むじな@金沢よろず批評ブログ

台湾、国際情勢、アニメなどについて批評

228事件59周年を前に

2006-02-27 21:35:49 | 台湾政治
今日2月27日は、228事件の発端となったタバコ売り女性殴打事件から59年目にあたる。
このときのタバコ売りの女性・林江邁について台湾人記者がまとめた文章を私が2年前に、日本語に訳して、台湾系のサイトにいくつか転載された。ここで改めて再掲したい。

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228事件の発端となった人物、林江邁の物語

 228事件の発端は、1947年2月27日夕刻、ヤミタバコを売っていた寡婦・林江邁(リムカン・マイ、姓は江姓に夫の林姓をつけているいわゆる冠姓で、邁が名前、以下邁とする)が外省人ヤミタバコ取締員によって殴打されたことで民衆が激怒し、翌日から台湾全土に蜂起が広がったものだ。
 歴史書はしばしば無名の小市民を無視する癖がある。邁についても多くの書物は「殴打された」と記述されているだけで、彼女が事件で殺されたのか、あるいは生き延びたがその後どうなったのかを記すことはあまりない。
 台湾の元新聞記者で文化建設委員会に勤務する陳銘城氏は数年前に、邁の娘を探しあて、邁の不幸な身の上を取材した。
 台湾の歴史的事件の陰では、名もない多くの民衆の涙と汗と血が流れている。邁もその一人である。彼女のことを取り上げることで、228事件をはじめ国民党外来ファッシ ョ政権により犠牲になった人達の弔いとなるであろう。
 以下、陳銘城氏が書いた文章をもとに、邁の「その後」について説明してみたい。
 228事件発生当時、邁は41歳であり、娘の林明珠は10歳だった。明珠は母・邁の夫だった林阿清が亡くなって7ヶ月してから生まれた。明珠と彼女の三番目の兄・林文山は母とともに台北市延平路に住んでいた。ほかに一番目の兄と二番目の兄がいたが、いずれも桃園県亀山郷龍寿村の林家に住んでいた。邁の実家も亀山郷の旧路坑にあり、呉姓であった。邁は江姓の家に養女として出されたために江姓となったが、邁は結婚前には実家の呉家に住んでいた。
 夫の死亡後、邁は林家の人との折り合いが悪かったうえ、しゅうとめが台北市延平北路にお茶の販売店をやっていたので、幼い子供たちを台北に連れて行き、しゅうとめの家事の手伝いをした。終戦後、しゅうとの林枝が茶販売店をやめたため、邁は延平北路でタバコ販売を始めた。しかし邁はたばこ販売の免許を持っていない、いわば闇販売業者 だった。
 事件のあった1947年2月27日夕刻(午後5時ごろ)、当時「天馬茶房(テンマー・テーパン)」という喫茶店があった、現在の延平北路と南京西路交差点の南京西路側で、闇タバコを売っていた邁は、専売局取締員らに闇タバコ販売を見つかり、たばこを没収される際、頭を強く殴打され、付近の外科病院に担ぎ込まれた。しかしこの経過については当時幼かった明珠ははっきり覚えていないという。明珠は母親の負傷後、亀山旧路坑の外祖母宅に連れて行かれ、13-14歳のころ外祖母がなくなるまで、そこで過ごし、その後台北の邁のところに戻った。その間、邁と一緒に住んでいたのは、明珠の三番目の兄・文山だけだった。邁の弟、呉萬有は邁負傷の消息を聞いて、連夜亀山から台北の病院まで通って見舞いをした。しかし萬有は最近亡くなっている。明珠は母方のおじの萬有が面倒を見てくれたことに対して感謝の念に堪えないという。
 228事件後、足腰がしっかりしている邁は、台北円環付近でたばこを売り、自分で自分の身を立てていた。そのたばこ屋台は遠東劇場の斜向かいにあり、太原路から路地に入ったところの小さな家に住んでいた。働きものだった邁は、商売がよくないときは、太原路で地面や排水溝の日雇い清掃員をやって日銭を稼いで家計を補ったりした。しかし228事件で殴られて入院もした邁は、このころから喘息を患うようになっていたため、夜になると咳が止まらず眠れない日が続いていた。
 228事件の引き金となった邁だが、その娘の明珠は228事件において群衆が憎悪の対象としたエスニックグループである外省人と結婚した。それは邁と林枝がアレンジしたもので、結婚した相手は外省人警察官の曽徳順である。
 曽は、228事件の翌年に18歳という年齢で台湾にきた。1949年に総統府に入り、 陳誠、厳家カン(サンズイに金)、謝東ビン(門がまえに文)といった歴代副総統の護衛を勤め、儀容のある人だった。彼の属する部隊は、現在228記念館がある場所の向 かい側にある台北賓館であったが、もう一つの部隊管轄場所にもしばしば派遣された。
 それが遠東劇場の側にある部隊であり、よく邁の屋台からタバコを買っており、しかも痩身の寡婦の身で屋台を引いて歩く姿を見かけたことで、親近感を抱いた曽は、邁のこ とを母親のように感じるようになった。
 明珠が20歳になった年、邁は娘を外省人の曾警官に嫁がせようと思うかどうかと、林枝の意見を聞いた。というのも、最初邁は、自分が外省人警官に殴られたために228事件がおきたことから、自分の一人娘を外省人警官に嫁がせるとなると、他人に罵倒されはしないかと心配したのであった。しかし、林枝は言った。曾の上司である陳誠は台湾人には悪くはないから、その部下も悪くはないだろう。本省人にだって悪いやつはいるのだから、と。
 明珠にはボーイフレンドがいたが、母親のお膳立てで、曾徳順と交際し、結婚した。結婚後、夫婦と邁は同居したが、娘夫妻が五常街公務員宿舎に引っ越すときに、円環付近に住み続けたいといって、一人暮らしをした。邁は1969年ごろ63歳で喘息のためマカイ病院で死去した。亀山龍寿村林家の墓地に葬られた。邁は生前、娘に228事件のことを語ろうとしなかった。引っ張られることをおそれたようだ。だが、曾徳順には228事件について言及したことはあるという。
 陳銘城が明珠を取材中に、ちょうどその息子の曾人文が帰宅した。人文は徴兵入隊のとき、軍の政治教材に外祖母の邁の名前を見つけて、自分の外祖母がそんなに有名人だっ たのかと驚いて両親に語ったことがあるという昔話を持ち出した。この話を聞いたとき 明珠は即座に「あなたの祖母は可哀想な人なのであって、有名なんかじゃない」と答えた。
-------------------------------(再掲終わり)

この林江邁殴打事件の発生場所となった南京西路と延平北路交差点など228事件関連の場所を歩き、事件をしのぶデモが明日28日午後零時から1時半まで行われる。「手護台灣大聯盟」および「228事件紀念基金會」主催で、活動の名称は「228事件歴史回顧 萬人巡禮」。
集合場所は南京西路と承路角にある日新國小で、そこから南京西路、延平北路、鄭州路、中山北路、中山南路、青島西路、公園路と歩いて、最後に228和平公園に到着。1時半から同公園で「228事件紀念基金會」と台北市政府の共催で開かれる記念式典に参加する。
1時半からの記念式典は、馬英九も市長として参加するらしい。事件遺族や緑系が多い参加者からは、国民党の責任追及の声が上げられて、罵声も浴びせられるだろう。

ところで、
馬英九は「当時の政府の問題であって、国民党全体の問題でも、まして外省人の問題でもない」と言い逃れに懸命だが、それをいったら、自分自身が日本の戦争責任を追及できなくなってしまう矛盾に気付いていないのだろうか?
もちろん私は日本の戦争責任を追及すべきであると思うが、国民党と外省人の権力層の虐殺責任も追及されるべきだと思う。ところが、日本の右翼は、中国人のチベット侵略や台湾占領を非難する一方で日本の責任は頬かむりするか矮小化するし、国民党も日本の責任追及を声高に叫ぶ一方で自らの責任回避に懸命だ。日本の右翼と中華右翼の国民党は実は瓜二つで双子の兄弟のようだ。このことからわかることは問題は日本人や中国人の民族性よりも、ショービニズムの問題だということがわかるだろう。

最後に、228事件59周年にあたって、台湾の悲劇の歴史に対する思いを新たにするとともに、犠牲者の霊魂が安らかになるよう祈りたい。


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