ちょこっとGUM

今、自分が出来ること。やれること。それを精一杯やっていかなくちゃ!!

コラム記事 【12/28~12/30】

2021年12月30日 08時53分18秒 | マリーンズ2021

≪12/28≫

【千葉魂】努力のオフ越え22年へ 井口監督「頑張りは必ず結果に」 千葉ロッテ

 ZOZOマリンスタジアムはオフでも活気にあふれている。キャプテンの中村奨吾内野手は契約更改を行った24日は午前8時から身体を動かし、時間を有効利用していた。この日、誕生日だった平沢大河内野手も姿を現し藤岡裕大内野手と2人、黙々と打ち込んだ。安田尚憲内野手もマシン相手に連日、打ち込みを行っていた。誰もクリスマスムードに浸ることはない。マリーンズの選手たちはそれぞれの課題と向き合い、自分たちで考えながら身体を動かし、来る2022年シーズンに照準を合わせていた。

 「選手たちにはこの時期の大事さを分かってほしい。この時期にしっかりとウエートや振り込みを行えば必ず来年4月に生きる」と井口資仁監督。

 常々オフの期間の重要性を説いていた。2月1日から身体をつくりあげるのではない。2月1日は戦いのスタート。初日から実戦を行える万全の状態で臨むためのオフだという方針を就任以来ずっと説き続けてきた。だからこそキャンプ初日に紅白戦を行ったこともあった。戦いはもうこの時から静かに、しかし確実に始まっているのだ。

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 「2月1日からポジション争いは始まる。若手には休んでいる時間はない。毎日を大事に過ごしてほしい。充実した日々を過ごしてほしい。今、頑張るとその頑張りは必ず結果となって返ってくる」

 指揮官の想いはこの4年間で浸透している。考え方、戦い方、方針。だからこそ選手たちはオフに浸ることなくジャージーに着替え、汗を流す。ZOZOマリンスタジアムだけではない。浦和球場で、それぞれの故郷や借りている練習施設で。選手たちは見えない努力を続けている。それはまだ一軍昇格の機会のない若手選手も同じだ。寮では夜遅く駐車場で黙々とバットを振る選手の姿がある。屋上の簡易打撃スペースで夜遅くに身体を動かす選手もいれば、一度、汗を流した後の夕食後に再び室内練習場で打ち込む選手がいる。それが当たり前の光景である。

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 そんな若手選手たちの貪欲に取り組む姿に井口監督は目を細める。そして「若手の底上げは絶対に必要。選手たちも頑張ってくれている。自分も我慢が大事。すぐにうまくいくことはないということは分かっている。我慢強く使ってあげないといけない時はある。すぐに変えてもなんの意味もない。変えても何も生まれない」と決意を語る。

 あと3勝だった。141試合目でリーグ優勝の目標は潰えた。それは目の前にあった。誰もが月日は経った今も野球の話になると第一声は「悔しい」から始まる。22年こそ。来年の師走は、このオフの鍛錬の日々を笑顔で振り返りたい。若手選手たちは確実に成長している。けがが癒え、逆襲に燃える選手たちもいる。今年、手ごたえを掴んだ選手たちもいる。まもなく年は変わる。21年は去り、22年を迎える。丑年から寅年へ。マリーンズ最高の年が始まる。

◇お断り=「千葉魂マリーンズ挑戦の日々」は2022年から不定期掲載になります。

(千葉日報)

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≪12/28≫

ダルビッシュも認めた大嶺祐太の剛速球…“離島のヒーロー”が千葉ロッテで過ごした15年間「また起き上がって立ち向かう」《中日と育成契約》

 大嶺祐太投手(33歳)は、2022年から拠点を千葉から名古屋に移すことになった。

 千葉ロッテマリーンズで15年。通算129試合に登板して29勝(35敗)。濃く思い出深い日々だった。

 ただ、その毎日の中心にあったのは怪我との闘い。決して順風満帆なものではない。

 石垣島で生まれ、島で育った大嶺が、初めて見ず知らずの地に降り立ったのが、2006年12月。首都圏での生活は石垣島で育った若者にとって決して楽な事ではなかった。車がひっきりなしに走り、人がぎゅうぎゅう詰めとなって電車に乗り、分刻みのスケジュールに急ぐ人々とすれ違った。知らない人ばかりの世界。電車のない青い海に囲まれ、知っている人たちとの間で生活を営んできた若者にとっては、あまりにも異次元に感じる環境だった。

 当時の大嶺は「電車に乗るのは怖いです」とポツリと漏らしたことがあった。ストレスの多い毎日だった。

 そんな戸惑いの中で最初に心が動かされたのは入団記者会見後に行われる千葉ロッテマリーンズ恒例のファン参加型の入団会見型イベントだった。出席した大嶺は集まった大勢のファンが作りあげてくれた「大嶺コール」に震えた。

「オレの事をたくさんの人が応援してくれていました。うれしかった」

 戸惑いの日々の中で見つけた大きな感動だった。ファンのために投げる。プロ野球選手という職業の意味を悟った。明確な道を見つけた瞬間だった。

マスクをかぶった里崎「火の玉のようだった」

 スタートは順調だった。1年目はオープン戦序盤から一軍に合流。その後、4月30日の西武戦で一軍デビューをした。勝ち星こそつかなかったが、150キロ近い剛速球を全面に押し出しての投球に誰もが興奮した。

 その時、マスクをかぶった里崎智也捕手(現野球評論家)は「藤川球児と同じようなストレート。火の玉のようだった。これからが楽しみ」と若者の未来に太鼓判を押した。

 初勝利はプロ2年目の08年7月24日。札幌ドームでダルビッシュ有と投げ合った。球界のエースというあまりにも荷の重い対戦相手。下馬評はファイターズ断然有利。しかし、勝利したのは大嶺だった。ダルビッシュは試合後に負け投手にも関わらず「彼のピッチングが自分より上だったという事。ナイスピッチングでした」とエールを込めたコメントを残した。

 ヒーローインタビューでは名言を残した。

「石垣島から一番遠い、北海道でプロ初勝利を挙げることが出来たのも、なにかの縁だなあと思っています」

 あんなに都会におびえ物静かで虫の音のような声で話をしていた若者がいつの間にかそんな気の利いたコメントを言えるようになるまでに成長をしていた。

 誰もが離島のヒーロー誕生を喜んだ。未来を信じた。しかし、翌年は5勝止まり。10年は3勝。毎年のように「今年こそ2ケタ勝利を」と周囲から渇望されていた大嶺は、その期待をむしろ重圧と感じているかのように、日に日にマウンドに上がる時の表情が硬くなっていった。

「時々、海が恋しくなるんです」

 苦悩の日々が始まった。11年はわずか1試合だけの登板で未勝利。12年はついに一軍未登板に終わった。その後、巻き返して15年にはキャリアハイの8勝を挙げるが待っていたのは右肘の痛みとの闘いだった。自信喪失を克服すれば故障。苦しく辛い日々が続いた。

「時々、海が恋しくなるんです。癒されたくなるんです。きょうはどうしても海が見たい。そんな日があるんです」

 大嶺はいつも悶々とした日々が続くと海を思い出していた。

 遠征のため乗った飛行機の中で読んだ機内誌で、沖縄の水族館特集が組まれていると無性に故郷の海が恋しくなり休みを利用して関東圏の水族館に足を運んだこともあった。幼い時は漁師の祖父といつも海に出て魚を釣って遊んだ。船に揺られ、魚を釣っている時はどんな辛い事も忘れる事が出来た。海の広さを感じるのが好きだった。自然の雄大さを全身で感じる事で自分の小ささを再認識し、また島に戻って頑張れた。そんな原点を思い出し、また頑張った。

 プロ入り15年目の今季は復活をかけて挑んだシーズンだった。

 19年1月に右肘内側側副靭帯の再建手術を受け、この年と20年のキャンプはリハビリに明け暮れた。いったんは育成契約も経験し、20年8月に再び支配下登録され、3年ぶりに一軍のマウンドに上がった。しかし、2試合の先発に留まり、未勝利でシーズンを終えた。一軍復帰こそしたものの、悔しさを残した。

 今年こその想いを胸に自主トレから体を鍛え強い決意のもと、新たな1年に挑み、春季キャンプから存在感を見せつけた。

「身体は今までで一番いい感じ。以前は88キロあった体重もつい最近、計測した時は81キロだった。そのせいか分からないけど疲れにくくなっている。ストレートもだいぶいい感じ。足も速くなりましたよ」

 大嶺らしい独特の口調で冗談も交えながら語る姿から調子の良さが窺えた。手術による辛く我慢を強いられたリハビリの日々が大嶺の心を強くしていた。

 キャンプではもちろん、全体メニューには入れず毎日、陸上競技場メインスタンドで黙々と階段上りを繰り返した。

「リハビリ期間は毎日、同じことの繰り返しということもあって正直、気持ちのアップダウンがあった」

 本当にこれでいいのだろうか。不安になることも多かった。もう治らないのではないか。マイナスな事を想像すると不思議と患部に違和感を覚えた。ただ、病院で診察してもらうと異常なしの診断。不安になっては安心して前向きになって。そんな日々を繰り返した。

「最後は気持ち。手術をした時はどん底。これ以上は下に行くことはないと思うようにした。肘もここからは良くなる一方。いざ、投げられるようになる時には万全でいけるように、この時間を無駄にしないようにしようと思った」

初めて電車通勤を経験して、発見したこと、

 ギプスをつけているため車の運転が出来ないこともあり、リハビリを行う二軍球場(浦和)には初めての電車通勤を経験した。都内では満員電車にも乗った。島から出てきた時はあれほど嫌だった電車が、いつの間にか自分の時間を作れる大切な場所となっていた。

 ある時、ふと成功した経営者の本が目に入った。読むと「車はあまり運転しない」という記述が目に留まった。

 なぜだろうか? 気になった。

「電車に乗ると目的地まで私を運んでくれる。その時間を仕事に充てたり、本を読んだり効率的に時間を使える」

 電車通勤を始めたばかりの大嶺はハッとさせられた。時間を無駄に使ってはいけない。それからだ。大嶺は電車通勤の中、スマホでメジャーリーガーの投球フォームの動画を見るようになった。片っ端から見た。長かった電車での通勤時間があっという間に感じた。そして発見もあった。

「色々なヒントがあった。これまでは上半身で力いっぱい投げるフォームだったけど、今は体幹と下半身を連動させることを意識して投げるようにしている。そうすると肩と肘の負担も少なくなる。リハビリ期間に色々な人に聞いたり学んだりして自分なりに考えた」と大嶺は振り返る。

 今季は8試合に登板をして1勝1敗で防御率4.09。17年以来となる貴重な白星を手に入れることも出来た。残念ながらオフに来季の戦力構想から外れ、ドラゴンズに育成選手として移籍することになった。

 だが、まだまだ出来るという確かな手ごたえを掴めたシーズンでもあった。

「体は元気。一日でも早く支配下(登録選手)になれるように元気よくやっていきたい」

 背番号は「211」。マリーンズ入団時は「1」。そこから「11→30→126→64」と何度も変わった。背番号の移り変わりからも、ここまでのプロ野球人生がいかに紆余曲折なものであったかがうかがい知れる。

「残り少ない野球人生の中で、こういう機会を与えてもらったので、一生懸命ドラゴンズのために投げていきたいと思います」とドラゴンズの入団会見で大嶺は前を向いた。

『爬竜舟(はりゅうせん)』という曲がある。沖縄県石垣市出身のバンドグループ、BEGINが2010年9月8日に発売したアルバム『ビギンの島唄 オモトタケオ3』の中に収録されている。この曲には、BEGINから大嶺へのエールも込められていた。同じ石垣島出身で、07年オフに都内で行われたライブをきっかけに交流を深めてきた。大嶺はこの曲を登板する際の登場曲に使用していた時期もあった。

「沖縄には海の安全や豊漁を祈願する舟の競争があって、これに参加する舟のことを爬竜舟と言うんです」

 大嶺は独特の淡々とした落ち着いた口調でこの曲のタイトルの意味を教えてくれた。そして言葉を続けた。話の核心の部分を伝える時の大嶺は一段とゆっくりと話をするのが特徴だ。

「この競争を見に来てくれるお客さんが一番沸くのは、どの場面だと思いますか? 舟が転覆して、それを必死に起き上がらせてまた漕ぎ出す。そういう場面なんですよ。僕の野球人生も一緒。失敗しても、苦しく辛い日々が続いても、また起き上がって立ち向かう。そういう姿をファンは見てくれている」

 不調にあえいだ。故障にも見舞われた。自分を見失いそうになった時もあったが、この歌に込められたメッセージはいつも大嶺の心の中心にあった。必ず起き上がって立ち向かう。その思いはドラゴンズに移籍が決まった今、さらに大きなものになっている。

 もう一度、スポットライトが集まるマウンドに上がる。次の仕事場は慣れ親しんだZOZOマリンスタジアムではなくバンテリンドーム。石垣島を旅立って15年が経ち、若者はベテランと呼ばれる年齢に差し掛かった。順風満帆とは程遠いほどの苦労を重ねたことで人間的な魅力は増した。そして新たな旅に出た。大嶺祐太の旅はまだまだ続く。

文=梶原紀章

(Number)

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≪12/29≫

攻守走に躍動!“チームの心臓”ロッテ・中村奨吾

打線を支える

 ロッテの中村奨吾は自身初のベストナイン、3年ぶり2度目となるゴールデングラブ賞を受賞と、攻守に躍動の1年となった。

 井口資仁監督が就任した2018年にレギュラーに定着した中村だったが、昨季は打率.249と低調な成績に終わった。今季に向けて、「(中村)奨吾にはチームの先頭に立って、存在感を見せて欲しいと思っています。責任感も強いし、いつもチームの事を最優先に考える自覚もあるので彼ならチームを引っ張ることが出来ると思っています」(井口資仁監督)と、チームキャプテンに就任。

 チームキャプテンとなった中村は、主に3番打者として、1番を打つ荻野貴司とともにシーズン通して打線を支えた。開幕直後は2試合連続で3安打以上放つ好調ぶりで、打率は一時リーグトップに浮上。4月を終えた時点で打率.327、5月も月間打率.315と、リーグトップの得点力を誇った打線を引っ張った。

 6月に月間打率.229と落ち込むも、7月と8月の打率は.344と再び上昇し、6月24日のソフトバンク戦から9月1日の西武戦にかけて30試合連続で出塁した。

 9月に入り打撃の状態が落ち、普段使用しているオレンジのバットから黒茶のバットを使用するなど試行錯誤する時期もあったが、安打が出なくても四球を選んだり、犠打、犠飛と最低限の仕事を果たした。今季の中村は、10月27日の楽天戦から10月30日の日本ハム戦にかけて3試合連続で出塁がなかったというのが最長だった。

 チャンスメイクするだけでなく、勝負所で価値ある一打も多かった。5月22日の楽天戦では1-1の8回に勝ち越しのソロを放てば、7月3日の楽天戦では2-3の8回に第6号逆転2ラン、8月24日の日本ハム戦では0-3の9回に2点を返しなお二死一、二塁の場面で同点の適時打、8月27日の楽天戦で1-1の8回に勝ち越しの第7号ソロを放った。

18年以来のGG賞

 守ってもゴールデングラブ賞を受賞し、華麗な守備でチームのピンチを何度も救った。

 4月18日のオリックス戦では、太田椋が放った高いバウンドの打球に対し前に突っ込み、うまくあわせてキャッチし一塁へ送球しアウトにした。5月9日のオリックス戦では杉本裕太郎が放ったセンター前へ抜けそうなゴロを中村が逆シングルでキャッチし、二塁ベースカバーに入ったショートへ送り、4-6-3の併殺を完成。

 一、二塁間の難しい打球を何度も好捕にした。6月8日のヤクルト戦では青木宣親、7月10日の日本ハム戦の石井一成、8月31日の西武戦の栗山巧が放った一、二塁間の当たりをダイビングキャッチし、素早く一塁へ送球し一塁でアウトにした。

 セカンドベース付近に飛んだ打球に対しても、9月24日の西武戦、森友哉が放ったセカンドベース付近の打球を逆シングルでキャッチし、そのまま一塁へジャンピングスローでアウトにするスーパープレー。

 中村はゴールデングラブ賞を受賞した際、球団を通じて「アドバイスをいただいた皆様、手伝ってくださったスタッフ、そして信頼しあいながらお互いカバーしながらプレーをさせてもらったチームメート。皆様に感謝です。本当に一人でとれた賞ではありません。周りの皆様に感謝しかありません」と感謝の言葉を述べた。

好走塁を連発

 走塁面での貢献度も高かった。4月2日の日本ハム戦では8回に山口航輝のセンターへのフライで二塁から三塁へタッチアップ。14-0と大量にリードする展開だったが、気を緩めることなく1つ先の塁を貪欲に狙い続けた。

 4月24日のソフトバンク戦では角中のセンターへの犠飛で、二塁走者だった中村もセンターから中継のショートへの送球が乱れた隙にホームインする好走塁。

 交流戦では5月28日の広島戦、5月30日の広島戦で、投手の投球モーションを完全に盗み盗塁を決めれば、6月9日のヤクルト戦ではセンター前に安打を放ち、センターが一塁走者のマーティンを刺そうと三塁に送球している間に二塁へ進塁する好判断。

 8月24日の日本ハム戦では、センターとセカンドの間にフライを放ち、センターがダイビングキャッチを試みるも、打球が転々している間に二塁を陥れた。

2月の対外試合から出場

 攻撃、守備、走塁で高いプレーを披露し続け、なおかつ4年連続で全試合出場を果たした。

 中村は対外試合が始まった2月13日の楽天戦に『5番・セカンド』でスタメン出場を果たすと、2月の練習試合は全10試合に出場。オープン戦も13試合中12試合に出場し、東京五輪期間中に行われたエキシビションマッチも11試合中10試合に出場した。もちろんCSは日本シリーズ出場をかけての戦いのため全試合フルイニングで試合に出た。

 練習試合、オープン戦、エキシビションマッチはシーズンに向けた調整期間のため、途中交代や途中出場があったものの、2月の対外試合からほぼ全試合に関わっている。とにかく故障に強く、頑丈な選手だ。プロ野球選手は移動があり大変ななかで、故障なく全試合に出場していることは、個人的にもっと評価されるべきだと思う。

 派手さはないが、攻走守すべてにおいて今のマリーンズには欠かせない存在。来季も背番号『8』がチームを引っ張っていってくれるはずだ。

文=岩下雄太

(ベースボールキング)

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≪12/29≫

元ドラ1右腕の第2の人生 ロッテへ“恩返し”構想は「ビールの売り子してもいい」

内竜也氏は4月に「株式会社V-slider」を設立し代表取締役になった

 元ロッテの内竜也氏は、2020年シーズン限りで球団一筋17年間の現役生活を終えた。今年4月に自身が代表取締役となり「株式会社V-slider」を設立。かつてのドラフト1位は、セカンドキャリアで子どもたちのためのスポーツアカデミー創立とロッテへの恩返しを目指して動き始めた。

 直球とスライダー。ほぼこの2種類だけで、内氏は並みいる強打者と戦ってきた。「自分はスライダーしかなかったけど、1つの武器を持ってプロ野球選手を17年間できた。“1つしかない”ではなく、1つあれば何でもできる。社会に出る時も、1つ武器を身に付けようと思いました」。会社をつくるのにあたり、真っ先に「スライダー」の文字を社名に入れることを決めた。

 会社を設立したのは「将来的にやりたいことのために、しっかりと動き出したかったから」だ。「やりたいこと」は主に2つある。1つはスポーツアカデミーを創設し千葉出身選手を輩出すること。拠点とするかずさ地区で、野球だけでなく様々なスポーツを体験できる場所を目指す。

 現在「ブリングアップベースボールアカデミー」で子どもたちに指導する中で、痛感したことがある。自身は丁寧に教えているつもりでも、ポカーンとしている子どもたち。「理由を聞くと、動かし方が分からないと言うんです。例えば“腰を落とせ”と言っても、まず落とし方を教えてあげないと。子どもたちには体の使い方が大事になると思う」。トレーナーを充実させることに加え、他競技を経験して野球とは違った体の使い方を学ぶことも大事だと考える。千葉県内にある8つのプロスポーツ団体のOBとの連係など、具体的なプランも思案中だ。

応援ツアー企画もコロナ禍で実現せず

 もう1つはロッテへの恩返し。ファンを盛り上げる応援ツアーなどを今シーズン企画したが、新型コロナウイルスの影響により実現することはなかった。それでも状況が落ち着けば、やってみたいことは多くある。「例えば球場でファンに試合を解説したり、球場内のグッズ売り場にOBが立ったり、喜んでくれるお客さんがいるならビールの売り子をしてみてもいい」と驚きの構想の一端を明かした。

 熱狂的な声援に背中を押され、マウンドに立ち続けてきた。「現役時代は感謝していても、やはり距離が遠かった」というファンには「辞めた今、近くに思ってほしい」とイベントなどで積極的に交流を図る。「ファンを盛り上げて、ロッテを盛り上げたい」と熱い思いを語った。

 2003年ドラフト1巡目で川崎工高からロッテに入団。30台半ばで出る社会に「苦労は全部。公立高校出身だし、大学社会人を出ている選手に比べて圧倒的に知り合いも少ない」と苦笑いする。

 右も左も分からない中で、コロナ禍により活動も制限されたが「今は色々な人の話を聞いて勉強させてもらったり、土台づくりの時期と捉えています。3~5年後、1つでも形にしていたい」と目標を掲げた。

第2の人生は始まったばかり。千葉のために17年間腕を振り続けた男は、この先も千葉のために尽くす。

(町田利衣 / Rie Machida)

(フルカウント)

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≪12/30≫

レジェンド引退、51年ぶりのマジック点灯 デイリーが選ぶロッテ10大ニュース

 デイリースポーツが選ぶロッテの10大ニュース。今季は優勝マジックを点灯させながら惜しくも2位に終わった。シーズンでは佐々木朗が躍動し、ベテラン荻野らが奮闘。レジェンドの引退もあった2021年を振り返る。

 【1】鳥谷が現役引退

 阪神で16年間、ロッテで2年間プレーした鳥谷が現役生活に終止符を打った。3月26日・ソフトバンク戦では遊撃手での史上最年長開幕スタメンを果たすなど、年齢を感じさせないプレーを見せた。しかし、7月6日に出場選手登録を抹消され、32試合で打率・170、0本塁打、2打点にとどまった。

 「チームの勝利に貢献したいという思いでやってきたが、貢献がなかった。そろそろ辞めないといけない気持ちでいた」と引退の理由を明かした。17年に通算2000安打を達成し、NPB史上2位となる1939試合連続出場。通算2243試合で、2099安打、打率・278、138本塁打、830打点、131盗塁の偉業を残したレジェンドがユニホームを脱いだ。

 【2】51年ぶりの優勝マジック点灯

 10月14日、1・5ゲーム差の首位・オリックスとの直接対決。先発の佐々木朗は最速158キロを連発し、6回を5安打無失点。同い年の宮城との投げ合いに一歩も引かずに勝利へ導いた。0・5ゲーム差の2位ながら、残り試合数や引き分け数の関係でマジックが点灯。2位チームに点灯するのは、14年のオリックス以来7年ぶりだった。

 【3】佐々木朗が2年目でプロ初登板

 5月16日・西武戦(ゾゾ)。1年目の昨季は登板機会がなかった右腕が第一歩を踏み出した。高校時代163キロをマークした剛腕は緊張感を感じさせながら5回4失点。初勝利はお預けとなった。それでも同27日・阪神戦(甲子園)でプロ初勝利を挙げると、シーズンでは11試合で3勝2敗、防御率2・27だった。

 【4】鳥谷が甲子園に2年ぶり凱旋

 5月25日・阪神戦(甲子園)。2点を追う七回に代打で登場すると、西勇から右前適時打を放ち、逆転勝利に貢献した。19年9月30日以来の聖地でのプレーに敵味方関係なく、大きな歓声に沸いた。

 【5】小島がプロ初完封を含む2度の完封。初の2桁勝利

 9月19日・日本ハム戦(札幌ド)で4安打完封勝利。五回2死までパーフェクトと圧巻の投球をみせた。10月3日・楽天戦(楽天生命)では2度目の完封勝利。憧れの田中将との投げ合いを力に変えて快投へつなげた。

 【6】開幕5連敗スタート

 開幕の3月26日・ソフトバンク戦(ペイペイ)を落とすと、2、3戦目は抑えの益田が救援に失敗して3連敗スタートとなった。本拠地に戻っても楽天に2連敗し、開幕ダッシュに失敗。それでも4月1日・楽天戦(ゾゾ)で今季最多16得点で初勝利を上げると、引き分けを挟んだ4連勝で巻き返した。

 【7】荻野、和田が今季最終戦で盗塁王決める。

 10月30日・日本ハム戦(ゾゾ)。西武・源田に1個差で追っていた荻野、和田がそれぞれ1盗塁を決めて初受賞。日本ハム・西川も含め、史上初の4人の盗塁王誕生となった。

 【8】藤原が初の月間MVPを受賞

 開幕1軍入りを果たすも4月下旬に2軍落ち。6月末に再昇格し、7・8月度は打ちまくった。全24試合に出場し、32安打、5本塁打、15打点、5盗塁、打率・348。大阪桐蔭では甲子園阿春夏連覇に貢献し、2018年度ドラフト1位で入団。3年目を迎えた期待の外野手が成長の跡をみせた。

 【9】本拠地ZOZOマリンスタジアム通算1000勝達成

 8月30日・西武戦でマーティンが豪快なソロを放つなどして快勝。川崎球場から1992年に当時の千葉マリンスタジアムへと移転。同年4月7日・ダイエー戦での初勝利から30年目での達成となった。

 【10】松中臨時コーチ熱血指導

 春季キャンプに井口監督のダイエー時代のチームメート、松中信彦氏を招へい。左打者の安田、藤原らを指導した。平成の三冠王は若手に振りこませ、シーズン中も時折指導。11月に同職を契約満了となった。

(デイリー)

 

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