むじな@金沢よろず批評ブログ

台湾、国際情勢、アニメなどについて批評

暢気な台湾人を危機から救うのは日本しかない

2005-11-03 00:56:06 | 台湾政治
日本語世代の聴衆が多い中、北京語で発表する怪
に次のようなレスがついていましたので、ここで別項を立てて論じます。

>Unknown (Unknown)
>2005-11-02 23:57:48
>「心境変化」について興味あります。いずれ詳しく教えてください。
>「台湾語などの母語の将来には悲観的」とありますが、これは台湾語の現況を考慮されたのか、言語に内在する問題を考慮されたのか、いずれにせよとても気になるお話です。
>

 どちらもはずれ。というか、あなたは「台湾は北京語だ」と思い込みたい人のようで、どうしてもこういう貧弱かつ貧困な発想しか思いつかないようだ。
 もちろん、どちらかというと、現状を考慮したといえる。しかし、「言語に内在する問題」というのは大間違い。そもそもそんなものは存在しないからだ。どんな言語でも国語や公用語になりうる。言語に問題が内在すると思っている時点で、話にならない。

 問題は、言語というものは強制しなければ身につかないという点だ。ところが、現段階では台湾人の台湾語運動家の多くが母語を強制するという発想にかけているか、はなはだしくは強制に反対してキレイゴトばかりいっている。
 私自身は台湾ローマ字協会の理事をやっているが、こないだその「仲間」たちと話したとき、どいつもこいつも強制に反対した。そして多文化主義で民主的にボトムアップでやっていくべきだという。
 たしかに強制に反対したい気持ちはわかる。国民党の強制に反対してきたから、いまさら強制はいやだというのは。でも、国民党と北京語が悪かったのは、その外来性であって、強制そのものは悪くはない。
 どんな民主国家であろうとも、言語というものは強制される。米国で英語が、日本で日本語が使われているのは、学校教育という国家権力の強制装置を通じて注入されるからである。逆に強制して環境を作り出さないと意味がない。もし強制がいやだというなら、台湾語の環境はつくられないし、北京語の環境を覆すことなんてできない。
 強制する方法を考えようとせず、「民主的・自主的決定」なんてものに甘えようとしているなら、台湾語に未来はない。

 現実に若者は台湾語を話さなくなっている(「話せない」ではない、強いて、求めて、話すことはない、という意味だ)。民主化してから、母語に対する露骨な抑圧がなくなったこともあってか、民主化初期のように台湾語が抵抗の言語という意識は薄まっているからだ。
 南部においても若者どうしでは北京語になっている。もちろん南部では台湾語で話しかければいまでも流暢な答えが返ってくるが、若者どうしでは北京語なのだから、20年後に彼らが大人になって親になるころにはその子供は台湾語を聞いてわからなくなることは必至な情勢である。
 それを防ぐためには、法的強制措置によって母語の環境を作り出さなければならない。それは罰則とインセンティブ、あるいは鞭とニンジンの両方を提供することによって達成される。
 ところが、それに反対だという。そのくせ「多文化主義」などとキレイゴトをいう。現実に多文化主義ではないものを、多文化主義という現実ではない不自然な状態を作りだすのは、そもそも強制によるしかないというのに。

 というか、そもそも台湾人運動家には教養・人文的素養というものが欠けている。イリイチやフーコーなんてものは、読んでいないのだろう。国民国家とは何かについてさまざまな思想書を読んだこともないのだろう。そもそも国民国家そのものが暴力強制装置だということもわかっていないようだ。もし強制がいやなら、法律も警察も学校も病院も要らない。国民党的な強制と、国民国家として必要最低限の強制とは意味が違う。国民党的な強制や独裁には反対することと、国民国家として言語を強制することでは、自由と強制の程度問題におおきな違いがある。
 台湾を国民国家にするといいながら、そんなこともわかっていない。これは教養の問題だから、こちらがいくら言っても、もともと教養がない連中には理解できない。だったら、台湾語は未来はない。
#ただ、誤解してほしくないのは、現時点では中南部を中心に、台湾語はまだまだ庶民の言葉として生きているのは事実であり、台湾社会を理解しようとするなら、台湾語の知識と学習は必須。「将来性が暗い」といって、現実に広く活発に使われているものを否定する議論をする馬鹿がいるが、それは論外。現時点では、台湾語、あるいはできれば客家語を知らなければ台湾社会を語ることはできないという主張については、取り下げたわけではない。ここで私が取り下げたのは、将来的に公用語として強力に使われる、という部分のみである。

 ついでにいうと、この延長として、わたしは台湾の未来も、こんな台湾人単独の力では不可能だと思うようになった。

 ただし、こうした台湾人の「だらしなさ」「煮え切らなさ」「暢気さ」は、台湾人だけの特徴ではない。フィリピン人にもレバノン人にもある。いってみれば、「熱帯もしくは亜熱帯で食糧に困らない環境にあって、さらに度重なる外来政権に植民地の奴隷にされた人々」の共通の特徴だといえないこともない。もちろん、それは一面では開放的で包容力が高い社会となり、外国人にも住みやすく、いろんな国の人や文化が入ることに躊躇しない。
 あまりにも国家や民族の独自性にこだわる国家や民族は、韓国や日本のように排他性が高く、外国人には住みにくいところとなる。
 外国人として暮らしてみて、台湾人のような民族性や台湾のような社会のほうが、韓国のそれよりも好ましいことは事実である。
 台湾人は、基本的には南方系である。マレー系を基層とした楽天的で暢気で気まぐれな人たちである。歴史というものに拘泥しない。歴史にこだわる中国や韓国が靖国など歴史認識をうるさく言い、台湾があまりこだわらないのは、台湾が親日的だというよりも、そもそも台湾人は「歴史」というものに興味がなく、こだわらないからだ。
 ここに東アジアの北方系民族と南方系民族の決定的な価値観の違いがある。
 私が「台湾海峡から見たニッポン」でも諏訪哲郎らの説を引用して説明したように、北方系は寒い冬に備えて食糧を蓄え、記憶や知識を蓄積していく必要がある。そこに歴史が生まれる。ところが南方系は冬がないかそれほど寒くはなく食糧も枯渇しないが、その半面台風がたびたび襲ってモノがその都度壊されるため、物事に執着せず記憶や知識を蓄積する必要がない。それは臨機応変さになるが、歴史には無関心となり、歴史は生まれない。私は台湾で民進党が党史を書こうとしても記録や史料を捨ててしまっている姿を見ている。台湾人にとって、過去はどうでもいいのだ。台湾人とフィリピン人が靖国に反対しないのも、そんな昔のことは、どうでもいいからだ。

 日本人はとかく台湾を見るときに、日本人と韓国人に共通する「過去に対するこだわり」で台湾を裁断してしまう傾向が強い。私自身もこの間まではそういう観点で見ていた。しかし、台湾はしょせんは台湾であり、フィリピンやレバノンなどと共通しているのである。歴史や過去に興味がない人たちに、歴史的蓄積が意味を持つ民族主義は無縁なのかも知れない。
 それは日本人から見れば歯がゆく、頼りないものに見え、いらただしいものがある。だが、そういうものを含めて台湾という社会や台湾人というものが存在しているのだ。そして、まさに「過去に拘泥せず、現実に直面してテキトーに遊泳して、暢気に楽しく生きていこうとする」ことこそが、まさに台湾人と中国人の違いなのだ。

 ただ、台湾人のそうした特性はいざ民族なり国民国家を形成しようとするときには、不利に働く。
 もちろん、台湾がもっと南方に位置していれば、暢気にのほほんと過ごしていられたかもしれない。パラオなどのように。ところが、台湾は不幸なことか、日本にも中国にも近く、そうした北方系の「企み好き」な国家や民族の磁場の影響を受けやすい場所にある。台湾は歴代外来政権によって支配されたのは、台湾の持つ位置が交通の要衝で、しかも便利だったからである。
 そういう意味では、この位置にありながら、マレー系を基層とする台湾住民の気質は、不幸の根源になっている。
 中国人とくに北方中国人と韓国人が歴史や過去に異様に拘泥する姿と、台湾人の姿は対照的ですらある。しかし、台湾人はそうであるからこそ、このままでは奸智にたけた中国人によって滅ぼされかねない。

 その不幸を是正するには、日本がやはり介入せざるを得ないだろう。レバノンも自分たちでは団結して国をつくることはできず、フランスや米国が介入することによってようやく自由を取り戻した。それと同様に、台湾はこの間せっかく苦労して手に入れた民主主義と自由を隣の覇権独裁大国にねじ伏せられるべきではない。その場合はレバノンに対してフランスが、東チモールに対してポルトガルが介入したように、やはり旧宗主国の日本が台湾に介入するのが妥当であろう。そして、そのほうが、何よりも中国を嫌っている台湾住民の意向と趣向にも近いのである。

 中国はもともと日本が台湾に介入することを恐れていて、それを「日本帝国主義」批判の論拠のひとつにもしている。しかし、中国自身も支援した東チモール独立が、ポルトガルも介入したことで達成されたように、またレバノンその他世界の「暢気な人たち」で構成されている国が、旧宗主国の介入によってようやく国家の形を整えていることを考えれば、日本が台湾に介入することを中国が非難するのは筋違いというものだ。
 まして、台湾住民自身が日本と中国のどちらを好ましいと思い、どちらの介入のほうがより幸福かを考えれば、答えは明らかである。
 日本はかつて台湾を植民地にして、搾取・差別・収奪を行った罪科があるが、そうした罪科があるからこそ、台湾住民が望まない方向に流れることを座視すべきではない。それでは日本は二度台湾人民を差別しいじめたことになるからだ。
 日本は植民地統治の贖罪のためにも、台湾の民主主義と自由を支持し支援する義務と責務がある。

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