ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

雪のサザンカ

2018-02-05 21:20:47 | Weblog




 2月5日

 また、寒さがぶり返してきた。
 朝の気温は、今日もまた-7度で、日中-3度の真冬日(暖房のない居間の温度は+4度で息が白い)。
 このところ朝にはいつも、窓ガラスが凍りついている。
 保温カバーをつけていない、水道管が破裂するのは、マイナス4度くらいからだそうだから、窓ガラスが凍りつくのと大体同じ位の気温だ。
 この家の水道管にはもちろん保温カバーがついているし、一部分のカバーには、さらに自分で床下にもぐり込んで取り付けたぐらいだから、それほど心配することはないのだが。

 ただし、昔はもっと寒さが厳しくて、-10数度近くにまで下がった時には、さすがに水道管が凍りついてしまい、何とか時間をかけてお湯で温め、やっと水が出るようになったこともあるくらいだから、こうして冷え込んだ日には、特に北側の水道管は吹きさらしの中にあるから、随時、水道の蛇口を開けて、水を流してやるようにはしている。
 もちろん、北海道や東北の寒冷地仕様の家ならば、十分に凍結対策が取られていて、家の中の水道蛇口のそばには、必ず止水栓(しすいせん)があり、夜寝る前には、その止水栓を上げて水道管の水を抜いてやり、凍らないようにしているのだが。
 しかし、中途半端な寒さの九州のわが家には、そんな気のきいた設備はないし、ひどく気温が下がった時には、ともかく注意するしかなのだが。

 一方で、前回書いたように、こうして冬の寒波が押し寄せてきて雪が降る季節こそが、九州の雪山を楽しめる時なのだが、残念ながらその雪が、私の好きな雪氷芸術にはならないような、ただ降り積もっただけの雪であったり、その後の天気が思わしくない時には出かけないようにしているから、結局は家でくすぶりグウタラし続けて、周りの雪道を散歩するぐらいしかなくなってしまう。 
 上の写真は、そんな散歩の折に写した、雪の中のサザンカ(山茶花)なのだが、今の時期に咲いている花の生命力に、ただ感心するほかはない。 
 そして、もう一つ感心したのは、その香りの強さだ。 
 それも、雪が降っていない普通の時には、さほどその香りの強さを意識することはないのだが、こうして周り一面が雪に覆われている時に、雪と対比して咲く赤い花の色の鮮やかさはともかく、周りに漂うこの強烈なサザンカの香りはどうだろう。 
 この写真は、先月末に撮ったものなのだが、その後、さらに雪と寒さが続き、花はすっかり色あせ、落ちてしまった。
 ということは、これは交配種の寒椿(かんつばき)なのかもしれないが。 
 どちらにしても、あの香りは、花が生きている最後の務めを果たそうと、全精力を傾けて香りを放っていたからかもしれないのだ。

 そのことで、昔読んだ「赤い椿の花」という一編の小説があったことを思い出した。(確かこのブログでも一度書いたことがあると思うけれども。)
 作者は田宮虎彦(1911~88)で、岬をめぐるバスの運転手と車掌を主人公にして、彼らを取り巻く人々との人間模様を描いていたと記憶しているのだが、その時の私の感想としては、彼が書きたいと思ったことは分かるにしても、やや冗長に過ぎて平凡に過ぎるという感じが残っているのだが。
 しかし、若いころの一時期、この田宮虎彦の作品を夢中になって読んでいたことがあった。
 彼の名作と言われている「足摺岬(あしずりみさき)」を読んで以来、その作風にひかれて、「絵本」「異母兄弟」や時代物の「霧の中」「落城」などを読み続けていった記憶があり、今でも本棚にはその当時の古い文庫本が数冊残っている。

 例えば、あの「足摺岬」では、昭和初期の暗い時代を背景にして、漠然と死にたいと思って旅してきた青年が、岬近くの木賃宿で、その宿のおかみさんや行商人やお遍路(へんろ)の人々に出会い、話を聞いているうちに、死にたいという思いがいつしか消え去っているのに気づくのだが、最初の暗い思いの中に、やがて幾筋かの明るい光も差し込んでくるという筋立もさることながら、その平明な文章の中に、ある種の情念とそれに相反する静寂が漂っていたように、記憶している。 
 ただその中で、今でも忘れられない言葉がある。 
 老遍路がぼそりとい言った一言だ。
 
「のう、おぬし、生きることは辛い(つら)いものじゃが、生きておる方がなんぼよいことか」

 今日、昼食にラーメンを作って食べながら、ニュースの後も見るともなしに、ワイドショー・バラエティー番組を見ていたのだが、そこで”ヒナ壇(だん)”ゲストたちが、不倫騒動を引き起こした有名俳優二人への、非難を繰り返していたのだが、それを受けて最後に司会者の彼が、次第に激高(げきこう)していく口調で、”そんな二人のことより、残された家族、子供たちの気持ちを考えたことがあるのか”と吐き捨てるように言っていた。
  
 そういうことなのだと思う。
 誰でも、自分の立場でしかものは考えられないのだ。
 親が離婚して、残された子供の思いを、自分の経験として知っているからこそ、彼は、ゲスト・タレントたちが言う、不倫している当事者たちの体面だけの論点に、がまんできなくなったのだ。 
 話は「足摺岬」戻るが、かたくなに自分の心の思いにこだわっていた、その若い主人公が、田舎の宿で、自分とは違う世界に住んでいる人たちに出会い、彼ら、人生の先達(せんだつ)たちが歩んできた、その人生の経路話に耳を傾けていて、そこで初めて死ぬこと以外に、様々な人生の選択肢の世界があることに、気づくようになるのだ。

 しかし、この田宮虎彦などは、もう今の時代では顧(かえり)みられることもない作家の一人にすぎないだろうし、というよりも、この昭和初期の作家たちだけではなく、いにしえの時代、万葉の時代から営々と受け継がれ続いてきた、日本文学の心の綾を織りなす人間世界観が、今ではもう忘れ去られようとしているのだ。
 今の時代、自分の心を表すのは、ただ口をついて出た、短い言葉だけで、相手との、社会との意思疎通が簡単にすませられることで、古い日本文学の、巧みに考え作り上げられた文章の意味など、もはや若い人誰もが理解できなくなるだろうし、それ以前にまず読まれることもないだろうから。
 今では、一行短文のツイッターやメールで、ことはすんでしまうということなのだ。 
 やがて、すべてはさらに簡略簡便になり、AI(人工知能)が、今までの人間の行動のほとんどを担(にな)うようになるのだろう.
 そして、それらの行きつく先は、もう誰にも止められない・・・。私は、そんな時代まで生きていたくはない。 

 私たち世代の年寄りは、戦争や人類滅亡の時に巡り合うこともなく、本当に良い時代に生まれて、ここまでも運よく生きてこられたと思うし、良い時代の中で死んでいくことができるのだと思う。
 今朝のテレビ画面に、あのテレビ最盛期の時代に大人気だった、民放の女性アナウンサーが、わずか52歳で亡くなったというニュースが流れていた。 
 と思えば、一番頼りにするべきその親に、せっかんを受けて、幼い命を失った3歳の男の子がいたり。
 小学生のころから続くいじめで、中学3年の夏に、飛び降り自殺した女の子がいたり。 
 交通事故のあおりを受けて、16歳の若さで死んでいった、女子高生もいて。
 さらには、11人もの身寄りのない老人たちが死んでいったアパート火災も起きて。
 はたして、それらのことはすべて、自分とは関係のない、どこか遠くの出来事なのだろうか。

 そうして、日々悲惨な出来事が起きている中でも、それなのに、しぶとく、細々と、わがままに生き延びている私がいて。
 ただこうして、死者たちの話をすることができるのは、自分が生きているからのことであり。 
 ただありがたく、感謝するばかりの毎日であります。

 ”アリガトウ”
「・・・。最初は言葉どおりありえないもの、あるのが不思議なものという意味で、人間のわざを超えた神の御徳・御力たたえてそういっていたのが・・・たぶんは神仏に対して、しきりにこの言葉を口にした時代を通って、なんでもうれしい時には常にそういったのが、のちのちこれをお礼の言葉に使うようになった起こりだろうと思います。外国にもこれとよく似た例は、たとえばフランス人のメルシ、イタリア人のグラチェなどがあり、この二つの語はともに元”神の恵みよ”という意味でありました。・・・。」

(「毎日の言葉」柳田国男 角川文庫)

 ところで、神様、相変わらず欲深い私ではありますが、できることならば、この冬もう一度、前回の九重山雪山登山の時のような、青空と雪氷芸術を見たいと思っているのですが、なにとぞ天候にお恵みを・・・。
 その時には、また手を合わせて、”ありがとうございます”との感謝の言葉を口にしますれば・・・。

(写真下、前回の登山の時(1月29日の項参照)、霧氷(樹氷)越しに遠く涌蓋山(わいたやま)を望む)