ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ハマナスの実と「メリー・ウィドウ」

2012-09-24 23:24:13 | Weblog
 

 9月24日

 先週の半ばまでは、まだ夏が続いていた。しかし、その次の日から最高気温は一気に10度ほども下がった。

 そのまま、二日三日と日が過ぎていき、日差しはまだ熱いけれども、日陰の空気はすっかり涼しくなっていた。今まで見えなかった日高山脈の山なみがくっきりと見えるようになり、そして、見上げる空の雲の流れが速くなっていた。
 今日は、曇り時々小雨の肌寒い一日で、朝の気温は12度で、日中も17度までしか上がらなかった。
 
 前回書いたハマナスの花は、今はもう咲いていない。これから咲いたとしても、あと一つ二つだろうか。その代りに、ハマナスの生け垣のあちこちには、赤い実が目立つようになってきた(写真上)。ようやく 秋が来たのだ。

 今までの気だるい夏の熱気に代わって、冷ややかな空気が張り詰めてくると、私の体もそれに呼応するかのように、じっとしてはいられなくなる。自然が私を呼ぶのだ。
 それは、昔習った英語の慣用句 ”Nature calls me(トイレに行きたい)"という意味ではない。今まで、ぐうたらに寝ころがっていた体が、急にしゃんとしてきて、何かが外に出ることを促すのだ。動きなさい、働きなさいと。
 
 そこで私は、外に出て、まずは畑仕事に取りかかったのだ。収穫の神、”デーメーテールの授けたもう大地のみのり”(ヘーシオドス『仕事と日』より)を得るために。

 全く手入れをせずに、荒れ放題の小さな畑は、雑草が生い茂っていて、まずはその雑草を抜いていくことから始めなければならない。やっと畑の畝(うね)の列が現れてきて、そこをスコップで掘り下げていくと、ジャガイモが幾つか出てくる。
 それを全部を寄せ集めても、段ボール箱いっぱいにもならないけれど、私一人分としては十分な量だ。
 しかし、種イモ代を計算すれば、何も自分で作らなくても買った方が安上がりなのだが、そこはそれ、ぜいたくな私だけの農業の愉(たの)しみを味わいたいのだ。
 春先に畑を耕し、自分の家の生ごみやトイレにたまったもので作った堆肥(たいひ)を、その土の中に入れ、他は何も使わずに、ほったらかしにしてでき上がった作物なのだが、今年はジャガイモの他にもキャベツとトマトも収穫したし、まだ冷蔵庫の中には、春先に冷凍した山菜も残っている。

 さて、畑の次には、庭の手入れをしなければならない。ここもまた1カ月近くも放っておいたままになっていて、まずは雑草の草取りからだ。
 この土地は、もともとが酸性の火山灰土だから、いつまでたってもスイバ(すかんぽ)が生えてくるし、最近ではカタバミが広がり大量に増えてきて、それをつまみ引き抜き続けていると、指先が痛くなってくるほどである。
 
 その草取りがすむと、やっと芝刈りにかかるが、その芝たけはもう10㎝程にも伸びているから、電動芝刈り機では長すぎてすぐに草がからみついてしまい、使えない。
 そこで、両ひざをついて草刈り鎌で刈り払っていくしかないのだが、いくら涼しくなったとはいえ、汗が流れ落ちるし、そこに暑い時から比べれば数は少なくなったが、まだまだ蚊がうるさくつきまとってくるのだ。
 他にも、駐車用の空地に茂る草もそのままにはしておけない。まずはタンポポなどの草を取った後、ここもまた草刈り鎌で刈り払っていく。

 以上の仕事だけで、三日間もかかってしまった。その毎日の仕事の後には、もうゴエモン風呂を沸かす元気もなく、沸かしたお湯を行水で使い、汗だらけの体を洗い流した。

 そこで考えたのだが、いくらグウタラな生活が年寄りの特権だとしても、もう少しましな生活を送れないものかと。
 つまり特に暑い時期の対策としては、クーラーを買ってきて、家の中にいてもしっかりと勉学に励むことができるようにすること。そして、エンジン式あるいは電気式の草刈り機を買ってきて、手早く草刈り作業をすませるようにすること。
 さらにできるなら、今の井戸に代わってちゃんと水道を引き、浄化槽を設置して、水洗トイレにして、風呂も家の中で入れるようにして、洗濯も心おきなくできるようにすること。
 しかし、そのためには莫大なお金がかかる。そんなことに金を使うくらいなら、むしろいろいろな山に行くために使った方がいいのではと考えてしまう・・・。

 この家を建てた時には、それらのことが、むしろ野趣あふれることだからと喜び、苦にもならなかったのだけれども、年を取ってきた今では、はっきりと重荷になってきたのだ。
 物事には、その時その時の判断ですむものと、長い先まで考えて判断しなければならないことがあるのだ。当たり前のことなのだけれども、人はいつも後になって、そのことに気がつくのだ。
 もっとも、それはしておくべきだったなどという後悔ではなく、その時その時に応じて、年相応に生きていくべきだということなのだろうが。

 そうした私の、場当たり的で勝手気ままな、かといって半隠居的で消極的的な生き方と比べれば、それとは逆に、社会の中で皆と一緒になって楽しく生きている人たちもいるのだ。
 例外的な私の生き方とは違い、大多数の人々は、他人との関係に気を配りながらも自ら楽しみ、社交的であり積極的に生きているのだ。
 その違いを目の当たりに見せつけられた時には、私も今更ながらのように考えさせられるのだ。そういう世界もあるのにと・・・。
 
 ただ言えることは、そんな私の思いも、昔の歌のセリフではないけれども、”古いやつだとお思いでしょうが、古いやつほど新しいものをほしがるものでございます”という、ただの一時的な感傷なのかもしれないが。
 (確かに深く考えないで、テレビであのAKB48の若い娘たちが歌い踊るのを見ているのは、そうした気持ちからなのかもしれない。)
 

 さて、もう長い間、オペラの話を書かなかったのだが、それは何も興味がなくなったわけではなく、ただ他にも書くことがあり、つい後回しになって、そのまま触れる機会がなくなったというだけのことなのだが。
 何かにつけ思うのは、物事が起きて何かを感じた時には、すぐに自分の今の思いを書き留めておくべきだということ。それをちゃんとした形でまとめ考えるのは後でするにしても。

 私が最後にオペラの実演を見たのは、もうずいぶん前のことになる。
 東京で働いていた時はもとより、あの4カ月ものヨーロッパ旅行の間には、それなりの数のオペラを見てきたのだが、その後こうして田舎に引っこんでからは、すっかりオペラの実演を見る機会もなくなってしまっていたのだ。

 それでも、最近の鮮やかなハイビジョン技術のテレビのおかげで、今では家にいて実演さながらにオペラを楽しめるようになってきたから、映画を見る時と同じように、わざわざ出かけて行かなくっても、テレビで見るだけで十分だと思うようになってきたのだ。
 (もちろんそれは、生の歌手たちの声やオーケストラの響きなど、劇場の雰囲気そのものを味わえるわけではないのだが。)
 それというのも、今では私がすっかり面倒くさがり屋の年寄りになってしまい、オペラを見るために数万円もするチケットを買って、わざわざ東京への往復一二泊の旅をしてまでという気にはならなくなったからでもあるのだが。

 山に登る時は、自分の足で現地に出かけて行くしかないから、映像などで間に合わせることはできないし、絵画展などは入場料も安いし、何かのついでに見ることもできるのだが、オペラや映画の場合は気軽に行くわけにもいかないし、これからも、私にとってはテレビ鑑賞ということになってしまうのだろう。
 だから、テレビで見るだけの私のオペラの評価は、まともなオペラ・マニアのハイレベルな論評などとは比較にならないほど軽いものだし、それは芝居小屋の外からの、流しの客の冷やかし言葉程度のものにすぎないのだ。

 さて今回のオペラは、ウィーン・フォルクスオーパーによって5月下旬に東京で公演されたものであり、7月下旬にNHK・BSで放映されていて、その録画したものを今頃になってようやく見たのだが、思った以上に素晴らしかった。
 上でも少しふれたように、こんな生活をしているからこそ余計に、対極にある生活の楽しさが伝わってきて、私も思わず若いころのように憧れる気持ちになったのだ。
 人は誰でも、幸せに笑っている人の顔を見るのが好きである。あの『新婚さんいらっしゃい』に出てくる若夫婦たちや『人生の楽園』で紹介される中高年夫婦たちが、幸せそうにしているのを見るのが好きなのだ。

 それは、ハンガリー生まれで戦前のドイツ・オーストリアで活躍したフランツ・レハール(1870~1948)が作曲した、オペレッタ(喜歌劇)の『メリー・ウィドウ』である。
 本来はドイツ語の原題で言うべきなのだろうが、今ではその英訳(陽気な未亡人)の題名の方でよく知られているのだ。

 オペレッタは、喜歌劇あるいは軽歌劇とも呼ばれ、ドラマティックな歌唱が主体の他ののオペラとは多少異なっていて、それは一般庶民にも親しみやすい歌芝居であって、いわゆるベタなロマンスと上品なお笑いがあり、それだけに芸術的な価値は低く見られがちだが、よく見れば人生の機微(きび)がちりばめられた、なかなかに見ごたえ聞き応えのある作品も多いのだ。
 そんなオペレッタの代表作としては、この『メリー・ウィドウ』をはじめとして、ヨハン・シュトラウス二世(1825~1899)の『こうもり』、オッフェンバック(1819~1880)の『天国と地獄』などがある。

 話は、ある中欧の国のパリ公使館での話で、莫大な遺産を亡き夫から遺されて未亡人になり、パリにやってきたハンナが、それを知ったパリの男たちから求愛されてしまい、公使をはじめとする面々は、国の屋台骨を揺るがせかねないほどの遺産の額が失われて祖国の一大事になるからと、何とか同じ国の男と結婚させようと画策(かくさく)し、そこで白羽の矢を立てたのが、公使館に勤める元騎兵少尉で男爵のダニロであった。
 しかし、この二人は、何と昔の恋人同士だったのだ。当時、平民の娘だったハンナと貴族のダニロとの仲は、身分の差を理由に周りの人によって引き裂かれていたのだ。
 そこで再会したその二人の、恋の行方はどうなるのか。他にも公使夫人とパリの伊達男(だておとこ)の恋などともからんで、行きつ戻りつ繰り広げられていく、というだけのことなのだが、そこでは過去の思い出や、恋の駆け引き、男と女の思い込みなど様々なできごとがからみ、やがてはハッピーエンドを迎えることになるのだ。

 その中でのパーティー・シーンでは、皆がワルツを踊り、中欧ふうな民族ダンスがあり、あのスカートを広げてのフレンチ・カンカンの踊りもあって、観客を楽しませるし、セリフの多い芝居シーンでは、道化役を含めて多くのユーモアが仕組まれていて観客を笑わせ、そして聞きどころの場面では、有名な「ヴィリアの歌」や「唇は黙し」などのアリアが朗々(ろうろう)と歌われるのだ。

 私はその昔に、カラヤンが指揮するこの『メリー・ウィドウ』のレコードを聴いた憶えがあるのだが、通して舞台を見たのはこれが初めてだった。ベタな歌芝居の楽しさは、たとえて言えば歌舞伎十八番の愉しみにも似ているのだ。

 この記事を書くにあたって、ネットで検索した関連記事の中には、この東京公演の舞台の演奏や歌手たちを悪く批評する人たちもいたが、余り知識のない私には、このテレビ映像だけでも十二分に楽しむことができた。
 つまりこれは、あのモーツァルトのジングシュピール以来の楽しい歌芝居なのだから、その舞台を一緒になって楽しめばいいのだ。他のオペラのように、オーケストラや歌手たちが超一流である必要も、またその出来で左右されるべきでもないのだ。

 とはいえ、ここでは出演者たちが良くなかったわけではない。まずは、このオペレッタのプリマドンナで、ハンナ役のアンネッタ・ダッシュだけれども、彼女の多少ふくよかな、しかし見栄えのする顔と舞台映えのするその立ち姿は、この舞台にこそふさわしく思えた。
 一方のダニロ役のダニエル・シュムッツハルトは、相手役としてはやや重みに欠けるけれど、二人でワルツを踊るシーンや、昔の思い出を語るラブシーンなどでは、息がぴったりと合ってなかなかに絵になっていた。
 (ところで余計なことかもしれないが、なんとこの二人は夫婦だとのことで、なるほどそれでと納得したのだが、もっともこのオペラ界では歌手同士が結婚した例は多く、後になって別れた例もまた多いのだ。)

 さらにもう一つ、余分な話だが、久しぶりに聞いたドイツ語だが、アンネッタの話す言葉の発音のきれいなこと、あのフランス語のR音とはまた違うドイツ語のR音の心地よい響き。たまりません。
 
 ともかくこの主演の二人がちゃんとしていて(写真下)、もうあとは伝統的な舞台で楽しい音楽と踊りが展開していけば、もうそれだけで十分にオペレッタを楽しむことができるという見本のような公演だった。

 

 
 というのも、その時の録画番組の後半で放映されたのが、何とあのロシアの作曲家ショスタコーヴィチ(1906~1975)による『モスクワ、チェリョームシキ地区』というオペレッタだったからだ。 
 それは、ロシアのその時代のものとしての、皮肉を含んだ歌芝居としてはなるほどとうなずけるものだったし、歌手たちは見事な声の歌い手たちばかりだし、フランス・リヨン歌劇場のオーケストラも素晴らしかったのだが、歌がロシア語でセリフがフランス語、そして似たような旋律が多いショスタコーヴィチの音楽そのものに、私は多少退屈さを感じてしまったのだ。

 さらにさかのぼれば、これも8月半ばにNHK・BSで放映された二本だが、一つは今年のエクサン・プロバンス音楽祭でのモーツァルト(1756~1791)のオペラ『フィガロの結婚』だが、話題のプティボンをはじめとする歌手陣に古楽オーケストラという演奏はともかく、例の現代劇としての舞台が気になって、私は十分には楽しめなかった。

 もう一つは、今年のザルツブルグ音楽祭でのダニエレ・ガッティ指揮によるウィーン・フィルと、ネトレプコとベチャワ他の豪華歌手陣という組み合わせによる、プッチーニ(1858~1924)の『ボエーム』である。
 それは何といっても歌手陣が素晴らしく聞き応えがあったのだが、しかし全体的に見れば、期待ほどではなかったのだ。
 つまり、それはベタベタの現代若者風の舞台劇(それも一昔前の若者姿)の演出であり、さらに肺病で死ぬミミ役のネトレプコが、いかにその歌声が素晴らしかったにせよ、あんな豊満な体では、(さらに周りの若者たちも生活に貧窮しているふうではなかったし)、とてもミミの最後を憐れむ気にはならない舞台だった。
 ただそうだとしても、やはりあげるべきはさすがに天下のウィーン・フィルの響きだ、ラストのプッチーニの音楽が私の胸にも迫ってきた。

 ということで、テレビで見るオペラ・ファンとしては、いささか残念な舞台が多かったのだが、実は5月の終わりに、これまた別の意味で見事な一本のオペラが放映されていたのだ。(ミャオの死からまだ日がたっていなくて、ついここに書く機会を逃していた。)
 そのオペラで特筆すべきは、いつも私が批判の矛先(ほこさき)を向けるオペラの現代舞台劇化の演出にあったのだ。つまり、それは現代劇化を超えて前衛的でありながら、普遍的なスタイルへと連なる見事な舞台になっていたからだ。

 その舞台は、あのアメリカ人の前衛舞台演出家、ロバート・ウィルソンによるものである。
 実は彼の舞台演出に関しては、前にも書いたことがあり(詳しくは1月9日の項参照)、それと同じスタイルでドビュッシー(1862~1918)のオペラ、『ペレアスとメリザンド』が演出されていたのだ。
 青白いライトに照らし出されたモノトーンの舞台、象徴化されたわずかの舞台背景、歌手たちのパントマイムふうな優雅な動き、それらのすべてが、あの『青い鳥』で有名なメーテルリンク原作の、中世の昔話としての『ペレアスとメリザンド』の悲劇の世界を描き出すのには、ふさわしいものだったのだ。

 このパリ・オペラ座のバスティーユ公演で、パリ国立歌劇場オーケストラを指揮していたのはフィリップ・ジョルダンであり、舞台に添うような音の流れが見事だった。
 歌手たちもそれぞれに聞き応えがあったのだが、中でもメリザンド役のエレナ・ツァラコヴァの、役柄にふさわしい声と清楚(せいそ)な容姿は、彼女一人だけのアリアの舞台としても、見ることができるほどだった。
 他にもペレアスの母親役を、何とあのアンネ・ゾフィー・フォン・オッターが歌っていたのだ。

 この舞台についてはまだまだ書きたいことがいろいろとあったのだが、長くなったしこれ以上の蛇足にならないようにこのあたりで終わりにしたい。
 ただこのオペラは、(同じウィルソン演出の『オルフェオ』とも併せて)今年テレビで見た中では、上にあげた『メリー・ウィドウ』とともに、それぞれに演出意図は異なるけれども、今後とも私の印象に強く残るものになるだろう。

 
 つまり、私は自分にないものに憧れて、『メリー・ウィドウ』の明るさに酔い、それとは別に、情念を抑えた静けさの世界を『ペレアスとメリザンド』に見ていたのかもしれない。

 人はどうしても、自分の体験だけでつながっている、自分の人生からは離れられないのものなのだ。そして、その自分の筆で描いていく先にあるのは・・・。


ハマナスとレンブラント

2012-09-17 17:43:47 | Weblog
 
 
 9月17日

 もうここに書くのもイヤだけれど、言わずにはいられない。暑い。
 いつも言っているように、暑さに弱い私は、そのために東京を逃れて北海道に移り住んだぐらいなのに、つい、こぼしてしまうほどなのだ。9月も半ばだというのに、毎日なんという暑さだと。

 帯広の最高気温は、昨日までの三日間、平年ならば20度台前半くらいなのに、毎日30度を超え、最低気温は平年ならば15度を下回るくらいなのに、20度を超えていて、さらにこの1週間の湿度は99%から85%という、内地とかわらないほどの蒸し暑さなのだ。
 もっとも、ここよりはさらに暑くて猛暑日になっている内地の人から言わせれば、まだましなのだろうが、涼しい夏に慣れている北海道の人たちにとって、さらに私の家のように小さな扇風機くらいしかない人たちにとっては、もう限界に近い暑さなのだ。
 北海道でもっと涼しいところにと言えば、稚内(わっかない)などの道北地方に行くか、標高の高い山の上に行くかしかないのだ。

 前にも書いたように、家は丸太づくりだから断熱効果が効いていて、窓を閉めきっておけば、室内は何とか24度くらいで持ちこたえていたのだが、とうとう26度にまでなってしまった。
 昔からクマおやじと呼ばれていた私は、外観だけでなく、暑さに弱いところもヒグマと同じなのだ。
 昼間は家の中であっちでごろごろ、こっちでごろごろしていて、かといって食料は冷蔵庫にため込んであるから、涼しい夜間になって、ヒグマのようにえさを求めて歩き回る必要もない。
 つまりは一日中グウタラしていて、”これじゃ体にいいわけないよ、分かっちゃいるけどやめられない”状態なのだ。

 そして。年寄りの習慣で早寝早起きだから、何かできるのは、日差しが熱くなる前の朝のうちのほんの2,3時間だけ。それをパソコンをいじって時間をつぶしてしまい、後はまたごろごろするだけ。
 あーいやだいやだ。そんな自分に、この何もする気がしない暑さにも。

 しかし、あの『男はつらいよ』の寅さんのセリフではないけれど、日本の労働者諸君は、この暑さにもかかわらず、毎日勤め先に出かけては働いているのだ。
 ましてこの酷暑の中、照りつける太陽の下で、汗を流して働き続けている建設現場、道路工事現場の人々の苦労たるや、その昔学生アルバイトで同じような仕事を経験したこともある私にとっては、想像するに余りある。
 あの『お日さまと北風』の話ではないけれど、寒さには着込むことでなんとか耐えられるとしても、暑さにはお手上げで、前に書いたあのクリバーンのネコのように(’08.7.8の項)毛皮を脱ぐわけにもいかず、もうただ舌を出して荒い呼吸をする犬のようなもので、じっと日陰で寝ている他はないのだ。

 窓の外を見ると、この暑さで草取りもできずに荒れたままの庭があるが、その境の生け垣にはハマナスの花がただひとり元気に空に向かって咲いている。(写真)
 そこは十数株と連なった垣根になっているのだが、そのハマナスの灌木は、決していっせいに花を咲かせるというわけではなくて、どこかの株で一輪二輪と咲いては、すぐに花びらを落としながら、夏から秋にかけての間、ずっと花を咲かせ続けているのだ。そして花の咲いた所は、あの美しい緋色の実になる。
 ただし、このハマナスはとげの多い枝をあちこちに伸ばしていて、手入れするには手間がかかるのだが、思えば、この家を建てた時に十勝の海岸にあったその実を採ってきて種から育てたものが、今もなおこうして毎年変わることなく花を咲かせ続けているのだ。
 それにひきかえ、この私の何の進歩もない歳月は、とため息まじりになってしまう。

 そんな老年の哀愁を漂わせた、二人の男の顔が思い浮かんでくる・・・あのオランダの画家、レンブラントが描いた二つの肖像画である。

 私は、前回までに書いたように、富士登山を終えた後、九州の家に戻り、10日ほどいて幾つかの用事をすませた後、北海道に帰って来る途中で東京に寄り、評判の2つの絵画展を見に行ってきた。
 それは、いずれも上野公園内にあり、それぞれ歩いて数分とかからない距離にある国立西洋美術館と東京都美術館で開催されていた、オランダの画家フェルメール(1632~1675)にまつわる二つの絵画展である。

 その開催日は、6月の中下旬から始まり奇しくも同じ9月17日までであり、もうあと1週間しかないという期日の中で、混雑するであろうことは分かっていたのだが、行ってみるとそれにしてもすさまじい人の数だった。
 まさに、今更ながらに知らされた”フェルメール熱”であり、その人々が群がり集まり動くさまは、前回に書いた、夏の最盛期の富士山頂上と何ら変わることはなかったのだ。
 そして恥ずかしながら、かくいう私もその群衆の中の一人だったのだ。

 若き日にひとりで歩き回ったヨーロッパ。その旅の目的の一つでもあったのが、アムステルダム国立美術館のフェルメールの絵だった。
 今でも思い出す『牛乳を注ぐ女』の絵の前で過ごした数時間・・・それほど長い間を、私は彼女と向き合って過ごすことができたのだ。その時に、その絵を見て通り過ぎたのはわずか二十人くらいだけだった・・・。

 今回の、国立西洋美術館で開かれている『ベルリン国立美術館展』の『真珠の首飾りの少女』と、もう一つの東京都美術館で開かれている『マウリッツハイス美術館展』の『真珠の耳飾りの少女』、その二つの絵画展のそれぞれの目玉でもあるこの二つの絵との対面は、群衆の列の動きに合わせて小刻みに移動しながらの数十秒間と、後ろに下がって満員電車さながらの群衆の中で見た数分間だけだった。
 
 今や、あの『モナ・リザ』に次ぐほどの絶大な人気を集めることになった『真珠の耳飾りの少女』は、これで二度目の対面だったが、その展示室に入って、人々が群がっていた間から見えたその姿には、やはり一瞬胸打たれるものがあった。
 他にも、彼の初期の作品とされる『ディアナとニンフたち』もあったのだが。
 
 そしてもう一つの、『真珠の首飾りの少女』の方は初めて見る作品であり、評論家の中には、フェルメールの最高傑作の一枚だとする人もいるほどであるが、ただ私には、他の幾つかのフェルメールの名作ほどには引き込まれなかった。じっくりと見ることができた時間が少なかったとはいえ。

 この絵は、左側の窓に向かって立つ女の姿と、テーブルに置かれた物や椅子などの配置や陰影などが、まさにフェルメールならではの作品ではあるのだが、気になる点が一つ・・・それは背景の白い壁の広がり方だ。
 それは、あの『牛乳を注ぐ女』ほどには、人物像を浮き立たせる効果を上げていないように思えるし、その彼女の顔も壁の白さに埋もれてやや陰影に乏しい気がするのだ。
 とはいえ、ここで彼が描きたかったのは、何らかの寓意(ぐうい)を含めたうえでの、首飾りを手にした少女の至福のひと時の思いだったとすれば、それを表現するために十分な明るい広がりが必要だったのかもしれないが。
(このフェルメールの他の絵については、’08.11.08と’11.10.12の項を参照。)

 私は、いつも幾らかの予備知識と、独断と偏見に満ちた自分自身の考え方で、こうした絵画などの美術作品や、文芸、音楽、映画作品を見てしまうのだが、それも本来、芸術作品とは、作者以外の何人もその作品の背景や真意を完全に理解することなどできないのだから、後の世の人はただ自分の人生経験に照らし合わせて、作品を鑑賞し理解する他はないと思っているからだ。
 誤解を恐れずに言えば、その時に大切なことは、まず初見の時に、他人の意見のままに見るのではなく、まずはあくまでも自分の感性のままに見ることが必要なのではないかということである。エライ先生方の評論を読むのは、その後で十分だ。

 だから私は、絵画展の時に、有料で用意されているイヤホーンで、その評論家の説明を聞きながら作品を見て回る気にはならないのだ。せっかくの自分の判断力や感性が、他人の影響を受けてしまうからだ。
 必要なのは、拙(つたな)いながらも自分なりの意見を持つことであり、もしそれが後になって間違いだったと気づいたとしても、私たちはその時にこそ学び取るのであり、次なる判断の選択の時に役に立つのではないのだろうか。

 前にも書いたことだが、思い出すのは、あの映画評論家、故淀川長治氏の話である。
 まだ彼が幼い子供時代のこと、裕福で新しい物好きの両親に連れられて、当時評判だったロシアのバレリーナ、アンナ・パブロバの踊る”瀕死(ひんし)の白鳥”を見に行って、その時に彼は子供心に非常な感銘を受けたそうである。芸術というものがいかに素晴らしいものであるかと。

 だから私は、これからの時代の子供たちの無垢(むく)な感性に期待しているし(一方で誤って教え込まれれば、と危惧もするのだが)、例えば前回の富士登山の時に、山小屋で出会った父娘との話でも出てきたことだが、宗教における無垢の信仰も、結果的な良し悪しはともかくとして幾らかは理解できるのだ。

 いつもの私の悪いクセで、また話がそれてしまった、絵画展の話に戻ろう。

 私は、その日の昼過ぎに東京に着いて、しばらくして空いている時間を見計らって上野に行った。まだ多くの人々が行きかっていた。案の定、『耳飾りの少女』がある東京都美術館の方は、1時間待ちとのことだった。
 ただでさえ行列に並ぶことが嫌いな私は、この暑い時に1時間待ちだなんてとても耐えられない。すぐにもう一つの、西洋美術館の方に行った。
 そこでは、並ばずにすぐに入れたのだが、例の『首飾りの少女』の前は黒山の人だかりだった。しかし、私にはもう一つぜひとも見たい絵があった。

 それは、レンブラントの『黄金の兜(かぶと)の男』である。
 この絵は昔から見ていた画集などではレンブラント作とされていたが、今では、彼の絵画工房による、つまり弟子たちの筆が加わった作品とされているのだ。
 しかしそんなことはどうでもよいことだ。私にとって、これがレンブラントの名作の一つであることに変わりはないのだから。
 そして何よりも実物を目の当たりにして、驚いたのは、画集などでは決して出せない、光の輝きと陰影である。暗い展示室の中の絵に軽いスポットライトが当てられていて、そこで初めて、まるで当時の室内にいるように絵を見ることができたのだ、

 男の顔は浅い塗り重ねで描かれているのに対して、盛り上がるような絵具で立体的に塗られた兜は、まさに実物を思わせるように一際鮮やかに照り輝いているのだ。
 昔の栄光と、老いたる勇者の見事な対比。なんという人生の凝縮された一瞬だろうか。
 それは過去と現在だけでなく、生と死の予感さえも漂わせていて・・・彼、レンブラントは、自分の人生を振り返ったのだ。

 レンブラント・ファン・レイン(1606~1669)はオランダのバロック期絵画の第一にあげられる巨匠であるが、その名声と有為転変の彼の人生もまた、波乱にとんだものであった。
 若いころから、天才的な肖像画家として認められ、その後名門一家の娘と結婚して、今回の絵画展で見ることのできる『ミネルヴァ』や、有名な『デュルプ博士の解剖学講義』や大作『夜警』などでさらなる名声を高めたが、自分の工房拡張や投機などでまたたく間に財産を減らし、妻は若くして死に子供たちも亡くして、さらに女性関係なども含めての裁判沙汰になり、1652年の破産に近い状態から、やがては自分の邸宅を差し押さえられて貧民街に移り住み、さらに家政婦あがりの二番目の妻にも先立たれて、彼は失意のままこの世を去ることになるのだ。

 この『黄金の兜の男』は、1650年~55年ころの作品とされていて、ちょうど彼の画風がそれまでの光と影の織り成す緻密な描写から、荒い筆づかいで的確な人物の表情感情を表わす表現方法へと変わってきたころの作品である。

 そしてもう一つのレンブラントの絵は、昨日入ることができなかった東京都美術館にあって、翌日の朝早くから並んで(待ち時間はほんの少しだけだった)見ることができた。
 やはりここでも、フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』の前は、早々と黒山の人だかりになっていた。ところがその先にあった、レンブラントの6点もの作品を集めた一角は、ゆっくりと見ることができるほどに空いていた。
 その中で、私が見たかった一点は、1669年、つまり彼の死の年に描かれた『自画像』である(写真下)。彼ほど、生涯にわたって自分の姿を描き続けた画家はいないだろう。

 


 このレンブラントのコーナーには、他にも若き日(1629年ころ)の『自画像』があり、良い対比になっているのだが、この最晩年の『自画像』には、その少し前までの『自画像』に描かれていた、自虐(じぎゃく)的な老いの姿や空虚な死の影の表情を見つけることはできない。
 ただあるのは、それらを越えた彼方にある、静謐(せいひつ)な感情をたたえた老人の姿である。

 この二つの絵画展で、レンブラントの絵をじっくりと見ることができたのは、何よりの収穫であり喜びであった。それは何も、今回の目玉作品であったフェルメールの作品と比べて言っているのではない。
 ただ繰り返すことになるが、あの雑踏では、とてもフェルメールの絵画を鑑賞するという雰囲気にはならなかったということだ。
 ただし、わずかな間でも見たそれらの絵からは、他の画家たちの作品からは遠く隔たった高みにある、まぎれもないフェルメール絵画の真実が表現されていたのだ。
 時間と空間の中に、その一瞬を閉じ込めた現実の輝き。それこそが永遠と呼ばれるものだろう。

 私は、フェルメールの全作品にこだわるつもりはない。あの『牛乳を注ぐ女』を頂点とする、私のフェルメール絵画の評価が変わることもないだろう。ただ一点、見てみたい絵を言えば、メトロポリタン美術館にある『少女』である。
 あの『モナ・リザ』に匹敵するほどの魅力的な女性像を描いた『真珠の耳飾りの少女』と比べて、それは余りにもむしろ奇異な感じのする『少女』像なのに、彼はなぜに描いたのか。
 彼の絵に出てくる女たちはすべてが、『真珠の耳飾りの少女』や『取り持ち女』『窓辺で手紙を読む女』『青衣の女』『天秤を持つ女』のような美女たちばかりではない。
 『牛乳を注ぐ女』はいかにも田舎出の下女の顔だし、『レースを編む女』も美人とは言えないし、まして同じモデルのような『赤い帽子の女』と『フルートを持つ女』は、むしろ異質な感じさえする女たちなのだ。
 それなのに、どうして彼女たちをモデルにして絵を描いたのか。答えは単純なことだと思うのだが。

 それが何かはおおよそ分かってはいても、私のその最終判断として、あの『少女』を見てみたいのだ。
 この絵があるニューヨークのメトロポリタン美術館には、他にも見たい絵がいろいろとあるのだが、私はアメリカに行きたいとは思わないのだ。
 
 ともかく、今回のこの二つの絵画展はそれぞれになかなかに見ごたえがあった。他にも、クラーナハ、デューラー、ヴァン・ダイク、ハルスなどなどの興味深い絵がいろいろとあって、レンブラントにしろ、フェルメールにしろ、彼らがそれら多くの画家たちからこれまた多くのことを学んであろうことは、想像に難(かた)くない。

 絵画は素晴らしい。絵を見ることは、豊かな感性の人を知ることであり、その人の人生から学ぶことでもあるのだ。
 この二つの絵画展に、これほど多くの人々が詰めかけるということは、実に歓迎すべきことであり、ただ確かに絵画鑑賞には厳しい環境であったのだが、それは将来にも通じる人々の芸術意識の高さであり意欲であると思いたい。
 そして、単なるフェルメール・ブームに終わらないことを祈るばかりだ。


 今日は一日中、霧雨模様になり、気温は一気に10度近くも下がって、最高気温がやっと20度に届くくらいだった。この涼しさこそが今の時期の北海道なのだ。
 その涼しい空気の中、おかげでこのブログ記事も順調にに書き上げることができた。
 遅れていた大雪山の紅葉も、これで一気に進むことだろう。

 毎年繰り返す、季節の彩(いろどり)。
 毎年飽きることなく、同じ時期に同じ山に向かう私。それが生きているということなのだろう。


 (参考文献:『マウリッツハイス美術館展』展覧会図録、『フェルメール全点踏破の旅』朽木ゆり子 集英社新書、『世界名画の旅』5 朝日文庫、Wikipedia他)

 

 

オンタデと宝永山火口

2012-09-09 17:29:32 | Weblog
 

 9月8日

 前回からの続きである。富士登山を思いたった私は、北海道から飛行機、私鉄、新幹線、タクシーと乗り継いで、富士宮口五合目に降り立ち、そこからしばらく登って、新七合目の小屋に泊まった。

 深夜、話声が聞こえた。私の上の段にいた、あの父娘の二人が荷物をまとめて下りて行った。時間は、確かに彼らが言っていた通りの、1時だった。
 多くの富士登山者がそうするように、今の時間から、ヘッドライトをつけて夜道を登れば、頂上での”御来光(ごらいこう)”を迎えて、朝日が昇る時を見ることができるのだ。

 私は、布団の中でじっと寝ていた。
 確かに、日本最高峰の富士山の山頂から、日の出を拝(おが)むというのは、日本人としてのよりふさわしい富士登山のあり方なのかもしれないし、それは江戸時代から今日まで形は変われども、脈々と受け継がれてきている、”富士講(ふじこう)”的なある種の信仰登山の形なのだろう。

 しかし、今回の私の目的は、今まで他の山々に登ってきた時と同じように、あくまでも富士山という山をよく知るために登るのであって、周りの景色を見ながらのその道程も楽しみたいのだ。
 だから私は、夜明け前の薄暮の状態ならまだしも(8月5日、10日の項参照)、夜の暗闇の中をずっと歩き続けることなどとても考えられなかった。

 そのうえ私は、自分の長い山行経験の中で何度も様々な”御来光”を目にしていて、どうしてもここでという気にはならなかったのだ。さらにできるなら、昇る朝日よりはその朝日に染まる周りの山々をこそ見たいと思っている(’09.11.1の項参照)。
 しかし富士山の場合、そのための対象となる山々が、低いか離れすぎていて、十分なモルゲン・ロート(ドイツ語、朝の赤い色)を楽しむことができないのだ。ただ積雪期に登って、バラ色に染まる南アルプスの山なみを見てみたいとは思うが。

 というわけで、私は、夢うつつの中まだ早すぎると思いながら、それもいつしか眠りの中に・・・。

 そして、しばらくはぐっすりと眠っていたのだろう。誰かが起きる物音で目を覚ました。時計を見ると、何と4時45分。しまった、4時に起きるつもりだったのに。
 山小屋ではいつも早立ちの人がいて、4時前にはもうざわざわし始めるから、自分の時計のアラームをセットしていなかったのだ。

 あわてて、周りに出していたものをザックに入れて、小屋の外に出る。夜明け前の地平が、黄金色の帯になって輝いていた。
 日の出前の、この早暁(そうぎょう)の空の色こそが素晴らしい見ものなのに。
 本来ならば4時過ぎに小屋を出て、ようやく東の空が白み始めるころ、その細くきらめく一筋の線が刻々変化していくのを、その夜明けの空を見ながら登るつもりだったのに。
 今やそれはもう、陽が昇ってくるほどの広い明るい帯となって東の空をふち取っていたのだ。

 5時、私は歩き出した。行く手のはるか上の方まで、点々とヘッドランプの小さな明かりが見えていた。ただし、私の前後には登って行く人がいなくて、静かな朝の山だった。
 東の山の端と地平の狭間の所から、“御来光”の朝日が昇って来た。

 さらに、その朝の光が眼下に広がる景色に陰影を与え始めていた。見事な俯瞰(ふかん)地図の様な眺めだった。
 一部が雲海に被われた富士山の裾野の所々は、雲が途切れていて、まず愛鷹(あしたか)連峰がひと塊り浮かび上がり、その先には伊豆半島が、中央部には天城・万三郎岳などの山々が連なり、そして左上には伊豆の大島が見え、さらにこの裾野が尽きる所は、田子の浦から三保の松原へと海岸線が続いている。(写真上)

 幸いなことに、昨日の軽い頭痛もすっかり治まっていて、体調に何の問題もなかった。しかしこういう時こそ、急がずにゆっくりと歩いていくべきなのだ。
 道は、火山礫(れき)や溶岩がむき出しになった斜面に、ジグザグにつけられていて、青空が広がる頭上には、次の山小屋が見えているのだが、なかなか近づいてこない。
 後ろから来たジーンズ姿に金剛杖を持った若者たち数人が、元気に私を追い抜いて行った。

 次の小屋は元祖七合目と呼ばれる3030m点にある。
 この富士宮口の登山道は、五合目からそれぞれに、1時間以内のほぼ等間隔に山小屋兼ベンチのある休息地点があって、ペース配分のいい区切りにもなるが、もっとも座れるベンチは少なく、結局は小屋の裏手の道のそばで休むことになるのだが。
 そんな富士宮口を選んだのには、理由がある。

 富士山には、四つの主な登山道があり、もっとも良く登られているのは、北側の河口湖口つまり富士吉田口であり、それは今では余り歩く人も少ない富士吉田の一合目から登る昔からのルートと、ほとんどの人が利用するスバルラインで五合目まで上がって登るコースがあるのだが、いずれも六合目で一緒になる。
 次に、東側の須走(すばしり)口はやや距離が長くなり、吉田口ほどには混み合わないのだが、上の八合目で吉田口からの道と合流して、一気に混雑してくる。
 そしてこの富士宮口の隣にある御殿場口のコースは、なんといってもその距離の長さにあって、その上、小屋数も少なく、敬遠されているが、逆に言えば静かな山歩きができるということでもある。

 ちなみに、各登山口からの、お鉢上のそれぞれの頂上までの時間は、富士宮口が5時間15分、富士吉田口が5時間50分、須走口が7時間、御殿場口が8時間20分。(以上『山と渓谷』付録地図より)
 
 さらに、山開きの間の夏の2ヶ月間の登山者数は、平成23年度で約30万人近くにものぼり(平均しても1日5000人というすさまじい数の登山者数である)、そのうちの56%、約18万人近くがが富士吉田口からであり、以下、富士宮口が23%、須走口が14%、御殿場口はわずか5%である(環境省のデータより)。
 つまり、富士吉田口と須走口からの道がが合わさった8合目から頂上までは、毎日の登山者の70%もの人々で混雑渋滞することになるのだ。

 その有様をテレビで見たことがあるのだが、押し合いへしあいのあの元旦の明治神宮の初詣(はつもうで)風景となんら変わる所はない。
 さらに、富士吉田口登山道から見上げると、まるで城塞、あるいは要塞のように山小屋が連なっているのが見える。頂上小屋4軒まで入れるとその数19。(富士宮口は8、御殿場口は5軒にすぎない。)
 もうこれでは、登山道というよりは、富士山浅間大社(せんげんたいしゃ)へと続く、参道であると言うべきなのだろう。

 以上のことを考え、自分の体力も頭に入れて、この富士宮口にしたのである。ただし、上にも書いたように富士吉田口や須走口では、下の方からでも御来光を見ることができるのに、この富士宮口からは見えにくいし、さらに他の三つの登山口には上り下りの道があるのに、この富士宮口は、同じ道を譲りあって上り下りしなければならないのだ。

 さて、次の小屋で八合目の3220mになり、ここですでにこの夏登った日本第2位の南アルプスの北岳の3192mを上回ることになった。そこには鳥居が立っていて、これから上は浅間大社の領域になるのだ。
 次の九合目で3400mを超え、この時期でもまだ雪渓が残っている。

 そして、荒涼たる火山色の中に、わずかの緑色を見せていたオンタデの分布もこのあたりまでになっていた。
 一歩一歩と動かす足が思うほどには進まないし、胸が苦しのは空気が薄い高山での影響からだろうか。
 そして、ついにはまたも脚がつってしまった。しかし、がまんして少しずつ歩いているうちにそれは何とか収まったのだが、胸苦しさは変わらない。
 ただ楽しみは、下に広がる伊豆半島や駿河湾の眺めであり、近づいてくる頂上の稜線である。

 道はにぎやかになってきた。御来光を終えて下山してくる人たちの数が増えてきて、前後にも登山者がいて、混雑してきたのだ。
 小さな子供を連れた家族連れも多く、疲れ果てている子供もいた。ただ何といっても、元気な男女の若者たちが多く、下山してくる彼らから挨拶されても、こちらはもう青息吐息の状態で、頭を下げるばかりだった。

 そして今さらながらに気づくのは、この富士山の登山者の年齢層とそのスタイルである。
 それは、中高年が殆どの南北アルプスなどの山と比べて、圧倒的に若者たちが多いということだ。それも学校登山などではなくて、友達、仲間で、この夏富士山に登ろうと話し合ってきたグループらしいのだ。
 まったく結構なことだ。若者たちが、その気になって苦労してでも、日本一の山に登ってやろうとするその気構えが嬉しいではないか。
 いつも山で出会う中高年グループのおしゃべりの騒がしさではない、にぎやかな騒がしさなのだ。

 この登山層については、あの白山に登った時にも感じたものだ(’09.8.4の項参照)。この二つの山に共通するものは、ともに霊山として知られる山であり、昔から信仰登山がおこなわれいて、今も形は変われども受け継がれているということだ。
 日本の山について考える時には、近代登山という側面からだけではなく、宗教登山の伝統も併せて考えなければならないのだ。(深田久弥の『日本百名山』は、そのことを十分に評価として取り入れている。)

 ただ心配なのは、若い人たちの登山スタイルである。もちろんちゃんとした登山靴に山用の服というスタイルの人が多いのだが、中にはジーンズにスニーカー、そして小さなタウン用デイパックだけという姿の若者もいるのだ。確かに小屋が多いから何とかなるだろうが。
 まあ考えてみれば、この富士宮口の往復のコースタイムは8時間45分であり、高山病の障害さえ出なければ十分に日帰り登山が可能な山だし、天気が良ければ軽装でも問題はないのだろう。
 ただ私は、3700mという高度に備えて、様々な小物を詰め込んでザックの重さが10kgにもなってしまったし、それはそれで重さが気になって、登りに支障が出るのだが。

 さて、私は最後の急斜面のジグザグ道をたどりながら、やっと大鳥居のある浅間大社奥宮の頂上に着いた。8時50分、新七合目の小屋を5時に出たから、まずまずの時間だった。
 神社にお参りして手を合わせ、母が有名神社でそうしていたように、家の神棚に供えるべくお札を買った。

 そして、いよいよ日本の最高峰地点(3775.6m)である剣ヶ峰に向かった。
 三角点の周りには、数人の人がいるだけで混んではいなかった。ただ、機器点検のためか、係の人が立ち働いていて、展望台には上がれなかった。眼下の巨大な火口を眺め回した後、わずか5分ほどいただけの頂上から下りてきて、お鉢一周のコースをたどった。

 そして白山岳に向かう途中で、道から少し外れた大きな溶岩の上に腰を下ろした。ようやく一人きりになれた。そして、期待していた展望は、10時に近い時間としては、十分な眺めだった。

 確かに周りには、湧き上がってきた積雲がまるで子羊のように群れ広がってはいたが、山々はまだ見えていた。
 まずは南アルプス、甲斐駒、鳳凰、仙丈、北岳、間ノ岳、農鳥、塩見、荒川三山、赤石、聖と並んでいる。
 その南アルプスから離れて北側には八ヶ岳連峰、横岳、赤岳、阿弥陀と見える。その後ろ遠くに北アルプスの山々、槍・穂高がそびえ立ち、さらに後立山(うしろたてやま)の峰々までもが雲の間に見えているのだ。そして、中央アルプスから御岳山(おんたけさん)も・・・。

 再びお鉢一周を続けるが、二番目に高い標高の白山岳(3756m)へは、残念ながら立ち入り禁止のロープが張られていた。次の久須志(くすし)岳に上がると、氷河ブロックのような残雪を谷筋に刻んで剣ヶ峰が高く見えた。(写真)

 

 今の時間でも人でいっぱいの吉田口頂上だったが、奥宮神社で再び手を合わせ、その裏手にある大日岳からさらにちょっとした岩登りをして伊豆岳(3749m)山頂に上がり、そして成就(じょうじゅ)岳へは先に行って戻る形でその頂きに立った。
 残念なのは、西側の雲が増えて2000mの高さ付近までもう雲海状になっていて、丹沢や大菩薩(だいぼさつ)、富士外輪の山々が見えなかったことである。

 一周を終えて、富士宮口の神社前に戻る。まだ11時だけれども、このままこの山頂小屋で泊まり、今日の夕日と明日のご来光を見てから山を下りてもいいと思った。
 小屋の人に尋ねてみると、小屋の受け付けは4時からだから、それまで時間をつぶして下さいとのことだった。(南北アルプスなどの山小屋では部屋に入れてくれるのに。)

 まさかあと5時間もの間、コマネズミではあるまいし、お鉢をぐるぐる回っていても仕方ない。
 ともかく晴れた日の富士山登頂は果たせたことだし、体調もいいから、このまま下りることにしよう。それも前からの計画通りに、御殿場口コースを経由して宝永山に登り、富士宮口に戻ることにして。

 下りの道は、富士宮口、吉田口の混雑ぶりがうそのような静けさだった。数百メートルおきくらいに、単独の登山者が登ってくる。話を聞くとちゃんと登山口から登り始めてきたそうだ。
 8時間もかかる最長コースの道を、何とエライことだろう。山好きたる者は、富士登山に際しては、すべからくこの御殿場からの道をたどるべきなのだ。

 やはり下りは楽で、火山礫の道をずんずんと下りて行くが、同じ下りの人も少なかった。
 まだ、駿河湾の海岸線が見えていた。ということは、あの浜辺からも、雲の上に富士山が見えているということだ。
 八合目の小屋で一休みして、足がつらないようにスポーツドリンクを買って飲んだ。次の七合目には、小屋が少し離れて三つもあった。その先が、この御殿場コース下りの最大の呼び物、大砂走りへの入口分岐になっている。

 そこで前を行く若い男に話しかけたが、彼も宝永山に行くと言うので、一緒に並んで下って行く。この先の深い砂の大砂走りと比べれば、まだ序の口なのだろうが、何と気分のいいことか。
 少し大きな礫(れき)の混じった砂の道は、抵抗なく大股でずんずんと下って行けるのだ。思えばそれは、残雪の尾根や沢筋を下っていく時の感じに似ている。
 ただし、自分のあげる砂煙りがひどいけれど。(富士宮口からの登山道ではマスクしている人をよく見かけたのだが、なるほどそのためだったのかと納得。)

 さて、これから先が大砂走りというところで分岐になり、名残惜しい気もするが、右手に宝永山への道をたどって行く。なだらかな火口稜線をたどればすぐに宝永山の頂上(2693m)だった。
 富士山本体のお鉢よりも大きいといわれる、江戸時代の宝永年間に噴火したその火口の雄大さ、その火山礫斜面の中で、さらに上に伸びて行こうとするオンタデの緑の鮮やかさ・・・。ここに来て初めて、山の景観を見たような気がした。

 同行する彼とカメラのことから山のことなどを話していくうちに、私よりはずいぶん若い彼なのに、同じような好みだと分かり話がはずんだ。

 頂上からは、火口底に向かっての、一気に砂走りの下りになる。そこは隣の第二火口との境になっていて、緑が濃くなり、何とちょっとしたお花畑になっていたのだ。
 白い花のオンタデ(あるいはイタドリ)に赤い花の変種(雄花)と言われるメイゲツソウ(写真)、ホタルブクロ、イワオウギ、ムラサキモメンヅル、さらにまだ花が咲いていないトウヒレン(アザミ)の仲間らしいものもあった。そして、一匹のアサギマダラがひらひらと・・・。

 少し登り返して、富士宮口五合目分岐点で休むことにする。ここから見ると宝永山の頂が、第一火口と第二火口を分ける分水嶺になっているのが良く分かる。(写真)

 

 まだまだツアーやハイキングの人たちが登ってくる中、六合目の小屋に出て昨日の道に戻り、出発点の五合目へと下りたが、下りには3時間かかっていた。
 もう2時半を過ぎているというのに、昨日以上にまだはっきりと富士山の頂上が見えていた。

 クルマで来ていた彼と別れて、バス停に行くと、3時に出る三島行きのバスがあった。私の他に、外国人の若い男一人と日本人の若い男が二人、彼らと少し話をして、富士山の印象を尋ねると、両者一緒に宝永山と答えた。それはまさしく私の答えでもあったのだ。

 バスはその五合目から、上り側に長い車列が続く道を下り、テーマ・パークやサファリ・パークを経由して三島駅に着いた。
 そこで、彼らと別れ、駅前の観光案内所に行くと、まるで客室乗務員みたいな背の高いきれいなおねえさんが、すぐそばのビジネスホテルを案内してくれた。何と、特別プランの安い料金でということで、行ってみるとまだ新しいホテルできれいな部屋だった。

 シャワーを浴びて汗を流し、外に出ると夕焼け空を背景に富士山がシルエットになって見えていた。近くの店で、大盛り詰め合わせのアナゴ丼を食べた。

 すべてが思った以上にうまくいったのだ。そういう時もある。私は幸せな思いに満たされて、広いベッドの上で眠りについた。

 ああ、富士山、宝永山、きれいなおねえさん、安くて新しいホテルの部屋、たらふくのアナゴ丼・・・母さん、ミャオ、ありがとう・・・。

ヤナギランと溶岩流

2012-09-02 17:43:55 | Weblog
 

 9月2日

 富士宮口、五合目。標高2400m、午後3時過ぎ。人々でにぎわう展望台から、さらに1376mも上にある山頂を見上げる。(写真上)
 とうとう、私はやって来た。長い間、山好きな私が、それでも今まで登らなかった山、富士山。正確に言えば、なかなか登る気にはならなかった山というべきだろうが。

 日本人が誰でも思うように、その高さからその姿から、日本一の山だということは百も承知の上で、私は長い間、富士山に登りたいとは思わなかったのだ。
 むしろ、私が今こうしてあるような山登り愛好者でなかったならば、逆に単純な気持ちで日本一の山に登ってやろうと思い、とっくの昔にあの頂きに立っていたことだろう。

 その昔のこと、志を抱いて東京へ向かう若き日の私は、明け染めた夜行寝台特急列車の窓の傍に立ちつくしていた。
 富士川の鉄橋を渡り、田子の浦の海岸付近を通る鉄道の線路から、掛け値なしの高さで、高まりそびえ立つ白銀の富士の高嶺・・・。
 3700m余りもの信じられない標高差で、それもさえぎるものもなく真っ正面に、これほど高い山を見上げたのは、私には初めてのことだった。
 自然界が作り上げた、その余りにも巨大な高まりを前に、私はただ言葉もなく立ちつくすばかりだった。まるで初めて神の奇跡を目の当たりにした人のように・・・。

 その後長く住むことになった東京の街から、晴れた日の朝夕には、西の空に富士の姿を探すのが、私の楽しみの一つになった。
 そこで山行を重ねた奥多摩や秩父、上信越の山々、さらに八ヶ岳、北アルプス、南アルプスなどの山々の頂から、まず最初に目が行くのは、富士の見える方向だった。

 しかしそれでも、富士山に登りたいとは思わなかった。それは、山が高いからでも時間がかかるからでもない。私には、富士山はその神聖な美しい姿のままに、あくまでも遠く近くに眺める山であったからである。
 とは言いつつも、一方では自然そのものであるべき山頂に、現代科学技術の象徴たる大きな気象レーダー・ドームが鎮座しているのも気になっていた(それが気象予報に欠かせないものであったにせよ)。
 さらに、山岳鑑賞派の立場から言えば、他の山々よりははるかに高い独立峰であるがゆえに、頂上からの展望は俯瞰(ふかん)するだけになるだろうという心配もあった。(山々の展望の楽しみは、同程度あるいは少し低いところから、その対象の山を見て鑑賞する所にあるのだ。富士山はひとり高すぎるのだ。)

 そして富士山に登る時の、山登りそのものの楽しみ方にまで、その思いが及ぶのだ。つまり富士山は、私が目指す、できるかぎり静かな登山からは遠く隔たった所にある大衆娯楽的な楽しみ方の山であり、あえて言えばそのテーマ・パーク的な雑踏を何よりも恐れたからである。
 それならば、混みあう夏に登らずに、雪の降り出す秋から積雪期の冬、そして大量の雪が残る春などの時期に登ればいいのだろうが、そこはヒマラヤ遠征の氷雪訓練が行われるほどの山であり、今までに何人もの死者が出ているのだ。
 つまり、その山の形からして、頂上から一気にふもとまで続く氷雪の斜面は、一度スリップしたらただ奈落へと滑っていくだけであり、そのことは、ザイル仲間もいなくていつも単独行動している私を、躊躇(ちゅうちょ)させるには十分なものだった。

 以上の様々な理由から、私は今まで富士山に登らなかったのだが、それがなぜ今になって、富士山五合目に降り立って、山頂を目指す気になったのか。
 理由は一つ。年を取ったからである。

 振り返る過去は、余りにも長い歳月だったのに、向うべき未来には、どれほどの年月が残されているかもわからない。
 年を取れば、それだけ長年培(つちか)ってきた自分の思いにとらわれ、物事に執着しては偏屈(へんくつ)になっていき、大きくふくらんだ自分の殻(から)の中に閉じこもるものなのだ。その外に見える死の世界・・・。
 それをなるべく見ないようにと、過去の思い出の糸を吐き出しながら自分の殻の内側を覆い、今の仕事に没頭しては生きているのだ。

 私には、さらなる今を生きるために、より多くの過去となるべき思い出作りの糸が必要だったのだ。それでも年寄りの冷静さで、自分のできる範囲内で、まだ体力のある今のうちにと考えたのだ。
 そこには、日本一の山という、さらなる勲章飾りを求める年寄りの強欲さもあっただろうし、世界遺産なんぞに登録されたら、ますます混雑することになるだろうからという思いもあったからだ。

 私は、7月の山開き前から、ネットや雑誌などで富士山のことについていろいろと調べたあげく、登山者が少なくなるであろう8月下旬に、どのみち九州の家にも帰らなければならないし、その旅の途中に登ることにしたのだ。もちろん、天気予報を調べたうえで、その日を決めた。

 飛行機で北海道から東京に着き、乗り換えて新幹線の品川駅に、しかしそこで、予定していた時間の”こだま”には間に合わなかった。
 空港での預け荷物の受け取りに時間がかかるので、手荷物としてまとめられるだけの大きさのザックにして、機内持ち込みができない登山用ストックさえも置いてきたのに。

 そして新富士駅に着いたが、一電車遅れたために、次は3時間近く待って夕方の最終バスがあるだけだ。ここで降りた登山客は、若い外国人一人だけだった。話しかけてみるが、当然彼はここで待ってバスで行くという。
 私は、相乗りもあきらめて、大枚一枚をひとりで払うことにしてタクシーに乗った。お金で時間を買うことにしたのだ。
 ドライバーは御婦人だった。彼女に頼んでスポーツ店に寄ってもらい、登山用のストック一本を手に入れた。(登山口で買えるだろう富士登山でおなじみの金剛杖を持って登りたくはなかったからだ。)

 富士宮口五合目までの1時間20分ほどの間は、彼女といろいろな話をしていて、そんなに時間がかかったとは思えなかった。
 しかし、もう登山者は少ないだろうと思っていたこの時期なのに、五合目駐車場までの路肩には、かなり下の方まで路上駐車の車が並んでいた。夏のマイカー規制が終わって(知らなかった)、どっとみんながやってきたのだ。

 まるで避暑地の観光地のようににぎわう五合目から、私は歩き出した。まだ3時半にならないくらいだから、今日の目的の新七合目には、5時までには着くだろう。
 今の時間には下から雲が上がってきて、ガスに包まれることの多い山の天気としては、悪くはなかった。青空があちこちに見えていたし、右手には宝永山火口の稜線も見えていた。
 今の時間でさえも、こんなに多くの上り下りの人々が行きかう道に、うんざりしていた私の目に華やかな色の一群が目に飛び込んできた。(写真)

 

 灰色や赤茶色の火山礫(れき)の斜面に、点々とオンタデやイタドリの緑が散在し、その緑が密集した一隅に、それだけに目立つ、濃い桃色の花をつけた一群があったのだ。その立ち姿から、ヤナギランらしかった。
 しかし、私が今まで目にしてきたヤナギランは、もっと高度の低い1500m前後の高原地帯であった。こんな火山礫地の標高2500mもあるような所にと、その時には半信半疑だったのだが、後で調べてみて、数少ない富士山の花の中にも、ヤナギランの名前があったのだ。

 1時間余りで、新七合目の小屋に着いた。標高2790m、高山病にならないためにもここで一晩過ごせば、幾らかは順応できるはずだ。
 比較的きれいな小屋で、宿泊者も少なく、二畳分一ますで区切られていて四つの枕があり、混んでいる時には四人で寝るのだろうが、私一人だけに割り当ててくれた。
 ただし食事は、富士山の山小屋の定番メニューのカレーだとしても、ご飯とルーだけ、あとはお茶が一杯というのは、少し物足りなかった。せめて彩りの野菜と、インスタントの味噌汁くらいは欲しかった所だ。

 前回の南アルプスの山行の所でも書いているように、最近の山小屋の食事は昔と比べれば格段においしくなったのに、これでは余りにも貧弱すぎる。もっともその分、一泊二食(朝食はおにぎり弁当)の料金が南北アルプスの山小屋と比べればずいぶんと安いのだ。
 この食事のための食材などの物資の運搬は、南北アルプスなどで使われているヘリコプターが気流の影響で使えないので、少量しか運べないブルドーザーに頼るしかなく、そのためなのかもしれないが。
 さらに言えば、昔は悪く言えば垂れ流しで、その後も溜め置き式だったトイレが、すっかり清潔なトイレになっていて、その設備のために多額の費用がかかっていて、経費削減の余波を受けているのかもしれない。(当然のことながら、富士山のトイレはすべて有料である。)

 夕方、外に出ると、小屋の裏手に斜光線に照らし出された溶岩流の見事な連なりが見えた。それはまるで、火山の造形見本になるような、溶岩の流れを示していた。(写真)

 

 遠くから見ると、優美な線を引いてそびえる富士山だが、その山肌は、ザクザクの火山礫だけではなく、巨大な噴石やこうした溶岩流の塊、さらには繰り返された噴火の跡を示す重なった地層などがむき出しになっていて、まだ新しい火山の噴火の痕跡(こんせき)をあちこちに見ることができるのだ。
 気の遠くなるような地球の歴史から比べれば、まだほんの少し前の時代に噴火がおさまっただけの、新しい火山であり、昔地学の時間に教わった死火山ではなく、休火山であり、最近では、東海・東南海地震に連動して噴火するかもしれない活火山だともいわれているのだ。

 とすると、この富士山の地質学的な歴史からいえば、今の美しい姿は、ほんのひと時の仮の姿かもしれない。
 さらに今の富士山の山体は、一般的に川や沢によって浸食されていく他の山と違って、全表面的な雨や雪の浸食だけでなく、風化などによる浸食作用の力も大きく、特に西側の大沢崩れが今やお鉢稜線にまで迫ってきているし、北側の吉田大沢も落石が繰り返され、少しづつ崩壊が始まっているようだ。

 今だけの、仮の姿の美しさ・・・いつか噴火して、あるいは崩壊してゆく不安を抱えて、それだからこその今ひと時の美しさが、今のうちに登っておかなければという人々の思いと重なるのかもしれない。

 夕日は、西側の山体の稜線に隠れて見えなかったが、下界の上にある積乱雲は次第に収まり、明日も晴れてくれるだろう。
 
 その後で、食事の時に同席した同年代の父親と女子大生娘の二人連れと、食事の後もしばらく話が続いて、話題は、山の話から若い時にできること、果ては宗教の話にまで及んで、なかなかに考えさせられる意義あるひと時だった。
 明日は午前1時に起きて登り、頂上でご来光を迎えるつもりだという二人とともに、7時半には部屋に戻り、床についた。

 しかし、いつものようになかなか眠れない。そのうえに、幾らかの高山病の影響からか少し頭が痛かったが、心配するほどではなかった。
 むしろ、明日の頂上からの展望がどれほどのものかという期待と、そしてその後そのまま下山するのか、それとももう一晩頂上の山小屋に泊まって、こちら側からは少し隠れてしまうご来光を改めて見直すのか。

 考えても始まらない。すべては、明日の天気と体調次第なのだから・・・いつしかうとうとと、眠りに入っていくようだった。

 (次回へと続く。)