ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(198)

2011-08-28 16:58:52 | Weblog


8月28日

 三日前のことだ。日も暮れた夜の8時過ぎ、家の前で車が止まって、誰かが下りてきて玄関のカギをガチャガチャと開けながら、そのうえ小さく、ニャオニャオと鳴いている。そして、家の中に入ってきて、ベランダ側のドアを開けた。
 ワタシは、ベランダの隅にあるネコ小屋で寝ていたが、飛び起きて逃げようとした。しかし、待てよ、ニャオニャオと鳴き続ける声は、まさしくあの飼い主のものだ。ワタシは、照らし出されたベランダで、まだ信用できずに少し後ずさりをしながらも、一緒に鳴き交わした。
 家の中に、おずおずと入って行く。あのバカたれ飼い主がやっと戻ってきたのだ。深皿いっぱいに入れられたミルクを、ワタシはただひたすらに飲んだ。久しぶりに飲むその味は、そこいらの溜まり水の味とは全然違う、何とも言えない濃くてサラリとした、まさにミルクの味なのだ。
 ウーップ、もう一杯おかわりと。
 さらに鳴いていると、ちゃんと魚を出してくれた。冷凍してあったもののようだが、これも久しぶりだからおいしくいただいた。食べ終わり、飼い主の顔を見上げながら、ニャーオと鳴く。
 さて、これでワタシも、普通のネコなみの生活が送れるというものだ。

 「何が嬉しいかといって、久しぶりに戻ってきた家に、ミャオが元気で待っていてくれたいたことほど嬉しく、心幸せな気分になるものはない。お互いに連絡を取れないままの、一カ月だもの。
 それは、母が元気でいた時のように、私がかけた電話に、もしミャオがちゃんと受話器を取って返事してくれれば、これほど心配しなくていいのにとも思うのだが。

 しかし考えてみれば、電話も電報もなかった昔は、連絡手段といえば、長く時間がかかってようやく届く手紙くらいしかなく、それだけに、相手を思う気持ちや絆(きずな)はより深くなり、ようやく会えた時の互いの喜びは、いかばかりだったかとも思う。
 科学・文化の発達はこうして、人々から少しずつ個々の感動を奪い去ってきたのだ。今や私たちは、個々に対する時よりは、むしろ集団で味うべく作られた感動に入り込むしかなくなってきたのだろうか。
 
 もっともそうではなく、旧態然とした私とミャオの関係が、それだからより感動的なものになったとは、さらさら思わないのだが。
 つまり、その再会の一瞬を除けば、相変わらずぐうたらで無責任なオヤジと、甘ったれでよく鳴く、年寄りの雑種ネコの、なれ合い生活でしかないからだ。
 とはいっても、前回、6月に帰った時(6月14日の項)の、そしてそれ以降のミャオの深いケガの状態から、7月の終わりに家を離れた時のこと(~7月21日の項まで)を思えば、よくぞ元気でいてくれたと、本当にありがたいくらいの回復ぶりだったのだ。
 6月の時の、あのガリガリにやせ衰えていた体と比べると、毛づやもよくしっかりと太っていた。エサを毎日やりに来てくれていたおじさんには、足を向けて寝られないぞとミャオにも言ったのだが、分かっているかどうか。おじさんには、お礼の花畑牧場の”もちっぷす”くらいのお土産では申し訳ないのだが、ただ、それでさえ遠慮しようとするくらいで。
 誰でもみんな、一人では生きていけないのだ。

 ミャオのことで嬉しかったのは、その元気な体だけではない。その心もすっかり元に戻っていたのだ。思えば、あの頃は、全く悲しくなるほどの毎日だった。ミャオの痴呆的、反抗的な態度と家の中でのところかまわずのトイレ行為・・・思い出したくもない修羅場(しゅらば)の日々だったのに・・・それが、また前のように、自分で家を出て外でするようになったのだ。
 それも近くの散歩の時なぞ、私の目の前で、軽く地面を掘って、そこにして見せるのだ。私は、変な趣味はないから、とても人さま、いやネコさまのトイレ姿なんぞ見たいなんて思わないのに。

 まだ九州は夏の盛りなのに、ミャオのことが心配で早めに帰ってきたのだが、やはりあの北海道の涼しさから比べれば、気温も高いし、最も山の中だから30度にはならないのだが、蒸し暑くて、毎日の風呂と寝るまでの夜のクーラーは欠かせないのだ。
 こうしてミャオが元気ならもっと後になって、涼しくなってから戻ってきてもよかったと思うが、それは結果論だ。物事には、そう単純ではない表と裏、プラスとマイナス面がいつも半々にあるものだ。それを人はいつも、運命という言葉で片付けたがるのだ、良い時も悪い時も。
 しかし果たして、それほど断言できるものなのか・・・。前回書こうとした映画についての話は、この運命についての軽やかな、そしてあまりにも重い問題を描いていたのだ。

 この二つの映画は、半年前などに録画していたものを、最近たまたま続けて二本見たものであり、別段それぞれにかかわりがある作品だというわけではない。
 その一つは、1991年制作のイタリア映画、『エーゲ海の天使』である。私は、この映画をその題名からしてお気楽な内容だろうと思い、長い間放っておいたのだが、今回見て、なかなかに見事なイタリア映画だったことが分かった。原題の『地中海』というタイトルこそが、時代の中で生きるさまざまな人生模様を描いている、この映画の内容にふさわしい。

 物語は、第二次世界大戦の初めのころの1941年、イタリアの港を出たガリバルディ号(イタリア統一の英雄の名前)には、寄せ集めの兵隊からなる小隊が乗っていた。教養はあるが少しひ弱な隊長でもある中尉に、アフリカ戦線をくぐりぬけてきた軍曹、以下中尉付きの従卒、無線技士、ロバ飼い、山育ちの兄弟、元脱走兵のあわせて8名である。
 エーゲ海の孤島に向かう彼らの任務は、偵察と通信、つまり大した仕事ではないのだが、上陸してしばらくすると、彼らが乗ってきた巡洋艦ガリバルディ号は、敵の飛行機に爆撃沈没されてしまい、さらに唯一の外部との連絡手段である無線機が、仲間内の誤解からケンカになり壊されてしまう。
 島の男たちは戦いに駆り出されていて、老人と女子供しかいない島で、彼らは3年を過ごすことになる。そしてたまたま故障して、この島の砂浜に着陸した友軍の飛行機のパイロットから、ムッソリーニが失脚して、イタリアはドイツ軍、パルチザン、そして連合国によって三分割されているのだと知らされる。
 やがて、迎えに来たイギリス軍の船でイタリアに戻ることになるが、その前に、あの妻思いの元脱走兵は、すでに島からボートで脱走していて、さらに島にいたただ一人の娼婦と愛し合う仲になっていた従卒の男は、彼女と結婚して島に残り、結局、帰還の船に乗り込んだのは残りの6人とロバ一頭だった
 その後、三十年近くがたち、すっかり白髪頭になった元中尉が、その島に戻ってみると、そこには・・・。

 島には連絡手段がなく、そこに3年もいなければならなくなったという設定は、明らかに作為的ではあるが、その他の話は、まさにありうるイタリア的な話だった。そんな8人の、それぞれの曰くありげな人物の設定が興味深い。
 教養ある中尉の、ギリシア文明に対する尊敬の念と、ギリシアとイタリアは同じ人種だという思い。島の羊飼いの娘と山育ちの兄弟との、あけっぴろげな愛の姿は、まるでギリシア神話の時代を見ているかのようだったし、島一番の美人である娼婦の女は、母も祖母も娼婦だったから、私も娼婦になったのだと言っていたが、人類最古の職業の一つである娼婦の姿を、何の陰りもなく、男たちの救いの女マドンナとして明るく描いていて、それは、メリナ・メルクーリが演じた『日曜日はダメよ』('60)の娼婦を思い起こさせるものだった。ロバ飼いの男のロバに対する愛情は、あのフランスの詩人、ジャムの詩そのものの世界だ。
 
 第二次大戦の主戦場ヨーロッパでは、ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺が行われ、占領地での血なまぐさい弾圧と粛清(しゅくせい)の嵐が吹き荒れ、悲惨な地上戦と無差別空爆が行われていたころ、エーゲ海の孤島では、何事もなく島人と兵士たちとの穏やかな日々が続いていたのだ。
 歴史とは書き残された史実だけではなく、それよりはるかに多い人々の日常があったのだ。
 さらに、それをヨーロッパ文明の母なるギリシアと、その子供である偉大なるローマ帝国を作りあげたイタリアとの関係で、振り返り見て、さらにこの地中海には、ギリシア、イタリアだけでなく、東にはトルコがあり、オリエントがあり、南にはアフリカのイスラム文化圏があり、西にはその後の覇者となるスペインがあり、さらにはナポレオンのフランスがあったことにまで、思いが及んでいくのだ。

 それらの、歴史的、地理的事実を踏まえて、ユーモア満ち溢れる中に、人生の真実を含ませて、見事に自分の国をイタリア人を描き切った、この映画のサルバトレス監督に対して、私は、さすがにと思わざるを得なかった。
 あのロッセリーニやヴィスコンティから始まったイタリアン・ネオリアリズムの流れの一つは、デ・シーカ(『自転車泥棒』'48)、フェリーニ(『道』'54)、ピエトロ・ジェルミ(『鉄道員』'56)、タヴィアーニ兄弟(『父 パードレ・パドローネ』'77)、エルマンノ・オルミ(『木靴の樹』'78)、トルナトーレ(『ニュー・シネマ・パラダイス』'88)、などを経て、この映画やベニーニの作品(『ライフ・イズ・ビューティフル』'98)などにも延々と受け継がれてきていたのだ。

 さて、この映画に戻って言えば、そのすべてにもろ手を挙げて拍手というわけではないのだが、例えば最初にあげた状況設定や、いかにもといった演技、少し古臭いカメラ回し、そしてラストなどは少し気になるところもあるのだが、今年、私がテレビ録画で見た映画の中ではベストの一つに入るだろう。
 これらのイタリア映画について、書いていけばきりがない。特に、エルマンノ・オルミの『木靴の樹』は、私の映画ベスト1を争う一本でもあるからだ。

 ところで、この映画に登場する人々は、確かに戦時の運命の中にあった人たちなのだが、その中で、娼婦と従卒の男との結婚式の宴の終わりのころ、意気盛んな軍曹と戦場をともにしてきた部下である無線士が、前に座る軍曹の話に答えて言う、『私は運命には従うだけです』。軍曹は、力を込めて『運命は変えられるんだ』と反論し、そして『おれは国に帰りたいんだ。人々を愛したいんだ』と続ける。うつむいて話を聞いていたいた部下の無線士は、顔を上げて熱い眼差しで軍曹を見る。『私も人を愛しています。軍曹、あなたを愛しています』。ぼうぜんとする軍曹。
 おそらく、映画を見ていた人々はここで大爆笑したことだろう。監督は、しっかりと、掛け合い漫才の一シーンも仕掛けていたのだ。

 余分なことまで書いてきて、次の映画に関することは簡単にまとめるしかなくなってきた。もう一本の映画は、フランス映画の『美しき運命の傷痕(きずあと)』(原題は『地獄』、2005年)である。
 あのポーランド出身の名監督、キシエロフスキー(1941~96)が、ダンテの『神曲』の三篇「地獄編」「煉獄編」「天国編」を基にした映画の原案を作っていたのだが、映画化する前に残念ながら亡くなってしまい、それを同じポーランド出身のタノヴィッチ監督が完成させたものだ。
 ストーリーは、よくあるパターンだが、話を前後させて少しミステリー仕立てで作られている。3人姉妹の長女ソフィー(エマヌュエル・ベアール)は夫の浮気を知って怒りに駆られる毎日である。次女のセリーヌ(カリン・ヴィアール)は、時々郊外の老人施設に通っては母を介護する日々を送っていたが、ある日から、自分に近づいてきた若い男に胸をときめかせていた。三女のアンヌ(マリ・ジラン)は、恩師である大学教授(ジャック・ペラン)と深い関係になり彼を愛しているが、彼からはこれ以上はと拒まれている。
 この三姉妹の父は、妻からある修羅場を見られて告発され、刑務所に入る羽目になり、出所した日に娘たちに会いに行くが拒否され、その時の争いのケガがもとで、妻は介護施設に入ることになり、絶望した彼は自殺してしまったのだ。
 そんな暗い過去を持ちながら、成長した三姉妹の人生にも、再び暗い運命の影が忍び寄っていたのだ。そして、それぞれに、ギリギリのところで女の決断を迫られることになる。その三姉妹の思いを代弁するかのように、車いすに座った母親が、冷たい顔のままで言うのだ。「私は、何も後悔してはいない」と。

 ちなみに、ダンテの『神曲』の「地獄編」では、邪淫(じゃいん)、貪欲(どんよく)、暴力、欺瞞(ぎまん)、裏切りなどの罪を犯した者たちが、地獄の責め苦を受ける様が描かれていたが、この映画で告発された罪は何だったのだろうか。
 ちなみに、タイトルバックに映し出されていたのは、カッコウによる託卵(たくらん)の果ての、ヒナドリのおぞましい光景だった。もっともそれが、カッコウにとっての生きる道なのだが・・・。

 そして、ここでの運命については、あの大学教授が、教室で学生たちを前に講義をしているところで、巧みに説明されていた。
 「二百年前に、合理主義者たちは運命に代わるものを見つけ出した。神と理性が同等の時代になり、運命は存在しなくなった。しかし人知を超えたことへの説明が必要であり、そこで偶然を持ち出してきたのだ。しかし私は、運命ととらえるほうが好きであり、そのほうが粋(いき)だとも思う。運命には約束の意味があるが、偶然は、たんに力学的なものだ。」(この話は、後に彼の運命も決めることになるのだが・・・。)

 それにしても何とわかりやすい、運命についての説明の仕方だろう。それは私が、前にも書いたことのある、運命についてのとらえ方とは大きく異なり、個人の情を取り入れたところが興味深いし、こんな講義なら、だれでも哲学が難しいものではなく、言葉の理解を深める説明の仕方だと気づくだろう。

 最後になったが、この映画はポーランド映画作家たちによって作られたものだが、明らかにフランス映画の洗練された情景があちこちに見られたし、俳優たちの共演も見ごたえがあったが、一方ではカメラなどに見られるように、作りすぎ力みすぎなところがあって、私には今ひとつ映画に集中できなかったきらいもある。
 原題である『地獄』にふさわしい情景といえば、それはアンチテーゼ(否定的)にいえばだが、貞潔なる者と愛欲に身を沈める者という相反する姉妹の、それぞれの神の不在と孤独を描いた、あのベルイマンの名作『沈黙』('63)や『叫びとささやき』('73)がすぐに思い出されるが、この映画は完成度からいっても遠く及ばないものだった。
 それでも、確かに、見ごたえのあるフランス映画を観たのだという満足感は残ったのだが。
 
 運命とは、単なる偶然のめぐり合わせなのか、変えられるものなのか、受け入れ従うべきものなのか・・・そして時は過ぎゆく・・・。
 

飼い主よりミャオへ(145)

2011-08-23 07:17:55 | Weblog

8月22日

 拝啓 ミャオ様

 この北海道でも、夏本番の30度前後の暑い日が、1週間余りも続いた。最もその頃、本州では、連日35度を越える猛暑日続きだったということだが、その後は一転して涼しくなり、この数日は20度前後の曇り空が続き、朝は15度くらいまで下がり、靴下をはかないと寒いくらいだ。
 このまま、秋のような涼しい気温で行くとは思えないが、それでも暑さが苦手な私にはありがたい毎日だ。
 そして、ようやく外に出て、庭仕事もできるようになった。というのは、あのムシムシとした暑さの中で飛び回り、私の体にまとわりついていた、メクラアブやウシアブがいなくなったからだ。
 それでも、まだ蚊はいるから、追い払いながらの仕事だが、まず家の屋根にかかり始めたいくつかの木の枝を切り落とし、少し時期はずれたが、ツツジやオンコの木の剪定(せんてい)をした後、ようやく庭の草取り草刈作業に取りかかる。
 
 とはいっても、根っからのぐうたら怠け者の私だから、前回書いたあの夏休みの子供のように、仕事の時間は短めにして、後はダラダラと家の中で過ごしている。
 そのためでもあろうが、テレビを良く見た。それは、今まで録画したままになっていたものを少しずつ見たということなのだが、前回は、その中から、『エベレスト登頂』の番組について書いたのだが、今回はオペラと映画について少し取り上げてみたいと思う。

 8月13日にNHK・BSで放送された、リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)のオペラ、『影のない女』(1917年)は、今年のザルツブルグ音楽祭で公演されたものであり、それをわずか一ヶ月後にテレビで見られるなんて、何といい時代になったことだろう。
 私は、このオペラを、レコードでは聴いていたのだが(豪華キャストの1977年のカール・ベーム盤)、舞台を見るのは初めてだった。
 オペラの演出については、今まで何度も書いてきたように、私は守旧派(しゅきゅうは)であり、オペラが書かれた当時に意図されたような、舞台演出でいつも見たいと思っている。しかし、残念ながら、このオペラでもまた、今やヨーロッパでのオペラ上演の主流になっている、現代劇化された演出になっていた。
 ただそれでも、私は、短い休憩を入れただけで、このオペラを一気に見てしまった。
 それは、その舞台構成が単なる現代ドラマ化されたものではなく、ひとひねり考えて作られていて、私はレコードやCDで音楽だけを聴いた時のように、そのオペラの中に入っていくことができたのである。それはむしろ、舞台がなくてもかまわないほどに・・・。

 物語は、まるで神話の時代と中世の時代が入り混じったような、幻想的ロマンティッシュな話である。
 霊界(れいかい)の王と人間界の女との間に生まれた娘が、父親である王によってカモシカの姿に変えられると、ちょうどそこに猟に来ていた人間界の国王に捕まえられる。その時カモシカは、たちまちのうちにきれいな娘へと戻り、それを見た国王は、自分の妻にめとり、彼女は皇后になる。
 こうして、1年がたとうとするころ、霊界からの使者が来て彼女に告げる。すぐに霊界に戻るか、それともこのまま人間界にいたいのなら、影のない霊界の姿ではなく、人間としての影が必要であり、もしその影を得ることができなければ、相手の国王は冥界(めいかい)の石になってしまうだろうと。
 考えあぐねた皇后は、霊界からずっとついてきた乳母(魔法を使う)に相談し、乳母は街中に住む染物屋の妻が、今の生活や夫に対して不満タラタラなのに目をつけて、魔法をかけて甘いロマンスをしつらえては、影を売らないかと持ちかける。
 それが成功したかに見えた時、妻は夫への真実の愛に目覚めて、乳母の申し出を断り、冥界(めいかい)へと落とされることになる。すると、それを見ていた皇后は、自分の余りにも身勝手なたくらみに気づいて、乳母の止めるのも聞かずに、私も国王とともに石になると叫ぶ。
 そこで、皇后の父でもある霊界の王は、この二組の夫婦が真実の愛で結ばれていることを知って、すべてを許して冥界から救い出し、彼らは愛の喜びに包まれる。(この終幕の舞台は、まるであのベートーベンの第九の、”歓喜の歌”の場面のようだった。)


 シュトラウスは、以上のような物語の脚本をホフマンスタールに依頼して、オペラとして完成させたのだが、そこには、言われているように、『ばらの騎士』(1910年、’10.1.3の項参照)などと同じように、モーツァルトのオペラからの影響が見られるのだ。ここでは『魔笛』からの。

 しかし、そんなこのオペラへの私の思い入れも、この舞台を見た時には、またも現代劇の舞台かと失望したものの、そのまま見続けているうちに、少しずつ演出家の意図が見えてきた。
 その舞台は、コンサート・ホールのステージに合唱団用の座席のやぐらが組まれていて、手前にはそれぞれの歌手たちの譜面台が置かれている。そこに楽譜を広げながら歌手たちが歌い、上からは幾つものマイクが下げられていて、後の二階には調整室があり、歌手たちの歌声を聞いているプロデューサーらしい顔も見える。(写真)

 後で知ったことだが、この舞台は、1955年のカール・ベーム指揮による、ウィーン・ムジークフェラインでの録音風景を模したものということだった。(服装が少し古い感じがするのはそのためだったのだ。)
 つまり、見る側からしても、物語の時代にふさわしい演出を求める私のような人間でも、この舞台がレコーディング風景ならばと、納得せざるを得ないのだ。
 なぜなら、私たちは今まで、そうした現代の歌手たちのレコーディングによって、オペラを聴いてきたからだ。演出家のクリストフ・ロイは、その辺りの所をたくみに考えて、このオペラの現代化に挑んだのだろう。

 つまり私たちは、一つにはレコードやCDで聴く時のように、R・シュトラウスの意図した時代の人物や衣装を思い浮かべながら、オペラを聴いているわけであり、もう一つには、演劇を見るように、、舞台上にいるそれぞれの歌手たちの演技を見ることになるのだ。
 『一粒で二度おいしい』という、どこかのうたい文句ではないけれど、このオペラの舞台を見ることによって、昔のオペラを聴き、今の演劇を見るということになるのかもしれない。
 こうした演出方法は、別に目新しいわけではなく、現代のオペラだけでなく、映画や演劇のステージでもよく用いられてきたものである。ただ私は、このオペラの舞台を初めて見るだけに、できるなら作曲当時の古色蒼然(こしょくそうぜん)とした舞台で見たかったというのが本音の所である。
 ともあれ、このオペラでの、少し抑制した歌い方が好ましかった皇后役のシュヴァンネヴィルムスとは対照的に、ヒステリックな感じを出していた妻役のヘルリツィウス他の歌手陣も、それぞれに大きな不満はなく、演技者としてみれば、乳母役のシェスターが憎まれ役を少し大げさにたくみに演じきっていた。

 しかし、今回のこのオペラ公演の最も素晴らしかった見所は、いや聴き所は、何といっても、ティーレマン指揮するウィーン・フィルの奏でる音楽、音色であり、それを作曲したR・シュトラウスの見事なオーケストレイションである。
 第一幕中盤からの、音の流れの素晴らしさ・・・まるでそれは、あの彼の歌曲集、『最後の四つの歌』(1948年)を彷彿(ほうふつ)とさせるものだった。もし私があの時、ザルツブルグ祝祭大劇場に座っていたならば・・・と思うだけでも、ぞくぞくしてくるほどの音の響きだった。

 思えばその昔、ヨーロッパを巡り歩いた旅の時、当然ザルツブルグにも行ったのだが、バックパッカー姿の私は、そのクリーム色の劇場の入り口付近に集うタキシード服姿の人々を見ていただけだった。
 今年初めに、ゲルギエフ率いるマリインスキー・オペラがこの『影のない女』を上演したそうだが、私に東京まで出かけて行く余裕もなかった。

 こうして、『影のない女』を見ることができたのは良かったのだけれども、今ひとつ物足りないものがある感じのままで、それは、あの2ヶ月前の屋久島旅行の思い出に似ているとも思った。

 すっかり、話が長くなってしまった。どうしても書きたいことがあった映画の話などは、また別の機会にまわすとして、残りの音楽番組について簡単にふれておきたい。
 まず、このオペラの次の日には、何とあのバイロイトからの生中継で、ワーグナーの『ローエングリーン』があり、しかしまたしてもというべきか、最近のワーグナー・オペラがそうであるように、現代劇化された演出であり、録画はしたもののまだ見る気にならないでいる。

 それよりも、つい二日前に、同じNHK・BSで放送された『ヴェルビエ音楽祭2011』について書かないわけにはいかない。録画した次の日に、その前半部分の2時間余りを一気に見てしまったのだ。
 それはきら星輝くスター演奏者たちの、音楽を愛する思い、室内楽を演奏する喜びに満ち溢れた幸せなひと時だった。
 ヴァイオリンのジョシュア・ベル、ギトリス、カヴァコス、レーピン、カプソン、ラカトシュに、ヴィオラのバシュメット、チェロのマイスキー、カプソン、ピアノにはアルゲリッチにキーシンそして新人のブニアティシヴィリなどの面々。
 彼らが奏でる、ベートーベン、シューマン、メンデルスゾーン、ブラームスなどの名曲の数々・・・、さすがに貫禄と迫力のアルゲリッチ、そして孫娘のようなブニアティシヴィリやユジャ・ワンのピアノに支えられてヴァイオリンを奏でる、白髪老人のギトリスの幸せそうな顔(ああ、私もあやかりたい)、さらにCDで聴いたことしかない、ジプシー(ロマ)・ヴァイオリンのラカトシュの超絶技巧など、一つ一つ詳しく書きたいくらいだ。
 長くなるのでこの辺りでやめるけれども、ともかく、あの歌舞伎の顔見世公演と同じように、大向こうの観客を喜ばせる名優たちの共演を、心ゆくまで楽しむことができたのだ。
 そして、この演奏会もまた、ことしの7月にヴェルビエ音楽祭で公演されたものであり、殆んど時間おかずに、それもハイビジョンのくっきりした画面で見ることのできる、何といい時代になったことか。ああ、ありがたや。

 庭には、もう秋の花が盛りになってきた。アラゲハンゴンソウとオオハンゴンソウの黄色い花があちこちに目立ち、コスモスも一つ二つと咲いてきているし、さらに遠くからでも目につくあの鮮やかな緋色のオニユリの花も、いつもより早く咲き始めた。(’09.9.16の項参照)
 涼しい秋は、もう始まっている。ミャオ、元気にしているだろうか、もうすぐしたら、会いに行くからね。

 (以上の記事は、8月22日夕方までに書いたものだが、ずっと古いブログライターを使っていたためか、今回初めて投稿できずに、仕方なくブログ新規投稿サイトで改めて書き直したために、余分な数時間がかかってしまった。あーあ。)

飼い主よりミャオへ(144)

2011-08-17 18:59:18 | Weblog



8月17日

 拝啓 ミャオ様

 ミャオ、お盆だというのに、家に居なくて申し訳ない。
 本来は、お盆の時は、お墓のある所に戻って亡くなった人々を供養するべきなのだが、私にはとても耐えがたい九州の夏の暑さと、民族大移動の混雑を思うと、とてもこの涼しい北海道から出て行く気にはならないのだ。
 もちろん、ここでも自分なりに、ささやかながら供養の祭壇をしつらえて、手を合わせてはいるのだが、結果的にはいつもオマエに母の位牌を守ってもらっているようなもので、いつも心苦しく思っている。
 もうしばらくして、暑さが一段落し、混雑も収まるころには戻るつもりだから、待っていておくれ。
 
 こちらでは、蒸し暑い日が続いた後、昨日今日と降ったり止んだりの小雨模様で、大分涼しくなってきた。昨日の最高気温など、朝の18度から2度上がっただけの20度だった。
 それまで毎朝、日が差し始めるとともにいっせいに鳴き始めていた、セミの声が、昨日今日と朝からぴたりと止んだままだ。そういえば、蒸し暑い曇り空の一昨日、外に出てみると、トマトの葉の先に、一匹のコエゾゼミが止まっていて、近くにその抜け殻があった。(写真)

 家の林は、一年に二回、おびただしい数のセミの鳴く声に満たされる。
 まずは、5月の終わり頃から6月にかけて、エゾハルゼミ(’09.5.24の写真)が林内のカラマツなどの樹々にとまっては、もう耳を聾(ろう)せんばかりにギィーと鳴き続ける。
 その後、しばらく静かな日々を経て、今度は7月の終わりから8月半ばにかけて、このコエゾゼミがいっせいに、ジィーと鳴き出すのだ。
 ちなみに、家の林はカラマツが主体なのだが、コエゾゼミの方がはるかに多く、エゾゼミの方が少ない。両者を見分けるのは、名前のとおりの大きさの違いと、首の黄色い線の長さの違いくらいで、微妙な差のある鳴き声だけでは区別はつけがたい。

 ところで、写真にある抜け殻の幼虫から、羽化して右側にいる立派な成虫のセミになっても、生きていられるのはわずか1週間ほどだ。
 前にも書いたように、もしその羽化した時期が早すぎるか遅すぎれば、繁殖相手とのめぐり会いのチャンスを逃すことになり、あるいはその時に天気が悪ければ鳴く機会が限られ、相手を探すのに苦労することになる。(’09.5.24の項)
 つまり、その時の周りの環境次第で左右される自分の運命を、自然のあるがままに任せているのだ。

 あの万葉集には、そのセミの抜け殻、空蝉(うつせみ)に例えて歌ったものが幾つもあるが、その中の有名な一首。

 麻続(をみ)の王(おおきみ)が伊良虞(いらご)の島に流された時に読んだ歌である。
 「うつせみの命を惜しみ 波に濡れ 伊良虞の島の玉藻刈り食(は)む」

 しかしそれでも、ここに棲(す)むコエゾゼミたちは、集団としての種の継続ができれば、それで良いのだ。年毎の数の増減は仕方のないことであり、彼らの種の保存の計画には、すでに織り込み済みのことなのだろう。
 つまり個としての、存在の消滅が問題なのではなく、種としての、存在の消滅が問題なのだ。個は、個として主張はするのだが、すべては種としての集団の存在こそが優先されるのだ。

 考えてみれば、人間とて同じことだ。種としての集団が、未来へと続き残されていくのならば、自らの個としての消滅を嘆くことはない。
 もちろん人間には感情があり、愛憎や損益に駆られて、激情に走ることもあるのだろうが、落ち着いて考えれば、あくまでも自分は、おびただしい数の夜空の星々の中の、小さな一つに過ぎず、その一つの消滅で、宇宙自体が消えてしまうわけでもない。
 夜空には、何一つ変わりなく見えるほどに、無数の星が輝いているのだ。

 くよくよと思い悩むことはない。すべての生き物たちは、どうせいつかは消えていく定めなのだから、それだからこそ、取るに足りない自分でも、生きている今が、何かしらの希望を持ち自由に動き回ることのできる今が、何にも増してありがたく思えるはずだ。
 私は、まためぐり来るこの秋のことについても、しっかりと計画をたてなければならない。もちろん、ミャオがいることを踏まえてのことだが。


 ところで、この1週間の間、ずっと家に居た。どこでも混雑している時に、暑い中、わざわざ出かけたくはない。
 ただし、一日だけ、山なみがくっきりと見えるほどの天気になった日があって、沢登りにでも行こうかとも思ったが、盆休みで山にも人々が集まってきているだろうと考えると、気がすすまず、結局、家でぐうたらに過ごしてしまったのだ。

 この帰省ラッシュのニュースの中で、お盆休みを親とともに田舎で過ごした小学生の男の子が、インタビューを受けていた。
 「残りの夏休みはどう過ごしたいですか。」
 恐らくインタビューした方は、たまっている宿題をやってしまいたいとかいう答えを期待していたのだろうが、その子の返事は。
 「家でダラダラしていたいです。」
 すると、後ろにいたお父さんの手が伸びてきて、その子の頭を軽くコツンと叩いた。
 カメラのフレームは、子供の背の高さにおさめてあったから、お父さんの肩から上は見えなかった。絶妙のアングルだった。
 わずか、一分足らずのこのシーンに、私は今年のベスト・インタビュー賞を贈りたいと思う。
 
 その子供が思っているように、家でダラダラ過ごしてテレビを見ていた私は、それでも、同じようにベストにあげたくなるような番組を、幾つか見た。
 一つは、NHK・BSの「グレートサミッツ」シリーズの頂点をなす、「エベレスト~世界最高峰を撮る」である。前後編とあわせて3時間もの番組だったが、一気に見てしまった。

 山が好きな人なら、誰でもが憧れる世界最高峰のエベレスト(8848m)。一昔前なら、相当の登山家であり、なおかつ高額な費用を負担できる、ごく一部の選ばれた人に限られていたのだが、最近では一般公募による登山隊、悪く言えばツアー登山が行われるほどになったのだ。
 今回の番組を見ていても、十分な冬山登攀(とうはん)の経験と高度順応の訓練を受けていれば、私にも登れるのではないのかと思うほどだった。
 それは、アイスフォール(氷瀑)帯でのルート工作や、頂上に至るまでの固定ロープの設置、酸素ボンベの運び上げなど、頂上に至るまでのあれほどのシェルパによるサポートがあれば、まさに大名登山であり、健康で体力があり、十分な高地適応トレーニングを受けた人ならば、誰でも登れるだろうと思わせるものだった。
 とは言っても、エベレストの持つ山の厳しさがなくなったわけではない。ひとたび雪崩や悪天候に見舞われれば、すぐに死に結びつく遭難となるのは間違いない。
 その辺りの緊張感が、見事にカメラで捉えられていて、アイスフォール帯では、下に深いクレバス(割れ目)がのぞく不安定なハシゴを渡り、セラック(大きな雪塊)の間をすり抜けて、頂上への氷化した斜面を登って行くシーンなど、見事な臨場感に溢れていた。

 ただ惜しむらくは、「初の大型ハイビジョン・カメラによる撮影」を謳(うた)うならば、もっとじっくりと周りの山々の姿を映し出してほしかった。
 マカルー(8462m)、ローツェ(8516m)、チョ・オユー(8201m)、シシャパンマ(8013m)などの8000m峰だけでなく、そのほかの7000m峰にまで一つずつレンズを向けて欲しかった。ああ、あの晴れた天気の中で、もったいない。
 そして、これほどの撮影登山ができるのは、潤沢(じゅんたく)な制作費を使うことのできるNHKだからこそなのだろうが、その4人もいたカメラマンの中の一人がつぶやいていた、「仕事だから」。

 私が、たとえばまだ若くて、十分な技術体力と資金力があったとしても、それも公募隊に参加してのことだろうが、あれほどの人数でエベレストに登りたいとは思わない。それは、3年前に民放で放送された、あの三浦雄一郎登山隊でも、同じように感じたことだ。
 ただし、いずれの隊も、数々の困難を乗り越えてエベレスト登頂に成功したのだし、そのことについては、まさしく感動的な瞬間であり、心からのおめでとうを言いたい。とても、私などにできることではないのだから。
 しかし、もし私が登るとすれば、理想を言えばの話だが、初めてエベレストの頂上にたどり着いた、あのニュージーランド人のヒラリーと地元のシェルパのテンジンのような、二人組のパーティーの形が望ましい。
 さらに欲を言えば、いつも山の頂にはひとりでいたいから、メスナーのように、もし一人であの頂に立てたならば、その時の私の感激たるや・・・いやいや、ヒマラヤ・トレッキングにさえ出かけたこともない私の、全くありえない夢の話なのだが。

 そう考えてくると、いまさらながらに、あのラインホルト・メスナー(1944~)が、1986年に達成したヒマラヤ8000m峰全14座登頂の記録が、いかに超人的でものすごいものであったかを理解できる。
 1970年、最初の8000m峰ナンガバルバット(8125m)の登頂に際して、凍傷になり、足の指7本を失うが、その後さらに8000峰登頂を続け、1980年にはエベレストに再挑戦し、世界初の無酸素単独登頂を成し遂げたのだ。他にも、1990年には、徒歩による初の南極大陸横断にも成功している。(参照 : 『ラインホルト・メスナー自伝』 TBSブリタニカ出版、ウィキペディア他のサイトより)

 セミに例えていえば、他の仲間よりも強い体力と意志を持ち、抜きん出た行動によって、子孫繁栄に力を尽くす一匹のセミがいたり、夜空に数多(あまた)輝く星々の中でも、周りからはひときわ目だって輝いている星があるように、それぞれの世界には、必ず英雄たるものがいるものだ。
 そして、一方では、取るに足りないことしかできず、自分の生きた痕跡(こんせき)さえも残せなかった人々もいる。しかしそれでいい。自分なりに、この世に生きたということでは、何ら変わることがないのだから。
 つまり、時期をずれて地上に生まれ出たセミも、仲間がいなくとも、その短い時間を精一杯鳴き続けるだろうし、また、誰からも見つけてもらえない小さな輝きでも、宇宙の中でその体が燃え尽きるまではと、自分なりに精一杯光り続ける星もあるということだ。

 それでいいじゃないかと、私はいつものように、自分で決着をつけてしまう。これからも今までのように、ふてぶてしくだらだらと、ひとりで、いやミャオとともに生きていくのだと。

 次のもう一本の番組についても、書きたいことがいろいろとある。しかし、ここまでの山の話だけで、すっかり長くなってしまった。次回へと廻すことにしよう。 


飼い主よりミャオへ(143)

2011-08-12 18:42:30 | Weblog



8月12日

 拝啓 ミャオ様
 
 全国的に猛暑の日が続いている。ミャオはどうしているだろうか。
 もともと夏には余り食べないオマエだから、体力を温存させるためにも、どこか涼しい所で寝ているのだろうが、何とか暑い毎日をしのいでいてくれ、必ず涼しい秋は来るのだから。
 
 猛暑といえば、北海道もそのあおりを受けて、毎日暑い日が続いている。昨日は、帯広、北見で34度になり猛暑日一歩手前だったし、あの霧がかかりいつも涼しく、25度くらいまでしかならない釧路でさえ、31度にまで上がり、8月の記録になったそうだ。

 林に囲まれている我が家でも、32度になったくらいだ。生来ぐうたらな私としては、外に出れば暑い上に、子孫繁栄の意欲に燃えるアブたちが待ち構えているとあれば、家の中にいるしかない。
 昨日は家の中でも26度まで上がり、さすがに蒸し暑かったが、断熱効果の効いた家だから、締め切っておけば、朝の涼しさが夕方まではもってくれる。家には小さな扇風機があるが、それも天井下の小屋裏換気に使っているだけだ。
 昼間は、テレビは余り見ないし、パソコンも余り使わない。どちらも熱を持って、部屋の中が暑くなるからだ。
 となると、本を読んだり、あるいは勉学にいそしんだりしているかといえば、その気は少しはあるのだが、いかんせん本来の怠け者、わずか1ページをめくっただけで、いつしか夢の中なのだ・・・。

 「少年老い易く学(がく)生り難し
  一寸の光陰(こういん)軽んずべからず
  未だ覚めず池塘(ちとう)早春の夢
  階前の梧葉(ごよう)すでに秋声」  (朱子の漢詩より)

 ああ、情けなや。思えば、わが人生の殆んどは、日々山を思い、山とともにあることを旨として、生きてきたような気がする。そのあげくに残っているものは、自分にだけしか分からない、数多くの山々の思い出の残滓(ざんし)ばかりだ。

 夜、ホーホーと低い声でフクロウが鳴いている。とある山里の、一軒家。うっそうと茂る樹々に囲まれた、その家の戸からもれる灯り。ギーコンバタン、と音が聞こえる。
 近寄って戸の隙間からのぞいて見ると、なにやらボロをまとった一人の年寄りが、機織(はたおり)に向かってのろのろと手足を動かしている。

 「今晩は。こんな夜更けに、何をしていらっしゃるのですか。」

 機織の手足が止んで、声が聞こえた。
 「何をしているかだと。それは、わしだけの仕事・・・。」と言いながら、こちら側に振り向いた。
 男のはだけた胸から、その皮が剥(は)ぎ取られて、機織につながっていたのだ。

 「今まで生きてきた、わしの思い出を織るために、わが身に宿る記憶を剥ぎ取っているのだよ。ほうれ、見事な山々の姿が見えるだろう。」

 伸び放題の髪やヒゲ、わずかに残った黄色い歯を見せて、不気味に笑うその顔は・・・、まぎれもなきあの鬼瓦権三(おにがわらごんぞう)の、成れの果ての姿でありました。あな恐ろしや、恐ろしや。

 イヤな夢を見て、私は目が覚めた。窓の外には真夏の青空が広がり、セミの声が聞こえていた。
 しばらく、寝たままでいて、私は何をしていたのかと思い返してみた。傍らには、文庫本の『小泉八雲集』が落ちていた。私は起き上がり、先日行ってきた山登りの、その記録の残りを書いておかなければと思った。

 というわけで前回からの続きである。

 いつものことながら、山ではよく眠ることのできない私は、眠れないままそしてつかの間の眠りをと繰り返しながら、目を覚ますと外はもう明るくなっていて、周りの皆は起きて食事の支度をしていた。カメラを持って外に出る。
 余り寒くはない、というよりも風もなく少し生暖かいほどだった。昨日見えなかったトムラウシ山も見えてはいるが、大分かすんでいる。その後ろにある雲にも、朝焼けは余り反映されなかった。
 ともかく快晴の朝だ。文句をつけている場合ではない。トムラウシへと縦走する人たちは、もう早立ちして出て行った。私も、少ない荷物をまとめてザックに入れ、5時過ぎには小屋を出た。
 テント場では、若者たちが撤収(てっしゅう)作業に取り掛かっていた。今日の行程は、白雲岳に登って、後は層雲峡に戻るだけだったが、夏山は雲が出るのが早いから、なるべく早立ちしたほうがよい。

 小屋からは、昨日下って来たハイマツの斜面を登り返して、雪渓傍のお花畑に出る。朝の光を浴び始めた花々の向こうに、トムラウシ山が見えている。(写真上)
 もう何度も写真に撮っている光景だが、今朝は今ひとつ透明感に欠けていて、山々がくっきりとしていないのが残念だった。
 分岐に着いて、そこにザックを置き、カメラを入れたサブザックだけで白雲岳に向かう。

 前後には誰もいない。広い火口原の先に、残雪をつけた山頂が見えている。上空は一面の青空だ。私の足音だけが聞こえている。
 小さなお花畑の斜面から岩塊帯をたどると、頂上に着く。この大雪山第三位の高さの白雲岳(2230m)から、第一位の旭岳(2290m)を望む眺めこそが、この山々の中での最高のものだと、私は思っている。(写真)



 この光景を、私は、何度見たことだろう。そして、何度写真に撮ったことだろう。
 まだ雪の多い山の晩春のころから、最高の縞模様になる今の季節、そして雪が少なくなりそこに紅葉の錦が混じる秋、さらに雪に被われてくる山の初冬にかけて・・・。 
 いずれも、白雲の高みを隔てて、巨大なお鉢噴火口の裾野が縞模様となり、その彼方に後旭岳と旭岳が連なるという形があればこその眺めなのだ。
 30分ほど一人きりの展望を楽しんだ後、下りようとしたところで一人の若者が登ってきて、少し話をしてから下りてゆく。さらに途中で、大学の山岳部らしい若者の一行にも出会った。
 私たち、中高年の登山者だけでなく、こうして若者たちが山に親しんでくれるのは、嬉しいことだ。

 分岐に戻り、再びザックを背に、昨日たどってきた北海平方面へと下って行く。お目当ては、昨日の曇り空で、余りうまく撮れなかったエゾコザクラのお花畑だ。
 そして、私の思いはかなえられた。青空、残雪の白、赤いエゾコザクラ。他に何を言うことがあるだろう。周りには人影もない。私は、大きな岩の上に座り、絵葉書的なその風景を眺めていた。(写真)


 
 そして次は、再び風に吹かれて、あの小さな花のクモマユキノシタに覆われた、北海平を歩いて行く。昨日と違うのは、青空が広がり、左手には旭岳も見えていることだ。大きなザックの若者が一人、さらに一人と通り過ぎて行った。
 北海岳(2149m)に着き、さてどうしようかと考えたが、まだ時間はあるし、この夏の盛りには敬遠して余り歩いたことのない、表大雪銀座コースへと向かうことにした。
 
 北海から間宮岳(2185m)にかけては、あのタカネスミレの一大群落に代わって、今はイワブクロだけがいたる所に咲いていた。間宮岳からは、銀座コースに合流して、さすがに行きかう人が多い.
 イワツメクサやシコタンソウの花が散在する道を、中岳、北鎮岳(2144m)の肩へと登って、後は下るだけだ。分厚い雪渓斜面を慎重に下りて行くが、反対側から登ってくる人たちは、すべるからと黄色い声を上げていた。
 お鉢展望台下から続く雲の平は、これまた小さい花のチシマツガザクラが一面に群生していた。

 そして、石室から黒岳への登り返しがある。風もないむっとした斜面を登って行き、やっとのことで観光ハイキング客などで賑わう山頂に着いた。
 その後の黒岳からの下りで、もうバテバテになっていた。今日は、昨日と同じ8時間の行程だったのだが、少し熱中症気味で、やっとのことで登山口に帰り着いた。そして、リフトに腰を下ろし、そこで涼しい風を受けながら水筒の残りの水を飲み干して、やっと一息ついた感じだった。
 層雲峡に下りて、黒岳の湯(600円)に入り、この二日間、幾重にも汗でコーティングされ、ベタベタになっていた体を、さっぱりと洗い流し、さらに、コンビニで、一本78円のアイスキャンディーを3本買い、それを食べながら、車の窓を開け放って、森林帯の大雪国道を走って行った。
 クルマから見る山々の稜線は、もう雲に包まれようとしていた。

 久しぶりの山旅を、無理をしないコースでたどり、山の良さを十分に満喫することができた。大雪の山々に、ただありがとうと感謝するばかりだ。

 ただ気がかりな一つは、たまたま白雲の小屋で出会って、少しだけ話した彼のあの言葉だ。その『運命に逆らわないこと』について、私は、別に彼と同じように病にかかったわけではないのだけれど、それを自分の中でも起き得ることとして理解したのだ。
 私は以前、木田元氏の一冊の本を読んで、運命についてほんの少しだけだが考えたことがある。
 つまりそこでは、運命とは、ハイデガー理論を踏まえてのその著者の言葉を借りれば、”個人的な時間構造の中で立ち現れてくる、相互主観的な強い意味”ということであった。(1月23日の項)

 そして、山小屋での彼の話を、自分のものとして理解する時、運命は言われるほどに運命的なものではなく、彼が言ったように、逆らうべきものではなく、ただ強い意味を持って、時間上を流れていくものの一つになるのだろう。

 話や言葉とは、その時に自分にとって興味のないものであれば、大して意味のないことにしかならないが、そこに自分の関心がある時には、まさに打てば響くように、共鳴しあえるものなのかもしれない。
 それは逆に言えば、私たちは、日常の中で、自分に興味のないものを、いかに数多く聞き流し、あるいは耳を閉じてきたことか・・・それが個人として聞き分けられる限界だったとしても。

 いや、そうであるからこそ、すべての物事にまで共感できないからこそ、微妙な思いの違いがあるからこそ、私たちは、個性溢れる個人であり得るのだ。
 思えば、こういった考え方こそ、複雑な問題に真剣に立ち向かうこともなく、いつも単純に解決したがる、私の悪しき習性の一つなのだ。そうしながら、私はまた、わがままでガンコな年寄りへの道をひたすらに歩んでいるのかもしれない・・・。 


飼い主よりミャオへ(142)

2011-08-07 19:09:06 | Weblog



8月7日

 拝啓 ミャオ様

 九州では、毎日暑い日が続いているようだが、ミャオは元気にしているのだろうか。
 ネコたちにとっては、冬の厳しい寒さに比べれば、夏の暑さのほうがまだましだということだが、それでも、年寄りネコのオマエは、恐らくは日陰でぐったりとして寝ていることだろう。何とかそのまま元気にして、しばらく待っていておくれ。

 この北海道では、数日前までは、20度を少し越えるくらいの涼しい日が続いていたのだが、二三日前からむしむしとしてきて、昨日今日と30度を越える暑さになった。
 そんな日には、家の窓を閉め切って、外には出ないで、家の中にいるに限る。気温差は、6,7度もあり、23,4度くらいのクーラーの効いた涼しさなのだ。
 お世辞にも立派だとはいえない、手作りのタヌキ小屋だが、ともかくこれが、冬暖かく夏は涼しい丸太小屋の家のありがたいところだ。

 お金をかけないでも、こうして快適に暮らしていけること、つまり他に多くの足りないものがあったとしても、そこで生きていく上に本当に大切なものさえあれば、それだけで十分だということなのだろう。
 考え方一つで、人それぞれの自覚の仕方で、毎日の生活もまた変わってくるということなのだろう。そのことを、私は以下に書くこの山旅で、改めて思い知らされたという訳なのだ。

 数日前、私は、久しぶりの山登りに行ってきた。前回の九重の山(7月3日の項)から、何と一ヶ月以上も間が空いたことになる。7月に山に登らなかったことは、私の長い登山歴の中でも余り記憶にないことだ。
 それはもちろん、ミャオのけがや入院などがあったからだが、一方では万難を排しても山だけには行く、という気力がなくなってきたことも確かである。
 例えば、長い間行っていない日高山脈主峰群への、沢登りテント泊の山行だが、もう今までどおりの単独行では、とてもそのハードな山登りをこなすだけの体力気力もないし、それ以上に、すでに登ってしまった山だし、そのいずれもが天気の良い日に行って十分満足した山々だからと、自分に言い聞かせているからでもある。

 年を取って経験は増えても、体力は衰えてきているから、若い頃の、無理をしてでも、新しいものを見たい触れたいという思いから、いつしか無理をしたくない、ラクをして楽しみたいと思うようになってきたのだ。
 今回選んだのは、毎年夏の花々を見に行く大雪山の、それも最も簡単にその稜線、頂上に上れる、層雲峡からのコースである。ただしロープウエイ、リフト代がかかるのだが、仕方ない。
 それはともかく、何のトレーニングもなしに、一ヶ月以上ものブランクがあることの方が心配だった。


 さて、その日の朝、外は深い霧だったが、心配することはない。オホーツク海高気圧が張り出している時は、いつも北海道の東側、いわゆる道東は霧に被われていることが多く、しかし上空は晴れていて、雲海の上に山々が頭を出しているはずだ。
 ただし、早朝でいくら車が少ないとはいえ、50mほどしか見通しがきかないから、慎重に運転しなければならない。さらに、山間部に入って行けば、霧は取れていても、今度は、飛び出してくるシカが気になるし、といった具合だ。

 7時に層雲峡に着き、ローウエイに乗り、さらに上でリフトに乗り換え、黒岳への登山口を出たのは、もう8時に近かった。雲が出やすい夏山に登るには、遅すぎる時間なのだが、今日は白雲岳の小屋までの短いコースだから、そう急ぐこともない。
 何より嬉しいことは、前後に登山観光客がいなくて、静かなことだ。山登りが目的の人たちはとっくに早立ちしているし、観光客でにぎわうのはこの後の時間からだ。

 この黒岳観光登山道がつけられている、北東斜面の山腹は、どうしてどうして、なかなかに見ごたえのあるお花畑になっている。
 あの北アルプスや南アルプスなどのお花畑は、稜線の斜面に多いけれど、この大雪山では、むしろ山上の広い溶岩台地に広がっている場合が多く、花畑の名前によりふさわしい。
 ただし、その中でも、この黒岳のお花畑だけは、頂上周辺よりは、この斜面で多くの花を楽しむことができるのだ。そして、ここでの主役といえば、鮮やかな大ぶりの花をつけるチシマノキンバイソウの群落だろう。
 それは、北アルプスや南アルプスなど、さらに日高山脈でも見られるシナノキンバイと同種の花なのだが、あの利尻山には、さらに花びらの数が多く華麗な姿のボタンキンバイもある。

 1時間余りかかって、黒岳山頂(1984m)に着く。雲が多いながらも、残雪をつけた大雪山の主峰群、白雲岳(2230m)、旭岳(2290m)、北鎮岳(2244m)などが見えている。
 そして、この山頂には他に二人がいるだけで、観光登山の山とは思えないほどだった。もっとも、これが本来の静かな山の姿なのだが。
 一休みした後、黒岳石室へと下り、そこから左に分かれて美ヶ原へと下ってい行く。
 赤石川の流れの両側には、まだ豊かな残雪が残っていて、所々に、エゾコザクラなどの小さなお花畑が広がっている(写真上)。
 ただその主役である、チングルマの花は殆んど終わっていて、少し寂しいけれど、青空と残雪と、緑の草と色とりどりの花々が散在する中を、誰もいない静かな道を、歩いて行く幸せ・・・。
 さらに北海沢の流れを渡り、川あいの草原から、山腹の道へと取り付き登って行く。火山性礫地(れきち)のあちこちにコマクサやイワブクロの花が咲いていて、背景には夏雲わく北鎮岳の姿が見える(写真中)。



 やがて再び稜線に上がり、お鉢と呼ばれる巨大な噴火口跡の一端にある北海岳(2149m)に着く。そこから見る旭岳には、少し雲がまとわりついていたが、まだまだ上空には青空も広がっていた。
 頂上には数人がいたが、それぞれに下って行って、北海平へと向かう私と同じ方向には、ずっと先のほうに一人が見えるだけだった。
 この広大に広がる溶岩台地は、風が強く当たる風衝地(ふうしょうち)にもなっていて、背の低い高山植物たちが数多く散在している所だ。イワウメ、エゾツガザクラ、エゾオヤマノエンドウなどの、7月が盛りの花々はもう終わっていて、今は余り目立たない小さな花の、チシマツガザクラとクモマユキノシタの一大群生地になっていた。
 ここは、あの大雪表銀座と呼ばれる黒岳~旭岳のコースから外れていることも幸いしていて、いつでも人が少なく、ゆっくりと周りの山々を眺めながら、時には立ち止まり、また風に吹かれてのんびりと歩いて行くことのできる、私のお気に入りの道の一つだ。

 その2キロ足らずの礫地の道が終わる頃、白雲岳の北斜面の残雪が溶けた跡には、エゾコザクラのお花畑が広がっている。しかし残念なことに、上空は大部分が雲に被われていて、光溢れる鮮やかな光景とまではならなかった。
 とは言っても、反対側の赤岳沢源頭部には、青いミヤマリンドウとともにヨツバシオガマも群れ咲いていて、心和ませる景観ではあった(写真下)。



 そこから、少し登って白雲岳分岐に着き、後は小屋へと下って行く。途中の雪渓の周りにも、まだ花が残っているが、ここでも、あのお花畑の主役であるチングルマは終わっていて、すでに綿毛ばかりになっているのが寂しい。
 しかし、白雲岳南面の残雪が豊かに残る水場付近には、緑の草が豊かに茂り、チシマノキンバイソウの群生地になっていて、さらに、そこから少し上がった、白雲岳避難小屋の周辺は、規模は大きくないが、実は何十種類もの花々が手軽に観察できる、花の名所になっているのだ。

 小屋の2階にザックを置いて、私の好きな高根ヶ原、忠別沼方面へと散策に出かけることにした。
 スレート平や高根ヶ原の溶岩台地の礫地帯には、例のチシマツガザクラやイワブクロなどの他に、イワギキョウ、チシマギキョウ、そしてリシリリンドウなどの紫色の花が目につく。
 さらに、いつもの場所で、クモマユキノシタとウサギギクの群落を確かめたが、一方では、もうあのコマクサ群は終わりに近づいていた。
 ここまで、1時間半かかり、もう忠別沼はあきらめて、来た道を戻るしかなかった。小屋に着いたのは、5時近くになっていて、さすがに1ヶ月以上のブランクがある体には、今日の8時間行程は少しこたえた。

 テン場(テント設営場所)には、高校山岳部など10張りほどが並んでいたが、小屋の方は上下あわせて11人ほどで、広々と場所をとって寝ることができた。
 いつものことながら、余り良く眠れぬままに、夜中にトイレに起きた。別棟のトイレに行こうと外に出ると、暗闇の中、誰かがひとり立っていた。

 「すごい星空ですね。」と話しかけてきたのは、同じに2階の隅にいた彼だった。
 楽しみにしていた夕景は、雲が多くて残念ながら見ることができなかったのに、今や頭上は満天の星だった。
 「七夕(たなばた)の天の川が、こんなにはっきり見えて。」と、彼が言った。

 「星空が好きなのは、どちらかといえば男の方で、それだけ、男はロマンチストだということですよ。」
 私は、暗闇に目が慣れてきて、かすかに見える彼の横顔に向かってさらに続けた。
 「恐らく、星座に初めて名前をつけたのは、男でしょうね。夜の羊飼いたちのようにね。」

 「実は私は、タバコを吸おうとして外に出てきたんですよ。ただあんまり星がきれいなものだから。」
 彼は、タバコの箱を上着のポケットにしまいながら言った。
 「私は、都会で働いている時に、ガンで体の一部を切り取ってしまいましてね。今はこうして元気でなんともないからいいんですが、病院にいた時から考えましたよ、もうこれからは運命に逆(さか)らうのはよそうと。度を過ごしてはいませんが、酒もタバコも好きなことはやめません。山も好きだから、こうして登り続けていくつもりです。」

 私は空を見上げて言った。
 「つまり、大事なことは、自分にストレスをかけないこと・・・ですよね。」

 しっかりと着込んでいた彼に比べて、私はシャツ1枚だけだった。腕をさすりながら、お先にと言って小屋に戻った。
 しばらくして彼も戻ってきて、寝袋のジッパーを閉める音が聞こえていた。
 私は眠れぬまま、彼の言葉を何度も繰り返していた。そして、思ったのだ、運命とは、若い頃には抗(あがら)うべきものであり、年を取るにつれ、その向かう所に身を任せるべきものになるのかと・・・。
 生きるという、同じ思いを抱いて、人はめぐりめぐっていくのだろう。

 この山旅は次回へと続く。 


飼い主よりミャオへ(141)

2011-08-02 19:01:36 | Weblog

8月2日

 拝啓 ミャオ様

 九州では、相変わらず暑い日が続いているようだが、ミャオは何とか元気でいてくれるだろうか。今回は早めに、戻るつもりだから、どうかその日まで、気をしっかり持って、私が帰ってくるのを待っていてほしい。

 私よりは、はるかに年上のミャオにこんなことを言うのは、少し僭越(せんえつ)な気もするが、あの徳川家康公によるものとされる、『東照宮遺訓(とうしょうぐういくん)』の中に、有名な言葉がある。

 『人の一生は、重き荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思わば、不足なし。心に望みあらば、困窮(こんきゅう)したる時を思い出すべし。・・・』

 この言葉は私たち人間だけではなく、オマエたちネコの一生にもまた、同じように言えることだろう。
 特にオマエのように、ノラネコあがりの上に、時々不在になる、落ち着かない飼い主を持ったネコにとっては。

 そこで、先月のミャオの大ケガのことを思い出し、浮かんできた光景がある。子供の頃、よく見ていたバラエティー番組、『シャボン玉ホリデー』の一シーンである。
 貧しい長屋の一部屋。布団に寝ている年寄りの父親役のハナ肇(はじめ)の枕元に、『おとっつぁん、おかゆができたわよ。』と、娘役のザ・ピーナッツの二人がやってくる。
 父親は、中風になった手をふるわせながら、二人に言うのだ。
 『いつもすまねえなあ、苦労ばっかりかけて。せめてオレが元気で働ければ、おめえたちにも、おいしいものを食べさせ、きれいな着物の一枚も買ってやれるのに。おっかさんが生きていればなあ。』
 それを聞いて娘たちは言うのだ。『おとっつぁん、それは言わない約束でしょう。』
 そこで、三人は泣き崩れる。すると小松政夫扮する悪役の親分がやってきて、借金のかたに娘はもらっていくと、引っ立てていこうとする。
 その修羅場(しゅらば)に、あのお調子者の無責任男、若衆役の植木等が、かん違いして両者の間に入り込む。両者をなだめようと、さんざんしゃべった後、周りの皆がきょとんとしている所で、かん違いした自分に気がついて言う。
 『お呼びじゃない。こりゃまた失礼しました。』
 そこで、周りの皆はずっこけるという、お定まりのパターンだったのだが、このシーンが好きで、私はいつも楽しみにしていたのだ。
 まるでミャオが、夕方にサカナをもらう時のように。

 その時にはまた、勉強もしないでテレビばかり見て、と母親に叱られたりもしていたが、今にして思えば、あの低俗な番組を見ていたことで、まだ子供だった私は、いつしかあの昭和まっただ中の、日本人の心を学び取っていたのかもしれない。
 人格の形成には、確かに親から受け継いだ遺伝的なものもあるだろうが、それ以上に、後天的なもの、つまりその後の環境の差によるところが大きいとも言われている。

 ボーヴォワールの名著、『第二の性』の中には、『人は女に生まれるのではない、女になるのだ』、という有名な言葉があるが、それは、まさに社会の中で生きていく人間の、男女の本質を、見事に言い表している。
 つまり私たちは、子供の頃から日常生活を送る中で、いつの間にか、アメリカ人でも中国人でもない、日本人の心を持つようになっていくのだ。


 ところでこの三日間は、まるで初秋を思わせる涼しさで、今朝の気温は13度しかなく、日中でも20度を越えるくらいだった。
 四日前までの30度近いむし暑さに、ぐうたらしていた私は、とたんに元気になり、それまで、アブ、サシバエ、カなどに刺されながらも続けていた草刈りを、ようやく今日で終わらせた。しかし、10日もたてば、最初に刈った所からは、もう新たに草が伸びてきていた。
 林の中に幾つも咲いていた、オオウバユリの花は終わり、今は、庭の周りに、秋の花、アラゲハンゴンソウの花が咲き始め、キツリフネソウとハマナスの花もまだ咲き続けている。
 ハマナスの少しどぎついまでの赤い色は、しかし緑の中では、ただ鮮やかにすがすがしい色である(写真)。それは、街中の同じ色の看板などの色とは別物の、確かに自然の中にある色なのだ。
 
 こうした樹々や草花が繁る自然の中で暮らしている私は、日本という国の、現代文明社会の中の一員でもあって、いつもその二つの世界の差異に戸惑い、しかしあるときは感謝しながらも、それぞれを受け入れて生きている。
 そんな日々を送る私に、知らされた悲報二つ。音楽評論家の、なかむらとうよう氏の覚悟のうえでの死。事前に身辺を整理していたそうだが・・・79歳。
 東京で働いていた頃、当時の私の愛読書の一つでもあったのが、ロック、フュージョン、クロスオーバー音楽の評論誌『ニュー・ミュージック・マガジン』。その編集長であり、お会いしたこともあったのに・・・。
 さらに42歳という若さで、自ら死を選んだ、元大リーガーの投手、伊良部。生きるということとは・・・。

 しかし、そうした消失があるからこそ、生はまた輝くのだ。
 最近見た、テレビ番組の中から二つ。一つは、NHKの『ダーウィンが来た』から、「シロイワヤギ 崖っぷちこそ理想の住まい」。
 草原にいれば、エルクなどの他の大型草食動物と競合することになるし、そしてコヨーテなどに襲われないために、切り立ったロッキー山脈の岩場を住みかとして暮らすことになったシロイワヤギ。
 何より感じ入ったのは、その急な岩場を上り下りできるようにするために、発達したひづめである。前の部分は二股に開きつかんで、後ろの左右の二つで受け止める。
 その巧みな進化の形に、思わず私たち人間の岩登りスタイルを思い浮かべたのだ。昔は、あのビブラム底の重い登山靴で登っていたのに、今は伸縮性のある薄いクライミング・シューズに変わってしまった。
 そこで、シロイワヤギのひづめを考えて、私たち人間の足裏を鍛えて、それで岩場に行けば、もっとしっかりと岩をとらえられるのではないのか、四本足になるのは同じなのだから。
 そんな馬鹿げたことを話せば、馬でも鹿でもない、白いカモシカのようなあのシロイワヤギが、メエーと笑うような気もするが・・・。

 次は、NHKスペシャルの『幻の霧 摩周湖 神秘の夏』である。ずいぶん前にも似たような、題材をテーマにした番組を見た記憶もあるが。太平洋を行くフェリーから、そして空のヘリコプターからと機動力をフルに使っての映像は、なかなかに見ごたえがあった。
 いわゆる滝霧、滝雲の発生と、その移動のすべてをとらえているのだが、何しろハイビジョンの動画だけに素晴らしい。私も、今までに何度も山稜を越える滝雲は見ているし、写真にも撮っているのだが、とてもかなわない。自然界のスケールの大きさを感じさせられた一編だった。
 (ただ、画面の右上のいつもの”NHK・G”だけでなく、左上には”幻の霧”とロゴ・マークが出ていて、せっかくアングルで決められた画面が台無しだった。余分なものは画面に映し出さないでほしい。テレビカメラの画像は、それで一つのカメラ芸術なのだから。)

 ところで樹々に囲まれた家で、そんな自然界の話をしている私だが、文明の利器に、大きくお世話になっているのも事実だ。
 田舎にいるだけに、クルマは絶対の必需品だし、このパソコンも手放せないし、テレビ、BRレコーダー、炊飯器に電子レンジ、そして冷蔵庫も必要だが、その冷蔵庫が壊れてしまったのだ。
 春の山菜をしこたま冷凍していたのに、もうぐだぐだになってしまった。前日から少し変な音がしていたから、気づけばよかったのだが、分かった時には、もう遅かった。
 無理もない、30年近くも使ってきたのだから。もっとも、留守の時も多くて、通電していたのは半年くらいだからとしても、10数年にはなる。とは言え、それでもまだ良かったのだ。この6,7月の間、スイッチを入れたまま私が留守にしていた時ではなかったから。

 すぐに、商店をやっている友達の所に行って氷をもらい、冷蔵庫に入れ(昔の冷蔵庫はそうだった)、翌日、近くの町の大型家電販売店に行って、分不相応にも300Lクラスのものを買った。
 二日後に届いた。背の高いグレー色の冷蔵庫は、たくさん物が入り、音も静かだった。私は、そっと腕を回して、冷蔵庫を抱いた。生きている音がしていた。
 ミャオが、身動き一つせずに寝込んでいた時、心配してその体に手を当て、さらに耳を押し当てて、心臓の動きを聞いたことがある。

 冷蔵庫もまた、そのミャオの心臓の音と同じように動いていた。私は、私ひとりでは生きてはいけないのだ。