4月25日
眠たい。
半日くらいは、いつもウトウトしているような状態だ。
しかし、考えてみれば、今まででさえ、すべてをいい加減に成り行き任せにしていた、脳天気な私にとっては、ぼーっと過ごす毎日など、何ら変わったことではないのかもしれないが。
それまでのように、夜10時ころには寝て、明け方の5時過ぎに起きればいいのだが、真夜中に目が覚めトイレに行って、そのまま眠れずに、本読んだり、パソコンしたりで朝になり、朝食後眠たくなりひと眠り、それが午後にかけてひと眠りさらにまたひと眠りで、結局は寝すぎてしまい、それでまた夜中に目が覚めてしまうことになるのだ。
きっかけの一つは、間違いなく一週間前の、あの真夜中の震度6の地震からであり、その後も続く大きな余震の揺れのたびに、目が覚めていたからだろう。
もっとも、それよりもさらにひどい揺れに襲われた熊本の人々のことを思うと、私の受けた被害など、微々たるものに過ぎないのだろうが。
確かにここでも、余震の回数は目に見えて減ってきたし、何ら普通の生活を送るのに不便はないのだが、日にちがたつにつれ、さらに家の周りで見聞きする被害も増えてきた。
張り出した独立基礎が傾いたり、家屋の一部損壊、道路の亀裂、斜面の幾筋もの地割れなどがあって、自宅室内外での物の散乱破損など、まだまだ軽いほうだったのだと思う。
はい、ありがとうございます、こんな年寄りのために、命を長らえさせてもらって・・・ご迷惑でなければもう少し、神様からいただいたこの私の命を、できる限りは全うさせたいと思っておりますので・・・ああ、蝶々がひらひらと、新緑の木々の上を越えて、山の方に・・・。
思えば、もう一月以上も山に登っていないのだ。
前回登ったのは、まだ冬のさ中の風雪が作り上げた樹氷を見るために、遠路はるばる出かけて行ったあの八甲田の山であり、それもロープウエイからの周辺をワンダリングしただけの、雪山ハイクでしかなかったのだ。(3月14日の項参照)
さらには、最近思わしくないひざの痛み(じん帯の損傷)もあって、今一つ出かけていく気にもならなかったのだ。
しかし花は咲き、新緑の芽吹きが目にもさわやかに映ずるこの季節、それなのに地震の揺れにおびえる毎日では、どうにもやりきれない。
そうだ、山に行こう。
というわけで、こういう時には便利で手軽ないつもの裏山に登ることにした。
もちろん、岩場が多いような他の山、由布岳・鶴見岳、祖母山・傾山などの山々には、登山禁止勧告の通知が出ているようだが、それでなくとも登山道の損壊や落石など気がかりな点があって、行く気にはならないのだが、それに比べれば、いつも気楽に登っている裏の草山には、岩場はないし、急勾配の気になるような斜面もない。
いつもは、自宅からクルマの通れる道を歩いて、登山道が始まる登り口の所まで行くのだが、今はヒザの心配があるのでそこまでクルマで行くことにした。
こうした時にクルマはありがたいもので、歩いて40分余りもかかるところを、わずか数分余りで私を登山口の所まで連れて行ってくれる。
そして、歩き出す。やがて林の中のゆるやかな登り道になる。
青空を背景に、開き始めたばかりの、木々の新緑が目にさわやかに映る。(写真上)
前回書いたように、私が刹那(せつな)の時間の中で感じる美しさの一つが、今ここにあるのだ。
モミジ、カエデ、コナラ、ミズキ、リョウブ、ノリウツギ、ヒメシャラなど、所々で立ち止まり、こうした新緑の木々の写真を撮りながら、ひとりゆっくりと登って行く。
少し離れたところで、夏の渡り鳥であるオオルリが鳴いている。
一転、暗い杉の林の中に入って行く。斜めに差し込む光に照らし出された、根元に広がる苔の緑が美しい。
小さな涸沢を渡り、再び明るい林の中をたどって行くと、明るく開けたササとカヤの斜面に出る。
その山腹をジグザグに登って行くと、遠く九重の山々が並んでいて、下には先ほど登ってきた林が広がっている。
その中では、ヤマザクラの薄紅色の花と橙色(だいだいいろ)の新緑の葉が目立っているが、その中に左のほうに、真っ白な樹形の樹が一本見える。
この小さな草山には、長い間登ってきているのだが、春に、あの林の中に白い花が咲く樹があったなんて、今まで知らなかった。
それも小さな木ではない。ここからでも樹形の大きさがわかるほどの大きな樹なのに、どうして今まで見ていなかったのだろうか。
春に、あれほど白くいっぱいの花を咲かせる樹は、モクレンかコブシ、タムシバくらいしかない。
その中でも、モクレンは花弁が大きくてひときわ華やかであり、ここから見えているくらいだからとモクレンかなとも思ったが、本来は中国原産の植栽種であり、こんな山の中にあるはずもないし、コブシはあの千昌夫の「北国の春」でも知られているように、日本海側から東北・北海道にかけて見られるものだし、となるとタムシバなのか。
それにしても、あれほどに目立ついっぱいの白い花をつけた大木のようだから、ぜひとも帰り道には、登山道から離れても寄ってみようと思った。
なだらかな尾根道を行くと、道端のササやカヤの生え際には、所々にキスミレが咲いている。
今の時期は、阿蘇から九重の高原、そして由布岳付近の裾野など、野焼き後の黒焦げが残る野原の一面が、このキスミレに覆われてしまうほどになるのだ。
他に、アセビの花はもう終わっていて、これからは一月もたたないうちに、あのミヤマキリシマの赤いツツジの花に彩られることだろう。
下から、1時間半ほどで頂きに着いた。
途中、地震の影響による地割れ、崩壊などの部分もなかったし、その間余震の揺れを感じることもなかった。もちろんこんな時期だから誰にも会わなかった。
ヒザはさほど気にはならなかったが、下りではさすがに少し響いて、注意して下りて行った。
そして、いよいよあの白い花の樹の所へと、心ははやる。
上から見て検討をつけていた、松の木のあたりから、登山道を離れて林の中に入って行く。ありがたいことに、ササの下草や灌木などもなく、楽に歩いて行ける。
トラバース気味に山腹を回っては、あの大きな白い樹はないかと探すが、ところどころにヤマザクラの白い花びらが咲いているくらいで、あの白い花をつけた樹は見当たらない。
そして、今度は沢斜面の山腹側を降りて行くが、見つからない。
果たしてあれほどの大きな樹なのに、私は幻影を見たのか。
もう探しようもなく、あきらめて登山道に戻り、それでも気持ちの良い新緑の林の中を通って、登山口付近に停めたクルマの所に戻った。
それでも、最初の二つの目的は達成できたわけだから、つまり新緑の山を歩くことと、最近気になるヒザがどのくらいもつのか、それは穏やかな山道の2,3時間くらいには十分耐えられるけれども、もちろん北アルプス岩稜ルートなどには、耐えられないだろうということだ。
そして、やはり気になるのは、あの白い花でいっぱいだった樹の存在だ。
周りの木と比べても大きく、輝かしい白い花びらを全身にまとい、悠然と高くそびえたつ一本の樹が・・・スタジオ・ジブリの描く画面にある一本の大きな樹のように、私の脳裏から離れなかった。
翌日は、雨だった。
そして、次の日は、朝から晴れていた。
私は、あの草山の頂きを目指すのではなく、あの幻の白い花の樹を求めて山に行くことにした。
山の頂きに立つことを、その山登りの第一の目的にしている私が、まるで何ものかに操られるかのように、”まぼろしの樹”を求めて、出かけて行くのだ・・・何か不思議な気分だった、若いころのいくつかの冒険の旅を思い起こさせるかのような・・・。
私には、昔フランス人の友達がいた。
私たちは、それぞれに、オーストラリアの砂漠をオートバイで走ったことがあった。(’14.4.7の項参照)
彼は日本に来て、その後日本の娘と結婚した。
私は、その祝いの席に招かれ、依頼されて、少しだけ彼とのことについて話した、
”僕らは、二人とも冒険者でした。そして今でも、冒険者であり続けています。
私は今、北海道でひとりで家を建てています。彼は、私以外に知り合いもいなかった日本の東京という砂漠の中で、自分なりの会社を立ち上げていこうとしています。
彼は私以上に、熱意を持った冒険者です。これからの皆様方のさまざまな手助けが、彼をさらに勇気づけることになるでしょう。”
あのころの、何かに向かおうとする冒険心を、私は思い出したのだ。
年寄りになっても、こうして他人にとってはどうでもいいようなことが、それが一文の得にもならないとわかっていても、何ものかにつかれたかのように、ひたすらな思いにかきたてられてしまうこと。
それはまた、若いころの恋する想いに似て、あの娘に一目会いたいと想うように、ふくれ上がり募ってゆく思い・・・。
年寄りの私に、そうした気持ちがまだ残っていたとは。
そこで、二日前と同じように、登山口までクルマで行って、そこから新緑の林の中の道を歩き始めた。
わずか二日しかたっていないけれども、特に昨日の雨がさらに新緑の葉を伸ばしては、輝かせているように思えた。
しかし、写真を撮っている余裕はない。ともかく今回は、あの樹を何としてでも見つけ出すことだ。
前回と同じように、山腹斜面の林の中に入って行き、今回はさらに先の上の方までも探した。
ヒザが少し気になるほどの斜面を、木の枝をつかみながら、もう一つ向こうの小尾根の所までも行ってみたが、見つからない。
本当にあの樹はあるのだろうか。もう一度確かめるために、その山腹急斜面の林から強引に登って行って、ササとカヤの草原斜面の見晴らしのきく所まで上がってみた。
確かに、そこからは、あの白い大きな樹が見えていた。
よし、と思いながらも、この時になって初めて、磁石を持ってくればこれほど苦労しなかったのにと思った。
それでも今いるところと、あの白い花の樹と、その上遠くに見える特徴のある山を頭に入れて、その直線上の方角に急な山腹を下って行った。
密生した枯れたササの間には、シカのけもの道が行く筋もについていて、先ほどから、そのシカの鋭い警戒音が何度も聞こえていた。
あの白い樹は見えなくなったが、遠くの目印の山とその間の目印の木を決めて、そのまま下って行くと、二日前の時に探したゆるやかな林の斜面の所に出た。
このあたりにはなかったはずだし、もっと下の方かなと思いながら下って行くと、足元に白い花びらが散乱していた。
見上げると、そこに白い花の咲いている樹があった。(写真下)
それは、私が思い描いていた姿とは、大きく違っていた。
見つけたことの喜びと、期待していたものとは違う失望で、複雑な思いになってその樹を見上げていた。
それでも、四方からその木を眺めては、何枚もの写真を撮って、気持ちが落ち着いてきた。
多分、タムシバだろうと思われるその木の花の盛りは、おそらくはあの二日前の時だったのだろう。
その時にも、花弁の一つや二つが落ちていたかもしれないが、気がつかなかったのだ。そのうえに、あの日の午後の時間帯には薄雲が広がってきていて、下から見上げると、白い空と同化してしまい、白い花が咲いているのがわからなかったのだ。
さらには、私は、この木が森の中の王者の木のように、ひとり高くそびえ立っているものだと思っていたのだ。
だから、そうした自分の先入観の思いだけで、木を探していたものだから、見つからなかったのだ。
このタムシバの木は、この林が二次林(原生林を切った後に、自然に生えてきた木々が形成している林)や三次林なのだろうから、ここに根付いた木々はそれぞれに、日光の恩恵にあずかろうと、必死で上に伸びては自分の枝葉を広げてきたのだ。
だから、このタムシバも樹高の三分の二の所までには花がなく、その上の三分の一ほどだけが、余り他の木々と競合することもなく枝葉を伸ばして、今花を咲かせることができているのだ。
それを、私は上の山腹斜面から見下ろして、まるでこの樹の全体に花が咲いているように錯覚してしまったのだ。
つまりは、磁石で方向を確認しなかったこと、その木を俯瞰(ふかん)的に見てしまったこと、白い雲の背景で白い花の木を見てしまったことによるのだ。
もうずいぶん前のことだが、日高山脈はあのカムイエクウチカウシ山(1979m)の三度目の登山の時、日高きっての難峰と言われていたこの山にも慣れてきていて、いつもの八ノ沢から八ノ沢カール、頂上という往復ルートが物足りなくて、その時はカムエク三山の隣の1903峰(カムエクの眺めが絶品)と1917峰にも登っていて、帰りは1903峰から派生している小尾根を下って、八ノ沢の二股に直接降りようと思ったのだが、なかなか手ごわいブッシュ続きで方向を見失い、右側の谷寄りの斜面を下っていて足元が見えない中、突然ストンと2mほどの岩壁を滑り落ちてしまった。
幸いにも擦り傷だけですんだけれども、あれがもっと高い崖だったらと思うと、その時のヒグマの恐怖以上に、今でも背筋が寒くなる。
そんな、あと一歩であわやという経験をしたことは、誰にでもあるはずであり、つまりこうして私たちは、幸運にもこの世に生かされてきて、また自らの意志で生きているのだ。
それなのに、あの時の経験からも、磁石と地図の読み合わせは、道迷いの時など絶対に必要なものだとわかっていたはずなのに、こうして”のど元過ぎれば熱さを忘れて” の例え通りに、私たちは自分の命にかかわるその時まで気がつかない、こりない性分なのかもしれない。
そうして考えてくると、人間はあのアフリカにすむヌーの群れと同じようなものであり、何事も自分の身に降りかかって初めて気がつく、哀れな生きものなのかもしれない。
いつしか、神戸の大震災を忘れ、三陸の大津波を忘れ、さらには、この熊本大地震も忘れて・・・そして、いつかはその日がやってくるのだ。
前回あげた、あのネット、投稿の一文、”年寄りが9人死んだくらいで何”と書いた彼の、年寄りになった時の言葉を聞きたいものだが。