ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

異郷への旅

2021-09-16 21:23:45 | Weblog



 9月16日

 その昔、母が近くの山裾に咲いていた彼岸花(曼珠沙華)の一つを掘り出してきて、庭の隅に植えておいたものが、今では毎年、十数輪もの花を咲かせてくれている。
 今は亡きその母が、昔話として私に聞かせてくれた、真夏の照りつける太陽の下での田んぼの草取りのつらさ・・・娘盛りのころに。
 しかし、9月になって稲穂がみのり、次第に黄色く色づいていくころ、田んぼのあぜ道には、この曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が鮮やかに咲いていて、それまでの苦労が報われたように思えたそうだ。

 新型コロナ・ワクチンの二回目の接種が終わった後、遅くなってしまったけれど、それまで気になっていた、体の一部にできた小さなしこりを調べてもらうために、ようやく病院に行って一連の検査を受けた。
 何度もの検査の後、それが悪性の腫瘍だとわかり、すぐに入院して手術を受けることになった。

 私は、手術中はもちろん全身麻酔をかけられていて、その麻酔が効く前後のことしか覚えていないが、昼の12時半に入室して、その手術室から運び出されたのが午後6時過ぎ、何と合わせて6時間近い大手術だったそうで・・・。
 その後、1日半ほどは絶対安静で、さらに術後の体調観察と傷口回復のために、そのまま1週間ほど病室で看護を受けて、8月下旬にようやく退院した。

 今は、それから3週間がたち、体の機能の一部がいくらか損なわれてはいるものの、体調に変わりはなく、日常生活に大きなさしさわりもない。
 家に戻ってきて一番うれしかったことは、翌日、久しぶりに晴れて、その青空の下、ベランダに洗濯物を干している時だった。
 この度のことで、もちろん失ったものがあり、ささやかながら得たものもあると、ここで比べて見ても始まらない。
 大切なことは、生きている今があるということだ。

 それにしても、私は、何という異郷への旅をしたことだう。
 今ここで、それらの時間を振り返りながら記述していくには、それはあまりにも大きな出来事だった。 
 わずか10日ばかりのことではあるが、それを膨大な過去の事例からなる、人生の価値に照らし合わせて考えてみると、それがいかに濃密な時間であったことかと気づくのだ。
 そして、それほどの大きな生と死の問題を、軽佻浮薄(けいちょうふはく)にして浅学の徒でしかない私などが、軽々しく請け負えるものなのか、あまりにも分不相応なものではないのかとも思ってしまうのだ。
 とはいえ、このブログの記録として残すためには、そのうちの断片的なことだけでも、一人の人間の生の意識として、これからも少しずつ書き綴っていきたいと思っている。

 家の庭の生垣に、まだ咲いているアベリアの花の上に、早々と紅葉して落ちてきた、柿の葉が一枚・・・。
 (写真下)