否反応」として現れることになります。

言いがかりでも、正論でも、どちらもノーサンキューです。

ただの「指摘」でさえそうなのですから、そこに「高圧」や「強要」などの態度、「怒り」などの感情、攻撃性、そういったものが加わって見える場合は余計に「拒否反応(防衛反応)」が強まります。

「指摘する側」が、相手に改善を求めてたとしても、「指摘される側」は「お前のいいなりになってたまるか」という反応となり、望まない結果を導くことになります。


つまり、大切なポイントはここです。

「相手が求めていない場においての『指摘』は、まるで役に立たない(むしろ逆効果)」

そしてそれは、反転させて、こう言い直すこともできます。

「指摘や反省は、本来自分自身に向けて活用するツールであり、他者に強要するものではない」


これは、コメント欄でたびたび話題になる「投影」や、また「感謝」などについても同様です。

これらは自分自身のためのものであり、相手に強要するためのものではありません。

自分の自動反応(カルマプログラム)に気づく為の一手段であり、他者をコントロールするためのものではありません。


このポイントがわかると、そこではじめて『指摘』における健全な関係性が見えてきます。

『指摘』という行為の中で必要になるのは、「上下関係」ではなく「信頼関係」です。

先ほど話したとおり、『指摘』という構造の中にあるものは、そもそも気持ちいいものではありません。

それを覚悟・了承の上、あえて「指摘を受けよう」となった時に、はじめて活用できるものです。

だからこそ、信頼関係がないところに、本来の『指摘』が機能するはずがないのです。


だから僕は、これまで一貫して「聞きたい人だけ聞いてください」というスタンスを守ってきました。

聞きたくない人、興味の無い人を引き留めるつもりはありませんし、また、僕がわざわざ聞きたくない人のところに出向いて、自分の考えを押しつけるつもりもありません。

むしろ、「話が核心に近づくにつれ、アナタが聞きたくない話になっていきますよ」という警告を要所要所でしてきたつもりです。


このブログは、精神性の高さを披露し合う場ではありません。また、精神性の低さを罵倒する場でもありません。

これまでも、これからも、このブログで僕が展開するのは、ある種の『指摘』と、その『指摘』の活用方法の提示です。

その提示が正しいものか、また、アナタに適しているかどうかの確証もありません。

そしてまた、一貫したポリシーもありません。




以上を考慮の上、参加を希望されない方は、どうぞご自由にお引き取りください。





【ライブ・インフォメーション】

「リラクゼーションハウス ゴールドマイン」さんから、ライブのお誘いとご協力をいただきました。

6月に、はじめて福井にお邪魔致します!

◎あの世に聞いた、この世の仕組み in 福井

【日時】6月17日(日) 14:00〜(13:30開場)

【会場】福井市地域交流プラザ 研修室607
    福井市手寄1丁目4番1号 AOSSA 6階
    JR福井駅東口から…徒歩1分
    北陸自動車道福井ICから…車で15分

【料金】お一人様 3,000円

※お申し込みは【こちら】(携帯からお申し込みの方は【こちら】



←ここにきつい一発をお願いします、女王様。
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雲堂

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。

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おい、TENGAを腹に当ててどうする!

ソレを当てるのは、へそ下三寸よりさらに下だ!!


……あ、すいません。

結構なリアクションをいただいたので、思わずTENGAネタを引っ張ってしまいました。

こんばんは、モテキを終えた者です。


さて、そんなこんなで、割り箸、マサイジャンプ、呼吸と鼓動、ペットボトル、と、いくつかの具体例を提示してみましたが、いかがでしょうか。

瞑想については、まだまだお話したいことがあるのですが、今回はちょっと中断して「瞑想アプリ」なんてものをご紹介したいと思います。

まぁ、言ってしまえば坐禅時間を設定する「タイマー」なのですが、あなどるなかれ。

合図となる鐘の音色をカスタマイズしたり、誘導ナレーションの有無を選べたり、累積回数・通算時間が確認できたり等々、なかなかに良い感じなのです。


インターネット寺院「彼岸時」が無料提供しているスマートフォン用坐禅アプリ。

その名も「雲堂」

その名称にも妙な親近感を覚えてしまいました(笑)。

僕のツイートで、たまに現れる「放禅:坐禅を終了しました。 (10:43)」という呟きは、この雲堂を使って坐禅を終えた時のものです。


「雲堂」 how to 坐禅【日本語】



上記の紹介VTRも、すごく丁寧に作られています。

ご興味・関心のある方は是非!


【ライブ・インフォメーション】

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◎あの世に聞いた、この世の仕組み in 福井

【日時】6月17日(日) 14:00〜(13:30開場)

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カルマの解消.2

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はてさて。

引き続きコメント欄に沢山の書き込みを頂いております。

イニシエーションの信憑性、「投影」、批判・対立の是非、お金と価値、コメント欄のありよう、また、僕のあり方などなど、皆さんのご関心も多岐にわたっておりますが、とりあえずはペットボトル瞑想のお話をすすめていきたいと思います。


思考(マインド)と、意識(存在感)のリンクを解いて、思考が介入していない状態の感覚を思い出す方法として、『呼吸や鼓動を感じることで、意識の中心を、頭からハートに下ろす』というお話をしました。

普段、額の周りに感じている「意識の中心」をぐーっと、下ろしていく。

そして、その「意識の中心を下げる」ということを「頭(マインド)でやろう」とならないように、呼吸と鼓動にフォーカスする。

それを「感じる」ことで、自ずとマインドが介入出来なくなっていきます。

それでも、長らく思考と意識が繋がりっぱなしだったため、「気づくと意識が頭に上がってきている」という状態になると思います。

それに気づいたら、ただ、また静かに、「呼吸と鼓動を感じる」という方にフォーカスしなおしてください。

慣れないうちは、どうしても行ったり来たりする感じになると思いますが、それでも構いません。

呼吸も鼓動も、慣れ親しんだものです。アナタから離れたことはありません。

だからこそ、一度でもその感覚を掴めれば、徐々に馴染んでいくと思います。

そして、たとえ行ったり来たりでも、継続することで、落ち着きや冷静さ、心のゆとりは生まれます。

心にゆとりを感じられるようになると、それに比例して、アナタの目にする「現実」が書き換わっていきます。

その好転は、特に「人間関係」という場面で現れ出します。

苦手だった人が苦手じゃなくなったり、意図せず縁が切れたり、意地悪だった人が急に優しく接してくれるようになったり、また、アナタのアセンションに必要な鍵を持つ人との、新たな出会いが訪れたり。

このことについては、また回を改めてお話したいと思います。



意識が「思考」とリンクしている状態から、「ハート」とリンクする状態へ移行し、その状態に慣れてきたら、今度は「丹田(いわゆる、へそ下三寸と呼ばれる部位)」に下ろしていってみましょう。

ここでいよいよ、ペットボトルの登場です。

中身は入っていようがいまいが構いません。ミネラルウォーターでも、オランジーナでも結構です。

そのペットボトルを、キャップ側を自分のお腹に向けるカタチで両手で軽く握ります。

そして、そっとキャップを丹田に当てる。

よく見る坐禅のポーズで、ペットボトル持ってる感じをイメージしてみてください。




↑こんな感じ。(TENGAじゃないぞ。ペットボトルだぞ)


で、「ハート」の時に呼吸と鼓動に意識を向けたのと同様、意識をマインドで下ろそうとせず、お腹にペットボトルのキャップが触れている、その感覚の方に意識を向けます。

そして、そのキャップとお腹(丹田)が触れているという感覚を手がかりに、いつも額の周辺にあった意識の中心が、丹田に下りてきている。そして、「丹田と意識がリンクする」という、その感覚を見つけてください。

思考が働いているのに気づいたら、慌てず、否定せず、ただ「感じる」に切り替える。

フォーカスを戻す位置が、ボトルキャップでマーキングされているので、すぐに戻ることができます。


で。

感覚的なものなので説明が難しいのですが、「何かを握ることで少しリラックスする」ってことがあるんです。

以前からお話しているとおり、瞑想とリラックスは切り離せません。

精神がざわついているときほど、リラックスするのはなかなか難しいものですが、前回ご紹介した準備運動で一度鼓動を高め、そして、その鼓動が落ち着いていく流れに乗ることと、ペットボトルを握るというこの二つことで、少なからずリラックスを促すことができます。


もちろんこれは僕の感覚に当てはめての話なので、該当しないという方は別な方法を探してみてください。

ペットボトルじゃなくてもいいし、何も持たなくてもいい。

とにかく、「意識と丹田のリンク」という感覚を掴めるなら、どんなものでもかまいません。

また、「リラックス」についても同じこと。

狭いところが落ち着く、と言う人もいれば、いやいや、狭いところは怖い、となる人もいます。

どんな環境が一番リラックスできるのかは、人それぞれ違いますので、自分に適した工夫をしてください。



意識とハートがリンクすると、人間関係に影響していくのに対し、丹田では、物質的な変化の流れを促してくれます。

これについても、また回を改めてお話したいと思います。



ご興味がありましたら、まずは一度、実際にお試しください。




【ライブ・インフォメーション】

明後日です!

◎4月15日(日) 阿雲の呼吸 in 札幌

今回の会場は、これまでの「札幌市教育文化会館」から「アスティ45」に変わっていますので、ご来場の際はご注意を。

詳しくは阿部さんのブログにて。



福井の「リラクゼーションハウス ゴールドマイン」さんから、ライブのお誘いとご協力をいただきました。

6月に、はじめて福井にお邪魔致します!

◎あの世に聞いた、この世の仕組み in 福井

【日時】6月17日(日) 14:00〜(13:30開場)

【会場】福井市地域交流プラザ 研修室607
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←ペットボトルを丹田に当てる前に、ポインタをここに当てていただければと。
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瞑想について

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沢山のおめでとうメッセージありがとうございました!

この歳になると、誕生日が「おめでたい」ものなのかどうなのか、微妙な感じではありますが(笑)

それでもこうして祝って頂けると、素直に嬉しいものです。

改めてサンキュー!(←39歳なだけに)(この歳になると、ベタなジョークも平気になるようです)


さてさて本日は、お祝いのメッセージとともに、前回の記事についていくつかご指摘がありましたので、この場を借りてお返事させていただきたいと思います。


まず最初にお話しておきたいのは、先日ツイッターで呟いてもみたのですが、僕のスタンスは、『言葉に縛られちゃいけない。誰がなんと言おうと、あなたが納得するカタチで幸せになれればそれでいい』というものです。

これは勿論、僕の言葉も同様です。

ここに書かれているものが気にくわなかろうが、信じられなかろうが、腹が立とうが、それはそれで構いません。

そしてまた、「コレが絶対の真実である」なんてことは言いません。

僕は自分の実体験に照らし合わせながら、確実だと感じている事を書いておりますが、その中には間違いがある可能性もあるでしょうし、表現の未熟さもあるでしょうし、僕に当てはまっても誰かにとっては当てはまらないこともあるでしょう。

それに、これは僕自身がずっと試行錯誤し続けていることですが、僕の伝えたい趣旨と、読者の皆さんの受け取り方との間に、大きな違いが生まれることは多々あります。

だからこそ、僕の話は、誰かに無理強いしているものではないということを、ご承知置きください。


さて、それを踏まえまして、再度お話に戻りたいと思います。


まずは、坐禅好きさんから頂いたコメントです。


*****

黒斎さん
>ただ座っていても、速やかなシフト(意識・エネルギーの変容)や、カルマの理解が進みません。

と断言的に書かれていますね。
カルマを理解するのは誰でしょう?少なくともあなたの言う潜在意識ではない。潜在意識はすでに知っているから。

「只管打坐」という言葉をご存知ですか?

ただ座る、徹底的に座る、座るに成り切るという事です。
断言的にものを書く前に、坐禅なども勉強されなされ。
思考が止み、深く入れますから。
しかも無料です。

*****



なるほどご指摘の通りです。

確かに自分でも読み返すと、誤解を与える表現をしているなって思いました。

多分、坐禅好きさんが反応されたのは、特にこの部分だと思います。

「ただ座る」という、この言葉。

ここに、僕と坐禅好きさんのボキャブラリーの相違があったのだと思います。

そしてまた、その「ただ座る」と「イニシエーション」が比較されて語られているように感じられた、ということではなかろうかと。

その上で、僕の記載を訂正させていただけば、僕がお話したかったのは『闇雲に座っていても、速やかなシフト(意識・エネルギーの変容)や、カルマの理解が進みません』というニュアンスです。

坐禅好きさんの言うところの「ただ座る」を否定しているわけではないのです。

むしろ、言いたいことは多分、坐禅好きさんと同じなんだと思うんです。(違ったらごめんなさい)


確かに、坐禅好きさんのご指摘のとおりで、「ただ座る、徹底的に座る、座るに成り切る」という事が出来ればよいのです。

ただし、その「ただ座る」という至極シンプルなはずのことが、容易ではなくなっているというお話をしていたんです。

「ただ座る、徹底的に座る、座るに成り切る」ということを容易に体現できる方には信じられないかもしれませんが、これが、凡夫の我々にとっては容易ではなくなっているのです。


できる人は言います。「ただ、座れ」

しかし、凡夫はその言葉に「で、どうやって?」となってしまうのです。


この、「どうやって?」から「ただ座る」に至る、この間に、どうしても思考では超えられない一つ目の「何か」があるのです。

だって、「ただ座る」に理屈も思考もへったくれもありませんから。

むしろ、その理屈や思考とは無縁だからこその「ただ座る」ですから。

それなのに「理屈を落とす理屈探し」に嵌ってしまうのです。

そのギャップを超えることも、人によってはとても困難な場合があります。

僕も、そのひとりでした。

「ただ座る」

これが、すぐに理解できないのです。

僕がお話しているのは、まず、その段階からのことなんです。

そしてまた僕がこのブログでチャレンジしているのは、「理屈を落とす理屈探し」を可能にする理屈の展開です。

理屈は理屈ですから、どこまで行っても理屈はなくなりません。

しかしながら、理屈探しをやめようと思える屁理屈は提示できるかもしれない。

そういう悪あがきです。


>カルマを理解するのは誰でしょう?少なくともあなたの言う潜在意識ではない。潜在意識はすでに知っているから。


仰るとおりです。

だからこそ、ここ最近僕もこう書いているのです。

「それを知ろうとしている顕在意識を鎮めることで、既にそれを知っている潜在意識が露わになってくる、ゆえに知る」と。

そして、その顕在意識を鎮めるには、それを知ることを追うのではなく、静寂にあること。

つまりは、「ただ座る」こと。

が、しかし、その顕在意識がすっかり定着しているからこそ、その「ただ座る」がわからない、というこのグルグルをお話しているわけです。

そして、僕がオススメしますとお話したイニシエーションのお話は、そのステップと、さらにその先のプロセスを容易にすることができますよ、というものです。

そういう意味では、確かに、坐禅好きさんには必要のないものなのかもしれません。

そしてまた、まどろっこしいと感じられるのかもしれません。


勿論、無理強いなんてしませんよ。

実際、必要のない方には必要のないものでしょうから。

しかし、このイニシエーションを受けたことが、大きな気づきやさらなる理解に繋がったと実感されている方が、多数いらっしゃることも事実なんです。

僕自身も、そう実感しています。

だからこそ、関心がある方には、オススメしたいのです。


とはいえこのことも、厳密には、客観的な観測からお話するのはとても難しいものなんです。

というのも、(他の何かと同じように)「それを行った場合」と「それを行わなかった場合」の結果を、比較検証することが不可能だからです。

行った場合は、行った場合の経験しか得られず、行わなかった場合は、行わなかった場合の経験しか得られない。

当たり前の話ですが、それゆえ、「コレをしたから、こうなった」もしくは「しなかったから、こうなった」という、明確な因果関係を示すことができないんです。

ましてや「瞑想」という主観に基づく内容で、これを話すんですから、そりゃ難しいわけで…。


で、再度話を戻して、この「ただ座る」の話を突き詰めてしまえば、先ほどタンジョウビオメデトウゴザイマスさんがコメントしてくれた通りになってしまいます。

別に「座る」じゃなくてもいいわけで。


>ただ自然を感じ、ただご飯を食べ、ただ会社に行き、ただ笑い、ただ怒り、


こうなりますよね。

そして、ご指摘のとおり、本当に、それだけで良いはずなんです。


だけど、その「ただ」がわからなくなってしまっている。

そして、闇雲に自然を感じようとし、闇雲にご飯を食べ、闇雲に会社に行き、闇雲に笑い、闇雲に怒り…

と、そうなってしまっている。

そして、そこから抜け出せず(もしくは気づきもせず)、闇雲に生きてきた結果が、いま我々の前にあるこの現実です。

そして、この「ただ」を思い出すことができたなら、それこそが「アセンション」ではないでしょうか。

そして、多くの人が、その「ただ」を思い出した時、そこに「パラダイムシフト」が起こるのではないでしょうか。



で。最後に。

今回のお話、また、これに限らず精神世界系でも特に話題になりがちな「お金」について。

これについては、また全く別な観点の話かと。

「無料だから良い、有料だから悪い」、また逆に、「無料だから悪い、有料だから良い」ということは、それだけでは話せないことだと思います。

無料には無料のメリット・デメリットが、有料には有料のメリット・デメリットが見いだせます。

それに、僕だって「有料だけをすすめる」なんてことはしていませんよね?

あくまで選択肢の一つとしてご紹介しているわけです。

じゃなきゃ、こうして僕なりのメソッドをご紹介してるのも辻褄が合わないじゃないですか。

深呼吸だってジャンプだって、場合によっちゃ割り箸だって無料ですよ(笑)


そしてまた、価格の妥当性を問うのであれば、無料有料にかかわらず、それは、価値とワンセットで検討されるものだと思います。

その価値が分からない時点では、良いも悪いも分からないのが本当なわけで。

もっといえば、これまでお話してきたとおり、価値というのは、「そのもの」にあるのではなく、僕たちがその価値を与えるか(見出すか)どうかという話なわけで。

そしてまた、なんでもかんでも「お金と悪意」や、「支払いと損失」を結び付けるのも変な話ですし。


ということで。

長くなりそうなので、お金の話はまた別な機会にさせてください。


それと、心配していますさん。

ご友人がどのような情報に触れられたのかはわかりませんが、僕が検索したかぎりでは、書き込みいただいたような内容は見つけることができませんでした。

どなたかがコメントしてくれていましたが、公式サイトでは、まったく違う記載内容となっています。

ご確認ください。



P.S.

※もし、僕の話とは別に、この「お金」や「価値」というものを見つめ直したい方がいらっしゃいましたら、一度参考にして欲しい本があります。

既にご存じの方も多いかとは思いますが、『まっかなトマト』という絵本です。

「お金」や「価値」、また「豊かさと清貧思想」などへの考察については、これまで何度かご紹介してきた池田晶子さんの著書類にも何度か登場していますが、こちらは絵本という手に取りやすく、また非常にわかりやすい表現のものですので、ご一読をオススメします。

その際は、ぜひ「あとがき」までお目通しいただきたいと思います。

勿論この本の読み方にも、人それぞれの個性が表れるのでしょうが、僕に取っては非常に共感できるものでした。



では。また、改めて。



【ライブ・インフォメーション】

阿部さんと一緒に札幌へ行きます!

◎4月15日(日) 阿雲の呼吸 in 札幌

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平日のお話会「月イチ☆」の5月開催分、あと僅かです。

◎5月23日(水)「月イチ☆」

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←うん、お誕生日はすぎちゃったんだけどね。(おねだり)
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カルマの解消

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【ネ兄 Dear 俺】本日誕生日を迎え、39歳になりました【四十路目前】


多くの諸先輩がたと同じように、ただいま「実年齢と本人の自覚が一致していない」という現象に巻き込まれております。

そうかー、黒斎ももう39歳なんだー。(←すっかり他人事のよう)

「39歳」って、もっと違う感じだと思ってた−。


さて、年齢的なお話はさておき。

今日お話したいのは、ちょっと別なこと。


もし僕の机の引き出しにタイムマシンが仕込まれていて、そいつで10年前の自分のところへ行き「仕事・借金・離婚問題。頭を抱える問題が色々あると思うけど心配するな。10年後は夫婦円満で、2人の子宝に恵まれ、会社を辞めて独立し、借金は全額返済され、金の心配をすることもなく、東京でのびのびと暮らしている」なんて自分に言っても、10年前の僕は全然信じないと思います。

自分の月給で借金を返せないことは計算してわかっていたし、妻の失望の眼差しは日常茶飯事だったし、産婦人科の先生から子供は望めないと言われていたし、会社を辞めるつもりなんて全く無かったし、北海道以外の土地、しかも東京に住むだなんて、頼まれてもイヤだったし。

自分が穏やかに、幸せに暮らしている、というそのことが全く想像できなかったのですから。


それぐらい、過去には想像すらできなかった現実がここにあります。

それは、想定外の出来事や、新たな出会いなど、「ライフプラン」の中で語りようのなかった沢山の要因があって訪れたものです。


いま現在、かつて僕が抱えていた問題の数々は、すべて、僕の計画外・想定外の展開によって解決されています。

「ああ、どうしよう…」と年中無休であれこれ対策を講じていた僕の努力とは、全然別な次元で物事は動いています。

これはね、僕だけじゃなくて、多くの皆さんが感じられていることだと思います。

(いま目の前にある問題はさておき)かつてあった色々な問題は、その時には想像できなかった要因によって解決されていると。

そしてまた、それらが解決された今となっては、かつてどんな問題や悩みを抱えていたかすら、日常生活の中では、ほとんど忘れられてしまっていると。


だからね、もしアナタが今、出口の見えない悩みや苦しみの中にあるのだとしても、どうぞ安心してください。

その悩みは問題は、「今のアナタが想定できない要素」の訪れによって解決されます。

たしかに「今の状況」では、その問題の解決は「不可能」に感じられるかもしれません。

でも、その「状況」は固定されたものではありません。絶えず変化し続けています。

なにより、この世において、動いていないものは何一つ存在しません。

その絶え間ない流動と変化によって、不可能は可能になります。


「不可能から可能」へのシフト、そのプロセスは、アナタ(顕在意識)にはコントロールできません。

それを動かすのはソース(潜在意識)です。

ですから、アナタがどのようにして問題を解決するか、そのプロセスを考える必要はないんです。

むしろ、慌てふためいて騒ぎ立てる思考によって、ソースが示すサインを見過ごしてしまう。

アナタはただ静かに待ち、ソースの創造性と可能性にすべてを委ねて、そこから送られるサインをただ受け取ればいいだけ。

流れに乗ってしまえばいいだけ。


うん、わかってます。

「その『サイン』が何なのか、何がサインなのかがわからないんだ!」

「その『流れ』が何なのか、どの流れのことなのかがわからないんだ!」

ですよね。


それこそが、「カルマプログラムの影響を受けている」ということです。

カルマの影響下においては、サインや流れがわからなくなって当然なんです。


だからこそ、カルマプログラムを発動させないこと。

それが「瞑想」です。


「『瞑想』って何だ?」「キケンじゃないのか!?」「どうやってやればいいんだ」「何が正しくて、何が間違いなんだ」「何が起こるんだ?(不安や期待)」

カルマプログラムは、そういった「ノイズ」を発することで、『瞑想(カルマプログラムの不発)』を妨げようとします。

ノイズの向こうの静寂に答えがあるからこそ、カルマは僕たちにノイズに関心を向けるよう仕向けます。

「真理」ではなく「真理について」に、「瞑想」ではなく「瞑想について」に目を向けさせてごまかすんです。


『瞑想を求めることこそが、瞑想を妨げる』

カルマプログラムが用意した最後の砦、このパラドックスがあるからこそ、(本当はとてもシンプルなことなのに)瞑想の実現は難しいものとなっています。

ただ座っていても、速やかなシフト(意識・エネルギーの変容)や、カルマの理解が進みません。

速やかさや深みを求めるのであれば、ヨグマタ・相川圭子さんがお話されているようなディクシャや、ボブ・フィックスさんのフルフィルメント瞑想(クオンタム瞑想)などの、イニシエーション(高次元エネルギー伝授)を受けることをオススメします。


この「イニシエーション(伝授)」と呼ばれるものは、いわゆる瞑想の「レクチャー」ではありません。

「教える・教わる」また「学ぶ」という性質のものではなく、自我が超えることのできない『瞑想を求めることこそが、瞑想を妨げる』というパラドックスを、エネルギーワークを通じて超越してしまう密教的儀式です。

「瞑想(について)」ではなく、「瞑想(そのもの)」を伝授する、その「伝授」です。


えーと、それはそれとして。

話を手軽に出来るメソッドの方に戻しましょう。


前回のコメント欄で何件か「鼓動が早くなるならジャンプじゃなくてもいいのか?」というご質問があったので、そこからお話したいと思います。

もちろん、それはそれで構いません。

が、ジャンプに意味がないわけでもないのです。(このジャンプには、脳と体に影響を与え「エネルギーを活発に流す準備を整える」という効果があります)


>うちはマンションに住んでるのでジャンプとかしてたら下の階の人に怒られてしまいそうです。


なるほど。

では、変わりとなる運動をする上で、いくつかコツ、というか、ポイントとなる点をお話します。


1.リズム運動であること。(一定のリズムを保てる運動であること)

2.加圧トレーニング(力を入れる)ではなく、リラックス(力を抜く)に繋がるものであること。

3.背筋の矯正や、気功に繋がるものであればなお良し。


と、いうことで。

たとえば「スワイショウ(手を振る気功体操)」なんかはいかがでしょうか?

これなら、階下に騒音でご迷惑をかけることもないかと思います。


それと、前回書き忘れたポイントを一つ加えさせてください。


運動後に座るとき、できたらお尻よりも膝が少し低い位置になるようにしてみてください。

これは、坐禅スタイルで座って居る人も、椅子を使っている人も同様です。

坐禅なら、枕やたたんだ座布団等をお尻に敷く、椅子なら、少し高めに調整するなど。

体格にもよると思いますが、お尻と膝に10センチぐらいの高低差があると、腰の座りと背筋がより安定して落ち着きます。


そんな感じで、お試しください。


呼吸や鼓動を感じることで、意識の中心を、頭からハートに下ろしていく。

それが慣れてくると、すこしずつ、思考から離れた時の静寂や、落ち着きを実感することができると思います。


次回は、意識の中心がハートにおりることで現れる、ちょっとした変化についてお話したいと思います。




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平日のお話会「月イチ☆」の5月開催分、受付中です。

◎5月23日(水)「月イチ☆」

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←ほら、今日、黒斎君のお誕生日だし。(おねだり)
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マサイの戦士

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「みいつけた!」のスイちゃんも、熊田胡々ちゃんから野原璃乙ちゃんへ世代交代。

4月に突入し、いよいよ新年度スタートの月曜ですね!


そんな、意識転換に理由づけには打って付けの今日。

せっかくですから、「意識」と「思考」のリンクを解いて、これまでとはちょっと違う意識状態を思い出してみましょう。

というわけで、ここ何度かのライブでお話している、雲さん流意識転換メソッドをご紹介します。

これは以前、僕が雲さんに「瞑想ってなに?」という投げかけをした時の返答をまとめ、体系化したものです。


では、早速。



( ̄д ̄ ) 「ねぇ雲さん、瞑想って、どうやったら上手くできるの?」


(  ̄Д ̄) 『なんというか…、いつもながら質問自体がずれているな。

瞑想ってのは「上手くする」とかいう性質のものじゃないんだよ。

「瞑想」は、辞書に載っているような意味(何かに心を集中させること。目を閉じて深く静かに思いをめぐらすこと)でも、考えない努力をすることでもない。

「自我の不在状態(または自我の影響を受けていない状態)」のことなんだ。

だから、瞑想を求めている側(人間の普段の意識状態)が、「瞑想する」ということは、厳密にはできない。

その「瞑想を求めている者」が消えた時が「瞑想」だからね。

言葉を変えるなら、「顕在意識が消えることで、潜在意識が露わになった状態」といったところだ』


( ̄д ̄ ) 「顕在意識が消えることで、潜在意識が露わになる?」


(  ̄Д ̄) 『そう。でも、顕在意識と潜在意識はスイッチを入れ替えているわけじゃないんだ』


( ̄д ̄ ) 「ん? どういうことです?」


(  ̄Д ̄) 『顕在意識(自我)が「ON」のとき、潜在意識(真我)が「OFF」になっているわけじゃない。

潜在意識(真我)は、常に「ON」の状態なんだ。「OFF」になることがない。

「ON」と「OFF」の切り替えが出来るのは、顕在意識の側だけなんだ。

だから、状態としては2通りしかない。

お前の普段の意識状態は「顕在意識ON + 潜在意識ON」。

それに対して、瞑想状態は「顕在意識OFF + 潜在意識ON」ということなんだ』


Σ( ̄д ̄ ) 「なるほど、潜在意識が露わになるってのは、そういうことですか」


(  ̄Д ̄) 『うん。こう考えてみよう。

お前が道に迷っているとして。そのお前の前に二人の人物がいる。

的確な道のりを知ってるAさんと、全く土地勘のないBさんだ。

Aさんはとても物静かで口数が少ない。そして本当に大切な要点だけを、小さな声で囁くように話す。

一方Bさんは、おしゃべり好きで騒々しい。道案内とはまったく関係のない世間話を延々と繰り返しては大騒ぎ。息継ぎする暇もなく、ずっと話続けている。たまに道案内をしてくれたかと思っても、内容はほとんど当てずっぽうだ。

Aさんは正確な道のりを話してくれるが、Bさんの騒々しさでうまく聞き取れない。

さて、そんな状況に置かれたら、お前ならどうするかね?』


( ̄д ̄;) 「そりゃぁ勿論、Aさんが話しているときぐらい、Bさんに黙ってもらうことを望みますが…」


(  ̄Д ̄) 『だよな』


( ̄д ̄;) 「ええ…」


(  ̄Д ̄) 『それが瞑想なんだ』


( ̄д ̄ ) 「あぁー、なるほど」


(  ̄Д ̄) 『で、そんなおしゃべり好きなBさんに「黙れ!」と言ったらどうなると思う?』


( ̄д ̄;) 「『どうして話を聞いてくれないんだ!』って、余計ギャーギャー言われそうですね…」


(  ̄Д ̄) 『そういうこと。もしくは、もっと話を聞いてもらえるように、Bさんも新たな策を練るだろうね。

そんなこんなで、瞑想において「考えないようにしよう」って努力するのは、まさにBさんに「黙れ」というようなものなんだ』


( ̄д ̄ ) 「なるほどね。だから僕は上手く瞑想できないんだ」


(  ̄Д ̄) 『それとね、お前がうまく瞑想に入れない理由はもう一つある』


( ̄д ̄ ) 「え? なんすか、それ」


(  ̄Д ̄) 『Bさんのおしゃべりが面白すぎるんだ』


Σ( ̄д ̄ )


(  ̄Д ̄) 『道を尋ねていたこともすっかり忘れてしまうぐらい、ついつい話に引き込まれてしまう。で、結局、迷子のままになってるんだな』


( ̄д ̄;) 「まるで大掃除の最中に出てきた卒業アルバムみたいなヤツですね。でもまぁ、わかる気がします。

で、結局そのBさんに黙ってもらうにはどうしたらいいんです?」


(  ̄Д ̄) 『簡単な話さ。Bさんがしゃべり疲れるまで待つか、もしくはBさんが納得するまで話を聞いてやるか。

どちらにせよ、お前が話しにのめり込むと、Bさんは嬉しくなって益々おしゃべりが加速するからね。

うまいこと聞き流してやるのがポイントだな』


( ̄д ̄;) 「それはそれでしんどそうですね…。なんか、上手く聞き流せるようになるコツみたいなのってないですか」


(  ̄Д ̄) 『あるよ』


Σ( ̄д ̄;) 「あるの!?」


(  ̄Д ̄) 『じゃあね……まずは跳んでみて』


( ̄д ̄;) 「は?」


(  ̄Д ̄) 『跳んで』


( ̄д ̄;) 「と、跳ぶ?」


(  ̄Д ̄) 『そう。マサイの戦士になった気分で、あまり膝を曲げずにピョンピョン垂直に跳ねてごらん。で、しばらくしたらそのまま上半身(特に腕)の力を抜いてジャンプするの』


ピョンピョン ⌒v⌒v⌒ ヾ( ̄д ̄;)ノ )) ピョンピョン 「こ、こんな感じですか?」


(  ̄Д ̄) 『そうそう。力を抜いた腕が、太ももにパンパン当たる感じでね』


ハァハァ (( ヾ( ̄д ̄;)ノ )) ハァハァ 「いつまでこうしていれば?」


(  ̄Д ̄) 『疲れるまで』


ハァハァ (( ヾ( ̄д ̄;)ノ )) ハァハァ

ハァハァ (( ヾ( ̄д ̄;)ノ )) ハァハァ

ハァハァ (( ヾ( ̄д ̄;)ノ )) ハァハァ


|壁|ヽ( ̄д ̄;) ハァハァハァハァハァハァ……(←思いの外、すぐに疲れちゃったの図)


(  ̄Д ̄) 『で、疲れたらそのまま椅子に座るの。あ、あんまり深く腰掛けずにね。背筋をピッと伸ばして』


( ̄д ̄;) ハァハァハァハァハァハァ……

( ̄д ̄;) ハァハァハァハァハァハァ……

( ̄д ̄;) ハァハァハァハァハァハァ……(←座っても、なかなか動悸が収まらないの図)


( ̄д ̄;) 「で?」


(  ̄Д ̄) 『そうするとさ、普段忘れてた「鼓動」が感じられるでしょ』


( ̄д ̄;) 「ええ、たしかに」


(  ̄Д ̄) 『自然と生まれる呼吸と鼓動のリズムを感じるんだ。そして、徐々に落ち着いていく鼓動を逃さないように。

腕に指を当てなくても、自分の脈が心臓で感じられるように意識するんだ。

すると、普段は認識しづらい自分の鼓動も、徐々に捉えることができるようになる。

呼吸で潜在意識を捉えていくのと同じように、鼓動を使って無意識を意識してごらん。

この呼吸や鼓動に意識を向けている間は、思考が動けなくなる。

いや、「思考が意識と結び付けなくなる」といった方がいいかもしれない。

普段のお前は、意識(存在感)の中心が思考と一体化している。

考え事の中にいる自分を思い出してみればいい。その存在感の中心が、額や目の周りにあるのが感じられるだろう。

その意識の中心を、呼吸と鼓動を感じることで胸(ハートのチャクラ)に下ろしていくんだ。

まずはこれを繰り返すことで、「意識の中心がハートにある」という状態になれてごらん。

そうすることで、徐々に「顕在意識OFF + 潜在意識ON」という感覚が養われていくから。

そして、Bさんのおしゃべり(思考)でかき消されていた、Aさんの存在が捉えられるようになる。

Bさんのボリュームが下がるほどに、Aさんの囁きが聞こえるようになる』



……続きます。



【ライブ・インフォメーション】

阿部さんと一緒に札幌へ行きます!

◎4月15日(日) 阿雲の呼吸 in 札幌

今回の会場は、これまでの「札幌市教育文化会館」から「アスティ45」に変わっていますので、ご来場の際はご注意を。

詳しくは阿部さんのブログにて。



平日のお話会「月イチ☆」の5月開催分の受付を開始します。

◎5月23日(水)「月イチ☆」

※詳しくは【こちら】(携帯からお申し込みの方は【こちら】



←押した?押したよね?(オフロスキー調で)
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ダルマとカルマ.3

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。

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どうもね!

最近みんなどう?

割り箸、「ニッ」ってやってる?

確定申告済んだ?

笑ってね!

気ぃ遣ってね!(Hi-Hiの上田浩二郎チックに)


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と、いうことで、お待たせしました。「カルマのプログラムの影響を受けないようにするには」という具体的なお話を進めてまいりますが、結論はこれまでお話してきた通りです。

実は、ビックリするぐらい単純な話で。

単純すぎるので、逆になかなか信じてもらえません(笑)


一つ。

深呼吸を習慣にしましょう。(「吐ききること」と「安定した深い呼吸」がポイント)

二つ。

笑いましょう。(割り箸メソッド or 幸せマントラ「ウイスキー」)

三つ。

満たされていないことではなく、満たされていることにフォーカスを向けてみましょう。(幸せな状況があるから幸せになるのではなく、幸せであるからこそ幸せな状況が訪れる)

四つ。

「思考」と「意識」の違いを知りましょう。


まずは、この四つだけ。

で、コレを踏まえて、さらに話を進めてみましょう。


以前から何度かお話している通り、「自我」というのは、「思考」とほぼイコールです。

で、「思考」から離れることによって、「ダルマ」の流れを掴む感覚を養うことができます。


とはいえ、「自我」や「思考」の存在が悪なのではありません。

前々回お話したとおり、この存在は、宇宙が「自由」「遊び」を経験するために必要なものだからです。

しかしながら、この「自由」と「遊び」は、神が実現できなかった「最善以外」を拡大することで生まれた要素。

その仕組みに気づけなければ、単純に「苦」を生きる事になります。



「思考」することが悪なのではなく、「思考」に主導権を握られている状態(自覚のないまま、固定化された思考・認識反応が自動的に発動している状態)が、苦を招くというだけの話です。

その自動反応に飲み込まれることなく、自覚をもって「思考」を選択できるのであれば、「自我」は自由と遊びを経験する上で、とてもすぐれたツールになります。

というか、神(高次のアナタ)に「決して触れてはならぬ」と言われていたファイルを開くまでは、自我(カルマプログラム)はそのようなカタチで健全に機能していました。

昨今「アセンション」と呼ばれている流れは、「意識の進化」というよりは、この本来のあるべきバランスに戻ろうとしている動きです。

このことは、後日また改めて話すとして、ダルマとカルマの話に戻りましょう。



端的に話すと語弊もあるかとは思いますが、あえてシンプルに話すと、人間は長らく、カルマプログラムを利用するのではなく、完全にカルマプログラムに飲み込まれて(逆に利用されるカタチとなって)、ダルマの流れを完全に見失っている状態でした。

先人たちが、「汝自身を知れ」という言葉や「瞑想」などを通じて示していたモノは、カルマプログラムの発動を抑え、ダルマの流れを再確認することを促したものです。


「カルマの精算」「カルマの浄化」などといった言葉によって、「カルマは消して無くせるモノ」というイメージがありますが、実はそうではありません。

カルマは消えてなくなりはしません。これは、そういう性質のものではないんです。

とても話し方が難しいのですが、少し、チャレンジしてみます。


まずは、「自我(他と分離して存在している私がいる)」という感覚自体が幻想で、本当は「個人(個的魂)」というものが存在していないため、「個人的なカルマ」というものも、本当は存在していません。

言ってみれば、カルマは生命エネルギー同様、全存在が「共有しているプログラム」です。

だから、「個人的に抱えているカルマの量」というものはありません。

「あの人は多くのカルマを抱えている」「あの人はほとんどカルマがない」というようなことではないんです。

そうではなく、現象界のレベルにおいての「個人」という、この感覚において、「どれだけカルマプログラムの影響を受けているか」という話なんです。

だから、先のセリフを言い換えるなら、

「あの人はカルマプログラムの影響をとても受けている」「あの人はほとんど影響を受けない」という感じです。


でもって、カルマは、あくまで「プログラム」。

存在しているようで、実在はしません。


アナタのパソコンや携帯電話には、インターネットを楽しむためのブラウザー(プログラム)がありますが、そのアプリケーションプログラムを発動しなければ、このブログも閲覧することはできません。

カルマもコレと同じです。

プログラムとしては存在していても、それを起動・発動・運用しなければ、ないも同然です。

「影響を受けるか否か」以前に、プログラム自体を走らせなければいいんです。

で、その「カルマプログラムが発動していない状態」がいわゆる『瞑想状態』です。


「何か」を「しよう」としたとき、プログラムが動き出します。

「何か」がアプリケーションで、「しよう」がダブルクリックです。


だから「瞑想をしよう」とすると、自分の中にある観念上の「きっとこれが瞑想だアプリ」が起動してしまいます。


では、このジレンマを脱し、瞑想状態(カルマプログラムが動いていない状態)に入るには。


それが冒頭にお話した「思考と意識の違いを知る」ということに繋がります。


これも、説明の仕方が難しいので、とりあえずポイントを箇条書きにしてみます。

どうか、ニュアンスを掴んでみてください。


1.「思考」はカルマ寄り、「意識」はダルマ寄りのポジションにあります。

2.「思考」は、精神世界系の書籍では、「マインド」という言葉で書かれているものです。

3.とにかく「思考」は、常時僕たちの頭の中にある声、考え(言葉や計算の数々)です。

4.頭の中から言葉が消えれば、そのまま「マインド」が無くなります。

5.「意識」は、いうなれば僕たちの「存在感」のことです。思考や五感が閉ざされたとしても残るであろう、「(私が)ある」という感覚。その一番純粋な存在感のことです。

6.普段の僕たちは、「思考」と、「意識(存在感)」のポジションが結びついています。

7.「思考」を止めることに注意をむけるよりも、「意識(存在感)」のポジションをスライドして、「思考」と「意識」の結びつきを解いてあげる方が、瞑想の感覚を掴みやすいです。


では、どうやって「意識」のポジションをスライドするのか。

その一つが『感じる』というものです。

以前からお話しているように、僕たちの脳は、感じることと考えることを同時にすることができません。

つまり、「感じる」ということによって、自然と「考えられない(マインドが働かない)」という状態になるんです。


で、阿部さんのブログなどでも、度々紹介されますよね。

「耳をすます」というのがその一つです。

「感じる」といっても、色々ありますが、瞑想(いまに帰る)という感覚を求めるのであれば、聴覚をオススメします。

これは、脳波と関連するお話なのですが、視覚(光)や触覚(刺激)などの情報は、ベータ波(緊張)と結びつきやすく、聴覚はシータ波(リラックス)と連動しやすい傾向があるそうです。

もちろん、音の質にもよると思いますが。(でも、大音量のカラオケボックスでグッスリってこともあるからね)


で、耳をすますときのポイントは「聞くこと」ではなく「すますこと」にあります。

「聞く」というのは「これは何の音」「好きな音」「うるさい」など「情報として捉えようとする」ということになりがちです。

だから耳はすましても、聞かないでください。

ムーディ勝山の如く、右から来たものを左へ受け流してください。



そして、もう一つは「呼吸」です。

普段無意識になっている「呼吸」に意識を向け、呼吸を感じてみてください。

呼吸はいつもの感じでかまいません。数える必要もありません。ただ、感じていてください。

そのことによって、自然と思考と離れているときの感覚を養うことができます。



で、次回は、ここ何度か「月イチ☆」でご紹介しているメソッド、「ペットボトル瞑想」をご紹介したいと思います。




【ライブ・インフォメーション】

阿部さんと一緒に札幌へ行きます!

◎4月15日(日) 阿雲の呼吸 in 札幌

今回の会場は、これまでの「札幌市教育文化会館」から「アスティ45」に変わっていますので、ご来場の際はご注意を。

詳しくは阿部さんのブログにて。



※4月の「月イチ☆」のチケットは、お陰様で完売となっております。
 5月は23日(水)を予定しています。受付の準備が整い次第、改めてお知らせします。


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