8月31日
あの有名な童謡、「小さい秋」。(サトー・ハチロー作曲 中田喜直作曲)
だれかさんが だれかさんが
だれかさんが みつけた
ちいさいあき ちいさいあき
ちいさいあき みつけた・・・。
一枚の黄色い落ち葉。
咲き始めたオオハンゴンソウ。
今を盛りのクルマユリ。
家の丸太壁をつつくアカゲラ。
カラマツ林のラクヨウタケ。
高く晴れわたる空。
この一週間ほどで、道の両側とクルマを停める場所の草刈りを終えた。
やはり、うるさい蚊を追い払いながら、流れる汗をぬぐいながら。
一休みして、顔を上げると、今年もまた咲いてくれた、あの吊り提灯(ちょうちん)のような、鮮やかな色のクルマユリの花。
その数、30個余り。まだまだツボミも多く、しばらくは私の目を楽しませてくれることだろう。(写真上)
一仕事を終えて、家の中に入り、汗まみれのTシャツを着かえて、冷蔵庫から出していたスイカをテーブルに置く。
少し塩を振りかけ、水気たっぷりの赤いスイカを食べる。たまらん。
運動の後の、理にかなった水分補給だ。
そして、私が寝ている夜中に録画しておいた、AKBの歌番組を見る。
新曲「ハロウィン・ナイト」。いいぞー、毎回顔ぶれが少し変わってはいるが、みんな個性的でかわいいし、歌のリズムにもノリやすい。
といって、パンツ一枚のメタボおやじが、やおら立ち上がり、”昔とったきねづか”で腰を振ってのノリノリ・ダンス・・・”その鏡に映る、みにくいわが姿を見ては、このガマおやじ、いつしか、たらーりたらーりとあぶら汗を流して、そのあぶら汗を集めて、三日三晩、大釜にて煮詰めて出来上がったのが、さあお立会い、しろくのガマの油にもひけを取らぬ、北海熊印の権三(ごんぞう)油、この油を頭に塗れば、毎日忙しく働いているあなたもたちまち、のーてんきのぐうたらに変わることは間違いなし。そーれ、それそれ、世の中なんとかなーるだろう。”
しーん・・・自分ひとりの、ボケとツッコミ、あほくさ。
さてと、食べ終わったスイカのあと片づけをして台所に運び、そこで外側の皮の部分をナイフでむいて、残りの赤みと白みがついたまま小さく切って、塩もみにしてしばらく置いて、食事の時に浅漬(あさづ)けで食べるのだ。
周りの北海道の友達は、そんな貧乏くさい食べ方はしたことがないというけれども、貧しかった子供のころに食べていた食習慣は、今になっても身についていて、つい自分で作ってしまうのだ。
熱いご飯に、カツオブシをまぶしたスイカの浅漬け・・・それだけで、ご飯いっぱい食べられるほどだ。
さらにもう一つの、うれしい秋の便り。
このところ不作続きだった、家のカラマツ林の中のラクヨウタケが、今年はどうだろうかと見て回っていたところ、あちこちに出ていたのだ。(写真下)
大体このラクヨウタケ(正式名ハナイグチ)は、最近は家の林で採るのではなく、少し離れた所にあるカラマツ林にまで行って採っていたのだ。
というのも、そうしたまだ若いカラマツ林の方にたくさんあって、家の林のように、もう数十年近くにもなるような古いカラマツ林では、たまに数本ぐらいは見つけることはあっても、もう昔のようにいっぱい採れることことはないだろうと、半ばあきらめていたのだ。
それが、今年は思いもよらずに、自分の家の林で、(写真では日が当たっているが、本来は半日陰の所に多い)、なんと二十年ぶりくらいの大豊作と言えるほどに、あちこちに出ていて、その数50本余りもあり、ポリ袋がいっぱいになるほど採れたのだ。
さっそく、そのキノコを半日ほど水につけておいて、念のための虫出しをして、さらにカラマツの葉など汚れた部分を洗って取り除き、適当な大きさに切って、鍋で煮ると、初めの大きさの何分の一ぐらいかに小さくなっていて、それを酢に砂糖を入れた器に移して、上にカツオブシをまんべんなくふりかけて、さらにだし汁をかけてなじませて、半日おけば、ラクヨウの”三杯酢漬け”のでき上がりで、これまた熱いご飯の上にかけて食べれば、もうこの世の極楽珍味にもなるのだ。
テレビ番組食レポで紹介される、一品、何千円何万円の料理なんて、もしお金があっても、そんな店に行って食べたいとは思わない。
というのも、私には、根っからの貧乏人根性が染みついていて、それだからこそ、こんな山の中で暮らしていけるのだろうが。
もう一つ書き加えれば、このラクヨウタケは、”大根おろし和(あ)え”でもおいしくいただけるのだが、あいにく今手元に大根がない。明日にでも買いに行かねばと思う。
さらに、今家の小さな畑には、赤や黄色のミニトマトがいっぱいなっていて、ひとりで毎日食べる分には十分すぎるほどだ。
こうして私は、小さな秋の恵みを受けて、毎日の食事をありがたくいただいているのだが、もっとも、そんないいことばかりがあるというわけでもない。
実は昨日のこと、たまには、家の五右衛門風呂にでも入ろうと、ホースで水を入れていたところ、途中で水が出なくなってしまった。
”あちゃー、やってもうたー。”
その前から少し水の出が悪い時があって、気にはしていたのだが、少し前に降った雨の後だからと、風呂用に大量に水をくみ上げて、井戸が枯れてしまったのだ。
仕方なく今は、その風呂釜に半分ほど入れた水を、洗物、洗面などに使ってはいるが、飲み水としてはフィルターもつけていない直(じか)の水だから、飲用に使う気にはならないし、とりあえず緊急用に買っておいていた市販の2Lミネラル・ウォーターが一本あるので、急場をしのいではいるがが、ともかくすぐにも隣の農家か友達の家に水をもらいに行かなければならない。
18Lポリタンクで三日間はもつから、3個は必要だろう。つまりその間に、少しは井戸に水がたまってはくれるだろうし、ともかくあとは、雨が降ってくれることを待つ他はないのだ。
もっとも、こうして井戸が枯れて、もらい水で何とかしのいできたのは、今までに何度もあったことだし、さらに加えて、私の長い登山経歴の中で、テント泊山行で水に不自由することは当たり前のことでもあったし、今回のことぐらいでそうあわてふためくこともないのだ。
つまり、少しの飲み水さえあれば、山の中でも何とか生きていけるのだからと。
所によっては、水害や土砂災害を招く危険な大雨だけれども、こうして私のように井戸利用のために直接的に水が欲しいという人は、今の時代には水道普及率は100%近くもあるだろうから、きわめて少人数だとしても、稲や畑などの営農用に、その雨を待ち望んでいる人も多くいるのだ。
街の中にずっと住んでいる人などは、物心ついたころから、水は水道の蛇口からいつでも出るものと思っているだろうから、水に苦労していることなど、テレビで見た遠いアフリカかどこかの井戸掘りの番組でしか見たことはないだろうが。
世の中って、そうしたものだろうと思う。時と場所と人によって、その環境の価値はさまざまに変わってしまうのだ。決して一つの答えだけで、誰でもみんなが満足できるものではないのだから。
つまり、大切なことは、どのような立場にいるにせよ、たとえばそれは、あの聖アントニウスのように、さまざまな誘惑にも負けぬ強い信仰心をもって、あるいは達磨(だるま)大師のがんとして動かぬ意志をもって、などとまではいかぬにせよ、いつも自分の依(よ)って立つ位置を見失わないことであり、またさまざまな立場にある人々への思いを失わないことではないだろうか。
以下にあげる言葉は、ここでも何度も上げてきた、あのローマ時代の政治家でもあり哲学者でもあったセネカ (BC5~65、’14.9.16の項参照))が言っていることなのだが。
ただ、前もって言っておっけば、これらの言葉は、日本の過去の戦時下での『教育勅語』ふうな響きのようだと受け止められかねないだろうが、大きな違いは、これが”個人のために”書かれたものであり、”国に殉(じゅん)ずるために”と書かれたものではないという決定的な違いがあるということだ。
「・・・自制心を鍛(きた)え、贅沢(ぜいたく)を控え、虚栄心を抑(おさ)え、怒りを鎮(しず)め、貧しさを偏見のない目で眺め、質素を大切にし、、たとえ多くの人がそれを恥じようとも、自然の欲求を満たすには安価(あんか)で賄(まかな)えるものを当て、手綱(たづな)が切れたようなとめどない期待や、未来をひたすら待ち望む心に、いわば枷(かせ)をはめる術(すべ)、富を運命に求めるのではなく、われわれ自身に求めるようにする術を、われわれは学ぼうではないか。・・・」
(『生の短さについて』より『心の平静について』の中の一節、大西英文訳 岩波文庫)
読んで分かるように、この言葉は、むしろ日本における、最近ここでも取り上げることの多い『方丈記』の鴨長明(1155~1216)や『徒然草』の吉田兼好(1283~1352、’11.5.2の項参照)に、あの良寛和尚(りょうかんおしょう、1758~1831、’10.11.14の項参照)、そして宮澤賢治(1896~1933、’11.1.19の項参照)の世界に近いとさえ言えるだろう。
時代を離れて、そうした人々がいたということ、さらには若き日のヨーロッパ旅行で出会ったあのアイルランド娘の”おいしいものを食べるために旅行しているのではないと言った”言葉に、そうしたものが、生来の貧乏生活に慣れ親しんでいた私の心には、大きな違和感もなく、素直に響いてきたのだ。
そして、こうした思いをたどる時に、私の耳に聞こえてくるのは、あのフィギュア・スケートの荒川静香がトリノ五輪で優勝して、その後のエキジビジョンで滑った時に流れた曲、「YOU RAISE ME UP」である。
”神様がそばにいてくれるから、悲しい時にも苦しい時にも乗り越えられてきた”と女性ヴォーカル・グループの”ケルティック・ウーマン”が歌っていたのだが、それは母が死んで間もない時であり、思いが重なって、ひとりスポットライトを浴びて滑る荒川静香の姿を見ながら、思わず涙したのだった。
そういえば、厳しい祖母にしつけられた大正生まれの母は、いつも質素で倹約であることを旨(むね)としていた。
ただ、その息子である私が、こうして母の意にそえずにいることについては、はなはだ申し訳なく思うばかりだが・・・。