長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

信仰への招き  1.人間にとっての幸せ

2019-06-08 21:00:48 | 信仰への招き
人は皆、幸せを求めます。「福音」が「よき知らせ」であるなら、人を幸せに導くものであるはずです。そして、確かに聖書によって示されている「福音」は、人を幸せにするものであると、私は信じます。
 
ただ、本当の人間の幸せがどういうものであるか、すべての人が分かっているわけではありません。むしろ、的外れな所に幸せを求め、さまよっている人々も多いのではないでしょうか。
 
聖書の最初のところに、最初の人々として有名なアダムとエバの物語が記されています(創世記2章)。彼らはエデンの園で生活をしていました。それは、彼らにとって幸せな生活でした。神様は愛をもって彼らを守り、養い、導いておられました。彼らもそのことをよく分かり、神様を愛して生きていました。神様によって造られたアダムとエバは、最初の夫婦として、互いを喜び合い、愛し合って生きていました。食物もふんだんにあり、自然環境も快適でした。
 
このような、いわゆる「楽園での生活」の様子を見ると、人間にとっての幸せがどのあたりにあるのか、見えてくるような気がします。愛し、愛され、喜びと平和に満ちた生活がそこにあります。
 
しかし、聖書の続きを読み進めると、そのような「楽園での生活」は失われてしまったことが分かります。そのことについては、また後程取り上げたいと思いますが、私たちが世界の様子、私たちのすぐ周囲の様子に目を向けますと、そのことはすぐ分かります。愛ではなく、無関心や憎しみ、喜びと平和でなく、悲しみと争いが至る所にあります。
 
しかし、聖書を通して教えられるのは、神様が私たちのために、「回復の道」を備えてくださったことです。これが福音です。それは、今すぐ、世界が楽園の生活に変わるというのではありません。神様の回復の道には、順序というものがあります。しかし、世界は相変わらず悲しみと争いに満ちているとしても、それでも今この世界で、「楽園の生活」を回復することは、ある面、可能です。そんな道を、神様は御子イエス・キリストを通して備えてくださっています。
 
悲しみと争いに満ちたこの世界でも可能な幸せな生き方とはどんなものか、聖書を何度も読みながら、私なりに考えてみますと、「神様の愛のもと、神を愛し、人を愛する生き方」とまとめることができるように思います。これは、多くの人が考える「幸せな生き方」と重なる部分もあるかもしれません。よく聞かれるような、「健康で、経済的にもゆとりがあって、よい家族や友人に囲まれて・・・」といった「幸せな生活」観と重なる部分もありそうですが、焦点がもう少し違うところに置かれています。
健康や経済的状況は、良いこともあれば良くないこともあります。だれしも「よい家族や友人に囲まれて」と願いますが、常にそういう環境に恵まれるばかりとは言えません。それらのものが幸せの基準であれば、私たちは常に幸せになったり、不幸せになったりします。しかし、「神様の愛」は揺れることがありません。
 
「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。
それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」(エレミヤ31:3)
 
これは聖書に示された神様の言葉です。人間の愛は、大きくなったり小さくなったり、燃え上がったり、消え去ったりします。しかし、神様の愛は変わらず、真実に私たちに向かい続けてくださいます。この神様の愛に気づき、この神様に信頼して生きること、これが私たちの幸せな生き方の土台となります。
 
この神様の愛を知ったなら、次に、この神様に愛をもってお応えしていくこと。そして、周りにいる方々をも愛しておられる神様であることを知って、自分も周りの方々を愛していくこと。これが人間にとっての幸せな生き方であると、聖書は示しているように思います。
 
聖書が示す生き方は、必ずしも世の人々が飛びつくようなものではないかもしれません。しかし、この世界を創造し、人間をお造りになった神様は、人間本来の生き方がどのようなものかご存知です。そして、そのような本来の生き方をしていくとき、私たちは本当の意味で幸せに生きていくことができます。なぜなら、神様が私たちをそのようにお造りになったからです。
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