ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

終わりある無限に続く道

2015-09-28 22:11:53 | Weblog



 9月28日

 毎年、今の時期になると、大雪山の紅葉を見るために、同じような場所に出かけて行っては、同じような写真を撮り続けている。
 毎年、変わり映えのしない似たような景色なのに、あきることもなく同じ場所に通い続ける気持ちというのは、どう説明すればよいのだろう。
 
 あの富士山について、誰もが認めるその大いなる美しさは、それだけにもう使い古された陳腐(ちんぷ)な美しさに過ぎないのだろうか。しかし、いざその前に立てば、それが何度目であっても、やはり迫りくる圧倒的な景観を前に、その美しさを口にしないわけにはいかないだろう。
 深田久弥は、その名著『日本百名山』の中で、富士山の美しさを”偉大なる通俗”と呼んでほめたたえていたが、それと同じようなことで、万人に知られる紅葉名所の山へ、毎年繰り返し同じ景色を見続けていても、なおかつその時期になると自然に足が向くというのは、これもまた”偉大なる通俗”の美しき魅力に引き寄せられるためなのだろう。

 ということで、冒頭の上の写真にあるように、今年の秋もまた、大雪山の銀泉台から赤岳への道を往復して、山の紅葉景観を楽しんできたのだ。
 前回は、この前の日に、旭岳温泉口からロープウエイに乗って姿見駅まで上がり、そこから裾合(すそあい)平を経由して安足間(あんたろま)岳を往復してきたのだが、好天の日が続くのにそれだけではもったいないと、今度は裏側の、銀泉台(ぎんせんだい)口から赤岳を目指すことにしたのだ。
 昨夜も続けて民宿に泊まり、朝早く再び霧の中を走って、ぐるりと大雪山を回り込んだ裏側に向かったのだが、昨日と違い、平地だけを覆っていた低い霧はすぐに晴れて、朝から雲一つない快晴の空が広がっていた。
 これなら、昨日登った安足間方面に今日行けばよかったのにと思わないでもなかったが、いやそれでも、今日はこれで別な所で快晴の山歩きを楽しめるわけだから、いちいち考え直す筋合いのものでもないのだ。ともかく、山はどこであれ晴れた日に登るに限るのだから。

 大雪湖のほとりに作られた、レイクサイト駐車場に車を停めて、銀泉台行の、狭い砂利道での混雑を防ぐためのシャトルバス(500円、30分ごとの運行)に乗り込む。
 こんな天気の良い日の、紅葉が盛りの銀泉台行のバスなのに、全員が座れるほどに空いていたし、この駐車場のクルマからしてまだ数十台にも満たなくて、そんなガラ空き状態に驚いたほどなのだが、それというのも、二日後に始まる5連休の休みが控えているからなのだろう
 何よりも、人が多すぎることが嫌な私にとっては、連休前に快晴の日にめぐり合えて、ただただありがたや、ありがたやと感謝するばかりなのだ。

 少し遅くなったが、銀泉台登山口を8時半過ぎに出発する。
 別の貸し切りバスから降りた、タイトスカートのバスガイドさんに案内されて、観光客が数人、歩きなれない砂利道を歩いていて、15分ほどで私と相前後して、第1花園の紅葉斜面を眺める展望ポイントに着き、皆が歓声を上げていた。
 それがニセイカウシュッペ山(1883m)を遠景にした、上の写真の光景なのだ。今年もなかなかに素晴らしい紅葉だった。
 
 もちろん時間が決められている彼らは、そこまでなのだが、登山者の私たちにとっては、お楽しみはこれからなのだ。
 さらにゆるやかに登って、今度はその第1花園の斜面をトラヴァースするように登って行くのだが、その途中で何度も立ち止まっては、ウラジロナナカマドなどが織りなす紅葉風景を写真に収めていった。
 前後に数人ずつのパーティーがいて、彼らの話し声が気にはなったが、まあこの天気と今が盛りの紅葉とあれば、致し方ないことなのだろう。
 昨日の10時間近い歩きの後の筋肉痛は、意外なほどに脚には出てはいなかったが、それでも疲労感は隠せず、やっとのことで歩いているという感じだった。
 
 次の第2花園わきの、チングルマの暗い紅葉を見ながら上がると、駒草平の岩礫(がんれき)台地で、なんと遅咲きのコマクサの花が二輪ほど咲いていた。
 しかし、なんといってもこの秋の赤岳コース最大の見せ場はここからだ。
 まずは、ゆるやかに下るハイマツの道のかなたに、東ノ岳(2067m)が見えてきて、そして赤岳から続き下ってきた尾根斜面の紅葉が、今までに見たこともないほどに鮮やかに、青空の下に照り映えていた。(写真下)


 

 暗い赤色のチングルマから、赤と橙(だいだい)色のウラジロナナカマド、黄色のダケカンバやミヤマハンノキ、そして、まださえざえとした浅黄色のカヤなどの草と、深い緑のハイマツなどが織りなす、秋のひと時を彩る色彩の競演は、まるでパレットに盛られた絵の具のようだった。
 紅葉は雨に濡れた姿こそ、情緒があって美しいという人がいて、そうした”陰翳礼賛”(いんえいらいさん、谷崎潤一郎の随筆集)の日本的な美の感覚も分からないではないが、単純な感覚反応しか持っていない脳天気な私にとって、やはり紅葉は、盛りの時の快晴の空の下で見るのが一番だと思っている。
 東ノ岳の左手遠くに、二ペソツ山、石狩岳、音更山、三国山と続く東大雪の山々が連なって見えている。その先遠くには阿寒の山々も。

 そしてこのハイマツの中の道を、ゆるやかに下っていくと、色づいたダケカンバやナナカマドなどの木々の下を通り、そこを抜けると眼前に、このコースで一番の紅葉風景が広がっているのだ。
 いつもはまだ残っていることの多い、第3雪渓の雪はすっかり消えていて、そのまるでカール状にえぐられた雪渓跡を、ぐるりと縁取るように囲む、紅葉文様が美しい。(写真下)




 この付近だけでも、何度も立ち止まり、何枚もの写真を撮った。
 そして、雪渓わきの岩礫帯のつらい登りになる。
 もう十数年も前の昔のことだが、天気は良かったけれども風の強い日に、この赤岳コースをたどって、紅葉が盛りの、と言っても風でだいぶん葉が飛ばされてはいたが、身をかがめながらようやくのことでこのポイントにまで来て、さらに風が強くなるだろう中、この雪渓わきの急な登りもあるし、これ以上頂上を目指す気にもならず、そのまま引き返したことがあったのだ。

 しかし今日は快晴の空の下、風も弱く、さらに上にもまだ見どころの場所はあるし、と登って行くことにした。
 その途中から振り返る見る、先ほどのあの第3雪渓末端の紅葉ポイントから、ハイマツの駒草平、そして背景に、北大雪の武利岳(むりいだけ、1876m)と武華山(むかやま、1759m)が見える光景もまた良かった。(写真下)


 

  やがて、つらい登りが終わり、ひと時のゆるやかな草原台地の道をたどると、右手にも紅葉の帯が続いている。
  そして第4雪渓(ここの雪ももう消えていた)、わきの最後の急坂を登りきると、ゆるやかな礫地の台地上にあがり、行く手には、小さな砦(とりで)のような岩塊が盛り上がる赤岳山頂(2078m)が見えている。

 それでも、もう今日の私の脚にはいっぱいいっぱいだった。
 いつもならこの先の、小泉岳(2158m)から白雲岳(2230m)にまで行って、あの旭岳にかけての紅葉帯の縞模様を見たいところだが、とてもその元気はなかった。
 頂上の周りには、10人余りの登山者たちが休んでいた。
 私はいつものように誰も来ない岩の上に上がって、そこからの遮ることのない展望を楽しんだ。
 白雲岳から旭岳(2290m)、間宮岳(2185m)、北海岳(2149m)、北鎮岳(2244m)、凌雲岳(2125m)、黒岳(1984m)と続く、大雪山の核心部・・・巨大なお鉢(はち)噴火口の周りを取り囲むように、それぞれの場所に、溶岩円頂丘としてトロイデ状に盛り上がってできた山々。

 私たち人間からすれば、到底考えることもできないような遠い昔に形作られて、さらにこの後も私たちが想像することもできないような、これからの無限の時間の中でも、存在し続けていくであろう山々の姿、自然の姿・・・それに比べて、まさに取るに足りない時間の中で、宇宙の星のまたたきの一瞬のように、限られた短い時間を生きるに過ぎない人間を含めた地球上の生き物たち。
 なあに、深く考え悩むことはない。みんな一緒なのだ。短かろうが長かろうが、泣こうが笑おうが、大した違いなどありはしないのだ。
 ただ、この終わりのあるしかし無限な思いが続く、自分の道の中で、本人がどう深刻に、あるいは楽観的に受け取れるかの違いだけで・・・。

 だから私は、自分自身の脳天気な考えに従って、晴れた日の山に登るのだ。良い天気の日には、”そうだ。山に行こう!”ってね。
 そして、体全体の疲労を強く感じながら、ひたすらに登り、歩き続けることだ。
 どこかで聞いたことのある歌の、替え歌ふうではあるけれども、”さあさ、みんな、無になって登ろう!”。

 頂上には、わずか15分余りしかいなかった。
 一つには、周りの人たちの大きな話し声が気になったからであり、もう一つには、今日は早く下に降りて、友達の家にも寄りたかったし、風呂に入ってゆっくり汗を流してから家に帰りたかったからでもある。
 とはいっても、よれよれ年寄りの脚だから、そんなに急いで下っては行けない。速足の若者に一人二人と抜かれながらも、同年配の人たちを抜いたりして、ようやく例の紅葉鮮やかな第1花園の斜面に戻ってきたが、もう午後の斜光線で影が深くなっていた。
 相変わらずに、観光客たちでにぎわっているポイントを過ぎて、最後は何人か抜いて、道路跡の遊歩道を必死の速足で歩いた。
 そして、ぎりぎりの1,2分前に、30分ごとのシャトルバスの発車時間に間に合ったのだ。
 ”年寄りの割には、おぬしなかなかやるな”とは誰も言ってはくれなかったが、登り3時間足らず、下り2時間5分というのは、昨日の10時間山行の後にしては、まして最近はぐうたらに歩いていて、登りも下りも大して変わらない時間の私としては、まあ十分すぎるほどのタイムだった。小鼻ぴくぴく。

 そしてレイクサイトに戻り、今度は自分のクルマに乗ってしばらく走り、友達の家を訪ねて、久しぶりでの友達家族との話は楽しかった。変らぬものがいつもそこにあることが、私の気持ちを安らかに包んでくれるのだ。
 しかし、ついつい2時間余りも長居してしまい、それからまだ家に帰りつくまでに長い時間がかかるのだ。
 ただただ、早く家に帰りつきたい一心で、途中で風呂に入るのもあきらめて、AKBの「グリーン・フラッシュ」の一節ではないけれども、”夕暮れが夜に変わるころに、今日のその哀しみは置いていこう”と口ずさみながら、ようやくわが家にたどり着くことができたのだ。
 二日にわたる、紅葉の山旅は十分に満足のいくものだった。母さん、ミャオありがとう。
 何はなくとも、”幸せの青い鳥”は、ささやかな灯りがともる、こんなボロい家にもあるのだということ。

 ところで、結局、家で風呂には入れないから、汗まみれの体のままその日は寝たのだけれども、例の井戸水が枯れて一か月ほどになり、今はようやく少しは水は出るけれども、いまだにいつまた止まるかと心配で、買い置きの2Lのペットボトルの飲用水があるからいいようなものの、とても五右衛門風呂に入れるまでの余裕はないのだ。
 さらに、これからは寒くなっていくばかりだし、今年はわずか3回風呂を沸かして入っただけなのだ。
 年を取るにつれて辛くなるだろう、ここでの水不足、風呂、外でのトイレなどは、今後、いささかもよけては通れない大きな問題となってくることだろう。
 すべて脳天気に過ごして、あの植木等の歌のように(古いなあ)、”そのうち何とかなるだろう”というわけにはいかないのだ。

 だから、そうした日々の小さな困りごとなどが重なると、さすがの私も気楽な毎日を送るわけにはいかなくなる。
 そこで、テレビ録画したAKBの元気な孫娘たちの歌と踊りを見るのだ。あ、ヨイヨイと。
 ところで先日、山から帰った後の洗濯物などを洗おうと、街のコインランドリーに行ったのだが、そこでバイクで来ていた中年世代らしい3人に会って、洗濯機などの使い方を教えてあげた後、昔は私もそうしてバイクで北海道旅行に来ていたものだからと、少し話をして、ついでにAKBのことを言ったところ、なんとそのうちの一人がAKBのファンだったのだ。

 それも私と同じで、お金を使ってCD買ったりコンサートに行ったりするというのではなく、お金をかけずに、もっぱらテレビ録画で見ているだけであり、さらには私が今までもここで書いてきたように、AKB情報サイトで、いわゆる”オタ”(おたく)たちの、自分の”推しメン”以外の子たちへの悪口がひどすぎるということ、それもAKBによって私たちが元気をもらっているというのに、何も分かっていないと彼は言ってくれたのだ。パチパチパチ、拍手。
 彼は、私が出会った初めてのAKBファンだったし、それも少し離れたところから見ている、私と同じ”ゆるい”しかしまじめなAKBのファンだったのだ。
 
 ところで、この連休からの一週間の期間中に、BSやCS放送での無料放送があって、AKBやSKEそしてNMBのコンサートやミュージック・ビデオにドラマなどの番組があって、しっかりと録画した。
 その中で、NMBの4時間ものコンサートが二本もあり、ようやくそのうちの一本を何回かに分けて見たばかりなのだが、NMBの知らない子たちが歌う知らない歌とダンスが多かったのだが、見ているうちに、みんなの一生懸命ぶりが画面からも伝わってきたし、NMBでは歌も踊りもうまくて全体を引っ張る力のある、山本彩(さやねえ)があってこその、グループであることがよく分かったのだ。

 若い娘たちが、憧れのNMBに入ることができても、それからなのだ。研究生から始まり、やっと三つのチームのうちの一つに昇格できても、さらにシングルCDを歌う16人選抜に選ばれるまでの道のりがあり、さらにそのNMB選抜の上位メンバーたちのやっと一人か二人が、AKBグループとしての代表である16人のAKB選抜に選ばれるのであり、その中で、指原莉乃(さっしー)や渡辺麻友(まゆゆ)のように総選挙で1位に選ばれて、センターで歌うことができるようになるまでには、気が遠くなるような段階を経ての、”超選抜”と呼ばれる上位だけの世界があり、下位のメンバーたちにとっては夢のまた夢でしかないのだ。

 それでも彼女たちは、一段でも上の世界を目指して、歌にダンスにマイクでの話にと必死にがんばっているのだ。
 周りのメンバーたちは大切な仲間であり、しかもライバルたちでもあるのだ、少人数の固定されたメンバーからなる他のアイドル・グループとはそこが違うところであり、上にあがって行くか、それともその他大勢として納得してそのまま居続けるのか。
 華やかな歌と踊りの向こうに垣間見える、残酷な生き残りゲームの中に、彼女たちはいるのだ。
(そんな話を優れたドキュメンタリーとして描いたフジテレビ制作の『AKBと日本人』はYouTubeで見ることができる。)
 
 さて話を戻して、その無料放送で、初めてAKBのテレビドラマ『マジすか学園』を見たのだが、ヤンキーの不良少女たちが巣くう女子高で、ケンカに明け暮れる少女たちの話であり、そこにはまじめな普通の生徒はもとより学校の先生一人も出てこない、非現実的なSFもどきの、今どきの若い監督たちが作るような、漫画的であり、ホラーSF的なドラマであり、私としては、言うまでもなく現実的な話に基づく芸術作品としての映画を評価しているのだから、とてもこの荒唐無稽(こうとうむけい)なドラマなど、見る気にもならないのだが、それでもほとんどは私が知っている、AKB期待の若手メンバー総出演とあって、とうとう全10話の全部を見てしまったのだ。
 そして、主演の二人、島崎遥香(ぱるる)と宮脇咲良(さくら)に、はっきりと演技力の差があるように、演技経験も少ないAKB内だけでの、それも人気メンバーだけに絞った人選で、あまりにもバラバラな演技力の差が、ドラマとしての価値を薄めていたように思えた。
 ただメンバーそれぞれが一生懸命にやっていたし、何より監督はじめとしたドラマ作りのスタッフたちの確かな仕事ぶりは認めざるを得ないものだが。

 ただ、繰り返し言うけれども、AKBファンであるから見ただけで、そうでなければ見る気にもならなかっただろう。
 AKBのアイドルの少女たちを使って、このヤンキー学園ドラマで、何を訴えたかったのか。
 彼女たちのアイドル・イメージを崩すことで、別な魅了を引き出したというのか。確かに、現在のAKBグループ内それぞれの個人事情なども反映させた、しゃれたつもりの脚本セリフなのは分かってはいるが、少女たちが暴力の世界で目指す具体的な目的も、強い絆も連帯感も中途半端でしかなく、とても私がAKBの歌によって瞠目(どうもく)させられた、あの秋元康作詞のきらめく世界の、ほんの少しでも見ることができなかったことが残念でならない。

 それはもう一つのドラマ、民放の深夜帯に放送された乃木坂46のメンバーたちによる『初森ベマーズ』でも、同じことが言えるだろう。
 にわか仕立ての女子高ソフトボール・チームが、大会を勝ち上がり優勝するするという話であり、あまりにも現実と遊離した漫画的な話で、そんなばかばかしい話を真剣にやるのはいいとしても、まだ演技の基礎もない乃木坂メンバーたちの子が、こんな三文ドラマでは、むしろさらし者に見えるほどだった。
 みんなAKB以上にかわいい子たちばかりなのに、そしてAKB以上にいい歌を歌っているのに、もったいない。
 これも秋元康の手によるものと知って、いささかの失望を覚えないわけにはいかなかった。
 
 せっかくの、300人近いAKBグループのメンバーがいるのだから、その中で、これぞという歌のうまい選抜メンバーによる歌を聞きたいし、これぞというダンスのうまい選抜メンバーによるダンスを見てみたいし、これぞという演技のうまい選抜メンバーたちによるドラマや舞台を見たいのだが。
 確かに、運営サイドの企画によって、それぞれの小さな舞台での試みがなされているのは、分かってはいるけれども、できることなら、単なるアイドル集団としてだけではなく、それぞれのスキルを持った専門家集団としての、AKB選抜があってもいいと思うのだけれども。
 ただし、最近では、NMBダンス選抜と”さやねえ”の歌による「MUST BE NOW」が発表されて、久しぶりにあの「UZA」に次ぐ作詞・作曲・ダンスと三拍子そろったものが出たと、今後に期待を抱かせるのだが。(今度のNHKの朝ドラの主題歌は、その歌のうまい”さやねえ”が中心となって、AKBが歌っているのだ。)

 最近テレビ番組で見たのは、こうしたAKB関係のものだけでなく、あのジャズの巨人ジョン・コルトレーンのヨーロッパ・ツアーのビデオや、クラッシックのコンサートやオペラについてもふれたかったのだが、また別の機会に書くとして、なんといってもひとこと言っておきたいのは、あのラグビー日本代表が、なんと南アフリカを破った、終了間際の逆転トライである。
 今まで私が見てきた、大学ラグビーの早明戦での語り継がれる試合などもすべて吹き飛んでしまうほどの、まさに作られた劇的なドラマを超える、真実のみが語ることのできる衝撃があったのだ。
 百本ものつまらないドラマや映画を見るよりは、一つの感動的なスポーツの試合を見るにまさるものはないし、また百試合ものつまらないスポーツ・ゲームを見るくらいなら、一つの感動的な映画やドラマを見るにまさるものはない・・・と思っているのだが。

 高校生のころ足の遅いフォワードとして、スクラムを組んでいた私は、ある時、偶然に回ってきたボールを受けて、一度だけのトライをしたことがあったのだが・・・。遥か彼方の、遠い日々・・・。

  


好きなものと幸福論

2015-09-21 22:09:18 | Weblog



 9月21日

 秋の連休のさなか、私は家にいる。
 快晴の空の下、秋色の肌合いもくっきりと、日高山脈の山々が見えている。
 夏の間は、なかなかその姿を見せてはくれなかった山々が、空気の澄んだこの季節になると、晴れていれば、平原のかなたに立ち並んでいるのが見える。これからは、それがいつもの光景になる。

 朝の気温は9度。露の降りた庭に出て、暖かい日の光を浴びる。
 取り急ぎやらなければならい仕事もなく、のんびりとしてもよい一日であることが、何よりも私をくつろがせてくれる。
 それは特に山に登った後、家に戻ってきた翌日などに、よく感じることなのだが。

 山登りは私の楽しみであると同時に、しかし出かける前までは、いろいろ調べたりさまざまの準備をしなければならず、それが面倒に思える時もある。
 もっとも、そうして計画を立て山に思いをはせることも、楽しの一つにもなるのだが。
 そこで現地に出かけ、いざ登っている時には、ただ激しい運動に没頭しているだけであまり余分なことは考えないし、そして、その山歩きが終わっても、まだ疲れきった体のままで、再び家まで帰らなければならないのだ。
 家に戻って一晩眠って、翌日目が覚めて、体の節々の痛みを感じながらも、そこでようやく、大きな安らぎのひと時が来るのだ。
 あの時の山々の姿を思い浮かべては、何とか歩き通してきた満足感に浸り、そしてもう今日一日は何もしなくていいのだという、大きなゆとりを感じる幸福感に浸るときこそが、実は山登りに付随してある、もう一つの大きな楽しみなのかもしれない。
 それは、山登りだけではなく、もちろん他のスポーツにも、さらに広げて、自分が行動を起こしたすべての物事に関しても、同じことが言えるのだろうが。
 つまり、自分の行動によって、思い通りの満足感を得られればもとよりのこと、もし希望していた結果が得られなかったとしても、自分はここまでやったのだからと自分を慰め、それなりの満足感に浸ることはできるだろう。

 こんなことを書いているのも、こうしたさわやかな風が吹く快晴の一日なのに、どこにも出かけず家にいて、それでも何か満ち足りた思いでいられるのは、数日前に、今が紅葉の盛りにある山に登ってきたばかりであり、その幸せな思いが続いているからなのである。
 それも前回の登山(8月4日、11日、17日の項参照)からは、一月半も間が空いてのことだったから、なおさらのことだ。
 私の最近の山登りの傾向は、数年前と比べても明らかに変わってきていて、年を経るごとにその山行回数が減ってきたばかりではなく、若いころのより難しい未知のルートを選ぶよりは、とりあえずは、やさしく楽な所へと行くようになってきているのだ。

 もう今までに何十回となく訪れている、この秋の大雪山の紅葉を見るために、今年はどうするのか。
 大まかにいえば、表大雪と呼ばれる山域には、つまりアプローチもよく手軽に紅葉を楽しむことのできるコースだけでも、六つほどはあり、私は、それぞれを入れ替わりにして毎年登ってきている。
 その中でも、一番よく知られていて、観光客でも手軽に見て回ることのできる、旭岳温泉口(旧勇駒別温泉)から入るコースは、秋に登ったのはもう5年も前のことで、久しぶりだから行ってみようと思ったのだ。

 というのも、この大雪山は北海道の中央部にあり、それより西側にある旭川や札幌からは、この旭岳温泉口や天人峡温泉口に愛山渓温泉口とさらに南側に続く十勝岳連峰などへと登るには、表側になって道路交通の便がよく、一方では、東側になる帯広や釧路方面からはぐるりと遠回りになって、少し不便になる。
 もっとも、裏側の高原温泉口、銀泉台口、層雲峡口から大雪山に登るには、札幌や旭川からは逆に遠回りになってしまうのだが。
 ともかく、若いころは片道3時間半とか4時間クルマで走って、その後8,9時間かけて山に登って、さらに再びクルマで走って、その日のうちに家に戻ってきていたものだが、もうこの年寄りにそんな元気はない。
 表側から大雪山に登る時には、午後に家を出て、ふもとの民宿に泊まり、翌朝早く山に登るという形をとることが多くなっている。

 それで、余分な金がかかることになるが、といっても北アルプスなどの山小屋の半額ほどで、夕食付きの二段ベッドで眠れるのだから文句はないし、年寄りにはそのくらいのゆとりと用心深さがあってしかるべきだし、お金も、その昔ニシン漁でもうけた金が少しばかりあって、それも最近のオレオレ詐欺でだまし取られないようにと、ちゃんと庭に埋めたカメの中に入れてあるから大丈夫なのだ。

 ”草木も眠る丑三つ時(うしみつどき)・・・ゴロスケ、ホーホーとフクロウが鳴くころ、森の中の一軒家の庭に何やら小さな明かりが見える。近づいてみると、鉢巻き頭にローソクを立てた男が一人(『八つ墓村』か)、何やらスコップで地面を掘っている。ガツガツ、ザー。カチンと音がして、陶器のカメが見えてくる。男はにたりと笑い、カメのふたを開けて、土に汚れた手で旅行費用のためにと、2枚の札を取り出す。”

 そこで、あの『北の国から』の音楽が流れてくる。
 就職で上京する純が、東京へのトラック便に乗せてもらうお礼にと、純の親父さんが運転手に渡した、土に汚れた指紋のついたピンの万札を、運転手はそんな金は受け取れないと、純に返し、純はそこで父親の思いを知って、その万札を握りしめ、助手席に座って静かにすすり泣くのだった。
 『北の国から』全シーンの中でも、忘れられない誰もがもらい泣きした、あの名場面を思い出したのだ。

 ただ、この偏屈じじいの場合、自分の楽しみのためだけにお金を使い、日ごろはけちけち暮らしていて、全く”どもならん、ごうつくばりじじい”なのだ。

 さて冗談は、その辺りまでにして、今回は、その旭岳温泉口から、裾合平(すそあいだいら)を経て、当麻乗越(とうまのっこし)方面へと行くことにして、まずは昼の天気予報で明日と明後日の天気予報を確かめてから、午後になって家を出て、夕方には旭川近郊の民宿に着いたのだ。

 翌朝、深い霧の中を走って、旭岳ロープウエイ前の駐車場にクルマを停めた。
 紅葉シーズンはすぐにいっぱいになる、この無料駐車場だが、朝一番の時間のためか、まだ半分程のクルマが停まっているだけだった。
 朝一番の6時半のロープウエイも、混み合うほどではなかった。
 しかし、残念なのは空模様だ。昨日の予報では、昨夜の雨や雪を降らせた寒気が抜けて、後は一日いい天気のはずだったのに、その寒気が十分に抜けていないのか、まだまだ雲が多くて、山々の頂上部分は隠れていた。
 しかしその雲は、西から東へと流れていて、取れそうな気配もあるのだが。
 
 ロープウエイ姿見駅(1600m)から歩き出す。
 いつもなら正面にどっしりと高く旭岳(2290m)が見えるはずなのだが、頂上部分は相変わらず雲がまとわりついている。
 姿見平の周りのウラジロナナカマドの紅葉も、赤いというよりは橙(だいだい)色に近い感じで、今年の紅葉の色合いに少し不安を覚えるほどだった。
 ともかく、まずは裾合平へと旭岳の山裾をぐるりと回りこむ道をたどって行く。
 前後に数人ずついるけれども、一人歩きの登山者が多くて、時折鈴の音が聞こえる静かな山道だった。
 朝露に濡れた紫色のエゾオヤマノリンドウの群落が、朝の光を受けていた。

 やがて道の両側にウラジロナナカマドが増えてくるが、この辺りもまだ橙色が多く、赤い色になっているものは少なかった。
 裾合平分岐からの道は昨夜の雨(山頂部では初雪)で、ぬかるみがひどかった。
 しかし、この辺りから、紅葉の色は勢いを増してきて、まずは池塘(ちとう)に岩を配した庭園風な所で、いつものように写真を撮る。(写真上)
 ただ雲の流れが速く、十分に光が当たるのを待っていて、一枚の写真を撮るのにも時間がかかってしまう。
 そして、ピウケナイ沢の渡渉(としょう)点付近からは、当麻岳(2076m)南面の紅葉模様が、今までに見たことがないほどに見事だった。(写真下)



 飛び石伝いに、少し水量が多めなピウケナイ沢を渡り、振り返り雲が取れつある旭岳を眺めながら、当麻乗越(とうまのっこし、1700m)に着いた。
 ここは、下に広がる沼の平(ぬまのだいら)の湖沼群を見るための、絶好の展望台になっているのだが、雲が多くまだらになっていて、紅葉模様も今一つだった。
 しかし、ここまでで戻る人が多いのだが、お楽しみはこの先にある。
 当麻乗越から先に登っていくと、稜線斜面になって、ウラシマツツジやクロマメノキ、チングルマなどの低灌木(かんぼく)の紅葉が、白い砂礫地の道のそばに彩りを添えている。
 ところが私はといえば、もう脚にきていて、バテバテになりながら、標高差200mほどの斜面を登り切ると、当麻岳末端の頂上稜線に出て、右手下に紅葉の裾合平が広がり、雲の取れてきた旭岳が雄大に見えている。(写真下)



 ただ欲を言えば、昨日黒岳山頂部などでは初雪が降ったとのニュースが流れていたから、その山頂部を覆う白い雪と山裾の紅葉との対比を楽しみにしていたのだけれども、残念ながらそれほどの雪ではなかったのだ。
 もっとも朝の、雲が多く山が見えない天気からすれば、少なくともこうして山々が見えるまでに回復しただけでも、感謝すべきなのだろう。
 そして、行く手の安足間岳(あんたろまだけ、2194m)へと続く尾根の、チングルマの紅葉が流れ下る、赤い南斜面も素晴らしい。
 数人ほどの人が、あちこちでカメラを構え、腰を下ろしていた。やはり、皆ここが良い場所だということを知っているのだ。
 一休みして先に向かうことにする。
 体力的にも、時間的に言っても、もうぎりぎりだったけれども、なんとしてももう少し先に行きたかった。
 それは、この先の高原状にゆるやかに続く、チングルマの尾根道を歩きたかったからだ。

 そして、9月半ばとはいえ、時によっては稜線部は雪に覆われていて、もう準冬山装備が必要な時もあるくらいなのだが、今日は風も弱く、あまり寒くもなくて、たださすがに指先は冷たく手袋は必要だったが、長そでウェアーにウィンド・ブレイカーを着ているだけで十分だった。
 そして私の好きな、チングルマの間の高原逍遥(しょうよう)の道が始まる。(写真下)

 

 しかし、登って行く私の脚の疲れは限界に近かった。
 ノロノロと歩む最後の一登りで、ようやく安足間岳の頂上にたどり着いた。
 北東面が開けて、荒れた火山斜面の比布岳(ぴっぷだけ、2197m)と愛別岳(あいべつだけ、2112m)が見え、さらに右手に高く大雪山第2位の北鎮岳(2244m)がそびえ立っていた。
 時間は12時半に近く、ロープウエイ駅から歩き始めて、もう5時間半もたっていた。
 後は下るだけだから、登るよりは楽だけれども、長い帰りの道が残っているのだ。

 休みもそこそこに下っていくと、さすがに行く手には人影も見えない。
 当麻岳の急斜面を、痛めているひざをかばいながら、ゆっくりと下りて行き、そして当麻乗越に着くころには、行きには雲がかかっていた旭岳と左手の熊ガ岳(2210m)が並んで見えていて、まだ雲は多めで日陰の部分もあったが、それでも十分に満足のできる光景になっていた。(写真下)




 ピウケナイ沢に下り、登り返して、さらにゆるやかに裾合平分岐へと登って行く。
 その分岐点のベンチに、4人が座っていた。私も、腰を下ろした。
 先ほどから、30分ごとに水を飲みたくなるほどに疲れていたからだが、どうしてもロープウエイ最終時間が気になる。
 間に合うだろうとは思っていても、少しでも早く着きたいからと、少し休んだだけで腰を上げた。

 そして、さらにゆるやかに登って行くのだが、途中でやはり、脚にきてしまった。
 少し前からその気配はあったのだが、今や太ももがつって歩けなくなってしまったのだ。
 しかし、このまま腰を下ろすと、もっとひどくなってしまうからと、我慢して牛歩の歩みで、脚を押さえて引きずり歩きをして行く。
 後ろから来た人が、すぐに私を追い抜いて行った。
 こんな歩き方では、到底最終便には間に合わない。とすれば、さらに2時間かけて、ロープウエイわきの登山道を降りることになるのか。

 必死に脚をたたきながら歩を進めていると、次第に痛みは治まってきて、再び普通に歩けるようになってきた。ありがたや。
 ただ油断できないのは、この道は意外に登り下りがあって、その対応で、再び脚の筋肉がけいれんするかもしれないということだ。
 歩幅をさらに小さくして、無理しないように歩いて行く、途中で立ったまま休んでは残り少ない水を飲んだ。

 3年前に(’12.7.31の項参照)、南アルプスは北岳の大樺沢雪渓を上がって八本歯のコルに着くころに、ひどく脚がつって、しばらく歩けずに休んでいたことがあったが、その時に北岳山荘診療所に来ていた医師から、原因は脚を冷やしたことと水分の補給が足りなかったことだと言われて、それなりに注意はしていたのだが。
 ともかく、そのまま歩き続けて、やがてロープウエイ駅が見え、観光客の声が聞こえる遊歩道に戻った来て、やっと一安心して、最終便よりは1時間前のロープウエイに乗ることができたのだ。
 一月半もの間が空いての登山だというのに、いきなりコースタイム10時間もの歩行をするなんて、年よりらしからぬ無理をして・・・、

 旭岳温泉のお湯につかって、汗を流し体をもみほぐしては、疲れが取れていくようだった。
 今日も民宿に泊まるべく、クルマで向かう西の空は、夕焼けに染まっていた。
 今日の山を思い返しては、幸せな気持ちになった。

 昨日の宿には、もう一人、就職先が決まっているという大学4年生の男の子が泊まっていて、私の世代に近い民宿の宿主を交えて、三人でいろいろと話をした。
 宿主が言うには、昔は一人旅の出会いを楽しむ若者が多かったのに、今では個室を選んで泊まり、手間のかかるやっかいな客が多くなったし、中には旅に来ていて退屈でやることがないと言う若者もいて、人生の限りある時間を何と思っているのだろうと憤(いきどお)っていた。
 同席していた彼は、そんな私たち年寄りの話を真剣に聞いてはいたが、最後に、「私には、お二人のように好きなものや趣味と呼べるものがないけれども、何かいいものはないでしょうか」とおずおずと尋ねてきた。

 宿主が答えて言った。「自分の好きなことを突き詰めていけば、いつかそれが人生を通じて君の求めるものになっていくだろうし、ただそれを趣味とかいう遊び半分なもののように呼ばないほうがいいいと思うよ。」
 そして、私は、いつもと同じように、あのベルナルド・ベルトリッチ監督の映画『1900年』の中で、大地主の初老の男が、小作人のせがれを捕まえて、吐き捨てるように言った言葉をそのままに伝えた。
 「わしはお前が盗みたくなるようなものは何でも持っているが、しかし一つ足りないものがある。くやしいことに、お前はただのケチなドロボーだが、しかしわしにはない、まだこれからのあふれんばかりの未来を持っている。」 
 
 そのことと考え併せて、もう若者ではない年寄りの私は思うのだ。
 これも前に書いたことがある、あのフランスの哲学者アランの言葉であるが。

「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意思に属する。」

「楽観主義は誓いを要求するものであり、・・・幸福になることを誓わねばならぬ。」

「わたしたちはなにもしないでいると、たちまち、ひとりでに不幸をつくることになるから・・・。退屈が何よりの証拠である。」 

(『幸福論』 アラン著 白井健三郎訳 集英社文庫)

 晴れの日が続く天気予報で、私は翌日も、別なルートで山に登って、再び大雪山の紅葉を楽しもうと思っていた。

 次回へと続く。 

 


自分の言葉に

2015-09-14 21:32:43 | Weblog



 9月14日

 台風の後に、北関東・東北などに、甚大な集中豪雨の被害をもたらした低気圧帯は、ようやく東に抜けて、この北海道でも、今日は久しぶりの、見事な青空が広がっていた。
 もう、山の紅葉が始まっている。大雪山の様子が気になるところだが、しかし、この全道的な晴れの予報に浮かれて、今すぐに出かけていくわけにはいかない。
 
 早朝の霧が晴れて、快晴の青空が広がり、日高山脈の山々がずらりと並んで見えていても、そこはがまんのしどころで、たちまちのうちに、山脈の上に絵筆で白い線を引いたように、雲が出てくるのだ。
 まさしく朝の天気予報で言っていた、”大陸から続く高気圧に覆われて、全国的に晴れるでしょう。しかし、東北北海道では、寒気の影響で雲が広がるでしょう”という、予報は見事に当たっていたのだ。

 外に出て、木の根元に”生(なま)肥やし”をまきながら、私は満足げな吐息を一つつく。
 山々の上に雲はあるが、それ以外は見事な快晴の空が広がっている。
 暑くも寒くもない、秋のさわやかな大気の肌ざわり、そよ風。
 秋の訪れを一足早く告げるかのような、エゾヤマザクラの紅葉と、あの『北の国から』の、正吉の”百万本のバラ”の代わりになった、黄色いオオハンゴンソウの花。(写真上)

 私の足元で、か細く音を立てているもの以外、何の音も聞こえない静けさ。
 その私の、生理的な満足感も併せて・・・なんと満ち足りた、幸せなひと時だろうと思う。

 ”タワーマンション最上階の家”に住んでいて、夜ごと”とびっきりの美女”と一緒に、”フェラーリ”に乗って、”三ツ星レストラン”に行って食事をする、なんてえことが私の夢では決してないのだ。
 むしろこうして、不便な田舎のぼろい家に住んで、車庫にはたまにしか乗らない、1998年製のこれまたぼろいクルマが置いてあり、家の周りに生えている植物たちをその季節ごとに食べては、キツネやヘビやネズミや鳥たちに囲まれて、ひとりで気楽に暮らしていることのほうが、どれほど幸せなことか・・・と貧乏人なりにイキがってみせるのだ。

 と言いながら、今さすがの私も、全く困り果てていることがあるのだ。
 前々回に書いていた家の井戸が、まだ干上がったままなのだ。もう3週間にもなる。
 ポリタンクに入れてきたもらい水で、何とか日々しのいでいるが、なにぶん限りある水だから、不便極まりない毎日だ。
 洗い物にしても、二度三度使って暗く濁ってからようやく捨てるありさまで、非衛生的なことはなはなだしい。
 確かに、それは山登りの時の、山小屋泊まりやテント泊での、山上での生活に似ていて、そういう経験があるからこうしてガマンもできるのだが、それも限度問題であり、山での生活も数日から1週間くらいにもなれば、確かに体じゅうがべたつき、頭はかゆいし 一日交替ではきまわしたパンツ下着は臭ってくるし、(山小屋で働く人たちはどうかといえば、スタッフ用に風呂はあり休みも取れるからいいが)、ともかく風呂好きな日本人としては、体も洗えない長期山行としては、もうぎりぎりの日数だろう。

 もっとも、ここはそんな山の上ではないから、その気になれば町の風呂屋に入りに行くこともできるし、コインランドリーで洗濯することもできるのだが、それにしても、汲み置き水をいつも少しづつ気にして使うしかないし、そんな3週間にも及ぶ、毎日が水不足という生活には、もう耐えられなってきているのだ。
 もちろん、井戸が枯れたのは、今までにここで何度も経験してきたことであり、別に珍しいことでもないのだが、若い時に比べて、それが体にこたえるような年齢になってきた、ということもあるのだろうが。 

 この北海道にいることは、私にとっては冬こそがベスト・シーズンなのだが、その雪に覆われた冬に水が枯れることもあり、外に出なければならないトイレの問題と併せて、年を取った今ではその不便さに耐えられなくなって、泣く泣く冬場はここを離れることにしているのだ。
 それなのに、夏場でさえこのありさまで、今さらながらにいろいろと考え込んでしまうのだ。
 それ相当のお金をつぎこんでも、ここでの水回り、トイレ状況を改善して住み続けるのか、それともそんなことは、老い先短い私には、無駄な出費となるだけだからとあきらめて、ともかく人並みの生活を送れるように、ライフラインだけはちゃんとそろっている九州の家に戻るのか。
 ”To be,or not to be. That is a question." とつぶやいた、ハムレットの気持ちがよくわかるというものだ。
 
 言葉にすることによって行動に移すようになり、行動することによって言葉は確かなものとなる。
 昨日の夕方の時間帯で、フジテレビ系列で『言葉のチカラ』という番組が放送されていた。
 せっかくのいいコンセプト(企画内容)で、1時間半もの番組なのに、地方局の制作ゆえか、放送時間帯も空いた時間にはめ込んだふうであり、さらにせっかくのいい話も、まとめ方にあまりにも工夫がなかった。
 言いたくはないが、NHK教育ふうな内容なのだから、むしろNHKによる制作ならばもっと内容のある、しっかりとまとまった番組になったのではないかと思ってしまうのだ。
 
 それはともかく、番組は各界著名人たちの、忘れられない一言や、名言格言などを紹介していて、映画監督の山田洋次や亡くなった歌舞伎の中村勘三郎から、ベストセラーになった『ビリ・ギャル』の当の本人、そしてわれらがAKBグループの”さっしー(指原莉乃)”に、ヒラリー・クリントンから武田鉄矢他に至るまでの、多士済々(たしさいさい)の顔ぶれだった。
 その中で、”さっしー”が今度の総選挙で1位になった後のスピーチで、涙ながらに、”自分は欠点の多い人間だけども努力してここまで来た”のだと話していた時の映像を見ながら、私はその前の日にウェブ・ニュース・サイトで見た、あるタレントの言葉を思い返していた。
 
 それは44歳になるというあるスポーツ系のタレントが、自分はAKBなどのアイドルたちのファンであると、ツィッターなどで公言していて、それに対してネット上での賛否両論の書き込みが続いていたのだが、そのことに反応して、あるお笑いのタレントが、たまたま同じ44歳だとのことだが、本気で彼を非難するような言葉を自分のブログに書いていたのだ。
 「アイドルなんて若い時に好きになるもので、今アイドル好きだと公言しているような大人は大嫌いだ。」 

 私は年寄りだけれども、AKBのファンだし、孫娘のようなAKBグループの子たちが好きである。
 前回書いたように、夫を亡くして落ちこんでいたある女の人が、娘たちに誘われてアイドルのコンサートに行って、すっかり”嵐”のファンになったということ。
 さらに、これも前にも書いたことだが、その昔、まだ母が元気だったころ、叔母さんと二人で北海道のこの私の家に来て、テレビを見ていた時に、あの若手の男優が好きだと、女子高生のように目をか輝かせて、二人楽しく話し合っていたこと。

 この批判ブログを書いたお笑い系のタレントは、クルマが好きで、競馬が好きで、相方とともに、今ではおしゃれで多趣味な、都会派のタレントとしても知られているのだ。
 もっとも最近では、彼らだけでなく、そうした”物言う”評論家然としたお笑い系のタレントが増えていて、こうした取るに足りない話だけならまだしも、重要な社会事情から政治情勢に至るまで、まともな学者系の評論家よりは、よほど自信に満ちた意見をテレビ番組で披露しているようである。
 ただし、そうした彼らの言葉一つ一つに対して、年寄りの私が今さらあれやこれや言ったところで、ただの田舎のじじいの独り言にしか聞こえないだろうし。
 そうなのだ、年寄りの私たちは、ただそうした若い人たちの意見があることを聞いておくだけでいいのだ。
 これからの日本や世界の進む道などは、かれら働き盛りの世代や若い世代が決めていくものなのだから、自分たちの思う進みたい方向に行けばいいだけの話だ。
  自分たちの未来は、すべて自分たちの言動に責任があることを知ったうえで。

 そして、私は、そうした今の人たちの考え方とは違う、昔ふうな考え方や人としての在りようなどを思い返すことになるのだ。
 その一つ、当時、人間関係構築の指南書として一世を風靡(ふうび)した、一冊のベストセラーがある。
 それは、デール・カーネギー(1888~1955)が書いた 『人を動かす』(山口博訳 創元社)である。(注 あの鉄鋼王カーネギーとは別人)

 そこで彼は、”人を動かす”ための三つの原則を挙げていて、長くなるが以下に書き出してみる。 

「人を批判したり、非難したり、小言(こごと)を言ったりすることは、どんなばか者にもできる。そしてばか者に限って、それをしたがるものだ。
 およそ人を扱う場合には、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ちて、自尊心と虚栄心によって行動するということを、よく心得ておかねばならない。」

 第二の原則としては。

「どんな人間でも、何らかの点で私よりは優れている。私の学ぶべきものを持っているという点で。」

 三つ目の原則としては。
  
「常に相手の立場に身を置き、相手の立場から物事を考える。」

 もちろん、こうしてここに挙げた言葉は、誰に言うわけでもなく、自分自身への戒(いまし)めとしてのものであり、”もって自らの肝に銘ずべき”言葉なのだ。

 日中は、山々の上に雲が続いていたが、それ以外では、ほぼ快晴の青空が広がっていた。
 気温は22度までにも上がって、さすがに日差しは暑かったけれども、そよ吹く風はすっかり秋の肌合いだった。
 しかし、夕方前になって、山沿いの雲が黒雲になって広がってきて、十勝地方全域で雷雨注意報が出されていた。
 そんな、黒雲の覆う空の中で、一か所だけがあかね色に染まり、その下に山々が見えていた。
 日高山脈のペテガリ岳からルベツネ山にかけての稜線だった。(写真下)

 山にかかる雲を生む冷たい空気が抜ければ、山の天気も良くなるはずなのに。
 明日の天気予報でも、まだ寒気が残り、不安定だとのことだが・・・。
 すべては、お天気次第なのだ。脳天気な私のことゆえ・・・。


 


酔狂なるもの

2015-09-07 21:55:30 | Weblog

 9月7日

 季節は移りゆく。
 朝の気温が10度を切るようになり、かといって昼間は晴れて日差しが熱くなり、25度の夏日になる日もある。
 暦(こよみ)の上での、人間が決めた月ごとの区切りとは何のかかわりもなく、あいまいさの中で、ほんの少しづつ様変わりしてゆくうつろいの中で、季節はいつしかその色を変えていくのだ。
 夕焼けの空が、少しずつ秋の色になっていく。(写真上)

 ある時、そんな季節の変化に気がついた人が言うのだろう。今まさに始まったかのように、”秋が来たな”と。
 そして、それぞれの人にとって、それが何年目かの、何十年目かの秋を迎えることになるのだ。
 人類誕生以来の、数百万年もの歴史の中で、繰り返されていくもの・・・。
 不変なるものの、変化していくさま。

 もう一月以上も、山に行っていない。
 それは前回の北アルプスへの遠征登山が、あまりにも良かったものだから(8月4日、10日。22日の項)、次なる山行へと踏み切れなかったこともあるが、もともと8月半ばから9月の初めにかけては、山にはそれほど見るべきものがなく(高山植物の花々は終わり、残雪もあらかた消えて)、どこか寂しい景観になるからでもある。

 といっても、少し前までは、暑いだけの稜線歩きから逃れるために、毎年少なくとも一二度は沢歩きの山登りを楽しんだものだったが、最近では、年のせいか、自分でも岩の上を飛び歩くときの、バランス感覚などの危うさを感じ始めて(5年前の野塚岳、’10.8.20,22の項参照)、それからは年寄りの慎重さで、そんな沢登りはと敬遠するようになったのだ。

 あのボーヴォアール(1905~1980)の名著、『第二の性~女はこうしてつくられる』の題名を借りて言えば、”こうして、年寄りはつくられていく”のだろう。
 そうして、日々体力の衰えを自覚しては、運動することに、出歩くことにおっくうになっていき、家に閉じこもりがちな、いわゆる”引きこもり老人”になるのだろう。
 もちろんそれは、それぞれの年寄りたちの意識や考え方、日常生活習慣の違いなどにもよるのだろうし、前にも書いたように、マスターズの競技会で世界記録を更新し続けている人もいれば、80歳近くになっても、今までの千数百回登頂の記録をさらに伸ばすべく、富士登山を続けている人もいるのだ。
 ”ものは,考えよう”で。

 しかし、だからと言って何もしないでいることが悪いわけではない。
 ”引きこもり老人”になることで、わずらわしい世間からは離れて、誰にも邪魔されずに、それだけひとり沈思黙考(ちんしもっこう)できる時間が増えるわけであり、そこで自分の思索の世界をふくらませ、あるいは”過ぎし来し方”へのさまざまな思いにひとり浸ることもできるわけだから、それほど悪いものでもないのだ。 
 つまりは、自分が今”在る”状況を否定的にはとらえないで、すべては生きている自分がいるからなのだと、”脳天気”に考えたほうがいいということだ。
 (ところで一言、この”脳天気”の用語法は、”能天気”のほうが正しい使い方であるとのことだが、私はこのブログでは、一貫してこの”脳天気”のほうを使っている。そうなっている自分というよりは、そうしている自分だからという意味を込めてなのだが。)

 ともかく、一か月以上も山に登っていないと、さすがの私も山の空気を吸いたくなるし、そこで、あの大雪山情報の人気ブログ『イトナンリルゥ』を見ては、そろそろ色づき始めた山の紅葉が気になってはいるのだが。
 そして、確かに時期的なことと私のぐうたらな生活から、山に行く気にならなかったのだが、もう一つ気がかりな点を言えば、あの3か月前の大雪山黒岳の下りでのひざの痛みが、いまでは慢性的になっているからでもある。
 もっとも、その後あの鹿島槍から五竜岳へと縦走したくらいだから、たいしたことはないのだろうが。

 色とりどりの、夏の高山植物の花々が咲き乱れていた、山上の楽園も今や消え去り、その色あせた稜線に代わって、今度は目にも鮮やかな紅葉模様が織り込まれていく、山上のフィナーレの舞台が始まるのだ。
 春夏秋冬、確実に毎年同じように、しかし微妙に少しずつは異なる、その装(よそお)いを変えていく山の姿を、私は見たいのだ。
 そこで思い出すのは、あの『万葉集』の中の一首である。        

「春は萌(も)え 夏は緑に 紅(くれない)の まだらに見ゆる 秋の山かも」

(『万葉集』 巻第十 「秋雑歌 山を詠(よ)む」 伊藤博校注 角川文庫)

 この歌は、『万葉集』の中では、別段あまり取り上げられることもない山を見ての歌だが、新緑の萌黄色(もえぎいろ)と夏の生命力みなぎる緑色、さらに秋になってその中のいくつかの木々が鮮やかな紅に染まる光景を、まるで今の時代の私たちが、写真のスライドショーで見ているかのように、そんな山の姿が目に浮かんでくるのだ。
 ただ私なりの欲を言えば、難しいことではあろうが、ここにもう一つ冬の白を加えてほしかった、という思いもあるのだが・・・。

 それにしても、この『万葉集』における山を詠んだ歌については、このブログの8月10日の項でもあげたように、大伴家持(おおとものやかもち)による、夏に雪を頂く立山(当時はたちやま、立山=剣岳)の、今に変わらぬその姿を見事に表現したものから、富士山、筑波山(つくばさん)や九州の九重の山々などに至るまでの、当時の日本の名山の記録としても、実に興味深い歌が数多く残されている。
 そしてそれらの山は、当時はもちろん神の居ます神聖なる山としてあがめられていただけでなく、一方では、すでに山登りの楽しみや眺望を楽しむために、今の登山の目的と何ら変わることない思いをもって、普通に登られていたのだ。

 同じ大伴家持の「筑波山に登るときの歌」長歌一首。

「・・・常陸(ひたち)の国の 二並ぶ 筑波の山を 見まく欲(ほ)り・・・暑けくに 汗かき嘆(なげ)き 木の根取り うそぶき登り 峰の上を・・・時となく 雲居雨降る 筑波嶺を さやに照らして いふかりし(いぶかしく思っていた) 国のまほら(一番良い所)を つばらかに 示したまえば 嬉しみと・・・」

(『万葉集』 巻第九 「雑歌」 伊藤博校注 角川文庫)

 どうしても、日本の山は、山岳信仰や、修験道の山として登られてきたという印象が強いのだが、それらの宗教登山以前から、山はこうして普通の人々によって、山の楽しみを味わいながら登られていたのだということだ。
 『万葉集』にしろ『方丈記』や『徒然草(つれづれぐさ)』にしろ、こうして日本の古典を読むことによって、昔の人の心根の中に、今も変わらぬ日本人の思いがしのばれて、ひと時の間、千年余りの時空を超えて、穏やかな気持ちでこの歌い手たちと語り合えるような気さえするのだ。

 こうした日本の古典文学を、再び読み直す気になったのは、中年の域に差し掛かったころからであり、今や老境の時代に近づいて、私なりの思いで、それが私の誤読や誤った理解の仕方であるとしても、年寄りのかたくなさで気にもかけずに、再び本をひも解き楽しむことができるだけでも、ありがたいことだと思うのだ。
 これだから年寄りはやめられないのだ。今にして思えば、幾たびもの無謀な行いを、ただの幸運だけで切り抜けてきた私の人生、若くして死ぬこともなく、この年まで生きてこられたことに対する、心の奥からふつふつと湧き上がる感謝の思い・・・。

 そこで話は変わるけれども、今朝のテレビを見ていて、それは”夫ロス”、つまり連れ合いの夫を亡くして心の痛手を負った女の人たちの特集番組をやっていて、ほんの少し見ただけなのだが、その中で、夫を亡くしてふさぎ込んでいたある女のひとが、娘たち二人に連れられて”嵐”のコンサートに行って、そこですっかり”嵐”のファンになり、今ではそれが生きがいの一つになっている、というコメントを寄せていた。
 中高年の女性たちが、”嵐”のファンになることは、まさに中高年のおやじたちがAKBのファンになることと何ら変わりはないのだ。
 
 さらに、最近のネット・ニュースで見たのだが、AKBメンバーたちのそれぞれのファン層が、年代別に分けられた表になって掲示してあって、その中でも、今年の総選挙で1位になった指原莉乃(さっしー)の支持層の分布が、実に興味深かった。
 彼女は、AKBのファンなら誰でもが知っている通り、親しみやすい顔立ちではあるが決して美人ではなく、歌も踊りも格別にうまいというわけではない。
 ただ彼女には、ライバルでもありよき仲間でもある、去年1位で今年3位だった渡辺麻友(まゆゆ)が言っているように、確かに”唯一無比(ゆいいつむひ)”のものがあるのだ。

 それは、彼女の天性のものでもあるきれいに伸びた脚と、受け答えに機転のきくバラエティー番組向きな彼女のトーク力であり、さらに言えば、”判官(はんがん)びいき”の日本人の心情に合うような、逆境からの逆転力に、つまり自らのスキャンダルで、東京のAKBから博多のHKTへと左遷(させん)されたにもかかわらず、いつしかHKTを他のAKBグループに引けを取らぬような人気グループにしたてあげたことである。
 さらには、HKTのメンバーを引き連れて、あの明治座と博多座の座長公演を成功させたのは、それがもちろん、彼女の手腕だけではないことは分かってはいても、彼女の統率力と盛り上げる力の確かさを感じさせるものだったのだ。

 そんな”さっしー”のファン支持層分布だが、なんと選抜上位16人のメンバーの中で、唯一10代20代の、つまり彼女と同年代の支持層が少なく、逆に他のメンバーと比べても突出していたのは、50代60代の支持層だったということ。
 そこで言えることは、若い層に人気のあるメンバーは、ある意味で同年代の仮想恋愛の対象になるような、アイドルとしての生身の女の子として見られているわけであり、中高年世代の支持が少ないのは、ロリコン趣味の人はともかく、彼女たちの幼さや美しさが、あまりにも自分たちの世界とは離れていて、はかなげなものに見えるからだろう。
 一方で、”さっしー”の支持層は、若い人ほどに生々しい思いで彼女を見ているわけではないのだ。
 歌や踊りがうまいわけでもなく、美人でもなく特別かわいいわけでもない彼女は、若い人たちにとっては、どうしても憧れや仮想恋愛の対象にはなりにくいし、その半面、彼女が持ち前の明るさで逆境を乗り越えてきて、安定した明快なトークで回りを納得させているのを見て、中高年世代の人たちは、自分のできないことをやってきた彼女に、”ヒーロー”(本当は”ヒロイン”だが)の姿を見ているのではないのだろうか。 
 ”嵐”のファンになった、中高年のお母さんたちが、彼らに、自分の青春時代を重ね合わせての、”白馬の王子様”としての”ヒーロー”であり続けてくれることを願うように。

 つまり、アイドルが好きな多くの人たちは、自分の心の空白のいくらかだけでも埋めてくれる対象として、彼ら彼女らが存在していてくれれば、それでいいだけのことなのだ。
 そういう意味では、私は、確かにアイドルとしてのAKBの誰か一人だけのファンというのではなく、秋元康が歌の詩を書いて、彼がプロデュースするAKBグループ全体のファンなのであり、それだからこそ今は、AKB情報サイトを見たりして、そんな彼女たちの日々の動向が気にかかるわけでもあるのだ。
 
 この8月末の新曲、「ハロウィン・ナイト」は、前作の「僕たちは戦わない」とは全く逆のコンセプトで作られたもののようであり、ただ肝心の秋元康の詩が何のメッセージ性もなくていまいちの感じはするが、曲とダンスの振り付けは単純でわかりやすく、こった仮装パーティー衣装のデザインもさすがだと思うが、You Tubeで見るPV(プロモーション・ビデオ)では、若い人より中年層が多いファン層を考えてか、おじさんおばさんたちのダンス・シーンが多くて映されていて(まったく制作側の勘違いもいいところだが)、ファンからすれば、もっとAKB選抜メンバーたちの踊るところを見たいのに、制作サイドは何にも分かっていないのだと思ってしまう。
 おじさんの私がそう思うくらいだから、若いファンにとってはなおさらのことで、こんなビデオを見せていれば、ますます”ダサイ”AKBだと思われてしまい、さらに若者たちから敬遠されることになりやしないかとさえ思ってしまう。

 何度もここに書いていることだが、私にとってのAKBの最高の曲は、時代の世相を反映した歌詞・曲もさることながら、ダンス振り付け衣装・メイクアップ、そしてそれらのすべてを映し出したミュージック・ビデオの出来を含めて、「UZA(うざ)」であることに何ら変わりはない。(’14.11.24の項参照)

 その昔、もしあなたが無人島に一枚のレコードを持っていくとしたら、という半ば荒唐無稽(こうとうむけい)な有名人へのアンケートがはやったことがあったが、今の時代は、レコードどころかCDでさえもその盛りの時期を過ぎていて、今ではパソコン経由でダウンロードしたiPodやハイレゾ・ウォークマンで音楽を聞く時代になっていて、大量の音源を何曲でも入れて聞くことができるのだから、その質問自体が意味をなさないのだろうけれども、ここは質問を変えて、単純にあなたがずっと聞き続けていたい曲は何ですか、というアンケートにすればいいのだ。
 それも1曲だけ、あるいは3曲だけということにすれば。

 今の私の答えは単純だ。1曲だけ選ぶならば、バッハをおいて他にはないし、ただその一つを選ぶのには頭を悩ませるだろうが、「平均律クラヴィーア曲集」にするか「フランス組曲」にするか、それとも「無伴奏ヴァイオリン(あるいはチェロ)・ソナタ集」かあるいは「マタイ受難曲」にするか。
 3曲にすれば、当然、上で迷った曲選びの中のもう一つを加えることになるだろうが、さらに迷うのは最後の1曲だ。
 当然AKBの「UZA」を入れたいところだが、あの乃木坂46の「君の名は希望」もあるしと考えて、それでもバッハのもう1曲を落としてこの2曲を入れるほどではないし・・・とありもしない質問に考え込んでしまう、自分だけの遊びの楽しさ。

 まあ、つまるところ今の時代は、聞きたい曲はいつも聞けるわけだから、そう真剣に考えることもないわけで、それ以上に、人は誰でも今聞いている曲がいつもいいと思うから、民謡、歌謡曲、AKB、ロック、ジャズ、クラッシック、民族音楽、タンゴ、ファド、シャンソン、カンツォーネなどなど、その時点その時点で聞いている曲が、最高の一曲なのかもしれない。
 何よりも今は、好きな時に好きな曲を聞ける時代であり、そこに”亀の甲より年の功”のことわざ通りに、今や経験を積んでいろんなことが分かる年寄りになったことの利点があり、それゆえの満足感があるのだ。

 そんな年寄りだが、最近の朝の冷え込みで、どうやらうるさい蚊も少なくなり、よしと覚悟を決めて、伸び放題の庭の雑草取りに外に出て、さらに草苅り鎌による芝生の刈り込みも始めたわけなのだが、さぼっていた分の作業は、その倍返し以上に時間がかかることになるのだ。やれやれ。

 ただし外に出ればいいこともある。前回にも書いた、カラマツ林の中のラクヨウタケ(ハナイグチ)は、さらにあちこちに出ていて、今回もザルいっぱいの収穫で(写真下)、これもまた三杯酢にして漬け込んで瓶詰(びんづめ)にしたところなのだ。

 ひとり酒も飲まずに、酔狂(すいきょう)なるをもって良しとする。