ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(109)

2010-07-30 19:43:36 | Weblog

7月30日

 拝啓 ミャオ様

 北海道では、はっきりしない天気が続いている。気温は朝の20度位から、昼間の最高でも27度位までだから、あの本州の酷暑続きの毎日と比べれば、さほど暑くはないのだが、どこかむしむしとして、余り外には出たくない。
 1週間ほど留守にしていて、すっかり雑草が生い茂った庭の草取り、草刈をやらなければいけないのだが、思えば、コレステロールでべたついた栄養たっぷりの血を持った生き物である、私を待ち構えている、あのアブや蚊たちがいるのだから、とてもその仕事のためだけに出る気にはならない。
 それでも、トイレのためには外に出る。そして、用足しをしていると、その生身の部分にさえ襲い掛かってくるのだ。まったく、油断もスキもあったもんじゃない。友達の一人が、はれ上がって大きくなっていいじゃないかというが、そういう冗談は若い時だけにしてほしい。

 ということもあって、今はただ、登ってきたばかりのあの飯豊(いいで)の山々の余韻に浸っているだけだ。あーあ、大変だったけれども、行って良かったなあと。

 さて、ことの始まりを書くには、飛行機、新幹線と乗り継いで新潟駅に着いた時からだ。改札口には、あの全国展開している有名な登山用品店の方が、ガス・バーナー用のボンベを手に、待っていてくれたのだ。
 何とありがたいことだろう。ただ頭を下げて、お礼を言うばかりだった。

 飛行機に乗って、山登りに出かける時、危険物であるボンベはもちろん持っていけない。飛行機を降りた後、どこかの店で買い求めるしかない。しかし今回、登山口に行くまでの間、何度かの乗り換え時間がいずれもギリギリで、買いに行くための十分な時間がないのだ。
 思い余って、その新潟の店に電話してみた。応対に出てくれた人は、普通はそんなことはやらないのだけれど、今回だけはということで、私の無理な願いを聞いてくれたのだ。
 たかだか数百円の品物一点のために、炎天下の道を自転車を走らせて届けてくれたのだ。
 私たちは、いつも自分一人の力だけで生きているのではない、当たり前のことだけれど、いつもこうして思い知らされるのだ。

 その後、さらに電車とタクシーを乗り継いで、新潟は胎内(たいない)市の山奥にある宿に泊った(安くて良い宿だった)。朝一番の、乗り合いタクシーで登山口まで運んでもらい、そこからいよいよ歩き始めた。
 すぐに、ブナ林が広がっていて、私は思わず立ち尽くしてしまった。ブナは、北海道の南部から、九州にいたるまで見ることのできる木なのだが、いわゆる群生して林になっているのを見たのは初めてだったからだ。

 同じ乗り合いタクシーに乗った二人は、もう先の方へと登って行った。まあ、あせることはない。今日の行程は、杁差(えぶりさし)小屋までなのだから。そのうえ、4日間もの山旅の第一日目なのだから、先のことを考えて、ゆっくりと登ろう。
 この、足の松尾根は、飯豊主稜線上の大石山に上がるまでの標高差が、1100mほどだから、それほど急な尾根ではないのだが、途中、急登、急下降の二つのコブなどもあり、結構な距離がある。
 しかし、快晴の空の下、両側の深い谷から立ち上がる、左右の尾根は、雨や雪に彫琢(ちょうたく)されいて、なかなかに高度感に溢れて見事だった。(前回写真参照)

 尾根上には、ヒメコマツやブナの木が生えていて、東に向い登って行く道での、良い日陰になっていたが、時々、低い潅木や草付きの道に出ると、いっぱいの太陽が照りつけてきた。
 やがて、標高が上がってくるに従い、暑い日差しを浴びている時間が長くなってきた。予備を含めて5日分もの食料を詰め込んだ、20kgほどのザックの重さがこたえてきて、1時間に一回の休みが、30分、15分ごとになり、そのたびごとに水を飲んで、1Lの水筒の水が残り少なくくなってきた。

 稜線に上がる、最後の大石山(1567m)へのゆるやかな登りでさえ、次の一歩がなかなか出なかった。顔は熱病ではれているかのようで、ただ足元の道を、うつろな瞳で見ているだけだった。
 そしてようやく、その従走路の北斜面の草原に倒れこんだ。なんと5時間もかかっていた。
 彼方には、目指す杁差岳(えぶりさしだけ、1636m)が悠然とそびえ立ち、今や上空には雲が増えて、時々その頂上を隠していた。そこへ行くには、まずここから下り、杁差岳の前に衛兵のごとくに立ちはだかる、鉾立(ほこたて)峰(1573m)を越えて行かなければならないのだ。

 何とか気を取り直して、鞍部(あんぶ)にまで下り、そこからは両側がササの、ジグザクになった暑い道を登りはじめ、やがて途中で足を止めて、ザックを投げ出し、ササヤブの中に入り込んだ。
 ササをかき分けていくと、開けて雪渓の斜面が見えた。滑らないように近づいて、硬い雪の上に座り込んだ。夏の暑さに耐え切れずに、クマたちが雪渓の上に腹ばいになるように。

 白いきれいな所の雪を掘って、口に入れ、からになりかけていた水筒に詰め込んだ。ようやく生き返った気がした。
 恐らくは、熱中症一歩手前の段階にいたのだろう。もう長い間、北海道に住んでいて、その涼しい夏に慣れていた私の体は、この炎天下の暑さに対応できなかったのだ。

 それまで、夏の北アルプスなどにも度々、遠征していたのだが、これほどの暑さを感じたことはなかった。考えてみれば、高度が上がるにつれて気温が下がるという、気温の低減率(100mごとに、-0.6度下がる)から言っても、3000mの北アルプスと2000mの飯豊連峰とでは、6度もの気温の差があるのだ。
 そのうえ、後で知ったのだが、その頃本州では、梅雨明けの晴れの天気の中、連日35度を越える猛暑日が続いていたのだ。

 そうして一息ついた後、再び暑いジグザグの道に戻り、何とか鉾立峰に上がりゆっくり休んだ後、さらに下って登り返し、ニッコウキスゲの群落の中、杁差岳直下にある山小屋への緩やかな道を、よたよたとたどって行った。
 結局7時間半もかかって着いた、無人の避難小屋には、朝、同じ乗り合いタクシーに乗っていた若い彼がいた。下の雪渓の水場で汲んできたという冷たい水を飲ませてもらいながら、話を聞くと、彼は1時間半ほど前に着いたとのことだった。
 あーあ、年は取りたくないものだ。

 その後、夕方の4時くらいまでに、さらに4人の登山者たちがやってきた。若者たちから、私と同年代の人まで、全員が単独行者たちであり、本当に山が好きな人たちだった。
 それぞれに、違う所から来て、同じ小屋で一緒に泊り、その間、皆で和気あいあいに山の話をして、翌日またそれぞれに一人ずつ、出発して行っただけのことだ、お互いの名前も年も仕事も知らないまま。しかし、皆、いい山男たちだった。

 夕方にかけて、あれほど広がっていた雲もおさまり晴れてきて、快晴の空になり、ニッコウキスゲの咲く斜面の彼方に、南に続く飯豊主稜線の山々がくっきりと見えてきた。(写真、左は飯豊本山、中央は地神山からの主稜線)
 さらに、日本海に夕日が沈んでゆき、北側には鳥海(ちょうかい)、朝日、蔵王、吾妻(あづま)などの東北の名山たちのシルエットが見えていた。

 明日も晴れるだろう。しかし、暑さのために、一日目からバテバテになった私には、とてもこれからの長い行程を歩き続けていく自信はなかった。明日の自分の体調を見て、悪ければ、今日登ってきた道を引き返すしかないと思った。
 それでもいいと思うほどに、この杁差岳からの眺めは素晴らしく、ツアー客たちもいない、山仲間たちだけのこの避難小屋の居心地の良さとあいまって、私は、それだけでも飯豊の山の良さを知ったことになるのだからと、自分に言い聞かせていた。
 あちこちからいびきが聞こえてくる小屋の中で、私は、寝苦しさのために寝袋の中から足を出して、満ち足りた思いと不安な思いの中で、何度も寝返りを打ち、いつしかまどろんでいった。

 次回へと続く。

                      飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(108)

2010-07-28 19:57:10 | Weblog



7月28日

 拝啓 ミャオ様
 
 二週間近くもの間、連絡もせずにいて申し訳ない。九州の暑さの中で、ぐったりとして寝ているだろうミャオのことを思うと、少しは気がひけるのだが、今年もまた、本州遠征の山旅に出かけてきた。

 ミャオのように、半ノラになって、ただ生きていくために苦労しているのと、私のように自分の楽しみのために苦労するのとは、エライ違いがある。
 それなのに、弁解がましく聞こえるかも知れないけれど、私の山登りの楽しみは、単なる快楽を求めての容易(たやす)い道楽ではなく、大いなる困苦を経てようやくたどり着けるものなのだ。
 それは、あのベートーヴェンの有名な言葉、「苦悩をつきぬけて歓喜にいたる」ほどではないにしろ、少し言葉で飾って言えば、幾たびとなく繰り返し行われてきた、大自然の聖地への巡礼の旅だとも言えるだろう。
 古代の拝火教(はいかきょう、ゾロアスター教)ならぬ、拝山教にとりつかれた長年の信者として、その歩みを止めるわけには行かないのだ。

 生き物は普通には、本能的に自分自身を守るとき以外は、死ぬかもしれないような危険な行動をあえて冒(おか)すことはしないものだ。
 しかしその理屈と本能を越えて、生き物たちはまるで運命に操られるがごとくに、逢魔ヶ時(おうまがとき)に魅せられたように、危険な道に入り込んでゆく時がある。
 その入り口は、決してまがまがしい恐怖に彩(いろど)られたものではなく、むしろ、苦痛と陶酔のはざ間に見られるような、静かな単調な景色の中にあるのかもしれない。
 というのは、この度の山登りの最初の日に、私の意識はもうろうとなり、薄く開けた目の先には、もう何も見ていなかったのかもしれない。情けないことに、暑さの中で、それほどまでに疲れ果ててしまっていたのだ。

 さてすっかり前置きが長くなったけれど、今回、私は新潟、山形、福島の県境に位置する、飯豊(いいで)連峰に登ってきた。(写真、足の松尾根の登りより二つ峰1642m)
 もう何年もの間、山への交通の便が良くなる7月の頃に、本州の山への遠征登山をしている。
 それは、東京にいた若いころから、何度も日本アルプスなどの山々に登っていたのだが、その後、北海道に移り住んでからも、もちろん北海道の山々に関する愛情は変わらないのだが、それと同じように、かつて登った北、南、中央のアルプスや八ヶ岳などの山々の姿を、再度見たくなってきたからだ。

 私は、あのやさしい言葉で山に登る楽しみを書きまとめた、深田久弥氏の『日本百名山』は、日本の山岳文学の優れた一冊であると思っている。
 その温かい人柄を映し出しているような、彼の文章を求めて、何冊もの古書を買い求めたこともある。
 しかし、彼の選定した日本の百名山は、人とのかかわりや歴史に重きが置かれていて、逆に人とのかかわりが少ない山にこそ、その価値を認めたい私とでは、その点で大きく異なっている。
 つまり私は、その秀(ひい)でた山の姿かたちはもとより、注目すべき植生や、より深い自然の中にある山々こそが、名山たる資格があると思っているのだ。
 中高年登山者の間でのブームだといわれている百名山、あるいは二百名山のすべてを踏破することを目的にするくらいなら、自分の好きな山々に季節やルートを変えて、繰り返し登った方がましだ。

 もちろん私も、選ばれた殆んどの山は、確かに百名山にふさわしい姿かたちをしていると思っているし、何冊もの山の写真集や案内書を見ては、いつかはそれらの幾つかには登ってみたいと思っている。
 そんな山々の中で、私が元気で生きている間に、どうしても登っておきたいと強く思っていた山が、東北南部の飯豊山だったのだ。

 私は、いつもの夏の本州遠征登山のために、二ヵ月前の安い飛行機切符を買っておく。そうやって、すでに決められた期日の中で、問題はいつも天気ということになる。その時に、都合良く晴れてくれるとは限らないからだ。
 つまり、どの山域に向かうかは、幾つかの計画を立てておいて、夏の高気圧の張り出しと週間予報を見て、ぎりぎりの前日になって決めるのだが、それでも前年(’09.7.29の項)のように、さらに行く先を変えることさえあるのだ。
 それは、山は晴れた時に登らないと、一番大事な周りの大自然の景色が見えないし、その山の何たるかも分からないからだ。つまりは、私なりにその山への評価をする上で、失礼にあたるというものだ。

 もうずっと前から、飯豊山には登りたいと思っていた。2000m前後にすぎないという標高の割には、名にしおう豪雪地帯ゆえに、残雪多き山であり、数多くの高山植物の花畑が点在し、おおらかに広がり連なる山々の写真を見るにつけ、どうしても行きたいという思いはふくらむばかりだった。

 山に登る三日前の、梅雨明け宣言は嬉しくもあり、心配でもあった。つまり、梅雨明け十日の好天と言われてはいるが、いつまで天気がもつかは分からない。案の定、週間天気では、数日後の週末には崩れる予報になっていた。
 それなら、高気圧の張り出しにより近い南アルプスに行くか、前の日まで、考えていた。その日の朝、天気が崩れる予報が一日伸びていた。
 決めた。『サイ(さいころ)は投げられた。』のだ。あの敵対する元老院のあるローマへと向かうべく、ルビコン川を渡る、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)と同じ心境だったのだ。
 
 それは、大げさな決断だと笑われるかもしれない。人々は、ありふれたことわざのように、繰り返し私をさとし言うだろう。「山は逃げないから、また次に行けばいい」と。
 そうではない。時は足早に過ぎ去るし、山はいつの間にか、自分の手の届かない所に逃げていく。その一瞬の光陰の価値を知ることが、生きている今の自分を知ることなのだ。

 「 命、短し、恋せよ乙女(おとめ)
  朱(あか)き唇、褪(あ)せぬ間に
  熱き血潮の、冷えぬ間に
  明日の月日は、ないものを 」

 『ゴンドラの唄』(大正4年)、松井須磨子歌・吉井勇作詞・中山晋平作曲。 (この松井須磨子の歌は、東京で働いていた時の仕事に関係して、原盤のものを聞いたことがある。さらに、1952年の黒澤明監督の映画、『生きる』のラスト・シーンで、名優、志村喬(しむらたかし)によって印象深く歌われていた。同じ歌でも、時代と歌い方でこれほどに意味合いが違ってくるくるものか。)

 さて次回からは、この4日間の飯豊山縦走についての話を書くつもりだ。
 この暑さの中、どうかミャオも元気でいてくれ。

                      飼い主より 敬具


飼い主よりミャオへ(107)

2010-07-15 18:43:42 | Weblog



7月15日

 拝啓 ミャオ様

 ようやく、曇りと雨の長い日々を抜けて、ぽっかりと空に青空が広がったように、快晴の日がやってきた。晴れるだろうということは、前日の天気予報でも分かっていたのだが、それでも、その朝になって晴れている空を見た時は、気持ちまでも、その空の彼方へ、山の上へと舞い上がっていくようだった。
 朝、気温は11度にまで冷え込んでいた。そして夜明け前の空に、低い霧がただよい、その上に、日高山脈の山々が立ち並んでいた。確かに、予報どうりの天気で嬉しかったのだが、一方では、目の前の日高の山々にも少し未練があった。

 というのは、今の季節は、どうしても、様々な花に彩られている大雪山のほうに足が向いがちになるからだ。まして、テントを持っての重装備で、沢から上がることを考えると、寄る年波で体力の落ちた今では、日帰りの沢登り以外の夏の日高縦走には、なかなか踏み出せないというところが本音だ。
 
 山の見える傍に住んでいながら、登らないというのは、それらの山々に申し訳ない気もする。私が日高第一の山だと思っている、カムイエクウチカウシ山(1979m)に最後に登ってから、もう十年以上にもなる。
 あの1903m峰の肩からの、カムイエクの雄姿を今一たび見たい、とは思っているのだが、果たしてその4度目にして恐らく最後になるだろう、カムイエクの頂にたつ日は来るのだろうか。
 (世間では、昔からカムエクという愛称で呼ばれているが、同じ短縮形として言うなら、私は言葉の区切りから、カムイエクと呼びたい。)

 ただし、今回の天気で、日高の山に向かわなかったのは、他にも理由がある。昔は七ノ沢まで入れた林道が、今ではそのずっと前で通行止めになり、1時間半以上も林道歩きをしなければならないということ。
 さらに前回の時には、一日目にカムイエクの頂上にまで上がったのに、今はとてもそんな元気はない。さらにいえば、その前の日の大雨で、沢は入れないほどに増水しているだろうし、まして、天気も今日を最高に、明日は雲が増え、明後日になると、小さな雨のマークさえついていたからでもある。

 そんな自分への言い訳をしながら、ずっと離れた所にある大雪へと、クルマを走らせる。途中、糠平(ぬかびら)付近から、快晴の空の下にウペペサンケ山、ニペソツ山、さらには石狩連峰と、次々に東大雪の山々の姿が見えてくる。
 この三国峠越えの国道は、四季折々に姿を変える山々の姿が眺められて、何度通ってもあきることはない。

 登山口の、高原温泉の広い駐車場はガランとしていた。営林署やヒグマ情報センターなどに勤めている人たちの車を除けば、旅館の前の車を入れても、数台ほどの車が停まっているだけだった。
 7時前、近くの噴気硫黄臭のにおう登山口から、歩き始める。前回に山に登ったのは、九州にいたときの三俣山(6月18日の項)以来だから、なんと一ヶ月ぶりということになる。
 エゾ、トドマツのひんやりとした木々の間の急坂を、ゆっくりと登って行く。前後には誰もいなくて、ルりビタキやビンズイ、そして離れた所で、ウソの鳴き声が聞こえている。
 すぐに見晴台に着く。高原温泉の谷を隔てて、忠別岳(1963m)へと続く、緑と残雪に彩られたカルデラ壁の山稜が見える。
 いいなあ、山は、やっぱりいいなあ。日ごろから木々に囲まれた、田舎の一軒家に住んでいても、やはり山に登るのは気分が良いものなのだ。

 さらに、ここからの登りは、少し前まではぬかるみの道で、長靴の方が良かったくらいだったのだが、今では立派な木道や木枠が敷かれていてずいぶん楽になった。
 登って行くと、視界が開けて、第一花畑の雪の台地に出る。行く手には、大きく緑岳(2020m)から小泉岳(2158m)、東ノ岳(2067m)へと続く山稜が横たわっている。
 ゆるやかに傾いた雪渓斜面には、はるか彼方まで人の影もない。木道の隠れる辺りから、雪の上に足を踏み出し、あわせて四ヶ所にも分かれた雪渓をたどって行く。
 雪の大好きな私には、大雪山への様々なコースの中でも、今だからこその、夏の時期に歩きたい道の一つでもある。しかし、この広大な雪渓が大分溶けるころの、8月半ばころになって、ようやくエゾコザクラの大群が赤く辺りを染め、他にも遅ればせながら、チングルマやエゾツガザクラ、アオノツガザクラなどが咲いて、一大お花畑になるのだ。
 
 ひとりっきりで歩いて行く青空の下の、広い雪原の何と心地よいことだろう。行く手には、緑岳の大きな山体があり、その右手に、この大雪山を囲むように屏風(びょうぶ)、武利(むりい)、武華(むか)の山なみが連なり、振り返ると、遠く音更・石狩連峰と、鋭い頂を傾けるニペソツ山(2013m)が見えている。
 雪渓が終わると、高いハイマツの茂るトンネルの道を、ぐるりと山腹をめぐるように回り込み、潅木帯を抜けると見晴らしが開け、いよいよ緑岳南面の、一大岩塊斜面の登りになる。
 そこで、今日初めて出会ったツアー客団体らしい7,8人を抜いて行く。傍らには、イワブクロやメアカンキンバイの花が咲いていて、振り返るたびに、高根ヶ原から、忠別岳、さらに彼方のトムラウシ山(2141m)の姿が、次第にせりあがってくる。
 少し汗もかいていたが、さわやかに吹きつける風が心地よく、何より頭上を覆う青空が嬉しい。遠くには、阿寒の山や、日高山脈の連なりも見えていた。

 3時間足らずで、緑岳の頂に着く。トムラウシ方面の眺めはもとより、ここでようやく見える、残雪を刻んだ旭岳(2290m)と白雲岳(2230m)の姿が素晴らしい。一休みした後、ゆるやかな稜線をたどって行く。
 もうホソバウルップソウやエゾオヤマノエンドウ、イワウメ、タカネスミレ、チョウノスケソウなどの主な花たちの盛りは過ぎていた。その代わりに、赤いエゾツツジが点々と広がり、所々に、黄色のチシマキンレイカや白いイワツメクサの花がアクセントをつけている。
 
 分岐の所から、白雲岳避難小屋の方へ降りて行くと、小さな流れの傍には、キバナシオガマ、白いエゾノハクサンイチゲにチシマクモマグサ、さらに赤いエゾコザクラの小さな群落もあった。
 白雲岳分岐付近から続く大きな雪渓を横断して、小屋に着く。ゆっくりと花を見て山を楽しむためには、今までにも何度も泊ったことのある、この小屋に今日も泊まるのが一番なのだが、天気が心配なこともあって今回は日帰りの計画にしたのだ。
 さてそこで、またしてもの十名ほどのツアー客たちが、同じ方向に向かうのをやり過ごすために、雪渓を掘って作られた水場で、冷たい水を補給する。二張りのテントがあり、休んでいる大きなザックの登山者もいた。
 小屋の管理人の若い彼と、今年の雪や天気やヒグマの話をする。今年はまだ見かけないが、去年は親子三頭連れが辺りをうろついて大変だったとか。
 幸いにして、この北海道ではもう何十年もの間、登山者がヒグマに襲われ殺された事件は起きていないが、私の住む十勝平野の真ん中、帯広近郊の防風林の所で(あんな人里でと思うようなところで)、つい一月ほど前に、山菜取りの人が、ヒグマに襲われて犠牲になっているのだ。
 鈴をつけて用心するにこしたことはない。(’08.11.14の項参照。)

 さて、白い花の咲くウラジロナナカマドの潅木帯や、大ぶりの黄色いチシマノキンバイソウの群落の傍を抜けると、眼前には、高根ヶ原からトムラウシ山へと広大な光景が開けて、道の左側はゆるやかな雪渓が続いている。雪が大好きな私は、道を離れてその雪原の上を気持ちよく下って行き、再び登山道に出たところで戻る。
 いよいよ、高根ヶ原の風衝地(ふうしょうち、年間を通じて風が強く当たる裸地)の、花々を見ながらのトレッキング道になる。そして、長らく通行止めになっている三笠新道の分岐辺りから、所々にコマクサの群落が目につくようになる。
 残念ながら旭岳には雲がかかってきたが、石狩連峰や、トムラウシ山を背景にして、なかなかに絵になる眺めだ。他にもチシマゲンゲやクモマユキノシタなどの群落もある。
 しかし、もう12時半だ、自分の体力と帰りのことを考えると、ここが限度だった。つい何年か前までは、まだ先のあの大好きな忠別沼まで日帰りで往復していたというのに。

 従走路を行きかう人と挨拶(あいさつ)を交わしながら、その一人から先ほど、三笠分岐のところで、ヒグマが横断するのを見たと聞かされた。この辺りは、ヒグマが目撃されることの多い所なのだ。
 さてこのまま、登り道を小屋まで戻って行くよりは、直接緑岳の分岐へと雪渓をたどって近道した方が良い。そして緩やかな雪の斜面を下り、谷に下りて、そこから再び雪渓を登り返す。雪のある時期にしかできないルートだ。振り返ると、数mもの高さの雪渓の彼方に変わらず、トムラウシ山が見えている(写真上)。
 
 分岐へと登り返し、もう人影もないなだらかな稜線をひとりたどって行く。午後のやわらかな光線が、行きとは違った光景に見えて、何度も立ち止まっては写真に収めた(写真下、旭岳と白雲岳)。
 緑岳に登り返し、さらには岩塊斜面をただひたすらに下っては、再びあの雪渓帯に出て、雪をすべるように歩いて行く。しかし、最後の、木枠道の急な下りのところに差し掛かると、とうとう両膝(ひざ)に限界がきた。
 余りの痛さに、足を横にして、カニ歩きをするしかなかった。あの、九重、黒岳・平治岳(6月10日の項)の時と同じだ。
 そしてやっとの思いで登山口にたどり着く。もう5時前だった。往復、10時間。つい何年か前までは、同じくらいかかったけれども、さらに往復3時間くらい先の忠別沼まで行ったのに。

 しかし今日の行程は、やはり長すぎる。小屋泊まりにするか、もっと短く7時間くらいですむ所にしなければいけないのに、山登りに関しては、何というごうつくばりなバカおやじなのだろう、私は。
 まさにそれは、広沢虎造の浪曲『清水次郎長伝』の中の、「石松三十石船」の一節、「馬鹿は死ななきゃ直らない」の、お粗末な一席だったのだ。
 
 二日後の今日、さすがに筋肉痛で、よたよたの状態であり、情けない限りだ。こんな状態で、果たして来週に控えた、本州遠征の山旅に耐えられるだろうか。
 
 ところで昨日の新聞の文化欄に、フランスの経済哲学者、セルジュ・ラトゥーシュの書いた『経済成長なき社会発展は可能か?』が、今月刊行されたということで、その彼へのインタヴューの要約記事が載っていた。

 その内容は、「いくら経済が成長しても、人々を幸せにしないし、成長のための成長が目的化され、無駄な消費が強いられている。」 ということなのだが、まさしく、それは今回のような、私の登山のし方にさえ当てはまるのではないのかと思った。
 つまり、登山のための登山が、強引に目的化され、わずかばかりの喜びのために、無駄な労力が費やされ自らが危険にさえなっているからだ。
 その彼が解決策の一つとして述べている、「地域社会の自立こそが必要」だという言葉は、まさしく無理をしない頼らない適度な登山こそが、私を幸せにするのだと、勝手に解釈してみた。

 ともあれ、この本は、現代社会に暮らす人々が、地球環境の破壊などによる将来への不安に対して、おぼろげに考えているある方向へと、一歩踏み出すように求めている、ということなのだろうか。
 彼は、こうも言っている。「我々の目指すのは、つつましい、しかし幸福な社会だ。」

 それは何と、先日(6月22日の項)少し触れたことのある、あのギリシア時代のエピクロス学派の主張する所であり、その後の西洋哲学史の中では、快楽主義と誤認され、余り取り上げられることもなかったのだが、今にしてとも思うし、ましてこれは、大きく言えば東洋的な、さらに日本的な、例えばあの中世の隠者文学の思想などにも、通じる所がある考え方だ。
 西洋の考え方の一つが、今、東洋的な倫理観の方向へと近づいてきたのだ、というのは言いすぎかもしれないけれど、つまりそれは、西洋のキリスト教的倫理観として、内包されているもののひとつでもあるのだから。とはいっても、ともかくこの本は一読する必要があるだろう。

 さて、最後になるけれども、ミャオ、母さん、おかげで今回の登山では年甲斐もなくムリをして疲れたけれど、十分楽しんで、無事に戻って来れました。ありがとうございます。

                      飼い主より 敬具

 


飼い主よりミャオへ(106)

2010-07-10 19:56:48 | Weblog



7月10日

 拝啓 ミャオ様

 朝早くは、あたり一面に霧がかかり、やがてその霧は取れても、雲が垂れ込めたまま、日中薄日が差しても、晴れ間は見えず、午後にかけて再び雲が厚くなり、夕方にはまた霧がかかり、夜になる。
 そんな毎日が続いた後、今日は一日中、音を立てて雨が降っている。もうずいぶん長い間、山に行っていない。一月近くにもなる、辛いことだ。 
 こちらに戻ってきて、すぐの三日間は天気が良かった。とりわけ、あの最初の一日は、年に何度もないような、素晴らしく空気の澄んだ快晴の日だった(6月26日の項)のに。
 いまさら言っても仕方のないことだが、私は、その日、草刈をしていた。ひとり残してきた、ミャオの境遇に気兼ねして、山に行きたい気持ちを抑え、やせ我慢(がまん)して、自分に言い聞かせるように、草刈り仕事に励んだのだ。
 しかし、その後なんと2週間も、はっきりしない天気の日が続いている。人生には、そんなめぐり合わせの悪い時がよくあるものだ。

 そして昨日、相変わらずの曇り空の蒸し暑い日に、買い物と気晴らしをかねて、近くの大きな町に行ってきた。100円ショップで数点を買い、スーパーでは食料品をあれこれ買い、ついでに銭湯に行ってゆっくりと汗を流し、いい気分になった。クルマの窓を開けて風を入れながら走り、家に向かった。
 大きな街ではないから、ほんの数分走れば、すぐに郊外に出る。辺りには、広大な十勝平野の風景が広がっている。
 あいにくの曇り空のために、日高山脈の山々が見えないのは残念だけれども、四方に区切られて、それぞれに少しずつ緑の色合いが違う、畑の風景が続いていく。
 びっしりと濃い緑に被われたビート(砂糖大根)畑、そして緑のデントコーン(飼料用トウモロコシ)畑、少し明るい緑色の豆畑、二番牧草の刈り取りが終わり黄緑色になった牧草畑、さらに黄色から黄金色に変わろうとしている収穫前の小麦畑、そして彩り鮮やかに、紫(メイクイーン)や白い(ベニマルなど)花の色が広がるジャガイモ畑・・・。
 街中に住んでいれば便利なことが多く、田舎に住んでいれば不便なことも多い、もちろんその反対のこともあり、どちらが優れているなどとは言えないのだろうが、ただ私は、こうして田舎にいることで、幸せな気分になるというだけのことだ。

 いつしか、あの『北の国から』の「愛のテーマ」のメロディーが口笛となって出てくる。隣に愛する人でも座っていれば、言うことはないのだが。(ニャーオ、おおミャオか。でも、そういったってオマエはクルマが嫌いじゃないか。)
 もっとも、ふと見たバックミラーに映るおのれの顔に、現実に戻ってしまう。中年のがんこオヤジ、鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)の情けない顔など見たくもないのに、なぜにこの世には、鏡などというものがあるのだ。
 まあ、馬鹿な人間ほど夢を見たがるものだから、仕方がないのだと言い聞かせ、次いで口を出たのは、よくは覚えていない昔の演歌の一節・・・。

 「・・・曲げてなるかよ、くじけちゃならぬ。どうせこの世はいっぽんどっこ(一本独鈷)。・・・敵は百万、味方はひとり。なんの世間は、怖くはないが・・・」
 と切れ切れに、その歌を思い出した。メロディーは覚えているのだが、歌詞はあやふやだ。それでもいい気分で口ずさみつつ家に帰ってきた。
 確か、子供の頃に聞いた歌で、村田英雄の『人生劇場』に似ているが違う。歌手は、畠山何とかだったはず。インターネットはありがたいもので、昔なら調べようもないものまで間単に、探し出してくれる。

 『出世街道』(星野哲郎作詞、市川昭介作曲、畠山みどり歌)
 「やるぞ見ておれ、口には出さず、腹におさめた一途な夢を、・・・」、と最初からの歌詞が書いてある。そして3番の歌詞にも、聞き覚えがある。
 「他人(ひと)に好かれて、いい子になって、
  落ちていくときゃ独りじゃないか・・・」

 私は、その前日に、録画していたあの4月の『歌舞伎座さよなら公演』の、出し物などを見たばかりだった。それらのことも関係していて、ふと思いついたのだ。日本人の心情の一つには、この”やせ我慢”があるのではないのかと。

 あの『万葉集』の時代から、長い歴史の混乱の中で、運命的に思えるほどに繰り返されて来た悲惨な出来事、それに悲しみ耐え忍ぶ人々の思いは、その合間にあった平和の時代な中では、個人的な物語として、悲劇的に増幅され、営々として受け継がれてきたのではないのか。
 よく言えば整然として我慢強く、悪く言えば、サディスティックで、自己犠牲的な国民性として。
 
 私たち中高年の世代は、子供の時代から、すでに戦後のアメリカ文化の氾濫(はんらん)の中にあったとはいえ、当時のラジオはもとより、放送され始めたテレビからも、まだ日本文化の色濃いもの、当時の流行歌(演歌などとは言わなかった)や民謡、そして浪花節(なにわぶし)に、講談(こうだん)などが流れていて、それを聞いて育ってきたのだ。
 そんな歌など日ごろ歌わないはずなのに、ふと口をついて出るほどに、日本人としての自分の心が覚えていたのだ。もちろんそれは、流行歌などだけに留まらない。紙芝居に貸本に、そしてたまに見る映画に、さらにいつも聞かされていた、周りの大人たちの話に、知らず知らずのうちに、日本人としての心の元になるものを蓄えていったのかもしれない。
 人は環境を作り、環境は人を作るのだ。
 
 さて今の時代でも、そんな日本人としての私たちの心、日本人としての心のありようを教えてくれるものの一つが、伝統大衆芸能として昔の時代から続いてきた、歌舞伎なのである。
 一週間前に、NHK・BSで、あの4月の「歌舞伎座さよなら公演」での演目の二つが、放送された。(去年11月の『仮名手本忠臣蔵』公演については、3月27日の項参照。)

 一つは、『実録先代萩(じつろくせんだいはぎ)』であり、元々はあの仙台藩お家騒動を基に書かれた『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』が、明治時代に書き改められたものとのことだが、中村芝翫(しかん)、松本幸四郎、中村橋之助の顔ぶれはともかく、やはり乳母の浅岡役の芝翫と(自分の孫でもある)子役二人の愁嘆場(しゅうたんば)が見せ場になっている。
 それは、歌舞伎の話のテーマの一つである自己犠牲、つまり他人事(ひとごと)とは思えないよくある出来事での、つらいやせ我慢の場でもあるのだ。

 しかし何よりも見ものだったのは、次の、あの歌舞伎十八番のうちの一つとして有名な『助六』、つまり『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』である。
 この市川團十郎(だんじゅうろう)のお家芸でもある”助六”の周りに集まった、今をときめく豪華な役者たちの面々、花魁揚巻(おいらん、あげまき)の坂東玉三郎、花魁白玉に中村福助、ひげの意休(いきゅう)に市川左團次、くわんぺら門兵衛に片岡仁左衛門、白酒売りに尾上菊五郎、かつぎ役の坂東三津五郎、通人に中村勘三郎などなど、全く二度と見られぬような顔合わせであり、ただただ、彼らを見ているだけでも楽しかった。

 白血病という大病を克服して復帰したばかりの、十二代團十郎の元気な姿を見られたのは嬉しかったが、あの三大テノールの一人、ホセ・カレーラスが同じ病から復帰した時のように、やはり病後の影は隠せない。少し酷なようで申し訳ないが、そのすぐ後に新橋演舞場、五月大歌舞伎公演で、同じ”助六”を演じたという、次の團十郎を継ぐ市川海老蔵(えびぞう)の、若々しく切れの良い演技だったらとさえ思った。(海老蔵はここでは、なんと口上役を務めていた。)
 とは言っても、さすがに團十郎、じっくりと型にはいる姿は見事であり、さらにいつ見ても姿かたちが群を抜く、あの玉三郎の揚巻との、意休を相手の場面での、二人の型を決めた立ち姿は、さすが、これぞ十八番歌舞伎だと思わせるものだった(写真)。

 物語は、あの鎌倉時代の曽我兄弟の仇討ち物語と、江戸時代の吉原での話を結びつけるという、時代を超えたものだが、歌舞伎には良くあることだ。重要なのは、人の情けと心意気を描いた話の推移なのだから。
 助六、実は曽我五郎は、島原の遊郭(ゆうかく)三浦屋の揚巻と互いに思い合う仲になりながら、客の集まる吉原で、そんな客たちを相手にけんかを売り、刀を抜かせては、源氏の宝刀を探していた。そこに、白酒売りに身を変えた兄の曽我十郎や、侍姿を装って兄弟の身を案じる母などがやってくるのだが、その日もしつこく揚巻に言い寄っていた意休に、悪態をついてはついに刀を抜かせて、それが探していた宝刀であることを知る。
 今回の『助六』は、ここまでの一幕ものになっているだが、この後、意休を殺して刀を奪い返し、揚巻と伴に逃げて、大きな用水桶に入るという、いわゆる「水入りの場」があり、若い海老蔵の公演ではそこまであったそうだ。

 ともあれ、この公演に何の文句をつけることがあろう、團十郎、左團次、菊五郎、仁左衛門、三津五郎、勘三郎などそれぞれの一門を率いる名優たちの芸を、その芸風を比べながら、見ることのできる楽しみ。できることなら、私も何度か行ったことのある、あの歌舞伎座の空間の中で、彼らの声の響き、所作(しょさ)の雰囲気をも感じてみたかった。
 しかし、テレビで見ると、この時の観客たちの異常なまでの盛り上がりと、繰り返される拍手は、どう受け取ったらよいのか、あのオペラの時のブラボーと同じように、素直に興奮を伝えたものだとは思うのだが・・・。

 この二つの歌舞伎の後に、時間が余っていたからとでもいうように、あの近松門左衛門の人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)、『用明天皇職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)』の、三段目の「鐘入りの段」だけが放映されていた。
 この作品は、実は1年前に、ここでも三味線を弾いている鶴澤清治の手によって、200年ぶりに復活公演されたものということだった。この三段目のクライマックス、女がその姿を大蛇に変えて、その人形の動きと浄瑠璃の語りに三味線他が、風雲急を告げて演じ合う様の見事さ・・・。

 この時の公演を、全段を通して見たいと思うのは、私だけではないだろう。日本の誇る古典、それを基にして演じられてきた、古典芸能をよく知りたいと思うこと・・・。

 我々はどこへ行くのか、と問われても答えられない。しかし我々はどこから来たのかと、その源を探ることなら、幾らかではあるが知ることはできるのだ・・・。

 もっとも、ミャオにとっては、自分の出自(しゅつじ)なんてことよりは、今の自分が、どう毎日を生きるかだけが問題なのだろうが。ごめんね、いい加減な飼い主で。

                      飼い主より 敬具 


飼い主よりミャオへ(105)

2010-07-06 22:58:43 | Weblog



7月6日

 拝啓 ミャオ様

 ミャオを九州に置いたまま、この家に戻ってきてから2週間ほどになる。最初の一週間は草刈りに精を出し、次の一週間は、雨の合間に少しずつ草取りをしている。
 というのも、ここは林の中にある家だから、蚊やアブが襲ってくる中での草刈りと草取りは、この家に住む限りはやらなければならない、永遠に私に課せられた仕事でもある。
 冬にもここにいる時には、その草取りのかわりに、あの雪かきの仕事がある。それは、ぐうたらに暮らす私に神様が与えてくれた、日課の戒(いまし)めのごとき仕事なのだ。

 しかし、私の家の周りに生えるその草たちにしてみれば、つまりササ、ヨモギ、セイタカアワダチソウ、タンポポ、オオバコ、スイバ、ハコベ、クローバー、牧草などは、それぞれに生きるために、成長し続け、生い茂っているのに、私はそれを無情にも刈り払い引き抜いていく。
 自分の好みや都合のために、ある時は他者を保護してやり、ある時は排除する。前にも書いたことがあるけれど、それは動物行動学や遺伝子論的にもいわれていることだが、生き物はすべて、まずは自分のためだけに生きているからだ。
 しかし、前回にもあげた夏目漱石の『草枕』に書いてあるように、それでは余りにも孤独で息苦しいから、時にはやさしく他者を思いやる気持ちになるのだろう。
 それは、私のわがままな行動の向こうにいる、哀れなミャオへの思いでもある。

 1週間ほど曇りや雨の日が続いた後、昨日、午後になってからようやく青空が広がった。しかし、その青空は、少しかすんで湿っぽく、まだ26度くらいの気温だけれど、蒸し暑く感じられた。
 いつもなら、今の時期の北海道には、北からのオホーツク海高気圧が張り出していて、この十勝や釧路などの道東では、朝夕霧がかかっていても、日中は爽やかな風の吹き渡る青空が広がっているはずなのに。
 毎日、そんな梅雨のような湿度の高いじめじめとした天気の空模様が続けば、いつしか自分の心までが曇ってきてしまう。

 それだから、わずかばかりではあったが、昨日の久しぶりの晴れ間は嬉しかった。家の周りの木々や草花が、明るく輝いていた。まだ湿気の高い感じが残っていたが、ともかく草取りの仕事もあったし、何よりも久しぶりの青空の下で、外に出ていたかった。
 まず日陰になった部分の草取りをして、その後、日が当たり暑くなってくると、林の中の小道の草刈りをした。一汗かいて、戻ってくると、前回に写真を載せた、あのムシトリナデシコの花の周りに、一匹の蝶が飛んでいた。

 それは、一昨年にも撮ったミヤマカラスアゲハである(’08.5.28の項)。何度見ても、満開になったムシトリナデシコの花にとまる蝶の姿は美しい。
 私は、またしても写真を撮るべく、家の中からカメラを持って戻ってきた。しかし、私の動く気配を察してか、そのチョウは高く舞い上がり、何度か舞い戻り近づいたが、花にとまることなくその後遠くへと飛んで行った。
 私は、日陰になった玄関に腰を下ろし、汗をふいた。少し風が吹いてきて、見上げる青空の下に木々の葉が揺れていた。久しぶりの日に照らされ、明るい陰影をつけて輝く草花たちの姿は、昨日までの曇り空の下の風景とは違って見えた。

 その時、林の中から、とっくに繁殖期を過ぎたはずのエゾハルゼミが一匹鳴き始め、やがてすぐに鳴きやんだ。そして、別の蝶がヒラヒラと舞い降りてきて、ムシトリナデシコの花にとまった。
 コヒョウモンだった(写真)。花と同じ暖色系の明るい羽の色、その今を盛りに咲く二つの色合いは、まさに彼らの生きているしるしだった。
 私が何枚か写真を撮った後、その蝶は飛び去っていった。

 コヒョウモンは、本州では中部の山間部に行かないと見られないが、北海道では、比較的どこでも見られる蝶のひとつである。写真に撮ったものは、鮮やかな緋色からして、たぶんオスのコヒョウモンだろうが、この家の庭でさえ毎年見られるものだ。
 先日、大雪山で、希少種のウスバキチョウやダイセツタカネヒカゲなど、百数十匹を捕まえた愛好家が摘発されていた。それほどの数がいなくなれば、今までよく見かけたことのある大雪のあの稜線辺りでは、これから行ったとしても、もう見ることができないだろう。
 蝶は、飛んでいるからこそ、自然の草花の中にいるからこそ、生き生きとして美しいのに。人は、自分の手に入らない美しいものだから、憧れ続け、目を輝かせて、星に祈るのだ。

 「 神様、わたしに星をとりにやらせて下さい、
   そういたしましたら病気のわたしの心が
   少しは静まるかもしれません・・・ 」
   (『ジャム詩集』 堀口大学訳 新潮文庫)

 そうして熱望する思いこそが、夢になり、詩となって、人々の心を空の高みへと舞い上げる。誰も本当に、星をとることなどできはしないと分かっていて。
 もし星をとった時には、夢は粉々のかけらに砕け散ってしまうはず。子供の頃、絵本を読んだことのある人なら誰でも知っていることだ。
 彼らは、たくさんの蝶を捕まえて、他の人たちの夢を壊し、恐らくは後になって、自分の夢をも壊したことに気づくだろう。

 確かに私は、草を引き抜き草刈りをする。そして、腕にとまった蚊を、ピシャリと叩きつぶすだろう。私は、キリストの教えを守って、叩かれた右の頬(ほお)の次に左の頬まで差し出すようなことはしないだろうし、究極の仏の教えのたとえにあるように、飢えたトラを救うために自分の体を投げ出すこともできない。
 
 つまり、前にNHK・教育で放送された、あのハーバード大学サンデル教授の講義にあったように(6月22日の項参照)、現代の”正義”とは、社会の中の様々な人々の立場や関係を考えた上で、決められることなのだ。
 私がこの夏に叩きつぶすであろう150匹の蚊と、大雪山の希少種の蝶、150匹とを比べるまでもないことだ。


 こんな話はもうやめよう、いつもの年寄りの説教グセにしかならないからだ。そして、ただ心静かに、バッハの音楽でも聴くことにしよう。
 そこで思い出したバッハの曲について、二つの話。

 一つは、数日前に、NHK・教育で放送された「バッハの夕べ」である。それは、一年前の東京での演奏会の録画であり、フルートはベルリン・フィル首席奏者のエマニュエル・パユ、チェンバロは今ではもう古楽演奏界の大家の一人になったトレヴァー・ピノック、そしてチェロはオランダ古楽界で活躍するジョナサン・マンソンであり、バッハのフルート・ソナタの数曲を中心にしたプログラムだった。

 名手パユのフルートの巧みさはもとより、通奏低音部を落ち着いて支える、ピノック、マンソンとのアンサンブルを十分楽しむことができた。そしてそれぞれの、ソロ演奏の中で、マンソンは「無伴奏チェロ組曲」の中の第一番ト長調を演奏した。
 それは最近の若い奏者たちにありがちな、バッハの舞曲楽節を際だたせるために強弱のテンポをつけたり、技術を強調したりという自己主張を感じさせるものではなかった。
 彼は、バッハの意図したであろうテンポを守り、淡々としかしひたすらにチェロを弾き続けた。単調さの中に浮かび上がってきたのは、誠実な生の深遠のひと時だった。

 もう一つは、この前ミャオのいる九州に戻った時、その際にCD店に立ち寄って買った、マリー=クレール・アランの3度目の録音、『バッハ・オルガン曲全集』(ERATO 14枚組)である。
 レコードの時代から、彼女のオルガン曲は聴いているし、CDも5枚ほど持っていたが、その重複も覚悟して買ったのだが、しかし、それだけのことはあった。
 同じオルガン全集として、あの有名なヴァルヒャのCD(ARCHIV 12枚組)も持っているし、他にも単発物として、レオンハルトやコープマンのものなどいろいろと聴くいてはきたのだが、この年になって改めて聴きなおしたアランのオルガンの響きは、どこか懐かしく、静かに私の心の中に響き渡った。
 そうだったのだ、私の居たい場所は、と今にして気づくように・・・。

 ミャオ、私もオマエと同じようにに少しずつ、年をとっているのかもしれないね。

                      飼い主より 敬具  
 


飼い主よりミャオへ(104)

2010-07-01 18:22:35 | Weblog



7月1日

 昨日今日と、雨が降ったりやんだりで、こんな天気がこの後一週間も続くという、まるで梅雨の空模様ではないか、ここは北海道だというのに。
 ミャオ、もうあれから一週間になるが、元気にしているだろうか。九州は、梅雨の真っただ中で、南部の方では豪雨の被害も出ているということだが、家の辺りはどうだったのだろう。

 オマエは、まだ家のドアの前で開けてくれと、ミャーミャー鳴いているのだろうか。そんな雨の中でも、おじさんはオマエにエサをやるために、わざわざ家に来てくれているだろう。私が家にいないだけで、ミャオはもとより、おじさんや他の人たちにも迷惑をかけてしまう。
 私は何も、大げさな自由を求めて、北海道に来たわけではないのだけれども、ただその私の小さな自由のために、周りの他の人たちが小さな束縛を受けることになるのだ。

 生きものは誰でもどんな一匹でも、どこかで様々なつながりがあり、そのつながりの中で生かされ、生きているともいえるのだが、つまり全くのひとりだけの自由や、周囲の束縛からの解放などは、死を迎える時の一瞬にしかないのだから、生きている間は、その様々なバランスを理解して、うまくやっていくしかないのだし、それこそがすべての生きものたちの生きる知恵というものなのだろう。
 それはイヤだ、と自分だけが我を張れば、あの夏目漱石の『草枕』の冒頭に書いてあるように、世の中はきゅうくつになり、かといって情がからみ、のめり込むことになれば、いつしか流され悲劇を迎えることにさえなりかねない。
 そこで私は、フランソワ・トリュフォーの名作、『隣の女』(1981年)での最後の言葉を思い出す。
 「あなたと一緒では苦しすぎるが、ひとりでは生きていけない・・・。」

 この二日間の雨の日に、NHK・BSで一月ほど前に放送され、録画していた映画を二本見た。まず一つめは、あのアラン・レネの『恋するシャンソン』(1997年)である。
 
 もう田舎に引っ込んでから何年もたつ私には、たとえ気になる映画が日本で公開されたとしても、まして私の好きなマイナーなヨーロッパの映画などは、殆んど見ることはできないから、ただ何年後かにテレビで放映されるのを待つだけなのだが、このアラン・レネの映画も、前に書いたベルイマンの映画の時のように(6月18日の項)、その題名を番組表に見つけた時は、思わず声を上げるほどだった。
 つまり、私にとっての楽しみの一つは、いささかミーハー的だが、週に一度の新聞の書評欄と、週間テレビ番組欄を見ることなのだ。

 さてフランスの映画監督、アラン・レネ(1922~)についてだが、彼は20代の頃、『ゴッホ』や『ゴーギャン』などの短編映画でデヴューして、その後、旧アウシュヴィッツ収容所を描いたドキュメンタリーの短編『夜と霧』(’55)で一躍脚光を浴び、さらに広島原爆を題材にした『二十四時間の情事』(’59)で岡田英次を主役に抜擢(ばってき)して、見事な二人だけの心理会話劇を作りあげ、ついで当時のヌーボロマンの作家、アラン・ログブリエとの共同脚本によって、前衛的、象徴的な映像美による映画『去年マリエンバードで』(’61)を完成させて、ヌーヴェルヴァーグの旗手の一人としての地位を確立した。

 しかしその後、『薔薇(ばら)のスタビスキー』(’74)辺りからは、独特の映像美は見られるものの、難解な作風が少し変わってきているように思われた。そして、私は、『アメリカの伯父さん』(’80)以降の映画を見ていなかったので、今回この『恋するシャンソン』を見て、これがあのアラン・レネかと少なからず驚いたものの、一方では、さすがに彼もフランスの映画監督の一人なのだ、と納得もした。

 物語は、パリに住むキャリア・ウーマンと主夫(しゅふ)との、中年夫婦のドタバタ劇を描いただけのものだが、そこに様々な人々がからみ、フランス映画らしいウィットとユーモアの効いた、恋愛の機微(きび)のセリフが見事であり、何よりもそれらのセリフの一部が、俳優たちによるシャンソンで歌われているのがユニークである。
 つまり、今までのミュージカル映画のようなそれらしい吹き替えではなくて、昔のシャンソンのヒット曲をセリフとして、芸達者なサヴィーヌ・アゼマやジャン・ピエール・バクリなどの俳優たちに、男女の歌にかかわりなく、口(くち)パクで歌わせているのだ。
 恐らくは脚本を書いた後、そのセリフと同じようなシャンソンを探し出してきて、当てはめたのだろうが、俳優たちの真面目くさって口パクする姿とあいまって、実に楽しい見ものだった。

 私は、その三十数曲にも及ぶシャンソンの中で、ほんの十曲ほどしか知らなかったが、同年代のフランスの中年のおじさんおばさんたちにとっては、昔を思い出すこたえられない映画だったことだろう。
 その歌の一部だが、ダリダの『パローレ』、ジルベル・ベコーの『ナタリー』、フランス・ギャルの『レジスト』、シルヴィー・ヴァルタンの『アイドルを探せ』など、他にも1930年代のジョセフィン・ベイカーから、モーリス・シュヴァリエ、ピアフ、アズナブール、ジョニー・アリデイにいたるまで、様々な時代のシャンソンが歌われていた。

 そして、何よりも嬉しかったのは、75歳になったアラン・レネが、伝統を受け継ぐ”フランスの伯父さん”になってくれたことだ。
 彼の残る一作である、同じミュージカル仕立てだという『巴里の恋愛協奏曲』(’03)が、いつか放映されることを願うだけだ。

 さて、すっかりだらだらと書いて長くなったので、もう一本の方は簡単に紹介したい。
 オムニバス(短編集)映画の『パリ、ジュテーム』(2005年)である。フランスをはじめとする、ヨーロッパ、アメリカ、日本などの映画監督たちによる、一本5分程の短編映画が18本がおさめられていて、それでも雑多な寄せ集めにならずに、見事な人間模様のパリ賛歌の映画になっている。
 それは1965年に、当時のヌーベルヴァーグの監督たち、エリック・ロメール(『緑の光線』)、ジャン・リュック・ゴダール(『勝手にしやがれ』)、クロード・シャブロル(『いとこ同志』)などを集めて制作された、同じオムニバス形式(10数分の短編6作)の映画、『パリところどころ』の現代版を意識しているのは確かだった。

 それでも、出演者にはファニー・アルダン(『隣の女』)、ジュリエット・ビノッシュ(『トリコロール\青の愛、赤の愛』)、ジェラール・ドバルデュー(『プロヴァンスの恋』)から、アメリカのイライジャ・ウッド(『ロード・オヴ・ザ・リング』)、ジーナ・ローランド、ベン・ギャラガーなど豪華俳優陣がそろっていて、さらにエンドタイトルでフランス語と英語で流れる歌が、この映画のテーマを語っていた。
 「人生は踊り続ける、時には相手を変えながら、人生は回る、回る・・・。」


 私が1週間前に、この家に戻ってきた時、庭にはレンゲツツジがまだ咲いていて、ヒオウギアヤメやエゾカンゾウ、ハマナス、ルピナス、フランスギクなどが咲いていたが、みんなこの雨に打たれて、茎から倒れてしまった。
 それでも、荒地に咲くムシトリナデシコ(写真)の花だけは、まっすぐに立ったまま鮮やかな花の色で、私の目を楽しませてくれている。どこにでも見られる、南欧原産の帰化植物だが、北海道の厳しい寒さにも耐えて、毎年こうして咲いているのだ。

 その花びらは、ナデシコというよりは、むしろサクラソウの仲間を思い起こさせる。そして、もう大雪山のあちこちに咲き始めているだろう、エゾコザクラの群落の光景が目に浮かんでくる。青空の下の、あの淡い紅色の一群・・・。
 この長い雨の日々も、いつかは終わるだろう。そして、私は今年もまた大雪に行くことだろう、北国の山の花たちに逢うために・・・。

 ミャオ、どうか元気にしていておくれ。

                      飼い主より 敬具