ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

天飈に吼ゆ

2017-12-25 21:41:32 | Weblog



 
 12月25日

 昨日の夜から吹き始めた風は、結局は一晩中、強い風になって吹き荒れていた。
 穏やかな天気が続いて、穏やかな毎日を送っていた私には、まるで天変地異が起きたかのような、天候の変わりようだった。 
 台風の時以来の、久しぶりに聞いた、天空の吠え狂う声だった。

 ふと、高校時代の漢文の授業で習った、漢詩の一節が浮かんできた。

” 古陵(こりょう)の松柏(しょうはく)天飈(てんぴょう)に吼(ほ)ゆ ・・・”

(古い御陵にある、マツやヒノキなどの木々が、天空から吹きつけるつむじ風に吠えているようだ。)

 もっとも、この漢詩は、さらに”山寺、春を尋ぬれば・・・”と続いていく早春の山里の風景を詠んだものだから、今の師走(しわす)の大風とは関係ないものなのだが、何と言っても、この”天飈に吠ゆ”という一節が、吹き付ける風のすさまじさを見事に表していて、山登りで中腹の樹林帯を登っているときなどにも、たびたび思い出しては、ひとりつぶやいてみたりもする詞なのだ。

 改めて調べてみると、作者は江戸時代は幕末のころの漢詩人、藤井竹外(ちくがい、1807~1866)であり、この漢詩の題名「芳野懐古」からもわかるように、鎌倉時代終焉後の、南北朝時代の南朝の拠点であった、吉野の御陵跡を訪ねた時に書かれたものであり、その裏には南朝の衰退の悲哀も込められている。

 昨夜は、そうした強い風が吹き荒れたのだが、思い返せば、前の日にの夕方近くになって、前日に書いた(12月4日の項参照)あのひつじ雲の仲間である高積雲が出ていたのだが、それは、他のひつじ雲よりは比較的低い所にあり、波状高積雲と呼ばれていて(写真上)、さらにその後ろの西側には黒い雨を降らせる雲の塊も引き連れてきていたのだ。
 そして雨が降り、その雨の後、風が強くなってきたのだ。まさしく何かを予兆させるような美しく不気味な並びだった。
 今日もまだその余波が残っていて、曇り空の中、まだ樹々が揺れている。(今日は東北・北海道で風速40mにもなるとか・・・地吹雪の恐ろしさ。)
 さらには、昨日までの数日は、最高気温が10度を超えるような暖かい日々が続いていたのに、一転、冷たい空気がどっと流れ込んできて、午後になっても気温はわずか3度という寒さになっていた。

 それでも、この暖かい数日間の間に、毎日数時間ずつかけて、私はたまっていた家のことや庭仕事などを終わらせていたのだ。
 まず屋根に上って、降り積もっている枯葉などをはき落として、隣の物置の屋根もついでに片づけては、さらには残っていた植え込みなどの剪定を仕上げてしまい、家の前の排水溝にたまった枯葉枯れ枝などを取り除いて溝さらえをして、最後に庭の枯葉などをはき集めて、これで三度めの落ち葉焚(た)きをして、ようやくすっきりした気分になったのだが、昨夜の大風で、哀しいかな、庭はまたまた枯葉や枯れ枝に覆われて、またもう一度庭中を掃き集めて、風のない日に火の始末に最大限の神経を使いながら、それらを集め運んでは燃やしてしまわなければならない。
 やれやれと、腰は痛くなるし、焚火で体中に大汗をかいてしまうし(家に戻るとすぐに下着を着換えなければならないほどだ)。
 とは言っても、いいこともあった、庭の片隅に、前に(12月4日の項で)書いていた、あの赤い実のなるマンリョウに、なんと家にはないと思っていた白い実をつけるマンリョウの苗があるのを見つけたのだ。(写真下)





 まだ芽を出してから数年くらいのものだろうから(奥に見えるのは赤い実のもの)、とても今その実を採って、紅白の正月飾りなどにする気はないし、このまま枯れずに大きくなってほしいと願うばかりだ。

 そうして、家の庭仕事などはすることができたのだが、山には、まだ行っていないのだ。もう一月半もの間が空いてしまったが。 
 もちろん、その間、歩かないでじっとしてはいられないから、例の1時間はかかる、長距離の坂道ウォーキングをしたりはしているのだが、やはり山に登りたいと思うし、夢にもたびたび見るほどだ。
 二日前には、信州の八ヶ岳を縦走する夢を見たのだが、途中から天気が悪く下山することになってしまい、悔しい思いを残したままの夢だったのだが、それが、今の私の気持ちに相応するものだったのだろう。

 さて、今年も大きな町の本屋にまで出かけて行って、「山と渓谷」1月号を買ったのだが、”山の便利帳”という全国の山小屋案内などの付録がつくので、いつも買っているのだが、本文の方には”今年歩きたいベストルート100”の特集記事があり、有名登山家たちによる北海道から九州の島までの山々が紹介されていた。
 もちろんこうした企画は、今までも同じように、毎年の新年号の特集記事になって掲載されているのだが、単純で影響されやすい私は、いつもそうした案内記事によって、今年こそはと計画を立てては実行してきたのだが。 
 今回のそこに掲載されているコースには、今までにすでに登ったことのあるものも多いのだが、特に東北・上信越などにはまだ訪れたことのない山域がいくつもあって、今年こそはといつも思いを新たにするのだ。 
 しかし、地元の山に登っていても、体力の低下を自覚しているこの頃だから、とてもコースタイム通りでは歩けないだろうしと、いつも一日の行程を短くしての計画づくりになるのだが、まあその姿は、お迎えの時が近づいてきているのに、何ら自分の人生を振り返り悟ることもなく、目の前の我欲にだけ執心している、情けないじじいでしかないのかと思う時もあるのだ。

 そこで開き直って考えてみると、この”もの”に執着して、おのれの欲望を燃やし続けることこそが、もちろんそれは何をやってもいいということではないし、社会の道徳に反しないことを前提にしての話だが、年寄りの生きることへの原点になるものではないのだろうか。
 もちろん、それはすべての世代の人間に共通する生の本質でもあるのだが。 
 自分が住む社会の規律の範囲内で、時には相手を思いやり我慢しつつも、本来ある自分の思いをわがままに通していくことこそが、積極的に生きるということになるのではないのだろうか。

 というふうに、いつものこむずかしい話を書く気になったのは、昨日のあるテレビ番組を見たからでもある。 
 それは、テレビ朝日系列の『ビートたけしのTVタックル』である。 
 日ごろから、この番組を見ているわけではなく、つまりこうした専門家とタレントたちが混在した、討論番組というのがあまり好きではないから見たくないだけの話なのだが、今回はたまたま目に留まり、最近気になっているテーマが取り上げられていたので、途中からだったが、その部分だけを見たのだ。 
 それは”安楽死で死なせてください”という、週刊誌並みの刺激的なテーマになっていたのだが、今年92歳になるというあの有名脚本家の橋田寿賀子の思いや、そのほかのタレントたちのそれぞれの親が亡くなった時の思いなどはともかくとして、私が思わず見入ってしまったのは、現在、安楽死の問題と正面から向き合っているヨーロッパでの話で、特にオランダやベルギーそしてスイスなどでは早くから法整備がなされていて、安楽死協会があり、今までに数千人もの人の最後の手助けをして見送ったということであり、今回、最近その一人となったフランスの76歳のご婦人が、病状が進み回復の望みもないし痛みにも耐えられないからと、医師と度重なる面談を経たうえで、私が皆様のお役に立つならと、実名のままモザイクなしで撮られていた映像があり、そこには、介護人から致死量の睡眠薬が入ったカクテルを受け取り、それを飲んで、眠りから死ぬまでのシーンが写し出されていた。

 日本では、まだ安楽死については、殺人罪の適用も絡んで医師の倫理規定に反するからと、法整備もされてはいないけれども、今後さらに、日本人口の老齢化は進んでいくことだろうし、今以上に、”死んでいくこと”の問題は、大きな社会問題になることだろう。

 この後、日本のお墓事情も取り上げられていて、最近の納骨堂には、オートマのトランクルームよろしく、ICカードで自分の家のお墓がレーンで運ばれてくるものもあり、さらには、最近注目されている樹木葬や海洋散骨に宇宙葬なども取り上げられていたが、私はもうそれ以上その番組を見る気にはならなかった。
 もちろん自分の家族がそう望むのなら、願いに沿うような葬式にしてあげたいと思うのだが、しかし、こと自分の場合に限って言えば、私は死んだ後のことに関しては、全く興味がない。
 自分の意識が永遠に失われ、自分という現存在が死という形で遮断された段階で、自分はなくなってしまうのだから、ただ家族や友人知人の間で記憶という形で意識され残されているだけで、ただ自分が存在したという証(あかし)の骨壺や墓を作ったところで、骨の形のカルシュームや磨かれた花崗岩にしか過ぎないものを、と思ってしまうのだ。(亡くなった母とミャオの墓参りは欠かさないが。)
 そんな、自分の現存在が消滅した後のことを考えるよりは、今ある現存在の自分が、他の存在者や存在物とかかわって行くことのほうが重要であり、過去現在未来と続く時間の中で、未来にある死を自覚して、それまでの限られた時間の中で未来を目指していくことが、今を生きることではないのかと。

 つまり平たく言えば、ハイデッガーの『存在と時間』の考え方のままに、今ありがたく続いている時間の中で、私は生かされていて、生きていかねばと思っているのだが・・・。

 ”我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこへ行くのか”

 オランダの画家、ポール・ゴーギャン(1848~1905)の有名な絵のタイトルである。 

(東京竹橋の国立近代美術館での『ゴーギャン展』、2009.8.4の項参照)
 


夕映え

2017-12-18 23:17:43 | Weblog



 12月18日

 一週間前の厳しい寒さの後、いくらか日差しが暖かく感じられる時もあったのだが、再び寒くなり、今は雪もうっすらと積もっていて、昨日などは、一日中マイナスの真冬日という寒さだった。
 こうした日には、家の中の気温は10℃以下に下がり、部屋ごとに灯油ストーヴなどで温めて、やっと15℃くらいになってくれるのだが。 
 そして、今朝の新聞には、私のように、昔かたぎで倹約し我慢する年寄りたちへの、警告記事が載っていた。
 ”寒い部屋、心筋梗塞(しんきんこうそく)リスク増”

 ゲッ、知らなかった。
 確かに風呂場などのように、暖かい部屋から寒い風呂場、熱いお湯という流れが、血圧を上げるから注意しなければならないことは知っていたが、寒さを我慢することが体に良くないとは・・・。 
 つまり、こういうことらしいのだが・・・奈良県医大の研究によると、60歳以上の男女1100人に、平均気温11.7度、平均16.2度、そして平均20.1度の部屋に分けてそこですごしてもらい、血液中の血小板の数を調べたところ、寒い部屋にいる人のほうが、約5%ほどその数が多くなり、心筋梗塞・脳梗塞などで亡くなるリスクがなんと18%も高くなるとのことだ。 
 (ちなみに、血小板の普通の時の役目は、けがをして出血した時などに、血液中から集まってきて傷口をふさぐなどの働きをする。)

 最近、どうも時々、心臓の動悸(どうき)がしたりするのだが、もしやしてそのことと関係があるのではと思ったが、もっともつくづくとわが身を振り返れば、それは一つには、ぐうたら自堕落(じだらく)な生活を続けていて、メタボに太ってきたせいもあるのだろうが。

 しかし、疑問もある。
 冬の時期に、寒い戸外で仕事を続けなければならない人や、私のように、冬山が好きで、長時間マイナス何度もの気温にさらされ、雪道を歩き続ける人にとっては、同じように体に良くないことなのだろうか。
 とても、私には、冬に家に閉じこもって外に出ないなんてことは考えられないし、大げさに言えば、あの雪景色を見るために生きているのだと言えなくもないのだから。

 昨日の夕方、クルマで由布院の町の近くまで行って、夕映えの由布岳の写真を撮ってきた。 
 上に書いたように、再び寒波が来ていて、風も強かったから、山は雪や霧氷で白くなっているはずだし、夕方になってちょうど晴れてきて、山の夕映えが見られるだろうと思ったからである。
 外気温はもうマイナスだし、足踏みしながら写真を撮ったのだが、その時はただただその夕映えの色にうっとりとするだけで、寒さも忘れ、言うまでもないことだが、そうだとは知らない血小板が減少していることも気に留めなかったのだが。
 医者から、食事制限や禁酒禁煙などを申し渡されていても、それができないくらいなら死んだほうがましだと、あえて、自分の好きなものだけを食べ続け、酒を飲みタバコを吸うことを止めない人たちがいるものだが、もちろんそれが自分の寿命を縮めることになるのを分かってはいるのだろうが、それでも自分の好きなものを食べて今の時間を生きていたい、という気持ちはわからなくもない。
 私の場合も、状況こそ違え、同じようなことなのかもしれない、寒さを我慢しても、それが体に良くないとわかっていても、冬のあの山の雪景色を見ていたいのだから。

 と言いながら、もう一月以上も山に行っていないのだ。 
 山は雪景色になってはいるのだが、前回書いたような、私の求める絶好の雪山日和の日がやってこないのだ。 
 朝は晴れていてもすぐに雲が広がってきたり、あるいは昨日のように、ずっと曇り空でも夕方前から晴れてきて、上の写真のような絶好の夕映えの景色が見られるようになったりして、その日の雲行きを予測するのはむつかしいのだ。
 しかし、私のように、空模様にこまごまとうるさくて、天気にぜいたくで慎重な登山をしようとするような暇人(ひまじん)は、他にはなかなかいないだろう。

 ほとんどの人が、その前から山に行く日を決めて、実行しているのだから。 
 北アルプスや南アルプスなど、多くの営業小屋も今や予約するのが当然のことになってしまった。(小屋の人たちから見れば、当日の宿泊者数をなるべき早くから把握しておきたいのは当然のことだが。) 
 しかし、当日の天気がどうなるかもわからないのに、自分の体調がどうなのかもわからないのに、1週間前や1か月前から予約する人たちがいるというのがわからない。
 最近立て続けに起きている団体ツアー登山遭難もまた、悪天候の中でも、決められた日程をこなそうとする、無理な行程から来ていることは、誰の目から見ても明らかなことなのだが。

 と、ひとしきり最近の登山風潮に、年寄りらしい難癖(なんくせ)をつけたうえで、さて先日見たテレビ番組についてなのだが。
 土曜の夕方5時過ぎという中途半端時間帯で、たまたま途中から見たのだが、それはNHKの『田部井淳子 人生のしまい方』という番組だった。 
 もちろん、彼女は言うまでもなく、あの女性による世界初のエベレスト登頂者として有名な登山家であり、その後も登山の啓発運動などかかわり活動されていたのだが、惜しくも一年前に亡くなっているのだが、その田部井さんの、この5年間の記録映像をまとめたドキュメンタリー番組だったのだ。
 
 彼女は、自分の出身地でもある東北での、あの5年前の東日本大震災の被害に衝撃を受け、これから先のことを思い、特に次代を担う高校生たちに元気と勇気を持ってもらおうと考えて、東北各地からの高校生たちを集めて(登山口までのそれぞれの交通費だけを生徒たちに出してもらって、それ以外の食費山小屋代などを田部井さんや協賛団体で負担し)、毎年数十人の生徒たちと一緒に富士山に登っていたのだった。
 最初は、田部井さんも、”一歩一歩進めば、必ず頂上にたどり着けるから”と生徒たちを励ましながら、一緒に山頂まで登っていたのだが、その後に腹膜ガンが見つかり、放射線治療を受けて一時的に回復したものの、再発転移して脳腫瘍(のうしゅよう)ができて進行していて、体が弱って行く中でも、夫政伸さんの助けを受けながらやっとのことで富士山を登って行く姿は、彼女の使命感と、もともと山を歩くことが好きな彼女の思いが伝わってきて、見ているほうがつらかった。 
 その時は途中の山小屋までだったが、翌朝、頂上に向かう生徒たちを見送った後、今度は、山頂から戻ってくる生徒たちのひとりひとりに、笑顔で声をかけていたのだ。

 そしていよいよ病状が悪化して、寝ていることが多くなった彼女が、自分の人生を思い返して話すのだった、”自分の人生はいろんな人たちに助けられて、好きな山に登り続けることができて、幸運だったし幸せだった。もう思い残すことはないが、ただ、今後も、この高校生たちの富士山登山が続けられればいいのだけれど”、と自分の病状以上に、そのことだけを気にかけていたのだ。
 去年、平成28年10月、田部井淳子逝去、77歳。 
 そして、この夏も、田部井さんの夫の政伸さんが中心となって、その志を受け継いで、”東北の高校生たちの富士登山”は行われていた。

 確かに、これは、登山家田部井淳子さんによる東北の高校生の富士登山の話として見ても、テレビ番組として見ても、十分なドキュメンタリー番組に仕上がってはいたのだが、ただ、これはあくまでも自分の経験に基づく個人的な見解に過ぎないのだが、それはたまたまその時の天気がそうだっただけかもしれないが、余りにも雨の日が多く、何も見えないガスの中の映像が多かったことであり、そのことが気になったのだ。 

 確かに、天気が良くなくても、日本一の山である富士山の頂上に登ったことで、生徒たちにとってはそれが大きな自信になったことだろうが、しかし、はたしてそれで今後とも続けて山に登りたいと思うようになっただろうかと考えてみたのだ。
 つまり、それは全国各地で行われている学校の集団登山と同じことであり、むしろその場合、山が好きになったという子よりは、もう二度と山など登るかと思った子供たちのほうが多いという事実があるからだ。 
 今、山登りが好きな大人たちに聞いて見ても、学校の集団登山で山が好きになったという人は余りというかほとんどいなくて、むしろその後に、家族や友人知人に連れられて一緒に登ってから、山好きになったという人が圧倒的に多いということである。 
 もちろん、学校側の集団登山の意図は、集団行動を学ばせるためにあり、さらには情操教育の一つとして、大自然に親しむこともその目的の一つかもしれないが、そこには、当然のごとく、今後この子供たちが登山者になることなどは期待してはいないのである。
 私の場合、中学生の時、夏の快晴の日に、親戚のお兄さんに九重の山に連れて行ってもらったことが、そもそもの始まりであったのだ。

 つまり、自然が好きになり、山が好きになるのは、最初の山が素晴らしい天気の時であったかどうかによるのではないのかと思うのだ。 
 誰でも汗水たらして、山に登り続けるのはつらいことだが、それが天気のいい日であったならば、きつい運動の対価としての、頂上からの大展望に十分に満足できるし、また別の山にも登ってみたいと思うようにもなるだろう。
 しかし、つらい登りの後、頂上も雲の中で何も見えず、ましてずっと雨の中だったとすれば、それはもう最悪の経験でしかなく、そこから山好きになる子供などいないだろう。

 ここまでに書いてきたこととつながるのだが、無理なツアー登山、予約が必須の山小屋、集団登山と書いて行けば、そこに見えてくるのは、本来の大自然に親しむための登山ではなく、それぞれの背後にある思惑によるものが・・・。 
 もちろん、それぞれには理由があり、それらは、一人では山に行くことのできない人たちのための救済ツアーであり、遭難防止のための個人計画の把握にあり、物資不足の山の上での無駄な食材を出さないための宿泊予約制度であり、さらには、集団の規律を守り互いに励ましあい助け合うことを学ぶための大切な集団行動なのだ、とわかってはいても・・・。
  
 そういう山登りから比べれば、ほとんどが一人の単独行登山である私は(今までの登山回数から計算してみても、おそらく90数%ぐらいは一人だけの登山になるだろうが)、明らかに危険極まりない異端の登山者でしかないのだろうし、その上に人に自慢できるような技術体力もなく、ただ自分が登りたい日本の山にだけ登ってきて、その他には、若き日にヨーロッパ・アルプスを少し歩き回った以外は、あのヒマラヤや世界各地の山々も見たことはないけれども、それでも私だけの登山史の記憶の中には、さわやかな青空を背景にして、燦然(さんぜん)と光り輝き、雄々しく時には優しくそびえ立つ、いくつもの山々があるのだ。
 数十年にわたる、私の山人生は、幸せだっと思う。
 誰かのためのものではなく、誰かと競うためのものでもない、ただわがままな自分のためだけの山登り人生・・・後は、野たれ死にだけが待っているとしても・・・。


 ”われらは、他人の要望より自分自身の要望の方をよくわきまえている。自分自身に奉仕することは、政治の手間を省くことになる。”

 ”人の心には誰かれの区別なく、虎、豚、驢馬(ろば)、それにナイチンゲールが住みついている。それでも人間の性格が雑多なのは、こうした動物の活動がてんでんばらばらのせいだ。”

(『悪魔の辞典』A.ピアス著 より”警句”の項からジャムラック・ホロボム博士の言葉、奥田俊介・倉本護・猪狩博訳 角川文庫)


犬は喜び庭駆けまわり

2017-12-11 21:51:33 | Weblog



 12月11日

 一週間ほど前に、初雪が降って、薄く積もった。
 その後も、寒い日が続いて、小雪が降ったり止んだりの天気で、昨日までその雪が残っていた。
 今の時期に初雪というのは、珍しいことでもないのだが、いきなり初雪が積もるというのは、そうあることではない。
 庭のシャクナゲの木の枝葉にも、雪が降り積もり、そんな冬景色の中、一つだけ取り残されていた柿の色が鮮やかだった。(写真上)

 今年は、いつもよりずっと寒い冬になるという、前ぶれなのか。
 日ごろから、冬が好きで、雪景色が大好きだと広言している私だが、この12月に入ってからの寒さは、いつもの真冬の寒さが、もう今の時期から押し寄せてきているようで、朝の気温は当然のことながら毎日マイナスだし、日中も5度を越えない日が多く、外に出るにもいささかしり込みしているほどなのだ。
 年寄りになって、さすがの私も寒がりになってきたような気がする。
 着ているものも一枚増えていて、靴下も昔は、あの白いスクールソックスで一年中過ごしていたのに、今ではとても冬用の厚手の靴下をはかないとやっていけない。

 さらに加えて、ここは古い家で、気密性が良くなくてすきま風も多いうえに、旧態然とした暖房器具しかなく、家の中にいても寒いのだ。
 しかし、そうはいっても、年寄りの良いところは、何ごとにも我慢できるところだ。
 昔は、外も寒かったが、家の中にいてももっと寒かった。
 暖房は、居間の掘りごたつと、他の部屋には一つ火鉢(ひばち)が置かれているくらいで、子供のころには、その火鉢の上にまたがっての”股(また)火鉢”というか、体ごと火鉢の上に乗っては(よく火鉢が割れなかったものだが)、そうしてなんとか体を温めていたものだった。
 夜寝る時には、暖房がないから、家にいたネコ”みい”の取り合いになり、早く見つけて自分の布団の中に入れれば、天然ファー付きの発熱器を抱いて寝るようなもので、天国気分で眠ることができた。
 しかし、朝起きると”みい”はいない。周りの誰かの布団の方で、ニャーという鳴き声が聞こえてくるのだった。

 今は、子供のころから、全館暖房のセントラルヒーティングや、気密性の高い家での、エアコンやファンヒーターなどの暖房が十分にきいた所で育っているから、とても私たちおじいさん世代のころのような、乏しい暖房設備では暮らしていけないだろう。
 確かに、人間は当然のこととして、常により快適な環境世界を目指して、住環境を改変改造していくのだから、当たり前のことではあるが。
 しかし、いったん何事かが起きて不便な環境に戻された時に、経験のある世代は何とか対応できるだろうが、今の暮らしやすい環境だけしか知らない世代若者たちにとっては、まさに経験したこともない悲惨な状況になってしまうということなのだ。

 だからというのではないが、若者たちは、山に登るべきなのだ。 
 日常の便利な生活から切り離されて、なおかつ山の頂上に行くためだけにという、単純で見返りのないものを目的にするということで、そこには、計算で成り立つ町の暮らしとは別の、その場所の価値観だけで存在している、多くのものがあるということを知ることになるだろうから。
 さらにできれば、北アルプスなどの稜線に建つ山小屋に泊まって、下界の町での一般生活とは違う、様々な不便さを味わってみてほしいのだ。
 コンビニやスーパーがあるわけではないから、食べるものは選べないし、値段は高いし、水には不自由するし、風呂はないし、ポットン式溜め置きトイレの見た目と臭気にも慣れなければならないし、寝るときはマグロよろしく、知らない人たちと頭を並べて寝なければならないなどなど、そこには日常とはかけ離れた生活があるということ。
 それでも山登りには、それらの不便さをさしおいて、それまでのつらさの数々が一気に吹き飛んでしまうほどの、圧倒的な山岳美の景観に心打たれるひと時があり、それだからこそ、私たち”山好き”は、山に登り続けているのだが。

 冒頭から、こんな話をしてきたのは、こうして若者を説教している不便さになれた年寄りでも、新しいもののありがたさを思い知らされていて、今ではその快適便利さを前に、ただただ感心感謝しているからでもある。

 その文明の利器は、温水洗浄付き暖房便座である。
 今では、この年寄りが、キャィーンワンワンワンと、”犬は喜び庭駆けまわり”状態なのである。
 これまでにも書いてきたように、わが家のトイレは旧式の水洗トイレのままで、特に冬の時期は、時には気温がマイナス10度までにも下がる時があって、凍結予防もしなければならないのだが、それ以上に、夜中にトイレに起きて、お尻を出す時の冷え冷えとした寒さといったら、そこには小さな電気ヒーターを片側に入れているのだけれども、それではお尻の両側が熱帯と北極に別れた状態で、何とも片方の寒さには耐えがたいし、さらには着ているものを焦がしてしまう恐れもある。
 そこで、やっと今年の秋に決断して、この最新式便座を取り入れたのだ。
 もっとも、リモコンや自動開閉などの余分な機能はついていないし、ただ基本性性能がついてるだけの中価格のものだが。

 それで、今ではあの温かい便座が待っているのかと思うと、”暖かーい、あったかホームが待っている”というCMではないけれど、安心して夜のトイレ・タイムも楽しめるというものだ。
 温水洗浄の方は、もともとが二日に一回の”ウサギのウンチ”状態だから(痔気味なところで大腸がんの恐れが心配だが)、トイレットペーパーの使用も少なく、それほど大活躍の使用状況というのではないのだけれども、前にも書いたことのある、雪の北海道の家での下痢事件の時のことを思えば、普段から備えがあるということは、何ともありがたいことなのだ。
 つまり、この家で最新的なトイレ生活を楽しみ(というよりは今では日本のどこの家にでもこのシャワートイレがついているのだろうが)、また春に北海道に戻れば、一転、自作のトイレ小屋での不便さを味わわなければならないのだが。
 それでも、北海道が好き!八丈島のきょん!

 ところで、下の話であるトイレ話はそのくらいにして、上の話である山のことだが、山の紅葉はもうずいぶん前に終わり、次の、冬の霧氷や雪山の季節が始まっている。 
 今月の初めには、その山道を走るために、クルマのタイヤを冬タイヤ(スタッドレス)に換えて、いつでも出かける準備はできているのだが、なかなかその気になる時がやってこない。 
 条件は、クルマで駐車場がいっぱいにならない平日で、前の日に西高東低の冬型の気圧配置になり、それまでに雪が降っていても夕方には風も次第に収まり、翌日は西から張り出してきた高気圧に覆われて晴れるという予報が出ている時に、なるべく朝早くから出かけて(凍結した道はいつも心配だが)、霧氷や樹氷が溶け落ちる午前中までに歩き回れる山へと行くこと、これまたヒマな年寄りにしかできないことなのだが。
 と言いつつ、今回もまた、前回登山から一か月以上も間が空いてしまった。せっかく、秋の紅葉時期に相次いで4回続けて登っていて、さすがに最後の方では、われながらすっかり山になれた脚運びになったものだと感じていたのに。これでは、”元の木阿弥(もくあみ)”である。

 その頃の紅葉の山で出会った同年代の人は、一週間に一度から二度は山に登っていると言っていたし、あの『まいにち富士山』(新潮新書)で有名な佐々木茂良さんは、今年76歳になるというのに、天気が良ければ(積雪期の半年間を除いて)いまだに毎日富士登山を続けていて、その著書が出版された6年前には819回だったのだが、今ではもう1400回に近いとのことだし、(私の富士登山の際(’12.9.2,9の項参照)、須走ルートから下山する時に途中の小屋でお会いして、二言三言話をした人が、確か彼ではなかったかと思うのだが)、さらには、エヴェレストでの80歳高齢者登頂の記録を持つ、あの三浦雄一郎さんに至っては、今だに錘(おも)りの入った靴を履き、20㎏分のペットボトルの入ったザックをかついで毎日歩いていて、次なる目的の山は、チョ・オユー(8201m)とのことだが。

 今の時代でも、体力的にも絶頂にある、数多くの若い登山家たちがヒマラヤなどの高峰の難ルートに挑み、成功し初登頂しているのは、まさに超人的な登山記録として賞賛され語り継がれることになるのだろうが、一方で、若い時よりははるかに体力気力の衰えた高齢者たちが、いまだに若い人たちのような気概をもって自分の目的を持ち続け、確実に実行しているというのは、それにもまして賞賛されるべき価値のあることだと思うのだが。

 もちろん、そうした超人偉人的な人々を引き合いに出すまでもなく、この私めは、なんと意志薄弱のご都合主義で、常に安きに流れ、気分次第のお天気屋で、ぐうたらな毎日を送り、だらしない巨体を持て余しながら、風呂で屁をこいてその泡の勢いで、今日の元気さを知るという何ともわけのわからない毎日を送っていて、全く、世の中には、同じ世代の模範・鑑(かがみ)となるべき立派な人たちがいるかと思えば、こうしてはぐれ雲のように、あてもなくただ流れているだけの、しょうもない私のような人間もいるわけで、世の中に、そうした硬軟取り混ぜて・聖俗様々な人々が存在しうるというのは、まさにそれこそが、すべてのものをつかさどる偉大なる自然の神の、巧みな差配によるものなのではないのかと、言い訳めいた、我田引水(がでんいんすい)的な結論を自分に言い聞かせているのだが。

 ”われわれに起きる幸不幸は、それ自体の大きさによってではなく、われわれの感受性に従って、大きくも小さくも感じられる。”

(『ラ・ロシュフコー箴言集』528 二宮フサ訳 岩波文庫)


 
 


ひつじ雲

2017-12-04 22:06:54 | Weblog




 12月4日

 こうして、冒頭に日付を書き込むと、月日のたつのは早いものだと思ってしまう。
 10月半ばに九州に戻ってきて、すでに一月半がたち、言い換えれば、もうそれだけもの間、北海道を離れていることになるのだ。
 九州で普通の生活ができることの、居心地の良さと、広大に広がる北海道への、追慕の思いとで・・・。

 午後遅く、それまで青空だった空に、見事なひつじ雲(高積雲)が出ていた。
 しばらく、そのまま見ていたくなるような、白い雲の帯が幾重にも連なり、背後にある空の広がりまでもが感じられた。
 暦の上では、秋は終わり、冬になったばかりなのだけれども、空もまだ、秋の思いを引きずっているのだろうか。
 そして、夕方に近いころに出てきたこのひつじ雲は、やがて夕日に染まって、大空一面に広がることだろう。

 もし、これが北海道の家の前だったら、遠くまで地平線のように広がり続く、十勝平野のかなたに、日高山脈の山並みが続き、その上にある、広大な空のすべてが夕焼け雲に染まって・・・もうそれは、自分が周りのすべてのものに包み込まれていくような、ひと時の天空の舞台になるのだけれども。
 残念ながら、この九州の山の中にあるわが家からはもとより、さらに近くの少し開けた所からも、北海道にいた時ほどの広々とした展望は得られないのだが、それでも、それなりの夕焼けの光景を楽しむことはできるし。(前回参照)
 しかし、次に外を見た時には、雲はもう南の方に流されてしまっていて、ただ薄赤くなった夕暮れの空があるだけだった。
 ものごとは、いつもなかなか思うようにはいかないもので、それだからこそ、思い通りの、いやそれ以上の光景が眼前に現れた時の喜びは、いや増して大きくなるものなのだろう。

 期待して、待たされて、じらされて、不意にその時が来て、喜びは倍増して、飛び上がりたいほどの感情の爆発で・・・。

 あの時、私たちは、二人並んで、夜道を歩いていた。
 やがて、街燈の明かりから離れて、薄暗くなっている場所にやってきた。
 私は、どきどきしていた。
 もうあそこで、今日こそはと。
 いや、それ以上に、私は何としてもやらなければならないんだと・・・。

 彼女の肩の上に手を置いた時、薄暗がりの中で、私を見上げる彼女の眼がキラキラと輝いて見えた。
 有無を言わさずに、その体を抱き寄せ、唇を重ねた。
 それは、ほんの刹那(せつな)の、一瞬のことだったかもしれないが、私たち二人がどうしてもすまさなければならない、儀式のひと時でもあったのだ。
 私たちは、顔を合わせられないほどに興奮していた。
 そして、互いに手を固く握りしめて歩いて行った。

 駅前で別れて、私は一人電車に乗った。
 電車は夜遅くて、空いていた。
 私は座席に座って、何度も自分の手を握りしめていた。
 駅に着いて電車を降りて、しばらく歩くと、私はいつの間にか駆け出していた。
 夜風が、びゅうびゅうと鳴る音が聞こえていた。
 素晴らしい休日の一日だった。

 しかし、時が流れ、それぞれの時間を過ごしてきた。
 私たちは、もう長い間、会ってはいない。
 それでも、思い出は繰り返すことができる。
 生きている限りは・・・。

 誰にでも、若いころがあって、誰にでも、同じような物語があって、しかし、それは誰でも同じではない、自分だけの物語であって、最後には、そのト書きのない舞台を下りて、道化役者よろしく、自ら幕引きをしなければならない。

 ”この世のすべてが一つの舞台、そこでは男女を問わず、人間はすべて役者にすぎない、それぞれに出があり引っ込みあり、しかも一人一人が、生涯にいろいろな役を演じ分けるのだ・・・。”

(シェイクスピア 『お気に召すまま』福田恒存訳 新潮文庫を基に)

 またしても、家から見た雲の話から、いつしか若き日の思い出話になり、シェイクスピア(1564-1616)の舞台劇のセリフを借りて、自分の話におちをつけることになってしまった。
 確かに、このブログは、私のもう一つの日記の意味合いを持っているものなのだが、どうしても思いつくままに書いているものだから、あっちにふーらり、こっちにふーらりと主題が定まらずに、はなはだ心もとない文章になってしまうのだ。

 前回今回と、雲についての話が続いたけれども、それまで何回にもわたって書いてきた紅葉の話については、もちろん山の紅葉はすっかり終わってしまってはいるが、下の町まで下りと行くと、大きなイチョウの黄葉をはじめとして、今がモミジ・カエデの紅葉の盛りという所もあるくらいだ。
 私の住む山里でも、まだドウダンツツジやコナラなどの紅葉が残っているし、ただ今の時期にやはり目につくのは、鳥たちのエサにもなる赤い木の実である。
 それは、ピラカンサにナンテン、マンリョウなどであり、特にわが家の周辺では、この背丈が低く日陰にも強い、マンリョウの苗があちこちに自生しては、大きくなってきているのだ。
 それというのも、庭の周りに植えていた他の木が、すっかり大きくなってしまって、そのために日が当たらなくなって背の低いツツジなどは枯れてしまい、代わりに、競争相手のいないこの日陰に強い、マンリョウやアオキなどが増えてきたということになるのだろう。
 このマンリョウは、何よりも小さくまとまっていて、育てやすいし、赤い実が鈴なりになっている様(写真下)など見た目もいいから、そのまま増えていくのに任せているのだ。





 このマンリョウという木には、白い実のなるものもあり、その紅白の実を並べて正月の縁起物の飾りとして、供(そな)えているところもあるようだ。
 マンリョウ(万両)という名前の対になるセンリョウ(千両)という木もあって、同じような赤い実をつけて、こちらも正月飾りなどに使われるそうだが、マンリョウがヤブコウジ科で、センリョウは独自のセンリョウ科に分けられるほどの別物であるとのことだ。

 ただ調べていて、このマンリョウは古くは”アカギ”と呼ばれていたそうであり、その名前はもちろん、秋から冬にかけて、印象的な赤い実をつけていることから来たのだろうが、ふと気になったのは、山の名前であり、あの上州の名山、赤城山(あかぎやま、1828m)のアカギと同じではないかと思ったのだ。
 そこで今度は、赤城山の名前の由来を調べてみると、これは日本の山の名前によくある昔の伝説から来ているものとのことで、つまりその昔、日光男体山(なんたいさん、2484m)がヘビに化身し、赤城山がムカデに化身して相闘ったところ、ヘビが負けそうになり、その助太刀に来た弓矢の名人にムカデが射抜かれて、血まみれになって赤城山に戻り、辺り一面が赤く染まってその名前がつけられたということだが、確かに荒唐無稽(こうとうむけい)な言い伝えではあるが、考えてみれば赤城山はカルデラ噴火口を抱える大きな火山であり、記録の残らない古代に噴火して、山上付近が赤く燃えたとすれば、語り継がれてきたその話も、まんざら作り話ではないないような気もするのだが。

 ともかく、いろいろと調べてきて、ふと私が思いついたのは、赤城山にはマンリョウの木が多く生えていて、その昔の呼び名アカギから山名がつけられたのではないのかということなのだが、残念ながら、私には何の資料も歴史的根拠もないから、おずおずと引き下がる他はないのだが。 
 
 ただ、こうしたことを考えついたのは、前回も書いたあのNHKの「日本人のおなまえっ!」は、最初からずっと見ているぐらいだから、単純にそのことに影響されたからなのかもしれない。
 前回、このブログで書いていたように、”四十物”さんが”あいもの”さんと呼ばれるようになったくだりも、なかなか面白かったのだが、今回も”村のつく名前”から始まって、中村、西村、北村・・・など様々な村の名前がつけられ拡散していったという、その歴史的な流れも分かりやすかったのだが、面白かったのは、”木村”という名前だけは、それらの村のつく姓の中では、全く別な成立過程を経てきているということだ。
 つまり、古代国家のころから、今でも吉野杉などで有名な、和歌山・奈良などの紀(木)の国に住んでいて、神社造営などに携わっていた一族が、やがて地名姓名改編で、縁起がいいとされる二文字に書き改められて、紀伊国、紀伊氏になり、祭祀(さいし)を取り扱う一族として認められ、全国の神社などに任官されていって、そこで由緒ある紀伊氏の一族の村を作っていったのだが、その名前のままの紀伊村では釣り合いが悪いから、元の木を使って、”木村”という姓にしたというのだ。
 その一つの証拠として、提示された地図では、現在の木村という姓の人が多く住んでいる地域と、日本全国の有名神社がある所が、おおむね重なり合っているのだ。

 テレビで、ここまでのいきさつを見てきて、私はもうただ唖(あ)然として、その後で拍手喝さいを送りたい気分になった。

 私たち、年寄り世代は、幸か不幸か、いわゆる”ゲーム世代”と呼ばれる若い人たちのように、ゲーム器を使って楽しむことには慣れてはいないから、今さらピコピコピーなどと画面を見て遊びたいとは思はないのだが、その代わりに、こうした古い時代のことが書き残されている古文書・文献などを調べては、今に伝え残されている謎を解明していくことのほうが、目からうろこ的な驚きを伴っていて、どれほど興奮して面白いことかと思うのだが。
 もうたまらん、八丈島のきょん!(昔のギャグ・マンガ「こまわりくん」の感嘆詞)

 あーあ、今、年寄りで生きていられてよかった。