ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

老大 傷悲せん

2018-02-19 21:33:52 | Weblog




 2月19日

 昨日、一昨日と二日続いて、九州地方には快晴の空が広がっていた。
 その日差しの上に、春を思わせる暖かい空気に包まれていた。
 天気的に言えば、山登りにはうってつけの山日和(やまびより)の日だったし、土日ということもあって、牧ノ戸峠のライブカメラで見ると、駐車場はクルマでいっぱいになっていた。
 ただし、気候的に言えば、こんな時の九重は気温の高い残雪期の山になっていて、登山道はぬかるみになっているだろうし、週末の混雑を考え併せれば、とても出かける気にはならなかった。

 その代わりに、私には家での仕事がいろいろとあった。
 たまっていた洗濯をして、ベランダに干すと、暖かい日差しでもう午後には乾いていた。 
 それまでは、晴れた日でも気温が低いから、外に干すとすぐに凍りついてしまうし、うっとおしいけれども、室内干しにするしかなかったのだから、何とありがたいことだろうかと思う。
 さらに、雪の解けた庭に出て、遅くはなったけれどもウメの木の枝切りをして、去年からの落ち葉焚きの灰を、庭の木々の根元にまいた。
 家の中に戻って、出し忘れていた布団を干して、その後で揺り椅子に腰を下ろして、いつかはやらなければと思っていた、からまった長いヒモをパズルを解くように少しずつほどいていった。
 それをもう二度とからまないように、まとめて結んでは傍らに置いた。
 木々の上に青空が広がり、遠くホオジロのさえずりが聞こえていた。 
 何と言うことではないけれども、今、こうしてここにいることが、幸せに思えた。

 実は、一昨日のことだが、夜中の2時半ころに、何か息苦しくなって目が覚めた。
 暗闇の中、鼻水がじわーりと流れ落ちてきそうで、枕もとのスタンドの明かりをつけて、ティッシュの箱に手を伸ばそうとして、それが血であることに気づいた。
 それは見る間にポタポタと落ちてきて、枕とシーツが鮮血で赤くなってしまうほどだった。
 あわてて、ティッシュで鼻を抑えたが、そのティッシュさえが見る間に赤く染まっていく。
 これではだめだと、鼻の穴にティッシュを押し込んだ。
 それさえも赤くなっていき、二度目に入れ替えてようやく収まってきたのだが、今度はもう一方の鼻の穴からも血がしたたり落ちてきた。
 そこでそちら側にも、ティッシュを詰め込んで、ようやく鼻からの出血が抑えられたかと思ったら、今度はそれが鼻腔を通って口に流れてきた。
 それを、ティッシュが赤くなるほどに吐き出して、その後洗面所に行って、さらにまたシンクが赤くなるほどに吐き出した。

 ともかく、安静にして寝ているほかはない。
 いろいろなことが、頭の中をよぎっていった。
 119番通報して救急車にきてもらうのか、しかし、たかが鼻血ごときでとは言っても、このまま出血が続いて意識がなくなってしまうしまうようなことになれば、それまでにやらなければならないことはいろいろとあるし・・・。 
 とうてい、眠ることはできなかった。
 というのも、鼻がふさがれているから、口で呼吸するしかなく、すぐに喉がカラカラになってしまうからだ。 
 時々、洗面所に行ってのどと口のうがいをして、さらにトイレにも行った。

 もう、4時半になっていた。
 そこから、さすがに眠り込んでしまったらしく、目が覚めたのは8時過ぎだった。
 明かりをつけて、部屋を見回すと、枕からシーツに大きな赤い血の跡が残り、周りには血まみれのティッシュが散乱していて、まるでドラマで見る事件現場のようだった。
 のどの奥までカラカラになっていて、すぐに洗面所に行ってうがいをした後、水を飲んだ。体にしみいる感じだった。
 おそるおそる、まず片方の鼻のティッシュを取ると、先端が赤黒い血になって、出血は止まっていた。 
 そして時間をおいて片方の鼻のティッシュを取ってみると、こちら側も同じ様子で、もう血は止まっているようだった。何より、普通に呼吸できるのがありがたい。 
 朝食の時間だったが、いつものパンではなくて、乾燥果物グラノーラをミルクで柔らかくして食べただけで、あとは一日をおとなしく過ごした。

 そして、この突然の鼻血について調べてみると、いろいろなことががわかってきた。 
 まず鼻血の処置について、止血するには、横になったり、鼻にティシュを詰めたりするべきではなく、まして昔から言われている首の後ろを手で叩くなどと言うのはもってのほかだそうであり、まずやるべきことは、むしろ上半身は起こして、小鼻の上あたりを指で押さえていれば10分ほどで止まるとのことであり、さらに鼻にティッシュを詰めるのは、傷口にその残片を残す恐れがあるから避けるべきであり、詰め物は脱脂綿かガーゼにするべきだということ。 
 つまり、今まで私がやっていたことは、すべて間違っていたのだ。 
 次に、これほどのひどい鼻血は初めてだったので、原因を調べてみると、高血圧症や鼻腔付近の悪性腫瘍などなど恐ろしい言葉が続く、確かに私は明らかに高血圧であるしと、不安な思いになったが、さらにピーナッツの食べ過ぎだとも書いてあった。

 思い当たる節があった。実は一週間ほど前に見たテレビ番組で、ピーナッツが不足分の栄養素などを補い体にいいと聞いていたので、さっそく買い求めては、この二日で一袋の半分余りものピーナッツを食べてしまっていたのだ。 
 診断・・・本来の高血圧症のところ、そのことを意識せず、食い意地の張ったいやしさから、ピーナッツをむさぼり食ったためだと結論。

 しかし深夜、ひとりで寝ていた時に起きた出血であり、さすがに生まれてこのかた病気らしい病気ひとつしたこともない私だけに、頭の中は混乱してしまった。 
 昔、あの有名な刑事もののドラマで、松田優作ふんする刑事が犯人に打たれて、腹部から流れ出る血を手で触り見て、”なんじゃ、こりゃ!”と叫んで死んでいった場面が有名になって、その後も、たびたびそのシーンだけが繰り返しプレイバックされていたのだが。

 もちろん、それとは比較にもならないけれど、私の鼻から生温かい血が流れ落ち続けるのを見て、テレビでのそのシーンを思い出してしまったのだ。
 おそらく、事故や事件に巻き込まれて、大きな出血性のケガを負ったった人たちは誰でも、その経験したことのない自分の体の状態にうろたえ、理解できないまま死んでいったのではないのだろうか。
 
 人は、母の胎内から外界へと生まれ落ちた時から、毎日、目覚めと眠りを繰り返すことで、生と死の世界を行き来しては、来るべき時のために訓練しているのだろうか。
 さらに、それは大きな病気やケガで意識が遠のいていくことによっても、生の世界からの隔離、死の世界への接近状態を経験することにもなるのだろうか。
 外界との接触感がない無意識の中では、自分の体の意識感覚もなくなるから、痛みも感じることなく、死の扉の先に現れる、幻視としての花園に囲まれた天国の城郭(じょうかく)を遥拝(ようはい)することもできるのだろう。(参考文献:『臨死体験』(上下)立花隆 文春文庫、『死ぬ瞬間』E・キューブラー・ロス 中公文庫)
 そう考えてくると、行きつく先の死の世界は、それほど怖れることもないのだろうか。
 私は、この思いがけない出血事件で、また一つ教えられたような気がするのだが・・・さりとて長年続けてきた悪弊(あくへい)でもあるぐうたらな生活を今さら変えることもできずに、つまり今後とも、常々覚悟だけはしておく他はないのだが、今回のことは、神様からのありがたいお達しがあったのだと、理解するべきなのだろう。

 さて、だらだらと”くたばりぞこない”年寄りの話を書いてしまったが、ここで冒頭にあげた写真についての話に戻ろう。
 実は数日前に、またまたこの冬4度目の九重山に、それもいつものお手軽コースの牧ノ戸峠(1330m)から登ってきたのだが、どうも天気が今一つ良くなくて、今年の九重は二度の晴天と二度の悪天候という結果に終わってしまった。
 もちろんその日は、最初から最後まで曇り空のモノトーンの世界の中を歩くことになった、最初の悪天候の時(1月15日の項)ほどではなかったのだが、今回は朝のうちは、全体に青空が広がっていて、ただ九重連山の上にだけ雲がまとわりついているという状態だったのが、その後、風が強くなり”春一番”となって吹き荒れたうえに、次第に上空の層積雲が降りてきて、山の上全部がすっかり曇り空になってしまったのだ。
 その日の天気予報は、全九州的に晴れマークが出ていたのだが、詳しく見ると、例の天気分布予報のメッシュ図では、九重の辺りが時々曇り空になると出ていたし、風が強くなるという予報もあったのだ。
 
 朝いつものように、空模様を眺めながら出発するのをためらっていたのだが、これからはもう強い寒波も来なくなるだろうし、とすると、冬山の厳しい姿を見るのは、この日が最後かもしれないという焦りも加わって、まだ九重方面に雲があったものの、前回よりは1時間も早くも家を出てきたのだが。
 しかし、牧ノ戸峠の両側にある沓掛山も黒岩山も雲に覆われていて、何より風が強かった。 
 しばらく外に出ないで、クルマの中で待っていたが、隣にクルマを停めて空模様をうかがっていた人はあきらめて戻って行った。(結果的に彼が正しかったのだが.)
 30分余り待って、切れ切れの青空が見え、沓掛山に至る霧氷の斜面が現れてきたので、思い切って出かけることにした。
 最近は、いつもこうして11時くらいの出発になってしまう。

 霧氷の遊歩道から展望台まで上がると、少し雲がかかりながらも、三俣山(1745m)が青空の下に見えていた。
 沓掛山前峰に上がり、そこからの稜線でも風が強く、ただありがたいことに、先の沓掛山本峰(1503m)からは、三俣山、星生山(1762m)と青空の下に見えていた。
 そこから少し岩場を下ると、いつものなだらかな縦走路になり、風も落ち着いてきた。
 もう戻ってくる人たちが何人もいて、その中の同年配の人に声をかけると、”風が強くて、御池にまで行ってきて、頂上には登らずに戻ってきたが、ほとんどの人が引き返したようですよ”と答えてくれた。

 昔は、主に若い娘たちに声をかけていたのだが、今では同年配の年寄りたちだけに声をかけるようになってしまった。
 確か『枕草子』の中で清少納言が言っていたと思うのだが、したり顔で若い人たちの話に入り込もうとする年寄りほど、はたから見ても、場違いで情けないものはないと思うし、そのことを自らの肝に銘じて、山歩きの時にもし声をかけるとすれば、最近はもっぱら、身構えすることなく話ができる年寄りにしているのだが。
 ということは、もうすっかり元気がなくなってしまって・・・ご愁傷さまです、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)チーン。
 さて冗談はそのぐらいにして、ゆるやかな縦走路をたどって行くと、今まではあまり見ることがなかった雪による”風紋”が少しばかりできていた。(写真下)



 

 これならば、先の西千里浜や久住山(1787m)や中岳(1791m)などの下の方でもさらに大きな風紋ができているかもしれないと思った。
 しかし、問題はこの天気だ。
 かろうじて、今は星生山西斜面が見えてはいるが、その先の九重核心部の山々方面には分厚い雲がかかっている。
 せっかく、こうして雪に彩られた縦走路が素晴らしいのに、全く残念ではある。(写真下)

 扇ヶ鼻分岐から西千里ヶ浜へとたどって行くが、さらにはガスに包まれてしまい、いつもの久住山さえ見えない。
 それでも、この冬最初の時と同じように、岩塊斜面をトラバースして、星生崎下の岩峰(1710m)の所まで行く。
 すさまじい風だが、前回が北風であったのと比べると、今回は南西の風を避けることになる。
 そこで30分余り待ってみたが、青空のかけらすら見ることができずに、体は冷えるばかりで、あきらめて戻ることにした。
 肥前ヶ城との間から、熊本県側の久住高原が見えてはいるのだが、そのすぐ上から層積雲が垂れ込めていて、とても晴れる見込みはなかった。
 帰りはただただ戻るだけで、その上、前回外れたアイゼンが今回はもう完全に壊れてしまい、片足だけの歩行になってしまった。
 ゆるやかな道では問題ないのだが、急勾配になると、やはり片足の踏ん張りが効かなくて、前回書いたように、よく片足アイゼンでヒマラヤの後方から下りてきたものだと思う。
 沓掛山の稜線でも、その下のナベ谷から吹き上がってきた風がすさまじい音を立てていた。
 すっかり車の少なくなった駐車場に戻り、そこから、もう雪がほとんどとけていた山道を下って行って、夕方前に家に帰り着いた。

 その後雨が降り、晴れた日も続いたが、それはもう雪の残る山でしかなく、九重の厳しい雪山の姿は、もうあの時が終わりだったのかもしれない。
 山登りで、その度ごとの山の優劣など余りつけたくはないが、この冬の4回の雪山で、十分に楽しめたのは2回(1月29日、2月12日の項)だけだったのだ。
 さて、去年も行かなかった本州への冬の遠征登山、いくつか候補の山はあるのだが、その計画に、天気、宿、飛行機のことなど考えると、おっくうになってしまう。
 大多数の日本国民の皆様と同じように、家にいてテレビで冬季五輪の試合を見ているほうがいいのかもしれない。

 羽生、小平の金メダルはともかく、その二人にまつわる話には泣かされることばかりで、23歳、31歳であれほど確かな話ができるとは、同じころ私は一体何をしていたというのだろうかと思う。そして、そのままじじいになり果ててしまって・・・。


「少壮 努力せずんば 老大 徒(いたずら)に 傷悲(しょうひ)せん」

(若い時にしっかり努力しておかないと、年寄りになってからわけもなく嘆き悲しむことになる。)

(漢代の『文選』より)